最終更新日 2025-07-23

鬼庭良元

茂庭良元は伊達家重臣。祖父・父の武功を継ぎ、関ヶ原・大坂の陣に従軍。仙台藩奉行として藩政を支え、85歳で没。宇和島移封説は誤り。

仙台藩の礎石―茂庭良元、その忠誠の生涯

序章:伊達家中の「茂庭」という存在

本報告書の目的と概要

本報告書は、仙台藩の重臣、茂庭良元(もにわ よしもと)の生涯について、現存する史料に基づき、詳細かつ徹底的に解明することを目的とする。一般に、良元は「伊達政宗の子・秀宗の伊予宇和島への移封に従い、初期の藩政を担当した」と語られることがある。しかし、この通説は歴史的考証の結果、重大な誤認であることが判明している。本報告書では、良元個人の経歴を丹念に追うだけでなく、彼の祖父・鬼庭良直(おににわ よしなお)、父・茂庭綱元(もにわ つなもと)という傑出した人物たちが築いた一族の栄光と苦難の歴史を背景に、良元の真の実像を浮き彫りにする。さらに、なぜ宇和島移封説という混同が生じたのか、その原因を歴史的事実との比較を通じて分析し、茂庭良元という人物に関する決定的な報告を提示するものである。

戦国から泰平の世へ、伊達家における茂庭一族の役割の変遷

鬼庭、後の茂庭一族の歴史は、戦国時代の武勇を尊ぶ価値観から、江戸時代の安定した統治を支える官僚的実務能力が求められる時代への、武士階級そのものの変容を象徴している。祖父・良直は、人取橋の戦いにおいて主君の絶体絶命の危機を自らの命と引き換えに救った、戦国武将の鑑とも言うべき猛将であった。父・綱元は、武勇のみならず、天下人・豊臣秀吉をも魅了するほどの知略と交渉能力を発揮した智将であった。そして、本報告書の主題である良元は、彼らとは異なる時代の要請に応えた人物である。彼の生涯は、戦乱の終結後、仙台藩という巨大な組織を盤石なものとし、泰平の世における統治体制を確立するために不可欠な、実直で有能な行政官としての役割に集約される。茂庭一族の物語は、伊達家が戦国大名から近世大名へと脱皮していく過程と、固く分かちがたく結びついているのである。

鬼庭良元(茂庭良元)の位置づけ

茂庭良元は、祖父・鬼庭良直のような伝説的な武勇伝も、父・綱元のような天下の中央政権を舞台とした華々しい政治的逸話も持たない 1 。しかし、彼の存在なくして、伊達政宗が築き上げた仙台藩の繁栄と安定はなかったと言っても過言ではない。彼は、祖父や父が築いた名声という遺産を受け継ぎながらも、それに驕ることなく、新たな時代の要求する「忠誠」の形を実直に体現した。彼の85年にわたる長い生涯は、仙台藩第二代藩主・伊達忠宗、第三代・綱宗の治世を支え、伊達家の権力基盤を不動のものとするために捧げられた。良元は、戦国の英雄ではなく、泰平の世の礎を築いた「良吏」として、歴史にその名を刻むべき人物なのである。

第一部:栄光と苦難の系譜 ― 鬼庭・茂庭一族の軌跡

第一章:一族の源流

斎藤氏からの分流と鬼庭姓の由来

茂庭(鬼庭)氏は、その出自を平安時代末期の源平合戦において、白髪を染めて奮戦したことで知られる平家方の武将、斎藤別当実盛(さいとうべっとうさねもり)に遡るとされる 3 。実盛の後裔である斎藤実良(さねよし)は山城国から奥州へと移り住み、伊達家初代当主・伊達朝宗に仕えた。その功により陸奥国伊達郡茂庭村(現在の福島県福島市飯坂町茂庭)を領地として与えられ、当初は「鬼庭」と称した 3

「鬼庭(おににわ)」という勇壮な姓の由来には、一つの伝説が伝えられている。ある時、茂庭村に大蛇が現れ、村人たちは毎年若い娘を生贄として差し出すことを強いられていた。これを聞きつけた鬼庭氏の先祖がこの大蛇を見事に退治したため、村人たちは「鬼よりも強い」とその武勇を称え、以来「鬼庭」を姓とするようになったという 4 。このような由緒は、戦国時代において一族の武威と正統性を示す上で極めて重要な意味を持っていた。名高い武将の末裔であるという血統の権威と、超自然的な武勇伝は、他の家臣団の中で一族の地位を際立たせるための、いわば社会的な資本として機能したのである。また、この時、豊臣秀吉によって改姓させられる前の本来の地名が「茂庭」であったことは、後の歴史の伏線となる 4 。さらに、この一族は代々長寿の家系としても知られていた 4

