出雲阿国が歴史の表舞台に登場する戦国時代末期から江戸時代初期は、日本社会が大きな変革を遂げた動乱と創造の時代であった。織田信長、豊臣秀吉による天下統一事業が進み、関ヶ原の戦いを経て徳川幕府が成立し、長く続いた戦乱の世が終焉を迎えようとしていた。この政治的過渡期は、社会の流動性を高め、旧来の価値観が揺らぐ一方で、新たな文化が胎動する土壌を育んだ。特に、京都は依然として文化的中心地としての役割を担い、全国から様々な人、物、情報が集積する都市であった。
このような時代背景のもと、経済力をつけた新興の町衆が文化の新たな担い手として台頭した 1 。彼らは戦乱の終息とともに安定した生活を希求する一方、日常の中に新しい刺激や娯楽を求めた。この時代は「踊りの時代」とも称され、各地で多様な趣向を凝らした踊りが流行したことが記録されている 1 。人々の関心が武から文へ、あるいは日常の楽しみへと移行する中で、既存の伝統芸能に加え、より斬新で刺激的なものが求められるようになったのである。
この時代の空気を象徴する言葉の一つに「かぶく」がある。「かぶき者」とは、異風な装いや常識外れの行動をとる人々のことを指し、慶長期に特に流行した 3 。彼らの存在は、旧来の価値観に対する反発や個性の主張といった、社会秩序が再編される過渡期における逸脱行動の一形態であると同時に、新しい美意識の現れでもあった。阿国の創始した芸能が「かぶき踊り」と名付けられたのは、そのスタイルがまさにこの「かぶく」精神と通底していたからに他ならない 5 。阿国の男装や異風な小道具の使用は 7 、観客に強烈な印象を与え、時代の熱狂を呼んだのである。
阿国が登場する以前の日本には、多様な芸能が存在していた。民衆の間では、中世から続く念仏踊りや風流踊り 5 、そして阿国の芸の直接的な母体の一つとなった「ややこ踊り」 5 などが流行していた。これらは、庶民の生活や信仰と結びついた素朴なエネルギーに満ちたものであった。
一方、武家や公家、寺社勢力に保護された芸能としては、猿楽能や狂言、そして軍記物を主な題材とした語り物である幸若舞 14 などが挙げられる。これらの芸能は、洗練された様式美や教養性を備え、支配者層の儀礼や娯楽として重要な役割を担っていた。
また、女性芸能者の活動も活発であった。平安時代の白拍子や、中世の歩き巫女、傀儡女(くぐつめ)などは、各地を巡業し、歌舞や遊芸を披露していた 15 。彼女たちは、宗教的な儀礼と芸能を不可分に結びつけながら、民衆の信仰や娯楽に応えていたのである。
阿国の「かぶき踊り」は、このような既存の芸能の土壌の上に花開いたものであった。特に「ややこ踊り」や念仏踊りの要素を母体としながらも 16 、そこに物語性や時事風俗、そして何よりも衝撃的な異性装といった新しい要素を大胆に導入した点に、阿国の革新性があった 16 。彼女は、中世以来の女性芸能者の系譜に連なりつつも、そのパフォーマンスの斬新さと社会への影響力において、まさに画期的な存在だったのである。
出雲阿国の生年については、元亀3年(1572年)とする説が有力視されている。これは、興福寺の僧英俊の日記である『多聞院日記』の天正10年(1582年)5月18日の条に、「春日大社若宮拝屋ニ於テ加賀国八歳十一歳ノヤヤコヲトリト云フ法楽在之、カカヲトリトモ云フ、一段イタヰケニ面白、各群集了」という記述があり 9 、この「十一歳の童」を阿国と解釈し、逆算したものである 10 。しかし、この「加賀国八歳十一歳の童」という部分を、「加賀国出身の8歳と11歳の子供たち」と解釈する余地も指摘されており 16 、阿国の正確な生年を確定するには至っていない。
出身地に関しても諸説ある。一般的には出雲国(現在の島根県)とされ、松江の鍛冶屋中村三右衛門の娘 10 、あるいは出雲国杵築(きづき)の中村の里の鍛冶屋中村三右衛門の娘という伝承が伝えられている 11 。当時の史料には「おくに」「国」「国子」「於国」など様々な名で記されており 16 、「出雲の阿国」あるいは「出雲のお国」という今日一般的な表記は、後世、彼女が伝説化されてから広まったものと考えられている 11 。
阿国の出自や少女時代に関する確実な史料は極めて乏しく、その実像は依然として曖昧な部分が多い。これが、後述する阿国複数人説など、様々な憶測や伝説を生む一因ともなっている。「クニ」という名前自体は当時決して珍しいものではなく、同時代に複数の「クニ」という名の芸能者が活動していた可能性も考慮に入れる必要がある。
阿国は、出雲大社の巫女であったと称して活動したことが多くの資料で伝えられている 7 。文禄年間(1592年~1596年)頃、出雲大社修繕のための資金を集める勧進興行の一環として諸国を巡業し、その過程で踊りが評判となり、名声を得たとされる 8 。
当時の「巫女」が、現代の神職としての巫女と全く同義であったかについては慎重な検討が必要である。近世初期の巫女には、神社の祭祀に仕える者だけでなく、神託を告げたり、口寄せを行ったり、あるいは歌舞音曲を専門とする者など、多様な形態が存在した 15 。阿国が「出雲大社の巫女」を称したことは、彼女の芸能活動に一種の宗教的権威や正当性を付与する効果があったと考えられる。実際に彼女が出雲大社とどのような具体的な関係にあったのか、あるいは単に「出雲出身の巫女風の芸能者」という触れ込みであったのかは、現存史料からは断定し難い。
しかし、寺社が修繕などの資金調達のために勧進興行を行い、その中で様々な芸能が披露されることは、当時一般的に見られた慣行であった 11 。勧進興行は、地方の芸能が中央(京都など)へ紹介される機会となると同時に、中央で洗練された芸能が地方へ広まるという、双方向の文化交流の媒体としても機能していた。阿国の活動も、このような大きな文化的潮流の中に位置づけることができるだろう。
