戦国時代の越後国(現在の新潟県)を語る上で、上杉謙信の威光はあまりにも大きい。しかし、その強大な権力の影には、独立の気風に富み、時には反抗し、時には協調しながら自らの存続を図った数多の国人領主たちの存在があった。本稿で詳述する黒川清実(くろかわ きよざね)は、そうした国人領主の中でも、特に越後北部に割拠した「揚北衆(あがきたしゅう)」を代表する、極めて重要かつ複雑な動向を示した人物である。
一般的に黒川清実は「上杉家臣」として紹介されることが多いが、その実像は単なる従属的な家臣に留まらない。彼の生涯は、戦国という激動の時代において、一族の命運と領地の自立性を賭けた、連続的な戦略的判断の軌跡そのものであった。彼の行動を理解する上で最も重要な鍵となるのが、同じ三浦一族の血を引きながら、所領を接する宿敵であった中条(なかじょう)氏との根深い対立関係である。この対立軸こそが、越後国内における彼の立場を規定し、隣国・陸奥の伊達氏との外交関係にまで決定的な影響を及ぼした。清実の政治的・軍事的な選択は、この「対中条氏」というプリズムを通して見るとき、一見すると日和見主義的、あるいは矛盾しているかに見える行動が、驚くほど一貫した論理に基づいていることが明らかになる。
以下の表は、清実が関わった主要な紛争における彼の立場変遷をまとめたものである。これを見れば、彼の選択が常に中条氏と対極に位置していたことが一目瞭然であろう。
表1: 黒川清実の主要な紛争における立場変遷
紛争 |
年代 |
黒川清実の立場 |
主な対立相手(越後国内の宿敵) |
享禄・天文の乱 |
1530年-1536年 |
当初長尾為景方、後に上条定憲方へ転身 |
長尾為景、および為景派国人 |
伊達時宗丸入嗣問題 |
1538年頃-1548年 |
養子縁組に反対(伊達晴宗方) |
中条藤資(養子縁組推進派、伊達稙宗方) |
長尾氏家督争い |
1547年-1548年 |
長尾晴景を支持 |
中条藤資(長尾景虎を擁立) |
御館の乱 |
1578年-1579年 |
上杉景虎を支持 |
上杉景勝、および中条氏 |
本稿は、黒川氏の出自と、彼が属した揚北衆という特異な国人連合の実態から説き起こす。そして、守護代・長尾為景の時代に越後を揺るがした享禄・天文の乱、伊達氏の内乱と連動した揚北衆の分裂、長尾景虎(上杉謙信)の台頭、そして謙信死後の御館の乱といった歴史的事件の渦中で、清実がいかなる決断を下し、いかにして自らの家と領地を守り抜こうとしたのかを、史料に基づき時系列で徹底的に分析し、その知られざる武将像に迫るものである。
黒川清実の行動原理を理解するためには、まず彼が背負っていた一族の歴史と、彼が属した「揚北衆」という政治的共同体の特質を把握することが不可欠である。彼の選択は、個人的な資質のみならず、鎌倉時代にまで遡る構造的な対立と、独立を志向する地域性に深く根差していた。
黒川氏は、その出自を辿れば、相模国(現在の神奈川県)に発祥し、鎌倉幕府の創立に多大な功績を挙げた桓武平氏三浦氏流和田氏に行き着く名門の武家である 1 。源平の争乱後、和田義盛の弟・義茂が戦功により越後国蒲原郡奥山荘(現在の新潟県胎内市一帯)の地頭職を与えられたことが、一族の越後における歴史の始まりであった 3 。義茂の子・時茂の代には、この地への支配を確固たるものとし、三浦一族の総領家として「三浦和田氏」と称されるようになる 4 。
この奥山荘の支配体制に決定的な転機が訪れたのは、建治3年(1277年)のことである。和田時茂は、自らの所領である広大な奥山荘を、3人の孫に分割して譲与した 3 。この時、荘内の中央部は茂連(後の
