前田まつ、後の芳春院は、天文16年(1547年)から元和3年(1617年)にかけて、日本の歴史が大きく揺れ動いた戦国時代から江戸時代初期を生きた女性である 1 。彼女は、「槍の又左」の異名を持ち、織田信長、豊臣秀吉に仕え、後に豊臣政権の五大老の一人となった前田利家の正室として、加賀百万石の礎を築く上で内助の功に留まらない重要な役割を果たした 2 。夫・利家を献身的に支える一方で、時には政治の表舞台にも影響を及ぼし、特に利家の死後、徳川家康の台頭という未曾有の危機に際しては、前田家の存続を一身に背負い、大胆かつ冷静な判断で家運を切り開いた 4 。
まつの生涯は、単なる一武将の妻としての物語を超えている。彼女は、夫と共に戦国の世を駆け抜け、豊臣政権下では大坂城にあって秀吉の妻・高台院(ねね)と深い親交を結び、政治的にも一定の影響力を持った。そして、関ヶ原の戦いを目前にした「慶長の危機」においては、自ら人質となって江戸へ下るという決断を下し、これにより前田家は徳川幕府の下での安定と繁栄を確保することができたのである 1 。この行動は、当時の女性としては異例とも言える主体性と政治的判断力を示すものであり、彼女が単に運命に翻弄された存在ではなく、自らの意思で家の未来を切り開いた人物であったことを物語っている。
本稿では、前田まつの出自から、利家との結婚、戦国の動乱期における夫婦の協力、豊臣政権下での役割、そして最大の試練であった江戸での人質生活、さらには晩年と彼女が残した遺産に至るまでを、現存する史料や研究に基づいて詳細に検討する。彼女の生涯を追うことは、戦国から江戸初期という激動の時代における女性の生き様、そして大名家の存続戦略を理解する上で、貴重な示唆を与えてくれるであろう。また、数多くのテレビドラマや小説で描かれてきた彼女の人物像 1 が、史実とどのように結びつき、また時には離れて形成されてきたのかについても考察を試みる。
表1:前田まつ 主要経歴
項目 |
内容 |
出典 |
幼名 |
まつ |
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法号 |
芳春院 (ほうしゅんいん) |
8 |
戒名 |
芳春院殿花巖宗富大禅定尼 (ほうしゅんいんでん かげんそうふ だいぜんじょうに) |
1 |
生年月日 |
天文16年7月9日(1547年7月25日) |
1 |
没年月日 |
元和3年7月16日(1617年8月17日) |
1 |
享年 |
71歳 |
1 |
出身地 |
尾張国海東郡沖島 (現在の愛知県あま市) |
1 |
父 |
篠原一計 (しのはら かずかず) (通説) |
1 |
母 |
竹野氏 (たけのし) (利家の母の姉) |
1 |
夫 |
前田利家 (まえだ としいえ) |
1 |
主な子供 |
前田利長 (長男、初代加賀藩主), 前田利政 (次男), 幸姫 (長女), 蕭姫 (次女), 摩阿姫 (三女), 豪姫 (四女、宇喜多秀家室), 千世 (六女) |
1 |
前田まつは、天文16年(1547年)7月9日、尾張国海東郡沖島(現在の愛知県あま市七宝町沖之島)で生を受けた 1 。彼女の出自については、父を篠原一計(しのはら かずかず)とする説が広く知られている 1 。しかしながら、近年の郷土史研究においては、まつの父は犬養犬斎(いぬかい けんさい)、あるいは犬養将監惟政(いぬかい しょうげん これまさ)であり、篠原一計は義父にあたるのではないかという説も提示されている 11 。この犬養氏説によれば、江戸時代を通じて加賀の前田家では、尾張国沖ノ島村の犬養家が芳春院の出身であると認識されていたとされ、この記録の相違は、特に女性の家系を辿る際の歴史的記録の複雑さを示唆している 11 。当時の記録は男性中心のものが多く、女性の出自に関しては複数の伝承が残りやすい。この点については、今後の更なる史料の発見と研究が待たれるところである。
