最終更新日 2025-06-27

高遠頼継

信濃国衆・高遠頼継の生涯とその時代 ―野望と滅亡の軌跡―

はじめに

本報告書は、日本の戦国時代、信濃国にその名を刻んだ一人の国衆、高遠頼継(たかとお よりつぐ)の生涯を、多角的な視点から徹底的に調査・分析するものである。頼継の名は、甲斐の武田信玄による信濃侵攻の歴史において、しばしば「宗家を裏切った人物」あるいは「信玄の覇業の踏み台となった存在」として語られる。しかし、彼の行動を単なる個人的な裏切りや野心の発露として片付けることは、戦国期における国衆が置かれた複雑な政治力学と、彼らが抱いた切実な生存戦略を見過ごすことになりかねない。

本報告では、頼継を、信濃の名門・諏訪一族の内部に根深く存在した惣領家と庶流の対立構造、そして周辺大国の圧力という激動の時代背景の中で、自家の存続と発展をかけて野望を追求し、そして挫折した一人の武将として捉え直す。彼の出自から、武田信玄との利害の一致による同盟、諏訪惣領家の滅亡、そして自らの野心ゆえの信玄への反旗とそれに続く没落、さらには彼の死が後世に与えた影響に至るまでを、史料に基づき詳細に追跡する。特に、近年の研究で注目される史料を基に、彼の存在が武田氏の諏訪支配に与えた意図せざる影響についても考察を加える。これにより、高遠頼継という人物の実像に迫り、信濃戦国史における彼の位置づけを再評価することを目的とする。

高遠頼継関連年表

高遠頼継の生涯における主要な出来事を時系列で整理し、本報告書の理解を助けるための一助とする。

和暦(西暦)

出来事

主要関連人物

意義・典拠

生年不詳

高遠満継の子として誕生。

高遠満継

諏訪氏庶流・高遠氏の嫡男として生まれる 1

天文年間初期

諏訪惣領家当主・諏訪頼満の娘を正室に迎える。

諏訪頼満

惣領家への抵抗の末、その傘下に入り、政略結婚を受け入れる 1

天文11年(1542年)7月2日

武田晴信(信玄)に内応し、諏訪惣領家当主・諏訪頼重の居城・上原城を攻撃。

武田晴信、諏訪頼重

武田氏の諏訪侵攻に協力し、惣領家滅亡の直接的な引き金を引く 1

天文11年(1542年)7月21日

諏訪頼重・頼高兄弟が甲府にて自刃。諏訪惣領家は事実上滅亡。

諏訪頼重

頼継の野望であった諏訪氏の実権掌握が現実味を帯びる 4

天文11年(1542年)9月10日

諏訪郡の分割統治に不満を抱き、福与城主・藤沢頼親らと結び、武田方が押さえる上原城を急襲。

藤沢頼親

諏訪郡全域の支配を目指し、武田氏に反旗を翻す 6

天文11年(1542年)9月25日

宮川の戦い(安国寺の合戦)。武田軍に大敗し、高遠城へ敗走。

武田晴信、高遠頼宗

弟・頼宗(蓮峯軒)が戦死。諏訪郡の支配権を完全に失う 6

天文14年(1545年)4月17日

武田軍の攻撃を受け、高遠城が陥落。頼継は降伏し、武田氏の家臣となる。

武田晴信

本拠地を失い、国衆としての独立性を喪失。武田氏の信濃先方衆に組み込まれる 1

天文17年(1548年)4月3日

上田原の戦いでの武田軍敗北による信濃の動揺を受け、甲府から高遠城への一時的な帰城を許される。

武田晴信、村上義清

武田氏による支配安定化のため、その在地影響力を一時的に利用される 1

天文21年(1552年)

甲府にて自刃させられる。

武田晴信

再び武田氏と不和になったとされ、粛清される。これにより高遠氏は滅亡 1 。没日には1月27日説と8月16日説がある。


第一章:高遠氏の出自 ― 諏訪惣領家との相克

高遠頼継の生涯を理解する上で、彼が属した高遠氏の歴史的背景、すなわち信濃の名門・諏訪氏におけるその立ち位置と、宗家である諏訪惣領家との長年にわたる緊張関係を解き明かすことは不可欠である。頼継の行動は、彼個人の資質のみならず、この根深い相克の歴史から生まれた必然であったとも言える。