中条氏 の祖)、北部は茂長(後の 黒川氏 の祖)、南部は義基(後の 関沢氏 の祖)に与えられた 3 。この分割相続こそが、後の数百年にわたる同族間の熾烈な抗争の出発点となった。一つの荘園が人為的に三分割され、それぞれが独立した領主(惣領)となる体制が生まれたことで、彼らは所領の境界や水利権、経済的利権を巡って絶えず争う宿命を背負うことになったのである 3 。黒川氏は、この奥山荘の北半分にあたる「北条(きたじょう)」を本拠とし、黒川城を居城として勢力を扶植していった 1 。
黒川氏が属した揚北衆とは、越後の大河・阿賀野川(揚河)の北岸地域に割拠した国人領主たちの総称である 7 。彼らの多くは、黒川氏と同じく鎌倉時代に地頭として越後に入国した武士団の末裔であり、その出自は多岐にわたる。奥山荘を領した三浦党(中条氏、黒川氏)、小泉荘を領した秩父党(本庄氏、色部氏)、加地荘を領した佐々木党(加地氏、新発田氏)などがその代表格であった 7 。
彼らに共通していたのは、鎌倉以来この地を治めてきたという強い自負心と、それに基づく極めて旺盛な独立精神であった。南北朝時代以降に越後の支配者となった守護・上杉氏や、その実権を握る守護代・長尾氏に対し、揚北衆は一筋縄ではいかない存在であり続けた。彼らは自らの利害のためには団結して守護・守護代に反旗を翻すことも辞さず、戦国中期に至るまで越後の政情を不安定にさせる大きな要因の一つとなっていた 7 。黒川清実もまた、この揚北衆三浦党の有力領主として、常に自立性を確保することを念頭に置いて行動していたのである 1 。
揚北衆の中でも、黒川氏にとって最も複雑で決定的な関係にあったのが中条氏であった。前述の通り、両氏は同じ三浦和田氏の血を引く同族でありながら、奥山荘の分割相続という歴史的経緯から、宿命的なライバル関係にあった 3 。彼らの本拠地は胎内川を挟んで隣接しており、その関係は常に緊張をはらんでいた 5 。
この構造的な対立は、いわば「ゼロサムゲーム」の様相を呈していた。一方が勢力を拡大すれば、もう一方の相対的な地位は低下する。このため、黒川氏と中条氏は、越後の政治動乱や周辺大国の介入といった外部要因が発生するたびに、ほとんど常に正反対の陣営に与することで、互いを牽制し、自らの優位を確保しようと試みた。黒川清実の生涯を貫く政治的・軍事的判断の根底には、常にこの「対中条氏」という基本戦略が存在した。彼の行動を読み解くことは、この根深いライバル関係の力学を理解することと同義なのである。
戦国時代の越後において、国人領主たちが自らの立場を明確にせざるを得なくなった最初の大きな動乱が、享禄・天文の乱(1530年-1536年)であった。この乱は、下剋上によって守護代の地位を固めた長尾為景の権力に対し、守護・上杉定実を担いだ上条定憲らが反旗を翻したことで始まった、越後全土を巻き込む大規模な内乱である 13 。この激動の中で、黒川清実は極めて計算された政治的判断を下していく。
享禄3年(1530年)に乱が勃発した当初、黒川清実は守護代・長尾為景の陣営に属していた 15 。その最も明確な証拠が、翌享禄4年(1531年)に作成された『越後国人衆軍陣壁書』に、清実が名を連ねていることである 15 。この文書は、為景を中心とした国人領主たちが一揆契約を結び、団結を誓ったものであり、この時点での清実が為景主導の国政運営体制に組み込まれていたことを示している。
当初、為景方は将軍・足利義晴の後ろ盾もあって優勢に戦を進めており、清実をはじめとする多くの国人にとって、為景に従うことは時流に乗るための現実的な選択であったと考えられる 16 。しかし、この協調関係は長くは続かなかった。
乱が長期化し、為景の権勢にも陰りが見え始めると、清実の立場は大きく変化する。天文4年(1535年)8月までには、彼は長尾為景を見限り、敵対する上条定憲方に転じていたことが確認されている 15 。この行動は、単なる個人の裏切りや日和見主義として片付けるべきではない。むしろ、それは揚北衆という国人領主連合の集合的な利益を代表した、高度に政治的な戦略転換であったと解釈できる。
