日本の戦国時代、九州北西部に位置する肥前国(現在の佐賀県及び長崎県の一部)は、多様な勢力が複雑に絡み合い、絶え間ない権力闘争が繰り広げられる動乱の地であった。この時代、伝統的権威であった少弐氏の力は、長年にわたる西国の雄・大内氏との抗争の末に著しく衰退していた 1 。その一方で、大内氏は周防国を本拠としながらも、北部九州における影響力を着実に拡大し、肥前の国人領主たちに大きな影響を及ぼしていた 3 。このような外部勢力の角逐の狭間で、龍造寺氏をはじめとする在地国人衆は、ある時は旧主に従い、またある時は新たな強者に接近し、一族の存続と勢力拡大の道を模索していた 5 。
龍造寺氏は、元来、少弐氏の被官として仕える一国人に過ぎなかったが、次第にその実力を高め、主家を凌ぐほどの勢力を持つに至る 1 。その過程において、後に「肥前の熊」と畏怖される龍造寺隆信の登場が画期的であったことは論を俟たない。しかし、隆信がその巨大な権力を掌握する直前、龍造寺氏の歴史には、極めて重要でありながらも、その短い生涯ゆえに見過ごされがちな一人の当主が存在した。それが、本報告書の主題である龍造寺家18代当主、龍造寺胤栄(りゅうぞうじ たねみつ)である。
本報告書は、龍造寺胤栄を単なる「龍造寺隆信の先代当主」という静的な位置づけから解き放ち、彼が龍造寺氏の権力構造の転換期において果たした動的な役割を明らかにすることを目的とする。胤栄の生涯は、一門内の権力闘争、旧主との決別、そして新たな大勢力への臣従という、戦国国人が戦国大名へと脱皮する過程の縮図であった。彼の主体的な政治判断と、その志半ばでの夭折という偶然が、いかにして龍造寺氏の運命を決定づけ、次代の覇者・隆信の登場を準備したのか。本稿では、胤栄の生涯を詳細に追うことで、龍造寺氏が肥前の覇権を握るための重要な布石を打った「移行期の戦略家」としての彼の実像に迫る。
龍造寺胤栄の生涯を理解するためには、まず彼が置かれていた龍造寺一門内の複雑な権力構造を把握する必要がある。名目上の宗家当主としての権威と、分家が掌握する実権との間の著しい乖離は、彼の治世における行動原理を規定する根源的な要因であった。
龍造寺胤栄は、大永4年(1524年)に龍造寺氏17代当主・龍造寺胤久の子として生を受けた 7 。諱は初め胤光と名乗り、後に胤栄と改めたとされる 7 。官位としては宮内大輔、豊前守を称した 7 。彼は、龍造寺氏の惣領家(本家)である「村中龍造寺家」の18代当主として、父・胤久の死後に家督を継承した 7 。
しかし、胤栄が継承した村中龍造寺家の権威は、決して盤石なものではなかった。室町時代末期から戦国時代にかけて、村中家では当主の夭折が相次ぐなど、惣領家としての求心力に陰りが見え始めていた 9 。名目上の権威は保持しつつも、一門全体を強力に統率する実力は失われつつあり、その権力の空隙を埋める形で、ある分家が急速に台頭していた。
村中龍造寺家の権威が揺らぐ一方で、一門内で圧倒的な実権を掌握していたのが、分家である「水ケ江龍造寺家」を率いる龍造寺家兼(いえかね、後の剛忠)であった 8 。家兼は胤栄から見れば大叔父にあたる人物であり、その武略と政治手腕によって龍造寺氏の勢力拡大に多大な貢献を果たした宿老であった 6 。その功績と実力は、もはや惣領家を凌駕しており、一門の意思決定は事実上、家兼によって左右される状況にあった。
この水ケ江龍造寺家こそが、後の龍造寺隆信の出身家系である。隆信は家兼の曾孫にあたり、この時点で龍造寺氏の権力の中枢は、すでに村中惣領家から水ケ江分家へと実質的に移行していたのである 10 。胤栄は、惣領家の当主という正統性を持ちながらも、実権は分家の長老である家兼に握られるという、極めて不安定な立場に置かれていた。
この「権威と実権の乖離」という構造的な問題こそが、胤栄の治世を貫く最大のテーマとなる。彼の行動は、単なる若き当主の個人的な感情の発露としてではなく、失われつつある惣領家の権威を取り戻し、名実ともに一門の支配者たらんとするための、必死の政治的試みとして解釈することができる。名目上のトップと実力者との間の深刻な緊張関係は、組織論においても普遍的な課題であり、胤栄の短い生涯は、この構造的矛盾をいかにして克服、あるいは利用しようとしたかの記録として読み解くことが可能である。
