鵜殿氏長に関する調査報告
序論:鵜殿氏長とその時代背景
本報告書の目的は、戦国時代から江戸時代初期にかけて生きた武将、鵜殿氏長(うどの うじなが)の生涯と、彼を取り巻く鵜殿一族の動向を、現存する史料に基づいて詳細に明らかにすることである。氏長は、今川家の有力家臣の子として生まれながらも、父の戦死、自身の捕囚、そして劇的な人質交換を経て、最終的には徳川家康に仕え旗本となった人物であり、その生涯は戦国乱世の激動を色濃く反映している。
氏長が生きた時代は、応仁の乱以降続く戦乱が日本各地で常態化し、下剋上が横行する一方で、新たな秩序形成の胎動も見られた時期である。特に彼が活動の拠点とした三河国は、東の今川氏、西の織田氏という二大勢力の狭間に位置し、常に緊張状態にあった。氏長の運命は、この今川氏の衰退と徳川氏の興隆という、戦国史における一大転換点と深く結びついている。
鵜殿氏関連略系図
鵜殿長善
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┌─────┴─────┐
鵜殿長将 (上ノ郷家) 鵜殿長存 (下ノ郷家)
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鵜殿長持 =============== 今川義元妹
| | (主君)
| 今川氏真
┌─┴────────┐
鵜殿長照 (上ノ郷家当主) 鵜殿長忠 (柏原家祖)
| (養女)
┌─┴───┐ 西郡局 === 徳川家康
鵜殿氏長 鵜殿氏次 | (主君・敵対後主君)
(旗本) (松平家忠家臣) 督姫 === 池田輝政
主な関連人物:
築山殿 (家康正室、今川義元姪)
松平信康 (家康嫡男)
亀姫 (家康長女)
注:上記系図は主要人物と関係性を示すための略系図である。
鵜殿氏長 関連年表
年代 (西暦)
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元号
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鵜殿氏長関連の出来事
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主要な歴史的出来事・関連人物の動向
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1549年
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天文18年
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鵜殿氏長、誕生
1
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1557年
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弘治3年
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父方の祖父・鵜殿長持、死去。父・鵜殿長照が家督継承
3
。
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1559年
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永禄2年
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父・鵜殿長照、今川義元により大高城城代に任じられる
3
。
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1560年
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永禄3年
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桶狭間の戦い。今川義元討死。松平元康(徳川家康)、岡崎城に帰還し独立
3
。
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1562年
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永禄5年
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2月、上ノ郷城落城。父・鵜殿長照討死。氏長・氏次兄弟、捕虜となる
3
。
