三条の方(さんじょうのかた、大永元年(1521年)? - 元亀元年7月28日(1570年8月29日))は、戦国時代の甲斐国主・武田信玄(初名、晴信)の継室(正室)である 1 。彼女が生きた戦国時代中期は、日本各地で群雄が割拠し、下剋上が常態化する激動の時代であった。甲斐武田氏もまた、信濃侵攻や越後の上杉謙信との川中島の戦いなど、絶え間ない戦いに明け暮れる一方で、領国経営や外交戦略に腐心していた。三条の方は、そのような時代背景の中、京の公家という名門の出自から武家の雄である武田信玄のもとへ嫁ぎ、その生涯を甲斐の地で終えた女性である。
本報告書は、武田信玄の正室、三条の方に関する既存の研究や史料に基づき、その出自、武田信玄との婚姻、子供たちとの関係、信仰生活、そして彼女を襲った度重なる悲運と晩年に至るまでの生涯を詳細に追うことを目的とする。さらに、関連史料の分析や、後世の歴史書、現代の創作物における彼女の描かれ方などを通じて、三条の方という人物像を多角的に明らかにすることを目指す。具体的には、第一章で彼女の出自と文化的背景、第二章で信玄との婚姻の経緯と夫婦関係、第三章で母としての子女との関わり、第四章で甲斐における信仰と生活、第五章で相次ぐ不幸と晩年、第六章で関連史料と現代における評価や創作物での描かれ方について論じる。
三条の方は、京都の公家である三条家に生まれた。三条家は藤原北家閑院流(かんいんりゅう)の嫡流にあたり、摂関家に次ぐ清華家(せいがけ)という極めて高い家格を誇る名門であった 1 。清華家は大臣・大将を兼ねて太政大臣に昇ることが可能な家柄であり、三条家も代々高位高官を輩出してきた 1 。また、三条家は笛や有職故実(ゆうそくこじつ、朝廷の儀式や装束に関する知識)にも通じた「笛と装束の家」としても知られ、宮廷文化の中心的な担い手であった 1 。
このような環境で育った三条の方は、幼少期より洗練された京の文化に触れ、高い教養を身につけていたと推察される。彼女の分家筋にあたる三条西家には、当代随一の文化人として名高い三条西実隆(さんじょうにしさねたか)がおり、三条家全体が文化的な雰囲気に包まれていたことがうかがえる 1 。この高い文化的背景は、後に武家社会である甲斐に嫁いだ三条の方の生活様式や価値観に影響を与えただけでなく、武田家の奥向きの文化や、信玄の対朝廷外交などにも間接的に影響を及ぼした可能性が考えられる。武骨な戦国大名の家風とは異なる、雅な都の文化を甲斐にもたらしたかもしれない。
三条の方の父は、左大臣の職にあった三条公頼(きんより)である 1 。公頼は、娘が武田家に嫁いでから約15年後の天文20年(1551年)、周防国(現在の山口県)の大内義隆を訪れていた際に、義隆の家臣であった陶隆房(すえたかふさ、後の陶晴賢(はるかた))が起こした謀反、いわゆる大寧寺の変(たいねいじのへん)に巻き込まれ、非業の死を遂げた 1 。
この父の横死は、遠く甲斐の地にいた三条の方にとって、計り知れない衝撃と悲しみをもたらしたことであろう。実家の当主であり、精神的な支えでもあった父を突然失ったことは、彼女の心に深い傷を残したと想像される。また、戦国時代において実家の勢力は、嫁いだ娘の立場を安定させる上で重要な意味を持った。公頼の死は、三条家の政治的影響力の低下を招き、武田家における三条の方の立場に、何らかの微妙な変化をもたらした可能性も否定できない。この悲劇は、彼女の人生における大きな転換点の一つであり、後の信仰心や人生観にも影響を与えたかもしれない。
三条の方には、姉と妹がいたことが記録されている。姉は室町幕府の管領であった細川晴元(ほそかわはるもと)に嫁ぎ、妹は浄土真宗本願寺第11世宗主・顕如(けんにょ)の妻となり、如春尼(にょしゅんに)と称された 1 。
これらの姉妹の嫁ぎ先は、当時の政治的・宗教的勢力図において極めて重要な位置を占めていた。特に、妹の如春尼が本願寺に嫁いでいたことは注目に値する。後に武田信玄は、織田信長と敵対する中で本願寺勢力と同盟を結ぶが、その背景には三条の方や如春尼を通じた人的な繋がりが影響した可能性が指摘されている 1 。もしそうであれば、三条の方は単に信玄の正室という立場に留まらず、その出自や縁戚関係を通じて、武田家の外交戦略にも間接的に関与し得る存在であったことを示唆している。これは、戦国期の女性が持つ潜在的な影響力を考える上で興味深い点である。
三条の方が武田晴信(後の信玄)のもとへ嫁いだのは、天文5年(1536年)7月のことであった 1 。この時、晴信は最初の正室であった扇谷上杉朝興(おおぎがやつうえすぎともおき)の娘・上杉の方を、天文3年(1534年)に出産の際の難産で亡くしており、正室が不在の状態であった 1 。三条の方との婚姻は、駿河国の今川氏が仲介したと記録されている 1 。
この婚姻は、甲斐の武田氏と京の公家である三条家という、身分も地域も異なる家同士の縁組であり、背後には複雑な政治的意図が存在したと考えられる。仲介役を果たした今川氏の狙いとしては、隣国である武田氏との関係を強化し、自国の安定を図るとともに、武田氏を東国方面への勢力拡大の駒として利用しようという思惑があったのかもしれない。また、武田氏側にとっても、京都の名門公家である三条家との縁組は、自らの家格を高め、中央との繋がりを持つ上で有利に働くと考えられたであろう。
軍記物語である『甲陽軍鑑』の品第三には「三条殿輿入れ」という項目があり、この婚姻について何らかの記述がなされていることが示唆されるが、その具体的な内容は現時点では確認できない 4 。また、この輿入れの際の引出物として、後に織田信長や豊臣秀吉の手に渡ることになる名刀「宗三左文字(そうざさもんじ)」が三条家から武田氏へ贈られたという伝承も残っている 5 。三条の方の年齢は明確ではないが、当時の慣習からすれば十代半ばから後半であったと推測される。彼女は、この時点で既に戦国大名間の政略の渦中に身を置くことになったのである。
