本報告書は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、鳥居元忠(とりい もとただ)の生涯と事績、そしてその歴史的意義について詳細に分析することを目的とする。鳥居元忠は、徳川家康の天下統一事業において、特にその忠誠心によって知られ、その名は「三河武士の鑑」として後世に語り継がれている 1 。彼の生涯を貫く「忠義」という主題は、単に主君への奉公という枠を超え、家康との個人的な信頼関係に深く根差したものであった。その純粋かつ徹底した姿勢は、彼を戦国乱世における忠臣の典型たらしめた要因であり、その最期は関ヶ原の戦いの趨勢にも影響を与えたとされる 2 。本報告では、元忠の出自から徳川家への臣従、輝かしい戦歴、そして伏見城における壮絶な死守に至るまでを追い、その遺したものが後世にいかなる影響を与えたのかを明らかにする。
鳥居氏は、三河国(現在の愛知県東部)を発祥とし、代々、徳川家康の生家である松平氏に仕えた譜代の家臣であった 4 。特筆すべきは、鳥居氏が武士でありながら商才にも長け、相当な財力を有していた点である 4 。この経済力は、松平家、後の徳川家が幾多の困難に直面した際に、他の武門にはない独自の形で貢献することを可能にした。戦国時代において、経済力は軍事力の維持や外交政策の遂行に不可欠な要素であり、鳥居家が財政面で主家を支えたとすれば、それは武功とは異なる形での重要な貢献であり、家康の信頼を得る上で独自の強みとなったと考えられる。この「商才」と「財力」は、後の家康の人質時代における鳥居家の支援にも繋がる重要な背景であった。
鳥居元忠は、天文8年(1539年)、鳥居忠吉(とりい ただよし)の三男として誕生した 4 。通称は彦右衛門と称した 7 。長兄である忠宗が戦死し、次兄の本翁意伯(ほんおう いはく)が出家していたため、三男である元忠が鳥居家の家督を相続することとなった 4 。戦国時代においては家の存続が至上命題であり、兄たちの状況により元忠が若くして一家の当主としての責任を負うことになった事実は、彼のその後の強い責任感や主君への忠誠心の形成に少なからぬ影響を与えた可能性がある。予期せぬ形で当主としての自覚を促されたことが、後の奉公における覚悟の深さへと繋がったと推察される。
元忠が徳川家康(当時は竹千代、後に松平元信、元康と改名)に仕え始めたのは、元忠13歳の時であった。当時10歳の家康は、駿府(現在の静岡県静岡市)の今川義元のもとで人質生活を送っており、元忠も駿府にあって共に生活を送ったとされている 4 。この苦難の時期、鳥居家は人質である家康に対し、衣類などを送り支援を続けていた 4 。
家康の父、松平広忠の代からの家臣であった元忠の父、鳥居忠吉は、元忠に対し「君、君たらずとも、臣、臣たれ」(たとえ主君が主君としての道を踏み外したとしても、家臣は家臣としての道を違えてはならない)と常々教えていたという 4 。この教えは鳥居家の家訓として元忠の行動規範の根幹をなし、いかなる状況下でも主君への忠節を尽くすという彼の姿勢を決定づけた。主君の資質や状況に左右されない絶対的な忠誠を求めるこの家訓が幼少期から叩き込まれていたとすれば、それは個人的な感情を超え、家臣としての「道」を全うするという強い意志の表れであったと言えよう。
家康が最も無力で不安定な人質時代という困難な時期を共に過ごした経験は、元忠と家康の間に、単なる主従関係を超えた、兄弟にも似た極めて強固な個人的信頼関係を醸成したと考えられる 8 。家康が後に「お前の体でわしの足を温めてもろうたこともある」と語ったとされる逸話は、その親密さを象徴している 9 。この経験こそが、元忠の後の絶対的な忠誠心の源泉であり、伏見城での死をも覚悟した任務受諾に繋がったと言っても過言ではない。
また、鳥居家による人質時代の家康への経済的支援は、単なる温情に留まらず、松平家の将来性を見据えた一種の戦略的判断であった可能性も否定できない 4 。この「武士ながら商才のある一族」による早期の支援が成功したことで、鳥居家は徳川政権下において譜代中の譜代としての地位を確固たるものにしたとも考えられる。