第二章:祖父・鬼庭左月斎良直 ― 人取橋に散った老将の武威

伊達輝宗・政宗からの絶大な信頼

良元の祖父にあたる鬼庭良直(道号:左月斎)は、伊達稙宗、晴宗、輝宗、そして政宗という四代の当主に仕えた宿老である 1 。特に伊達輝宗の代には、遠藤基信と共に評定役として政権の中核を担い、絶大な信頼を得ていた 1 。彼は勇猛な武将であると同時に、若い頃には甲斐の武田信玄のもとで軍学を学んだ経験を持つなど、優れた戦略家でもあった 5 。天正3年(1575年)に家督を嫡男・綱元に譲り隠居、「左月斎」と号した後も、輝宗の側近として藩の政務に関与し続けた 1

人取橋の戦いにおける壮絶な殿軍

左月斎良直の名を不滅のものとしたのが、天正13年(1585年)の人取橋の戦いである。佐竹・蘆名連合軍の圧倒的な兵力に押され、若き当主・伊達政宗が絶体絶命の窮地に陥った際、当時73歳の老将であった左月斎は、政宗を無事に逃がすための殿(しんがり)という最も危険な役目を引き受けた 1 。自らの死を覚悟した左月斎は、黄綿の帽子を被り、自ら先頭に立って敵中に突撃し、壮絶な討死を遂げた 6

この自己犠牲的な死は、単なる一武将の悲劇にとどまらなかった。政宗の九死に一生を得たこの経験は、彼のその後の覇業の原点となり、左月斎の死は伊達家における「忠義」の絶対的な象徴として語り継がれることになった。それは、後の家臣たち、とりわけ孫である良元にとって、生涯を通じて意識せざるを得ない、偉大なる手本であり、同時に重い期待でもあった。左月斎の武威は、茂庭一族に栄光をもたらすと同時に、その子孫たちに「いかにして主君に尽くすか」という問いを突きつけ続けることになったのである。

第三章:父・茂庭了庵綱元 ― 天下人に愛された智将

豊臣秀吉との関係と「茂庭」への改姓

良元の父・綱元(道号:了庵)は、祖父・良直とは異なる形で伊達家に貢献した。彼は武勇に加え、卓越した知性と交渉能力を兼ね備えた人物であった。特に、政宗が豊臣秀吉による小田原征伐に遅参し、さらにその後の葛西大崎一揆を煽動したとの嫌疑をかけられた際には、弁明のための使者として京に赴き、秀吉との折衝役という重責を担った 2

この時、秀吉は綱元の才覚に深く感銘を受け、彼を非常に気に入ったという 2 。秀吉は綱元をしばしば囲碁の相手などに呼び、親しく接した 4 。ある日、秀吉は「庭に鬼がいるのは縁起が悪い」と述べ、一族の姓を本来の地名であった、より穏やかな「茂庭」に改めるよう命じた 2 。これは、天下人による寵愛の証であった。秀吉はさらに綱元を自らの直臣に迎えようと、伏見に屋敷まで用意して勧誘したが、綱元は政宗への忠義を貫き、これを固辞したと伝えられる 2

政宗との確執と香の前を巡る逸話

しかし、この天下人との近すぎる関係は、主君である政宗の猜疑心を生む原因ともなった。綱元の有能さが中央で高く評価されることは、地方の領主である政宗にとって、自らの権威を脅かしかねない両刃の剣であった。この主従間の緊張関係を象徴するのが、秀吉の寵姫であった香の前(こうのまえ)を巡る逸話である。

諸説あるが、秀吉から綱元に下賜された香の前を、政宗が差し出すよう命じたところ、綱元がこれを拒んだために政宗の勘気を蒙り、文禄4年(1595年)に家督を子の良綱(後の良元)に譲ることを強要され、一時的に伊達家を出奔する事態にまで発展した 2 。綱元は慶長2年(1597年)に赦免されて伊達家に復帰するが、この一件は、有能な家臣が主君と中央政権との間でいかに危うい立場に置かれるかを示す好例である 8 。香の前は後に政宗との間に二人の子を儲けたが、この子らは公式には綱元の子として育てられたという説もあり、三者の関係の複雑さを物語っている 10 。この父の経験は、若き良元にとって、主君との距離の取り方や、政治の機微を学ぶ上での痛烈な教訓となったに違いない。

