最終更新日 2025-06-19

黒田職隆

「黒田職隆」の画像

黒田職隆の生涯 ― 稀代の軍師・官兵衛を育んだ知られざる名将の実像

序章:黒田職隆という人物

戦国時代、稀代の軍師として豊臣秀吉の天下統一を支え、後に筑前国福岡藩52万石の礎を築いた黒田官兵衛孝高(くろだかんべえよしたか)。その偉大な息子の陰に隠れ、歴史の表舞台で語られる機会は多くないものの、黒田家の飛躍の原点を築いた人物こそ、その父・黒田職隆(くろだもとたか、1524年 - 1585年)である。彼の生涯は、単に「官兵衛の父」という一言で片付けられるべきではない。播磨国という、西の毛利と東の織田という二大勢力が激突する地政学的に極めて重要な舞台で、一族の存亡を賭け、武勇と知略、そして何よりも信義をもって激動の時代を生き抜いた、一人の独立した武将として捉え直す必要がある。

本報告書は、黒田職隆の生涯を多角的に検証し、その実像に迫ることを目的とする。まず、黒田家の出自を巡る二つの大きな潮流、すなわち福岡藩の公式記録が伝える「近江出自説」と、播磨の在地史料が示す「播磨出自説」を史料批判の視点から比較検討する。次に、播磨における彼の台頭、特に主君・小寺政職の家老としての功績と、その裏にあった複雑な人間関係や政治力学を解き明かす。さらに、織田信長の中国方面進出に伴う播磨の動乱期、主家の離反と息子・官兵衛の幽閉という最大の危機に際して、彼がいかにして家を導き、未来への道を切り拓いたのかを詳細に分析する。最後に、彼の人物像、息子への薫陶、そして後世に与えた影響を考察し、黒田職隆という武将の歴史的価値を再評価する。

黒田職隆 関連年表

西暦(和暦)

職隆の年齢

黒田職隆・黒田家の動向

関連する歴史上の出来事

1524(大永4)

1歳

備前国邑久郡福岡にて誕生したと伝わる 1

1543(天文12)

20歳

主君・小寺政職の敵であった香山重道を討伐する 1

1545(天文14)

22歳

小寺政職の養女(明石正風の娘・岩姫)を娶り、家老職に就任。小寺姓と「職」の偏諱を拝領し、姫路城代となる 1

1546(天文15)

23歳

嫡男・孝高(後の官兵衛)が姫路城で誕生する 3

1564(永禄7)

41歳

娘と浦上清宗の婚礼が赤松政秀に襲撃され、浦上親子と娘が殺害される悲劇に見舞われる 1

1567(永禄10)

44歳

嫡男・孝高に家督と家老職を譲り、姫路城南東の国府山城へ隠居する 1

1569(永禄12)

46歳

青山・土器山の戦いにて、侵攻してきた赤松政秀軍を孝高と共に撃退する 1

1575(天正3)

52歳

孝高の進言を受け、主君・小寺政職と共に織田信長への臣従を決定する 3

長篠の戦い。

1578(天正6)

55歳

荒木村重、そして主君・小寺政職が織田方に離反。孝高が有岡城に幽閉される。職隆は当主代行として家を率い、織田方への忠誠を維持する 1

1580(天正8)

57歳

孝高が姫路城を羽柴秀吉に献上。職隆も共に国府山城へ正式に移る 7

1585(天正13)

62歳

8月22日、隠居城である国府山城にてその生涯を閉じる 1

第一部:黒田家の出自と黎明

この部では、黒田家のルーツという根本的な問いを探求する。福岡藩の公式記録である『黒田家譜』が語る「近江出自説」と、播磨の在地史料が示す「播磨出自説」という二つの大きな流れを比較検討し、なぜ二つの系譜が語り継がれるに至ったのか、その歴史的背景と政治的意図にまで踏み込む。