表1:鳥居元忠 略年譜
年代(西暦) |
和暦 |
年齢 |
主要な出来事 |
典拠 |
1539年 |
天文8年 |
1歳 |
三河国にて鳥居忠吉の三男として誕生 |
4 |
1551年頃 |
天文20年頃 |
13歳 |
駿府にて人質時代の徳川家康(当時10歳)に近侍 |
4 |
1558年 |
永禄元年 |
20歳 |
徳川家康と共に寺部城攻めで初陣 |
9 |
1570年 |
元亀元年 |
32歳 |
姉川の戦いに参戦 |
7 |
1572年 |
元亀3年 |
34歳 |
父・忠吉死去に伴い家督相続。三方ヶ原の戦いに参戦 |
6 |
1575年 |
天正3年 |
37歳 |
長篠の戦いに参戦。諏訪原城の戦いで左足に銃弾を受け負傷 |
6 |
1582年 |
天正10年 |
44歳 |
天正壬午の乱において黒駒合戦で北条軍を破る |
11 |
1590年 |
天正18年 |
52歳 |
小田原征伐に従軍、岩槻城攻めに参加。家康の関東移封に伴い下総国矢作4万石の城主となる |
6 |
1600年7月~8月1日 |
慶長5年 |
62歳 |
関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いで籠城、奮戦の末に討死 |
5 |
表2:鳥居元忠 関係系図
鳥居元忠の武将としてのキャリアは、徳川家康のそれと軌を一にして始まった。永禄元年(1558年)、当時15歳の家康(元康)と18歳の元忠は、三河国寺部城(現在の愛知県豊田市)攻めで共に初陣を飾った 4 。以来、家康が出陣する主要な合戦には常にその側に元忠の姿があり、数々の武功を重ねていった。元亀元年(1570年)の姉川の戦い、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦い、そして天正3年(1575年)の長篠の戦いなど、徳川家にとって雌雄を決する重要な戦いに軒並み参戦している 7 。特に長篠の戦いにおいては、織田・徳川連合軍の勝利に貢献した馬防柵の設置を担当したと記録されている 12 。
天正3年(1575年)、武田氏との間で繰り広げられた遠江国諏訪原城(現在の静岡県島田市)を巡る攻防戦において、元忠は斥候部隊を率いて敵状視察の任に当たっていた際、左足に銃弾を受けるという重傷を負った 6 。この時の傷が原因で、元忠は終生、歩行に多少の障害を残すこととなった。この負傷は、彼の武将としての活動形態に影響を与えた可能性が考えられる。騎馬による機敏な動きや前線での直接的な戦闘指揮には制約が生じたであろう。しかし、身体的な不利を抱えながらも、その後も第一線で活躍し続けた事実は、彼の不屈の精神力と、家康が彼の能力、特に忠誠心や戦術眼、統率力を高く評価し続けていたことの証左と言える。あるいは、この負傷が彼をより防御戦術や拠点防衛といった分野での専門性を高める方向へと導いたのかもしれない。
天正10年(1582年)、織田信長が本能寺の変で横死すると、信長の支配下にあった旧武田領(甲斐・信濃など)を巡って、徳川、北条、上杉らの諸勢力が激しい争奪戦を繰り広げた(天正壬午の乱)。この混乱の中、元忠は甲斐国黒駒(現在の山梨県笛吹市御坂町)において、徳川本隊の背後を脅かそうとした北条氏忠・氏勝軍の別働隊に対し、わずかな兵力でこれを迎撃し、見事に撃破するという目覚ましい戦功を挙げた(黒駒合戦) 10 。この戦いで元忠は、5倍もの兵力差を覆しただけでなく、多くの敵将兵を討ち取り、北条軍の士気を著しく低下させた 11 。黒駒合戦における元忠の勝利は、単に一戦闘の勝利に留まらず、徳川氏による甲斐国掌握を決定づける上で極めて重要な転換点となり、家康の元忠に対する信頼を一層揺るぎないものにした 11 。この戦功が、後の下総矢作四万石という破格の知行に繋がった大きな要因の一つと考えられる。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原北条氏攻め(小田原征伐)が始まると、元忠も徳川軍の一翼を担い従軍した。この戦役において、元忠は武蔵国岩槻城(現在の埼玉県さいたま市岩槻区)攻めに参加し、ここでも戦功を挙げ、秀吉および家康双方から感状を送られたと伝えられている 6 。