長尾為景の権力は、守護を凌駕し、越後国内の支配を中央集権化しようとするものであった。これは、鎌倉以来の在地支配者としての自立性を重んじる揚北衆にとって、看過できない脅威であった 7 。乱の長期化は、為景の力を削ぎ、国人領主たちが自らの発言力を回復する好機と映った。色部勝長や本庄房長といった他の揚北衆の有力者たちもまた、この時期に反為景方に転じている 17 。清実の転身は、こうした揚北衆全体の戦略的な動きと軌を一にするものであり、強大化しすぎる権力を牽制し、越後国内の勢力均衡を保つことで、自らの独立性を維持しようとする計算された行動だったのである。
揚北衆を含む反為景勢力の抵抗は功を奏し、天文5年(1536年)8月、長尾為景はついに嫡男・晴景に家督を譲って隠居に追い込まれ、8年近く続いた内乱は鎮静化へと向かった 13 。
乱の終結後、清実がどのような経緯で長尾家に帰参したかを直接示す史料は乏しい。しかし、為景の隠居と晴景の新体制発足に伴い、他の国人衆と同様に、大きな処罰を受けることなく上杉家臣団の一員として復帰したものと考えられる 1 。この一連の動きは、清実が単に戦の勝敗に一喜一憂するのではなく、越後国全体のパワーバランスを見極め、自らの政治的・経済的基盤である「国人領主」としての立場を最大限に守り抜こうとする、したたかな政治家であったことを示している。彼の目的は、特定の主君に殉じることではなく、黒川一族の存続と自立性の確保にあったのである。
享禄・天文の乱が終息しても、越後に平和は訪れなかった。次なる火種は、国外から持ち込まれた。守護・上杉定実の後継者問題と、それに連動した陸奥国(現在の東北地方北西部)の雄・伊達氏の内乱である。この複雑な国際情勢は、揚北衆の内部対立を激化させ、黒川清実は再び重大な岐路に立たされることになった。
越後守護・上杉定実には実子がおらず、このままでは守護上杉家が断絶する危機にあった 20 。ここに目を付けたのが、南奥羽に広大な勢力圏を築いていた伊達稙宗であった。稙宗は、自らの三男・時宗丸(後の伊達実元)を定実の養子として送り込み、越後の国政に影響力を行使しようと画策した 21 。
この「伊達時宗丸入嗣問題」は、越後国人、特に揚北衆を真っ二つに引き裂いた。宿敵同士である黒川氏と中条氏の動きは、ここでも対照的であった。中条藤資は伊達氏と深く通じており、この養子縁組を積極的に推進する中心人物となった 23 。彼の狙いは、伊達氏という強大な後ろ盾を得て、越後国内における自らの地位を盤石にし、ライバルである他の揚北衆を圧倒することにあった。
これに対し、黒川清実は、本庄房長や色部勝長らと共に、養子縁組に猛然と反対した 15 。彼らにとって、中条氏が伊達氏の威光を背景に強大化することは、自らの存立を脅かす悪夢に他ならなかった。こうして、奥山荘の局地的なライバル関係は、越後の将来を左右する外交問題へと発展し、揚北衆は「中条(推進派)」対「黒川・本庄(反対派)」という構図で激しく対立することになったのである。
越後の混乱は、伊達家内部の深刻な対立と完全にシンクロしていた。養子縁組をはじめとする父・稙宗の急進的な拡大政策に、嫡男・伊達晴宗が反発。天文11年(1542年)、ついに父子が戈を交える「伊達氏天文の乱」が勃発した 20 。
この南奥羽全土を巻き込む大乱において、越後の国人たちもそれぞれの思惑でどちらかの陣営に与した。中条藤資が父・稙宗方に与したのは当然の帰結であった。これに対し、黒川清実は、その対抗上、必然的に嫡男・晴宗方に与した 15 。これは、清実の卓越した外交感覚を示すものであった。彼は、越後国内の宿敵・中条氏を牽制するために、その背後にいる伊達稙宗と敵対する伊達晴宗と手を結ぶという、典型的な「遠交近攻」戦略を展開したのである。これにより、越後揚北の紛争は、伊達氏の内乱の代理戦争という側面を色濃く帯びることとなった。
