本報告書は、戦国時代に生きた女性、円信院殿(えんしんいんでん)について、現存する史料に基づき、その生涯、呼称、信仰、そして墓所の実態を詳細に調査し、明らかにすることを目的とする。円信院殿は、種子島時尭の次女として生まれ、薩摩の太守島津義久の継室となった人物であり、当時の九州における有力大名家間の関係性を象 quinzeする存在の一人と言える 1 。
彼女の生涯は、戦国期の女性の多くがそうであったように、政略結婚や一族の盛衰といった時代の大きなうねりの中で形作られたものであったと推察される。本報告では、断片的な情報を繋ぎ合わせ、可能な限りその実像に迫る。
利用者様のご依頼には「嶺松院(れいしょういん)」という呼称が含まれているが、調査の結果、円信院殿と直接的に結びつく確たる史料は見出されなかった 1 。
一方で、今川義元の娘で武田義信に嫁いだ女性の法号として「嶺松院」が存在することが確認されている 2 。このため、本報告書ではまず円信院殿(妙蓮夫人)に焦点を当てて詳述し、第四章にて「嶺松院」の呼称について改めて考察を行う。情報が混同されている可能性も視野に入れ、慎重に検討を進める。
円信院殿は、鉄砲伝来の地として名高い種子島の領主、種子島氏第14代当主・種子島時尭(たねがしま ときたか、1528-1579)の次女として生を受けた 1 。時尭は日本に初めて銃を導入し、その国産化を導いた人物として歴史に名を残している 4 。
母は、薩摩の戦国大名島津氏の一族で、島津宗家第14代当主・島津忠良(日新斎)の娘である島津にしである 1 。これにより、円信院殿は種子島氏と島津氏という、当時の南九州における二大勢力の血を引くことになった。この姻戚関係は、単に血縁を結ぶに留まらず、両家の軍事的・経済的連携を強化する意味合いを持っていたと考えられる。特に、島津氏が九州統一を進める上で、種子島氏が掌握する鉄砲という新兵器の供給ルート確保は戦略的に極めて重要であった。この婚姻は、島津氏にとっては最新兵器の安定供給を、種子島氏にとっては島津氏という強力な後ろ盾を得るという、相互の利益に合致するものであったと推察される。
弘治2年(1556年)、円信院殿の両親である時尭と島津にしは離婚する。その後、円信院殿は母にしと共に母の実家である島津家に身を寄せたとされる 1 。離婚の具体的な理由は史料からは明らかでない 4 。戦国時代の離婚は、夫婦間の不和のみならず、家同士の政治的状況の変化や力関係の変動が影響することも少なくなかった。
両親の離婚は、幼少期の円信院殿の人生に大きな影響を与えたと考えられる。母の実家である島津家で養育された経験は、彼女が島津家の人間としての意識を育む環境を提供し、後の島津義久への輿入れに繋がる素地となった可能性がある。事実、彼女が義久に嫁ぐ際には、祖父である島津忠良の養女としての形式が取られたという記録があり 1 、これは島津家との結びつきをより強固にし、婚姻への布石となったと見ることができる。
円信院殿には、同母姉として伊集院忠棟(島津氏重臣)の室となった女性がいた 1 。異母弟には種子島時次と種子島久時がおり、彼らは後に種子島氏の家督を継いでいる 1 。また、異父弟として肝付兼寛(父は肝付兼盛)がいたことが記録されており 1 、これは母にしが時尭と離婚後、肝付兼盛と再婚したことを示唆している。
これらの兄弟姉妹の婚姻関係や家督継承は、当時の種子島氏、島津氏、伊集院氏、肝付氏といった南九州の有力豪族間の複雑な人間関係と勢力図を反映している。円信院殿自身も、その縁戚関係のネットワークの一翼を担い、各家間の同盟や牽制、情報交換など、多岐にわたる政治的・軍事的連携の基盤となる結節点の一つであったと言えるだろう。
永禄5年(1562年)頃、円信院殿は島津義久に嫁いだ 1 。義久は島津氏第16代当主であり、薩摩・大隅・日向の三州統一を成し遂げた名将である 8 。この婚姻は、円信院殿の母が島津忠良の娘であることから、義久とは従兄弟同士の結婚であった 1 。また、前述の通り、祖父・島津忠良の養女として義久に嫁いだともされており 1 、これは婚姻の正当性を高め、両家の結びつきをより強固にするための形式であったと考えられる。
