戦国時代の三河国は、駿河の今川氏、尾張の織田氏、そして勃興しつつあった松平氏(後の徳川氏)など、諸勢力の狭間で常に緊張を強いられる地であった。鵜殿長持(うどの ながもち)は、この激動の時代にあって、今川氏の東三河における重要な拠点であった上ノ郷城(かみのごうじょう、現在の愛知県蒲郡市)の城主として、その名を歴史に刻む人物である。
鵜殿長持が活躍した16世紀中頃は、今川義元の下で今川氏がその勢力を最大限に伸長させた時期と重なる。しかし、その栄華は永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いにおける義元の討死によって一転し、今川氏は急速な衰退期へと入る。長持自身は桶狭間の戦い以前に没するが、彼が築いた鵜殿氏の立場は、この歴史的転換点の奔流に否応なく巻き込まれていくことになる。本報告では、鵜殿長持の出自から、今川家臣としての活動、文化的側面、そして彼の死後における一族の動向に至るまで、現存する史料を基に多角的にその実像に迫ることを目的とする。彼の生涯と一族の変遷を追うことは、戦国という時代に翻弄されながらも、家名を保とうとした地方領主の姿を浮き彫りにするであろう。
鵜殿長持を理解する上で、まず彼が属した鵜殿一族の出自と、三河における勢力基盤の形成過程を把握する必要がある。
鵜殿氏の起源については、いくつかの説が伝えられている。一つは、多くの武家がその権威を高めるために称した藤原氏の末裔とするもので、具体的には藤原北家の藤原実方の子孫であるとされている 1 。しかしながら、より具体的な伝承としては、紀伊国熊野の有力者であった熊野別当湛増(たんぞう)の子孫が、同国新宮荘鵜殿村(現在の三重県南牟婁郡鵜殿村)に住んだことから鵜殿姓を名乗るようになったという説がある 1 。この熊野別当家との関連は、鵜殿氏が後に三河国へ移住する背景とも関わってくる。
鵜殿氏が紀伊国から三河国へ移住し、西郡(にしのごおり、現在の愛知県蒲郡市一帯)に定着したのは、15世紀中頃のこととされている 4 。当時、熊野別当家は三河国宝飯郡(ほいぐん)蒲郡周辺に荘園を有しており、鵜殿氏は当初、その荘官として現地に派遣されたと考えられている 1 。荘官としての赴任から在地領主化への道は、中世から戦国期にかけての武士団の成立過程としてしばしば見られるものであり、鵜殿氏もまた、この地で徐々に土着し、勢力を拡大していった。
三河に根を下ろした鵜殿氏は、やがて一族内で分立していく。鵜殿長善の子の代に、長将(ながまさ)を祖とする上ノ郷(かみのごう)鵜殿氏と、長存(ちょうそん/ながあり)を祖とする下ノ郷(しものごう)鵜殿氏に分かれたとされる 1 。鵜殿長持は、このうち上ノ郷鵜殿氏の系統に属する 6 。この他にも、不相(ふそう、府相とも)鵜殿氏や柏原(かしわばら)鵜殿氏といった庶家が存在し、蒲郡市域を中心に一族が勢力を扶植していた 1 。
しかし、この一族の広がりは、後の今川氏の衰退という大きな政治変動の中で、必ずしも一枚岩の結束を意味しなかった。桶狭間の戦い後、松平元康(後の徳川家康)が三河で台頭すると、鵜殿一族の中でも本家である上ノ郷鵜殿氏が今川方としての立場を堅持したのに対し、下ノ郷鵜殿氏や柏原鵜殿氏など一部の庶家は松平方に転じる動きを見せた 1 。このような一族内部の分裂は、結果として上ノ郷鵜殿本家の孤立を深める一因となり、戦国期における国人領主が直面した厳しい現実、すなわち宗主家の盛衰に一族の運命が左右され、時には一族内での分裂も辞さない生き残り戦略を迫られたことを示している。
鵜殿長持は、今川義元の時代にその家臣として活動し、三河における今川氏の勢力拡大に貢献した。彼の今川家中における地位や、領主としての活動、さらには文化的側面について以下に詳述する。
