福岡藩黒田家の栄光の歴史を語る上で、藩祖である黒田官兵衛孝高(如水)と初代藩主・長政父子の名はあまりにも名高い。しかし、その礎を固め、泰平の世へと導く過程において、この父子を支え続けた一人の武将の存在を抜きにしては、その全貌を理解することはできない。その人物こそ、黒田一成(くろだ かずしげ)である。彼は、黒田家精鋭の家臣団を象徴する「黒田二十四騎」、そしてその中でも特に武勇と忠誠を賞賛された「黒田八虎」の一人に数えられる猛将であった 1 。
彼の生涯は、戦国乱世の終焉から徳川幕藩体制が盤石となるまでの、日本の歴史における一大転換期そのものを映し出している。父が藩祖に施した恩義によって運命を切り拓かれた一人の若者が、いかにして主家への絶対的な忠誠を貫き、武勇と文治の両面で比類なき足跡を残したのか。本報告書は、現存する史料を丹念に紐解き、黒田一成という人物の全生涯を多角的に分析し、その歴史的意義を徹底的に解明することを目的とする。
表1:黒田一成 略歴
項目 |
詳細 |
生没年 |
元亀2年(1571年) – 明暦2年11月13日(1656年12月28日) 5 |
改名 |
加藤玉松丸(幼名) → 黒田玉松丸 → 一成 → 睡鷗(号) 1 |
通称 |
清兵衛、三左衛門 5 |
官位 |
美作守 1 |
戒名 |
睡鷗斎休江宗印居士 5 |
墓所 |
崇福寺(福岡市博多区)、清岩禅寺(朝倉市三奈木) 5 |
氏族 |
加藤氏 → 黒田氏(三奈木黒田家) 5 |
主君 |
黒田孝高 → 黒田長政 → 黒田忠之 5 |
家族 |
実父:加藤重徳、母:伊丹親保の娘、養父:黒田孝高 1 |
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妻:栗山利安の娘 5 |
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養子:黒田一任(外孫、久野重時の子) 5 |
この略歴、特に「実父」と「養父」が併記されている点に、彼の生涯の出発点となった特異な経緯が集約されている。彼の物語は、この宿縁から始まるのである。
黒田一成の生涯、そして彼が興した三奈木黒田家が幕末に至るまで福岡藩内で保持し続けた特異な地位の源流は、すべて彼の出生と、父・加藤重徳が黒田官兵衛に施した一つの恩義に遡る。それは、戦国の義理と人情が織りなした、一人の武将の運命を決定づけた出来事であった。
黒田一成は、元亀2年(1571年)、摂津国伊丹(現在の兵庫県伊丹市)において、荒木村重の家臣であった加藤重徳の次男として生を受けた。幼名は玉松といった 1 。父・重徳は、摂津の土豪・伊丹氏の一族とされ、織田信長の勢力が畿内に伸長する複雑な政治状況の渦中に身を置いていた人物である 11 。彼の人生は、主君・荒木村重の決断によって、大きな転換点を迎えることとなる。
天正6年(1578年)、摂津を支配していた荒木村重が、突如として織田信長に反旗を翻し、居城である有岡城に立て籠もるという事件が発生した。この時、信長の命を受けた羽柴秀吉の軍師・黒田官兵衛(当時は小寺孝隆と称す)は、旧知の間柄であった村重を説得すべく単身で有岡城に乗り込んだ。しかし、官兵衛の説得は聞き入れられず、逆に捕縛され、光も届かぬ土牢に幽閉されるという絶体絶命の窮地に陥った 1 。
この官兵衛の牢番を命じられたのが、加藤重徳であった。重徳は、敵方の将でありながら、官兵衛の卓越した知略と高潔な人柄に深く心服するようになる。そして、発覚すれば自らの命も危うくなる危険を顧みず、密かに食料を差し入れ、衣服を与え、官兵衛が命を繋ぐためのあらゆる便宜を図ったのである 1 。一年にも及ぶ過酷な幽閉生活の中で、重徳のこの温情は、官兵衛にとって文字通り唯一の希望の光であった。