この婚姻は、種子島氏が持つ鉄砲生産技術や海上交易ルートと、島津氏の九州統一という野望が結びついた典型的な政略結婚であった可能性が高い。島津氏にとっては最先端兵器である鉄砲の安定確保、種子島氏にとっては島津氏という強力な同盟者を得るという、双方にとって戦略的な意味を持つ結合であった。中世から戦国末期にかけての種子島氏と島津氏の関係は、当初は対等に近い独立した領主同士であったが、徐々に島津氏の権力内に取り込まれていく過程にあり 10 、円信院殿の婚姻もこの大きな流れの中に位置づけられる。
円信院殿は島津義久の「継室」であった 1 。これは義久に先妻がいたことを示唆するが、その具体的な情報については今回の調査資料からは乏しい。継室としての彼女に期待された大きな役割の一つは、男子出産による後継者の確保であったと考えられる。しかし、彼女は二人の娘をもうけたものの、男子には恵まれなかった 11 。
円信院殿は島津義久との間に二女をもうけた。
永禄6年(1563年)に島津義久の次女として生まれる 1 。後に島津氏の一族である島津彰久(島津以久の長男)の正室となった 1 。彰久とは又従姉弟の関係にあたる 12 。子に島津久信がいるが、久信やその子孫は島津宗家の家督を巡る争いに巻き込まれ、不遇な晩年を送ったとされ 12 、新城自身も晩年は不幸続きで失意のうちに亡くなったと伝えられる 12 。
元亀2年(1571年)に島津義久の三女として生まれる 1 。はじめ従弟にあたる島津久保(島津義弘の嫡男)に嫁ぐが、久保は文禄の役の最中に若くして病死 14 。その後、久保の弟である島津忠恒(後の島津家久、薩摩藩初代藩主)に再嫁した 1 。豊臣政権下では人質として京都に住んだ経験も持つ 14 。
夫・忠恒との仲は良好ではなかったと伝えられるが 15 、母・円信院殿の菩提を弔うため、霧島市の本成寺を再興して遠寿寺と改名するなど 16 、母への想いは深かったことが窺える。また、自身の養子に島津光久(忠恒の次男、薩摩藩2代藩主)を迎え、後継者として指名している 15 。亀寿の生涯は、戦国末期から江戸初期にかけての島津家の複雑な家督継承問題や、豊臣政権、徳川政権との関係の中で翻弄されつつも、母の供養や養子縁組を通じて一定の影響力を保持しようとした女性の姿を映し出している。彼女は単に運命に流されるだけでなく、自身の立場の中で主体的に行動し、家や自身の想いを繋ごうとした証左と言えるだろう。
円信院殿は、元亀3年12月23日(西暦1573年1月26日)に死去した 1 。生年は不詳であるため、享年は不明である。次女の亀寿がまだ数えで3歳という幼さであった。
円信院殿の早世は、島津義久の後継者問題に影響を与えた可能性がある。彼女が男子を遺さなかったため、義久の後は弟・義弘の子である忠恒が継ぐことになった背景の一つと考えられる 11 。これにより、島津家の家督継承は義久の直系ではなく、弟の系統へと移る流れが強まったと言える。
表1:円信院殿 略年譜
年代(西暦) |
出来事 |
典拠 |
生年不詳 |
出生 |
1 |
弘治2年(1556年) |
両親(種子島時尭・島津にし)離婚、母の実家へ |
1 |
永禄5年(1562年)頃 |
島津義久に嫁ぐ |
1 |
永禄6年(1563年) |
長女・島津新城を出産 |
1 |
元亀2年(1571年) |
次女・島津亀寿を出産 |
1 |
元亀3年(1573年1月26日) |
逝去 |
1 |
表2:円信院殿 関係人物一覧
続柄 |
氏名 |
備考 |
典拠 |
父 |
種子島時尭 (たねがしま ときたか) |
種子島氏第14代当主、鉄砲伝来に関与 |
1 |
母 |
島津にし (しまづ にし) |
島津忠良の娘 |
1 |
夫 |
島津義久 (しまづ よしひさ) |
島津氏第16代当主 |
1 |
長女 |
島津新城 (しまづ にいしろ) |
島津彰久室 |
1 |
次女 |
島津亀寿 (しまづ かめじゅ) |
島津久保室、のち島津忠恒(家久)室 |
1 |
同母姉 |
(氏名不詳) |
伊集院忠棟室 |
1 |
異母弟 |
種子島時次 (たねがしま ときつぐ) |
種子島氏第15代当主(早世) |
1 |
異母弟 |
種子島久時 (たねがしま ひさとき) |
種子島氏第16代当主 |
1 |
異父弟 |
肝付兼寛 (きもつき かねひろ) |
母にしと肝付兼盛の子 |
