鳥羽監物
鳥羽監物は、志摩の海洋領主・鳥羽橘氏の当主。九鬼嘉隆に降伏し、娘を嫁がせることで一族の存続を図る。鳥羽湊を拠点に経済力を築き、九鬼氏の家臣として鳥羽城の築城に貢献。
戦国期志摩の海洋領主、鳥羽監物の実像 ― 橘氏の興亡と九鬼氏への統合
序章:志摩の海に生きた武将、鳥羽監物をめぐる謎
本報告書は、日本の戦国時代に志摩国を拠点とした武将「鳥羽監物」について、現存する史料や地域の伝承を網羅的に調査・分析し、その生涯と一族の興亡を徹底的に解明することを目的とする。志摩水軍の一翼を担い、鳥羽城主としてその名を歴史に留めるこの人物は、多くの謎に包まれている。本報告書では、まず人物の特定という根本的な問題から始め、一族の出自、海洋領主としての活動、そして織田信長、九鬼嘉隆といった時代の覇者がもたらした激動の中で下した決断と、その後の運命までを多角的な視点から描き出す。
調査の出発点となるのは、「鳥羽監物」という呼称そのものが孕む複雑さである。この名は特定の一個人を指すのか、あるいは一族の当主が代々襲名した名跡なのか、史料によって記述が錯綜している。具体的には、鳥羽の領主として「橘宗忠(たちばな むねただ)」という実名が複数の記録に見られる一方で 1 、その父として「橘成忠(たちばな なりただ/しげただ)」の名も伝わっている 5 。さらに官途名においても、「監物(けんもつ)」と「主水(もんど)」という二つの呼称が確認される 3 。
「監物」とは、律令制において中務省に属し、諸官庁の倉庫の鍵を管理し出納を監察する役職であった 7 。一方、「主水」は主水司(しゅすいし、もんどのつかさ)の官職で、宮中の飲料水などを司る役所である 9 。これらは共に武家が受領する官途名として使用されたが、同一人物、あるいは近しい一族に対して複数の呼称が混在している状況は、人物像を特定する上での大きな障壁となる。特に、橘宗忠とその父・成忠の事績が、後世に編纂された地誌や記録の中で混同、あるいは集約されてしまった可能性は極めて高い 5 。
この人物の不確定性こそが、本調査の核心である。地方の小領主の記録は、中央の権力者が残した歴史書ほど体系的に整備されてはいない。口伝や断片的な記録が、後代の編纂過程で一つの物語にまとめられる際、しばしば情報の混淆が生じる。したがって、本報告書の価値は、単に「鳥羽監物とは橘宗忠である」と短絡的に結論付けることにはない。むしろ、なぜこのような呼称の混乱が生じたのかという歴史記録の生成プロセスそのものを解き明かし、父子の活動を可能な限り丹念に切り分け、再構築することにある。これにより、「鳥羽監物」という個人を超え、「戦国期の鳥羽を支配した橘氏の当主」という、より大きな枠組みでその実像に迫ることが可能となる。本報告書は、このアプローチに基づき、志摩の海に生きた一族の物語を紐解いていく。
第一章:鳥羽橘氏の源流と志摩への土着
鳥羽監物こと鳥羽橘氏の歴史を理解するためには、その一族が持つ特異な出自と、彼らが根を下ろした志摩国鳥羽という土地の地政学的な重要性をまず把握する必要がある。彼らは単なる地方の土豪ではなく、由緒ある公家の血を引くという伝承を背景に持つ、稀有な存在であった。
公家から武士へ ― 橘氏の壮大な歴史
橘氏は、その源流を辿ると奈良時代にまで遡る、極めて高貴な氏族である。和銅元年(708年)、元明天皇が長年朝廷に仕えた女官・県犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ)の功績を称え、杯に浮かんだ橘の実になぞらえて「橘宿禰(たちばなのすくね)」の姓を与えたのがその始まりとされる 13 。三千代の子である橘諸兄(たちばなのもろえ)は、聖武天皇の治世下で右大臣、左大臣を歴任し、政権の中枢で権勢を振るった 15 。このように、橘氏は藤原氏と並び立つほどの栄華を誇った名門公家であった。
しかし、平安時代に入り藤原氏との権力闘争に敗れると、橘氏は次第に中央政界での影響力を失っていく。平安時代後期以降、院政の開始と武士の台頭という社会の大きな変動の中で、一族の一部は地方へ下り、在地領主として武士化の道を歩んだ 13 。伊予国(現在の愛媛県)を拠点に瀬戸内海で水軍として活動した例や 18 、各地で国司や荘官として土着していった分流が存在する。鳥羽橘氏もまた、この壮大な歴史の流れの中で、志摩の地に根を下ろした一族であったと考えられる。