鵜殿長持が今川義元の妹を娶ったという説は広く知られており、これにより今川家中で特別な地位を得ていたとされる 5 。この婚姻関係が事実であれば、長持の今川家中での発言力や待遇は格段に向上し、今川氏の三河支配強化策の一環として、有力国人である鵜殿氏を姻戚関係によって取り込む意図があったと考えられる。しかし、この記述は江戸時代後期の編纂物である『寛政重修諸家譜』には見られるものの 7 、それ以前の『寛永諸家系図伝』には記載がないことから、歴史学者の黒田基樹氏などによって後世の創作、あるいは鵜殿氏の権威を高めるための付加情報である可能性が指摘されている 1 。この真偽は、長持の今川家中での「重臣」としての実態を評価する上で重要な論点となる。
長持は三河国宝飯郡上ノ郷城(現在の愛知県蒲郡市神ノ郷町。西郡城、鵜殿城などとも呼ばれる 15 )の城主であり 6 、その勢力は「三州西郡一万石」を領したと伝えられるほどであった 7 。この石高については後世の推定である可能性も否定できないが、上ノ郷城が標高約52メートルの独立丘陵上に築かれ、蒲郡市街と三河湾を一望できる戦略的要衝であったことからも 6 、長持が今川氏にとって東三河における重要な支柱であったことは間違いない。
軍事面だけでなく、鵜殿長持は文化的な活動にもその名を残している。天文13年(1544年)、当代一流の連歌師であった谷宗牧(たに そうぼく)が上ノ郷を訪れた際、長持は同じく三河の国人であった松平清善らと共に連歌千句の会を催したことが、宗牧の紀行文『東国紀行』に記されている 5 。同書には、当時の上ノ郷の繁栄ぶりを「世にかはらぬ年をへて繁昌」と称賛する記述が見られ 5 、この時、長持の長男であった長照が宗牧を出迎えたとされている 5 。戦国武将が中央の文化人と交流を持つことは、自身の教養を示すと共に、情報収集や人脈形成の機会でもあり、宗牧の記録は長持時代の鵜殿氏の勢力と文化的成熟度を伝える貴重な史料と言える。ただし、連歌師がパトロンを好意的に描く傾向も考慮に入れる必要はあるだろう。
さらに、鵜殿長持は信仰心も篤く、特に法華宗(日蓮宗)の有力な後援者であったことが知られている 7 。天文21年(1552年)には、隣国遠江の本興寺(ほんこうじ、現在の静岡県湖西市)の仏殿修復に際して多額の寄進を行い、その棟札には長持の名が筆頭に挙げられている 7 。この時改修された本堂は現存し、国の重要文化財に指定されている 7 。また、上ノ郷鵜殿氏の菩提寺であった長応寺(ちょうおうじ、後の正行院 5 )にも法華経を寄進しており 5 、その信仰の深さがうかがえる。こうした宗教的活動は、個人的な信仰に加え、領国統治における宗教勢力との連携や、一族の結束を図る手段であった可能性も考えられ、寺院への多額の寄進はその経済力の証左でもある。
以下に、鵜殿長持の生涯と関連する主要な出来事をまとめた年表を示す。
年代 |
出来事 |
典拠 |
永正10年(1513年) |
鵜殿長持、生誕と伝わる |
7 |
天文13年(1544年) |
連歌師・谷宗牧、上ノ郷を訪問。長持らと連歌会を催す |
5 |
天文21年(1552年) |
長持、遠江本興寺仏殿修復に多額寄進 |
7 |
弘治3年(1557年)9月11日 |
鵜殿長持、上ノ郷城にて死去。嫡男・長照が家督継承 |
5 |
永禄3年(1560年)5月19日 |
桶狭間の戦い。今川義元、討死。鵜殿長照は今川軍の先陣として大高城守備 |
9 |
永禄5年(1562年)2月4日 |
上ノ郷城の戦い。松平元康により落城。鵜殿長照、討死(異説あり) |
9 |
この年表からもわかるように、鵜殿長持の活動は、軍事面だけでなく、文化活動、宗教的庇護を通じて、自身の権威と勢力基盤を固めようとした多面的な努力を示している。
弘治3年(1557年)9月11日、鵜殿長持は居城である上ノ郷城にてその生涯を閉じた 7 。通称は三郎と伝えられる 10 。彼の死は、今川氏の権勢が頂点に達し、そして間もなく歴史的な転換点を迎えようとする、まさにその前夜の出来事であった。長持の跡は、嫡男の鵜殿長照(ながてる)が継いだ 1 。