第一章:黒田家のルーツを巡る謎 ― 近江か、播磨か

黒田家の出自については、大きく分けて二つの説が存在し、現在も議論が続いている。一つは江戸時代に福岡藩の公式見解として確立された「近江出自説」、もう一つは播磨国の在地史料や伝承に基づく「播磨出自説」である。この二つの説を比較検討することは、黒田職隆という人物の原点を理解する上で不可欠である。

1.1 通説としての近江源氏佐々木氏流 ― 『黒田家譜』が描く系譜

江戸時代を通じて福岡藩黒田家の公式見解とされ、幕府に提出された『寛政重修諸家譜』などにも採用されたことで広く知られるのが、近江国を発祥とする説である 7

この説によれば、黒田氏は宇多源氏の流れを汲む名門・佐々木氏の支流であり、その祖先が近江国伊香郡黒田村(現在の滋賀県長浜市木之本町黒田)に居住したことから「黒田」を姓としたとされる 8 。しかし、職隆の曽祖父にあたる黒田高政の代に、主家である六角氏の命に背いたことなどが原因で将軍・足利義稙の怒りを買い、近江の地を追われることになったという 12

流浪の身となった高政が辿り着いたのが、備前国邑久郡福岡(現在の岡山県瀬戸内市長船町福岡)であった 12 。この地は当時、刀鍛冶で栄えており、鉄粉などで目を病む者が多かったことに着目した高政は、一族に伝わる家伝薬「玲珠膏(れいしゅこう)」という練り状の目薬を製造販売し、財を成して再起の礎を築いたと伝えられている 12 。後に職隆の孫である黒田長政が関ヶ原の戦いの功で筑前国を与えられた際、新たな城と城下町を「福岡」と命名したが、その名はこの父祖の地である備前福岡に由来する 13 。この事実は、黒田家が備前福岡の地を自らのルーツとして強く意識していたことを示している。

この通説を裏付ける物理的な証拠として、備前福岡の妙興寺には、現在も黒田高政と、その子で職隆の父にあたる重隆の墓所が存在する 13 。これは、黒田家が播磨へ移る前にこの地で一定期間活動していたことを示す重要な史跡である。

1.2 新説・播磨国多可郡黒田村発祥説 ― 『荘厳寺本黒田家略系図』と『播磨古事』の衝撃

通説である近江出自説に対し、近年、特に注目を集めているのが、黒田氏は元々播磨国の在地領主であったとする説である。この説の根拠となるのは、主に播磨地方に残された古文書や地誌である。

その中心的な史料が、兵庫県西脇市黒田庄町の荘厳寺(しょうごんじ)に伝わる『荘厳寺本黒田家略系図』である 7 。文化6年(1809年)頃に奉納されたとされるこの系図には、黒田氏が播磨守護・赤松氏の庶流であり、古くから多可郡黒田村の黒田城主であったと記されている 17 。また、江戸時代後期に編纂された地誌『播磨古事』や『播磨鑑』にも、黒田官兵衛が「播磨国多可郡黒田村の産」であるとの記述が見られ、在地においてこの伝承が根強く語り継がれていたことがわかる 8

これらの史料群がもたらした最大の衝撃は、黒田官兵衛(孝高)を「姫路城主美濃守職隆の 猶子(ゆうし) 」と記している点である 8 。猶子とは、一般的に後継者としての養子を指す。これが事実であれば、官兵衛は職隆の実子ではなく、黒田家の後継者として迎えられた養子であった可能性が浮上する。これは、職隆と官兵衛を実の親子とする通説を根底から覆す、極めて重要な記述である。

1.3 史料批判と比較考察 ― なぜ二つの出自が語られるのか

近江出自説と播磨出自説。これら二つの全く異なる系譜は、単なる記録の誤りや混乱として片付けるべきではない。それぞれの説が成立した背景には、異なる立場からの政治的、社会的な意図が反映されていると考えられる。