以下の表は、この時期の龍造寺氏における主要人物の関係性を整理したものである。特に、村中家と水ケ江家の対立と連携、そして婚姻政策による関係性の補強という、動的な権力闘争の構図を理解する一助となる。
表1:龍造寺氏主要人物関係図
人物名 |
所属家系 |
胤栄との関係 |
主要な役割・行動 |
関連資料ID |
龍造寺 胤栄 |
村中龍造寺家 |
本人 |
龍造寺氏18代当主。家兼と対立し大内氏へ亡命。後に和解し、大内氏から肥前代官に任じられるが夭折。 |
7 |
龍造寺 胤久 |
村中龍造寺家 |
父 |
龍造寺氏17代当主。彼の死後、胤栄が家督を継ぐ。 |
6 |
龍造寺 家兼 |
水ケ江龍造寺家 |
大叔父 |
一門の実力者。胤栄の後見役となるが実権を掌握。後に胤栄と和解し、馬場頼周を討つ。隆信の曾祖父。 |
8 |
龍造寺 隆信 |
水ケ江龍造寺家 |
家督継承者 |
家兼の曾孫。胤栄の死後、その未亡人を娶り宗家を継承。後の「肥前の熊」。 |
12 |
宗誾尼 |
水ケ江龍造寺家 |
妻 |
龍造寺家門(家兼の子)の娘。胤栄との婚姻で両家を繋ぐ。胤栄死後、隆信と再婚し家督継承の正統性を補強。 |
7 |
於安(秀の前) |
村中龍造寺家 |
娘 |
胤栄の一人娘。父の死後、隆信の養女となる。小田鎮光、次いで波多親に嫁ぐなど政略の駒とされた。 |
7 |
龍造寺 鑑兼 |
水ケ江龍造寺家 |
妻の兄 |
宗誾尼の兄。胤栄死後、土橋栄益らに担がれ隆信の対抗馬となるが、後に赦免される。 |
7 |
惣領家の当主として家督を継いだ胤栄であったが、その前途は、一門内の実力者である大叔父・家兼との深刻な対立によって、早くも暗雲が垂れ込めていた。しかし、外部からの脅威は、この内部対立に思わぬ転機をもたらすことになる。
父・胤久の死後、若くして家督を相続した胤栄は、一門の長老である龍造寺家兼を後見役として政務を執ることとなった。しかし、その関係は健全な補佐役と当主というものではなく、実質的に家兼が全権を掌握し、胤栄は「傀儡に近い存在」であった 7 。惣領家としての権威を有名無実化され、自らの意思で家臣を動かすことすらままならない状況は、若き当主の自尊心を深く傷つけ、強い反発心を生んだ。
この屈辱的な状況を打開するため、胤栄は大胆な行動に出る。彼は家兼という内部権力に対抗するため、より強大な外部権力を頼るという政治的決断を下したのである。すなわち、当時、九州北部に絶大な影響力を誇っていた西国の大大名・大内義隆のもとへ、庇護を求めて一時的に亡命したのである 7 。これは、単なる家兼からの逃避ではなく、大内氏の権威を背景に惣領家としての実権を回復しようとする、胤栄の主体的な戦略行動であったと評価できる。
胤栄が家兼との主導権争いに腐心していた天文14年(1545年)、龍造寺氏そのものの存続を揺るがす大事件が勃発する。龍造寺氏の主家である少弐氏の重臣・馬場頼周が、主家を凌駕する勢いを持つ龍造寺氏の台頭を危険視し、その殲滅を画策したのである 13 。頼周は、主君・少弐冬尚を動かし、龍造寺氏に謀反の疑いをかけるという謀略を実行した。
この謀略は凄惨な結果をもたらした。龍造寺隆信の父である龍造寺周家や祖父の家純をはじめ、一門の主だった者たちが次々と誅殺され、龍造寺氏は壊滅的な打撃を受けた 10 。一族の多くを失い、まさに滅亡の危機に瀕したのである。この時、家兼自身はかろうじて難を逃れ、筑後国(現在の福岡県南部)の蒲池鑑盛を頼って落ち延びていった 12 。
馬場頼周による苛烈な粛清は、龍造寺一門そのものの消滅を意味する絶対的な危機であった。この外部からの存亡の危機に直面し、それまで続いていた胤栄と家兼の内部対立は、その意味を失った。一門の再興という共通の、そして至上の目的を前に、両者の利害は完全に一致した。
