序章
魚住景固という人物 – 研究の対象と意義
本報告書は、日本の戦国時代から安土桃山時代にかけて、激動の時代を生きた一人の武将、魚住景固(うおずみ かげかた)に焦点を当てるものである。彼の生涯は、主家であった越前朝倉氏の栄枯盛衰、そして織田信長による天下統一事業が進行する時代の大きな転換点を映し出している。景固のような一地方武将の視点から歴史を丹念に追うことは、著名な大名や大規模な合戦の陰に隠れがちな、戦国乱世のより細やかな実像に迫る上で重要な意義を持つ。彼の事績を丹念に追うことで、当時の武士の生き方、主従関係、そして時代の荒波に翻弄される個人の運命を具体的に描き出すことを試みる 1 。
戦国史における魚住氏 – 越前の魚住景固と播磨の魚住氏の峻別
「魚住」という姓を持つ武家は、景固が活動した越前国のみならず、特に播磨国においてもその名が歴史に散見される。播磨の魚住氏は、赤松氏の庶流として知られ、三木合戦などで独自の足跡を残している 4 。しかしながら、本報告書が主たる対象とする魚住景固は、その出自の源流を播磨赤松氏に持つものの、曾祖父の代に越前へ移り、朝倉氏に仕えた別系統の人物である 1 。この点を明確に区別し、本報告では越前朝倉氏家臣としての魚住景固の生涯と事績に限定して論を進める。
魚住景固の家系が播磨から越前へと本拠を移したという事実は、戦国時代における武士の流動性の一端を示している。主家の勢力図の変化や、新たな活躍の場、あるいは安住の地を求めて、武士がその所領や縁故地を離れることは決して珍しいことではなかった。景固の曾祖父にあたる魚住景貞が、嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱によって主家である赤松氏が一時的に没落した後、越前の朝倉氏に仕官したという経緯 7 は、まさにこの時代の武士たちが置かれた状況を象徴する出来事と言えよう。主家の浮沈は、その家臣たちの運命を大きく左右し、新たな主君を求めて故郷を離れる動機となり得たのである。戦国時代とは、旧来の主従関係や土地との結びつきが絶対的なものではなくなり、実力や新たな縁故を頼って武士が移動し、自身の家運を切り開こうとした時代であった。魚住氏の越前への移住もまた、このような時代背景における武士の生存戦略の一環として理解することができる。
第一部:魚住景固の出自と家系
一、魚住氏の淵源 – 播磨赤松氏からの分流
魚住景固の家系は、播磨国(現在の兵庫県南西部)の守護大名であった赤松氏の庶流にその源を持つとされている 1 。赤松氏は、室町幕府において山名氏、一色氏、京極氏と共に四職(ししき)と称される重職を担う家柄の一つに数えられた名門であり、その勢力は播磨を中心に備前、美作にも及んだ 5 。この事実は、魚住氏が武家としての一定の格式と伝統を有していたことを示唆している。播磨における魚住氏は、古くからの港町であった魚住泊(現在の明石市大久保町魚住町)に本拠を構え、赤松氏の被官として各地で活動した記録が『播磨鑑』などに見られる 5 。
二、越前への移遷 – 曾祖父・景貞の朝倉氏仕官
魚住景固の直接の祖先が越前国へ移ったのは、彼の曾祖父にあたる魚住景貞(うおずみ かげさだ)の代であると伝えられている 1 。景貞は、元来播磨赤松氏の被官であったが、嘉吉元年(1441年)に勃発した嘉吉の乱により、主家赤松氏が6代将軍足利義教を暗殺した罪で幕府軍の討伐を受け、一時的に没落するという大きな変動に見舞われた。この主家の危機に際し、景貞は流浪の末、越前国(現在の福井県東部)で守護代から戦国大名へと勢力を伸長しつつあった朝倉孝景(英林孝景、朝倉氏7代当主)に仕官することとなった 7 。
応仁元年(1467年)から文明9年(1477年)にかけて京都を中心に全国を二分して争われた応仁の乱においては、朝倉孝景は当初西軍に属していたが、後に東軍へと寝返る。この重要な転換点において、魚住景貞は外交交渉の任にあたり、旧主である東軍方の赤松政則の被官、浦上則宗や中村三郎らとの折衝を重ね、朝倉氏の東軍帰参を実現させる上で大きな役割を果たしたと記録されている 7 。