官兵衛は重徳の義侠心に深く感謝し、「もし私がこの城から生きて出ることができたならば、その恩義に報いるため、そなたの子を我が子として引き取り、必ずや立派な武士として育て上げよう」と固く約束を交わしたと伝えられている 7 。この土牢での約束が、玉松、すなわち後の一成の運命を大きく動かすことになる。
天正7年(1579年)、織田軍の猛攻の末に有岡城は落城する。官兵衛は、黒田家の家臣・栗山利安らの尽力によって、辛くも救出された 14 。裏切りが日常茶飯事であった戦国の世において、一度交わした約束が反故にされることも珍しくなかったが、義理堅い官兵衛は土牢での誓いを決して忘れなかった。城が落ちる際、主君・村重と運命を共にすることを覚悟した重徳から次男・玉松を託されると、官兵衛は直ちに彼を姫路城へと引き取った 15 。
当時9歳の玉松は、官兵衛の実子である松寿丸(後の黒田長政、当時12歳)の3歳年下の弟分として、兄弟同然に養育された 1 。官兵衛自らの薫陶を受け、武士としての教育を施された玉松は、やがて黒田の姓と「一成」という名を与えられ、黒田家の武将としてその輝かしい第一歩を踏み出すに至るのである。
この一連の経緯は、黒田一成という人物、そして彼が創始した三奈木黒田家が、なぜ福岡藩内で特別な地位を占め続けたのかを解き明かす上で最も重要な鍵となる。彼の地位は、単なる軍功や個人の能力のみによって築かれたものではない。それは、藩祖・官兵衛が「命の恩人」の子であるという、他のいかなる家臣も持ち得ない絶対的な正当性と、神聖視されるほどの強固な絆に裏打ちされていた。後藤又兵衛基次のように、一成に匹敵、あるいはそれ以上の軍功を挙げながらも最終的に黒田家を去った猛将が存在する一方で、一成の家系が幕末まで筆頭家老として存続した事実 10 は、この「有岡城の恩義」という原点が、藩の歴史を通じていかに重い意味を持ち続けたかを雄弁に物語っている。一成の生涯は、この恩義に報いるための忠誠の物語であったと言っても過言ではない。
黒田官兵衛の養子となった一成は、その期待に応えるべく、義兄・黒田長政の最も信頼篤い武将として数多の戦場を駆け巡った。彼の武名は、豊臣秀吉の天下統一戦争から、天下分け目の関ヶ原、そして泰平の世における最後の大規模な内乱であった島原の乱に至るまで、黒田家が経験したほぼ全ての主要な合戦において轟くこととなる。その功績により、彼は黒田家臣団の最高幹部である「黒田八虎」の一人に数えられた。
表2:黒田八虎 一覧
氏名 |
通称・官位 |
藩主との関係・備考 |
井上 之房 |
九郎右衛門、周防守 |
譜代重臣 |
栗山 利安 |
善助、備後守 |
譜代重臣、筆頭家老 |
黒田 一成 |
三左衛門、美作守 |
黒田孝高の養子 |
黒田 利高 |
兵庫助 |
黒田孝高の実弟 |
黒田 利則 |
修理亮 |
黒田孝高の異母弟 |
黒田 直之 |
図書助 |
黒田孝高の異母弟 |
後藤 基次 |
又兵衛 |
譜代重臣、後に大坂の陣で豊臣方 |
母里 友信 |
太兵衛、但馬守 |
譜代重臣、「黒田節」で有名 |
2 )
この一覧が示すように、一成は官兵衛の実弟たちと並び称される存在であり、血縁者と同等の極めて重要な地位を認められていたことがわかる。
天正12年(1584年)、一成は14歳にして、和泉国岸和田における根来・雑賀衆との戦いで初陣を飾る。義兄・長政に従い、若年ながら勇戦したと記録されている 1 。