第二部:茂庭良元の生涯 ― 泰平の世を生きる

第四章:誕生から家督相続まで

(表)茂庭良元 生涯年表

年代(西暦)

元号

年齢

主な出来事

典拠

1579年

天正7年

1

鬼庭綱元の二男として誕生。幼名は小源太。

3

1588年

天正16年

10

八幡宗実の養子となる。

13

1592年

文禄元年

14

兄・安元が病死したため実家に戻り、茂庭家の嫡男となる。この年に鬼庭氏が茂庭氏に改姓し、自身も「茂庭良綱(もにわ よしつな)」と名乗る。

13

1600年

慶長5年

22

関ヶ原の戦いに際し、対上杉戦線に従軍。

15

1603年

慶長8年

25

志田郡松山城主となる。

8

1614年

慶長19年

36

大坂冬の陣に従軍。

15

1615年

慶長20年

37

大坂夏の陣に従軍。

15

1644年

正保元年

66

寛永総検地の結果、知行が10,000石に加増される。同年、第四代将軍・徳川家綱の諱を避け、「良元(よしもと)」に改名。

13

1651年

慶安4年

73

嫡男・延元(のぶもと)に家督を譲り隠居。

14

1654年

承応3年

76

入道し「左月斎」と号す。

14

1659年

万治2年

81

第三代藩主・伊達綱宗の後見役として江戸に赴き、幕閣に支援を要請。

13

1663年

寛文3年

85

8月3日、死去。享年85。

13

幼名「小源太」、複雑な青年期

茂庭良元は、天正7年(1579年)、伊達家の重臣・鬼庭綱元の二男として生まれた。幼名は小源太と名付けられた 3 。戦国時代の武家の常として、彼の青年期は平穏なものではなかった。天正16年(1588年)、10歳の時に他家である八幡家の八幡宗実の養子となる 13 。これは、家系の存続や他家との同盟関係を強化するための、当時としては一般的な措置であった。

しかし、その4年後の文禄元年(1592年)、彼の人生は大きな転機を迎える。実家の兄である茂庭安元が病により早世したため、小源太は急遽実家である茂庭家に呼び戻され、嫡男としての地位を継ぐことになったのである 13

「良綱」としての第一歩

実家に戻った彼は元服し、「茂庭良綱(よしつな)」と名乗った 13 。彼が茂庭家に戻ったこの年は、奇しくも父・綱元が豊臣秀吉の命により、一族の姓を「鬼庭」から「茂庭」へと改めた年でもあった。良綱の青年期は、父・綱元が政宗の勘気を蒙って一時的に出奔するなど、茂庭家が政治的に不安定な時期と重なっていた 2 。このような環境は、若き良綱に、武家の嫡男としての重圧と、政治の非情さを早くから教え込んだことであろう。

第五章:関ヶ原から大坂の陣へ ― 武人としての功績

対上杉戦線での武功

茂庭良綱が武人として最初に歴史の表舞台に登場するのは、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いである。伊達家は徳川方につき、会津の上杉景勝と対峙する、いわゆる「北の関ヶ原」を戦った。良綱はこの戦いに従軍し、上杉軍との戦闘に参加した 15 。彼の具体的な武功を伝える詳細な記録は乏しいが、一族の嫡男としてこの重要な戦役に参加したこと自体が、彼の武人としてのキャリアの第一歩であり、主君への忠誠を示す重要な機会であった。

大坂冬の陣・夏の陣への従軍

その後、良綱は慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、翌20年(1615年)の夏の陣にも伊達軍の一員として従軍している 15 。これらは豊臣家を滅ぼし、徳川による天下泰平を完成させるための最後の戦いであった。

ここで、一部の資料に見られる「大坂の陣で戦死した」という記述 15 は、明確な誤りであることを指摘しておく必要がある。複数の信頼性の高い史料が、彼の没年を寛文3年(1663年)、享年85と一致して記録しており 13 、彼が大坂の陣を生き延び、その後半世紀近くにわたって仙台藩で重きをなしたことは疑いようがない。