阿国の芸の出発点とされるのは「ややこ踊り」である。慶長5年(1600年)に公家の西洞院時慶が記した『時慶卿記』には、京都の近衛殿や御所で「クニ」という名の少女が、同じく少女の「菊」と共に「ヤヤコ跳(ややこおどり)」を演じたという記録が残されている 10 。この「ややこ踊り」は、その名の通り、幼い子供が演じる可愛らしい小歌踊りであったと考えられている 11 。
その後、慶長8年(1603年)に、阿国は京都で「かぶき踊り」を創始したと広く認識されている 5 。これは、従来の念仏踊りを改革し、新たに物語性を取り入れたものだったとされる 16 。『当代記』の記述によれば、阿国は男装し、異風な出で立ちで茶屋の女と戯れるといった内容の踊りを演じるようになり、芸の内容が質的に大きく変化したことが窺える 11 。
「ややこ踊り」から「かぶき踊り」への名称の変化は、単なる呼び名の変更に留まらず、演目内容、演者の装い、そしておそらくは対象とする観客層の変化をも伴う、芸の質的転換を示している。慶長8年5月に女院御所で阿国が踊りを披露した際の記録では、文献によってその名称が「ヤヤコ跳」「ややこおとり」「かふきおとり」と異なっており 11 、この時期がまさに過渡期であった可能性が示唆される。この変化の背景には、観客がより刺激的で「おとなの世界」を望むようになったこと 18 を敏感に察知した阿国の、興行主としての優れたプロデュース能力があったのかもしれない。そして、この「かぶき踊り」への転換は、当時流行していた「かぶき者」のスタイルや精神性を意識的に取り込んだ結果であり、時代の空気と共鳴することで爆発的な人気を得るに至ったのである 5 。
阿国が創始した「かぶき踊り」は、いくつかの際立った特徴を持っていた。
異性装: 最も顕著な特徴は、演者の異性装である。阿国自身は男装し、当時流行していた「かぶき者」の風体を模した。一方、相手役を務めた男性(後述する三九郎など)は女装して茶屋の女などに扮したと伝えられている 5 。この性の役割の倒錯は、観客に強烈な印象と興奮をもたらした。
演目内容: 代表的な演目としては「茶屋遊び」が挙げられる 11 。これは、男装した阿国が、女装した相手役の演じる茶屋の女と戯れるという内容で、当時の遊里の風俗を反映したものであった。また、美少年として名高かった武将・名古屋山三郎の亡霊が登場し、阿国と問答を交わしたり共に踊ったりするという筋立てもあったとされる 17 。その他、時事風俗を巧みに取り入れたり、即興的な台詞を交えたりすることもあったようである 17 。
衣装: 阿国が男装する際には、刀や脇差を身に着け 5 、派手で奇抜な衣装をまとった 7 。時には、首から鏡やキリスト教の十字架(ロザリオ)のようなものを下げていたとも伝えられており 5 、これは当時の南蛮文化の影響や、阿国の斬新な感覚を示すものと言えよう。後の歌舞伎に見られる「ぶっかえり」のような、舞台上での衣装の早変わりの技法の萌芽も見られた可能性がある 36 。
音楽・囃子: 初期の阿国歌舞伎の伴奏は、笛、小鼓、大鼓、太鼓といった打楽器が中心で、三味線はまだ用いられていなかったとされる 29 。阿国自身が小歌を歌いながら踊ることもあった 17 。三味線が歌舞伎の伴奏楽器として本格的に導入されるのは、阿国歌舞伎に続く女歌舞伎の時代からである 17 。
舞台装置: 当初は、既存の能舞台を借用して演じられることが多かった 21 。やがて人気が高まると、京都の四条河原などに仮設の芝居小屋を建てて興行を行うようになった 5 。
これらの特徴は、阿国歌舞伎が従来の芸能とは一線を画す、斬新で刺激的なものであったことを示している。特に異性装は、現実と虚構の境界を曖昧にし、観客に倒錯的な興奮をもたらしたと考えられ、これは現代の宝塚歌劇などにも通じる魅力と言えるだろう 18 。また、出雲大社の巫女という宗教的な背景を持ちながら、演目は「茶屋遊び」のような世俗的で時に猥雑とも言える内容であり、さらに十字架を身につけるなど、既存の枠組みにとらわれない自由な精神がうかがえる 5 。この宗教的要素と世俗的要素、和風と異国風の混淆が、阿国歌舞伎の độc創性 と魅力を高めた要因の一つであった。
阿国は、主に京都を中心に活動し、その革新的な「かぶき踊り」は熱狂的な人気を博した。公演場所は多岐にわたり、庶民が集まる四条河原の仮設小屋 5 や北野天満宮の境内 5 はもちろんのこと、近衛殿や御所、女院御所といった宮中でも踊りを披露した記録が残っている 10 。
その評判はすさまじく、京都や大坂で熱狂的な反響を呼び 16 、『時慶卿記』には女院御所での公演に貴賤群集が見物したと記され 17 、『当代記』には京の上下の人々がこれを賞賛したとある 17 。時には「天下一」と称されるほどの人気ぶりであったという 33 。このように、阿国の芸が身分を問わず幅広い層に受け入れられていたことは、当時の京都で一大センセーションを巻き起こしたことを物語っている。
このような広範な人気と活動を支えた背景には、有力な庇護者の存在があったと考えられる。特に、北野天満宮の祠官であった松梅院の僧禅昌は、阿国の芸と人物に対する深い理解者であり、有力な後援者であったと伝えられている 11 。禅昌は、阿国に北野天満宮という安定した公演場所を提供しただけでなく、彼女の活動を様々な面で支援したと考えられる。また、女院(新上東門院)の御所で公演を行ったという事実は 11 、阿国の芸が最高位の貴顕にも認められていたことを示し、その名声と権威を一層高めることになった。こうした庇護者の存在は、阿国が単なる巷間の芸人に留まらず、社会的に認知された芸能者として活動するための重要な基盤となったのである。