三条の方と武田信玄の婚姻が成立した天文5年(1536年)は、後に武田氏、今川氏、北条氏の間で締結される甲駿相三国同盟(天文23年、1554年成立)よりも18年も前の出来事である 6 。したがって、この婚姻が三国同盟の直接的な契機となったわけではない。しかし、今川氏の仲介によるこの縁組は、武田氏と今川氏の間の連携を深める上で重要な役割を果たし、将来的な三国同盟締結への地ならしになったと考えることができる。
甲駿相三国同盟は、それぞれの戦国大名が背後の憂いを断ち切り、主たる敵対勢力との戦いに集中するための戦略的な枠組みであった。三条の方の婚姻も、より大きな視点で見れば、このような戦国大名間の複雑な外交関係の一環として位置づけられる。彼女の存在は、特に武田・今川間の同盟関係(甲駿同盟)を人的に補強する役割を担ったと言えるだろう。彼女が今川家と具体的にどのような関係を築いたかは史料からは明らかではないが、外交上の潤滑油としての期待も少なからず込められていた可能性がある。
政略結婚として始まった三条の方と信玄の夫婦関係であったが、その実態はどのようなものであったのだろうか。後世の記録、特に三条の方の菩提寺である円光院の葬儀記録に残る、武田家と親交のあった禅僧・快川紹喜(かいせんじょうき)の言葉は、二人の関係をうかがい知る上で貴重な手がかりとなる。
快川紹喜は三条の方を「大変美しく、仏への信仰が篤く、周囲の人々を包み込む春の陽光のように温かく穏やかな人柄で、民衆にも常に気を配り大切にし、信玄に寄り添って物事を考える方であり、夫婦仲も比翼の契り(ひよくのちぎり、仲睦まじい夫婦のたとえ)のように睦まじかった」と称賛している 1 。また、「信玄公を中心とする武田家のその歩みは、夫人の遺徳を守る意気と心映えが大地の様にしっかりと正直に豊かに嘘偽りなく、目的に向かって進んでいます」とも記されており、信玄のみならず武田家全体から深く敬愛されていた様子が伝わってくる 1 。
信玄自身も、三条の方が亡くなると、その菩提を弔うために寺院を整備し、彼女の法号「円光院殿梅顔大禅定尼」にちなんで寺名を円光院と改めた 1 。さらに、信玄は臨終に際し、日頃から篤く信仰していた守り本尊である刀八毘沙門天(とうはちびしゃもんてん)と勝軍地蔵(しょうぐんじぞう)の像を、三条の方の墓がある円光院に納めるよう遺言したと伝えられている 10 。
これらの記録や信玄の行動は、二人の間に深い情愛と信頼関係が存在したことを強く示唆している。もちろん、葬儀の際の賛辞にはある程度の美化が含まれている可能性も考慮すべきであるが、信玄が三条の方の菩提を手厚く弔った事実は、彼女への深い想いがあったことを物語っていると言えよう。多くの子供を儲けたことも、夫婦関係が安定していた証左の一つと考えられる。良好な夫婦関係は、武田家の内政の安定にも寄与し、三条の方が奥向きをしっかりと取り仕切ることで、信玄は外政や軍事に専念できた側面もあったのではないだろうか。
武田信玄には、正室である三条の方の他にも、複数の側室がいたことが知られている。中でも有名なのは、武田勝頼の生母である諏訪御料人(すわごりょうにん)であろう。その他にも、禰津御寮人(ねつごりょうにん)や油川夫人(あぶらかわふじん)などの名が伝えられている 7 。
戦国時代の武家の奥向きにおいては、正室と側室、あるいは側室同士の間に複雑な力関係や感情の交錯が生じることは珍しくなかった。特に、側室が男子、とりわけ後継者候補となり得る男子を産んだ場合、その緊張は一層高まったと推測される。三条の方は嫡男である武田義信を産んでおり、正室としての立場は強固であったと考えられる。しかし、諏訪御料人が後に武田家の家督を継ぐことになる勝頼を産んだことで、奥向きに新たな動きや微妙な空気が生じた可能性は否定できない。
残念ながら、三条の方とこれらの側室たちとの具体的な関係性を示す直接的な史料は、現時点では乏しい 1 。快川紹喜が記した三条の方の人柄からすれば、表面上は穏やかに接していたかもしれないが、その内心には複雑な感情が渦巻いていた可能性も考えられる。特に、嫡男・義信の事件後、勝頼が後継者として急速に浮上してくる中で、三条の方の心境は穏やかではなかったかもしれない。この点については、今後の更なる史料の発見と分析が待たれるところである。奥向きの人間関係は、時に藩主の意思決定や家中の雰囲気にも影響を与えるため、三条の方と側室たちの関係が武田家の内情にどのような影響を与えたのかは、興味深い研究課題と言えるだろう。
三条の方は、武田信玄との間に三男二女、あるいはそれ以上の子女を儲けたとされている 1 。戦国乱世にあって、彼女の子供たちもまた、その運命に翻弄されることとなる。以下に、三条の方が儲けたとされる主な子供たちについて、その生涯と三条の方との関わりを考察する。
表1:三条の方の子供たち一覧
名前 |
続柄 |
生年 |
没年 |
配偶者 |
主な事績・備考 |
出典 |
武田義信 (よしのぶ) |
嫡男 |
天文7年 (1538) |
永禄10年 (1567) |
今川氏真の妹・嶺松院 |
義信事件により廃嫡、幽閉後病死。 |
1 |
黄梅院 (おうばいいん) |
長女 |
天文12年 (1543) |
永禄12年 (1569) |
北条氏政 |
甲相駿三国同盟の証として嫁ぐ。同盟破綻後、小田原城にて病死(新説)。 |
1 |
海野信親 (うんの のぶちか) / 竜芳 (りゅうほう) |
次男 |
天文10年 (1541) |
天正10年 (1582) |
海野幸義の娘 |
幼少期に疱瘡で失明(異説あり)。海野氏を継承後出家。武田家滅亡時に自害または殺害。 |
1 |
武田信之 (のぶゆき) |
三男 |
天文12年 (1543) |
天文22年 (1553)頃 |
なし |
西保氏を継承。11歳で夭折。 |
1 |
見性院 (けんしょういん) |
次女 |
不詳 |
元和8年 (1622) |
穴山信君 (梅雪) |
武田家滅亡後、徳川家康に保護される。家康の子・武田信吉を養育。 |