まつの母は竹野氏の出身であり、前田利家の母の姉、すなわち利家の伯母にあたる 1 。このため、まつと利家は従兄妹という血縁関係にあった。まつの幼少期に父が亡くなるか、あるいは何らかの事情により、母が高畠直吉と再婚した 9 。その後、まつは母の妹(まつの叔母)が嫁いでいた尾張荒子城主・前田利昌(利家の父)のもとに引き取られ、養育されることとなった 1 。戦国時代においては、有力な武家が縁戚の子女を引き取り養育することは、一族の結束を固め、将来的な婚姻を通じて同盟関係を強化するための一般的な慣行であった。まつが前田家で養育されたことは、彼女自身の安定した生活を保障するとともに、前田家内部の絆を深める意味合いも持っていたと考えられる。
永禄元年(1558年)、まつは数え12歳(満11歳)という若さで、従兄弟にあたる前田利家(当時22歳)と結婚した 1 。この早婚は戦国時代の武家社会では珍しいことではなかったが、彼女が幼くして武家の正室としての責任を負うことになったことを意味する。夫婦仲は極めて良好であったと伝えられており、二人の間には、長男で初代加賀藩主となる利長、次男利政をはじめ、幸姫、蕭姫、摩阿姫、豪姫、千世など、二男九女、計11人の子供たちが生まれた 1 。多くの子宝に恵まれたことは、夫婦の絆の深さを示すとともに、大名家としての前田家の将来的な安定にも繋がる重要な要素であった。
利家が織田信長に仕えていた若い頃、夫妻は尾張の清洲城下に居を構えていた。この時、隣家には後に天下人となる羽柴秀吉(豊臣秀吉)とその妻おね(後の高台院、北政所)が住んでいたという 1 。この地理的な近さがきっかけとなり、まつとおねの間には深い友情が育まれた。この女性同士の固い絆は、単なる個人的な親交に留まらず、後に前田家が豊臣政権下で重要な地位を占めるにあたり、また幾多の政治的難局を乗り越える上で、目に見えないながらも大きな助けとなった。戦国時代において、武将たちの妻同士が築く人間関係は、夫たちの公式な外交ルートを補完し、時にはそれを円滑にするための重要な役割を担っていたのである。まつとおねの友情は、その典型的な例と言えるだろう。
前田まつは、家庭を守るという伝統的な武家の妻の役割に留まらず、夫・前田利家の政治的、軍事的な活動においても、陰に陽に重要な貢献を果たした。利家が織田信長、豊臣秀吉という当代随一の権力者に仕え、北陸に広大な領地を獲得し、やがて加賀百万石の礎を築き上げる過程において、まつは単なる内助者ではなく、良き相談相手であり、時には夫の行動を促す積極的な協力者であったことが諸史料からうかがえる 2 。
その顕著な例として、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いが挙げられる。この戦いで柴田勝家方に与した利家は、勝家の敗北により窮地に立たされた。この時、まつは越前府中城(現在の福井県武生市)にあって、単身で羽柴秀吉の本陣に赴き、秀吉と直接交渉して和議を成立させ、利家の命を救ったと伝えられている 1 。秀吉の妻おねとの旧知の仲もこの交渉に有利に働いたとされるが、敵将との直接交渉に臨むまつの胆力と外交的手腕は、彼女が並の女性ではなかったことを示している。この行動は、利家がその後、秀吉の最も信頼する重臣の一人として台頭するための決定的な転機となった。
また、天正12年(1584年)の末森城の戦いにおける逸話も、まつの気丈な性格と影響力を物語っている。当時、利家は秀吉の命により金沢城の守備に専念していたが、その隙を突いて越中の佐々成政が大軍で前田領の末森城を攻撃した 14 。援軍を送るべきか否か、利家が出陣をためらっていた際、まつは「日頃から兵を養うよう言っているのに殿は蓄財ばかり! それでは、いっそ金銀に槍を持たせたらいかがか」と、備蓄していた金銀を利家の前に投げ出して叱咤激励したという 15 。この強烈な言葉と行動に利家は激怒しつつも奮起し、自ら出陣して末森城を救い、佐々成政を撃退したと伝えられる。この逸話は、まつが単に夫に従順なだけでなく、時には厳しく夫を諌め、家の危機に際しては戦局を見極めて適切な判断を促すだけの洞察力と気概を持っていたことを示している。彼女のこの行動は、蓄財よりも軍事力の維持こそが家を守る道であるという、武家の本質を突いたものであった。