出雲阿国の活動は、彼女個人によるものだけではなく、一座を組んで行われていた。その構成員や具体的な活動実態については、断片的な史料から推測するほかないが、いくつかの手がかりが存在する。
阿国の夫、あるいは相手役として知られる人物に三九郎(三十郎とも)がいる。彼が女装して阿国の相手役を務めたという説があり 11 、一座の演目を支える重要な存在だったと考えられる。ただし、この三九郎が、伝説で阿国の恋人とされる名古屋山三郎と同一人物であるかについては議論がある。
より確実な史料としては、『時慶卿記』の慶長5年(1600年)7月朔日の記録が挙げられる。そこには、京都の近衛殿で「ややこ踊り」を演じた「クニ」と「菊」という二人の女性の他に、男女合わせて十人ほどの「座の衆」がいたと記されている 12 。この記述は、初期の阿国一座が、阿国(クニ)と菊という二人の中心的な演者に加え、複数の脇役や囃子方などで構成されていたことを示唆している。
また、一座の他の踊り手も全て異性装を特徴としていたという記述もあり 11 、阿国の「かぶき踊り」のコンセプトが一座全体で共有されていたことがわかる。さらに、ある史料には「昔、阿国が世話になった守口のお婆の孫娘、お鶴・お松が一座にやって来た」という内容の記述があり 43 、一座の構成員が固定的なものではなく、時期や状況によって変動し、新たなメンバーが加わることもあった可能性を示している。
これらの情報から、阿国一座は、阿国という突出したスターを中心に据えつつも、複数のメンバーで構成された流動的な芸能集団であったと推測される。そして、「阿国」という名称が、阿国個人を指すのか、彼女が率いる一座全体、あるいはその独特の芸能様式を指すのかという問題も生じる。ある研究では、「阿国が一人であるか、当時の芸能集団の総称であるかは、明確に結論を出すことは出来ません」と述べられており 44 、阿国という名前が一種のブランドとして、同様のスタイルの芸能を行う集団の象徴として記憶された可能性も指摘されている。これは、後述する「阿国複数人説」とも関連する重要な論点である。
出雲阿国の実像に迫るためには、同時代の史料を丹念に読み解くことが不可欠である。以下に、主要な史料における阿国関連の記述とその解釈を検討する。
奈良興福寺の多聞院の院主であった英俊が記した『多聞院日記』は、当時の社会や文化を知る上で貴重な史料である。この日記の天正10年(1582年)5月18日の条には、「春日大社若宮拝屋ニ於テ加賀国八歳十一歳ノヤヤコヲトリト云フ法楽在之、カカヲトリトモ云フ、一段イタヰケニ面白、各群集了」という記述が見られる 9 。
この記述は、阿国の活動開始時期や生年を推定する上で、しばしば引用される。通説の一つでは、この「十一歳の童」が阿国であり、逆算して彼女の生年を元亀3年(1572年)とする 10 。しかし、前述の通り、この「加賀国八歳十一歳の童」という部分の解釈には幅があり、「8歳の加賀という名の子供と、11歳の国という名の子供」と読むか、「加賀国出身の8歳と11歳の子供たち」と読むかで意味が大きく異なる 10 。後者の解釈も十分に成り立ちうるため、この史料のみをもって阿国の初期の経歴を断定することは困難である。
とはいえ、この記述は、阿国がキャリアの初期において「ややこ踊り」という形態の芸能を演じていた可能性を示唆する点で重要であり、後の「かぶき踊り」への展開を考える上での出発点の一つとなる。
公家の西洞院時慶が記した日記『時慶卿記』は、慶長年間の京都の動向を詳細に伝える一次史料であり、阿国に関する確実な記述を含む点で極めて重要である。
慶長5年(1600年)、すなわち関ヶ原の戦いの年に、時慶は「クニ」という名の少女の芸能に複数回接している。6月から8月にかけて、京都の近衛信尹の邸や御所において、「雲州(出雲)の国と菊」という二人の少女が「ややこ踊り」を演じたことが記録されている 10 。これが、史料において「国」の名が確認できる最初の確実な事例とされている 12 。特に7月朔日の記録では、クニと菊の他に男女十人ほどの「座の衆」がいたことも記されており 12 、一座の構成をうかがわせる。
さらに、慶長8年(1603年)5月には、女院(新上東門院)の御所で「ヤヤコ跳」を演じ、多くの貴賤の人々が見物したという記述もある 17 。この時期は、阿国が「かぶき踊り」を創始したとされる年であり、「ヤヤコ跳」という名称が用いられている点は注目される。これは、「ややこ踊り」から「かぶき踊り」への過渡期であったか、あるいは両者の境界がまだ曖昧であった可能性を示唆している。
『時慶卿記』の記述は、阿国(クニ)が慶長初年に京都の公家社会で活動し、高い評価を得ていたことを明確に示している。また、「ややこ踊り」という芸態から出発し、数年の間にその芸を発展させていった過程を追う上で、欠くことのできない史料である。共演者として「菊」の名が記録されている点も、阿国が常に単独のスターであったわけではなく、初期にはパートナーと共に活動していたことを示しており、興味深い。
『当代記』は、慶長年間から寛永年間にかけての事項を編年体で記した史料であり、阿国の「かぶき踊り」の具体的な様相と、それが社会に与えた衝撃を伝える最も重要な文献の一つである。