1 |
円信院殿の本名は、史料上確認されていない 1 。戦国時代の女性は、特に高位の武家の女性であっても、個人名(諱)が記録に残らず、嫁ぎ先の家名や居住地名、あるいは夫の官職名などで呼ばれることが一般的であった。院号や法名で知られることも多い。本名不詳という事実は、当時の女性が個人の名において歴史に記録される機会が少なかった社会状況を反映している。彼女たちは家の存在や役割の中で語られることが主であり、個人のアイデンティティよりも、家における役割が重視された時代の証左と言える。
「円信院殿(えんしんいんでん)」は彼女の主要な呼称であり、これは院号に由来する敬称である 1 。「妙蓮夫人(みょうれんぶじん)」または「妙連夫人」とも呼ばれた 1 。「妙蓮」は後述する法号にも含まれる言葉であり、彼女の信仰を示唆する可能性がある。「夫人」は高貴な女性、特に大名などの正室や高位の側室に対する敬称として用いられる。
円信院殿の法号は「円信院殿妙連大姉(えんしんいんでんみょうれんだいし)」または「円信院殿実渓妙蓮大姉(えんしんいんでんじっけいみょうれんだいし)」と伝えられている 1 。鹿児島県歴史資料センター黎明館の資料では、「円信院殿實渓妙運大姉(えんしんいんでんじっけいみょううんだいし)」という法号も確認されており 17 、これは「妙蓮」が「妙運」と記録された異同の可能性、あるいは時期や場所によって異なる法号が用いられた可能性を示唆する。法号に複数のバリエーションが見られることは、記録の過程での誤記や、異なる寺院や時期における授与の違い、あるいは口伝による変化などが考えられる。特に「蓮」と「運」は意味合いも異なるため、どちらが当初のものか、あるいは両方用いられたのかは、墓所の宗派(法華宗など)との関連で解釈する余地があり、興味深い点である。
「院殿号(いんでんごう)」は、戒名の中でも非常に格式の高いものであり、天皇や上皇、将軍家、有力大名など、特に身分の高い人物や、寺院や社会への貢献度が極めて高い人物に与えられた 18 。円信院殿がこの院殿号を冠されていることは、彼女が島津家において非常に尊重された立場にあったことを示している。「大姉(だいし)」は、成人女性の戒名に用いられる位号の一つで、信仰心があつく、徳行を積んだ女性に与えられるとされる。
これらの法号の要素は、円信院殿が法華宗と深い関わりを持ち、その信仰において篤実であったこと、そして島津家における彼女の立場が社会的に高く評価されていたことを示唆している。
円信院殿の墓所の一つは、京都市中京区にある法華宗大本山・本能寺の境内にある 1 。ブログ記事によれば、織田信長廟所の左手に大きな宝塔型の墓塔があるとされるが、建立者や正確な建立時期は不明とされている 26 。本能寺の境内案内図にも「島津義久継室円信院殿の墓」として記載がある 25 。
島津氏と本能寺の直接的な関係は史料上不明確な点が多いとされるが 1 、円信院殿の実家である種子島氏は本能寺の大檀越(有力な後援者)であった 1 。本能寺は古くから種子島での布教に努めており 27 、種子島氏との関係は深かった。特に、本能寺は種子島などの寺院を通じて鉄砲を入手し、それが織田信長の勢力拡大にも繋がったという説がある 25 。また、木材の供給を通じても関係があったとされる 1 。
円信院殿が本能寺に葬られた背景には、彼女自身の信仰に加え、実家である種子島氏と本能寺の強い繋がりが大きく影響していると考えられる。島津義久の妻でありながら、実家の菩提寺格の寺院に葬られることは、種子島氏の意向や影響力の表れとも解釈できる。嫁ぎ先の島津家ではなく実家ゆかりの寺に墓があるのは、彼女の出自や種子島氏の意向を強く反映しているのではないだろうか。
前述の通り、本能寺にある円信院殿の墓塔の建立者や正確な時期は不明とされている 26 。これは今後の研究課題の一つである。建立時期が不明であることは、本能寺の変(天正10年、1582年)以前に建立されたのか、それ以降に建立されたのかによって、その意味合いが大きく変わってくる。円信院殿の死は元亀3年(1573年)であり、父・時尭は天正7年(1579年)に没している。もし変以前であれば、彼女の死後まもなく種子島氏、特に父時尭によって建立された可能性が高い。変以降であれば、寺自体が移転・再建を繰り返しているため 25 、その過程で整備されたか、あるいは娘の亀寿などが関わった可能性も考えられるが、現時点では記録がない。この不明確さが、彼女の墓の歴史的背景を一層興味深いものにしている。