国外の動乱と並行して、越後国内でも新たな権力闘争が始まっていた。長尾為景の跡を継いだ晴景は病弱で統率力に欠け、家臣団の不満が募っていた 28 。天文16年(1547年)、この状況を打開すべく、晴景の弟・景虎(後の上杉謙信)を新たな当主として擁立しようとする動きが起こる。このクーデターを主導したのが、他ならぬ中条藤資であった 21 。
中条藤資が景虎を担ぐ以上、黒川清実の選択肢は一つしかなかった。彼は宿敵への対抗上、現当主である長尾晴景を支持し、景虎・中条派と武力で対峙した 1 。ここでの清実の選択は、晴景個人への忠誠心というよりは、景虎の背後にいる中条藤資への強い敵愾心から生まれた、極めて合理的なものであった。彼の行動は、常に「反・中条」という一貫した論理で説明できるのである。
この長尾家の内紛は、守護・上杉定実の調停によって、晴景が景虎を養子として家督を譲るという形で決着した 21 。結果として、景虎擁立に反対した清実は、新たな国主となった景虎の下で、政治的に極めて不利な立場に置かれることになった。彼の戦略は、短期的には裏目に出たかに見えた。しかし、この苦境から彼が如何にして立ち直り、新たな権力者である謙信との関係を再構築していくのかが、次なる焦点となる。
長尾景虎(後の上杉政虎、輝虎、そして謙信)が越後の国主としてその地位を確立すると、かつて彼に敵対した黒川清実の立場は著しく悪化した 1 。しかし、清実は単に没落するのではなく、巧みな立ち回りで新たな支配体制の中に自らの地位を確保していく。この時期の彼の動向は、強大な戦国大名の支配下に入った国人領主が、いかにして服従と自立の狭間で生き残りを図ったかを示す好例である。
景虎が長尾家の家督を継ぎ、やがて守護上杉家の断絶に伴い、将軍から越後国主としての地位を公認されると 21 、清実もその権威を認め、恭順の意を示した 1 。彼は上杉家臣団の一員として、その軍事行動に加わることになる。特に、上杉謙信の生涯を代表する合戦である川中島の戦いにも参陣しており、国衆としての軍役を忠実に果たしていたことが記録されている 1 。これは、清実が過去の対立を清算し、新たな支配者である謙信との主従関係を受け入れたことを示している。
清実が謙信の家臣として巧みに立ち回ったことを示す最も象徴的な出来事が、天文23年(1554年)に謙信から「郡司不入(ぐんじふにゅう)」の特権を認められたことである 1 。郡司不入とは、荘園などの所領に対し、国司や守護・守護代が派遣する徴税や検地の役人(郡司)の立ち入りを拒否できる権利を指す 32 。これは、領主が自らの領地を排他的・一体的に支配する「一円支配」を公的に認められたことを意味し、国人領主にとって自立性の証ともいえる極めて重要な特権であった 35 。
この特権の授与が持つ政治的意義は大きい。かつて謙信の父・為景と対立した守護・上杉房能は、国人領主の力を削ぐために、この郡司不入権の破棄を政策として打ち出したことがあった 37 。つまり、この特権は、越後の支配者と国人領主との間の緊張関係を象徴するものであった。その重要な特権を、かつて自分に敵対した清実に、謙信があえて認めたのである。
これは単なる温情や恩賞ではない。高度な政治的取引であったと見るべきである。謙信は、揚北衆のような独立性の強い国人たちを武力で完全に制圧するのではなく、彼らが伝統的に有してきた在地での支配権(権威)を公式に認めるという「実利」を与えることで、彼らのプライドを満足させ、自らへの忠誠を促した。その見返りとして、謙信は彼らから安定した軍事力の供給を確保し、関東や北陸への大規模な遠征を可能にしたのである。清実への郡司不入権の承認は、武力と権威を巧みに使い分け、国人領主を統制した謙信の卓越した統治能力の証左といえる。
