最終更新日 2025-07-27

鷺森蓮教

戦国期紀伊国における宗教と権力の交錯点 ― 鷺森御坊の総合研究

序論:鷺森蓮教という名称の解題と本報告書の主題

利用者が提示した「鷺森蓮教」という人物名は、戦国時代の紀伊国における一向宗(浄土真宗)の動向を調査する上で、一つの重要な問いを提起する。しかしながら、同時代の信頼できる史料や、後世に編纂された本願寺関連の系譜、記録の中に、「鷺森蓮教」という名の僧侶が実在したことを示す直接的な証拠は見出せない 1 。この名称は、特定の個人を指すものではなく、鷺森御坊の歴史を象徴する複数の歴史的要素が、後世の記憶の中で結合・混同されて形成されたものと解釈するのが最も妥当である。

その構成要素は、以下のように分解できる。

  1. 「鷺森」 : 和歌山市鷺ノ森に位置した寺院の所在地そのものである 3
  2. 「蓮」 : 鷺森御坊の起源となる道場を紀伊国に開創した、本願寺中興の祖、第八世法主 蓮如 (れんにょ)に由来する 5
  3. 「教」 : 石山合戦の最終局面で父・ 顕如 (けんにょ)と対立し、鷺森御坊が本願寺の臨時首都となった激動の時代を象徴する 教如 (きょうにょ)の名に由来するか、あるいは文明13年(1481年)に蓮如が佛光寺派から転派した有力な僧、経豪に与えた 蓮教 (れんきょう)という法名に由来する可能性が考えられる 5

このような名称の混同がなぜ生じたのかを考察すること自体が、歴史の核心に迫る鍵となる。それは、鷺森御坊の複雑な歴史の中で、「蓮如による創建」という起源の物語と、「顕如・教如の時代の動乱」という最も劇的な出来事が、後世の人々にとって二大事件として強く記憶されていたことの証左に他ならない。民衆の口承や非公式な記録の中で、詳細な歴史的経緯が象徴的なキーワード(地名+開祖名+重要人物名)へと集約されていく、歴史的記憶の形成過程がここに見て取れる。

したがって、本報告書は「鷺森蓮教」という架空の人物の伝記を試みるものではない。その代わりに、利用者の真の関心事である**「戦国期から近世に至る鷺森御坊の全史」**を、学術的見地から徹底的に解明することを目的とする。鷺森御坊を単なる一寺院としてではなく、本願寺教団の全国戦略、在地勢力である雑賀衆との共生と対立、そして織田信長や豊臣秀吉といった天下人との政治的力学が激しく交差した、戦国史の重要な結節点として描き出す。

鷺森御坊 関連年表

年号 (西暦)

出来事

文明8年 (1476)

蓮如、了賢に二尊像を授与。紀伊国冷水浦に道場(鷺森御坊の前身)が建立される 3

永正4年 (1507)

拠点を名草郡黒江に移転 4

天文19年 (1550)

拠点を和歌浦弥勒寺山に移転 4

永禄6年 (1563)

拠点を雑賀荘鷺森の現在地に移転。「鷺森御坊」「雑賀御坊」と呼ばれるようになる 10

元亀元年 (1570)

石山合戦が始まる。鷺森御坊は紀州門徒の拠点として石山本願寺を支援する 4

天正8年 (1580)

石山合戦で和睦が成立。法主・顕如が石山を退去し鷺森御坊に入る。鷺森が本願寺の本山となる 12

天正10年 (1582)

本能寺の変。信長が計画していたとされる鷺森攻撃が消滅する 14

天正11年 (1583)

顕如が和泉国貝塚へ移転。鷺森は再び本願寺の別院となる 12

天正13年 (1585)

豊臣秀吉による紀州征伐。雑賀衆は壊滅し、鷺森御坊は急速に衰退する 7

享保8年 (1723)

江戸時代、紀州門徒の支援により本堂が再建される 4

昭和20年 (1945)

和歌山大空襲により伽藍の大部分を焼失 10

平成6年 (1994)