鹿児島県霧島市国分中央には、円信院殿の供養塔がある遠寿寺跡(おんじゅじあと)が存在する 16 。この寺は元々、永禄3年(1560年)に創建された法華宗の本成寺(ほんじょうじ)であった 16 。円信院殿の娘である亀寿が、父・島津義久の死後、元和9年(1615年)にこの寺を再興し、遠寿寺と改名した 16 。
遠寿寺跡の供養塔は、一段高い岩屋の中にあり、円信院殿(法名:妙蓮)を中心としたものとされている 16 。この供養塔は法華経独特の様式で造られており、この地域では珍しいものとされる 16 。墓塔には「南無妙法蓮華経」の文字や年紀が刻まれている 26 。
遠寿寺跡の岩屋の中には、円信院殿の墓塔を含め、複数の墓塔が並んでおり、その多くに「慶長十二年(1607年)六月十八日」という同じ日付が刻まれている 26 。円信院殿の墓塔には「圓信院妙蓮尊霊速成就佛身」とあり、慶長十二年に彼女の霊が速やかに成仏することを願って建立されたことがわかる 26 。他の墓塔には、円信院殿が種子島から義久の許へ移る際に同行した侍女「一ノ台」の逆修塔(生前供養塔)などがあるが 26 、建立者が誰であるか、なぜ慶長十二年という特定の年に集中して建立されたのかは、さらなる考察を要する。
慶長十二年(1607年)は、関ヶ原の戦い(1600年)が終わり、江戸幕府が開かれて(1603年)間もない時期である。円信院殿の没年は元亀3年(1573年)であり、慶長十二年は没後34年にあたる。娘の亀寿は島津忠恒(家久)の室として薩摩藩の体制固めに重要な役割を担っていた。この時期に母の供養塔群を集中的に建立した背景には、戦乱の世が終わり新たな時代を迎えるにあたっての故人への追善供養、島津家内の結束強化、あるいは亀寿自身の信仰心の篤さや母への思慕の情などが考えられる。また、この年は円信院殿の三十三回忌(数え方による)にも近い年であり、大規模な法要と共に整備された可能性も否定できない。個人的な追善に加え、新たな支配体制下での家の安泰や先祖供養を通じた権威付けといった複合的な動機があったのではないだろうか。
福昌寺(ふくしょうじ)は、鹿児島県鹿児島市にあった曹洞宗の寺院で、島津家代々の菩提寺であった 29 。応永元年(1394年)に島津元久によって創建され、南九州屈指の大寺院として栄えたが、明治2年(1869年)の廃仏毀釈により廃寺となった。現在は墓地が残る 29 。
鹿児島県歴史資料センター黎明館の資料によれば、円信院殿(法号:實渓妙運大姉)の墓は、元は霧島市国分の「鳥越御墓(とりごえおはか)」(遠寿寺跡を指すと思われる)にあったが、後に福昌寺跡へ改葬されたと記されている 17 。改葬の正確な時期や理由、誰によって行われたかの詳細は、提供された資料からは明確ではないが、明治8年(1875年)頃に島津本宗家の墓所修復が行われた記録があり 17 、その一環であった可能性が示唆される。
菩提寺である福昌寺への改葬は、島津家としての先祖祭祀を一元化し、家としてのまとまりを強化する意図があった可能性がある。特に明治維新後の社会変動の中で、旧大名家が自家の歴史や権威を再確認する動きとも関連するかもしれない。歴代の墓を一箇所に集め、適切に管理することは、家の歴史と権威を継承する上で重要であったと考えられる。
円信院殿の法号「妙蓮」や、娘の亀寿が再興した遠寿寺(旧本成寺)が法華宗であること 16 、実家の種子島氏が京都本能寺(法華宗)の大檀越であったこと 1 などから、円信院殿自身も法華宗(日蓮宗)を信仰していた可能性が非常に高い。
戦国時代の武家女性にとって、信仰は精神的な支えであると同時に、実家や嫁ぎ先の家との繋がりを示すものでもあった。円信院殿の法華宗信仰は、種子島家から受け継いだものか、あるいは嫁ぎ先の島津家(特に義久の母・島津にし周辺)の影響もあったのか、興味深い点である。島津家自体は禅宗(曹洞宗の福昌寺が菩提寺)との関わりも深いが、個々人の信仰は多様であった可能性もあり、彼女の信仰がどのように形成されたのかは、当時の宗教状況を考える上で重要である。