1. 高遠氏の起こり ― 諏訪氏庶流としての位置

高遠氏は、信濃国伊那郡高遠(現在の長野県伊那市高遠町)を本拠とした一族である 1 。この地は古くから諏訪大社の神領であり、高遠氏もまた、諏訪大社の最高神官である大祝(おおほうり)を世襲した諏訪氏から分かれた有力な庶流(分家)であった 12 。その祖は、鎌倉時代の諏訪貞信、あるいは南北朝時代の諏訪信員に遡るとされる 12

中世の武家社会における「惣領制」は、一族の長である惣領(宗家)が庶流(分家)を統率する血縁的結合体制であった 16 。庶流は軍事や祭祀において惣領の指揮に従う義務を負う一方で、分割相続された所領を持ち、独自の勢力を形成していた 18 。この構造は、一族の結束を強固にする反面、惣領の権威が揺らげば、有力な庶流がその後釜を狙うという、常に内紛の火種をはらむものであった。高遠氏は、諏訪一族の中でも特に有力な庶流として、惣領家に対する潜在的な競争相手であり続けたのである。

2. 惣領家への反骨の系譜 ― 文明の内訌と高遠氏の立場

高遠氏が抱く惣領家への対抗意識は、頼継の代に始まったものではない。その歴史は、少なくとも文明15年(1483年)の「文明の内訌」にまで遡ることができる。この諏訪一族を二分した内乱において、頼継の祖父あるいは曽祖父にあたる高遠継宗は、明確に惣領家に反旗を翻している 1 。この出来事は、高遠氏の家風とも言うべき反骨精神を象徴するものである。

頼継自身もまた、その系譜を受け継いでいた。彼は、戦国初期に分裂していた諏訪氏を再統一した傑物、諏訪頼満に対して抵抗を試み、一度は敗れてその軍門に下っている 1 。その後、頼継は頼満の娘を正室として迎えることになった 1 。この婚姻は、一見すると両家の和睦と関係強化の証と映る。しかし、その実態を深く考察すれば、異なる側面が見えてくる。戦国時代の政略結婚は、対等な同盟の証であると同時に、優位な立場にある者が相手を自らの勢力圏に取り込み、従属させるための手段でもあった。高遠氏が長年にわたり惣領家への反抗を繰り返してきた事実を踏まえれば、この婚姻は頼継にとって名誉ある縁組というよりも、むしろ敗者として受け入れざるを得なかった屈服の証であった可能性が高い。惣領家による懐柔策という名の支配下に組み込まれたこの状況は、誇り高い頼継の野心を鎮めるどころか、かえって外部勢力と結んででも現状を打破しようという、より過激な行動へと彼を駆り立てる動機となったと考えられる。

3. 戦国初期、信濃の政治情勢 ― 武田氏の脅威と国内の動揺

当時の信濃国は、守護職であった小笠原氏の権威が失墜し、北信の村上氏、中信の小笠原氏、そして諏訪郡の諏訪氏といった有力な国衆が各地で割拠し、互いに勢力を競い合う分裂状態にあった 14 。統一された権力主体が存在しない信濃は、周辺の強力な戦国大名にとって格好の侵略対象であった。

中でも、隣国・甲斐を統一した武田信虎(信玄の父)は、早くから信濃への侵攻を繰り返し、諏訪氏もその標的の一つとなっていた 23 。信虎は娘の禰々を諏訪惣領家の若き当主・諏訪頼重に嫁がせ、婚姻同盟を結ぶことで一時的な安定を図ったが 4 、武田氏の脅威が信濃から去ったわけではなかった。この外部からの絶え間ない軍事的圧迫は、信濃国内、とりわけ複雑な内部事情を抱える諏訪一族の力関係をさらに流動化させ、頼継のような野心家が暗躍する土壌を育んでいたのである。

第二章:利害の一致 ― 諏訪惣領家の滅亡

天文11年(1542年)、信濃の歴史を大きく動かす出来事が起こる。諏訪氏の庶流・高遠頼継と、甲斐の若き国主・武田晴信(信玄)が手を結び、諏訪惣領家を滅亡へと追い込んだのである。この同盟は、それぞれの野望と戦略が奇跡的に合致した結果であった。