景貞が赤松氏の没落という困難な状況下で、新興勢力である越前朝倉氏に新たな仕官先を見出し、そこで具体的な功績を挙げたことは、戦国時代の武士がいかにして家運を維持し、次代へと繋いでいったかを示す好例である。朝倉孝景(英林孝景)は、越前一国を平定し、一乗谷に本拠を構えて朝倉氏の戦国大名としての基礎を築いた英主として知られる。そのような実力者の下で、景貞が外交という重要な分野で手腕を発揮したことは、魚住家が越前の地で確固たる地位を築くための重要な布石となったと考えられる。これは単に主君を変えたというだけでなく、新たな主君の下で具体的な貢献を果たすことによって、家の存続と地位の向上を図ったことを意味する。戦国時代において武士が生き残り、家名を高めていくためには、時勢を的確に見極め、有力な主君を選び、そしてその下で自身の能力を最大限に発揮して貢献することが不可欠であった。魚住景貞の選択と行動は、まさにこの時代の武士の現実的な処世術を体現していると言えよう。
三、景固の誕生と家族 – 父・景栄、そして息子たち
魚住景固は、享禄元年(1528年)に、魚住景栄(かげひで)の子として越前の地で生を受けたとされる 1 。幼名や元服前の名については詳らかではないが、通称として彦四郎を名乗り、後には帯刀左衛門尉(たちはきさえもんのじょう)と称した 1 。また、備後守(びんごのかみ)の官位も有していたと伝えられているが、これが朝廷から正式に叙任されたものか、あるいは自称であったかについては、現存する資料からは判然としない 1 。
景固の家族構成について、父が景栄であることは複数の資料で一致して示されている 1 。彼には少なくとも二人の息子がいたことが確認されており、嫡男は彦三郎、次男は彦四郎といった 1 。彼らが景固と共にどのような人生を歩んだのか、そしてその最期については、本報告書の第三部で詳述することになる。
表1:魚住景固 略歴
項目 |
内容 |
主な典拠 |
氏名 |
魚住 景固(うおずみ かげかた) |
1 |
生年 |
享禄元年(1528年) |
1 |
没年 |
天正2年1月24日(1574年2月15日) |
1 |
通称 |
彦四郎、帯刀左衛門尉 |
1 |
官位 |
備後守 |
1 |
父 |
魚住景栄 |
1 |
曾祖父 |
魚住景貞 |
1 |
主君 |
朝倉義景、織田信長 |
1 |
備考 |
眼病を患っていたとの記述あり 3 。 |
|
この表は、魚住景固に関する基本的な個人情報を一覧化したものであり、彼の生涯を理解する上での基礎情報を提供する。特に生没年、主君の変遷は、彼がどのような時代背景の中で活動したのかを把握するために重要である。
第二部:朝倉義景の臣として
一、奉行人としての景固 – 元亀年間よりの活動
魚住景固が朝倉義景(朝倉氏11代当主、5代当主とされるのは義景の代数を指すか)の治世下で本格的にその名を表し始めるのは、元亀元年(1570年)頃からである。この時期、彼は朝倉氏の奉行人(ぶぎょうにん)として活動していたことが記録されている 2 。奉行人とは、主君の命令を奉じて特定の政務や実務を執行する役職であり、その職掌は行政、司法、財政、軍事など多岐にわたった。戦国大名家において、領国経営や家中統制を円滑に進めるためには、有能な奉行人の存在が不可欠であった。
鯖江市が所蔵する古文書の調査報告によれば、「魚住景固書状」の存在が確認されている 2 。この書状は、景固が訴訟に関連して豊綱(とよつな、人物の詳細は不明)という名の人物に対し、一乗谷(朝倉氏の本拠地)へ出頭するよう命じた内容のものである。この一点からも、景固が朝倉氏の支配機構の中で、訴訟処理といった司法的な権能の一部を担っていたことが具体的に窺え、彼の奉行人としての職務内容の一端を垣間見ることができる 1 。
二、朝倉家中の動静と景固 – 永禄11年の記録を中心に
景固の朝倉家中における地位を示す興味深い記録として、永禄11年(1568年)の出来事が挙げられる。この年、後に室町幕府15代将軍となる足利義昭は、織田信長の後援を得て上洛を果たすべく、その途上で越前一乗谷に滞在した。主君である朝倉義景は義昭を丁重に饗応したが、この際の記録に魚住景固の名が見えるのである 1 。