彼の武名が本格的に高まるのは、天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州平定であった。この戦役において、黒田軍は日向国における島津軍との決戦「根白坂の戦い」に参加。一成は先陣の一隊として奮戦し、敵兵の首を二つ挙げるという明確な武功を立てた 1 。
九州平定後、黒田家は豊前国を与えられるが、在地領主たちの抵抗は激しく、特に豊前の有力国人であった城井鎮房の反乱は黒田軍を大いに苦しめた。いわゆる「城井谷崩れ」と呼ばれる緒戦の敗北で黒田軍が混乱し、敗走を余儀なくされた際、一成は主君・長政の身代わりとなるべく、自ら影武者となることを志願した 1 。この自己犠牲を厭わぬ行動は、彼の主君に対する絶対的な忠誠心の篤さを物語る逸話として、後世まで語り継がれている。
秀吉の号令一下、二度にわたって行われた朝鮮出兵(文禄・慶長の役)において、一成は長政が率いる三番隊の先鋒として朝鮮半島に渡った 1 。文禄の役の緒戦、釜山に上陸した日本軍が最初に攻略した城の一つである金海城(現在の韓国・金海市)の戦いでは、一番乗りの功名を挙げるという華々しい活躍を見せた 1 。
また、明軍の参戦により戦局が膠着する中、平壌城から撤退する小西行長軍を追撃する明軍を迎え撃った白川城の戦いでは、同僚の猛将・後藤基次と共に目覚ましい働きを見せ、殊勲者として賞賛された 1 。
慶長の役における稷山の戦い(1597年)では、黒田長政率いる5,000の軍勢が、漢城(ソウル)を目指して北上する中で数万の明軍と遭遇した。この時、一成は栗山利安らと共に先鋒部隊を率いて明軍と激しく衝突。一時は危機に陥るも、毛利秀元率いる援軍の到着まで持ちこたえ、最終的に明軍を退却させることに成功した 1 。これらの戦功により、「黒田藩に一成あり」と、その名は広く知られるようになった 7 。
豊臣秀吉の死後、天下の情勢は徳川家康と石田三成の対立を軸に大きく動き出す。長政が家康に与することを決断すると、一成も迷わずこれに従った。慶長5年(1600年)、家康の上杉征伐に従軍するため大坂を出立した黒田軍において、一成は後藤基次と共に先手士大将という重責を担った 27 。
関ヶ原の本戦に先立って行われた前哨戦、美濃国・合渡川の戦いでは、西軍が待ち構える長良川の渡河作戦で先陣を切った。連日の雨で増水した激流をものともせず、一成は愛馬を駆って一気に敵陣へと突入し、敵の首級を挙げる武功を立てた 1 。
そして同年9月15日、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発する。黒田隊は東軍の主力として、笹尾山に布陣する石田三成の本隊と激突した。この戦闘の最中、一成は敵陣深く攻め入り、石田三成の重臣で勇将として知られた蒲生将監(本名:安藤直重)を見事討ち取るという、決定的な大功を挙げた 1 。この功績は黒田隊全体の士気を大いに高め、長政が戦後、家康から「関ヶ原一番の功労者」として筑前国52万石余という破格の恩賞を与えられる大きな要因の一つとなったのである。この時、一成は自身の体格に合わせてあつらえた、主君・長政のものよりさらに大きな「大水牛脇立兜」を着用していたと伝わる。あまりに戦場で目立ったため、敵の鉄砲隊から集中的に狙撃されたという逸話も、彼の剛勇ぶりを物語っている 5 。
江戸幕府が開かれ、世が泰平に向かう中でも、一成の武将としての役割は終わらなかった。
慶長19年(1614年)からの大坂の陣では、二代藩主となった黒田忠之に従って出陣。冬の陣では戦闘ではなく、大坂城の外堀を埋め立てる普請作業に従事した 5 。