小田原征伐後、家康が北条氏旧領の関東へ移封されると、元忠はこれまでの功績を賞され、下総国矢作(現在の千葉県香取市佐原地区)に四万石という大禄を与えられ、矢作城主となった 6 。この配置は、北に勢力を有する常陸国の佐竹氏や、さらにその先の東北地方の諸大名に対する備えとしての戦略的意味合いが強かったと見られている 12 。関東移封直後の徳川領は未だ安定しておらず、その北東方面の抑えとして元忠が配されたことは、彼が家康の関東支配体制の確立において軍事的に極めて重要な役割を担っていたことを示唆している。領主としての元忠は、慶長4年(1599年)には矢作領84か村において検地を実施しており 12 、単なる武将としてだけでなく、一地域の統治者としての側面も持ち合わせていたことがうかがえる。
豊臣秀吉の死後、五大老筆頭であった徳川家康の勢力は急速に拡大し、これに対して石田三成ら豊臣政権の官僚たちとの対立が次第に先鋭化していった 13 。慶長5年(1600年)、家康は会津の上杉景勝に謀反の疑いありとして、その討伐のため諸将を率いて大坂を発した。しかし家康は、自身が畿内を離れれば、石田三成が必ずや兵を挙げるであろうことを予期していた 1 。
家康の読み通り、三成らが挙兵した場合、その最初の攻撃目標となるのは、畿内における徳川方の重要拠点である伏見城(現在の京都市伏見区)であった。家康は、この死守すべき城の留守居役として、最も信頼する譜代の臣である鳥居元忠を指名した 1 。
慶長5年6月、家康が会津へ向けて伏見城を発つ前夜、城内において家康と元忠は水盃を交わしたと伝えられる。これが世に言う「最後の酒宴」である。この時、元忠は自らの死を覚悟しており、家康に対し「城を守る兵は多数は不要。殿は天下取りの戦にこそ兵をお使いくだされ。ここはそれがしの死に場所」といった趣旨を述べ、家康は涙ながらにこれまでの元忠の忠勤に感謝し、この困難な役目を託すことへの謝罪の言葉を伝えたとされる 1 。この逸話は、二人の間の主従を超えた深い信頼関係と、元忠の揺るぎない忠義の精神を象徴するものとして、後世にまで語り継がれている。
元忠が伏見城の守りを、自らの命と引き換えに家康の東上と反転の時間を稼ぐための「捨て石」と理解し、その役割を甘受したことは、彼が家康の天下取りという大局的な戦略を深く理解し、自らの使命を明確に認識していたことを示している 4 。これは単なる命令への服従ではなく、戦略目標を共有した上での能動的な自己犠牲であったと言えよう。主君が最も信頼する家臣に最も困難な任務を託し、その家臣が命を賭して応えるというこの出来事は、他の徳川家臣団に対しても強烈なメッセージとなり、忠誠心の模範を示し、来るべき決戦に向けての結束を高める効果があったと考えられる。
家康が東下すると、案の定、石田三成は毛利輝元を総大将に擁立し、宇喜多秀家、小早川秀秋、島津義弘ら西国の諸大名を糾合して挙兵した(西軍)。西軍はまず、徳川方の最前線拠点である伏見城に矛先を向け、総勢約四万とも言われる大軍でこれを包囲した 2 。
これに対し、伏見城を守る鳥居元忠の手勢は、わずか1800余名に過ぎなかった 3 。兵力差は実に20倍以上という、絶望的な状況であった。西軍からは幾度となく降伏勧告が送られたが、元忠はこれを断固として拒否した。また、西軍に与しながらも徳川方に内応の意図があったとされる島津義弘が援軍を申し出た際も、元忠は内通や情報漏洩を警戒し、これを断ったと伝えられている 11 。この判断は、兵力増強よりも内部結束と情報秘匿を優先し、時間を稼ぐという至上命題を貫徹するためのものであった。家康からは「伏見城には銃弾の蓄えは少ないが、金銀はいくらでもある。いざとなればそれを鋳つぶして弾丸にし、撃ち放せ」とまで言い置かれていたという逸話もあり 21 、元忠と城兵は文字通り決死の覚悟で抗戦した。