志摩国への土着と鳥羽の地政学的重要性
鳥羽橘氏が志摩国鳥羽の地に定着したのは、保元年間(1156年~1159年)頃と伝わる 1 。彼らがこの地に築いた居館は「鳥羽殿」と呼ばれ、後の戦国時代に九鬼嘉隆が築く鳥羽城の直接的な前身となった 1 。
彼らが拠点とした志摩国は、古代より特別な意味を持つ土地であった。ここは「御食国(みけつくに)」と呼ばれ、鮑や海藻といった豊かな海の幸を朝廷や伊勢神宮に贄(にえ)として献上する役割を担っていた 21 。特に伊勢神宮との関係は深く、国内の多くの土地が神宮の所領(御厨)であった 22 。このような「聖なる空間」としての性格を持つ土地において、領主として君臨するためには、単なる武力だけでなく、その支配を正当化する権威が求められた。
ここに、橘氏が持つ「出自」の重要性が浮かび上がる。戦国時代の地方領主の多くは、その出自が不明であるか、あるいは源平藤橘といった名門に自称で連なる者が少なくない。その中で、鳥羽橘氏は実際に由緒ある公家・橘氏の末裔であるという強い伝承を持っていた。この由緒正しい「橘」という姓は、他の在地領主、特に「海賊衆」と一括りにされがちな勢力との明確な差別化を図る上で、極めて有効な「象徴的資本」として機能したと考えられる。伊勢神宮や中央の権威と対峙する際にも、彼らの高貴な出自は、その地位を有利にしたであろう。彼らが単なる海のならず者ではなく、敬意を込めて「鳥羽殿」と呼ばれた背景には、この血統が大きく影響していたと推察される 3 。
さらに、鳥羽は地政学的にも絶好の地であった。リアス式海岸が発達した志摩半島に位置する鳥羽湊は、天然の良港であり、伊勢湾と外洋(熊野灘)を結ぶ海上交通の結節点であった 28 。畿内と東国、あるいは南海を結ぶ交易船が頻繁に行き交い、中世を通じて経済的な要衝として繁栄した 30 。この港を支配することは、莫大な富と情報を手中に収めることを意味した。鳥羽橘氏は、この地政学的な優位性を最大限に活用し、志摩の海に独自の勢力圏を築き上げていくことになる。
第二章:海洋領主としての権勢 ― 志摩十三地頭と鳥羽湊の支配
戦国時代の鳥羽橘氏は、単なる土地の領主ではなく、海を舞台に活動する「海洋領主」としての性格を色濃く持っていた。彼らの権力は、志摩の複雑な政治情勢と、鳥羽湊がもたらす経済的利益によって支えられていた。
戦国期の海洋領主(水軍)という存在
一般に「水軍」や「海賊」と呼ばれる戦国期の海上勢力は、単に戦闘を行う軍事集団ではなかった。彼らは特定の海域(航路)を自らの「ナワバリ」とし、そこを通過する船の安全を保障する警固活動、海上輸送を担う海運業、そして時には通行料(帆別銭など)を徴収したり、敵対勢力の船を襲撃する海賊行為を行ったりすることで、独立した経済圏を形成する「海洋領主」であった 28 。彼らの支配の根幹は、陸の「所領(石高)」ではなく、海の「航路」と「港」にあった。その活動を支えたのは、大型で戦闘指揮所としての機能も持つ「安宅船(あたけぶね)」、機動力に優れた中型の「関船(せきぶね)」、そして偵察や伝令に使われた小型の「小早(こばや)」といった、用途に応じた軍船であった 33 。鳥羽橘氏もまた、こうした海洋領主の一角を占める存在だったのである。
志摩十三地頭の分立体制
戦国期の志摩国は、織田信長や豊臣秀吉のような強力な戦国大名による一元的な支配が及んでおらず、13の小規模な在地領主(地頭)が割拠する、さながら群雄割拠の状態にあった 28 。彼らは「志摩十三地頭」と総称され、互いに同盟を結んだり、抗争を繰り返したりしながら、微妙なパワーバランスの上に成り立っていた。鳥羽橘氏も、この十三地頭の一員として、志摩の政治情勢の中で重要な役割を担っていた。
九鬼嘉隆が織田信長の後ろ盾を得て志摩統一に乗り出した際の、各地頭の動向は以下の表の通りである。この表は、鳥羽橘氏が置かれていた極めて厳しい政治的環境を浮き彫りにする。
地頭家 |
本拠地(推定) |
九鬼嘉隆台頭時の動向 |
典拠 |