そして寛永14年(1637年)、島原の乱が勃発すると、一成は67歳という高齢にもかかわらず、福岡藩の総大将格として再び戦陣に立った。この時、彼は幕府軍の総大将であった松平信綱の軍議に宿老として招かれ、長年の戦経験に基づき、いたずらに将兵を損なう強攻策を避け、城を包囲して兵糧を断つ「兵糧攻め」が最善であると具申したと伝えられる 5 。この逸話は、彼が単なる勇猛な武将ではなく、大局を見据える戦略眼をも兼ね備えていたことを示している。
さらに注目すべきは、この島原の乱において、福岡藩の士卒たちが若き藩主・忠之の指揮ではなく、老将・一成の指揮にこそ従ったとされる記録である 5 。これは、公式な主従関係を超えて、藩祖・官兵衛の養子、初代・長政の義弟として数多の修羅場を潜り抜けてきた一成に、藩士たちが絶対的な信頼と権威を見出していたことの証左である。藩主の代替わりに伴う藩内の動揺期にあって、彼が藩士団を結束させる精神的支柱、すなわち重石のような存在であったことが、この逸話から鮮明に浮かび上がってくる。
戦国の世が終わりを告げ、徳川による泰平の時代が訪れると、黒田一成の役割もまた、戦場での武勇を誇る猛将から、藩政を支え、文化を育む為政者へと大きく移行していく。関ヶ原での大功により、彼は福岡藩の筆頭家老という不動の地位を確立し、その知行地経営や文化的事業を通じて、武人としてだけではない、多才な側面を後世に示した。
関ヶ原の戦いにおける黒田家の多大な功績により、初代藩主・黒田長政は筑前一国52万石余の大名となった。それに伴い、一成もまたその功を賞され、筑前国下座郡三奈木(現在の福岡県朝倉市)を中心とする1万2千石の知行地を与えられた。この所領は後に加増され、最終的には1万6,205石に達した 1 。
一成はこの三奈木に居館(御茶屋とも呼ばれた)を構えたことから、彼を祖とする家系は「三奈木黒田家」と称されるようになる 10 。三奈木黒田家は、単なる大身の家臣ではなく、代々福岡藩の筆頭家老(後に大老)職を世襲する別格の家柄として、明治維新に至るまで藩政の中枢で重きをなし続けた 10 。
領主としての一成は、武力による支配だけでなく、領民の安寧と地域の発展にも心を砕いた。特に、戦乱で荒廃した神社仏閣の再建や建立に熱心であったことが記録されている。元和年間(1615年-1624年)には、知行地の交通の要衝であった三奈木の茶臼山に菩提寺となる清岩禅寺を建立し、禅宗の教えを広めた 7 。また、天正年間の兵火によって荒廃していた春日神社(現在の福岡県春日市)の社殿再建にも尽力した 5 。これらの事業は、彼が単なる武人ではなく、地域の精神的な支柱を再構築することの重要性を理解していた、優れた為政者であったことを示している。
戦場での勇猛なイメージとは対照的に、一成は和歌や絵画を嗜む、豊かな文化的素養を兼ね備えた人物であった 5 。寛永20年(1643年)に73歳で隠居した後は、「睡鷗(すいおう)」と号して風雅を愛する穏やかな晩年を過ごしたことからも、その一面が窺える 5 。
彼の文化的功績の中でも特筆すべきは、義兄であり主君でもあった黒田長政の一代記、『黒田長政記』を自ら著したことである 5 。これは単なる個人的な回顧録ではない。長政の生涯と功績を、最も間近で見てきた「証言者」として記録に残すことは、黒田家の正統性と武功を後世に伝え、徳川幕府に対する忠誠を証明するための、極めて高度な政治的・文化的な営為であった。この編纂事業は、一成にとって、武力に代わる新たな形の、家臣としての最後の、そして最大の奉公であったと言えるだろう。この行為は、自身の存在の根源である「長政の義弟」という特別な立場を、公式な記録として後世に確定させる意味合いも持っていた。自らが体験した長政の偉業を記録することで、それを支えた自身の功績と、ひいては三奈木黒田家の藩内における特別な地位を永続的に正当化する、深謀遠慮に基づくものであった可能性も否定できない。