7月19日に始まった西軍の総攻撃に対し、元忠率いる籠城軍は奮戦し、10日以上にわたって西軍の猛攻を防ぎ続け、その進軍を大幅に遅らせた 2 。しかし、城兵の中に加わっていた甲賀衆の一部が西軍に内応し、城内の一角から火の手が上がった。これを機に西軍は城内へとなだれ込み、戦局は一気に悪化した 11 。
表3:伏見城の戦い 兵力比較と主要関係者
勢力 |
指揮官・主要武将 |
兵力 |
東軍 |
(守備側)鳥居元忠、松平家忠、内藤家長など |
約1,800名 |
(籠城側) |
|
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西軍 |
(攻撃側総大将格)石田三成、毛利輝元 |
約40,000名 |
(攻撃側) |
(主要部隊指揮官)宇喜多秀家、小早川秀秋、島津義弘、鍋島勝茂、長束正家、毛利秀元など |
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その他 |
鈴木重朝(雑賀孫市、元忠を討ち取ったとされる) |
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注:兵力については諸説あり、おおよその数を示す。
慶長5年8月1日、十数日間に及ぶ激戦の末、ついに伏見城は落城した 3 。城内が修羅場と化す中、家臣が元忠に自刃を勧めたところ、元忠は「名誉のためではない、家康様のために時を稼ぐのだ。最後まで戦え」と一喝し、兵を鼓舞し続けたという 11 。
元忠自身も満身創痍となりながら奮戦したが、最後は西軍の雑賀衆の頭領である鈴木重朝(通称、雑賀孫市)との一騎討ちの末に討ち取られたとも、あるいは自刃して鈴木重朝に首を渡したとも伝えられている 2 。享年62であった 7 。元忠と共に籠城した城兵の多くもまた、主将と運命を共にし、討ち死にするか自刃して果てた 3 。
元忠の最期は、単なる敗北ではなく、主君への忠義を貫徹するための壮烈な自己犠牲であり、当時の武士道精神を体現するものであった。後に、元忠が着用していた具足が鈴木重朝の手に渡り、重朝がそれを元忠の子・忠政に返還しようとしたところ、忠政がその志に感銘し逆に重朝に譲ったという逸話は 24 、元忠の戦いぶりが敵将にさえ深い感銘を与え、敵味方を超えた武士同士の敬意が存在したことを示唆している。
伏見城における元忠の決死の籠城戦は、約2週間にわたり西軍主力の足止めに成功した。これは、石田三成が当初描いていた、伏見城を早期に陥落させて速やかに東進し、会津から引き返してくる家康軍を挟撃するという戦略を大きく狂わせる結果となった 2 。この時間的猶予が、家康をして東国の諸将を再編し、関ヶ原で西軍を迎え撃つ態勢を整えることを可能にしたのであり、関ヶ原の戦いの勝敗に少なからぬ影響を与えたことは想像に難くない 2 。
伏見城落城の際、鳥居元忠をはじめとする多くの城兵が自刃、あるいは討ち死にし、その夥しい血で城内の床板が深紅に染まったと伝えられている 1 。これらの血染めの床板は、元忠らの忠義と壮絶な最期を後世に伝えるため、徳川家とゆかりの深い京都の養源院をはじめとするいくつかの寺院に移され、天井板として用いられた。これが今日「血天井」として知られるものである 1 。