この状況が、両者の劇的な和解をもたらす。大内氏のもとに身を寄せていた胤栄と、筑後に逃れていた家兼は、互いの対立を棚上げにし、共通の敵である馬場頼周を討つために協力することを決意する。そして天文15年(1546年)、両者はついに力を合わせ、馬場頼周を討ち果たし、見事に龍造寺氏の再興を成し遂げたのである 7 。
この一連の出来事は、戦国時代の国人領主が、いかに外部環境の変化によって内部の力学をダイナミックに変化させていたかを示す好例である。胤栄と家兼の対立は、個人的な憎悪というよりも、あくまで一門内の主導権を巡る政治闘争であった。だからこそ、「龍造寺氏の存続」という、より高次の目標が生まれた時、彼らは過去の対立を乗り越え、戦略的な協調関係を築くことができたのである。
馬場頼周との一件は、龍造寺氏にとって、旧来の主従関係を見直し、新たな時代の秩序に適応するための決定的な転換点となった。胤栄は、この機を逃さず、龍造寺氏を自立した戦国領主へと飛躍させるための大胆な外交戦略を展開する。
龍造寺氏は、その出自から長らく九州探題の名門である少弐氏の被官として仕えてきた 1 。しかし、戦国時代に入ると、宿敵である大内氏の執拗な攻撃の前に少弐氏の勢力は著しく衰退し、かつての威光は見る影もなかった 1 。胤栄の時代の主君であった少弐冬尚は、もはや龍造寺氏のような有力な家臣団を統制する実力を完全に失っており、その主従関係は名ばかりのものとなっていた 17 。
さらに、馬場頼周の謀略は、少弐氏の家臣団内部の統制が崩壊していることを露呈させた。主君を守るべき重臣が、同じく重臣である龍造寺氏を私怨や勢力争いから殲滅しようと動く。このような状況下で、もはや少弐氏に忠誠を尽くす意義はない。胤栄は、この事件を通じて、衰退する旧主に見切りをつけ、龍造寺氏が自らの力で生き残る道を模索する必要性を痛感したのである。
旧主・少弐氏と袂を分かつことを決意した胤栄が次に選んだ道は、その少弐氏の宿敵であり、西日本最大の実力者である大内義隆への接近であった 6 。これは、単なる主家の乗り換えではない。主家を滅ぼそうとしている勢力に与することは、事実上の「下剋上」であり、龍造寺氏が少弐氏の支配から完全に独立し、自立した戦国領主への道を歩み始めたことを明確に宣言するものであった 2 。
胤栄のこの戦略的転換は、大内義隆にとっても歓迎すべきものであった。肥前の有力国人である龍造寺氏を味方につけることは、長年の懸案であった少弐氏の攻略を決定的に有利に進めることを意味したからである。胤栄の忠誠と、馬場頼周を討ち滅ぼしたその実力を高く評価した義隆は、天文16年(1547年)、胤栄に対して破格の待遇を与える。それが「肥前代官」への任命であった 6 。
この「肥前代官」という職の戦略的価値は計り知れない。それは単なる名誉職ではなかった。第一に、大内氏という西日本最大の権力の「お墨付き」を得ることで、龍造寺氏の肥前における支配に、これまでとは比較にならないほどの正統性を与えた。第二に、旧主・少弐氏や、なおも少弐氏に与する他の国人衆に対して、公的な権威をもって圧倒的な優位に立つことが可能となった。そして第三に、大内氏の強大な軍事力を背景とすることで、領国支配をより強力に推し進めることが可能となったのである 4 。
胤栄は、自らの武力のみに頼るのではなく、より上位の権威(大内氏)を巧みに利用することで、支配の正統性と実効性を同時に確保するという、極めて高度な政治戦略を実践した。この肥前代官就任によって、龍造寺氏は肥前の一国人という立場から、大内氏の権威を代行する「地域の公的支配者」へと、その地位を劇的に向上させたのである。これは、龍造寺氏の歴史における画期的な瞬間であり、その後の飛躍の土台を築いた胤栄の最大の功績と言えるだろう。
肥前代官に任じられ、一門の宿願であった旧主からの自立と、肥前における支配権の確立という目標を達成した胤栄。彼の前途は洋々たるものに見えた。しかし、運命は彼にそれ以上の時間を与えることを許さなかった。
天文17年(1548年)3月22日、龍造寺胤栄は病に倒れ、この世を去った 7 。享年わずか24歳 8 。権勢の頂点に達した矢先の、あまりにも早すぎる死であった。