江戸時代の大名社会において、「家格」は藩の序列や権威を決定づける極めて重要な要素であった。福岡藩黒田家が、公式の系譜として宇多源氏佐々木氏という名門の出自を掲げたのは、徳川幕藩体制下で自家の権威を高め、他の大名との関係を有利に進めるための政治的戦略であった可能性が高い。これは、戦国時代を勝ち抜いた多くの大名家に見られる「系譜の権威付け」の一環と見なすことができる。

一方で、荘厳寺や『播磨古事』に見られる播磨出自説は、中央の権威とは無関係に、在地社会で語り継がれてきた「ローカルな記憶」の表れと言える。黒田氏が実際に活動し、勢力を拡大した播磨の地では、より現実に即した、あるいは地域の人々がそう信じ、語り継いできた来歴が保持されていたのである。この二つの説の存在は、公式史書が構築する「権威の物語」と、在地社会が育んだ「生活に根差した記憶」との間に存在する乖離を浮き彫りにする。

さらに、「猶子」説は、戦国時代の「家」のあり方について重要な示唆を与える。もし官兵衛が職隆の養子であったとすれば、職隆自身が小寺一門において極めて重要な地位を占める有力者であり、その彼が、在地の別家である黒田家から才能ある若者(官兵衛)を後継者として迎えた、という新たな構図が浮かび上がる。この構図は、職隆が主君・政職から「小寺」の姓を名乗ることを許されたという破格の待遇を、単なる功績への褒賞としてだけでなく、彼が小寺一族と極めて近い、あるいは同族的な存在であったことの証左として、より自然に理解させる。福岡藩が公式史書『黒田家譜』を編纂するにあたり、こうした複雑な相続関係は、藩祖・官兵衛と初代藩主・長政の血統の正統性を強調するため、単純明快な「父から子へ」の直系継承の物語へと再構成された可能性も否定できない。

「猶子」説は、血縁のみならず、能力や政治的必要性によって「家」や「親子関係」が柔軟に構築されていた戦国期社会の実態を我々に突きつける。職隆の出自と官兵衛との関係性を巡る謎は、黒田家の原点を探る上で、避けては通れない核心的な論点なのである。

項目

近江出自説(『黒田家譜』など)

播磨出自説(『荘厳寺本系図』など)

主な典拠

『黒田家譜』、『寛政重修諸家譜』

『荘厳寺本黒田家略系図』、『播磨古事』、『播磨鑑』

発祥の地

近江国伊香郡黒田村 10

播磨国多可郡黒田村 8

系譜

宇多源氏佐々木氏流 8

赤松氏庶流(円光流) 18

職隆と官兵衛の関係

実の父子 1

職隆は官兵衛の養父(猶子) 8

物語の背景

江戸時代の大名家としての権威付け

播磨在地社会における地域的伝承

第二章:播磨での台頭と小寺家家老への道

黒田職隆が播磨の地でいかにしてその地位を確立していったかを具体的に追う。彼の武功、政略結婚、そして姫路城代としての統治能力を分析し、黒田家飛躍の基盤がこの時期に築かれたことを明らかにする。