具体的には、義昭饗応の際に催された行事において、景固は「年寄衆(としよりしゅう)」の一員として、「辻固ノ人数(つじがためのひとず)」、すなわち市中の要所の警備を担当する部隊に名を連ねている 1 。この「年寄衆」という呼称は、一般的に家中の意思決定に関与する重臣層や、それに準ずる有力な家臣を指す場合に用いられることが多い。また、「辻固」という役務は、将軍候補という極めて重要な賓客を迎えるにあたって、その安全確保と治安維持を担うものであり、主君からの深い信頼がなければ任されることのない職責であった。
この記録は、景固が単なる一兵卒や下級の吏僚ではなく、朝倉義景政権下において、家中の枢機にこそ関与しないまでも、ある程度の発言力と家格を持ち、実務能力と共に主君からの信頼を得ていた人物であった可能性を強く示唆している。元亀年間以前の具体的な活動は史料に乏しいものの、永禄11年の時点で既にこのような立場にあったことから、それ以前から義景に仕え、徐々にその地位を確立していったものと推察される。
三、戦陣に馳せる – 姉川合戦、虎御前山対陣など
魚住景固は、奉行人としての行政的な手腕を発揮する一方で、武将としても戦陣に臨んでいた。戦国時代の武士にとって、平時の統治能力と戦時の指揮能力を兼ね備えることは、主君に重用されるための重要な資質であった。
元亀元年(1570年)6月、織田信長・徳川家康連合軍と浅井長政・朝倉義景連合軍との間で繰り広げられた姉川の戦いにおいて、景固は朝倉軍の一翼を担い、一千の兵を率いて出陣したと記録されている 3 。この戦いは浅井・朝倉連合軍の敗北に終わったが、景固が一定規模の部隊を指揮する立場にあったことは注目に値する。
姉川の戦いの後も、浅井・朝倉軍は織田・徳川軍との間で激しい攻防を続けた。特に、近江国(現在の滋賀県)の虎御前山(史料によっては虎後前山とも記される)に織田軍が砦を築き、浅井氏の小谷城を圧迫すると、朝倉軍はこれを後詰するために出陣し、長期にわたる対陣となった。魚住景固もこの虎御前山での織田軍との対峙に参加したと伝えられている 3 。
さらに、これらの対外的な軍事行動に加え、朝倉家中の内紛であったとされる堀江景忠(ほりえ かげただ)の謀反の際には、その鎮圧にも関与したとの記録がある 3 。堀江景忠の乱の詳細は不明な点が多いが、家中が不安定な状況にあったことを示しており、景固のような武将がその収拾に努めたものと考えられる。
これらの記録は、魚住景固が単に書状を発給するような文官的側面だけでなく、実際に兵を率いて合戦に赴く武官としての側面も併せ持っていたことを示している。奉行人としての行政能力と、戦場での指揮官としての経験は、彼が朝倉義景にとって有用な家臣であったことを物語っている。戦国大名の家臣には、領国経営と軍事の両面で主君を支える多角的な能力が求められており、景固の活動は、この時代の理想的な家臣像の一つを体現していた可能性を示唆している。
四、史料に見るその他の活動と人物像 – 書状、眼病の記述など
魚住景固の人物像や活動を伝える史料は断片的ではあるが、いくつかの興味深い記述が散見される。前述の通り、 2 で言及されている「魚住景固書状」は、彼が発給した実物の文書が現代に伝わっている可能性を示しており、もし現存するならば、当時の朝倉氏の支配体制や訴訟制度、さらには景固自身の筆跡や花押などを知る上で極めて貴重な一次史料となる。その内容は、豊綱という人物への出頭命令であり、奉行人としての彼の具体的な職務を物語っている。
また、 3 の記述によれば、景固は眼病を患っていたとされている。この眼病が彼の日常生活や職務遂行にどの程度の影響を与えていたのか、具体的な症状や時期については不明であるが、彼の人物像に人間的な側面を加える情報である。戦国時代の武将が何らかの持病や身体的な問題を抱えながらも活動を続けていた例は少なくなく、景固もその一人であったのかもしれない。