良綱の軍歴は、戦国時代の終焉を告げる象徴的な戦いに参加することで締めくくられた。祖父・良直が戦ったのは、一族の存亡を賭けた地方大名同士の熾烈な生存競争であった。対照的に、良綱が参加したのは、徳川という中央政権が主導する、天下統一の総仕上げともいえる大規模な戦役であった。求められる武士の役割は、個人の武勇を誇示する英雄的行為から、巨大な軍事組織の一員として規律正しく命令を遂行する指揮官へと変化していた。良綱の武人としての経歴は、この武士の役割の歴史的変遷を明確に反映している。

第六章:仙台藩の重鎮として ― 良吏・良元の実像

松山城主と藩政への参画

戦乱の時代が終わりを告げると、良綱の才能は軍事から行政の分野で開花する。慶長8年(1603年)、彼は志田郡松山の城主に任じられた 8 。松山は仙台藩にとって戦略的にも経済的にも重要な拠点であり、この若き日の任命は、政宗が良綱に寄せる信頼の厚さを物語っている。

彼はやがて仙台藩の「奉行(ぶぎょう)」に就任する 17 。これは他藩における「家老」に相当する藩政の最高職であり、名実ともに仙台藩の中枢を担う存在となった 7 。特に第二代藩主・伊達忠宗からの信任は篤く、藩政の取りまとめ役として重用された 14

「良元」への改名と一万石への加増

正保元年(1644年)、良綱の人生における重要な出来事が二つ起こる。一つは、知行地の再編に伴い、彼の所領が10,000石へと大幅に加増されたことである 13 。これにより、彼は仙台藩でも屈指の大身となり、その地位を不動のものとした。

もう一つは、同年末に自らの名を「良綱」から「良元(よしもと)」へと改めたことである 13 。これは、後に第四代将軍となる徳川家綱の諱(いみな)である「綱」の字を使用することを避けるための措置であった。この改名という一見些細な行為は、当時の政治体制を象徴する出来事であった。江戸の徳川将軍の権威は絶対的なものとなり、仙台藩のような強大な外様大名の最高幹部でさえ、将軍家への敬意を示すために自らの名を変更することが政治的な配慮として求められたのである。これは、徳川の治世が完全に確立されたことを示す、力強い証左と言える。

三代藩主・綱宗の後見役と晩年

慶安4年(1651年)、良元は73歳で家督を嫡男・延元に譲り、隠居の身となった 14 。しかし、藩政への影響力を失ったわけではなく、隠居後も忠宗から諮問を受けるなど、重鎮としての役割を果たし続けた 14

彼の最後の奉公は、万治元年(1658年)に若年の伊達綱宗が第三代藩主に就任した際に訪れた。翌万治2年(1659年)、81歳の老齢をおして江戸に赴き、老中の松平信綱や酒井忠清といった幕府の最高実力者たちを歴訪し、若き新藩主への後援を依頼して回った 13 。これは、伊達家の家臣団を代表する筆頭者としての、最後の、そして最大の務めであった。

寛文3年(1663年)8月3日、茂庭良元は85年の生涯に幕を下ろした 13 。彼は、伊達家三代の当主に仕え、戦国から泰平へと移り変わる激動の時代を、揺るぎない忠誠心をもって生き抜いたのである。

第三部:歴史的考証 ― 宇和島移封説の真相

第七章:宇和島藩の成立と「和霊騒動」

伊達秀宗の宇和島入封と「伊達五十七騎」

茂庭良元に関する通説の誤りを解明するためには、まず、舞台となる伊予宇和島藩の成立事情を理解する必要がある。慶長19年(1614年)、伊達政宗の庶長子である伊達秀宗は、大坂冬の陣における功績により、徳川家から伊予国宇和島に10万石の領地を与えられ、宇和島藩が成立した 18

藩の創設にあたり、政宗は自らの家臣団の中から精鋭を選び、秀宗に付けて宇和島へと送り込んだ。この家臣団は「伊達五十七騎」と称され、新設された宇和島藩の藩政を担う中核となることが期待された 18

初期藩政の混乱と財政問題

しかし、宇和島藩の船出は困難を極めた。宇和島の地はそれまで領主が頻繁に交代したため領内は疲弊しており、藩の財政は当初から危機的な状況にあった 18 。さらに秀宗は、藩政の初期資金として父・政宗から6万両ともいわれる莫大な借金をしており、この返済問題が後に藩内に深刻な対立の火種を撒くことになる 18 。このような状況は、江戸時代初期に創設された多くの分家(別家)が直面した典型的な経営難であった 23