黒田職隆 関係人物相関図

Mermaidによる関係図

graph TD subgraph 黒田家 Shigetaka[黒田重隆 父] --> Mototaka(黒田職隆); Mototaka --> Yoshitaka[黒田孝高 官兵衛/子]; Iwahime[岩姫 正室] -- 妻 --> Mototaka; Tomotaka[黒田高友 弟] -- 兄弟 --> Mototaka; Tomouji[井手友氏 弟] -- 兄弟 --> Mototaka; end subgraph 小寺家 Masamoto[小寺政職 主君/養父] end subgraph 明石家 Masakaze[明石正風 明石城主] end subgraph 敵対勢力 Shigemichi[香山重道 播磨の豪族]; Masahide[赤松政秀 龍野城主]; Murashige[荒木村重 有岡城主]; end subgraph 協力関係 Hideyoshi[羽柴秀吉]; end Mototaka -- 主従 --> Masamoto; Shigetaka -- 仕官 --> Masamoto; Iwahime -- 実子 --> Masakaze; Masamoto -- 養女として迎える --> Iwahime; Mototaka -- 討伐 --> Shigemichi; Mototaka -- 対立 --> Masahide; Masamoto -- 離反し呼応 --> Murashige; Mototaka -- 忠誠を貫く --> Hideyoshi; classDef default fill:#f9f9f9,stroke:#333,stroke-width: 4.0px; classDef kuroda fill:#e6f3ff,stroke:#0055a4; classDef kodera fill:#fffae6,stroke:#ff8c00; classDef akashi fill:#f0fff0,stroke:#2e8b57; classDef enemy fill:#ffe6e6,stroke:#b22222; classDef ally fill:#e6ffe6,stroke:#006400; class Mototaka,Shigetaka,Yoshitaka,Iwahime,Tomotaka,Tomouji kuroda; class Masamoto kodera; class Masakaze akashi; class Shigemichi,Masahide,Murashige enemy; class Hideyoshi ally;

2.1 主君・小寺政職への仕官と最初の武功 ― 香山重道討伐の意義

黒田家の播磨における歴史は、職隆の父・重隆の代に始まる。備前福岡から播磨へ移った重隆は、当初龍野の赤松政秀に仕えた後、御着城(現在の姫路市)を本拠とする播磨の有力国衆・小寺氏に仕官した 26 。その子である職隆も父の跡を継ぎ、小寺家の当主・小寺政職に仕えた 1

職隆が小寺家中でその名を一躍高めるきっかけとなったのが、天文12年(1543年)の武功である。この年、職隆は主君・政職と敵対していた播磨の在地豪族・香山重道を討ち取るという大きな功績を挙げた 1 。この一件は、単なる一戦の勝利以上の意味を持っていた。当時の黒田家は、小寺家中においてまだ新参に近い立場であったと推測される。そのような状況下で、主君の敵を討つという決定的な戦功は、職隆自身の武勇を証明すると同時に、小寺家への揺るぎない忠誠を内外に示す絶好の機会であった。この行動により、彼は譜代の家臣たちを抑えて発言力を増し、将来の飛躍に向けた確固たる足がかりを築いたのである。職隆は、自らの価値を戦場で明確に示し、それを政治的な資産へと巧みに転換させる戦略眼を持っていたことがうかがえる。

2.2 小寺姓の拝領と婚姻同盟 ― 明石正風の娘・岩姫との結婚

香山重道討伐をはじめとする数々の功績により、職隆は主君・政職から絶大な信頼を勝ち取った。その信頼の証として、天文14年(1545年)、職隆は破格の待遇を受けることになる。政職は、同じく播磨の有力豪族であった明石城主・明石正風の娘・岩姫を自らの養女として迎え、職隆に娶らせたのである 1

この婚姻は、単なる縁組ではなかった。これと同時に、政職は職隆に対し、自らの姓である「小寺」と、名前の一字(偏諱)である「職」を与えるという、家臣に対する最大級の栄誉を与えた 1 。これにより、職隆は「小寺満隆」から「小寺職隆」と名乗りを改め、小寺家の一門衆に準じる筆頭家老としての地位を不動のものとした。

この一連の出来事は、戦国時代における極めて高度な政略であった。小寺政職の視点からは、有能な武将である職隆を単なる家臣ではなく「一門」として取り込むことでその忠誠を確実にし、同時に有力な明石氏との関係を強化して自家の勢力圏を安定させる狙いがあった。一方、職隆にとっては、主君の養女を娶り、その姓を名乗ることで家格を飛躍的に向上させ、他の家臣とは一線を画す特別な地位を得ることを意味した。明石正風にとっても、娘を播磨の中心勢力である小寺家の重臣に嫁がせることは、自家の安泰と政治的発言力の確保に繋がるものであった。このように、この婚姻と改姓は、小寺家、黒田家、明石家という三者を結びつける強固な政治同盟であり、播磨における小寺家の勢力安定化と、黒田家の地位向上を同時に実現する、巧みな戦略だったのである。