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徳川家康、三河統一を進める。
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鵜殿兄弟と家康妻子(築山殿、信康、亀姫)の人質交換成立。兄弟は今川氏真のもとへ
3
。
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1565年
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永禄8年
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西郡局(鵜殿長忠養女)、家康の娘・督姫を出産
6
。
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1568年
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永禄11年
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12月、今川氏の没落を受け、徳川家康に仕官
5
。
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武田信玄による駿河侵攻。今川氏真、駿府を追われる。
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1590年
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天正18年
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弟・鵜殿氏次、松平家忠に仕官
7
。家康、関東移封。上ノ郷城廃城
4
。
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1600年
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慶長5年
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関ヶ原の戦い。弟・鵜殿氏次、伏見城の戦いで討死
5
。
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1603年
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慶長8年
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徳川家康、征夷大将軍となり江戸幕府開府。
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1624年
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寛永元年
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6月14日、鵜殿氏長、死去(76歳)
1
。
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江戸時代中期
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氏長の旗本家、4代目氏基の後に減封、その後嗣子なく断絶
9
。
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1. 鵜殿氏の淵源と上ノ郷鵜殿家
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鵜殿氏の起源と三河国への進出
鵜殿氏の出自については、本姓を藤原氏(藤原北家)とし、藤原実方の後裔を称するとされる
9
。諸説存在するものの、『鳥取藩史』所収の着座家伝によれば、紀伊国熊野別当であった湛増(たんぞう)の子が、同国新宮鵜殿村に居住したことを契機に鵜殿姓を名乗るようになったと伝えられている
9
。この地名に由来する鵜殿の姓は、彼らの一族のアイデンティティの根幹を成すものとなった。
その後、鵜殿氏は熊野別当家が古くから荘園を有していた三河国宝飯郡蒲郡(西郡)の地へと移り住んだ
9