長照が家督を継いでからわずか3年後の永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれるという衝撃的な事件が起こる 9 。この戦いで今川軍の先陣として大高城(現在の名古屋市緑区)の守備にあたっていた長照は 9 、主君の死という未曾有の事態に直面する。今川氏の威勢が急速に衰える中、多くの三河国人領主が今川氏を見限り、岡崎城で自立した松平元康(後の徳川家康)に帰順していく。しかし、長照は父祖以来の恩義を重んじ、今川氏への忠誠を貫いたと評価されることが多い 18 。その結果、上ノ郷城は今川方の最前線となり、松平氏との直接対決は避けられない状況となった 20 。
一方で、鵜殿氏の一族で出家した人物が書き残したとされる「鵜殿由緒書」には、「父親(長持)が亡くなってから鵜殿長照は行いが悪くなった」との記述もあり、一族内での求心力が低下し、孤立を深めていた可能性も示唆されている 11 。前述の通り、下ノ郷鵜殿氏や柏原鵜殿氏といった分家は松平方に与しており 1 、長照率いる上ノ郷鵜殿本家は、内憂外患の状態にあったと言えるかもしれない。
永禄5年(1562年)2月、松平元康は東三河平定の足がかりとして、満を持して上ノ郷城攻略に乗り出した 5 。当初、元康は竹谷松平清善らに攻撃を命じたが、上ノ郷城の守りは堅く、容易には落ちなかった 4 。業を煮やした元康は、自ら上ノ郷城の北方に位置する名取山に陣を敷き、義父にあたる久松俊勝や、大久保忠勝(あるいは忠世)、松平忠次(松井忠次ともされる 22 )といった諸将に猛攻を加えさせたが、それでも城は持ちこたえた 4 。
この膠着状態を打破するために元康が用いたのが、甲賀忍者であった。伴与七郎(とも よしちろう)ら甲賀衆を城内に潜入させ、夜陰に乗じて放火させたのである 9 。この作戦は功を奏し、城内が混乱した隙を突いて松平軍本隊が総攻撃をかけ、ついに上ノ郷城は陥落した。この忍者を用いた城攻めは、『三河物語』にも記されており 22 、記録に残るものとしては最古の事例の一つとも言われている 23 。また、後の寛文7年(1667年)に甲賀武士が幕府に提出した書状にも、甲賀二十一家がこの戦いに参加し、夜襲と焼き討ちによって鵜殿藤太郎(長照の通称)の首を討ち取ったという武功が記されている 24 。この事実は、戦国時代の合戦において、情報戦や非正規戦力がいかに重要であったかを示している。
城主・鵜殿長照の最期については、多くの史料がこの上ノ郷城の戦いで討死したと伝えている 3 。『三河物語』によれば、城の北方にあった護摩堂へ逃れる途中、甲賀忍者の伴与七郎によって討ち取られたとされる 22 。しかし、地元蒲郡には異説も残っており、城近くの安楽寺横の坂(通称「鵜殿坂」)で討たれたという伝承や、あるいは駿府の今川方へ落ち延びて出家し、空仙(くうせん)と号して生きながらえたという説もある 3 。ただし、この空仙説を裏付ける確かな一次史料は現在のところ確認されていない。「鵜殿由緒書」は、長照の討死によって上ノ郷一帯が荒廃したと記しており 11 、戦死説が有力であると考えられる。
上ノ郷城の落城に際し、長照の二人の幼い息子、氏長(うじなが)と氏次(うじつぐ)(『寛政重修諸家譜』などでは藤四郎とも 22 )は松平軍に捕らえられた 9 。当時、松平元康の正室であった築山殿(つきやまどの)と、嫡男の信康(のぶやす、幼名:竹千代)、そして長女の亀姫は、桶狭間の戦いの後、今川氏の人質として駿府に留め置かれていた 9 。今川氏の当主であった今川氏真は、鵜殿兄弟が自身の従兄弟にあたるとも伝えられる近親であったため 27 、彼らを見捨てることはできず、元康側との交渉に応じた。その結果、この鵜殿兄弟と、元康の妻子との間で人質交換が成立し、氏長と氏次は今川方へ送還された 9 。この人質交換は、元康にとっては妻子を取り戻し、今川氏からの完全な自立を内外に示す画期的な出来事であり、一方で鵜殿兄弟にとっては、本拠地を失いながらも命脈を繋ぐこととなった、まさに運命の分かれ道であった。