1 |
真竜院 (しんりゅういん) / 真理姫 (まりひめ) |
三女? |
天文19年 (1550) |
正保4年 (1647) |
木曾義昌 |
生母は三条の方説と油川夫人説がある。木曾義昌は後に武田家を裏切る。 |
1 |
注:真竜院の生母については諸説あり、三条の方の子ではない可能性もある。表は現時点で得られる情報を基に作成。
武田義信は、天文7年(1538年)に武田信玄(当時は晴信)の嫡男として生まれた 10 。母はもちろん三条の方である。幼い頃から武勇に優れ、将来を嘱望されていたが、父・信玄との間に対外政策などを巡って意見の対立が生じ、永禄8年(1565年)には謀反の疑いをかけられるという事件(義信事件)が起こる 1 。結果として義信は廃嫡され、甲府の東光寺に幽閉された後、永禄10年(1567年)に病死したと、近年の研究(黒田基樹氏による新史料の発見)では結論付けられている 1 。
嫡男でありながら悲劇的な最期を遂げた義信の存在は、母である三条の方にとって最大の心痛の一つであったに違いない。義信事件の詳細は後述するが、この事件は武田家の後継者問題に大きな影響を与え、三条の方の晩年に暗い影を落とした。彼女が義信の助命のためにどのような行動をとったか、あるいはどのような心情であったかを直接示す史料は乏しいが、我が子の非業の死を前にした母親の悲しみは計り知れないものであったろう。
黄梅院は、天文12年(1543年)に信玄と三条の方の間に生まれた長女である 8 。彼女は、甲斐・駿河・相模の三国間で結ばれた甲相駿三国同盟の証として、天文23年(1554年)、相模の北条氏康の嫡男である氏政のもとへ嫁いだ 8 。氏政との間には、後に北条家を継ぐことになる氏直をはじめ、氏房、直重といった複数の子供を儲け、夫婦仲は良好であったと伝えられている 12 。
しかし、その幸福な結婚生活は長くは続かなかった。永禄11年(1568年)、父・信玄が三国同盟の一角である今川氏の領国・駿河へ侵攻を開始したことにより、武田氏と北条氏の間の甲相同盟は破綻する。旧説では、これにより黄梅院は夫・氏政と離縁させられ、甲斐へ送り返された後、失意のうちに翌永禄12年(1569年)に亡くなったとされていた 12 。しかし、近年の浅倉直美氏の研究によれば、黄梅院は同盟破綻後も離縁されることなく小田原城に留め置かれ、そこで病死したとされている 1 。
いずれの説が正しいにせよ、政略結婚の道具とされ、実家と嫁ぎ先の対立という過酷な運命に翻弄された黄梅院の生涯は、母である三条の方にとって大きな悲しみであったことは想像に難くない。特に、 12 には、彼女の輿入れの行列が1万人を超える壮大なものであったことや、離縁の際に氏政が当時の価値で約240万円に相当する金銭を「堪忍分」として与えたことなど、彼女の人生の機微に触れる詳細な記述があり、その悲劇性を際立たせている。
海野信親は、天文10年(1541年)に武田信玄の次男として生まれた。母は三条の方である 13 。『甲陽軍鑑』などによれば、信親は盲目であったと伝えられている 13 。失明の時期については諸説あり、『甲斐国志』では生まれながらの盲目であったとする説を採っているが 13 、近年では、弘治2年(1556年)に信玄が信親の眼病平癒を願って奉納した願文の写しが発見されたことから、幼少期に疱瘡(ほうそう、天然痘)にかかったことが原因で失明したとする説が有力視されている 1 。
信親は、信濃の国衆であった海野幸義(うんのゆきよし)の娘を娶り、海野氏の名跡を継承したが、失明のため武士としての道を断念し、出家して竜芳(りゅうほう)と号した 13 。その後は半僧半俗の身として過ごし、武田家滅亡の際には甲斐の入明寺(にゅうみょうじ)に匿われたものの、天正10年(1582年)、織田信長の甲州征伐により武田勝頼が天目山で自刃したとの報を聞き、同寺で自害したとも、あるいは殺害されたとも伝えられている 13 。
我が子の失明という不幸は、母である三条の方にとっても大きな悲しみであったろう。信玄が息子の目の治癒を願って願文を捧げたという事実は、親としての深い愛情を示している。三条の方と信親との具体的な関わりを示す逸話は少ないが、その母子の情は深かったと推察される。NHK大河ドラマ『風林火山』(2007年)では、山本勘助が信親の失明時期と自身の仕官時期が重なったことや、勘助が信玄の側室である由布姫(諏訪御料人)を支持していることから、三条夫人に快く思われていないという描写があったが 20 、これはあくまでドラマ上の創作であり、史実とは区別して考える必要がある。
武田信之は、天文12年(1543年)に武田信玄の三男として生まれた。母は三条の方である 14 。幼少期に武田一族の西保(にしほ)氏を継承したとされるが、天文22年(1553年)頃に11歳という若さで夭折した 1 。
若くして亡くなった信之の死もまた、三条の方にとっては大きな悲しみであったに違いない。 16 には、三条の方が度重なる不運に見舞われた出来事の一つとして、信之の夭折が挙げられている。しかし、その死因や具体的な状況、そして母である三条の方がどのように悲嘆したかについての詳細な記録は、現時点では乏しい。当時の記録は男性中心であり、女性、特に奥向きの女性の感情や日常が詳細に記録されることは稀であったため、その悲しみの深さを具体的に知ることは難しい。しかし、相次ぐ子供の不幸は、三条の方の人生における悲劇の連続性を象徴する出来事であったと言えるだろう。
見性院は、武田信玄の次女として生まれた。生年は不詳だが、元和8年(1622年)に亡くなっている 17 。母は三条の方とされる 1 。彼女は、武田家の親族衆であり有力家臣であった穴山信君(あなやまのぶきみ、梅雪斎不白(ばいせつさいふはく)としても知られる)の正室となった 1 。