。この三河の地において、鵜殿氏は土着の勢力として基盤を築き、やがて戦国時代の動乱を迎えることとなる。紀伊熊野という宗教的権威と結びついた地域から、東海道の要衝の一つである三河へと進出した背景には、一族の勢力拡大への意図や、中央政情の不安定さを避けて地方に新たな活路を求めたといった複合的な要因が推察される。この移住は、後に今川氏と織田氏という二大勢力の角逐の舞台となる三河国に根を下ろすことを意味し、鵜殿氏のその後の運命を大きく左右する第一歩であったと言えよう。
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上ノ郷鵜殿家と下ノ郷鵜殿家の分立
三河国に定着した鵜殿氏は、鵜殿長善(ながよし)の子の代に至り、長男の長将(ながまさ)が上ノ郷(かみのごう)を拠点とする上ノ郷家を、次男の長存(ちょうそん/ながあり)が下ノ郷(しものごう)を拠点とする下ノ郷家をそれぞれ興し、大きく二つの系統に分立した
6
。本報告書で詳述する鵜殿氏長は、このうち上ノ郷鵜殿家の嫡流にあたる人物である。
一族が複数の家系に分かれることは、勢力範囲の拡大や、戦乱の世におけるリスク分散の観点から、戦国時代の武家においてしばしば見られた現象である。上ノ郷・下ノ郷という地理的な区分は、それぞれの家が地域社会に深く根差した支配を展開していたことを示唆している。そして、この分立は、後の動乱期において両家が異なる政治的選択をする伏線ともなった。一方が特定の勢力と運命を共にし、もう一方が異なる勢力に与することで、結果的に鵜殿一族全体としての存続を図るという戦略的な側面も否定できない。
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上ノ郷鵜殿家の隆盛と今川氏との関係深化
上ノ郷鵜殿家は、長将の子である鵜殿長持(ながもち)の時代に、その運命を大きく左右する出来事を迎える。長持が駿河の戦国大名として勢威を誇った今川義元の妹を正室として迎えたのである
3
。この婚姻により、上ノ郷鵜殿家は今川家中で高い地位を獲得し、単なる国人領主から今川氏の有力姻戚へとその立場を飛躍的に向上させた。結果として、鵜殿氏は今川氏の三河進出における重要な橋頭堡としての役割を担うこととなり、東三河における今川方勢力の筆頭格と目されるに至った
3
。
鵜殿長持の治世下における上ノ郷鵜殿家の繁栄ぶりは、当時の文化人によっても記録されている。天文13年(1544年)、連歌師として名高い宗牧(そうぼく)が鵜殿氏の館を訪れた際、「世にかはらぬ年をへて繁昌」(鵜殿氏の治世は年月を経ても変わらず大いに栄えている)とその繁栄を称賛している
3
。この記録は、鵜殿氏が軍事力のみならず、文化的な側面においても一定の地位を築き、地域の中心的存在であったことを示している。
今川義元との姻戚関係は、上ノ郷鵜殿家にとって最大の栄誉であり、勢力拡大の強力な後ろ盾となった。しかし、それは同時に、今川氏の運命と一蓮托生となることをも意味していた。この強固な結びつきは、今川氏が三河支配を確実なものとするために、現地の有力国衆である鵜殿氏を深く取り込む戦略の一環であったと考えられる。鵜殿氏側もまた、今川という強大な後援者を得ることで、周辺の競合勢力に対する優位性を確保しようとしたのであり、戦国大名と国衆の間の相互依存関係を示す典型例と言える。この婚姻による地位向上が、結果として鵜殿長照(長持の子)をして桶狭間の戦い後も今川氏に忠誠を尽くさせ、徳川家康による上ノ郷城攻撃を招く直接的な原因となった。もしこの婚姻がなければ、鵜殿氏はより柔軟な外交戦略を取り得た可能性も否定できず、この一点が後の鵜殿家の悲劇的な運命を決定づけることになったのである。
2. 鵜殿氏長の父・鵜殿長照と桶狭間の戦い
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鵜殿長照の登場と大高城代
弘治3年(1557年)、上ノ郷鵜殿家の当主であった鵜殿長持が死去すると、その嫡男である鵜殿長照(ながてる)が家督を継承した
3
。長照は、父・長持が築いた今川氏との緊密な関係をそのまま引き継ぎ、今川義元に重用された武将であった。
永禄2年(1559年)、今川義元が尾張国の織田家から大高城(現在の愛知県名古屋市緑区)を奪取すると、長照はこの戦略的要衝の城代に任じられた
3
。大高城は、今川氏による尾張進出計画における最前線拠点であり、その守備を任されたという事実は、長照に対する義元の信頼がいかに厚かったかを示している。この抜擢は、鵜殿氏が今川家臣団の中でも特に高い評価を得ていたことの証左と言えるだろう。しかしながら、それは同時に、織田方との衝突の矢面に立つことを意味し、極めて危険かつ重責を伴う任務でもあった。