上ノ郷城の失陥と当主長照の死(あるいは逃亡)は、鵜殿本家にとって決定的な打撃となった。しかし、一族の血脈が完全に途絶えたわけではない。以下に、長持の子孫を中心とした鵜殿一族のその後の動向を、略系図と共に示す。
鵜殿氏略系図(上ノ郷流中心)
Mermaidによる関係図
人質交換によって今川氏真のもとに戻った氏長と氏次は、その後、今川氏が没落すると、かつての敵であった徳川家康に仕えることとなる 1 。
兄の鵜殿氏長は、一時、遠江国二俣城の松井氏に属していたが、永禄11年(1568年)に家康が遠江へ侵攻すると徳川方に降り、後に1700石余を知行する旗本となった 1 。しかし、この氏長を祖とする旗本鵜殿家は、4代目の鵜殿氏基の時に男子がなく、氏基の弟である源之丞某が家名相続を許されたものの、知行は蔵米300俵に減らされた。さらにその源之丞も嗣子なく没したため、家名は断絶したと『寛政重修諸家譜』などに記されている 1 。一度は敵対した徳川家に仕え、旗本として家名を再興したものの、江戸時代を通じて家を存続させることの難しさを示す一例と言えよう。
一方、弟の鵜殿氏次は、深溝松平家の松平家忠に仕えた。そして慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いにおいて、主君家忠と共に討死するという壮絶な最期を遂げている 1 。兄とは異なる形で、武士としての生涯を全うした。
上ノ郷鵜殿本家の直系が江戸時代初期に断絶したのとは対照的に、鵜殿氏の庶流の中には、新たな主君に仕えて家名を後世に伝えた家系も存在する。その代表的な例が、鳥取藩池田家の家老職を務めた鵜殿氏である 1 。鵜殿長次という人物が、鳥取藩の藩祖である池田光仲が備前岡山から因幡・伯耆へ国替えとなった際に随行し、以後、その子孫は代々家老職を世襲し、浦富(うらどめ、現在の鳥取県岩美町)を直轄領として与えられた 30 。その禄高は6,000石にも達したと記録されている 29 。この鳥取藩家老鵜殿氏は幕末まで続き、鵜殿長道(ながみち)は浦富に台場を築造するなど、藩政において重要な役割を果たした 30 。
この他にも、越後長岡藩に150石で仕えた鵜殿氏がおり、幕末には洋学者の鵜殿団次郎(幕府の蕃書調所教授や目付を歴任)や、その弟で海援隊士となった白峰駿馬(しらみね しゅんめ)といった人物を輩出している 1 。また、上ノ郷鵜殿氏とは別に、早くから徳川氏に帰順した下ノ郷鵜殿家は、当主の鵜殿長龍が徳川家康の関東移封に従い、天正18年(1590年)に下総国相馬郡に移封されるなど 1 、比較的安定した地位を保った。
これらの事例は、戦国時代の終焉と江戸幕藩体制への移行期において、一度は敗者となった、あるいは大きな勢力変動に巻き込まれた武家が、いかにして生き残りを図ったか、あるいは図れなかったかの多様な様相を示している。本家の没落と庶流の異なる形での存続は、単一の「鵜殿氏」という枠組みでは捉えきれない、複雑な歴史の展開を物語っている。
鵜殿長持に関する史料は断片的であり、その人物像を正確に再構築することは容易ではない。しかし、現存する記録から、彼の歴史的評価を試みることは可能である。
谷宗牧の『東国紀行』に記された「世にかはらぬ年をへて繁昌」という記述は 5 、長持治世下の上ノ郷がある時期、安定と文化的成熟を享受していたことを示唆している。しかし、これは連歌師がパトロンに対して好意的な記述をするという当時の慣習も考慮に入れる必要があるだろう。また、今川義元の妹婿であったか否かという点は、史料的な確証に議論の余地があり 1 、これが事実であれば彼の今川家中での地位は非常に高いものであったと推測されるが、慎重な検討が求められる。この情報が後世に付加された可能性を考慮すると、鵜殿氏の子孫が家の格を高めようとした意図も推察される。