1. 武田晴信(信玄)の信濃経略と戦略

天文10年(1541年)、武田晴信は突如クーデターを起こし、父・信虎を駿河へ追放して武田家の当主となった 1 。家督を継いだ晴信が最優先課題としたのは、父の代から続く信濃侵攻の本格化であった。信濃は甲斐の西に広がり、地政学的に極めて重要な地域である。ここを制圧することは、甲斐の国の安全保障を確立し、さらなる勢力拡大を目指す上で不可欠な戦略であった。

晴信は、父・信虎が諏訪頼重との間に結んだ婚姻同盟を意に介さなかった 1 。彼にとって、頼重は義理の弟である前に、信濃攻略の第一歩として排除すべき障害であった。晴信は、諏訪一族の内部に対立の火種があることを見抜き、そこにつけ込むことで、最小限の力で最大限の効果を上げることを狙った。その標的こそが、惣領家に対して積年の恨みと野心を抱く高遠頼継だったのである。

2. 頼継の背信 ― 武田氏との密約とその野心

晴信の動きは、高遠頼継にとってまさに千載一遇の好機であった。惣領家への屈従を強いられていた彼にとって、武田氏という強大な外部勢力は、自らの野望を達成するためのまたとない切り札に映った。頼継は密かに武田方と接触し、共同で諏訪惣領家を打倒する密約を交わした 6

この密約の表向きの内容は、諏訪頼重を攻め滅ぼし、その広大な領地を武田氏と高遠氏で分割するというものであった 6 。しかし、頼継の真の目的は、単なる領地獲得に留まるものではなかった。彼は、この混乱に乗じて諏訪氏の伝統と権威の象徴である惣領の座を簒奪し、名実ともに関東に聞こえた名門・諏訪氏の新たな支配者となることを夢見ていたのである 1 。その野心の前では、同族の血も、宗家への忠誠も、もはや何の意味も持たなかった。

3. 天文十一年(1542年) ― 諏訪頼重の最期と惣領家の崩壊

天文11年7月2日、武田晴信が諏訪郡へ向けて軍を発すると、頼継はそれに呼応し、杖突峠を越えて頼重の本拠地である上原城へと侵攻した 1 。武田軍の正面からの圧力に加え、背後から同族である高遠軍に襲われた諏訪惣領家は、なすすべもなく混乱に陥った。頼重は居城を捨てて桑原城へ籠城し、抵抗を試みるが、衆寡敵せず、ついに武田方への降伏を決断する 5

和睦を信じた頼重であったが、晴信は容赦しなかった。頼重とその弟・頼高は甲府へ護送され、7月21日、甲府の東光寺において自刃を強いられた 4 。享年27。これにより、鎌倉時代から続く信濃の名門・諏訪惣領家は、その歴史に幕を下ろした。

この諏訪惣領家の滅亡において、高遠頼継の裏切りが決定的な役割を果たしたことは疑いようがない。もし内部からの切り崩しがなければ、頼重もより組織的な抵抗が可能であったかもしれず、晴信の信濃攻略は初手から大きな困難に直面したであろう。しかし、頼継の行動は、単に一つの家を滅ぼしただけではなかった。それは「同族を裏切り、外部勢力を引き入れて宗家を滅ぼす」という、信濃の国衆社会の秩序を根底から揺るがす悪しき前例となった。この一件は、他の国衆たちに深刻な疑心暗鬼を生み、武田氏という共通の敵に対して彼らが団結することを阻害した。結果として、信濃の国衆は各個撃破される道をたどることになる。頼継は自らの野心のために、信濃全体の結束を乱す「蟻の一穴」を開けてしまったのである。

第三章:致命的な誤算 ― 武田信玄への反旗

諏訪惣領家を滅亡させ、その野望の第一歩を記した高遠頼継。しかし、彼の栄光はあまりにも短かった。協力者であったはずの武田信玄との間に生じた亀裂は、瞬く間に修復不可能な対立へと発展し、頼継を破滅の道へと突き落とすことになる。

1. 分割された領地、分割されざる野心 ― 諏訪郡統治を巡る対立

諏訪頼重の死後、武田晴信と高遠頼継は、事前の密約通り諏訪郡を分割した。その境界線は宮川とされ、頼継は西半分を、晴信は東半分をそれぞれ領有することになった 8 。しかし、この結果は頼継を到底満足させるものではなかった。彼の最終目標は、諏訪郡全域を支配下に置き、自らが諏訪氏の惣領として君臨することにあったからである 6