現在の本堂が再建される 7

第一章:紀伊における本願寺教団の黎明 ― 蓮如の布教と鷺森御坊の濫觴

鷺森御坊の歴史を理解するためには、まず本願寺第八世法主・蓮如(1415-1499)の存在に触れなければならない。蓮如が法主を継承した15世紀半ばの本願寺は、青蓮院の一末寺に過ぎず、比叡山延暦寺からの弾圧を受けるなど、衰退の極みにあった 5 。この窮状を打破すべく、蓮如は革新的な布教戦略を展開した。その核心は、難解な教義ではなく、平易な言葉で書かれた手紙形式の法話「御文章(御文)」を各地の門徒に配布し、集会(講)で読み聞かせるという手法であった。これにより、文字の読めない民衆にも直接的に教えが浸透し、本願寺の教勢は爆発的に拡大したのである 17

この蓮如の布教活動が紀伊国に結実した象徴的な出来事が、鷺森御坊の起源とされる道場の建立である。元禄六年(1693年)に成立した『鷺森旧事記』によれば、その濫觴は文明八年(1476年)に遡る。紀伊国海士郡冷水浦(現在の和歌山県海南市)の住人、喜六太夫という人物が、後世菩提を願って岩屋の観世音に祈り続けていたところ、ある夜、夢に観音が現れ「藤代峠で最初に出会う僧がお前の善知識である」との告げを受けた。翌朝、喜六太夫が峠で待っていると、紀伊での布教を目指していた蓮如上人が現れ、深く帰依したという 6 。蓮如は喜六太夫に「了賢」という法名と、宗祖親鸞と蓮如自身の姿を描いた二尊連座の画像を授与し、これを受けて了賢は冷水浦に道場を建立した。これが鷺森御坊の直接の前身である 3

この創建伝承は、史実として蓮如が同年、同地を訪れた確証がない点などから、全てが事実とは言い難い 7 。しかし、この物語は単なる縁起話を超えた重要な意味を持つ。それは、本願寺教団が地方へ浸透する際の巧みな戦略を象徴しているからだ。中央の絶対的権威である蓮如と、地域の有力者である了賢が直接結びつく。そして、その出会いを観音の夢告という超自然的な奇跡譚で権威付ける。この構造は、教団が各地の土着の信仰や物語と融合しながら、その正統性を確立し、深く根を下ろしていった典型的なパターンを示している。この伝承は、蓮如の布教戦略の本質を理解するための、極めて示唆に富んだテキストと評価できる。

文明十八年(1486年)には、蓮如自身が紀伊に下向し、この冷水道場に宿泊した記録が残っており、これを契機に紀伊国内における本願寺教団の勢力は確固たるものとなった 7 。一人の在地信者の帰依から始まった小さな道場が、やがて戦国時代を揺るがす強大な宗教・軍事拠点へと発展する、その最初の礎石はこの時に置かれたのである。

鷺森御坊に関わる主要人物一覧

人物名

役職・立場

鷺森御坊との関わり

蓮如

本願寺第八世法主

中興の祖。鷺森御坊の事実上の開基であり、紀伊国における本願寺教団の礎を築いた 5

了賢 (喜六太夫)

紀伊国冷水浦の在地信者

蓮如に帰依し、鷺森御坊の前身となる最初の道場を建立したとされる創設者 3

顕如

本願寺第十一世法主

石山合戦を指導。織田信長との和睦後、1580年から1583年まで鷺森を本願寺の臨時本拠地とした 12

教如

顕如の長男、後の東本願寺初代門主

信長との徹底抗戦を主張し、和睦を受け入れた父・顕如と対立。本願寺分裂の遠因を作った 8

鈴木孫一 (重秀)

雑賀衆の有力指導者

熱心な浄土真宗門徒として本願寺を軍事的に支援したが、後に信長と通じ、雑賀衆内部の対立を引き起こした 20

土橋氏

雑賀衆の有力指導者

反信長・徹底抗戦派として鈴木孫一と対立。本願寺との関係は、信仰よりも政治的側面が強かったとされる 20

第二章:要塞化する信仰拠点 ― 黒江、弥勒寺山、そして鷺森へ

冷水浦に誕生した道場は、紀伊国における本願寺教団の勢力拡大に伴い、その拠点を戦略的に移転させていく。この移転の軌跡は、教団が単なる宗教団体から、経済力と軍事力を備えた自立的勢力へと変貌していく過程そのものを物語っている。