さらに、 29 には、具体的な時期や背景は不明ながら、上杉氏の軍勢が一乗谷へ向かう途上、南条(現在の福井県南条郡南越前町付近か)付近に布陣していた「一乗谷隊の総大将・魚住景固」が、朝倉宗家当主である朝倉景健(義景の従兄弟で、義景死後の一時期、朝倉氏を率いた)の許可を得たとして、上杉軍の通過を認めたという逸話が記されている。この記述が史実であるとすれば、景固が軍事的に重要な拠点に配置され、方面軍の指揮官クラスの立場にあった可能性、そして朝倉家中枢の外交的判断を現場で実行する役割を担っていたことを示すことになる。ただし、この記述の出典は小説(kakuyomu.jp掲載の作品)であり、歴史的史実としての裏付けは他の一次史料や信頼性の高い二次史料との照合によって慎重に検証される必要がある。
これらの断片的な情報を繋ぎ合わせることで、魚住景固という武将の多面的な姿が浮かび上がってくる。
表2:魚住景固 主要関連人物
氏名 |
景固との関係 |
備考 |
関連資料ID |
朝倉義景 |
主君 |
越前国の戦国大名。景固は義景の奉行人、武将として仕えた。 |
1 |
魚住景栄 |
父 |
景固の父親。 |
1 |
魚住景貞 |
曾祖父 |
播磨赤松氏家臣から越前朝倉氏に仕官。応仁の乱で外交に活躍。 |
1 |
魚住彦三郎 |
嫡男 |
景固の長男。父の死後、富田長繁に討たれた。 |
1 |
魚住彦四郎 |
次男 |
景固の次男。父と共に富田長繁に謀殺された。 |
1 |
富田長繁 |
元同僚、後に敵対者 |
元朝倉氏家臣。朝倉氏滅亡後、織田信長に仕え府中城主となるが、景固父子を謀殺。後に一向一揆に討たれる。 |
1 |
足利義昭 |
室町幕府15代将軍 |
上洛途次に越前一乗谷に滞在。その際の饗応記録に景固の名が見える。 |
1 |
織田信長 |
主君(朝倉氏滅亡後) |
朝倉氏を滅ぼした後、景固は信長に降伏。 |
1 |
朝倉景健 |
主君(義景の従兄弟、一時的な朝倉氏当主) |
29 の記述では、景固が景健の許可を得て上杉軍の通行を認めたとされる(史実性の検証が必要)。 |
29 |
堀江景忠 |
朝倉氏家臣(謀反を起こしたとされる) |
景固がその鎮圧に関与したとされる。 |
3 |
この表は、魚住景固の生涯において重要な関わりを持った人物を整理したものである。これらの人物との関係性を理解することは、景固の行動や彼が置かれた状況、そしてその運命をより深く考察する上で不可欠である。
第三部:朝倉氏滅亡と景固の最期
一、主家の落日と景固の選択 – 織田信長への帰順
天正元年(1573年)8月、織田信長の圧倒的な軍事力の前に、長年にわたり越前国に君臨した名門朝倉氏は滅亡の時を迎える。主君であった朝倉義景は、刀禰坂の戦いで大敗を喫した後、一乗谷を放棄して大野郡へ逃れるも、従兄弟である朝倉景鏡の裏切りに遭い自刃した。この主家の劇的な崩壊は、魚住景固を含む多くの朝倉家臣たちにとって、自身の進退を決定づけねばならない重大な岐路を意味した。
主家を失った景固が選んだ道は、他の多くの旧朝倉家臣たちと同様に、新たな天下人となりつつあった織田信長への帰順であった 1 。これは、戦国乱世において家の存続を図るための、極めて現実的かつ一般的な選択であったと言える。信長は、旧敵であっても能力のある者や恭順の意を示す者を登用する柔軟性を持っていたため、多くの旧朝倉家臣が織田政権下で新たな道を模索することになったのである。
二、非業の死 – 富田長繁による謀殺
1. 龍門寺城の悲劇
織田信長に降伏し、新たな秩序の下で再起を図ろうとした魚住景固であったが、その命運は予期せぬ形で、しかも同じく元朝倉家臣であった人物の手によって絶たれることとなる。天正2年(1574年)1月14日( 1 の記述では西暦1574年2月15日を景固の死没日とし、謀殺日を1月24日としているが、ここでは 1 の「天正2年1月14日」を謀殺日として採用する。旧暦と西暦の換算、あるいは史料間の差異の可能性に留意が必要である)、景固は越前府中(現在の福井県越前市)の城主となっていた富田長繁(とだ ながしげ)によって謀殺された 1 。
富田長繁は、景固に対して「朝食を共にしよう」と偽って招待し、景固はこれに応じて次男の彦四郎を伴い、長繁の居城である龍門寺城(あるいは饗応のために特別に設けられた場所)へと赴いた 1 。しかし、これは長繁が周到に仕組んだ罠であり、饗応の席と見せかけたその場で、魚住景固と彦四郎は無残にも殺害されてしまったのである。この時、景固は数え年で47歳であった。