2.3 姫路城代としての手腕 ― 城下町の経営と情報網の構築

家老に就任した職隆は、小寺家の重要な支城である姫路城の城代(城主代理)に任じられた 1 。彼はこの地で、武将としてだけでなく、優れた民政家としての一面も発揮する。

特に注目されるのが、城下に「百間長屋」を建設し、生活に困窮する人々や身分の低い武士、職人、行商人などを無償で住まわせたという逸話である 1 。これは単なる慈善事業ではなかった。この政策には、極めて戦略的な意図が隠されていたと考えられる。第一に、職人や商人を城下に集住させることで、商業活動を活発化させ、姫路城下の経済的基盤を強化する狙いがあった。第二に、身分の低い者でも能力があれば取り立てるという姿勢を示すことで、多様な人材を惹きつけ、来るべき戦乱に備えて自らの配下として組み入れる目的があった。

そして最も重要なのが、情報網の構築である。様々な身分の人々が集まる長屋は、領内外の情報を収集するための絶好の拠点となる。特に各地を往来する行商人は、生きた情報の運び手であった。職隆は、この長屋を情報ネットワークのハブとして機能させ、統治や軍事行動に必要な情勢を的確に把握していたと推測される 1

職隆の姫路城統治は、武力一辺倒ではない、経済、人心掌握、情報を重視した近代的な領国経営の萌芽であったと言える。この経験と手法は、間違いなく息子の官兵衛に受け継がれた。後に官兵衛が天才軍師として見せる調略や情報戦の巧みさの素地は、父・職隆が姫路で実践したこの先進的な城下町経営によって育まれたと言っても過言ではない。

第二部:激動の時代と黒田家の克己

織田信長の勢力が播磨に及び、黒田家が存亡の危機に立たされる時代を描く。主家の離反、官兵衛の幽閉という最大の試練に直面した職隆が、いかにして家を導き、信義を貫いたかを検証する。

第三章:播磨の動乱と相次ぐ試練

職隆が築き上げた黒田家の安泰は、戦国の荒波によって絶えず揺さぶられた。特に、播磨国内の豪族間の対立と、織田・毛利という二大勢力の衝突は、黒田家に次々と試練をもたらした。

3.1 赤松政秀との確執 ― 浦上清宗との婚礼を襲った悲劇

永禄7年(1564年)、職隆は勢力拡大と安定化のため、娘を室津城主・浦上政宗の嫡男・清宗に嫁がせるという政略結婚を進めた 1 。これは浦上氏との同盟を強固にするための重要な一手であった。

しかし、この縁組は悲劇に終わる。婚礼が執り行われたまさにその日、浦上氏と敵対関係にあり、かつて職隆の父・重隆が仕えたこともある龍野城主・赤松政秀が、婚礼の宴を奇襲したのである。この不意打ちによって、浦上政宗・清宗親子と、嫁いだばかりの職隆の娘は命を落とした 1 。この事件は、黒田家と赤松政秀との間に決定的な亀裂を生み、両者は不倶戴天の敵となった。

この遺恨は、永禄12年(1569年)の「青山・土器山の戦い」で火を噴く。赤松政秀が3,000の兵を率いて姫路城に侵攻すると、職隆は家督を継いでいた息子・孝高(官兵衛)と共に出陣。この戦いで職隆は弟の井手友氏を失うという痛手を負いながらも、奇襲攻撃を仕掛けるなどして赤松軍を撃退し、見事に勝利を収めた 1 。この勝利は、黒田家の武威を播磨に示すと共に、赤松氏との長年の因縁に一つの決着をつけるものであった。