豊臣秀吉の天下統一事業が進む中で、前田利家はその重臣として確固たる地位を築き、まつもまた豊臣政権の中枢と深く関わることになった。特に、秀吉の正室である高台院(ねね、おね)とは、前述の通り清洲時代からの旧知の間柄であり、生涯を通じて極めて親密な関係を保った 1 。この深い友情は、前田家が豊臣政権内で円滑に活動するための重要な基盤となった。伝承によれば、高台院は利家とまつの結婚の際に仲人の役割を果たしたとも言われている 1 。
両家の信頼関係の深さを示す象徴的な出来事として、まつが四女・豪姫を、実子のいなかった秀吉夫妻の養女として差し出したことが挙げられる 1 。豪姫はまだ数え2歳(満1歳)という幼さであり、幼子を手放すというこの決断は、まつと高台院の間の並々ならぬ信頼関係がなければ成り立たないものであった。豪姫は秀吉夫妻に溺愛され、後に五大老の一人となる宇喜多秀家の正室となった。
さらに、蒲生氏郷の死後、その子・秀行が会津92万石の領地を相続するにあたり、まつが高台院に働きかけたことが、相続実現に影響を与えたという説もある 1 。これは、まつが単に高台院の友人であるに留まらず、豊臣政権内部の人事にも一定の影響力を持ち得た可能性を示唆している。
晩年の秀吉が嫡男・豊臣秀頼をもうけ、利家がその傅役(後見人)に任じられると 3 、まつもまた秀頼の乳母的な立場となり、大坂城内での発言力を有するようになった 1 。慶長3年(1598年)に秀吉が催した盛大な「醍醐の花見」には、秀吉の妻妾や高位の女性たちと共に列席しており、彼女が豊臣家において重要な存在として遇されていたことがわかる 1 。このように、まつは高台院との個人的な絆を基盤としつつ、豊臣政権の中枢において、夫・利家を支え、前田家の地位を確固たるものにするために、巧みに立ち回ったのである。
慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉が死去し、その翌年の慶長4年(1599年)閏3月には、豊臣政権の重鎮であり、秀頼の後見役であった前田利家も後を追うように病没した 3 。これにより、豊臣政権内での権力バランスは大きく崩れ、徳川家康が急速に台頭する。利家の死は、前田家にとって最初の存亡の危機、すなわち「慶長の危機」の始まりであった 3 。
家康は、利家の長男で家督を継いだ前田利長に対し、謀反の嫌疑をかけ、加賀征伐を計画したとされる 6 。これは、家康が天下取りに向けて、豊臣恩顧の大大名であり、潜在的な対抗勢力となり得る前田家を屈服させようとする動きであった。利長は当初、家康との交戦も辞さない構えであったが、家中では意見が対立した。この絶体絶命の状況において、前田家の運命を左右する決断を下したのが、利長の母である芳春院(まつ)であった。
まつは、血気にはやる利長を宥め、自らが人質となって江戸の家康のもとへ下ることを申し出た 1 。これは、前田家が徳川家に対して恭順の意を示すことで、無益な戦を避け、家名を保つための苦渋の選択であった。まつの江戸下向は慶長5年(1600年)6月に実行され、これにより家康との和議が成立し、加賀征伐は回避された 6 。この決断は、まつの個人的な自由と引き換えに、前田家百万石の未来を確保するものであり、彼女の深い洞察力、自己犠牲の精神、そして何よりも家を守り抜こうとする強い意志の表れであった。
芳春院(まつ)の江戸での人質生活は、慶長5年(1600年)から始まり、長男・利長が死去した後の慶長19年(1614年)に金沢へ帰還するまで、約14年間に及んだ 1 。この期間は、関ヶ原の戦い(慶長5年)、大坂冬の陣(慶長19年)といった日本の歴史を画する大きな出来事と重なっている。