謙信政権下における黒川氏の重要性は、天正3年(1575年)に作成された『上杉家軍役帳』によって具体的に裏付けられる。この軍役帳は、上杉家の家臣たちが動員すべき兵数を定めたものであり、各領主の軍事力と政治的地位を客観的に示す一級史料である。
この中で、黒川清実(史料では「黒川史郎次郎」)は、148人の軍役を課せられている 1 。これに「同心」として率いるべき35人を加えると、総勢183人(一部史料では同心31人で総勢179人 15 )となり、これは上杉家臣団の中でも屈指の兵力であった。特に、彼が属する揚北衆(史料では「下郡」)の中では、宿敵である中条氏に次ぐ第2位の席次を与えられている 1 。これは、清実が謙信の支配下にあっても、依然として揚北の地で強大な勢力を保持する有力領主であり続けたことを明確に示している。彼は服従の姿勢を見せながらも、自らの軍事力を背景に、したたかにその実力を維持していたのである。
天正6年(1578年)3月、上杉謙信の突然の死は、越後国を再び未曾有の混乱に陥れた。謙信が後継者を明確に定めなかったため、二人の養子、すなわち姉の子である上杉景勝と、北条氏康の子で人質として迎えられていた上杉景虎との間で、熾烈な家督相続争い「御館の乱」が勃発したのである 28 。この上杉家の屋台骨を揺るがす内乱において、黒川清実は生涯最後の、そして最大の賭けに出る。
この家督争いにおいて、黒川清実は迷わず上杉景虎方に加担した 1 。この選択は、彼の生涯を貫いてきた行動原理、すなわち「反・中条」の論理の当然の帰結であった。景勝を支持する中核勢力が、他ならぬ宿敵・中条氏であったからである。景勝が勝利すれば、中条氏の発言力が増大し、黒川氏の立場が相対的に低下することは火を見るより明らかであった。清実にとって、景虎を支持することは、一族の将来を守るための必然的な選択だったのである。
乱が始まると、清実は景虎方の中核として軍事行動を開始する。彼の最初の標的は、景勝方の重要拠点であり、長年の宿敵・中条氏の本拠地である鳥坂城であった 15 。清実はこの鳥坂城を攻撃し、一時は占領することに成功する 2 。しかし、その攻勢は長くは続かなかった。清実が鳥坂城に兵力を集中させている隙を突き、中条氏の一族である築地城主・築地資豊が黒川氏の領地に侵攻。さらに、占拠していた鳥坂城も資豊によって奪還されてしまうなど、戦況は一進一退の激しい攻防となった 1 。
戦局は次第に、越後国人の広範な支持を得た景勝方に有利に傾いていった。自らの敗北を予期した清実は、ここでも老練な外交手腕を発揮する。彼は、かつて伊達氏天文の乱で共に戦った伊達晴宗の子であり、当時の伊達家当主であった伊達輝宗に密かに連絡を取り、援助を求めると同時に、万が一敗北した際の保護を約束させていた 15 。この外交チャンネルは、数十年の時を経て、黒川一族の生命線となる。
天正7年(1579年)4月、景虎方が総崩れとなり、清実が拠点としていた鳥坂城も完全に陥落すると、彼は事前の約束通り、伊達氏を頼って陸奥国へと落ち延びた 15 。通常、内乱の敗将とその一族は、勝者によって滅ぼされるのが戦国の常である。しかし、黒川氏は生き延びた。乱に勝利した上杉景勝に対し、伊達輝宗が清実の赦免を強く働きかけたのである 1 。内乱によって疲弊し、東の伊達氏、西の織田氏という強大な勢力に挟まれていた景勝にとって、伊達氏との関係をこれ以上悪化させるのは得策ではなかった。景勝は輝宗の仲介を受け入れ、清実の罪を許し、上杉家への帰参を認めた 15 。