彼の死は、龍造寺氏にとって致命的な打撃となった。なぜなら、彼には男子の嗣子がおらず、村中龍造寺家の血筋を継ぐべき正統な後継者が存在しなかったからである 7 。胤栄が巧みな政治手腕で築き上げた「大内氏を後ろ盾とする村中宗家中心の支配体制」は、その中心人物を突然失ったことで、未完のまま崩壊の危機に瀕した。龍造寺氏の内部に、巨大な権力の空白が生じたのである。
胤栄の夭折は、龍造寺家の歴史を大きく動かす「偶然」であった。もし彼が長命を保ち、男子をもうけていたならば、龍造寺家の権力構造は彼を中心に安定し、後の龍造寺隆信の出番はなかったか、あるいは大幅に遅れていた可能性が高い。一個人の死という偶然が、組織の運命を根底から揺るがし、歴史の潮流を全く異なる方向へと導いた。この権力の真空状態こそが、良くも悪くも、より強烈な個性と野心を持つ新しいリーダー、龍造寺隆信を時代の表舞台へと押し出す直接的な引き金となったのである。
胤栄の死後、その正室であった宗誾尼(そうぎんに)と、一人娘の於安(おやす、後の秀の前)が残された 7 。宗誾尼は、水ケ江龍造寺家の龍造寺家門(家兼の子)の娘であり、彼女との婚姻は、胤栄が家兼との関係を修復し、一門の結束を図る上で重要な意味を持っていた 7 。
胤栄の死によって、彼女たちの運命は一変する。後継者不在の状況下で、胤栄の正室であった宗誾尼の存在は、次期当主の座を狙う者にとって、村中宗家の正統性を手に入れるための極めて重要な「政略的資産」となった。彼女を妻とすることは、すなわち胤栄の地位を継承することの象徴的意味を持ったのである。また、一人娘の於安も、同様に次代の権力者による婚姻政策の道具として、その後の激動の人生を歩むことを運命づけられていた 22 。彼女たちの存在は、次の時代の権力闘争の中心に否応なく置かれることになった。
胤栄の夭折によって生じた権力の空白は、龍造寺氏の内部に激しい動揺と、次期当主の座を巡る深刻な対立を引き起こした。この混乱の中から、水ケ江龍造寺家の龍造寺隆信が台頭し、新たな時代の幕を開けることになるが、その道のりは決して平坦なものではなかった。
胤栄に男子の嗣子がいなかったため、龍造寺一門は後継者を巡って協議を行った。その結果、かねてより一門内で最大の実力を有していた水ケ江龍造寺家から、家兼の曾孫にあたる龍造寺胤信(後の隆信)が惣領家である村中龍造寺家の家督を継承することが決定された 12 。
しかし、分家による宗家の継承は、多くの家臣にとって受け入れがたいものであり、その正統性には大きな疑問符が付けられていた。この継承を内外に認めさせるため、隆信は極めて計算された政略を実行する。彼は、胤栄の未亡人であった宗誾尼を自らの正室として迎え、胤栄の一人娘・於安を養女として引き取ったのである 7 。これは、婚姻によって村中宗家の血統と権威を吸収し、自らが胤栄の正統な後継者であることを視覚的・象徴的に示すための、巧みな政治的演出であった。
隆信による家督継承は、特に胤栄に直接仕えていた旧臣たちからの激しい反発を招いた。彼らにとって、分家の、しかも若輩の隆信が惣領家を乗っ取る形となったこの継承は、到底容認できるものではなかった。
その不満派の中心人物となったのが、胤栄から「栄」の字の偏諱を受けるほど信頼されていた重臣、土橋栄益(つちはし みつます)であった 7 。栄益は、隆信に対抗するため、龍造寺一族の中から龍造寺鑑兼(あきかね)を新たな当主として擁立した 7 。鑑兼は、隆信が妻とした宗誾尼の兄にあたり、血統的にも一定の正統性を持つ人物であった 26 。さらに栄益らは、当時、大内氏と九州の覇権を争っていた豊後の大友義鎮(後の宗麟)と密かに通じ、その支援を取り付けることにも成功していた 26 。龍造寺氏の内部対立は、大内方(隆信)と大友方(栄益・鑑兼)の代理戦争の様相を呈し始めたのである。
天文20年(1551年)、この膠着した状況を根底から覆す大事件が発生する。隆信が肥前代官として仕え、その権力の最大の拠り所としていた大内義隆が、重臣の陶隆房(後の晴賢)の謀反によって長門の大寧寺で自害に追い込まれたのである(大寧寺の変) 25 。