第八章:惣奉行・山家清兵衛の悲劇

人物像と藩政改革

この宇和島藩の混乱期に、藩政の実権を握ったのが、山家清兵衛公頼(やんべ せいべえ きみより)という人物である。彼は政宗によって宇和島藩の惣奉行(総責任者)に任命された重臣であった 24 。重要な点は、彼が伊達家譜代の家臣ではなく、元は山形藩の最上氏に仕えていた人物であることだ 26

清兵衛は、藩の財政を立て直すため、政宗への借金返済を最優先する厳しい政策を断行した。その一環として、藩の総石高10万石のうち3万石を返済に充てるという大胆な策を打ち出したが、これは多くの家臣たちの禄を減らすことを意味し、深刻な反発を招いた 22

桜田玄蕃との対立と暗殺

清兵衛の強引な改革と、彼が政宗の「目付役」としての側面を持っていたことは、若き藩主・秀宗や、秀宗が重用した伊達家譜代の家臣・桜田玄蕃(さくらだ げんば)らとの対立を決定的なものとした 18

そして元和6年(1620年)6月29日の夜、悲劇が起こる。山家清兵衛は、藩主・秀宗の密命を受けた一派によって、息子たちを含む一族もろとも自邸で惨殺されたのである 18 。これは、藩政改革を巡る対立が頂点に達した末の、藩主による粛清であった。

怨霊伝説と和霊神社の創建

しかし、事件はこれで終わらなかった。清兵衛の死後、宇和島藩では不可解な災厄が相次いだ。暗殺の首謀者と目された桜田玄蕃は、秀宗正室の法要中に嵐で落下してきた本堂の梁の下敷きになって圧死し、事件に関与した他の者たちも海難事故や落雷で次々と変死を遂げた 18

これらの出来事は、人々によって無念の死を遂げた清兵衛の「怨霊(おんりょう)」の祟りであると恐れられた。この恐怖と混乱を鎮めるため、藩主・秀宗は清兵衛の霊を神として祀る神社を建立した。これが、今日まで続く和霊神社(われいじんじゃ)の始まりである 18 。政治的な暗殺の犠牲者を神として祀ることで怨みを和らげ、社会秩序を回復しようとするこの動きは、菅原道真の例にも見られるように、日本の歴史において繰り返し現れる信仰の形態である。和霊神社の創建は、藩主が自らの政治的暴力を宗教的権威によって鎮めようとした、極めて政治的な行為であった。

第九章:結論 ― なぜ混同は生じたのか

茂庭良元と山家清兵衛の経歴比較

ここで、茂庭良元と山家清兵衛の経歴を比較すれば、両者が全くの別人であることは明白である。

  • 茂庭良元 : 寛文3年(1663年)に85歳で死去。生涯を仙台藩で過ごし、藩の重鎮として大往生を遂げた 13
  • 山家清兵衛 : 元和6年(1620年)に宇和島で暗殺された。その後、怨霊として恐れられ、神として祀られた 18

両者の生没年、活動場所、死因は全く異なり、同一人物である可能性は完全に否定される。茂庭良元が宇和島に移封されたという事実は存在しない。

共通の物語構造による誤認

では、なぜこのような混同が生じたのか。その原因は、両者が「伊達政宗に信頼され、その子・秀宗の宇和島藩創設を助けるために派遣された重臣」という、簡略化された共通の物語の型に当てはまる点にあると考えられる。山家清兵衛が実際にその役目を担った人物であるが、仙台藩の重臣として名高い茂庭一族の良元が、後世の伝聞や不正確な記録の中で、この物語の主人公として誤って当てはめられてしまった可能性が高い。歴史的な記憶が、複雑な事実を単純な典型(アーキタイプ)へと収斂させてしまう過程で、この種の誤認はしばしば発生する。

史料に基づく再確認

本報告書で検証した数々の史料 13 に基づき、ここに改めて結論を述べる。茂庭良元は、伊予宇和島藩の藩政には一切関与しておらず、その生涯を通じて仙台藩の忠実な家臣として本藩に仕え、その地で没した。ユーザーが当初提示した概要に含まれる宇和島に関する記述は、山家清兵衛の事績との混同に起因するものである。