江戸での生活は、事実上の監視下に置かれた不自由なものであったと推察されるが、徳川家康は表向きにはまつを丁重に扱ったと伝えられている 17 。彼女は江戸屋敷にあって、故郷の家族や家臣たちと頻繁に書状を交わしていた。これらの書状は、彼女の当時の心境や健康状態、江戸での見聞、そして家族への細やかな配慮などを伝える貴重な一次史料として、現在も複数残されている 8 。特に、娘婿の村井長次や娘の春香院(ちよ)に宛てたものが多く、その内容は、病気がちであった自身の健康への不安、遠く離れた子供たちの身の上を案じる母としての情愛、そして加賀藩の将来に対する深い関心など、多岐にわたる 18 。
例えば、孫である前田直之(次男・利政の子)が病気になった際には、その乳母に宛てて「毒を食べたのではないか」とまで記し、深い憂慮を示している 8 。また、江戸での日々の様子や入手した情報を仮名書きで記した手紙を子や縁者に多数送っており、それらは彼女が完全に孤立していたわけではなく、情報を収集し、故郷と連絡を取り続けることで、間接的ながらも影響力を保持しようとしていたことを示唆している 18 。
近年、まつの江戸下向の際の道中日記とされる『東路記(あずまじのき)』の存在が注目されている 17 。この日記には、江戸へ向かう際のまつの心境が「いはんや、君の御ため(秀頼公、あるいは天皇のため)、世のため(世の太平のため)、又は子を思ふ心の闇には(利長ら子供たちを思う母としての心の苦悩を晴らすため)、何をか思ひわきまへて侍らんとて、やすやすと思ひ立ちぬ」と記されているという 17 。この記述が事実であれば、彼女の決断が、単なる徳川への屈服ではなく、豊臣家への忠誠、世の平和への願い、そして何よりも我が子と前田家を守りたいという母性愛に根差した、極めて複合的かつ主体的なものであったことを示している。ただし、この『東路記』の史料的価値や真贋については、専門家の間でさらなる詳細な検証が求められる 17 。
人質という立場にありながらも、まつは前田家のために奔走した。関ヶ原の戦いで西軍に与した次男・利政の赦免や、娘婿である宇喜多秀家の助命、養育していた前田利孝(利家の庶子)の大名取り立てなどを江戸幕府に働きかけたとされる 1 。これらの活動は、彼女が江戸にあってもなお、前田家の安泰と一族の福祉のために、可能な限りの手段を尽くしていたことを示している。
慶長19年(1614年)、長男であり加賀藩初代藩主であった前田利長が4月に死去すると、芳春院(まつ)はようやく江戸での長い人質生活を終え、金沢へ帰ることを許された 8 。時にまつは68歳。実に14年(資料によっては15年 8 )もの歳月を、故郷を遠く離れた江戸で過ごした後であった。
金沢に戻ったまつは、かつて夫・利家と共に築き上げた城下で、比較的穏やかな晩年を送ったとされる。そして、江戸から帰還して3年後の元和3年(1617年)7月16日、金沢城内において71歳の生涯を閉じた 1 。
晩年のまつに関する記録としては、夫・利家の菩提を弔うため、その墓所の方角を遥拝するための施設(遥拝墓)を建立したことが伝えられている 19 。また、大徳寺の僧・春嶽宗勝による慶長14年(1609年)の賛が記されたまつの肖像画が現存しており、これは彼女の晩年の姿を描いた寿像(生前に描かれる肖像画)であると考えられている 20 。この肖像画は、彼女が江戸での人質生活を送っていた時期に描かれたものであり、その表情からは厳しい状況下にあっても失われなかったであろう気品と意志の強さがうかがえる。
まつの遺骸は、金沢市の野田山墓地にある夫・利家と長男・利長の墓の傍らに葬られた 21 。また、京都の大徳寺塔頭・芳春院にも分骨され、ここも彼女の菩提寺となっている 1 。野田山にある前田家墓所は、歴代藩主とその正室たちの墓が整然と並ぶ壮大なものであり、その中でも利家とまつの墓は、加賀藩の始祖夫妻として特別な位置を占めている 21 。
まつの死後、彼女が有していた化粧料(個人の所領)7500石は、次男・利政の嫡男であり、まつにとっては唯一の直系の男孫にあたる前田直之に遺贈された 1 。直之はこの化粧料を基に1万石余の大身となり、前田土佐守家として加賀藩の重臣「加賀八家」の一つに数えられる家の基礎を築いた。これは、まつが自身の財産を通じて、孫の将来を保障し、前田家の一翼を担う分家を確立させたことを意味し、彼女の先見性と家政における影響力を示している。