清実の生存と帰参は、彼個人の武勇や政治力以上に、伊達氏との長年にわたる外交関係という「無形の資産」がいかに重要であったかを物語っている。伊達氏天文の乱の際に築かれた同盟関係が、数十年後、一族最大の危機を救ったのである。これは、戦国国人領主の生存戦略において、軍事力、内政、そして外交がいかに不可分であったかを示す、まさに典型的な事例であった。
帰参を許された清実は、その後、新たな主君である上杉景勝に従った。天正10年(1582年)には、景勝に反旗を翻した同じ揚北衆の新発田重家の乱において、景勝方の陣に加わっていることが確認されており 1 、晩年まで武将としての務めを果たしたことがうかがえる。
清実の没年は不明であるが、彼の死後、黒川家の家督は子の為実が継いだ 1 。そして、豊臣秀吉の天下統一に伴う上杉家の会津120万石への移封、さらに関ヶ原の戦いを経ての米沢30万石への減転封という激動の時代において、黒川為実は上杉家に従い続けた 1 。彼は父祖伝来の地である奥山荘の黒川城を廃し、一族を率いて会津へ、そして米沢へと移住したのである。米沢藩において、黒川氏は1292石を知行する藩士として存続した 1 。
これにより、鎌倉時代から約400年にわたって続いた、黒川氏による越後国奥山荘の支配は、名実ともに終焉を迎えた。しかし、それは一族の滅亡を意味するものではなかった。清実がその生涯をかけて守り抜いた黒川氏は、戦国大名・上杉家の家臣団に組み込まれる形で、近世大名家の家臣として新たな時代を生き抜いていくことになったのである。
戦国武将・黒川清実の生涯は、上杉謙信という巨星の影に隠れがちであるが、その軌跡を丹念に追うことで、戦国時代を生きた地方国人領主のリアルな姿が鮮やかに浮かび上がってくる。
第一に、黒川清実の行動は、単なる日和見主義や気まぐれな裏切りでは説明できない。彼の全ての政治的・軍事的判断の根底には、①宿敵・中条氏との対抗、②黒川一族の領主としての自立性の維持、という二つの一貫した行動原理が存在した。享禄・天文の乱での立場変更、伊達氏天文の乱への介入、長尾家の家督争いへの関与、そして御館の乱での陣営選択に至るまで、彼の決断は常に中条氏と反対の立場を取ることで、自らの相対的優位を保とうとする、極めて合理的な戦略に基づいていた。彼は、激動の時代を生き抜くために、あらゆる政治的・軍事的資源を駆使した、したたかなリアリストであった。
第二に、清実の生き様は、戦国期における中央権力(守護・守護代・戦国大名)と、独立性の高い国人領主との間の緊張と共存の関係性を象徴している。彼は長尾為景の権力集中に抵抗し、長尾景虎(謙信)の台頭に敵対したが、一度その支配が確立すると速やかに恭順し、家臣としての務めを果たした。一方で、謙信から「郡司不入」という伝統的権威を認めさせることで、在地における自らの支配権を再確認させ、実利を確保することも忘れなかった。これは、強大な権力下にあっても、国人領主が完全にそのアイデンティティを失うことなく、自らの存続を図った姿を示す典型的な事例である。
最後に、清実の物語は、戦国史を大名中心の視点だけで捉えることの限界を示唆している。彼の選択は、越後国内の勢力図を左右しただけでなく、伊達氏の内乱に介入することで、隣国の政治動向にも無視できない影響を与えた。御館の乱後の彼の帰参劇は、伊達氏との長年にわたる外交努力が結実したものであり、国人領主の生存戦略が、軍事のみならず、高度な外交戦によっても支えられていたことを証明している。黒川清実という一人の国人領主の生涯は、戦国という時代の複雑な権力力学を体現する、貴重な歴史の証言なのである。彼の存在を理解することなくして、戦国期越後の、ひいては東国全体の歴史を深く理解することはできないであろう。