特に注目されるのは、慶長8年(1603年)4月の条である。そこには、「此頃、かふき躍と云う事有り、是は出雲神子女[名は国、但し好女に非ず]仕り出で、京都へ上る。縦ば異風なる男のまねをして、刀・脇指・衣装以下殊相異、彼男茶屋の女と戯るゝ躰、有難クシタリ(非常に巧みであった)、京の上下賞翫スル事不斜(並々ではなく)、伏見城ヘモ参上シ度々躍ル、其後学之(これを真似た)カフキノ座イクラモ有テ諸国ヱ下ル」と記されている 3 。
この記述は、阿国歌舞伎の核心的な情報を凝縮して伝えている。すなわち、①「かぶき踊り」という新たな芸能の出現、②演者が「出雲神子女 国」であること、③その芸態が「異風なる男のまね」をし、刀や脇差を帯び、特異な衣装をまとい、「茶屋の女と戯れる」というものであったこと、④それが京都のあらゆる階層の人々に熱狂的に受け入れられ、伏見城でも演じられたこと、⑤そして多くの模倣者が現れ、その芸能が諸国へ広まっていったこと、である。
また、同史料の慶長12年(1607年)2月20日の条には、「国と云うかぶき女、江戸に於てをどる。先度の能のありつる場にて勧進をす」という記述があり 29 、阿国の活動範囲が京都・大坂に留まらず、江戸にまで及んでいたことを示している。これは、阿国の名声と影響力が、当時の日本の主要都市に広がっていたことを裏付けるものであり、後の江戸歌舞伎の発展に何らかの影響を与えた可能性も考えられる。
『当代記』における「但し好女に非ず」(ただし、並の美貌の女性ではない、あるいは型にはまった女性ではない)という注釈 17 は、阿国像を考える上で興味深い。文字通りには容姿が絶世の美女ではなかったという意味にも取れるが、彼女の芸風が型破りで力強いものであったこと、あるいは男装の魅力が単なる女性的な美しさとは異なる次元のものであったことを示唆している可能性もある。
阿国自身や最初期のかぶき踊りについて直接言及していなくても、当時の芸能状況や、かぶき踊りがどのように模倣され変容していったかを理解する手がかりとなる史料も存在する。
三浦浄心が著した『慶長見聞集』(慶長19年・1614年成立)には、女歌舞伎で三味線が使われるようになったことなどが記されている 17 。これは阿国本人の活動よりやや後の時代の記述である可能性が高いが、初期歌舞伎における楽器編成の変遷や、阿国歌舞伎から遊女歌舞伎への移行期における芸能の具体的な変化を伝える点で参考になる。
また、『御湯殿の上日記』の天正9年(1581年)9月の条には、宮中で「ややこ踊り」が演じられたという記録があり 9 、山科言経の日記『言経卿記』の天正15年(1588年)2月の条には、出雲大社の巫女が京都で舞を披露したという記録が見られる 27 。これらの記録が直接阿国を指すものかどうかは断定できないものの、阿国以前、あるいは阿国の極めて初期の活動に関連する可能性があり、彼女の芸のルーツや、当時の女性芸能者の活動状況を探る上で貴重な情報を提供している。
これらの周辺史料を総合的に分析することで、阿国歌舞伎の登場とその後の展開を、より広い文脈の中で立体的に捉えることが可能となる。
史料名 |
成立年代/記録年月日 |
記録されている阿国の呼称 |
活動場所 |
演目・活動内容 |
共演者・一座 |
観客の反応・評判 |
備考 |
『多聞院日記』 |
天正10年(1582)5月18日 |
(国?) |
春日大社若宮拝屋 |
ややこ踊り |
加賀国八歳の童? |
面白、各群集 |
「十一歳の童」を阿国とする説がある 10 |
『言経卿記』 |
天正15年(1588)2月 |
出雲大社巫女 |
京都 |
舞 |
不明 |
不明 |
阿国を指す可能性あり 27 |
『時慶卿記』 |
慶長5年(1600)6月26日 |
雲州の女楽 |
近衛殿 |
種々の曲 |
不明 |
不明 |
17 |
『時慶卿記』 |
慶長5年(1600)6月29日 |
雲州の女楽 |
御所 |
ヤヤコ踊 |
不明 |
不明 |
17 |
『時慶卿記』 |
慶長5年(1600)7月1日 |
クニ |
近衛殿 |
ヤヤコ踊 |
菊、その他男女十人程の座衆 |
晩まで興じる |
「国」の名の初見 12 |
『時慶卿記』 |
慶長5年(1600)8月1日 |
女楽 |
不明 |
ヤヤコ踊(少しばかり) |
不明 |
不明 |
17 |
『当代記』 |
慶長8年(1603)4月 |
出雲神子女 国 |
京都、伏見城 |
かぶき踊り(異風男装、茶屋女と戯れる) |
不明(茶屋の女役) |
京の上下賞翫、模倣者多数出現し諸国へ |
「但し好女に非ず」との注記 17 |
『時慶卿記』 |
慶長8年(1603)5月 |
(雲州ノ女楽) |
女院御所 |
ヤヤコ跳 |
不明 |
貴賤群衆 |
「かぶき踊り」との関連性 11 |
『当代記』 |
慶長12年(1607)2月20日 |
国というかぶき女 |
江戸(能舞台にて) |
勧進踊り |
不明 |
不明 |
江戸での公演記録 29 |
『慶長見聞集』 |
慶長19年(1614)成立 |
(阿国自身ではない可能性が高い) |
(江戸吉原町など) |
(遊女の)かぶき踊り |
(かつらき太夫など) |
(人気) |
三味線の使用など、女歌舞伎の様相 17 |
(上記は主要な史料の抜粋であり、全ての関連史料を網羅するものではない。)
出雲阿国の物語を語る上で、しばしば登場するのが名古屋山三郎(なごやさんざぶろう、一説に「さんざ」とも)という人物である。山三郎は実在の武将で、蒲生氏郷の小姓として武功を立て、その美貌は当時の流行小唄にも歌われるほどであったと伝えられている 47 。しかし、彼は慶長8年(1603年)、同僚との刃傷沙汰が原因で若くして亡くなっている 48 。