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鳥羽氏(橘氏) |
鳥羽 |
降伏し、婚姻同盟を結ぶ |
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1 |
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九鬼氏 |
田城、波切 |
織田信長と結び、志摩統一を主導 |
36 |
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小浜氏 |
小浜 |
九鬼嘉隆に攻められ滅亡、あるいは逃亡 |
36 |
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浦氏 |
今浦 |
九鬼嘉隆に攻められ当主討死、滅亡 |
36 |
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安楽島氏 |
安楽島 |
浦氏滅亡後、九鬼氏に降伏 |
36 |
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相差氏(大差) |
相差 |
浦氏滅亡後、九鬼氏に降伏 |
36 |
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和具氏(青山氏) |
和具 |
越賀氏らと連合して抵抗するも、後に降伏 |
36 |
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越賀氏 |
越賀 |
和具氏らと連合して抵抗するも、後に降伏 |
36 |
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的矢氏 |
的矢 |
和具氏らと連合して抵抗するも、後に降伏(一説に早期に滅亡) |
36 |
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甲賀氏(武田氏) |
甲賀 |
和具氏らと連合して抵抗するも、後に降伏 |
36 |
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千賀氏 |
千賀 |
九鬼氏に敗れ、知多半島へ逃亡 |
36 |
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三浦氏 |
- |
九鬼氏への臣従を拒み、織田信雄を頼り志摩を離れる |
36 |
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国府氏 |
国府 |
三浦氏に吸収されたとされる |
36 |
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田城氏 |
田城 |
九鬼氏の本拠地の一つ |
36 |
この表が示すように、九鬼氏の侵攻に対して多くの地頭が滅亡、逃亡、あるいは抵抗の末に屈するという過酷な運命を辿った。その中で鳥羽橘氏が選択した「降伏と婚姻」という道は、彼らの卓越した政治的判断と生存戦略の結果であったことが窺える。
鳥羽湊の支配と経済的基盤
鳥羽橘氏の権力と独立性を支えた最大の基盤は、鳥羽湊という港湾都市の支配にあった。彼らの支配形態は、土地からの年貢に依存する一般的な封建領主とは異なり、むしろ堺や博多のような自治都市の権益構造に近い、「港湾都市国家」的な性格を帯びていた。
その具体的な証拠が、江戸時代の地誌『志陽略志』に残された記録である。これによれば、橘宗忠は鳥羽湾を見下ろす日和山(ひよりやま)に「取手山砦(とりでやまとりで)」と呼ばれる城砦を築き、そこを拠点として鳥羽湊に出入りする船から「関銭(せきせん)」、すなわち通行料を徴収していた 5 。この砦は、航行する船を監視し、関銭を強制的に徴収するための軍事施設であり、その遺構の一部は現在も日和山の遊歩道沿いに確認することができる 40 。