武田家が天正10年(1582年)に織田・徳川連合軍によって滅ぼされた後、見性院は徳川家康によって保護され、江戸城の北の丸に住まいを与えられた 17 。そして、家康の五男であり、後に武田家の名跡を継ぐことになる武田信吉(母はお都摩の方、武田家旧臣秋山虎康の娘)の養育にも関わったとされている 17 。
母である三条の方の死後も長生きし、武田家滅亡という激動の時代を乗り越え、徳川の世で一定の処遇を受けた見性院の生涯は、三条の方の血筋が徳川政権下でも一定の評価を得ていたことを示唆している。母・三条の方との具体的な関係を示す逸話は少ないものの、 28 の記述によれば、「相次いで子供たちを喪った三条夫人は、盲目の次男・竜芳と重臣・穴山梅雪に嫁いだ次女の身を案じながらも病魔に侵されていた信玄公を支え続けます」とあり、三条の方が見性院の将来を気にかけていた様子がうかがえる。有力家臣である穴山家に嫁いだことで、三条の方はある程度の安心感を持っていたかもしれないが、戦国の世の常として、その将来を案じ続けていたことも想像に難くない。
真竜院(俗名は真理姫と伝わる)は、天文19年(1550年)に生まれ、正保4年(1647年)に亡くなった、武田信玄の三女とされる女性である 18 。彼女は木曾義昌(きそよしまさ)の正室となった 18 。
しかし、真竜院の生母については諸説があり、三条の方であるとする説と、信玄の側室の一人である油川夫人であるとする説が存在する 1 。三条の方を母とする説の根拠としては、『上杉家御年譜』に「木曽伊予守義昌室母同義信」(木曾義昌の室の母は武田義信の母と同じ)という記述があることが挙げられる 18 。武田義信の母は三条の方であるため、この記述が正しければ真竜院も三条の方の子ということになる。一方で、 21 の書籍紹介では、真理姫/真竜院は信玄の娘として記載されているものの、その生母が三条夫人であるとは明記されていない 21 。また、 90 の「信玄公祭り公式サイト」からの引用とされる記述では、三条の方の子として義信、龍芳、信之、黄梅院、見性院が挙げられているが、真竜院の名前は見られない。
このように生母が確定していないため、真竜院を三条の方の子として断定するには慎重な検討が必要である。もし三条の方の子であったとすれば、彼女の子供たちの中では最も長命であったことになる。夫である木曾義昌は、後に武田家を裏切り織田信長に与することになるため、その妻であった真竜院の立場は非常に複雑で困難なものであったと推測される。
三条の方と子供たちとの具体的な親子関係を示す手紙や、彼女の教育方針に関する直接的な史料は、現時点では乏しい 22 。しかし、円光院の記録に残る三条の方の人柄(「周囲の人々を包み込む春の陽光のように温かく穏やかな人柄」)から推察すれば 1 、彼女は温かく慈愛に満ちた母親であったと考えられる。
彼女の人生は、子供たちの相次ぐ不幸によって彩られていたと言っても過言ではない。実父・三条公頼の横死に始まり、三男・信之の夭折、次男・信親の失明、そして何よりも嫡男・義信の謀反事件と死、さらには政略結婚で他家に嫁いだ長女・黄梅院の悲運と早すぎる死など、母親として耐え難い悲しみが次々と彼女を襲った 1 。これらの出来事は、彼女の心労を極限まで増大させたと想像される。 28 の記述には、三条夫人が盲目の次男・竜芳と、穴山梅雪に嫁いだ次女・見性院の身を案じながら、病に倒れた信玄を支え続けたとあり、困難な状況下でも母としての情愛を失わなかった様子がうかがえる。
記録に残りにくい「母としての日常」の詳細は不明な点が多いが、これは戦国期の女性史研究の難しさを示す一例とも言える。しかし、子供たちのために祈り、その行く末を案じ続けたであろう彼女の姿は、戦国という特異な時代に翻弄されながらも、子供たちを想う普遍的な母の姿として、私たちの心に迫ってくる。
京の公家社会から甲斐の武家社会へと嫁いだ三条の方は、異郷の地でどのような信仰生活を送り、どのような文化的側面を保持していたのだろうか。断片的な史料からは、彼女の篤い信仰心と、京の文化を背景に持つ貴婦人としての一面がうかがえる。
三条の方の信仰心の篤さは、複数の記録や伝来品によって裏付けられている。前述の通り、円光院の葬儀記録において、快川紹喜は彼女を「仏への信仰が篤く」と評している 1 。この言葉を具体的に示すものとして、彼女が武田家へ嫁ぐ際に実家の三条家から持参したとされる木造釈迦如来坐像の存在が挙げられる。この仏像は現在も彼女の菩提寺である円光院に大切に安置されており、三条の方が生涯を通じて信仰の対象としていたことを物語っている 1 。
また、『甲斐国志』という江戸時代に編纂された甲斐国の地誌には、三条の方が甲斐の名刹である向嶽寺(こうがくじ)に新たに寺領などを寄進したという記録が残されている 1 。これは、彼女が武田家の正室として、領内の寺社への保護や信仰活動に積極的に関わっていたことを示している。
さらに、山梨県立博物館には、三条夫人の菩提寺である円光院に伝来したとされる聖観音菩薩立像が展示されている 30 。この像は頭部が鎌倉時代、体部が室町時代の制作とされ、由緒ある仏像が彼女の菩提寺に伝わっていたことは、彼女自身、あるいは彼女を弔う人々が篤い信仰心を持っていたことの証左と言えよう(ただし、 30 の調査では、この像に関する詳細情報は文書内にないとしている)。
これらの記録や伝来品は、三条の方が深い信仰心を持っていたことを示している。特に、実家から持参した仏像を生涯大切にし続けたことは、それが彼女にとって単なる美術品ではなく、精神的な支えであった可能性を示唆する。京都の公家出身である彼女にとって、仏教信仰は幼い頃からの文化的素養の一部であり、慣れない異郷である甲斐の地での心の拠り所となっていたのかもしれない。度重なる不幸に見舞われた彼女の人生において、信仰は大きな慰めとなり、精神的な支柱として機能した可能性が高い。
三条の方の信仰生活を考える上で興味深いのは、彼女の妹・如春尼が浄土真宗本願寺の第11世宗主である顕如の正室であったという事実である 1 。この縁戚関係が、後に武田信玄と本願寺勢力との間の同盟締結に影響を与えた可能性が指摘されている 1 。