一成が関わったもう一つの重要な文化的事業が、国指定重要文化財である『大坂夏の陣図屏風』(通称「黒田屏風」)の制作である。福岡藩の記録によれば、この屏風は主君・長政の命を受けた一成が、家臣の竹森貞幸らに命じて描かせたとされる 5 。
この屏風は、単なる戦勝記念画とは一線を画す。右隻には天王寺・岡山合戦における徳川方と豊臣方の激闘が、左隻には炎上する大坂城と、戦火に巻き込まれて逃げ惑うおびただしい数の民衆や、略奪・暴行に及ぶ野盗の姿までが、極めて写実的かつ克明に描き込まれている 41 。
この生々しい描写から、黒田屏風の制作目的は、黒田家の武功を誇示することに留まらず、戦争の悲惨さを後世に伝え、豊臣家の滅亡によってもたらされた「元和偃武」、すなわち徳川による泰平の世の到来を正当化するという、高度な政治的メッセージが込められていたと分析されている 44 。一成は、この壮大な歴史的モニュメントの制作を統括することで、武将としてだけでなく、時代の代弁者としての役割をも果たしたのである。彼の後半生は、戦国武将が近世の統治者へとその役割を変えていく、時代の大きな転換そのものを象徴している。
黒田一成という人物を深く理解するためには、彼の戦歴や功績だけでなく、その人柄や人間関係を伝える逸話に目を向ける必要がある。福岡藩の公式記録である『黒田家臣伝』をはじめとする諸資料は、彼が剛勇と温情を兼ね備えた、稀有な武将であったことを伝えている。
『黒田家臣伝』には、一成の容姿について「身の長六尺に及び其の力人にすぐれたり」との記述がある 5 。これは身長が六尺(約180センチメートル)に達する、当時としては並外れた巨漢であったことを意味する。その体躯に見合うだけの怪力の持ち主でもあり、豊前の猛将・城井鎮房が用いたという強弓を、一成は軽々と引いて巻藁を射抜いてみせたという逸話が残されている 5 。
しかし、その威圧的な外見とは裏腹に、彼の人柄は極めて穏やかであったと評されている。「其の人となり寛容にしてせまらず、温柔にしてはげしからず(その人柄は寛大で度量が狭くなく、穏やかで激しい気性ではない)」と記されるように、懐が深く、温厚篤実な人物であったようだ 5 。武勇に優れながらも、決して驕ることのない人格が、多くの人々から信頼を集める素地となっていたのだろう。
一成の生涯は、黒田家三代の藩主との関係性の中にこそ、その本質を見出すことができる。
これらの逸話から浮かび上がる黒田一成の人物像は、武勇、忠誠、謙譲、寛容、そして主家と実家双方への配慮といった、近世武家社会が理想とする美徳をことごとく体現している。これは、彼自身がそのような傑出した人物であったと同時に、後世の福岡藩が、藩士たちの行動規範を示す模範として、彼の物語を語り継いできた結果でもある。彼は歴史上の人物であると同時に、福岡藩によって創り上げられた「理想の家臣」の象徴でもあったのである。
戦国の動乱を駆け抜け、江戸泰平の礎を築いた黒田一成。彼の生涯は、その死をもって終わるのではなく、彼が遺した有形無形の遺産を通じて、後世に大きな影響を与え続けた。
寛永20年(1643年)、黒田一成は73歳で全ての役職を辞して隠居し、「睡鷗(すいおう)」と号した 5 。その号が示すように、武人としての激しい生涯を終え、穏やかな水鳥のように静かな余生を送ったことが想像される。