この関銭徴収権こそが、鳥羽橘氏の経済力と軍事力の源泉であった。彼らはこの収益によって軍船を維持し、兵を養い、志摩十三地頭の一角として他の勢力と渡り合うことができたのである。彼らの政治行動は、農地を拡大することよりも、鳥羽湊の交易権益と、そこに至る海上交通路の安全を確保することを最優先したと考えられる。この港湾領主としての性格が、後の九鬼氏への降伏という、土地に固執しない柔軟な決断を可能にした一因とも言えるだろう。
第三章:伊勢国司北畠氏の支配下での動向
戦国中期の志摩国は、在地領主である十三地頭が割拠する一方で、隣国伊勢の強大な勢力である伊勢国司・北畠氏の影響を強く受けていた。鳥羽橘氏の動向もまた、この北畠氏との関係性によって大きく規定されていた。
南伊勢の雄、北畠氏の勢力
北畠氏は、南北朝時代に南朝方の重鎮として伊勢に根を下ろした公家出身の武将であり、室町時代を通じて伊勢国司の職を世襲し、南伊勢(現在の三重県南部)に絶大な権力を誇っていた 36 。特に、鳥羽橘氏が活動した16世紀中頃は、剣豪としても名高く「槍働き日本一」と称された北畠具教(きたばたけ とものり)が当主の時代であり、その勢力は最盛期を迎えていた 36 。
北畠氏は、その勢力圏を拡大すべく、かねてより志摩国への影響力強化を画策していた。志摩の在地領主たちを自らの支配下に組み込むため、時には援助を与え、時には軍事的に介入した。史料によれば、北畠晴具(具教の父)の時代には、鳥羽城を攻撃して手中に収め、一時的に志摩全土を支配下に置いたことさえあったと記されている 36 。また、九鬼嘉隆が台頭する以前、志摩の地頭たちが連合して九鬼氏を攻撃した際には、北畠具教がその後ろ盾となっていた 44 。これは、北畠氏が志摩の政治情勢に深く関与し、自らの意に沿う勢力を支援することで間接的な支配を試みていたことを示している。
橘氏の臣従と「鳥羽殿」の称号
このような状況下で、鳥羽橘氏は北畠氏に臣従する道を選んだ。永正年間(1504年~1521年)、橘宗忠(あるいはその父祖)は、当時の伊勢国司であった北畠材親(きたばたけ きちか、具教の祖父)の配下に入ったと伝えられる 3 。
この臣従は、橘氏にとって大きな利益をもたらした。北畠氏の権威を背景とすることで、彼らは志摩二郡(答志郡・英虞郡)における支配権を公式に安堵され、他の地頭たちとは一線を画す特別な地位を確立したのである。その証として、彼らは「鳥羽殿」という敬称で呼ばれるようになった 3 。これは、橘氏が単なる在地領主ではなく、伊勢国司という公的な権力構造に組み込まれた、格上の存在として認識されていたことを示唆している。
この関係は、一方的な支配・被支配の関係というよりは、むしろ相互の利益に基づいた戦略的な提携であったと分析できる。北畠氏にとっては、鳥羽橘氏を従えることで、志摩の海の玄関口である鳥羽湊へのアクセスを確保し、水軍力を手に入れることができる。一方、橘氏にとっては、南伊勢の最大勢力である北畠氏という強力な後ろ盾を得ることで、他の地頭との抗争を有利に進め、自らの支配を安定させることができた。
しかし、この北畠氏との強固な結びつきは、やがて時代の変化とともに、橘氏の存続を脅かす最大の政治的リスクへと変貌することになる。かつては彼らの地位を保証した強力な後ろ盾が、織田信長という新たな覇者の登場によって、逆に彼らを窮地に追い込む「足枷」となったのである。信長が伊勢侵攻を開始した時、その最大の標的は、まさしく北畠氏であった 47 。信長の後ろ盾を得た九鬼嘉隆から見れば、北畠氏の与党である鳥羽橘氏は、紛れもなく打倒すべき敵対勢力と見なされた。かつての「強み」が「弱み」へと転化する、この歴史のダイナミズムこそが、鳥羽橘氏が直面した苦境の核心だったのである。
第四章:時代の奔流 ― 織田信長と九鬼嘉隆の志摩侵攻
16世紀後半、尾張から急速に勢力を拡大した織田信長の登場は、日本の政治地図を根底から塗り替えた。その影響は志摩の海にも及び、鳥羽橘氏の運命を大きく揺るがすことになる。信長という中央の巨大な権力と結びついた一人の男、九鬼嘉隆の台頭が、志摩の旧来の秩序を暴力的に解体していったのである。
新興勢力・九鬼嘉隆の台頭