当時、織田信長は天下統一を目指して勢力を拡大しており、各地の戦国大名や宗教勢力と対立していた。信玄もまた、信長と敵対する立場にあり、反信長包囲網の一翼を担っていた。その中で、石山本願寺を中心とする一向一揆勢力は、信長にとって最大の脅威の一つであった。武田氏と本願寺が同盟を結ぶことは、双方にとって戦略的に大きな意味を持っていた。
この同盟締結の背後に、三条の方と妹・如春尼の姉妹関係が介在し、三条の方が何らかの形で尽力したとすれば、それは彼女が単に奥向きの存在に留まらず、武田家の外交にも影響を及ぼし得たことを示す重要な事例となる。正式な外交交渉の場に彼女が立つことはなかったとしても、姉妹間の書状のやり取りなどを通じて、同盟締結に向けた雰囲気の醸成や情報伝達に貢献した可能性は十分に考えられる。これは、戦国時代の女性が婚姻関係を通じて大名家の外交に影響力を持つケースの一つとして評価でき、彼女の存在価値を高める一因となったかもしれない。
三条の方の文化的背景や生活の一端は、彼女の所持品と伝えられるいくつかの品からも垣間見ることができる。円光院には、武田氏の家紋である武田菱と共に、皇室から使用を許されたとされる菊花紋と桐紋が彫られた鏡が、彼女の愛用品として所蔵されている 1 。菊花紋・桐紋は、皇室やそれに連なる高貴な家柄にのみ使用が許される紋章であり、これらが三条家の、ひいては三条の方の格式の高さと、皇室との繋がりを示すものである。このような紋が入った鏡を愛用していたことは、彼女が自身の出自とそれに伴う文化を甲斐の地にあっても大切にしていたことの表れと考えられる。
また、同じく円光院には、三条夫人の経机掛(きょうづくえかけ)と伝わる打敷(うちしき、仏具の一種)や、天目茶碗(てんもくぢゃわん)、赤絵碗(あかえわん)なども所蔵されており、これらのうちいくつかは甲府市の指定文化財となっている 31 。これらの遺品は、彼女の日常生活や文化的嗜好を具体的に示す貴重な手がかりとなる。例えば、経机掛や打敷は彼女の信仰生活の様子を、茶碗は当時の喫茶の習慣や彼女の美的感覚を反映している可能性がある。これらの品々の様式や材質を詳細に分析することで、製作年代や当時の工芸技術の水準、さらには三条の方の個人的な趣味や教養の高さなどを推測することも可能になるだろう。甲斐にあっても京の文化を忘れず、一定の文化的レベルを保った洗練された生活を送っていたのではないかと想像される。
三条の方が甲斐で具体的にどのような日常生活を送っていたのか、奥向き(お城や屋敷の女性たちの生活空間)でどのような役割を果たしていたのかについては、残念ながら詳細な記録は多くない。しかし、断片的な情報からその一端をうかがい知ることはできる。
武田家の近習衆(きんじゅうしゅう、主君の側近くに仕える家臣団)の中には、後に信玄の娘である松姫(母は油川夫人か側室の一人)の警護などを務めた「御料人衆(ごりょうにんしゅう)」と呼ばれる一団がいた。この御料人衆の中心人物であった五味新右衛門(ごみしんえもん)をはじめとする10人の家臣たちは、それ以前には「御前様(ごぜんさま)」、すなわち三条夫人に付けられていたという記録がある 1 。これは、三条の方が奥向きで単独の存在ではなく、一定数の家臣を抱え、正室として中心的な立場にあったことを示唆している。
彼女が公家出身として和歌や書道に長けていたか、あるいは実家で嗜んだであろう笛などの楽器演奏といった公家文化を甲斐の地に積極的に持ち込んだかを示す直接的な記録や逸話は、現時点の資料からは確認できない 32 。しかし、彼女が京都で受けたであろう高い教養は、その立ち居振る舞いや言葉遣い、価値観などに自然と現れていたはずである。それが武田家の家臣団やその妻女たちの文化レベルや教養に、間接的ながらも何らかの影響を与えた可能性は十分に考えられる。
京都の雅な生活とは大きく異なる、質実剛健を旨とする武家社会の慣習の中で、三条の方は公家出身としての品位を保ちつつ、戦国大名の正室としての役割を懸命に果たしていたと推測される。彼女の文化的素養が甲斐の地に具体的にどのような影響を及ぼしたのか、その詳細は今後の研究課題と言えるだろう。
三条の方の生涯は、華やかな出自とは裏腹に、度重なる悲運に見舞われたものであった。特に晩年は、肉親や子供たちの不幸が相次ぎ、彼女の心労は計り知れないものがあったと想像される。
三条の方にとって最初の大きな悲劇は、天文20年(1551年)に起こった父・三条公頼の横死である。前述の通り、公頼は周防国で陶隆房の謀反(大寧寺の変)に巻き込まれ、殺害された 1 。実家の当主であり、精神的な支えでもあった父をこのような形で失ったことは、三条の方にとって計り知れない衝撃であった。この事件により、彼女は有力な後ろ盾を一つ失うことになり、武田家における彼女の立場にも少なからぬ影響があった可能性が考えられる。
父の死後も、三条の方を襲う悲劇は続いた。
これらの出来事は、母親である三条の方にとって、耐え難い悲しみの連続であった。特に、将来を嘱望されていた嫡男・義信の非業の死は、彼女の心に最も深い傷を残したであろう。 28 の記述では、これらの不幸が彼女の心労に深刻な影響を与えた可能性を示唆している。
嫡男・武田義信の謀反事件とそれに続く死は、三条の方の人生における最大の悲劇の一つであったと言える 10 。義信は、父・信玄の対今川政策などを巡って信玄と対立し、永禄8年(1565年)に謀反を企てたとして甲府の東光寺に幽閉された。そして永禄10年(1567年)10月19日、失意のうちに29歳(数え年)でこの世を去った。死因については、従来、信玄による自害強要説や切腹説などが唱えられてきたが、近年では病死であったとする説が有力となっている 1 。