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桶狭間の戦いと大高城
永禄3年(1560年)5月、戦国史に名高い桶狭間の戦いが勃発する。その前哨戦において、鵜殿長照が守る大高城は織田軍によって包囲され、兵糧が欠乏する危機的状況に陥った。この絶体絶命の窮地を救ったのが、当時今川家の人質であった松平元康(後の徳川家康)であった。元康は巧みな戦略で織田軍の包囲を突破し、大高城への兵糧入れに成功する
3
。これにより、大高城は一時的に危機を脱し、今川軍が戦局を有利に進めるかと思われた。
しかし、同月19日、今川義元率いる本隊が桶狭間山で休息中に織田信長の奇襲を受け、義元自身が討死するという衝撃的な結末を迎える。総大将を失った今川軍は総崩れとなり、戦局は一変した。この歴史的敗戦の後も、鵜殿長照は今川家を見限ることなく、義元の子である今川氏真に引き続き仕えた
3
。
松平元康による大高城への兵糧入れは、後に天下を争うことになる家康と、その家康によって滅ぼされる運命にある鵜殿家の当主・長照が、一時的にではあれ協力関係にあったという、歴史の皮肉を示す興味深い出来事である。義元討死という今川家にとって未曾有の危機に際しても、長照が今川氏に留まった行動は、単なる主家への忠誠心の発露と見るだけでなく、今川家との深い姻戚関係や、これまでの厚遇に対する義理堅さの表れとも解釈できる。また、織田方への鞍替えが現実的に困難であったという側面も考慮すべきであろう。鵜殿氏の所領は今川領の東端に位置し、織田方への転身は即座に今川本国からの攻撃を招く危険性を孕んでいた。加えて、当時は松平元康も独立したばかりで、その将来性を見極めかねていた可能性も否定できない。こうした複雑な状況下での長照の選択は、後世から見れば今川氏の没落に殉じる道であったが、当時の武士の価値観においては「忠義の人」として評価されるべき行為であったのかもしれない
12
。この「忠義」という武士の倫理観が、結果として鵜殿上ノ郷家の運命を大きく左右することになったのである。
3. 上ノ郷城の戦いと鵜殿氏長の捕囚
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上ノ郷城の戦略的重要性
鵜殿氏代々の居城である上ノ郷城(現在の愛知県蒲郡市神ノ郷町)は、標高約52メートルの独立した丘陵上に築かれた平山城であった
4
。城跡の主郭からは眼下に蒲郡市街と三河湾を一望でき、その戦略的な位置の重要性が窺える
4
。今川氏にとっては東三河支配を維持するための重要な拠点であり、一方、三河統一を目指す松平元康(徳川家康)にとっては、何としても攻略しなければならない目の上の瘤とも言える存在であった。上ノ郷城は、陸路のみならず三河湾を通じた海路をも抑えることが可能な位置にあり、軍事・経済の両面で極めて高い価値を有していた。この地理的条件が、同城を巡る熾烈な攻防戦の背景となったのである。
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永禄5年(1562年)上ノ郷城の戦い
桶狭間の戦いから2年後の永禄5年(1562年)2月、西三河を着実に平定しつつあった松平元康は、次なる目標として東三河の攻略に着手し、その足掛かりとして上ノ郷城への攻撃を開始した
4
。
戦いが始まると、城主鵜殿長照以下、城兵は頑強な抵抗を見せ、攻め手の松平勢は当初、大きな損害を被ったと伝えられる
5
。元康は自ら名取山に本陣を構え、義父にあたる久松俊勝や大久保忠勝、松平忠次といった諸将に猛攻を命じたが、上ノ郷城は容易には陥落しなかった
5
。
この膠着状態を打開するため、元康は通常戦法に加えて奇策を用いる決断を下す。甲賀流の忍者(一説には服部半蔵が活躍したとも伝わる)を城内に潜入させ、永禄5年2月4日、夜陰に乗じて城の各所に放火させたのである
4
。火の手が上がり城中が混乱に陥った隙を突き、松平勢は一斉に総攻撃を敢行、ついに上ノ郷城は陥落した。この激戦の末、城主・鵜殿長照は奮戦及ばず討死を遂げたとされる
3
。この上ノ郷城攻めにおける忍者の使用は、記録に残る城攻めの事例としては最古のものとも言われており
5
、戦国時代の戦闘において情報収集や攪乱工作といった非正規戦術がいかに重要視されていたかを如実に示している。
また、この戦いの背景には、鵜殿一族内部の分裂も影響していた。鵜殿氏の分家である下ノ郷鵜殿家や柏原鵜殿家は、この時点で既に松平(徳川)方に与しており、今川方として抵抗を続けていたのは鵜殿本家である上ノ郷鵜殿家のみという孤立した状況にあった