まず永正四年(1507年)、拠点はより多くの門徒を擁する名草郡黒江(現在の海南市)へと移された 4 。次いで天文十九年(1550年)には、和歌浦を見下ろす弥勒寺山(現在の和歌山市)へと移る 4 。この弥勒寺山への移転は、単なる信仰の中心地の移動ではなく、軍事的な意図を明確に示すものであった。そして最終的に永禄六年(1563年)、拠点は雑賀荘鷺森の現在地へと移され、ここから「雑賀御坊」あるいは「鷺森御坊」として、その名を歴史に刻むことになる 4

鷺森という地が最終的な拠点として選ばれた理由は、その卓越した戦略的価値にあった。地理的・経済的には、紀伊湊や市場に近接しており、海上交通と商業の要衝であった 25 。これにより、寺院を中心に商工業者が集住する「寺内町」が形成され、強固な経済基盤を築くことが可能となった 26 。そして軍事的には、当時の紀伊国で守護の畠山氏に代わって実質的な支配者となっていた武装集団「雑賀衆」の本拠地の只中に位置していた 25 。この立地は、雑賀衆の強力な軍事力を背景に、教団の安全を確保する上でこの上ない利点をもたらした。

鷺森御坊は、単なる寺院建築物ではなかった。それは、堀や土塁によって厳重に防御された一種の城塞都市であった。近年の発掘調査では、その実態が裏付けられている。2015年に御坊の南辺にあたる和歌山市立城北小学校の敷地で行われた調査では、幅約16メートルから17メートル、深さ3メートルにも及ぶ大規模な堀の跡が検出された 10 。これは、鷺森御坊が外部からの攻撃を想定した、極めて高い防御機能を持つ要塞であったことを示す動かぬ証拠である。

冷水浦のささやかな道場から、黒江、弥勒寺山を経て、経済と軍事の結節点である鷺森に至る移転の軌跡。それは、本願寺教団が紀伊において、大名権力からも自立した「国家内国家」とも言うべき存在へと成長していく野心的なプロセスであった。鷺森御坊の完成は、その到達点を示すものであった。

第三章:石山合戦と雑賀衆 ― 本願寺を支えた最強の門徒

元亀元年(1570年)、天下布武を進める織田信長と、摂津国石山に本拠を置く本願寺との間で、11年にも及ぶ長大な戦い、いわゆる石山合戦が勃発した。この戦いにおいて、鷺森御坊は極めて重要な役割を担うことになる。紀州門徒の拠点として、また雑賀衆の出撃基地として、包囲された石山本願寺を支える最重要の戦略拠点となったのである 4

本願寺が信長の圧倒的な軍事力に長期間抗戦できた最大の要因は、雑賀衆の存在であった。彼らは、紀ノ川河口域の地理的利点を活かした海運業や貿易を通じて、当時最新鋭の兵器であった鉄砲をいち早く、かつ大量に入手・生産する体制を整えていた 23 。「雑賀衆を味方にすれば必ず勝ち、敵にすれば必ず負ける」とまで言われた彼らは、優れた射撃技術と巧みな戦術を駆使する、戦国最強の傭兵集団であった 13 。彼らが石山本願寺に籠城し、また毛利水軍と連携して信長軍の海上補給路を脅かしたことが、戦線を膠着させたのである。

この石山合戦における鷺森御坊の機能は、単に兵士を送り出す前線基地にとどまるものではなかった。信長の支配網が及ばない海上ルートを利用し、石山本願寺へ兵糧や弾薬を補給する 兵站基地 としての役割が極めて重要であった。紀伊湊に近いという鷺森の立地は、この補給作戦の起点として最適だったのである 25