特に養源院の血天井は有名であり、そこには元忠本人のものとされる人型の痕跡や、約380名に及ぶ武士たちの血痕が残るとされている 1 。血染めの床板を、人が踏みつけることのない天井に用いたのは、彼らの忠死に対する供養と敬意の表れであった 3 。養源院は、浅井長政の菩提を弔うためにその長女である淀殿によって創建されたが、後に落雷で焼失。その後、長政の三女であり徳川二代将軍秀忠の正室となったお江によって再建され、以降、徳川将軍家の菩提所の一つとなったという背景がある 28 。この徳川家にとって特別な意味を持つ場所に元忠たちの血天井を設けることは、家康への忠誠を象徴的に示し、その記憶を永く留める上で極めて効果的であった。血天井は単なる建築部材ではなく、歴史的事件の記憶を物理的に刻み込み、後世に伝えるための強力な「装置」として機能したのである。徳川家にとって、元忠の忠死は体制の正当性と武士の模範を示す上で極めて重要な物語であり、血天井はその物語性を視覚的かつ情動的に補強する役割を果たしたと言えよう。
鳥居元忠の忠死は、彼一代の武功としてだけでなく、その遺徳として鳥居家に永続的な恩恵をもたらした。元忠の嫡男である鳥居忠政は、父の輝かしい功績により徳川家康から厚遇を受けた。忠政は大坂の陣において江戸城の留守居役という要職を務め、その後、磐城平藩十万石を経て、最終的には出羽国山形藩二十二万石の大名へと昇進し、鳥居家は譜代大名の中でも屈指の家格を誇るに至った 12 。
しかし、その後の鳥居家の道程は必ずしも平坦ではなかった。忠政の子である鳥居忠恒の代になると、忠恒に嫡子がないまま病没したため、末期養子の禁に触れ、家は改易(所領没収)の危機に瀕した。通常であれば家名断絶となるところであったが、この時、幕府は鳥居元忠の伏見城における比類なき功績を考慮し、特例として忠恒の異母弟である忠春に信濃国高遠藩三万二千石を与え、鳥居家の家名存続を許した 12 。
さらに、忠春の子である鳥居忠則の代にも、家臣の不始末が原因で再び改易の危機に直面した。この時もまた、「先祖(元忠)の勲功」が幕府によって高く評価され、忠則の子である忠英に能登国下村藩一万石が与えられて家名が存続するという、異例の措置が取られた 12 。鳥居忠英はその後、近江国水口藩二万石、さらに下野国壬生藩三万石へと加増移封され、以降、鳥居家は壬生藩主として明治維新を迎えることとなる 25 。
鳥居家が二度にわたる改易の危機を乗り越え、家名を保ち続けることができたのは、ひとえに鳥居元忠の伏見城での忠死という絶大な「功績」が、徳川幕府によって永続的な価値を持つものと評価され続けたからに他ならない 12 。これは、元忠の忠義が個人の一代限りのものではなく、その子孫にまで恩恵をもたらす「家の宝」として幕府に認識されていたことを明確に示している。幕府が「忠義」という価値観を体制維持の根幹に据え、それを体現した家を特別扱いすることで、他の大名や旗本への模範としたという側面も看取できる。
鳥居元忠の遺したもののうち、興味深い点として、元禄赤穂事件で有名な赤穂藩筆頭家老・大石内蔵助良雄との血縁関係が挙げられる。元忠の子である鳥居忠勝の娘が、大石良雄の祖父にあたる大石良欽に嫁いでいる 6 。つまり、大石内蔵助は鳥居元忠の曾孫の婿にあたる。
この血縁関係は、直接的な歴史的因果関係を持つものではないかもしれないが、日本の「忠義」を象徴する二つの物語を結びつけるものとして、後世の人々の関心を引いた。「鳥居元忠の律儀で忠義の遺伝子は受け継がれました」という表現は 6 、情緒的な解釈に過ぎないかもしれないが、元忠の主君への絶対的な忠誠心と、大石内蔵助の主君の仇討ちという形で示された忠義とを、人々が重ね合わせて見た可能性を示唆している。形は違えど、自己を犠牲にして主君(あるいは主家の名誉)に尽くすという共通の精神性が、この血縁を通じてより一層際立って感じられたのかもしれない。
鳥居元忠の忠義と壮絶な最期は、後世の人々によって様々な形で顕彰され、語り継がれてきた。
元忠の墓所として最も知られるのは、京都市左京区にある浄土宗大本山百万遍知恩寺の塔頭である龍見院である 29 。伏見城落城後、元忠の首は三条河原あるいは大坂城京橋口に晒されたと伝えられるが、元忠と生前親交があった、あるいはその忠義に深く感銘を受けた京の呉服商・佐野四郎右衛門という人物が、夜陰に紛れて密かにその首を盗み出し、縁故のあった知恩寺に丁重に葬ったという逸話が残されている 29 。この佐野四郎右衛門の行動は、元忠の人徳や忠義が、武士階級のみならず商人層にまで感銘を与え、身分の違いを超えて敬慕されていた可能性を示すものであり、彼の人間的魅力やその行動が持つ普遍的な感動の力を物語っている。