2. 息子たちの運命と魚住家(景固流)の終焉
父景固と共に龍門寺城で謀殺された次男・彦四郎に続き、その翌日には景固の嫡男であった彦三郎もまた、富田長繁の手によって討ち取られたと記録されている 1 。これにより、魚住景固とその二人の息子は相次いで命を落とし、彼の家系、すなわち越前朝倉氏に仕えた魚住氏の血筋は、ここに途絶えることとなった。曾祖父・景貞が越前の地で築き上げ、景固が守り継ごうとした家名は、元同僚の非情な刃によって、あまりにも唐突に終焉を迎えたのである。
三、謀殺の波紋 – 富田長繁の失脚へ
富田長繁による魚住景固父子の謀殺は、単なる個人的な確執や旧臣間の勢力争いという範疇を超えて、当時の越前における政治状況に大きな波紋を投げかけることとなった。 1 の記述によれば、長繁は特に明確な敵対理由や正当な口実を示すことなく魚住氏を滅ぼしたとされており、この理不尽な行為が、彼の運命を大きく狂わせる要因となる 1 。
当時、越前国内には依然として強大な影響力を保持していた一向一揆勢力が存在した。長繁のこの暴挙は、彼ら一向一揆衆の激しい反発を招き、彼らから完全に見限られる結果となった 1 。一揆衆は、長繁の支配を打倒すべく、隣国加賀から指導者である七里頼周(しちり らいしゅう、よりちか とも)を大将として援軍を呼び寄せ、大規模な蜂起を起こした。各地から集結した一揆勢は府中城の富田長繁を攻撃し、天正2年(1574年)2月には、長繁は一揆軍との戦いに敗れて討死したと伝えられている 10 。
魚住景固の謀殺は、朝倉氏滅亡後の越前における旧臣間の主導権争いの一環であったと見ることができる。富田長繁は織田信長から府中を与えられ、地域における一定の権力を掌握したが、同じく旧朝倉家臣であり、奉行人としての実績も持つ魚住景固の存在が、自身の権力基盤を確立し、さらに拡大していく上で障害になると判断した可能性が考えられる。あるいは、過去の何らかの個人的な遺恨があったのかもしれない。
しかしながら、 1 が指摘するように、この謀殺が「何の理由づけもせず」に行われたとすれば、それは長繁の致命的な政治的失策であったと言わざるを得ない。この行為は、当時の越前における複雑な勢力バランス、とりわけ無視できない力を持っていた一向一揆勢力との関係性を全く考慮しなかった結果と言えるだろう。魚住景固自身が一向一揆勢力と何らかの連携を持っていたか、あるいは彼らに一定の信望を得ていた可能性も否定できない。そうでなくとも、長繁の行為があまりにも理不尽で暴虐的であったため、一揆勢がこれを好機と捉えたか、あるいは義憤から長繁排除へと動いた可能性も考えられる。
結果として、魚住景固の死は、直接的な意図はなくとも、越前における織田政権の支配体制の脆弱さを露呈させ、さらなる混乱、すなわち大規模な一向一揆の蜂起と、その首謀者である富田長繁自身の滅亡という事態を引き起こす重要な引き金となった。一人の武将の非業の死が、その地域の政治状況を大きく揺るがし、歴史の展開に少なからぬ影響を与えた事例として、記憶されるべきであろう。
結論
一、魚住景固の生涯とその歴史的評価
魚住景固の生涯を総括すると、彼は播磨の名門赤松氏の血を引く家系に生まれながらも、戦国乱世の流動性の中で曾祖父の代に越前へ移り、朝倉氏の家臣としてその能力を発揮した人物であった。奉行人として行政・司法の分野で主家を支え、また武将としては姉川の戦いをはじめとする数々の戦陣に臨み、文武両道にわたる活動を見せた。主家である朝倉氏が織田信長によって滅ぼされるという時代の大きな転換点においては、信長に帰順するという現実的な選択をしたが、その直後、同じく元朝倉家臣であった富田長繁の謀略によって、二人の息子と共に非業の最期を遂げた。
彼の生涯は、主家への忠誠、自身の能力による立身、そして時代の変化への対応といった、戦国武将に共通する生き様を示す一方で、同僚の裏切りという予測不可能な要因によって志半ばで命を落とすという、戦国時代の過酷さと悲運をも体現している。史料から窺える彼の行政能力や一定の軍事指揮能力は評価されるべきであるが、その死が図らずも越前における新たな混乱の引き金となり、結果的に地域の勢力図を一時的に塗り替える一因となった点は、歴史の皮肉と言えるかもしれない。