さらに、鷺森御坊は複雑な雑賀衆を束ねる 政治工作の拠点 でもあった。雑賀衆は決して一枚岩の組織ではなく、内部に深刻な対立を抱えていた。特に石山合戦の終盤、信長との和睦を模索する穏健派の鈴木孫一(重秀)と、徹底抗戦を主張する強硬派の土橋氏との間には、主導権を巡る激しい争いがあった 20 。加えて、鈴木氏が熱心な浄土真宗門徒であったのに対し、土橋氏は浄土宗西山派を信仰していたとされ、本願寺への協力が必ずしも純粋な信仰心のみに基づいていたわけではないことが示唆されている 20 。このような利害も信仰も異なる集団をまとめ、本願寺のために戦わせ続けるためには、教団の権威を利用した調停や、経済的支援を含む高度な政治交渉が不可欠であった。その交渉の舞台こそが、雑賀衆の中心に位置する鷺森御坊だったのである。鷺森御坊は、軍事、経済、政治の三つの機能を併せ持つ、近代的な司令部として機能していたと評価できる。

第四章:本願寺の臨時首都 ― 法主・顕如の鷺森時代(1580-1583)

天正八年(1580年)、11年にわたる石山合戦は、正親町天皇の勅命を介した和睦という形で終結を迎える。しかし、この和睦は本願寺内部に新たな亀裂を生んだ。法主である第十一世・顕如は和睦を受け入れ、石山本願寺からの退去を決断した。これに対し、長男の教如は和睦を不服とし、徹底抗戦を叫んで石山に籠城を続けたのである 9 。この父子の深刻な対立は、後に本願寺が西と東に分裂する直接的な原因となった。

同年、和睦条項に従い石山を退去した顕如が、次なる本拠地として選んだのが、紀伊国の鷺森御坊であった 12 。顕如一行を迎え入れた鷺森御坊は、単なる別院から「鷺森本願寺」と称されるようになり、天正十一年(1583年)に顕如が和泉国貝塚へと移るまでの約三年間、名実ともに本願寺教団の臨時首都として機能した 4

顕如の鷺森移座は、単なる敗走や亡命ではなかった。それは、高度に政治的な意図に基づいた戦略的拠点移動であった。第一に、石山で抵抗を続ける教如派から物理的に距離を置くことで、教団内における自らの主導権を再確立する狙いがあった。第二に、本願寺教団の最強の支持基盤である雑賀衆の只中に身を置くことで、自らの権威を再確認し、信長に対して「本願寺は未だ健在である」と誇示する狙いがあった。石山という「城」は失ったが、鷺森という「軍事・政治拠点」を得ることで、戦いの継続を宣言したに等しい行為だったのである。

この鷺森本願寺時代、教団の運営は顕如を中心に行われ、実務は現地の責任者である輪番や、顕如に随行してきた譜代の家臣団である下間氏ら坊官が担ったと考えられる 7 。下間頼廉らは信長との和睦交渉にも深く関与しており、鷺森においても顕如の側近として重きをなしていたと推察される 37

この時期、日本の歴史を揺るがす大事件が起こる。天正十年(1582年)6月の本能寺の変である。この事件は鷺森の運命を劇的に変えた。『陰徳太平記』などの軍記物によれば、信長は変の直前、三男の織田信孝に対し、四国出兵に先立って鷺森を制圧するよう命じていたとされる 14 。もし本能寺の変がなければ、鷺森は織田の大軍に包囲され、壮絶な攻防戦の末に攻め滅ぼされていた可能性が極めて高い。信長の死は、鷺森本願寺を最大の危機から救ったのである。

第五章:天下統一の奔流の中で ― 紀州征伐、衰退、そして再興

本能寺の変後、織田信長の後継者として天下統一事業を継承した羽柴(豊臣)秀吉にとって、紀伊国に割拠する雑賀衆や根来衆といった独立性の高い武装勢力は、自らの支配体制を確立する上で看過できない存在であった 38 。秀吉は、これらの勢力が小牧・長久手の戦いで徳川家康と結託して背後を脅かす動きを見せたことを受け、その制圧を決意する。

この新たな権力者との緊張関係を察知した顕如は、秀吉との直接対決を避け、またあらぬ疑いをかけられるのを避けるため、天正十一年(1583年)7月、鷺森を離れて和泉国貝塚(現在の願泉寺)へと拠点を移した 14 。この顕如の退去は、鷺森御坊の運命を決定づけるものであった。教団の最高指導者を失った鷺森は、その政治的中心地としての地位を失ったのである。