5
。こうした内部分裂が、上ノ郷城の守備力を弱め、落城を早めた一因となった可能性は高い。当初正攻法で苦戦した家康が、最終的に忍者のような非正規戦術を用いて勝利を得たことは、戦国時代の戦術の多様性と、家康の目的達成のためには手段を選ばない柔軟な思考を示している。これは、後の家康の戦い方にも通じる合理性と効率性を重視する姿勢の萌芽と見ることができるだろう。
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鵜殿氏長・氏次兄弟の捕縛
上ノ郷城が陥落した際、城主鵜殿長照の二人の息子、氏長とその弟・氏次(うじつぐ)は松平軍によって捕らえられ、人質となった
1
。氏長は天文18年(1549年)の生まれであるため
1
、この時、数え年で14歳という若さであった。父を目前で失い、敵軍の捕虜となるという過酷な運命は、戦国時代に生きた武士の子弟が常に直面し得た厳しい現実であった。彼ら兄弟の捕縛は、単なる一個人の不幸に留まらず、後の徳川・今川間の重要な外交交渉における駒として、歴史の表舞台に登場することになるのである。
4. 運命の人質交換
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人質交換の背景と交渉
鵜殿氏長・氏次兄弟が徳川家康(当時は松平元康)の捕虜となった一方、家康の正室である築山殿(関口氏広の娘で、今川義元の姪にあたる)と、その間に生まれた嫡男・竹千代(後の松平信康)、そして長女・亀姫は、今川氏の人質として駿府に留め置かれていた
5
。これは、家康が今川氏から独立する以前からの関係であり、家康にとっては大きな懸案事項であった。
上ノ郷城を攻略し、鵜殿兄弟を捕虜とした家康は、この機を捉えて今川氏真に対し、鵜殿兄弟と自身の妻子との人質交換を申し入れた
3
。この重要な交渉の使者として駿府へ赴いたのは、家康の重臣である石川数正であったと伝えられている
17
。
今川氏真にとって、鵜殿兄弟は母方の従兄弟の子(氏長の父長照が氏真の従兄弟にあたる
3
、あるいは氏次が氏真の従兄弟ともされる
19
)であり、極めて近しい血縁関係にあった
14
。そのため、彼らを見捨てることは道義的にも困難であり、また今川家中の動揺を招く可能性もあった。結果として、氏真はこの人質交換の申し出を受け入れ、交渉は成立した
3
。
この人質交換は、戦国時代の外交において「人」という存在が、いかに重要な戦略的価値を持っていたかを如実に示している。特に、大名の妻子や血縁者は、単なる個人を超えた外交カードとしての意味合いを強く帯びていた。石川数正の交渉手腕もさることながら、氏真側の鵜殿兄弟との親族関係という人間的な側面が、この困難な交渉を成立させる大きな要因となった点は見逃せない。家康にとって妻子奪還は、三河支配を盤石にし、自身の政治的立場を安定させるための最優先課題の一つであった。妻子が敵の手中にあることは、自身の行動を大きく制約し、家臣団の結束にも影響を与えかねない状況であった。一方、氏真にとっては、有力な人質である家康の妻子を手放すことは大きな痛手であったが、近しい親族を見殺しにすることによる道義的・政治的損失もまた甚大であった。この交換劇は、双方の利害と感情が複雑に絡み合った末の、ギリギリの判断であったと言えるだろう。そして、かつては人質として家康を掌握していた今川氏が、逆に家康の提案を受け入れざるを得なかったという事実は、桶狭間の戦い以降の今川氏の急速な弱体化を象徴する出来事であり、東海地方におけるパワーバランスの転換を示す重要な指標となったのである。
5. 今川家への帰参と徳川家への転身
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今川氏真のもとでの氏長
徳川家康との人質交換によって駿府へ送還された鵜殿氏長・氏次兄弟は、今川家の当主である今川氏真のもとに再び仕えることとなった
1
。父・長照が命を懸けて守ろうとした今川家への帰参は、兄弟にとってひとまずの安堵をもたらしたかもしれない。
しかしながら、彼らが戻った頃の今川氏は、かつての勢いを完全に失い、まさに斜陽の時を迎えていた。永禄11年(1568年)には、甲斐の武田信玄による駿河侵攻が開始され、今川領は東西から切り崩されていく。このような状況下では、氏長兄弟の将来も決して安泰とは言えなかった。帰参したとはいえ、没落しつつある主君に仕えることは、氏長にとって苦難に満ちた道のりの始まりであったろう。父・長照が忠義を尽くした今川家が目の前で崩壊していく様を、彼はどのような思いで見つめていたのであろうか。その胸中は察するに余りある。