栃木県下都賀郡壬生町には、鳥居元忠を祭神として祀る精忠神社が鎮座している 16 。この神社は、正徳2年(1712年)、鳥居氏が壬生藩主として入封した際に、藩祖元忠の遺徳を偲んで創建されたもので、当初は「御霊社」と称されていた 25 。
その後、寛政11年(1799年)には光格天皇から「精忠霊神」の神号を賜り、これを機に壬生城の本丸へ遷座された。さらに嘉永2年(1849年)、元忠の二百五十回忌にあたり、城の二の丸跡である現在地に移されたという経緯を持つ 25 。精忠神社の創建と変遷、特に天皇からの神号下賜は、元忠の忠義が鳥居家という一族の枠を超え、国家的なレベルでも高く評価され、公的な顕彰の対象となったことを示している。
神社の境内には「畳塚」と呼ばれる塚がある 25 。これは、元忠が伏見城で自刃した際に使用した血染めの畳を、江戸城から鳥居家へ下げ渡された後、明治時代になってこの地に埋めたものと伝えられている。この畳は、江戸時代には江戸城内の伏見櫓の階上に置かれ、登城する諸大名に対し、元忠の忠勤ぶりを偲ばせ、徳川家への忠誠を無言のうちに諭すための象徴として用いられていたという 25 。畳塚は、その忠義を象徴する遺物を神聖視し、後世に伝えるための具体的な装置として機能していると言えよう。
元忠の子孫たちは、各地の菩提寺において手厚くその霊を弔ってきた。嫡男である鳥居忠政は、江戸の駒込に江岸寺を開基し、鳥居家の江戸における菩提寺とした 30 。江岸寺には現在も忠政の供養塔が残っており、父祖への敬慕の念が代々受け継がれてきたことを示している。
鳥居元忠は、その生涯を通じて徳川家康への絶対的な忠誠を貫き、「三河武士の鑑」と称されるにふさわしい生き様を示した武将であった 1 。彼の評価と歴史的意義は、以下の諸点に集約される。
第一に、伏見城における壮絶な戦死は、単なる一武将の玉砕に留まらず、家康の天下取りにおける極めて重要な局面で戦略的な時間的猶予を生み出し、関ヶ原の戦いの勝利に間接的ながらも貢献した。これは、元忠の卓越した戦術的判断と、主君への忠義に殉じる自己犠牲の精神の賜物であったと言える。
第二に、元忠の示した比類なき忠義は、彼の死後も鳥居家の家名存続に決定的な影響を与え続けた。二度にわたる改易の危機に際しても、幕府は元忠の功績を最大限に評価し、特例をもって家名の存続を許した。これは、徳川幕府の治世において、忠誠という価値がいかに重要視され、その理想像として元忠が長く語り継がれたかを物語っている。
第三に、元忠の記憶は、京都の養源院などに残る「血天井」や、栃木県壬生町の精忠神社、各地の墓所といった物理的な形で現代にも伝えられ、その壮烈な生き様と忠誠心は、時代を超えて多くの人々に感銘を与え続けている。
同時代の史料、例えば『徳川実紀』や『三河物語』などにおける元忠に関する記述は、彼が生きた時代の武士の価値観や行動様式を理解する上で重要である 9 。提供された資料の範囲では、元忠個人への直接的かつ詳細な評価を網羅的に抽出するには限界があるものの、例えば家康との最後の会話に関する記述などは、元忠の忠義と覚悟を伝えるものとして、後世の編纂物である『徳川実紀』の性格を反映している可能性がある 9 。これらの史料は、元忠のような武士がどのように行動し、同時代あるいは後世にどのように評価されたかを考察する上で、貴重な背景情報を提供する。
総じて、鳥居元忠は、戦国乱世から江戸時代初期へと移行する激動の時代において、一人の武将が貫いた「忠義」という理念がいかに大きな意味を持ち、歴史の展開に影響を与えうるかを示す顕著な事例である。彼の生涯は、日本史における忠誠のあり方を考える上で、今なお多くの示唆を与えてくれると言えよう。