そして天正十三年(1585年)、秀吉は自ら十万ともいわれる大軍を率いて紀州征伐を敢行した。根来寺は焼き討ちに遭って灰燼に帰し、雑賀衆も太田城での水攻めなど、秀吉軍の圧倒的な物量の前に徹底的に弾圧され、組織としては壊滅した 13 。精神的支柱であった顕如と、軍事的支柱であった雑賀衆を同時に失った鷺森御坊は、その影響力を急速に失い、かつての栄光を過去のものとして一地方寺院へと衰退していった 7

鷺森御坊のこの衰退史は、戦国時代に特有であった「武装し、領地を支配する宗教勢力」が解体され、近世的な「為政者の統制下にある純粋な宗教団体」へと変質させられていく、いわゆる「宗教の近世化」の典型的な事例と見ることができる。戦国時代の寺社は、土地(荘園)、経済力(商業)、軍事力(僧兵)を併せ持つ独立勢力であったが、秀吉や徳川幕府にとって、それは天下統一の障害でしかなかった。顕如が秀吉の意向を汲んで鷺森を去り、最終的に京都の天満に寺地を与えられて本願寺を再興したことは 17 、本願寺が武装を放棄し、世俗権力に従うことで存続を許されるという、新たな時代のルールを受け入れたことを象徴している。

江戸時代に入ると、鷺森御坊は紀州徳川家の統治下で「本願寺鷺森別院」として存続した。紀州藩の庇護と、地域の門徒たちの篤い支援により、享保八年(1723年)や明和五年(1768年)には堂宇が再建されるなど、信仰の灯は守り続けられた 7 。しかし、かつて寺内町を囲んでいた広大な堀は、和歌山城下の整備に伴い埋め立てられ、城塞としての機能は完全に失われた 29 。そして昭和二十年(1945年)7月、和歌山大空襲によって伽藍の大部分を焼失するという悲劇に見舞われたが、戦後、門徒の尽力により再建され、平成六年(1994年)には現在の壮麗な本堂が完成し、今日に至っている 7

結論:戦国史における鷺森御坊の歴史的遺産

本報告書で詳述してきた通り、「鷺森蓮教」という名は特定の個人ではなく、鷺森御坊の激動の歴史を凝縮した象徴的な呼称であった。その歴史を解き明かすことは、戦国時代という時代の特質を多角的に理解することに繋がる。

鷺森御坊の歴史は、それが単一の機能を持つ施設ではなかったことを明確に示している。それは、蓮如の布教思想を体現する 信仰の拠点 であると同時に、寺内町を擁して交易を担う 経済の中心 であり、雑賀衆と一体化した難攻不落の 軍事要塞 でもあった。そして、石山合戦後のわずか三年間ではあるが、法主・顕如を戴き、全国の門徒を統括する本願寺教団の 臨時首都 として、日本の政治史に直接的な影響を与えた。これほど多層的な役割を一つの寺院が果たした例は、日本史上でも稀有である。

特に、鷺森御坊と雑賀衆との共生関係は、戦国時代の多様な社会のあり方を示す貴重なモデルケースと言える。中央の宗教的権威と、地域の自立的武士団が結びつくことで、織田信長という巨大な統一権力にさえ十数年にわたり対抗しうる、強固な社会システムを形成した。その成功と、最終的に天下統一の奔流に飲み込まれていく限界の両側面は、戦国から近世への社会構造の転換を理解する上で、重要な示唆を与えてくれる。

度重なる拠点の移転、戦乱、そして大空襲による焼失。幾多の困難を乗り越え、現代においてなお和歌山の地に信仰の拠点を保ち続ける本願寺鷺森別院の存在そのものが、その歴史的遺産である。その歴史は、信仰というものが時代の荒波の中でいかにして生き抜き、時には権力と結びつき、時には弾圧されながらも変容し、地域社会に深く根差し続けるかという、普遍的なテーマを我々に力強く提示している。

引用文献

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