そして明暦2年(1656年)11月13日、一成は86年の長寿を全うし、大往生を遂げた 5 。元亀2年(1571年)の生まれである彼は、織田信長が天下布武を掲げた時代に生を受け、豊臣秀吉の天下統一、徳川幕府の成立、そして三代将軍家光の治世が確立し、幕藩体制が盤石となるまでを見届けた。その生涯は、まさに日本の歴史が最も劇的に動いた時代と重なっている。
彼の亡骸は、福岡市博多区にある黒田家の菩提寺・崇福寺と、彼が自ら開基した朝倉市三奈木の清岩禅寺の二箇所に葬られた 5 。主君の眠る城下と、自らが治めた領地の両方に墓所が設けられたことは、彼が黒田家と三奈木の双方にとって、いかに重要な存在であったかを物語っている。
一成が一代で築き上げた礎の上に、三奈木黒田家は福岡藩内で他に類を見ない特別な地位を保ち、繁栄を続けた。二代藩主・忠之の時代に起こった黒田騒動などで多くの重臣家が取り潰しや減封の憂き目に遭う中、三奈木黒田家は藩内で唯一、万石以上の家禄を維持し、筆頭家老(大老)の職を世襲するという破格の待遇を受け続けた 10 。
その栄光は江戸時代に留まらなかった。幕末の動乱期、10代当主であった黒田一葦(いちい)は、藩内の勤王派の中心人物として活躍。第一次長州征討では長州藩の救済に奔走し、薩長連合の成立にも関与するなど、維新の大業に大きく貢献した 10 。
明治維新後、この黒田一葦の功績と、藩祖の恩人の子孫という由緒ある家格が新政府に認められることとなる。明治33年(1900年)5月9日、当時の当主であった黒田一義(かずよし)は、明治天皇の特旨をもって男爵に叙せられ、三奈木黒田家は華族に列せられたのである 5 。
表3:三奈木黒田家 歴代主要当主
代 |
氏名 |
生没年 |
備考 |
初代 |
黒田 一成 |
1571年 - 1656年 |
三奈木黒田家 創始者。福岡藩筆頭家老。 |
2代 |
黒田 一任 |
1629年 - 1672年 |
一成の外孫で養子。 |
3代 |
黒田 一貫 |
1643年 - 1698年 |
|
10代 |
黒田 一葦 |
1818年 - 1885年 |
幕末の当主。勤王の志士として活躍。維新の功労者。 |
13代 |
黒田 一義 |
1860年 - 1918年 |
明治33年(1900年)に男爵を授けられ、華族となる。 |
5 )
黒田一成の生涯は、一つの壮大な物語である。それは、「恩義」と「忠誠」という武士の道徳律が、一個人のみならず、その一族の運命を三百数十年にわたって、いかに大きく規定し得るかを示す、歴史上稀有な実例と言える。天正6年(1578年)の有岡城における父・加藤重徳のささやかな、しかし命を賭した温情が、三百二十二年後の明治33年(1900年)の男爵叙爵という栄誉にまで、直接的な因果の鎖で繋がっている。この事実は、歴史が一見すると偶発的な出来事の連続ではなく、個人の倫理的な判断や人間関係が、数世紀にわたる制度や家格をも形成し得ることを我々に教えてくれる。
一成自身は、戦乱の時代に武将として求められた勇猛果敢な「武」の力と、泰平の世に為政者として求められた統治と文化の「文」の能力を、見事に兼ね備えていた。彼は、激動の時代の転換期を生きる武士の理想像を、その生涯を通じて体現した人物であった。
彼の存在は、黒田家の草創期を武力で支え、安定期にはその権威を文治で確立し、そして幕末には、彼の子孫がその遺産を元手に新たな時代を切り拓く礎となった。摂津の土牢で交わされた一つの約束から始まった物語は、黒田一成という傑出した人物の生涯を通じて、三百年にわたる一筋の「至誠」の歴史として、福岡、そして日本の地に深く刻み込まれているのである。