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今川氏滅亡と徳川家康への仕官
永禄11年(1568年)12月、武田信玄の駿河侵攻は決定的なものとなり、今川氏真は本拠地である駿府を追われ、掛川城へと逃れる。これにより、戦国大名としての今川氏は事実上崩壊した。この激動の中、鵜殿氏長は大きな決断を下す。かつての主家である今川氏に見切りをつけ、敵将であり父の仇でもある徳川家康に仕官したのである
1
。この時期、氏長は不相(ふそう)鵜殿家の実成(さねなり)や休庵(きゅうあん)といった一族と共に家康に従ったと記録されている
6
。
氏長の徳川家への仕官時期に関しては、鵜殿長忠(長照の弟)の養女であり、家康の側室となって永禄8年(1565年)に督姫(とくひめ)を出産した西郡局(にしのこおりのつぼね)の入輿との関連性がしばしば議論される。しかし、近年の研究では、氏長の仕官は西郡局の件とは直接的な関係はなく、あくまで上ノ郷鵜殿家(惣領家)が、今川氏の将来に見切りをつけ、一族の存続を賭けて家康に帰順した結果であると考えられている
6
。
父を討たれ、自らも捕虜となった相手である家康に仕えるという決断は、氏長にとって筆舌に尽くしがたい葛藤を伴うものであったはずだ。しかし、戦国乱世を生き抜くためには、旧主への恩義や個人的な私怨を超克した、冷徹な現実的判断が求められた。今川家再興の望みが絶たれた以上、新たな主君を求めて家名を存続させることは、当時の武士として自然な、そして唯一の選択であったとも言える。この転身は、戦国武士の現実主義(プラグマティズム)を象徴する出来事であり、主家が滅亡すれば新たな主君を見出して家名を存続させることが最優先されるという、当時の武士の価値観を色濃く反映している。一方で、かつての敵将の子弟を受け入れた家康の度量の大きさも注目に値する。これは、有能な人材であれば出自や過去の経緯を問わず登用するという、家康の人材活用術の一端を示すものであり、後の徳川幕府の強固な基盤形成に繋がる重要な要素であった。
6. 徳川家臣としての鵜殿氏長
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旗本としての地位と知行
徳川家康に帰順した鵜殿氏長は、その家柄や旧今川家中での立場を考慮され、旗本として取り立てられた
5
。旗本としての氏長の知行は1700石余であったと記録されており
9
、これは当時の旗本としては決して低いものではなく、家康が氏長を旧今川家臣中の有力者の一人として一定の評価を与え、相応の処遇をしたことを示している。
官位としては、石見守(いわみのかみ)、後には兵庫頭(ひょうごのかみ)などを称したと伝えられている
2
。これらの官位は、旗本としての彼の家格を示すものであったと考えられる。
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江戸幕府初期における活動
鵜殿氏長は、徳川家康、そしてその跡を継いだ二代将軍・徳川秀忠の二代にわたって仕えた
2
。具体的な合戦への参加記録や、幕府内での役職に関する詳細な情報は、提供された資料からは限定的である。しかし、旗本という立場上、江戸幕府の体制が確立されていく初期の段階において、軍役や儀礼などを通じて幕府に貢献したものと推察される。
波乱に満ちた生涯を送った氏長であったが、寛永元年(1624年)6月14日に76歳でその生涯を閉じた
1
。墓所は、かつての本拠地に近い三河国長応寺(現在の愛知県蒲郡市)にあるとされている
2
。戦国時代の激動を生き抜き、江戸幕府の成立と安定期を見届けた氏長の生涯は、一つの時代の終わりと新しい時代の始まりを体現していると言えるだろう。76歳という没年は当時としては長寿であり、多くの苦難を乗り越えた後、比較的穏やかな晩年を送った可能性を示唆している。
多くの戦国武家が歴史の波に呑まれて滅亡したり、あるいは大幅に勢力を削がれたりする中で、鵜殿氏長は父を失い、自身も捕虜となるという危機を乗り越え、最終的に徳川旗本として家名を存続させることに成功した。これは、戦国武将の「生き残り戦略」の一つの成功例として評価できるだろう。また、家康が氏長のような旧今川家臣を旗本として幕臣団に組み込んでいったことは、旧敵対勢力を巧みに取り込み、徳川政権の安定化を図るという、家康の巧みな統治術の一環であった。これは、後の豊臣恩顧の大名を統合していくプロセスにも通じる、家康の国家構想のスケールの大きさを感じさせる。
7. 鵜殿氏長の兄弟と一族の動向