後世、阿国の夫や恋人、あるいは「かぶき踊り」の共同創始者として山三郎の名が語られるようになるが、近年の研究では、史実としての二人の間に直接的な関係があったことは否定される傾向にある 11 。阿国と山三郎を結びつける説の多くは、江戸時代中期以降に成立した『かぶきのさうし』(歌舞伎草子)などの読み物や巷説に由来すると考えられている。これらの物語では、山三郎の亡霊が阿国の舞台に現れて共に踊る、といった情熱的な筋立てが描かれ、二人の関係はロマンティックに脚色されていった 13 。
では、なぜ実際には関係の薄かった、あるいは無関係であったかもしれない二人が、このように強く結び付けられ、伝説として広まっていったのであろうか。一つには、名古屋山三郎自身が、当代きっての美男子として名を馳せ、若くして非業の死を遂げたという劇的な生涯から、伝説化しやすい要素を持っていたことが挙げられる。一方、阿国もまた、男装の麗人として一世を風靡し、その芸の斬新さやカリスマ性から、山三郎のような華やかで悲劇的なヒーローと結びつきやすかったのであろう。観客や読者は、舞台上の虚構と現実の人物を結びつけ、よりドラマチックで情熱的な物語を求めたのかもしれない。
また、阿国側が、当時人気の高かった山三郎の名を興行戦略として利用した可能性も皆無とは言えない。阿国は観客の要望を敏感に察知し、演目を変化させるプロデュース能力に長けていたとされ 18 、山三郎の名を演目に取り入れたり、彼との関係を匂わせたりすることが、興行的な成功に繋がると考えたとしても不思議ではない。たとえ史実でなくとも、そのような「噂」や「物語」が、阿国歌舞伎の魅力を一層増幅させたことは想像に難くない。
阿国の「かぶき踊り」を理解する上で欠かせないのが、当時の社会風俗であった「かぶき者」の存在である。「かぶき者」とは、戦国末期から江戸初期、特に慶長年間(1596年~1615年)に流行した、異風な装束を身にまとい、常軌を逸した行動をとる人々のことを指す 3 。彼らは、既存の秩序や規範にとらわれず、伊達や意気を重んじ、仲間との結束を誇示する一方で、時には徒党を組んで市中で横行し、治安を乱す存在として幕府から取り締まりの対象ともなった 3 。
阿国の「かぶき踊り」という名称自体が、この「かぶき者」の「かぶく」(傾く、常軌を逸する)という精神性に由来していることは明らかである 5 。阿国は、男装し、刀を差し、時には十字架(ロザリオ)のような異国の装飾品を首から下げるなど 5 、まさに「かぶき者」のスタイルを意識的に自身の芸に取り入れた 5 。その奇抜な衣装や大胆な振る舞いは、観客に強烈な印象を与え、熱狂的な支持を集めた。
阿国歌舞伎が「かぶき者」の精神性を取り込んだことは、単なる奇抜さの追求に留まらず、より深い意味合いを持っていたと考えられる。それは、既存の秩序や規範に対するある種の挑戦であり、新しい価値観の表明といった側面である。戦乱が終息し、新たな社会秩序が形成されつつあったこの時代、人々は旧来の束縛からの解放や、個性の発露を求めていた。阿国の「かぶいた」姿は、そのような時代の空気を敏感に捉え、観客の鬱屈した感情の解放や、自由への憧れを投影する鏡となったのかもしれない。
さらに、阿国の男装は、単に「かぶき者」の模倣というだけでなく、当時のジェンダー規範に対する問いかけという側面も持ち合わせていた可能性がある。男尊女卑の傾向が強まっていたとされる社会において 11 、女性である阿国が男装し、刀を帯びて男性のように振る舞うことは、固定的な性役割からの逸脱であり、観客に強いインパクトを与えた。これは、女性が社会的に抑圧されていた状況に対する、無意識的な抵抗や自己主張の現れと見ることもできるだろう。
出雲阿国の「かぶき踊り」は、その熱狂的な人気とともに多くの模倣者を生み、歌舞伎という新たな芸能の潮流を形成していく。しかし、その道のりは平坦ではなく、幕府による統制や社会の変化の中で、様々に姿を変えていくことになる。
阿国歌舞伎の成功に目を付けたのは、当時の遊女屋であった。彼女たちは、阿国のスタイルを模倣し、抱えの遊女たちに踊らせる「遊女歌舞伎(女歌舞伎)」を興行し、大きな人気を博した 13 。女歌舞伎は、阿国歌舞伎の斬新な要素を受け継ぎつつも、より演者の容色を前面に押し出し、しばしば売春と結びつく側面を持っていた 11 。阿国歌舞伎自体にもエロティックな要素は含まれていたが 11 、遊女歌舞伎はそれがより直接的であったと言える。
このような状況に対し、江戸幕府は風紀の乱れを懸念し、寛永6年(1629年)、女歌舞伎を禁止するに至る 8 。禁止の理由としては、風紀紊乱の他に、寺社において既に徹底されていた女人禁制との整合性や、江戸時代に入り制度としても強固になりつつあった男尊女卑の傾向も背景にあったとされている 11 。初期歌舞伎における芸能と性の近接性は、その人気の一因であったと同時に、幕府による統制の格好の口実となったのである。この背景には、女性の社会進出や自由な表現に対する警戒感、儒教的道徳観に基づく支配体制の強化といった為政者の意図も読み取れる。
しかし、この女歌舞伎の禁止は、歌舞伎という芸能のあり方に大きな影響を与えた。女性演者が舞台から排除された結果、後に「女方(おんながた)」という、男性が女性役を専門に演じる独特の演技術が発展する契機となったのである 30 。禁止という抑圧が、逆に歌舞伎の表現方法を特殊化させ、独自の様式美を生み出す一因となったと言えるだろう。
女歌舞伎が禁止されると、それに代わって台頭したのが、前髪のある(元服前の)美少年たちによる「若衆歌舞伎」であった 8 。若衆歌舞伎もまた、演者の容色を売り物にする傾向が強く、しばしば男色の対象となることも多かった 50 。そのため、これもまた風紀上の問題を引き起こし、承応元年(1652年)には幕府によって禁止されることとなる 8 。