この一連の事件において、母である三条の方がどのような立場にあり、どのような心情を抱き、いかなる行動をとったのかを具体的に示す直接的な史料は、残念ながら乏しい 10 。信玄は、事件発覚後、家臣の小幡源五郎に宛てた書状の中で、「飯富虎昌(おぶとらまさ、義信の傅役)が我々と義信の仲を引き裂こうとする密謀が発覚した」「義信との親子関係に問題はない」といった趣旨を記しているが 10 、結果として義信は廃嫡され、死に至っている。
軍記物語である『甲陽軍鑑』の品第十二には「武田義信事件」に関する記述があるとされるが 4 、そこで三条の方がどのように描かれているかは、現時点の資料からは明らかではない。
NHK大河ドラマ『武田信玄』(1988年放送)では、三条の方(演:紺野美沙子)が義信のことで信玄と激しく衝突し、憔悴しきってしまう姿が描かれた 50 。これはあくまでドラマ上の演出であるが、嫡男の廃嫡と死という異常事態に直面した母親の悲しみと苦悩は、想像に難くない。彼女が信玄に対し、義信の赦免や助命を必死に嘆願した可能性は高い。しかし、武田家の将来を左右する重大な政治的判断の前では、一人の母親の情は通じなかったのかもしれない。この無力感が、彼女をさらに深く苦しめた可能性も考えられる。この事件が、三条の方の晩年の健康状態に深刻な影響を与え、あるいは死期を早める一因となったとしても不思議ではない。
度重なる悲運に見舞われた三条の方は、元亀元年(1570年)7月28日に、その波乱の生涯を閉じた。享年は50であったと伝えられている 1 。
その死因については、労咳(ろうがい、現在の肺結核)であったとする説がある 28 。この説によれば、当時すでに病魔に侵されていた夫・信玄を傍らで献身的に看病し続ける中で、自身も感染してしまった可能性が示唆されている。相次ぐ肉親や子供たちとの死別、そして嫡男・義信の事件といった心労が彼女の免疫力を低下させ、病に対する抵抗力を奪ったとしても不思議ではない。
その他の具体的な病状や死因に関する詳細な記録は、現時点の資料からは見当たらない 52 。記録が少ないため断定は難しいものの、精神的なストレスが何らかの病を発症させ、あるいは悪化させた可能性は極めて高いと言えるだろう。比較的若い50歳という年齢での死は、彼女が経験してきた苦難の大きさを物語っているのかもしれない。
彼女の死は、夫である信玄や武田家にとっても大きな損失であったに違いない。特に信玄にとっては、長年連れ添い、多くの苦楽を共にしてきた正室を失ったことであり、精神的な支えの一つを失ったことを意味したであろう。
三条の方が亡くなると、武田信玄はその菩提を弔うため、甲府にあった寺院を彼女の菩提寺とし、彼女の法号「円光院殿梅顔大禅定尼」にちなんで寺名を「円光院」と改めた 1 。この円光院は、現在も山梨県甲府市岩窪町に存在し、三条の方の墓所が大切に守られている 1 。
円光院に残る三条の方の墓は、宝篋印塔(ほうきょういんとう)の形式をとっており、その周囲には彼女の遺品と伝えられる品々や、信玄が寄進したとされる寺宝などが残されている 29 。信玄がこのように篤く彼女の菩提を弔ったことは、政略結婚から始まった関係であったとしても、長年連れ添う中で育まれた夫婦の絆の深さを示すものと言えるだろう。円光院とその什物は、三条の方の生涯と彼女が生きた時代、そして彼女の信仰心を今に伝える貴重な文化遺産として、歴史的・文化的に重要な意味を持っている。
三条の方の生涯や人物像を理解する上で、いくつかの歴史史料や後世の著作、さらには現代の創作物が手がかりとなる。しかし、これらの史料や作品は、それぞれの成立背景や性格、作者の意図などによって、三条の方の姿を様々に描き出しており、その取り扱いには注意が必要である。
『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』は、武田信玄とその子・勝頼の二代にわたる事績を中心に記述した軍記物語であり、江戸時代には武田流軍学の聖典として広く読まれた 60 。この『甲陽軍鑑』には、品第三に「三条殿輿入れ」、品第十二に「武田義信事件」といった、三条の方に直接関連する可能性のある項目が含まれていることが指摘されている 4 。
しかし、これらの項目において、三条の方が具体的にどのように記述され、どのような評価を受けているのかについては、現時点でアクセス可能な資料からは詳細を明らかにすることができない 4 。『甲陽軍鑑』は、その史料的価値について、成立過程における加筆や編纂者の主観、記述の信憑性などを巡って、研究者の間でも様々な議論がある史料である 60 。
したがって、『甲陽軍鑑』に三条の方に関する記述があったとしても、その内容を無批判に受け入れることはできず、他の一次史料との比較検討や、史料批判と呼ばれる厳密な吟味が必要となる。特に、人物の評価や事件の経緯については、物語としての面白さを追求するための脚色や、編纂者の特定の意図が反映されている可能性を常に念頭に置かなければならない。「三条殿輿入れ」の項では、輿入れの際の華やかな様子やその政治的意義が語られているかもしれないし、「武田義信事件」の項では、事件の詳しい経緯やそれに関わった人々の動向、あるいは母としての三条の方の深い悲しみなどが描かれているかもしれないが、それらはあくまで軍記物語というフィルターを通して描かれたものであることを理解しておく必要がある。『甲陽軍鑑』は、後世の武田信玄像や三条の方像の形成に大きな影響を与えた可能性があり、その影響の度合いを検証することも、歴史研究においては重要な視点となる。
三条の方の菩提寺である甲府市の円光院には、彼女の生涯や信仰を今に伝える貴重な寺伝や什物(じゅうもつ、寺院の宝物)が数多く残されている。これらは、文献史料だけではうかがい知ることのできない、三条の方の具体的な人物像や生活の一端に光を当てる手がかりとなる。