終章:茂庭良元の歴史的評価

実務と忠誠の人

茂庭良元の歴史的評価は、戦場での華々しい武功ではなく、泰平の世における地道な実務と揺るぎない忠誠心にこそ求められるべきである。彼は、祖父や父が築いた武名や知名の遺産を、藩の組織を安定させ、統治体制を盤石にするための信頼へと昇華させた。江戸時代の藩の成功が、勇猛な武士だけでなく、有能な行政官僚の存在によって支えられていたことを、彼の生涯は雄弁に物語っている。

移行期の武士像

良元は、偉大な祖父と父が打ち立てた高い期待に見事に応えながらも、時代の変化に適応した武士の理想像を示した。彼は、戦国最後の戦乱を経験した若き武者から、幕府との外交や藩内の政務に通じた老練な政治家へと、その役割を柔軟に変化させていった。彼の人生は、武勇が全てであった時代から、統治能力が最も重要となる時代への、武士階級の困難な、しかし見事な移行の軌跡そのものである。

茂庭良元の生涯が現代に示唆するもの

茂庭良元の物語は、劇的な英雄譚ではないかもしれない。しかし、彼の生涯は、組織への忠誠、地道な職務遂行の重要性、そして変化する世界に適応していく能力の価値を、静かに、しかし力強く我々に語りかけてくる。彼は、仙台藩という壮大な建築物における、華やかな尖塔ではなく、目立たないが不可欠な礎石であった。そして、いかなる堅牢な建築物も、その礎なくしては成り立ち得ないのである。彼の生涯は、泰平の世を築き、支えた無数の人々の、誠実な営為の尊さを現代に伝えている。

引用文献

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  4. 大崎八幡宮その3 - 星の街 仙台 https://hexagram.jp/2016/05/09/%E5%A4%A7%E5%B4%8E%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE%E3%81%9D%E3%81%AE3/
  5. 鬼庭良直公~なとりのひと | 星の街仙台~伊達政宗が隠した無形の文化遺産〜 https://hexagram.jp/2017/09/19/%E9%AC%BC%E5%BA%AD%E8%89%AF%E7%9B%B4%E5%85%AC%EF%BD%9E%E3%81%AA%E3%81%A8%E3%82%8A%E3%81%AE%E3%81%B2%E3%81%A8/
  6. 伊達家の武将たち:戦国観光やまがた情報局 - samidare https://ssl.samidare.jp/~lavo/naoe/note.php?p=log&lid=152831
  7. 問 「伊達騒動」(山田野理夫) で、奉行と家老の職名が混用されています。 同一人物について - 仙台市図書館 https://lib-www.smt.city.sendai.jp/wysiwyg/file/download/1/553
  8. 茂庭綱元は文字の領主で岩ケ崎城とも深い関係が!茂庭町は茂庭氏から! https://monjiima.jp/moniwatunamoto/
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  11. あの人が欲しい!豊臣秀吉のラブコールが引き起こした「せつない四角関係」とは? - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/175250/
  12. これぞ仙台歴史ロマン たぶん伊達家臣の中で一番のご長寿!茂庭綱元公【宮城歴史浪漫シリーズvol.21】 - せんだいマチプラ https://matipura.com/history-2/54997/
  13. 茂庭良元 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%82%E5%BA%AD%E8%89%AF%E5%85%83
  14. F855 鬼庭実良 - 系図コネクション https://www.his-trip.info/keizu/F855.html
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  16. 茂庭延元の紹介 - 大坂の陣絵巻 https://tikugo.com/osaka/busho/date/b-moniwa-nobu.html
  17. 茂庭周防 - 大河ドラマ+時代劇 登場人物配役事典 https://haiyaku.web.fc2.com/moniwa.html
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  27. 伊達なお散歩~山家清兵衛~ | 杜の都のすずめのお宿 https://ameblo.jp/sparrow-and-bamboo/entry-12203943060.html
  28. 桜田元親 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E7%94%B0%E5%85%83%E8%A6%AA
  29. 山家清兵衛忌 - 伊達博通信 http://datehaku.blogspot.com/2012/08/blog-post.html
  30. 山家公頼 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%AE%B6%E5%85%AC%E9%A0%BC
  31. 宇和島藩:愛媛県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/edo-domain100/uwajima/
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  33. 和霊神社(今治市・玉川地区) - 神仏探訪記 https://shintobuddhajourney.com/sbj/warei-shrine-tamagawacho-imabari/
  34. 和霊神社 - うわじま観光ガイド https://www.uwajima.org/spot/index3.html