二、戦国乱世を生きた一武将の軌跡
魚住景固の人生は、個人の能力や忠誠心だけでは必ずしも生き残りが保証されなかった戦国時代の厳しさ、そして武士社会における人間関係の複雑さや、時には裏切りも辞さない非情さを如実に物語っている。彼の存在は、歴史の表舞台で華々しく活躍した著名な大名や、天下分け目の合戦の陰に埋もれがちな、数多の地方武将たちの生と死、そして彼らが織りなした地域史の重要性を再認識させる。
しかしながら、魚住景固に関する現存する史料は断片的であり、彼の人物像の細部や、具体的な思考、行動原理の全てを詳細に解明するには限界がある。特に、富田長繁との間に具体的にどのような確執が存在したのか、なぜ長繁が景固の視点からは「理由なく」とも見える形で彼を殺害するに至ったのか、その直接的な動機や背景を伝える一次史料は乏しいのが現状である。
これは、歴史記録がしばしば勝者や中央政権の視点から編纂・保存される傾向があり、地方の武将、とりわけ敗者となったり非業の死を遂げたりした人物については、その詳細な記録が欠落しやすいという、歴史学研究における一般的な課題を反映していると言える 11 。景固の場合、彼の死が結果的に富田長繁の失脚という比較的大きな事件に繋がったため、その「結果」から遡る形で彼の存在がある程度記録された側面も考えられる。
したがって、魚住景固の歴史的評価は、現存する限られた史料に基づいて慎重に行う必要があり、不明な点は不明として残さざるを得ない。これは、彼のような立場にあった多くの中堅・地方武将に共通する歴史的評価の難しさであり、今後の新たな史料の発見や研究の進展によって、その人物像がより鮮明になる可能性を秘めていると言えるだろう。魚住景固の生涯は、戦国という時代の一断面を切り取る貴重な事例として、今後も研究されるべき対象である。
補遺
一、同姓の人物との比較検討(特に播磨魚住氏との関係性の再確認)
本報告書は越前朝倉氏に仕えた魚住景固に焦点を当てて論を進めてきたが、既述の通り、播磨国にも「魚住氏」を名乗る一族が存在した。特に、三木合戦において別所長治方として活躍し、羽柴秀吉軍を相手に兵糧輸送などで重要な役割を果たした魚住頼治(よりはる)は、播磨魚住氏の代表的な人物として知られている 4 。
播磨の魚住氏もまた、景固の家系と同様に赤松氏の庶流と伝えられており 5 、この共通の出自が、後世の研究や地域の伝承において両者を混同させる一因となっている可能性は否定できない。しかしながら、提供された資料群からは、越前の魚住景固と播磨の魚住頼治(あるいはその他の播磨魚住氏の人物)との間に、戦国期において直接的な血縁関係や具体的な交流があったことを示す明確な証拠は見出すことができなかった。景固の家系が曾祖父・景貞の代に越前へ移り、朝倉氏家臣団の一翼を担う道を歩んだのに対し、頼治らに代表される播磨魚住氏は、播磨の地に残り、赤松氏や別所氏といった播磨の諸勢力との関わりの中で独自の歴史を刻んだ。両者は、同じ「魚住」の姓と赤松氏庶流という共通のルーツを持ちながらも、それぞれ異なる地域で、異なる主君の下、戦国乱世を生きた別個の存在として理解する必要がある。
二、「伊保城」に関する情報の整理
本報告書の調査準備段階において、魚住景固に関連する可能性のある城郭として「伊保城(いほじょう)」の名が浮上した経緯がある 2 。しかしながら、提供された資料群を詳細に検討した結果、越前の魚住景固が特定の「伊保城」の城主であった、あるいは何らかの形で深く関与したという明確な証拠は見出すことができなかった。
資料中に見られる「伊保城」の記述は、主に愛知県豊田市に所在したとされる城 21 や、兵庫県高砂市周辺に存在したとされる城砦 6 に関連するものであった。これらの城郭と、越前を活動の拠点とした魚住景固とを直接結びつける情報は、現時点の資料からは確認されていない。したがって、魚住景固と「伊保城」との関連性については、現状では不明と言わざるを得ず、将来的な新たな史料の発見や研究の進展に待つべき課題であると付言しておく。
三、主要参考文献一覧
本報告書の作成にあたり参照した主要な資料のIDは以下の通りである。
.1