表3:円信院殿 墓所・供養塔一覧
所在地 |
種類 |
備考 |
主な典拠 |
京都府京都市中京区 本能寺 |
墓所 |
種子島氏との縁、建立者・時期不明、宝塔型 |
1 |
鹿児島県霧島市国分中央 遠寿寺跡(旧本成寺) |
供養塔 |
娘・亀寿が再興、法華宗様式、慶長12年銘の墓塔群 |
16 |
鹿児島県鹿児島市池之上町 福昌寺跡 |
墓所 |
島津家菩提寺、国分鳥越御墓より改葬(時期等詳細は要追加調査) |
17 |
冒頭で述べた通り、利用者様のクエリには「嶺松院」という呼称が含まれている。しかし、これまで詳述してきた円信院殿(妙蓮夫人)に関する史料 1 には、「嶺松院」という呼称は見当たらない。
一方で、戦国時代には別の「嶺松院」が存在したことが確認できる。それは、「海道一の弓取り」と謳われた駿河の戦国大名・今川義元の娘であり、武田信玄の嫡男・武田義信の正室となった女性である 2 。彼女は甲相駿三国同盟の証として武田家に嫁いだが、後に夫・義信が父・信玄と対立し非業の死を遂げるという悲劇に見舞われた 2 。こちらの嶺松院は、生年が天文10年(1541年)頃、没年が慶長17年(1612年)とされており 3 、円信院殿(妙蓮夫人、元亀3年(1573年)没)とは明らかに別人である。
「嶺松院」という院号を持つ女性が戦国時代に複数存在した可能性、あるいは何らかの理由で情報が混同された可能性が考えられる。 35 の子供向け歴史サイトの投稿には、様々な姫の名前が列挙される中に「嶺松院」という名前が見られるが、これがどちらの嶺松院を指すのか、あるいは投稿者独自の認識なのかは不明である。
結論として、利用者様が調査を依頼された「円信院殿(妙蓮夫人)」と、「嶺松院」という呼称で知られる今川義元の娘は、別人である可能性が極めて高い。本報告書では、主に前者の円信院殿(妙蓮夫人)について調査結果をまとめた。歴史上の人物、特に女性は院号や通称で呼ばれることが多く、同名または類似した呼称の別人が存在する場合、情報が錯綜しやすい。今回の「嶺松院」の件もその一例と言える。正確な人物特定には、出自、嫁ぎ先、没年などの具体的な情報を照合することが不可欠である。
円信院殿は、種子島時尭の次女、島津義久の継室として、戦国時代の九州に生きた女性である。本名は不詳であるが、「妙蓮夫人」とも呼ばれ、法号は「円信院殿実渓妙蓮大姉(または妙運大姉)」などと伝わる。二人の娘、新城と亀寿をもうけたが、男子には恵まれず、元亀3年(1573年)に若くして逝去した。その墓所は京都の本能寺、霧島市の遠寿寺跡、鹿児島市の福昌寺跡の三箇所に確認され、特に本能寺と遠寿寺は法華宗との関連が深い。これは彼女自身の信仰や、実家である種子島氏の信仰背景を反映していると考えられる。法号に用いられた「院殿号」は彼女の高い社会的地位を示し、「妙蓮」などの語句は法華信仰を強く示唆する。
円信院殿の生涯は、戦国大名家の婚姻政策や、当時の女性の役割、そして信仰のあり方を考察する上で貴重な事例を提供する。種子島氏と島津氏という、鉄砲伝来と九州統一という時代の大きな画期に関わる二つの家系を結ぶ存在として、彼女は歴史の表舞台にこそ大きく名を残すことはなかったかもしれないが、その血縁や存在は、両家の関係に少なからぬ影響を与えたであろう。また、複数の墓所が時代を経て建立・維持されてきたことは、彼女が後世の人々、特に娘の亀寿などによって記憶され、篤く弔われたことを示している。
これらの課題については、さらなる史料の発見と比較検討、関連研究の進展が期待される。
本報告書作成にあたり参照した主なウェブサイト資料は、本文中に典拠として示した通りである。
より専門的な調査への道筋として、例えば山下真一氏の論文「中近世移行期の種子島氏―島津氏の権力編成との関連で―」(『日本歴史』第六九四号) 32 や、同氏の著作『鹿児島藩の領主権力と家臣団』(岩田書院、2023年) 33 などが挙げられる。これらの研究は、円信院殿の生きた時代背景、特に種子島氏と島津氏の関係性を理解する上で重要な手がかりを与える可能性があり、本報告の考察をさらに深める一助となり得る。これらの学術的研究を参照することで、円信院殿の婚姻の政治的背景や、当時の両家の力関係に関するより詳細な分析に触れることができよう。