女歌舞伎から若衆歌舞伎への移行は、性の対象が女性から美少年へと変わっただけで、芸能と性の結びつきという本質は変わらなかった。そのため、幕府の統制も継続されたのである。これは、幕府が芸能を通して性的な逸脱が広がることを一貫して警戒していたことを示している。
ただし、若衆歌舞伎は単に容色本位であっただけではない。軽業のようなアクロバティックな動きや、道化的な役柄など、女歌舞伎には見られなかった新たな演技術の要素も現れ始めていた 49 。特に、洗練された小舞(こまい)などが整備され、これが後の歌舞伎舞踊(所作事)の基礎となったという指摘もある 50 。これらの要素が、次の野郎歌舞伎時代に本格的な演劇としての歌舞伎が成立する上で、重要な素地を形成したと言える。
若衆歌舞伎も禁止された後、歌舞伎は再び存続の危機に立たされる。しかし、関係者の嘆願などもあり、いくつかの条件付きで再開が許されることになった。それが「野郎歌舞伎」である。その条件とは、①役者が若衆の象徴である前髪を剃り落として野郎頭(月代を剃った成人男性の髪型)になること、②扇情的な舞や踊りではなく、「物真似狂言づくし」(物語性のある演劇)を演じること、であった 53 。
この野郎歌舞伎の時代に、歌舞伎は演劇として大きく深化を遂げる。それまでの容色本位から、役者の技芸や物語の筋、演出の巧みさが重視されるようになり、本格的な演劇へと脱皮していったのである。女役を専門とする「女方」の芸が高度に洗練され、花道や回り舞台といった歌舞伎独特の舞台機構もこの時期に発達した 53 。
幕府による度重なる禁止と、その都度課される条件(野郎頭になること、物真似狂言を中心にすることなど)が、結果的に歌舞伎を容色本位のショーから、より物語性や演技力を重視する演劇へと深化させる方向に作用したという点は、歴史の逆説とも言えるだろう。「物真似狂言づくし」という条件は、歌舞伎が単なる踊りや見世物から、筋のある物語を演じる「演劇」へと本格的に移行する上で決定的な意味を持った。これにより、歌舞伎はより複雑な人間ドラマや社会の様相を描き出すことができるようになり、日本を代表する総合演劇としての地位を確立していく基礎が築かれたのである。
一世を風靡した出雲阿国であるが、その最期については謎に包まれている部分が多い。卒年に関しては、慶長18年(1613年)、正保元年(1644年)、あるいは万治元年(1658年)など複数の説が存在するが、いずれも確証はなく、特定されていない 16 。これらの年は、阿国本人ではなく、その後継者や阿国を名乗った別の人物の卒年である可能性も指摘されている 16 。
阿国の晩年については、出雲に帰り尼になったという伝承が残されている 11 。彼女の活動が最も華々しかったのは慶長年間前半であり、慶長12年(1607年)の江戸城での勧進歌舞伎上演以降、確実な史料からはその消息が途絶えがちになる 11 。卒年や晩年に関する情報の不確かさは、彼女の生涯が後半になるにつれて記録から遠ざかり、次第に伝説の人物となっていったことを示唆している。
阿国の墓所とされる場所は、複数存在する。最もよく知られているのは、彼女の出身地とされる出雲大社近隣(島根県出雲市大社町杵築北)にある中村家の墓の隣に建てられたものである 10 。また、京都の大徳寺高桐院にも、阿国のものと伝えられる墓があり、一説には恋仲であったとされる名古屋山三郎の墓と並んで供養されている 11 。これらの墓所の存在や、出家伝承は、阿国が伝説化し、各地で様々に語り継がれた結果と考えられる。
さらに、阿国を顕彰する碑も建立されている。京都の四條南座の西側には「阿国歌舞伎発祥の地」の石碑が建てられており 10 、四条大橋東詰北側には「出雲の阿国像」が設置されている 42 。これらの顕彰物の存在は、阿国が後世において「歌舞伎の始祖」として記憶され、その功績が称えられてきたことを物語っている。
出雲阿国は、一般的に歌舞伎の創始者として広く認識されている 5 。彼女が創始した「かぶき踊り」が、その後の女歌舞伎、若衆歌舞伎、野郎歌舞伎へと続く大きな流れを作り、今日の歌舞伎の源流の一つとなったことは、多くの史料が示すところである。
ただし、この「始祖」としての評価については、学術的には議論の余地も存在する。例えば、歴史学者の服部幸雄氏は、阿国歌舞伎は中世以来の女性芸能の一つの形態に過ぎず、演劇としての本格的な歌舞伎の成立は、むしろ若衆歌舞伎以降に求められるべきであるという説を提唱している 27 。この説は、阿国=歌舞伎の始祖という通説的理解に一石を投じ、歌舞伎成立史の議論を深める上で大きな影響を与えた。
「始祖」という概念自体が多義的であることも考慮する必要がある。阿国を「始祖」と呼ぶ場合、それが具体的に何を意味するのか(最初の演者なのか、様式を確立した人物なのか、あるいは社会現象のきっかけを作った人物なのか)によって、その評価は変わりうる。阿国自身が演じた「かぶき踊り」と、その後の様々な変容を経た歌舞伎との間には、直接的な連続性と、禁止や社会状況の変化による断絶・変容を経た間接的な繋がりが存在する。したがって、阿国を評価する際には、彼女の革新的な試みが最初の大きな波を起こしたという点と、その波が複雑な経緯を辿りながら後の歌舞伎へと繋がっていったという両面を理解する必要があるだろう。
出雲阿国とその「かぶき踊り」の様子を視覚的に伝える貴重な史料として、「阿国歌舞伎図屏風」が複数現存している。代表的なものとしては、京都国立博物館蔵のもの 21 、出光美術館蔵のもの 60 、サントリー美術館蔵のもの 60 などが知られている。