頼継の目には、晴信はもはや自らの野望達成のための協力者ではなく、その道を阻む最大の障害と映り始めていた。彼は、晴信が甲斐へ引き上げた隙を突き、力ずくで諏訪全土を奪取することを画策する。頼継は、武田信玄という男の軍事力だけでなく、その底知れぬ政略の深さを見誤っていた。この致命的な誤算が、彼の運命を決定づけることになる。

2. 天文十一年九月・宮川の戦い ― 戦術と政略、そして敗走

諏訪惣領家が滅亡してから、わずか2ヶ月後の天文11年9月10日。頼継は行動を開始した。伊那の有力国衆である福与城主・藤沢頼親や、かねてより反惣領家であった諏訪上社の禰宜・矢島満清らと連携し、武田方が押さえていた上原城を急襲、これを占拠した 6 。瞬く間に諏訪郡の主要部を制圧した頼継は、勝利を確信したであろう。

しかし、その報を受けた武田晴信の対応は、頼継の想像をはるかに超えて迅速かつ巧みであった。晴信はすぐさま大軍を率いて出陣するが、その際に、かつての敵である諏訪頼重の遺児、まだ赤子であった寅王(千代宮丸)を名目上の当主として奉じたのである 3 。そして自らはその「後見人」という立場をとった。これは軍事行動であると同時に、高度な政治的パフォーマンスであった。「諏訪氏の正統な後継者を、簒奪者・頼継から守る」という大義名分を掲げたことで、晴信は侵略者から守護者へと立場を転換させた。これにより、惣領家の権威を重んじる他の諏訪一族や国衆の支持を瞬時に取り付け、頼継を政治的に完全に孤立させることに成功したのである。

9月25日、両軍は宮川(現在の茅野市宮川、安国寺付近)で激突した 8 。世に言う「宮川の戦い」である。大義名分を失い、士気の上がらない頼継軍は、武田軍の猛攻の前に総崩れとなった 8 。この戦いで頼継は壊滅的な打撃を受け、命からがら本拠地である高遠城へと敗走した。この頼継の行動は、戦国期の国衆が抱える典型的な限界を露呈している。彼らは自らの「家」の利益と領地の拡大という、比較的狭い視野で物事を判断しがちであった。頼継は信濃という盤の上で戦っているつもりだったが、晴信は東国全体を見据えた、より大きな盤で次の一手を打っていた。この戦略的視野の広さの違いこそが、両者の勝敗を分けた根源的な要因であった。

3. 弟・高遠頼宗(蓮峯軒)の死と失ったもの

この宮川での惨敗は、頼継に計り知れない損失をもたらした。武田氏と分割した諏訪西半分の領地を失っただけでなく、軍事的な中核を担っていた実弟・高遠頼宗(蓮峯軒)が、この戦いで討死したのである 2 。頼宗の死は、頼継にとって単なる肉親の喪失に留まらず、高遠氏の軍事力を著しく低下させるものであった。

わずか2ヶ月の間に、頼継は手に入れたはずの諏訪の地、信頼する弟、そして何よりも諏訪の支配者としての権威と信用の全てを失った。彼の野望は、まさに砂上の楼閣の如く、脆くも崩れ去ったのである。

第四章:没落への道程

宮川の戦いでの惨敗は、高遠頼継の野望を打ち砕いたが、彼の闘志を完全に消し去るには至らなかった。彼はなおも再起をかけて武田信玄への抵抗を続けるが、その道は没落へと続く下り坂でしかなかった。降伏から最期に至るまでの彼の晩年は、戦国大名の掌の上で翻弄される一国衆の悲哀を色濃く映し出している。

1. 天文十四年(1545年) ― 高遠城の陥落

宮川で敗れた後も、頼継は諦めなかった。彼は伊那の福与城主・藤沢頼親や、信濃守護であった小笠原長時らと連携し、反武田の旗を掲げ続けた 6 。一度は敗北したとはいえ、その執念と行動力は、彼が単なる凡庸な武将ではなかったことを示している。しかし、彼の抵抗は場当たり的であり、武田信玄が着々と進める信濃平定の大きな流れを押しとどめるには至らなかった。