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弟・鵜殿氏次の生涯
氏長の弟である鵜殿氏次もまた、兄・氏長と共に上ノ郷城落城の際に捕虜となり、その後の人質交換によって今川氏真のもとへ戻ったという、同様の運命を辿った
3
。
しかし、今川氏が没落した後の氏次の足跡は、兄とは異なるものであった。一時期は「落魄」(おちぶれること)していたと伝えられるが、天正18年(1590年)、従兄弟にあたる深溝松平家の松平家忠( 이에ただ)に仕えることとなった
5
。
そして慶長5年(1600年)、天下分け目の戦いと言われる関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いにおいて、氏次は大きな転機を迎える。城将であった主君・松平家忠に従い、伏見城に籠城し、石田三成ら西軍の大軍勢と戦った。この激戦の中で、氏次は家忠らと共に討死を遂げたのである
5
。
鵜殿氏次の生涯は、兄・氏長が徳川直参の旗本として家名を再興したのとは対照的に、別の松平家(徳川譜代の有力諸侯)の家臣として、戦場でその命を終えるというものであった。主家滅亡後に有力な親族を頼り、新たな主君のもとで忠節を尽くして戦死するという生き方は、戦国武士の一つの典型的な姿と言えるだろう。兄弟でありながら異なる主君に仕え、異なる運命を辿ったことは、戦国時代の武家の多様な生き様と、個々の縁や選択がいかに重要であったかを示している。氏次の討死は、関ヶ原という大きな歴史の転換点において、徳川方(東軍)の一員として命を捧げたことを意味し、その忠勇は記憶されるべきであろう。
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他の鵜殿一族(下ノ郷鵜殿家、柏原鵜殿家、西郡局など)
鵜殿一族の動向は、氏長・氏次兄弟の属した上ノ郷鵜殿家(惣領家)だけに留まらない。他の分家もまた、戦国乱世の中でそれぞれ独自の道を歩んだ。
下ノ郷鵜殿家:
鵜殿長存を初代とするこの家系は、上ノ郷城の戦いの際には既に徳川家康側に属していた
6
。その結果、旧領を安堵され、一時は鵜殿一族の惣領格として遇されたと伝えられる
6
。これは、上ノ郷鵜殿家が今川方として最後まで抵抗し、一度は滅亡の危機に瀕したのとは対照的な動きであり、時流を的確に読んだ現実的な判断であったと言える。
柏原鵜殿家:
初代は鵜殿長忠(ながただ)で、彼は上ノ郷鵜殿家の当主・鵜殿長持の子であり、長照の弟にあたる
6
。長忠は徳川家康から三河国柏原(現在の愛知県蒲郡市柏原町周辺)に七百石の所領を与えられ、柏原鵜殿家の祖となった
6
。この柏原鵜殿家と徳川家康との結びつきをより深めたのが、西郡局(にしのこおりのつぼね)の存在である。彼女は鵜殿長忠の養女であり、家康の側室となって寵愛を受けた
6
。そして永禄8年(1565年)11月には、家康の娘である督姫(とくひめ)を岡崎城で出産している
6
。督姫は後に池田輝政(姫路藩主)に嫁いでおり、鵜殿氏は徳川家との間に間接的ながらも有力大名との姻戚関係を築くことになった。
これらの鵜殿一族の動向は、戦国時代において一つの「家」が生き残りをかけて、いかに多様な戦略を取ったかを示す好例である。本家である上ノ郷家が今川氏への「忠義」を貫こうとした(結果的には一度滅亡し、氏長によって徳川家臣として再興される)一方で、下ノ郷家や柏原家のように早期に徳川方に転じ、あるいは姻戚関係を通じて新たな活路を見出すなど、その対応は複雑な様相を呈している。これは、一族全体として見れば、いずれかの系統が生き残れば良いという、ある種のリスク分散の発想があった可能性が高い。特に西郡局の存在は、戦国時代における女性の役割の重要性をも示唆している。彼女は鵜殿氏と徳川家を結びつける媒体となり、その子が有力大名に嫁ぐことで、間接的に鵜殿氏の政治的立場にも影響を与えた可能性が考えられる。このように、鵜殿一族は主従関係のみならず、婚姻を通じた結びつきも活用し、徳川家との間に二重三重の関係を構築することで、戦国乱世を乗り越えようとしたのである。
8. 鵜殿氏長系統の旗本としてのその後と終焉
-
氏長の子孫と家系の変遷
徳川旗本として新たな道を歩み始めた鵜殿氏長の家系は、その後数代にわたって存続した。氏長の子には氏信(うじのぶ)がおり、彼が家督を継いだと考えられる
2
。
しかし、戦国時代を生き抜き、江戸幕府の成立に貢献した氏長の系統も、安泰ではなかった。旗本鵜殿家は4代目の鵜殿氏基(うじもと)の代に至り、実子に恵まれなかった。そのため、氏基の弟である源之丞が名跡を継承することになったが、その際に知行は大幅に減らされ、かつての1700石余から蔵米300俵へと変更された