3.2 織田か毛利か ― 播磨国衆の動揺と織田信長への帰属という決断

天正年間に入ると、播磨国は歴史の大きな転換点を迎える。畿内を平定し、天下布武を掲げる織田信長と、中国地方一帯に覇を唱える毛利輝元。この二大勢力の力が播磨に及び、現地の国衆たちは、どちらに与して生き残るかという究極の選択を迫られた 3

当時、小寺家の家中では、旧来からの関係が深い毛利方につくべきだという意見が多数を占めていた。しかし、官兵衛は時代の流れを冷静に見極め、旧来の勢力である毛利よりも、革新的な戦略で勢力を拡大する織田信長の将来性こそが、黒田家、ひいては小寺家が生き残る道であると確信していた 6

官兵衛は、この先見の明に基づき、主君・政職に対して織田方への帰属を強く進言する。職隆もまた、この息子の卓見を全面的に支持し、親子で政職の説得にあたった 39 。彼らの尽力の結果、天正3年(1575年)、小寺家はついに織田信長への臣従を決定。官兵衛が使者として岐阜城の信長に謁見し、この同盟は成立した 3 。この決断は、黒田家を播磨における織田方の先鋒という重要な、しかし同時に危険な立場に置くことになり、播磨の勢力図を根底から揺るがす大きな一歩となった 3

3.3 主家の離反と官兵衛の幽閉 ― 黒田家最大の危機

織田方への帰属という大きな決断を下した黒田家であったが、事態は彼らの思惑通りには進まなかった。天正6年(1578年)、信長から摂津一国を任されていた重臣・荒木村重が、突如として信長に反旗を翻すという大事件が勃発する 38

この村重の謀反は、播磨の国衆に大きな動揺を与えた。織田方への帰属に元々ためらいがあった主君・小寺政職は、村重の動きに呼応するように織田方から離反し、毛利方へと寝返ってしまう 1 。さらに、東播磨の最大勢力であった三木城主・別所長治も同様に離反し、播磨における織田方の勢力は一気に瓦解の危機に瀕した 44

この絶望的な状況を打開すべく、官兵衛は旧知の間柄であった村重を説得するため、単身で有岡城へと乗り込んだ。しかし、説得は失敗。官兵衛は逆に捕らえられ、光も届かぬ土牢に約1年間も幽閉されるという、まさに絶体絶命の窮地に陥った 1

3.4 苦境における職隆の統率 ― 織田方への忠義と当主代行としての役割

嫡男・官兵衛は生死不明、そして仕えるべき主君・小寺政職は敵方へ。黒田家は、まさに内憂外患、存亡の淵に立たされた。この時、すでに家督を譲り隠居の身であった職隆が、再び歴史の表舞台に立つことになる。

黒田家の家臣団は、当主不在の危機に際し、職隆のもとに馳せ参じた。そして、重臣7名が連署した誓紙を提出し、「官兵衛殿が不在の間は、職隆様の御命令に全て従います」と、全権を委任したのである 1 。この事実は、職隆が平時から家臣たちからいかに深い信頼と尊敬を集めていたかを物語っている。

家中の全権を託された職隆は、極めて困難な決断を下す。それは、主君・小寺氏の離反に与せず、羽柴秀吉を通じて織田方への忠誠を貫き通すという道であった 1 。この決断は、単なる忠誠心の問題ではなかった。目先の主君への義理よりも、天下の趨勢を握るであろう織田信長への信義を優先するという、冷静な大局観と先見性に基づいた戦略的判断であった。感情や旧来の主従関係に流されず、一族の未来を見据えたこの行動は、秀吉からも高く評価された 1