まず、円光院には三条夫人の墓所が現存しており、彼女がこの寺に葬られたことを示している 1 。また、彼女が武田家へ嫁ぐ際に京都の三条家から持参したと伝えられる木造釈迦如来坐像や、武田菱と菊桐紋が彫られた愛用の鏡、さらには経机掛、打敷、天目茶碗、赤絵碗といった日用品や仏具などが寺宝として伝えられている 1 。これらの什物の中には、甲府市の指定文化財となっているものも含まれており、その歴史的・文化的価値の高さが認められている 31 。
さらに、「円光院文書」と呼ばれる古文書群の中には、三条夫人が元亀元年7月28日に死去したことなど、彼女の生涯に関する具体的な記録が含まれている 58 。山梨県立博物館には、円光院に伝来したとされる聖観音菩薩立像が所蔵されているとの情報もある 29 (ただし、博物館の収蔵品データベースでは、この像を特定することはできなかった 70 )。
これらの菩提寺に残る寺伝や什物は、三条の方の信仰の篤さ、日常生活の様子、そして彼女が育った京都の公家文化の香りを具体的に示す一次史料として、極めて重要な価値を持っている。これらの史料を丹念に調査・分析し、例えば什物の様式や材質から製作年代や当時の工芸技術を推定したり、古文書の記述から彼女の行動や周囲との関係性を明らかにしたりすることで、より詳細で立体的な三条の方の人物像に迫ることができるだろう。これらの文化遺産の適切な保存と、今後の研究の進展が期待される。
歴史研究においては、通説とされる事柄に対して新たな史料や解釈に基づいて疑義が提示され、議論が深まることで、より正確な歴史像が構築されていく。三条の方に関しても、一部の研究者から通説とは異なる見解が示されている。
郷土史家・研究者の高野賢彦氏は、武田信玄の正室である三条夫人が「京都の公家・三条公頼の娘である」という広く受け入れられている通説に対して疑義を抱き、独自の調査・研究を進めていることが伝えられている 72 (ただし、高野氏の研究内容の詳細を記した 72 の資料は、現時点ではアクセスができない状態である)。
高野氏が具体的にどのような史料を根拠に、どのような論理で通説に疑問を呈しているのか、その詳細は不明であるが、このような異説の存在は、三条の方の出自に関して、まだ解明されていない点や再検討の余地がある可能性を示唆している。もし、彼女の出自が通説と異なるものであったとすれば、武田信玄との婚姻の経緯やその政治的意味合い、さらには彼女の生涯や武田家における立場など、多くの事柄について従来の解釈を大きく見直す必要が出てくるかもしれない。
歴史像というものは、新たな発見や研究の進展によって常に更新されていく可能性を秘めている。一つの説に固執することなく、様々な角度からの検討や、異なる意見に耳を傾ける姿勢が、歴史をより深く理解するためには不可欠である。高野氏の研究をはじめとする、三条の方に関する今後の研究動向を注視していく必要があるだろう。なお、 91 や 92 で言及されている三条実美は、幕末から明治期にかけて活躍した公家であり、本報告の主題である戦国時代の三条の方とは直接の関係はない。
三条の方は、武田信玄の正室という重要な立場にありながら、その生涯の詳細は不明な点も多く、歴史小説や大河ドラマといった創作の世界においては、作者や制作者の解釈によって様々な人物像として描かれてきた。これらの創作物は、史実そのものではないものの、三条の方という歴史上の人物に対する一般的なイメージ形成に大きな影響を与えている。
代表的な作品として、まず新田次郎の小説『武田信玄』と、それを原作とした1988年のNHK大河ドラマ『武田信玄』(三条の方役:紺野美沙子)が挙げられる。このドラマにおいて三条の方は、当初、京の公家育ちとしての矜持から、武骨な山国である甲斐への輿入れを嘆き悲しむが、次第に夫・信玄の器量を認め、彼を支える存在へと変化していく姿が描かれた 50 。特に、実子たちが次々と政略の犠牲となったり、悲運に見舞われたりする際には、信玄と激しく感情をぶつけ合い、深く憔悴する人間味あふれる女性として描写された 50 。また、このドラマでは、原作には登場しない侍女・八重というオリジナルキャラクターが設定され、彼女が三条の方の「負」の側面を担うことで、三条の方自身の人物像に深みと複雑さを与える効果を上げていた 50 。紺野美沙子氏の演技、とりわけ晩年の相次ぐ不幸を乗り越えようとする壮絶な感情表現は、多くの視聴者から高く評価された 73 。
一方、井上靖の小説『風林火山』を原作とした2007年のNHK大河ドラマ『風林火山』(三条夫人役:池脇千鶴)では、これまでの作品で描かれがちであった、信玄の側室・由布姫(諏訪御料人)との対比からくる気位の高さや冷たさといったイメージとは異なり、非常に善良で心優しい、穏やかな女性として三条夫人が描かれたことが特徴的であった 74 。この作品では、夫を支え、子供たちを慈しむ、伝統的な良妻賢母としての側面が強調されたと言えるだろう。池脇千鶴氏の演技に対する個別の評価は、ドラマ全体の評価の中に埋もれがちであるが、新たな三条夫人像を提示した点で注目される 75 。
これらの歴史小説やドラマは、史実を基盤としつつも、物語としての面白さやテーマ性を追求するために、登場人物の性格設定や行動に作者の解釈や創作が加えられるのが常である。そのため、三条の方の人物像も作品によって多様に描かれることになる。これらの創作物における三条の方像を比較分析することは、それぞれの時代における歴史認識や理想の女性像の変化、あるいは物語の中で彼女に求められた役割などを読み解く上で興味深い視点を提供する。しかし、最も重要なのは、これらの創作物で描かれる姿はあくまでフィクションであり、史実の三条の方の姿とは区別して捉える必要があるという点である。大衆的な歴史認識において、これらの創作物が与える影響は決して小さくないため、史実との違いを明確にしつつ、なぜそのような描写がなされたのかを考察することが、歴史理解をより深める上で有益となるだろう。
その他の作品群 20 については、三条の方に直接的かつ詳細に言及しているものは少ないか、あるいは一般的な創作物のリストであり、本報告書における具体的な描写分析には繋がりにくい。