これらの屏風絵には、共通して初期の歌舞伎興行の様子が生き生きと描かれている。多くの場合、能舞台を代用した簡素な舞台の上で、男装した阿国が中心となり、道化役の猿若(さるわか)や、女装した男性が演じる茶屋のかか(女主人)などと共に「茶屋遊び」などの演目を披露している場面が描かれる 21 。囃子方は、笛、小鼓、大鼓、太鼓で構成され、三味線は見られないことが多く、これは初期の楽器編成を示している 29 。舞台の周囲には、身分や老若男女を問わず、多様な見物客が熱心に見入る様子が描かれており、当時の熱狂ぶりが伝わってくる。
これらの屏風絵は、文献史料では捉えきれない当時の衣装の色彩やデザイン、小道具、舞台全体の雰囲気、観客の具体的な姿などを具体的に伝えており、文献史料と相互に補完し合うことで、より豊かな阿国像・初期歌舞伎像を構築することができる。例えば、文献で「異風なる男のまね」と記された阿国の姿が、屏風絵ではどのような出で立ちで描かれているかを確認することで、より具体的なイメージを得ることが可能となる。
また、これらの屏風絵は美術史的にも価値が高く、例えば京都国立博物館蔵のものは、図中に描かれた松の表現などから長谷川派の作とする有力な説がある 34 。ただし、屏風絵もまた制作者の解釈や様式化を含むため、その図像を読み解く際には慎重な分析が必要である。
現存する複数の「阿国歌舞伎図屏風」には、描写内容や様式に差異が見られることも指摘されている。例えば、京都国立博物館本と出光美術館本を比較すると、見物客の数や楽器の種類、金の使われ方、人物配置などに違いが見られる 60 。これらの違いは、描かれた時期の違い、あるいは異なる一座や公演の様子を反映している可能性も考えられる。各屏風の制作年代や注文主、制作背景などを詳細に研究することで、初期歌舞伎のより細やかな実態に迫ることができるだろう。
所蔵館 |
屏風の形態 (例) |
推定制作年代 |
描かれている主な場面・演目 |
舞台の様式 |
囃子方の楽器編成 |
阿国の服装・役割 |
猿若の服装・役割 |
茶屋のかかの服装・役割 |
見物客の様子 |
絵画の流派・様式的特徴 |
京都国立博物館 |
六曲一隻 |
17世紀前半 |
茶屋遊び |
能舞台 (代用) |
笛、小鼓、大鼓、太鼓 (三味線なし) |
男装 (かぶき者風、刀)、中心的な踊り手 |
道化役 |
女装 (男性が演じる) |
多様な身分の老若男女、熱心に見物 |
長谷川派の可能性 34 |
出光美術館 |
六曲一双 (左隻に阿国歌舞伎) |
17世紀初頭 |
茶屋遊び |
能舞台 (代用) |
笛、小鼓、大鼓、太鼓 |
男装、踊り手 |
道化役 |
女装 |
京博本より少ない |
長谷川等秀筆説など 60 |
サントリー美術館 |
六曲一双 (茶屋遊びを描く) |
17世紀初頭 (慶長12年以前か) |
茶屋遊び |
(北野社が描かれる) |
(詳細不明) |
(詳細不明) |
(詳細不明) |
(詳細不明) |
(詳細不明) |
61 |
徳川美術館 |
(形態不明) |
慶長期 |
(詳細不明) |
(詳細不明) |
(詳細不明) |
(詳細不明) |
(詳細不明) |
(詳細不明) |
(詳細不明) |
料紙装飾法から慶長期制作と推定 63 |
(上記は代表的な作例であり、全ての「阿国歌舞伎図屏風」を網羅するものではない。また、各屏風の詳細は専門的な研究を参照されたい。)
出雲阿国とその「かぶき踊り」に関する研究は、長きにわたり多くの研究者によって積み重ねられてきた。その評価や位置づけは、時代や研究者の視点によって様々に変遷してきた。
戦後の実証的な芸能史研究の基礎を築いた一人である 林屋辰三郎 氏は、『歌舞伎以前』(1954年)や『かぶきの成立』(1949年)といった著作において、阿国を歌舞伎の源流として肯定的に位置づけた 17 。その研究は、後の阿国研究・初期歌舞伎研究の出発点となった。
小笠原恭子 氏は、『出雲のおくに その時代と芸能』(1984年)や『阿国かぶき前後』(2006年)などの著作で、一次史料を重視し、阿国の具体的な活動や人物像の再構築を試みた 27 。特に、阿国が幼少期から宮中や公家の屋敷に出入りして踊りを披露していた可能性を示唆するなど 64 、その実証的なアプローチは注目される。
一方、従来の阿国=歌舞伎の始祖という通説に大きな一石を投じたのが 服部幸雄 氏である。その著書『歌舞伎成立の研究』(1968年)において、服部氏は、阿国歌舞伎を中世以来の様々な女性芸能の一つと捉え、演劇としての本格的な歌舞伎の成立は、むしろ若衆歌舞伎以降に求められるべきであると主張した 27 。この説は、歌舞伎成立史の議論を大きく活性化させ、阿国評価の相対化を促した。
その他、歌舞伎の様式美や演出に関する研究で知られる 郡司正勝 氏 17 や、初期歌舞伎、特に野郎歌舞伎や役者絵の研究で業績のある 武井協三 氏 68 なども、阿国や初期歌舞伎に言及し、研究の深化に貢献している。
これらの研究史を概観すると、阿国評価は、彼女を歌舞伎の直接的な「始祖」と見る立場と、より広い芸能史の中に位置づけ、後の歌舞伎との間に一定の断絶や変容を認める立場とに大別できる。各研究者がどのような史料を重視し、それをどのように解釈した結果、異なる阿国像や歌舞伎成立論に至ったのかを具体的に比較検討することが、阿国研究の現状を理解する上で重要となる。
阿国研究におけるもう一つの重要な論点として、「阿国複数人説」と、史実としての阿国の「実像」と後世に形成された「虚像」をめぐる問題がある。