9
。これは、家格の大きな低下を意味するものであった。
さらに不運は続き、その跡を継いだ源之丞もまた嗣子がなく、鵜殿氏長の直系にあたる旗本家は、ついに断絶に至ったと江戸幕府の公式記録である『断家譜』には記されている
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。一方で、紀州藩の編纂した『紀伊続風土記』には、鵜殿石見守(氏長のことか)が大坂落城の際の功績により2000石を得、鵜殿村(紀伊国か)にて1050石を賜ったが、元禄の頃(1688年~1704年)に子がなく断絶したという記述も見られる
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。この記述は、氏長の系統とは異なる鵜殿氏の一族に関するものか、あるいは情報が混同している可能性も否定できない。江戸幕府の旗本としての鵜殿氏長本家の終焉については、『断家譜』の記述がより直接的かつ信頼性が高いと考えられる。
戦国の動乱を乗り越え、徳川旗本として家名を存続させた鵜殿氏長の系統も、江戸時代中期までにはその歴史を閉じた。これは、武家の「家」が江戸時代を通じて永続することの難しさを示す一例である。嗣子の有無という偶然的要素に加え、当主の能力、幕府の厳しい無嗣改易の方針、旗本としての経済的・社会的なプレッシャーなど、様々な要因が複雑に絡み合い、多くの武家の盛衰を左右した。氏長の奮闘も虚しく、その直系は歴史の彼方へと消えていった。これは、戦国武将の血筋が必ずしも永続するわけではないという、歴史の非情さを示すものでもある。
9. 結論:鵜殿氏長の生涯とその歴史的意義
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鵜殿氏長の生涯の総括
鵜殿氏長は、今川家の重臣の子として戦国乱世に生を受け、父・鵜殿長照の戦死、自身の捕囚、そして劇的な人質交換という、波乱に満ちた少年期を送った。主家である今川氏が没落していく中、彼は大きな決断を下し、かつての仇敵とも言える徳川家康に仕官する道を選んだ。その後、江戸幕府の旗本として家康・秀忠の二代に仕え、76歳の天寿を全うした。
彼の生涯は、戦国時代から江戸時代初期への大きな歴史的移行期を生きた武士の一つの典型を示している。主家の盛衰という抗いがたい運命に翻弄されながらも、新たな主君のもとで活路を見出し、一族の家名を後世に伝えようとした彼の生き様は、当時の武士が持っていた現実的な処世術と、逆境に屈しない強靭な生命力を物語っている。
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鵜殿氏長の歴史的意義
鵜殿氏長の存在は、歴史の主要な舞台で華々しい活躍を見せた人物ではないかもしれないが、戦国史、特に徳川家康の三河統一から東海地方への勢力拡大期における、今川氏との複雑な関係性を象徴する人物として重要である。彼とその弟・氏次が関わった人質交換は、単なる個人的な出来事に留まらず、家康の家族の運命を左右し、ひいては家康のその後の戦略や精神面にも少なकाराぬ影響を与えた可能性のある歴史的事件であった。
また、鵜殿一族全体の動向に目を向ければ、戦国期における国人領主たちが、中央の巨大勢力の狭間でいかにして生き残りを図ったかを示す好個の事例を提供している。上ノ郷の本家が今川氏と運命を共にしようとした一方で、下ノ郷家や柏原家といった分家が早期に徳川方に転じるなど、一族内で異なる政治的選択をすることも含め、その複雑な様相は、戦国時代の多様な武家のあり方や生存戦略を理解する上で貴重な示唆を与えてくれる。
そして、鵜殿氏長の家系が江戸時代中期に数代で断絶したという事実は、戦国乱世を生き抜いた武家の「家」が、泰平の世となった江戸時代においてその地位を維持し続けることの困難さをも示している。
鵜殿氏長個人の卓越した武功や政治的手腕に関する具体的な記録は限られている。しかし、彼の生涯は、戦国という「個」の力が試される時代から、徳川幕府という巨大な「組織」と秩序の時代へと移行する、まさにその過渡期を生きた一人の武士の軌跡として捉えることができる。彼は歴史の主役ではなかったかもしれないが、その時代の重要な転換点に立ち会い、翻弄され、そして見事に適応していった人物として、記憶されるべき存在であると言えよう。彼の人生は、戦国武士のリアリズムと、時代の変化に対応していく人間の姿を我々に伝えている。
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