本報告書では、武田信玄の正室・三条の方の生涯について、その出自から晩年に至るまでを、現時点で利用可能な史料や研究に基づいて多角的に検討してきた。
三条の方は、京都の最高位の公家の一つである三条家に生まれ、洗練された文化の中で育った。しかし、その運命は戦国という激動の時代に翻弄され、政略結婚によって甲斐の武田信玄のもとへ嫁ぐこととなる。異郷の地にあって、彼女は信玄との間に複数の子供を儲け、母として、そして正室としての役割を果たした。円光院の記録に残る快川紹喜の言葉は、彼女が篤い信仰心を持ち、温かく穏やかな人柄で、夫・信玄と深い絆で結ばれていたことを伝えている。
しかし、その一方で、彼女の生涯は悲運の連続でもあった。実父・三条公頼の非業の死、そして何よりも我が子たちの相次ぐ不幸――三男・信之の夭折、次男・信親の失明、長女・黄梅院の政情不安の中での死、そして嫡男・義信の謀反事件と若すぎる死――は、母親である彼女にとって耐え難い苦しみであったろう。これらの心労が、彼女の比較的早い死の一因となった可能性も否定できない。
三条の方の存在は、武田家の内政において奥向きを安定させ、信玄が外政や軍事に専念できる環境を整える上で一定の役割を果たしたと考えられる。また、彼女の出自や妹が本願寺宗主の妻であったことは、武田家の対朝廷外交や対本願寺外交において、間接的ながらも影響力を持った可能性が示唆される。彼女の生涯は、戦国時代における女性、特に高い身分に生まれた女性が、個人の意思とは別に政略の渦に巻き込まれながらも、妻として、母として、そして一人の人間として懸命に生きた姿を浮き彫りにしている。その意味で、三条の方の生涯は、戦国期の女性の役割と生き様を考察する上で、貴重な一例と言えるだろう。
三条の方に関する研究は、近年、新たな史料の発見や解釈によって進展を見せている部分もあるが、未だ解明されていない点も多く残されている。
例えば、彼女の甲斐における具体的な日常生活の様子、和歌や書道といった公家文化との関わり、信玄の他の側室たちとの具体的な関係性、そして最大の悲劇であった義信事件における彼女のより詳細な心情や行動、さらには死因の医学的・歴史的検証などは、今後の研究によって明らかにされるべき課題である。
特に、一次史料のさらなる発掘と精密な分析が不可欠である。円光院に残る古文書や什物、あるいは武田氏や三条氏に関連する諸家の記録の中に、これまで見過ごされてきた情報が含まれている可能性もある。また、女性史、文化史、宗教学、医学史といった多様な学問分野からの学際的なアプローチを取り入れることで、三条の方の人物像や彼女が生きた時代に対する理解をより深めることができるだろう。
三条の方は、歴史の表舞台で華々しく活躍した人物ではないかもしれない。しかし、彼女の生涯を丹念に追うことは、戦国という時代の奥深さ、そしてそこに生きた人々の喜びや悲しみ、葛藤をより鮮明に感じさせてくれる。今後の研究の進展によって、三条の方の知られざる側面がさらに明らかにされることを期待したい。
西暦(和暦) |
三条の方の年齢(推定) |
主な出来事(三条の方関連) |
主な出来事(武田家・社会関連) |
出典例 |
大永元年 (1521年)? |
0歳? |
三条の方、誕生か。 |
武田信虎、甲斐国内統一を進める。 |
1 |
天文5年 (1536年) |
15歳? |
7月、今川氏の仲介で武田晴信(信玄)に嫁す。 |
武田晴信、父・信虎を追放し家督相続(天文10年)。 |
1 |
天文7年 (1538年) |
17歳? |
嫡男・武田義信、誕生。 |
|
10 |
天文10年 (1541年) |
20歳? |
次男・海野信親(竜芳)、誕生。 |
武田晴信、信濃侵攻を開始。 |
13 |
天文12年 (1543年) |
22歳? |
長女・黄梅院、誕生。三男・武田信之、誕生。 |
|
8 |
天文19年 (1550年) |
29歳? |
三女?・真竜院(真理姫)、誕生(生母に異説あり)。 |
|
18 |
天文20年 (1551年) |
30歳? |
父・三条公頼、大寧寺の変で横死。 |
|
1 |
天文22年 (1553年)頃 |
32歳? |
三男・武田信之、夭折(享年11歳)。 |
第1次川中島の戦い。 |
1 |
天文23年 (1554年) |
33歳? |
長女・黄梅院、北条氏政に嫁ぐ。 |
甲駿相三国同盟、成立。 |
8 |
弘治2年 (1556年) |
35歳? |
次男・海野信親、疱瘡により失明か。信玄、信親の眼病平癒を祈願。 |
|
1 |
不詳 |
不詳 |
次女・見性院、誕生。 |
|
17 |
永禄8年 (1565年) |
44歳? |
10月、嫡男・武田義信、謀反の疑いで幽閉される(義信事件)。 |
|
10 |
永禄10年 (1567年) |
46歳? |
10月19日、嫡男・武田義信、東光寺にて病死(享年30歳)。 |
|
1 |
永禄11年 (1568年) |
47歳? |
12月、武田信玄、駿河侵攻を開始。甲相同盟破綻。 |
|
12 |
永禄12年 (1569年) |
48歳? |
6月17日、長女・黄梅院、嫁ぎ先の北条家(小田原城)にて病死(享年27歳)。 |
|
1 |
元亀元年 (1570年) |
49歳? |
7月28日、三条の方、死去(享年50)。信玄、菩提寺を円光院と改名。 |
石山合戦始まる(本願寺と織田信長の戦い)。 |
1 |
元亀4年 (1573年) |
― |
|
4月12日、武田信玄、西上作戦の途上、信濃駒場で病死。 |
7 |
天正10年 (1582年) |
― |
次男・海野信親(竜芳)、武田家滅亡時に自害または殺害される(享年42歳)。 |
3月、織田・徳川連合軍により武田氏滅亡。 |
13 |
元和8年 (1622年) |
― |
次女・見性院、死去。 |
江戸幕府3代将軍・徳川家光の時代。 |
17 |
正保4年 (1647年) |
― |
三女?・真竜院(真理姫)、死去(享年98歳)。 |
|
18 |