もし職隆がこの時、小寺政職に同調して織田方に反旗を翻していれば、黒田家は「謀反人の一味」として、秀吉率いる織田軍によって跡形もなく滅ぼされていた可能性が極めて高い。官兵衛幽閉時における職隆のこの揺るぎないリーダーシップと決断こそが、黒田一族を破滅の危機から救った最大の功績と言える。稀代の軍師・官兵衛の後の華々しい活躍は、父・職隆がこの最大の危機において、沈没寸前の「黒田家」という船の舵を、老練な船長としてしっかりと握り続けたからこそ可能になったのである。

第四章:人物像と後世への遺産

黒田職隆という人物の核心に迫る。様々な逸話から彼の人間性や能力を読み解き、息子・官兵衛に与えた影響、そして現代にまで続く彼への追慕の念を探る。

4.1 智勇兼備の武将 ― 逸話から読み解く職隆の人格と能力

黒田職隆の人物像は、伝存する逸話から多角的に浮かび上がってくる。彼は単なる武勇の士ではなく、知略、民政、そして深い人間性を兼ね備えた武将であった。

まず、武将としての確かな実力は、若き日の香山重道討伐や、宿敵・赤松政秀の軍勢を撃退した青山・土器山の戦いなどで証明されている 1 。しかし、彼の真価はむしろ、戦場以外での能力に見て取れる。姫路城代時代に実施した「百間長屋」の政策は、その好例である 1 。これは、領民の生活を安定させる民政家としての一面と、多様な人々から情報を集める情報戦略家としての一面を併せ持つ、優れた統治手腕の表れであった。

さらに、彼の人間性の深さを示す逸話も残されている。黒田家最大の危機であった主君・小寺政職の離反後、職隆は敵方となった政職の息子・氏職を密かに引き取り、養育したと伝えられている 1 。裏切った主君の子であろうと見捨てることなく保護したこの行動は、職隆が目先の利害を超えた、情誼と信義に厚い人物であったことを示している。温厚で聡明であったと評される彼の人柄 47 は、家臣や領民からの深い信頼を集め、危機的状況下で一族をまとめる求心力の源泉となったのである。

4.2 官兵衛への薫陶 ― 「義理」を重んじる教育と父子の関係

職隆は、息子の官兵衛にとって、単なる父親であるだけでなく、乱世を生き抜く術を教える厳格な師でもあった。彼の薫陶は、官兵衛の人間形成と、後の軍師としての成功に計り知れない影響を与えた。

その象徴的な逸話が、主君・政職の変心に際しての父子の対話である。政職を説得することの困難さに直面する官兵衛に対し、職隆はこう諭したと伝えられる。「信長公に帰属し、政職様を主君とする以上、信長公にも政職様にも背かぬのが義理である。もし説得に失敗したならば、その時は切腹すべし」 41

この言葉は、単なる精神論ではない。職隆が官兵衛に教えようとした「義理」とは、単純な忠誠心ではなく、複数の利害や忠誠が複雑に衝突する状況下で、自らが立つべき「筋道」を冷静に見極め、命を賭してでもそれを貫くという、極めて高度な政治的・倫理的規範であった。それは、どちらか一方を盲目的に選ぶのではなく、双方に対して誠実であろうと最大限努力し、その上で自らの進むべき道を主体的に決断せよ、という厳しい教えであった。

この父の教えは、官兵衛のその後の行動原理に深く刻み込まれた。有岡城へ単身乗り込んだ無謀とも思える行動も、この「義理」を尽くさんとした結果であった。本能寺の変に際し、悲嘆にくれる秀吉に天下取りを進言したのも、亡き主君・信長への最大の「義理」を果たす道がそこにあると瞬時に判断したからに他ならない。職隆は、官兵衛に戦の術策だけでなく、武将としての確固たる「哲学」を授けた。天才軍師・官兵衛の活躍の根底には、父から受け継いだこの強靭な精神的支柱が存在したのである。