九鬼嘉隆(くき よしたか)は、もとは鳥羽橘氏と同じく志摩十三地頭の一人に過ぎなかった 36 。彼は志摩の覇権をめぐり、北畠氏の支援を受けた他の地頭たちとの抗争に敗れ、一時は本拠地の田城城を追われる憂き目に遭う 37 。志摩から逃れた嘉隆は、信長の重臣であった滝川一益(たきがわ かずます)の仲介を経て、天下布武を掲げる織田信長に仕えることになった 45 。
この出会いが、嘉隆と志摩の運命を決定づけた。信長という、それまでの地方勢力とは比較にならない圧倒的な軍事力、経済力、そして政治的権威を後ろ盾に得たことで、嘉隆は一介の在地領主から、信長の国家戦略を担う方面軍司令官へと変貌を遂げた。
織田信長の伊勢・志摩戦略
信長の天下統一事業において、伊勢・志摩を平定することは、極めて重要な戦略的意味を持っていた。当時、信長は畿内における最大の抵抗勢力であった大坂の石山本願寺と、10年以上にわたる激しい戦争(石山合戦)を繰り広げていた。石山本願寺は、西国の雄・毛利氏からの海上補給路によって支えられており、この補給を断つことが戦いの帰趨を決する鍵であった 35 。そのためには、伊勢湾の制海権を掌握し、毛利水軍の東進を阻む強力な水軍が必要不可欠だったのである。
九鬼嘉隆は、まさにこの信長の戦略を実現するための「水軍大将」として抜擢された。信長は嘉隆に、当時最新鋭の兵器であった大砲を搭載し、船体を鉄板で装甲した巨大軍船「鉄甲船」の建造を命じた 35 。嘉隆の志摩統一は、彼個人の野心によるものだけではなく、信長の壮大な国家戦略の一環として推進されたものであった 1 。
志摩平定戦の展開
信長の絶大な支援を受けた九鬼嘉隆は、かつて自分を追放した志摩の地頭たちへの復讐戦を開始する。その戦いは、旧来の地頭同士の小競り合いとは次元の異なる、一方的な制圧戦であった。
嘉隆はまず、小浜城の小浜氏、今浦城の浦氏を攻撃し、これを攻め滅ぼした 36 。この電撃的な勝利に恐れをなした安楽島氏や相差氏らは、戦わずして九鬼氏の軍門に降った 36 。これに対し、和具の青山氏、越賀氏、的矢氏、甲賀氏らは連合して抵抗を試みたが、嘉隆の圧倒的な軍事力の前に次々と打ち破られ、降伏を余儀なくされた 36 。
この一連の戦いは、戦国時代における「戦争の質の変化」を象徴する出来事であった。それまでの志摩の争いは、地頭同士の限定的な紛争であり、その背後には北畠氏という地域の有力者が介在する、いわば中世的な勢力均衡の論理で動いていた。しかし、嘉隆がもたらした戦いは、それらとは根本的に異なっていた。彼の背後には、天下統一という明確な政治目標を掲げた中央集権的権力があり、鉄甲船や組織的な鉄砲運用 44 といった、旧来の在地領主の戦術を凌駕する「近世的な暴力」が存在した。
鳥羽橘氏が直面したのは、もはや隣の領主との勢力争いではなかった。それは、中世的な在地領主の論理が、近世的な統一権力の論理によって駆逐される、時代の大きな転換点そのものであった。この「質の異なる暴力」との遭遇が、鳥羽橘氏に、かつての主君であった北畠氏との関係を清算し、新たな時代の覇者と向き合うという、過酷な決断を迫ることになったのである。
第五章:鳥羽城の攻防と橘宗忠の決断
志摩の旧勢力が九鬼嘉隆の前に次々と屈していく中、鳥羽湊という最大の戦略拠点を支配する鳥羽橘氏は、一族の存亡を賭けた重大な岐路に立たされた。彼らが下した決断は、単なる降伏ではなく、時代の変化に適応するための、したたかな生存戦略であった。
降伏への道
永禄11年(1568年)、九鬼嘉隆の軍勢が鳥羽に迫ると、橘氏は籠城して徹底抗戦する道を選ばなかった。史料によれば、橘宗忠(あるいはその父・成忠)は、嘉隆の軍門に降ることを決断したとされる 2 。
注目すべきは、その降伏の形態である。それは、城を明け渡して領地を追われるという一方的な敗北ではなく、「娘(一説には妹)を人質として嘉隆に差し出し、その妻とさせる」という婚姻を通じた同盟の締結であった 1 。この婚姻により、橘宗忠と九鬼嘉隆は義理の親子(あるいは義兄弟)という関係となり、両家は血縁によって結ばれることになった。
この婚姻同盟は、双方にとって極めて合理的な政治的取引であった。橘氏にとっては、一族の血脈を新たな支配者層に送り込むことで、家の存続と安泰を保証する究極の安全保障策であった。滅亡か服従かという二者択一を迫られる中で、彼らは自らの血を未来に繋ぐという第三の道を見出したのである。