前田まつは、「学問や武芸に通じた女性であった」と一般に伝えられている 1 。しかしながら、彼女が具体的にどのような武芸を修め、あるいは学問的業績を残したかを示す直接的な史料は、現存する資料の中では限定的である 1 。この評価は、彼女が示した数々の困難な状況における卓越した判断力や行動力から、後世の人々が理想的な女性像として付与した側面もあるかもしれない。
むしろ、まつの真の才覚は、書物や武術の技量といった具体的な技能よりも、危機的状況において発揮された冷静な判断力、他者との交渉における巧みさ、家族や家臣をまとめ上げる人間的魅力と統率力、そして時代の流れを読み解き先を見通す洞察力にあったと言えるだろう 1 。彼女の生涯を通じて見られるこれらの能力こそが、前田家を幾度もの危機から救い、繁栄へと導いた原動力であった。
例えば、夫・利家が目前の戦に備えるよりも蓄財に熱心であった際、それを手厳しく諌めたという末森城の戦いにまつわる逸話 15 は、彼女が単に夫に従うだけでなく、家の将来を見据えて臆せずに意見具申できる知性と勇気を持っていたことを示している。また、賤ヶ岳の戦い後に利家が窮地に陥った際、秀吉と直接交渉して夫の命を救ったとされる行動 1 は、彼女の卓越した交渉能力と政治感覚を物語っている。
豊臣秀吉の正室・高台院(ねね)と生涯にわたる深い友情を育んだこと 1 も、まつの人間的魅力と高度な社交術の証左である。この関係は、前田家が豊臣政権下で安定した地位を保つ上で、計り知れないほど大きな意味を持った。彼女の知性や機転は、こうした人間関係の構築と維持においても発揮されたと考えられる。
前田まつの人物像をより深く理解するためには、彼女にまつわるいくつかの代表的な逸話を参照することが有効である。前述した末森城の戦いにおいて、出陣をためらう利家に対し、備蓄の金銀を投げつけて叱咤激励したという逸話 15 は、彼女の気丈さ、決断力、そして武家の妻としての覚悟を鮮烈に示している。また、賤ヶ岳の戦いの後、敗軍の将となった利家のために、単身で秀吉と交渉し和議を取り付けたとされる逸話 1 は、彼女の類稀な胆力と外交的手腕を浮き彫りにする。
江戸での人質生活中に残された書状にも、彼女の人間性が垣間見える。孫である前田直之が病に罹った際、その乳母に宛てた手紙の中で「とくをくい申し候ゆへと思いまいらせ候」(毒を食べたのではないかと心配しております)と記している 8 。この一文からは、遠く離れた孫の身を案じる祖母としての深い愛情と、当時の医療事情や政情不安を背景とした過敏なまでの心配性が伝わってくる。
夫・利家が危篤に陥った際の逸話も印象深い。まつが、夫の来世を案じて経帷子(死者が着る着物)を縫い、「あなたは若い頃より度々の戦に出、多くの人を殺めてきました。後生が恐ろしいものです。どうぞこの経帷子をお召しになってください」と勧めたのに対し、利家は「わしはこれまで幾多の戦に出て、敵を殺してきたが、理由なく人を殺したり、苦しめたことは無い」と答え、それを拒んだという 22 。このやり取りは、戦国武将とその妻の間の深い精神的な繋がり、そして当時の死生観や倫理観の一端を垣間見せる。まつが夫の魂の救済を願う一方で、利家が自らの生涯の行いに一定の自負を持っていたことが示されている。これは、単なる夫婦の会話を超え、激動の時代を生きた人々の内面世界を映し出す貴重な記録と言えるだろう。
前田まつの生涯を通じた最大の功績は、疑いなく、その知恵と行動力をもって前田家の安定と発展に尽くし、特に「慶長の危機」という最大の試練において、自ら人質となるという犠牲を払うことで徳川家康との破滅的な衝突を回避し、結果として加賀百万石の広大な領土と繁栄の礎を盤石なものとした点にある 4 。