4.3 晩年の居城・国府山城と最期

天正8年(1580年)、官兵衛が羽柴秀吉の中国攻めの拠点として姫路城を明け渡すと、職隆と官兵衛は姫路城の南東約4キロメートルに位置する国府山城(こうやまじょう、別名:妻鹿城)へと移った 1 。職隆はここで隠居生活を送りつつも、秀吉が播磨を留守にする際の留守居役のような重要な役割を担っていたと考えられる。

播磨の激動を見届け、黒田家の未来を息子に託した職隆は、天正13年(1585年)8月22日、この国府山城にて62年の生涯を静かに閉じた 1 。その法名を宗円という 1

4.4 「筑前さん」としての追慕 ― 姫路と福岡に残る職隆の記憶

職隆の死後も、彼の人徳を偲ぶ想いは、時代と場所を超えて受け継がれている。

彼の終焉の地である兵庫県姫路市飾磨区妻鹿には、その墓所が今も残り、「黒田職隆廟所」として姫路市の史跡に指定されている 1 。この廟所は、地元の人々によって代々大切に守られ、敬愛を込めて「筑前さん」という愛称で呼ばれている 35 。これは、黒田家が後に筑前国(現在の福岡県)の大名となったことに由来する敬称であり、職隆が築いた礎が、遠く九州の地で大輪の花を咲かせたことへの敬意の表れでもある。

その福岡の地においても、職隆の記憶は大切にされている。福岡市中央区にある大長寺は、職隆の戒名「心光院殿満譽宗圓大居士」にちなんで山号を「心光山」とし、その位牌が手厚く祀られている 1 。さらに、福岡藩祖・黒田長政を祀る光雲神社では、その境内社である堅盤神社に、職隆が祭神の一柱として祀られている 54 。これは、彼が黒田家繁栄の揺るぎない礎を築いた偉大な先祖として、子孫から篤く敬われていることの何よりの証左である。

終章:黒田職隆の歴史的評価

黒田職隆は、その息である黒田官兵衛孝高の輝かしい功績の陰に隠れ、歴史上、十分な光が当てられてきたとは言い難い。しかし、彼の生涯を詳細に検証する時、その姿は単なる「偉人の父」に留まらない、戦国時代の地方豪族がいかにして激動の時代を生き抜き、次代への礎を築いたかを示す、極めて重要な事例として浮かび上がってくる。

第一に、職隆は卓越した政治家・外交家であった。彼は武功によって自らの価値を証明するだけでなく、それを巧みに政治的資産へと転換させた。小寺政職の養女を娶り、主家の姓を拝領したことは、黒田家の地位を飛躍的に向上させ、播磨における確固たる地歩を築く上で決定的な役割を果たした。

第二に、彼は危機管理能力に長けた稀有な指導者であった。主家である小寺氏が織田信長を裏切り、嫡男の官兵衛が敵地に幽閉されるという、一族存亡の危機において、彼は冷静な判断力と先見性をもって家臣団を統率した。目先の主君への義理に殉じることなく、天下の趨勢を見極めて織田方への忠誠を貫いたその決断は、黒田家を破滅から救った英断であった。

第三に、彼は偉大な教育者であった。息子・官兵衛に対し、単なる戦の技術ではなく、「義理」を重んじる武将としての確固たる哲学を授けた。この精神的支柱こそが、後に官兵衛が直面する数々の困難を乗り越え、天才軍師として大成するための根幹を成したのである。

結論として、黒田職隆の存在なくして、軍師・黒田官兵衛の活躍も、その後の福岡藩52万石の繁栄もなかったと言っても過言ではない。彼は、自らが天下の覇権を争う表舞台に立つことはなかった。しかし、播磨という激戦区で、知略と信義をもって着実に勢力を拡大し、人心を掌握し、未来への投資を惜しまなかった。黒田家という大樹の、深く、そして揺るぎない「根」を播磨の地に張り巡らせた、知られざる名将として、黒田職隆は再評価されるべきである。

引用文献

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