天文14年(1545年)4月、業を煮やした信玄は、ついに頼継の本拠地である高遠城への本格的な攻撃を開始した 10 。武田の大軍が杖突峠を越えて高遠に迫る中、頼継は籠城して藤沢頼親や小笠原長時からの援軍を待った 32 。しかし、信玄の巧みな調略と軍事行動の前に、もはや彼に味方する勢力は残されていなかった。援軍の望みを絶たれた頼継は、4月17日、先祖代々の居城である高遠城を放棄して逃走 6 。その後、藤沢頼親を頼るも、その福与城も武田軍に包囲され、同年6月、頼親と共に降伏した 6 。これにより、国衆・高遠頼継は、その独立性を完全に喪失した。

2. 服属後の頼継 ― 武田家臣としての不安定な立場

通常であれば、二度にわたって反旗を翻した頼継は、即刻処刑されてもおかしくなかった。しかし、信玄は彼を殺さず、甲府への出仕を命じ、武田家の家臣団、いわゆる「信濃先方衆」の一員として遇した 1 。これは信玄の冷徹な計算に基づく、巧みな国衆統制術の一環であった。

その好例が、天文17年(1548年)の出来事である。この年、武田軍は北信濃の雄・村上義清との上田原の戦いで大敗を喫し、信玄自身も傷を負うという未曾有の敗北を経験した 22 。この敗戦を機に、諏訪地方などで武田氏の支配に対する反乱が起きるなど、信濃の情勢は一気に不安定化した 1 。この危機的状況において、信玄は頼継を甲府から高遠城へ帰還させるという措置をとった 1 。これは、高遠氏が旧領に依然として有していた影響力を利用し、地域の動揺を鎮めるための「重石」として彼を一時的に利用しようとしたものと考えられる。敵対した国衆であっても、利用価値がある限りはその存在を許し、支配体制の安定化のために活用する。武田氏の国衆に対する「アメとムチ」の政策が、ここにも見て取れる。

3. 天文二十一年(1552年) ― 甲府における自刃

頼継が一時的に高遠へ戻ることを許されたのは、あくまで武田氏の都合によるものであった。信玄が上田原の敗戦から立ち直り、再び信濃支配を盤石なものにしていくにつれて、頼継の利用価値は失われていった。かつての本拠地・高遠城は、武田氏によって大規模に改修され、信濃南部支配の重要拠点として確立されており 10 、もはや頼継の存在は不要であるどころか、将来の禍根となりかねない危険な存在と見なされるようになった。

やがて頼継と武田氏の関係は再び悪化したとみられ、天文21年(1552年)、武田氏が下伊那へ侵攻する際、頼継は甲府において自刃させられた 1 。その死は、武田氏の信濃支配が新たな段階に入り、もはや頼継のような旧来の国衆の力を必要としなくなったことを象徴する出来事であった。没日については、史料によって1月27日説 6 と8月16日説 1 が存在するが、いずれにせよ、彼の生涯は武田氏の掌の上で始まり、そして終わった。法名は「大用普徹大禅定院」と伝わっている 1

第五章:高遠頼継の遺産と歴史的評価

高遠頼継の死は、彼個人の野望の終焉であると同時に、信濃の歴史に少なからぬ影響を残した。彼が失ったもの、そして意図せずして遺したものは、戦国という時代の複雑さと皮肉を物語っている。

1. 高遠氏の滅亡と家臣団のその後 ― 保科氏の台頭

頼継の自刃をもって、諏訪氏の有力な庶流として伊那郡に勢力を誇った高遠氏は、歴史の表舞台から完全に姿を消した 19 。しかし、高遠氏という「家」は滅びても、それを構成していた「人々」が消えたわけではなかった。武田信玄は、頼継のような国衆の当主を排除する一方で、その有能な家臣を自らの家臣団に吸収することで、在地支配をより強固なものにしていった。その代表例が、高遠氏の家老であった保科正俊である 37 。彼は頼継の死後、武田氏に重用され、その一族は武田氏滅亡後も巧みに立ち回り、最終的には徳川政権下で大名として存続することになる 1 。これは、主家の滅亡が、必ずしも家臣団の終わりを意味しない戦国時代の流動性を示す事例である。

2. 戦略拠点として生まれ変わった高遠城 ― 武田氏の伊那支配

頼継が守りきれなかった高遠城は、皮肉にも彼の没落後にその真価を発揮することになる。武田信玄は、高遠城が諏訪と伊那を結び、さらには三河・遠江方面へ抜ける要衝に位置することに着目し、これを南信濃支配の最重要拠点と位置づけた。天文16年(1547年)頃から、山本勘助や秋山虎繁らに命じて大規模な改修が行われ、高遠城は天然の地形を活かした強固な平山城へと生まれ変わった 10