利家の死後、強大な徳川家康の圧力の前に、前田家は存亡の縁に立たされた。この時、まつが江戸へ下向するという決断を下さなければ、前田家は取り潰し、あるいは大幅な減封という事態に直面していた可能性が高い。彼女のこの行動は、短期的な屈辱と引き換えに、長期的な家の安泰を勝ち取るという、極めて高度な政治的判断であった。
まつの存在と行動は、夫である利家の時代から、息子・利長の治世、そして孫たちの代に至るまで、前田家の結束を維持し、その繁栄を支える上で不可欠な要素であったと言える。彼女は、単に「利家の妻」「利長の母」という立場に留まらず、前田家という組織全体の精神的支柱であり、時にはその羅針盤としての役割も果たしたのである。
前田まつは、戦国時代から江戸時代初期という、日本の歴史上類を見ない激動の時代を生きた女性であった。彼女は、単に著名な武将の妻という枠組みを超え、その明晰な知性と卓越した行動力をもって夫・前田利家を支え、幾多の困難を乗り越えて前田家を守り抜き、加賀百万石の礎を築く上で決定的な役割を果たした。
彼女の生涯における最も重要な局面は、夫・利家の死後、徳川家康による強大な圧力に直面した「慶長の危機」において、自ら人質となって江戸へ下向するという決断を下したことであろう。この自己犠牲的な行動は、前田家の滅亡を回避し、徳川幕藩体制下における大大名としての地位を確固たるものにする上で、計り知れない貢献を成した 4 。彼女のこの決断がなければ、後の加賀藩の隆盛はあり得なかったかもしれない。
まつの生涯は、戦国時代の女性が必ずしも受動的な存在ではなく、家の存続と繁栄のために主体的に行動し、歴史の進展に深く関与し得たことを示す好例である。彼女の知略、交渉力、そして何よりも家を守り抜こうとする強い意志は、後世においても高く評価され、「良妻賢母」の鑑として、また困難に果敢に立ち向かう強い女性の象徴として語り継がれてきた。彼女の生き様は、時代を超えて多くの人々に感銘を与え続けている。
前田まつの波乱に満ちた生涯と、その魅力的な人物像は、後世の創作意欲を大いに刺激し、小説、テレビドラマ、舞台など、数多くの大衆文化作品の題材として取り上げられてきた 1 。これらの作品群は、まつの名を一般に広く知らしめるとともに、彼女のイメージ形成に大きな影響を与えてきた。
特に、2002年に放送されたNHK大河ドラマ『利家とまつ〜加賀百万石物語〜』は、まつを主人公の一人として前面に押し出し、夫・利家との夫婦愛や、戦国を生き抜く女性の強さと賢さを描き出すことで、幅広い視聴者層からの共感を呼んだ 1 。このドラマの成功は、前田まつという歴史上の人物に対する関心を一層高めることになった。
しかしながら、これらの大衆文化作品におけるまつの描写は、史実を基にしつつも、物語としての面白さや感動を追求する過程で、ある程度の脚色や理想化が加えられる傾向があることは否めない。例えば、まつを常に冷静沈着で、あらゆる困難を乗り越える英雄的な女性として描くことは、彼女の人間的な葛藤や弱さといった側面を捨象してしまう可能性がある。したがって、歴史上の人物としての前田まつの実像を理解するためには、これらの大衆的イメージと、史料に基づいた学術的研究との間には一定の距離が存在することを認識し、双方を批判的に比較検討する視点が重要となる。
前田まつのような歴史上の人物、特に女性に関する研究は、彼女が残した書状などの一次史料の丹念な分析を通じて 8 、より多角的で深みのある理解へと進むことが期待される。そうした研究の進展は、従来の男性中心の歴史観に新たな光を当て、前近代日本におけるジェンダー、権力、そして家族のダイナミクスについて、より nuanced(ニュアンスに富んだ)な解釈を可能にするであろう。まつの物語は、過去の出来事であると同時に、現代に生きる我々に対しても、多くの示唆を与え続けているのである。
前田まつゆかりの地は、彼女の生涯を偲び、その時代に思いを馳せることのできる貴重な場所として、今日まで大切に保存されている。
これらの史跡を訪れることは、前田まつの生涯と彼女が生きた時代への理解を深める一助となるであろう。