「阿国」という名が、特定の個人を指すのではなく、ある種の芸能様式を行う集団や、その代表者の称号のようなものであったのではないか、という説(阿国複数人説)も存在する 8 。これは、史料に見られる「クニ」という名の活動期間の長さや、記録の断片性などから提起されるものである。もし複数の「阿国」が存在したとすれば、歌舞伎の起源に関する議論はさらに複雑な様相を呈することになる。
また、阿国に関する史料が断片的であることや、彼女の活動が後世において伝説化されたことにより、その「実像」と「虚像」が混在していることも指摘されている 11 。特に名古屋山三郎との関係などは、後世の創作によるところが大きいと考えられている。
明治時代以降も、出雲阿国は様々な形で文学や演劇、映像作品の題材として取り上げられてきた。坪内逍遥や伊原青々園による戯曲 27 、そして特に有吉佐和子の歴史小説『出雲の阿国』(1967年~) 11 は、広く読まれ、阿国のイメージ形成に大きな影響を与えた。これらの作品は、史実を踏まえつつも、作者の解釈や創作が加えられており、阿国像が時代ごとに再生産され、その時代時代の社会や文化の関心事を反映してきたことを示している。例えば、有吉佐和子の小説は、戦後の女性の生き方や自己実現といったテーマと重ね合わせて阿国を描き、多くの読者の共感を得た。現代のドラマや漫画における阿国像 11 もまた、現代的な視点や価値観に基づいて創造されており、阿国という存在が固定されたものではなく、時代と共に変容し続ける文化的アイコンであることを物語っている。
学術的な議論においては、これらの虚像を排し、史料に基づいて実像に迫ろうとする努力が続けられているが、同時に、なぜそのような虚像が生まれ、受け入れられてきたのかという、伝説形成のメカニズムや文化的背景を解明することも重要な課題となっている。阿国を単一の個人として捉えるだけでなく、「阿国」という名の下に行われた芸能活動や、それが社会に与えたインパクト全体を「阿国現象」として捉える視点も、今後の研究において有効であろう。
出雲阿国は、日本芸能史において、中世から近世への転換期に現れた画期的な存在として位置づけられる。彼女の「かぶき踊り」は、それまでの芸能の伝統を踏まえつつも、異性装や時事風俗の導入といった大胆な革新性によって、新たな芸能の潮流を生み出した。阿国は、念仏踊りやややこ踊りといった伝統的な芸能の要素を受け継ぎつつ、そこに「かぶく」という時代の精神や物語性といった新しい要素を融合させた。この点で、彼女は伝統と革新の結節点に立つ重要な人物であったと言える。
阿国の芸が持った猥雑さや奔放さ、そして観客を巻き込む熱狂は、それまで抑圧されがちだった民衆のエネルギーが、新しい時代を迎えて噴出したものと捉えることができる。洗練された貴族的な芸能とは異なり、より直接的で、時には粗野とも言える生命力に満ちた阿国歌舞伎は 17 、都市の町人を中心とする新たな観客層の心をつかみ、熱狂的な支持を得た。阿国は、そのような民衆のエネルギーを巧みに掬い取り、舞台上で表現することで、時代の寵児となったのである。
その後の歌舞伎が、女歌舞伎、若衆歌舞伎、野郎歌舞伎へと変遷し、幕府による統制を受けながらも、日本を代表する総合演劇へと発展していく上で、阿国の「かぶき踊り」がその最初の大きな波を起こしたことは疑いようがない。彼女を歌舞伎の直接的な「始祖」と見なすか否かについては学術的な議論があるものの、その功績と影響力の大きさは計り知れない。
出雲阿国の存在は、ジェンダー史や社会風俗史の観点からも、多くの示唆を与えてくれる。彼女が生きた近世初期は、戦乱の世が終わり、新たな社会秩序が形成される一方で、女性の社会的地位や役割については、依然として厳しい制約が存在した時代であった。そのような中で、阿国は芸能という手段を通じて自己を表現し、広範な人気を獲得した。
特に注目されるのは、阿国の男装や、一座全体で行われた異性装である。これは、当時の固定的なジェンダー規範に対する、意識的あるいは無意識的な問いかけであったと解釈することができる。女性が男性の格好をし、男性が女性の格好をして演じることは、性の役割の流動性や曖昧さを示唆し、観客に新鮮な驚きと解放感を与えたであろう。
また、「かぶき踊り」の内容、特に「茶屋遊び」のような演目は、当時の遊里の風俗や人々の性に対する意識を色濃く反映している。それは、単なる娯楽を超えて、当時の社会の一断面を映し出す鏡としての役割も果たしていた。
阿国は、女性でありながら男装し、宗教的な背景を持ちながら世俗的な演目を演じ、身分の上下を問わず観客を魅了するなど、様々な境界を越境する存在であった。この越境性が彼女の魅力の源泉であり、また歴史的な意義でもある。このような存在は、社会が大きく変動し、既存の価値観が揺らいでいた過渡期だからこそ生まれ、受け入れられたのかもしれない。
そして、阿国歌舞伎の熱狂的な流行と、その後の女歌舞伎・若衆歌舞伎への幕府による弾圧は、表現の自由と社会統制という、いつの時代にも繰り返される普遍的なテーマを私たちに提示している。阿国歌舞伎は、その斬新さと奔放さで民衆の心を掴んだが、それは同時に為政者にとっては社会秩序を乱す可能性を秘めたものであった。この対立構造は、歴史を通じて様々な形で繰り返されており、現代社会における表現のあり方を考える上でも示唆に富むと言えるだろう。
出雲阿国の生涯と彼女が生み出した芸能は、単に過去の一事象としてではなく、現代に生きる私たちに対しても、文化の創造性、ジェンダーのあり方、そして社会と表現の関係性といった普遍的な問いを投げかけ続けているのである。