一方、九鬼嘉隆にとっても、この縁組は大きな利益をもたらした。志摩随一の良港である鳥羽を、無用な流血や遺恨を残すことなく、円滑に手に入れることができた。さらに、鳥羽の地に深く根を下ろした旧領主・橘氏の権威を、婚姻によって取り込むことで、自らの支配の正当性を在地社会に示威し、統治を安定させる効果も期待できた。まさに、武力と政略を巧みに組み合わせた、嘉隆の現実的な判断であったと言える。
この決断がもたらした結果は、以下の家系図に集約される。橘氏の血は、九鬼氏を通じて近世大名家へと受け継がれ、歴史の表舞台に残り続けることになったのである。
関係性 |
人物 |
備考 |
鳥羽橘氏 |
橘 宗忠 |
鳥羽城主。九鬼嘉隆に降伏し、娘(妹)を嫁がせる。 |
↓(婚姻) |
|
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橘氏の女性 |
法輪院 (戒名) |
九鬼嘉隆の妻となる(正室格)。橘宗忠の娘または妹とされる。 |
九鬼氏 |
九鬼 嘉隆 |
志摩を統一。鳥羽藩の藩祖。 |
↓(子) |
|
|
鳥羽九鬼家 |
九鬼 守隆 |
嘉隆と橘氏女性の子。鳥羽藩初代藩主。 |
この家系図が示すように、橘氏の物語は滅亡では終わらなかった。彼らの決断は、中世的な独立領主としての地位を失う代償として、一族の血脈を近世大名家として存続させるという、大きな成果に繋がったのである。これは、橘宗忠の決断が、単なる軍事的敗北ではなく、自らの一族を新たな時代の秩序の中に再配置する「自己変革」であったことを物語っている。独立領主としての地位に固執して滅びる道を選ばず、近世的な大名家臣団の一員として生き残る道を選んだ、冷徹かつ現実的な政治判断の結果であった。
鳥羽城の明け渡しと九鬼氏の本拠地化
橘氏の降伏により、鳥羽の地は名実ともに九鬼氏のものとなった。九鬼嘉隆は、橘氏が代々居館を構えていた樋の山の地に、文禄3年(1594年)、近世的な城郭としての新たな鳥羽城を築城した 1 。
この新しい鳥羽城は、水軍の拠点として徹底的に特化した構造を持っていた。通常、城の大手門は陸側に設けられるが、鳥羽城は海に向かって大手門を開き、そこから直接軍船が出撃できる設計になっていた 1 。城の外堀には海水が引き込まれ、まさに海と一体化した要塞であった。この城の完成により、鳥羽は九鬼水軍の本拠地として、そして後の鳥羽藩の藩庁として、新たな歴史を歩み始めることになる。
第六章:九鬼家臣として、そして晩年
九鬼嘉隆への降伏と婚姻同盟の成立により、鳥羽橘氏の当主・橘宗忠は、独立した海洋領主から近世大名家の家臣へと、その立場を大きく変えることになった。彼の後半生は、新たな主君の下での奉公と、故郷・鳥羽での静かな晩年という二つの側面を持っていた。
九鬼家臣としての処遇
降伏後、橘宗忠は九鬼嘉隆の家臣団に組み込まれた 3 。両者は単なる主従ではなく、婚姻による義理の親族という特別な関係で結ばれていた 3 。
興味深い伝承として、宗忠は一時的に鳥羽の所領と引き換えに、嘉隆が織田信長から与えられていた摂津国野田・福島の知行地(七千石)を与えられたという記録がある 3 。これが事実であれば、戦国大名が服属させた旧領主を、その影響力が根強く残る本拠地から引き離すために用いた常套手段の一例と言える。新たな支配体制を安定させるための、極めて政治的な処遇であった。
故郷への帰還と信仰
しかし、宗忠は摂津の地に留まることはなく、やがて故郷である鳥羽に戻ったと伝えられる。帰郷した彼は、政治の表舞台から退き、鳥羽の地に「橘祥寺(きっしょうじ)」という寺院を建立して隠居生活を送ったとされる 3 。この寺の建立は、戦乱の世を生き抜いた自らの一族と、志摩統一の過程で失われた多くの命を弔うための、深い信仰心の発露であったと推察される。
最期と墓所
橘宗忠は、関ヶ原の戦いを経て世の中が大きく変わりつつあった慶長10年(1605年)にその生涯を閉じたと記録されている 4 。