一方で、法華宗への篤い信仰と、本興寺をはじめとする寺社への多額の寄進は 5 、彼の個人的な信仰心と共に、地域領主としての影響力を示す確かな証拠と言える。長持自身の直接的な軍事的功績に関する具体的な記述は乏しいが、彼が今川氏の勢力下で三河東部に確固たる基盤を築き、文化的にも一定の水準を保っていた領主であったことは間違いない。
戦国時代における地方領主としての鵜殿長持の意義を考えるとき、彼の時代は鵜殿氏が西郡(蒲郡)においてその勢力を維持し、今川氏の三河支配の一翼を確かに担っていた時期と評価できる。しかし、その勢力基盤は、あくまで主家である今川氏の強大な力に依存するものであった。長持の死後、桶狭間の戦いを境に今川氏が急速に衰退すると、跡を継いだ長照の代に鵜殿本家もまた、松平元康の攻勢の前に為す術なく没落への道を辿った。この事実は、戦国期における地方領主が、いかに中央の有力大名の動向にその運命を左右されたか、その限界を如実に示している。
鵜殿長持個人の能力や資質が如何なるものであったにせよ、彼が生きた時代の政治・軍事状況という大きな外的要因が、彼自身とその一族の運命を最終的に規定したと言えるだろう。彼の治世は、いわば今川氏の栄華と、その後の戦国乱世の嵐が本格化する前の、束の間の安定期、あるいは繁栄の頂点であったのかもしれない。
本報告では、戦国時代の三河国における武将、鵜殿長持について、その出自、今川家臣としての活動、文化的側面、そして彼の一族のその後の変遷を、現存する史料に基づいて詳細に検討してきた。
鵜殿長持は、16世紀中頃、今川氏配下の有力な国人領主として、三河国宝飯郡上ノ郷城を拠点に、西郡(現在の蒲郡市一帯)を支配した人物である。その出自は紀伊国熊野に遡るとされ、藤原氏を称したとも伝えられる。主君・今川義元の妹を娶ったという説は広く知られているが、史料的な確証については議論の余地が残る。彼は文化人として連歌師・谷宗牧と交流を持ち、また法華宗を篤く信仰し、寺社への寄進も積極的に行った。
弘治3年(1557年)に長持が没すると、家督は嫡男の長照が継承した。しかし、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が討死し、今川氏の勢力が急速に衰退すると、鵜殿本家の立場も危うくなる。長照は今川方として松平元康(徳川家康)に抵抗したが、永禄5年(1562年)の上ノ郷城の戦いで敗北し、討死(あるいは逃亡)したことにより、上ノ郷鵜殿本家は三河における本拠地を失った。
長照の子である氏長と氏次は、人質交換によって命脈を保ち、後に徳川家に仕えた。氏長の系統は旗本となったものの数代で断絶したが、氏次は伏見城の戦いで討死した。一方で、鵜殿氏の庶流の中には、鳥取藩池田家の家老職を務めるなどして家名を後世に繋いだものも存在し、一族の多様な運命を物語っている。
鵜殿長持の生涯とその一族の変遷は、戦国時代の激動の中で、有力大名に従属しつつも自領の維持と発展に努めた地方領主が、宗主家の盛衰という大きな波に翻弄され、時には一族内での分裂や離散を経験しながらも、それぞれの形で生き残りを模索した姿を象徴していると言えよう。
今後の研究課題としては、鵜殿長持の妻が実際に今川義元の妹であったか否かについての更なる史料の発見と分析、鵜殿長照の最期に関する空仙説の信憑性の検証、そして各地に散った鵜殿一族のより詳細な動向調査などが挙げられる。これらの課題の解明は、鵜殿長持という一人の武将だけでなく、戦国時代から近世へと移行する時期の地方社会の様相をより深く理解する上で、重要な意義を持つであろう。