以後、この城は秋山虎繁、武田勝頼、信玄の弟・信廉、そして武田氏滅亡の際に壮絶な最期を遂げる仁科盛信といった、武田一門や譜代の重臣たちが城主を歴任する戦略拠点となった 10 。頼継が夢見た伊那・諏訪支配の拠点は、彼の敵であった武田氏の手によって完成され、その信濃平定と勢力拡大に大きく貢献したのである。

3. 諏訪氏継承問題の再検討 ― 『甲斐国過去帳』が示す武田勝頼の位置づけ

高遠頼継の死は、後年、武田氏の歴史に極めて興味深い一石を投じることになった。それは、武田勝頼による諏訪氏の家名継承の問題である。従来、勝頼は母が諏訪頼重の娘(諏訪御料人)であることから、滅亡した諏訪惣領家を継承し、「諏訪四郎勝頼」を名乗ったと理解されてきた 27

しかし、近年、高野山成慶院に伝わる『甲斐国過去帳』という史料の記述が研究者の注目を集めている。この史料には、勝頼が「高遠諏訪家」を継承した、すなわち高遠頼継の家系を継いだと記されているのである 1 。もしこの記述が事実であるならば、信玄は自らが滅ぼした諏訪惣領家ではなく、一度は反乱を起こした高遠頼継の家系を、あえて自らの子に継がせたことになる。これは、反乱者の家を名跡ごと完全に取り込み無力化すると同時に、諏訪地方の支配構造を根底から自らの管理下に再編しようとした、信玄の恐るべき深謀遠慮を示唆している。

この事実は、歴史の皮肉を雄弁に物語る。高遠頼継が生涯をかけて追い求めた「諏訪惣領家を超える」という野望は、彼自身の敗北と死によって潰えた。しかし、彼の死後、彼が築いた「高遠家」という器は、彼の最大の敵であった信玄の息子・勝頼によって継承され、一時的にではあるが、歴史上、惣領家を凌駕する形で存続したことになる。もちろん、それは頼継が望んだ形では全くない。だが、彼の存在が、武田氏の歴史に予想だにしなかった形でその名を刻み込んだことだけは、紛れもない事実である。

4. 結論:戦国国衆の野望と悲劇 ― 高遠頼継という存在

高遠頼継の生涯は、戦国時代における一国衆の野望と悲劇を凝縮したものであった。彼は、諏訪一族の内部対立と、周辺大国の圧力がもたらす時代の流動性の中で、自家の浮沈をかけて惣領の座を夢見た。その野心と行動力は、時に彼を勝利へと導いたが、より大きな戦略眼を持つ戦国大名・武田信玄の前では、ことごとく裏目に出た。

彼の行動は、結果として彼自身の家を滅ぼし、信濃における武田氏の支配を決定づける触媒としての役割を果たしてしまった。高遠頼継の物語は、巨大な権力の奔流の前では、一個の国衆の野心がいかに脆く、利用され、そして使い捨てられるかを冷徹に示す。彼は単なる裏切り者ではなく、戦国という非情な時代の論理に翻弄され、そして飲み込まれていった、数多の国衆たちを代表する存在として、歴史に記憶されるべきであろう。

引用文献

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  33. 小笠原長時(オガサワラナガトキ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E9%95%B7%E6%99%82-39731
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  35. 村上義清 ー 信玄を2度破った男の生涯 ー - 歴史人 https://www.rekishijin.com/20332
  36. 高遠藩 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%81%A0%E8%97%A9
  37. 伊那 を探索 - LocalWiki https://ja.localwiki.org/ina/_explore?page=200&s=0.0470251186277
  38. 信濃 高遠城(高遠町)/登城記 - タクジローの日本全国お城めぐり http://castle.slowstandard.com/post_74.html
  39. 高遠城/特選 日本の城100選(全国の100名城)|ホームメイト https://www.homemate-research-castle.com/famous-castles100/nagano/takato-jo/
  40. 高遠城(高遠城址)の歴史や見どころなどを紹介しています - 戦国時代を巡る旅 http://www.sengoku.jp.net/koshinetsu/shiro/takato-jo/
  41. 信玄の後継者・武田勝頼が辿った生涯|長篠の戦いで敗れ、武田氏を滅亡させた若き猛将【日本史人物伝】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1124110
  42. 諏訪氏とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E6%B0%8F