彼の死後、その記憶は鳥羽の地に確かに刻まれた。鳥羽市内にある浄土宗の寺院・西念寺(さいねんじ)には、現在も「初代鳥羽城主 橘宗忠公」の墓碑が大切に祀られている 4 。この西念寺は、江戸時代に入り鳥羽藩主となった内藤家の菩提寺として知られているが 56 、それ以前の領主であった橘氏の墓碑が共に残されている点は極めて重要である。
この事実は、単に過去の領主が忘れ去られなかったという以上の意味を持つ。江戸時代の寺院は、幕府が定めた寺請制度のもとで、地域の戸籍管理や住民統制を担う行政機関の側面を持っていた 58 。同時に、地域の歴史を記録し、保存する文化的な拠点でもあった 62 。西念寺に橘宗忠の墓碑が維持された背景には、後の支配者である内藤氏が、自らの藩支配の正当性を構築する上で、初代領主である橘氏の記憶を意図的に保存し、自らがその正統な後継者であることを示そうとした政治的意図があった可能性が考えられる。
つまり、西念寺の境内は、橘氏、九鬼氏、そして内藤氏という、鳥羽を支配した歴代領主たちの記憶が重層的に積み重なった歴史的な空間なのである。そこに佇む橘宗忠の墓碑は、一個人の墓であると同時に、鳥羽という土地の歴史の厚みと、時代を超えて権力の正当性がどのように構築され、記憶されてきたかを物語る、貴重な物証と言えるだろう。
結論:歴史の潮流に消えた海洋領主 ― 鳥羽監物の実像とその後
本報告書を通じて行われた徹底的な調査と分析の結果、戦国時代の志摩に生きた武将「鳥羽監物」の実像は、単一の人物像ではなく、時代の激動の中で必死に生き抜いた一族の物語として浮かび上がってきた。
まず、「鳥羽監物」という呼称は、後世の記録の中で、父子の事績が集約されて形成された人物像である可能性が極めて高い。具体的には、官途名である「監物」を名乗った父・橘成忠と、その跡を継ぎ、「主水」を名乗りつつ九鬼氏への降伏という歴史的決断を下した子・橘宗忠、この二代にわたる領主の姿が「鳥羽監物」という象徴的な名前に集約されたものと結論付けられる。
歴史的評価として、鳥羽橘氏は、奈良時代の高貴な公家を源流に持ち、中世の動乱の中で志摩の地に土着し、鳥羽湊という海上交通の要衝を支配することで独自の勢力圏を築いた「海洋領主」であった。彼らは伊勢国司・北畠氏の権威を後ろ盾とすることで、志摩十三地頭の中でも特別な地位を確保し、巧みな政治力でその勢力を維持した。
しかし、織田信長に代表される、より強大で中央集権的な統一権力の登場という、抗いがたい時代の大きな潮流は、彼らの独立領主としての地位を奪い去った。信長の国家戦略と結びついた九鬼嘉隆の圧倒的な軍事力の前に、中世的な在地領主の論理はもはや通用しなかったのである。
だが、鳥羽橘氏の物語は、単なる敗北と滅亡の歴史ではない。当主・橘宗忠が下した「婚姻同盟による降伏」という決断は、一族の血脈を新たな支配者である九鬼氏に繋ぎ、その遺伝子を近世大名・鳥羽藩主家の中に残すという、したたかで先見性に満ちた生存戦略の成功例として高く評価できる。彼は、滅びゆく中世的領主の地位に固執することなく、自らを変革させ、新たな時代の秩序の中に一族の未来を託したのである。
鳥羽橘氏の興亡は、戦国時代という激動の時代において、数多の在地領主(国人)が経験した運命の縮図である。ある者は抵抗して歴史から姿を消し、ある者は新たな秩序に組み込まれて生き残った。鳥羽監物こと鳥羽橘一族の物語は、その一つの典型であり、極めて示唆に富んだ事例として歴史の中に位置づけられる。その軌跡は、歴史の勝者が残した華々しい記録の陰で、無数の領主たちが繰り広げた、必死の生存競争のリアルな姿を我々に力強く伝えてくれるのである。
引用文献
- 鳥羽城 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/chubu/toba.j/toba.j.html
- 鳥羽城跡 | なんとなく城跡巡り - FC2 https://siroatomeguri.blog.fc2.com/blog-entry-911.html
- 取手山砦(鳥羽主水砦) - ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/5022/pins/23066
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