この西国情勢の激変は、隆信の立場を一夜にして危ういものにした。最大の後ろ盾を失ったことで、彼の権威は大きく揺らぎ、反対派にとっては千載一遇の好機が訪れた。土橋栄益らはこの機を逃さず、大友氏の支援を受けた東肥前の国人衆(神代氏、高木氏、小田氏など)を扇動して一斉に蜂起した 27 。内外から攻撃を受けた隆信はなすすべもなく、佐賀の地を追われ、かつて曾祖父・家兼も身を寄せた筑後の蒲池鑑盛のもとへと亡命を余儀なくされた 25 。胤栄の死からわずか3年、隆信が築きかけた権力は、脆くも崩れ去ったかに見えた。
しかし、隆信は不屈の闘志で再起を図る。蒲池氏の強力な支援を受け、雌伏すること約2年、天文22年(1553年)に兵を挙げると、破竹の勢いで肥前へ進軍し、旧領の奪回に成功した 9 。
この勝利により、両者の立場は完全に逆転した。内紛の首謀者であった土橋栄益は捕らえられ、隆信への反逆の罪により厳しく処刑された 9 。一方で、対抗馬として担ぎ上げられた龍造寺鑑兼は、隆信の正室・宗誾尼の兄であったという縁故から罪を許され、所領を与えられて佐賀への帰還を許された 26 。この処断は、敵対者には一切の容赦をしない隆信の苛烈さと、政略的な判断から身内には寛容さを見せる柔軟さを同時に示している。
この一連の内紛を、自らの力で乗り越えたことの意義は大きい。戦国時代において、家督の正統性とは、血筋だけで自動的に決まる静的なものではなく、政略、婚姻、そして最終的には軍事力によって勝ち取り、他者に認めさせることで「創造」される動的なものであった。隆信は、この闘争に勝利することで、分家出身という出自の弱さを克服し、名実ともに龍造寺氏の唯一無二の当主としての地位を確立した。胤栄の死が引き起こした混乱と試練は、結果的に隆信という新たな指導者が、自らの力でその正統性を証明し、後の飛躍に向けた強固な権力基盤を築き上げるための絶好の機会となったのである。
龍造寺胤栄の生涯は、24年というあまりにも短いものであった。その治世は、一門内の実力者である大叔父・家兼との権力闘争に始まり、志半ばでの夭折という悲劇的な結末を迎えた。その後の龍造寺氏の歴史が、傑出した個性を持つ龍造寺隆信によって彩られるため、胤栄はしばしば「悲運の当主」あるいは「隆信へのつなぎ役」として、ややもすれば影の薄い存在として語られがちである。
しかし、本報告書で詳述してきたように、彼の短い生涯における政治的決断は、龍造寺氏の運命を決定的に左右する極めて重要なものであった。胤栄の功績は、単に家督を継いだという事実にあるのではない。彼の歴史的評価は、以下の二つの戦略的転換を主導した点に求められるべきである。
第一に、旧態依然とした少弐氏との主従関係を断ち切り、西国の雄・大内義隆と結ぶという大胆な外交的・戦略的転換を成し遂げたことである。これは、衰退する旧権威に見切りをつけ、新たな時代のパワーバランスに適応しようとする、明確な意志を持った行動であった。この決断がなければ、龍造寺氏は肥前の一国人という立場から脱却できず、周辺勢力との争いの中で消耗し、消滅していた可能性すらある。
第二に、大内氏から「肥前代官」の地位を獲得したことである。これにより、龍造寺氏は単なる武力集団から、公的な権威を背景に持つ肥前の地域権力へと、その性格を大きく変容させた。この地位は、後の隆信が肥前統一を進める上で、極めて有効な大義名分と正統性の源泉となった。
龍造寺胤栄は、龍造寺氏が「国人」から「戦国大名」へと脱皮するための、最も困難で重要な移行期を担った人物であった。彼が築いた大内氏との関係という政治的遺産、そして彼が獲得した肥前代官という公的地位は、龍造寺隆信による後の「五州二島の太守」への飛躍の、まさに「礎」を築いたと言って過言ではない。胤栄がいなければ、隆信が活躍する歴史の舞台そのものが整わなかった可能性は極めて高い。
したがって、龍造寺胤栄は、単に夭折した悲運の当主として記憶されるべきではない。彼は、龍造寺氏の歴史における決定的な転換点を、自らの意志と戦略で主導した**「偉大なる橋渡し役」**として、再評価されるべきである。彼の意図的な政治行動と、その早すぎる死という歴史の偶然が交錯した先に、龍造寺隆信の時代は幕を開けたのである。