本報告書は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、富田信高の妻として知られる女性、通称「北の方」について詳述するものである。彼女は宇喜多忠家の娘であり、宇喜多秀家の養女として富田信高に嫁いだことが史料から確認される 1 。「宇喜多旭」という呼称については、現存する主要な史料や研究において、富田信高の妻を指す確たる証拠を見出すことは困難であった。豊臣秀吉の妹である旭姫(朝日姫とも、 3 )との混同の可能性や、後世の創作や伝承の中で用いられた呼称である可能性も考えられるが、本報告書では史料的確度の高い「北の方」を主たる呼称として用いる。なお、彼女の実名は史料には残されていない 5 。
この呼称の問題は、歴史上の人物、特に女性の記録が男性中心の史観の中でいかに埋もれやすく、あるいは変容しやすいかを示唆している。「北の方」という呼称自体、高貴な身分の女性を指す一般的なものであり、個人の特定には周辺情報が不可欠である。これは、彼女自身の主体的な記録が乏しい中で、夫や父、養父といった男性たちとの関係性を通じてしかその姿を追えないという、当時の女性史研究における一つの側面を浮き彫りにする。
本報告書では、北の方の出自、富田信高との婚姻、特筆すべき武勇伝である安濃津城の戦いにおける活躍、子女、そして夫・信高の改易に伴うその後の人生について、現存する史料に基づき可能な限り詳細に明らかにすることを目的とする。各章でそれぞれのテーマを掘り下げ、最後に総括として彼女の生涯と歴史における位置づけを考察する。
北の方の出自を理解するには、当時の備前国に勢力を誇った宇喜多一族との関わりを把握することが不可欠である。
北の方の実父は、宇喜多忠家(うきた ただいえ)である 1 。忠家は宇喜多興家の三男として生まれ、備前国の大名として名を馳せた宇喜多直家の異母弟にあたる 6 。通称は七郎兵衛、官途名は左京亮や出羽守を名乗り、後に出家して安心(あんじん)と号した 6 。兄である直家が浦上宗景から備前国上道郡の奈良部城(新庄山城)を与えられて本拠を移した際には、それまで直家が拠点としていた邑久郡の乙子城を預かるなど、宇喜多家中において重要な役割を担っていたことがうかがえる 6 。関ヶ原の戦いの後には、徳川家康の命を受けて戸川逵安らと共に岡山城の接収にも従事した 6 。忠家は慶長14年(1609年)2月15日に没したと記録されている 6 。彼の子には、後に坂崎直盛(坂崎出羽守)として知られる宇喜多詮家がおり、この人物は北の方の兄弟にあたる 1 。
北の方は、宇喜多氏の当主であり、豊臣政権下で五大老の一人に数えられた宇喜多秀家の養女として、富田信高に嫁いだ 1 。秀家は宇喜多直家の子であり、豊臣秀吉の養女である豪姫(前田利家の娘)を正室に迎えるなど、秀吉から特に重用された人物である 7 。北の方が秀家の養女となった背景には、宇喜多家と富田家の間の政治的な結びつきを強化する意図があったと考えられる。戦国時代において、有力大名間での養子縁組や婚姻は、同盟関係の構築や勢力基盤の安定化を図るための常套手段であった。この養子縁組は、北の方個人の意思とは別に、宇喜多家の戦略の一環として行われた可能性が高く、彼女の人生が家の戦略に深く関わっていたことを示唆している。そして、この宇喜多家との強い結びつきは、後の関ヶ原の戦いにおける夫・信高の立場や、さらには信高自身の改易事件において、彼女の運命に複雑な影響を及ぼす伏線となった。
実父が宇喜多直家の弟である忠家、養父が直家の嫡男である秀家という血縁関係は、北の方が宇喜多本家と極めて密接な関係にあったことを物語っている。戦国時代において、女性は婚姻を通じて家と家を結びつける媒介者として、極めて重要な政治的役割を担っていた。北の方もまた、その一人として、宇喜多家と富田家の関係構築に貢献したと言えるだろう。
北の方の人生において大きな転機となったのは、富田信高との婚姻である。
北の方が富田信高の継室として嫁いだ具体的な経緯や正確な時期を直接的に記した史料は、現時点では限定的である 1 。夫となる富田信高は、富田一白(知信)の長男であり、父と共に豊臣秀吉に仕え、秀吉の死後は徳川家康に従った武将である 1 。一方、北の方の養父である宇喜多秀家も豊臣政権の重鎮であったことから、両家の関係強化を目的として、秀吉の存命中か、あるいはその直後に婚姻が成立した可能性が考えられる。宇喜多秀家が豊臣秀吉の養女・豪姫を正室に迎えたのが天正16年(1588年)以前とされていること 7 を考慮すると、北の方の婚姻もその前後の時期であったと推測されるが、これを断定する史料は確認されていない。
富田信高には、北の方が嫁ぐ以前に、宇喜多安信の娘が正室として迎えられていた 1 。したがって、北の方はこの正室が亡くなった後、あるいは何らかの理由で離縁した後に、継室(後妻)として富田家に迎えられたと考えられる 1 。史料にも「女武者として有名な女性は、後者の忠家の娘である」との記述が見られることから 1 、彼女が後妻であったことがわかる。
継室という立場であったことが、後に語り継がれる彼女の「女武者」としての逸話を一層際立たせた可能性がある。既に正室がいた家に後から迎えられた継室が、夫の絶体絶命の危機に際して類稀なる武勇を示したという物語は、当時の人々にとってより強い印象を与え、賞賛の対象となりやすかったのかもしれない。これは、彼女の行動が単に妻としての務めを果たしたという範疇を超え、特筆すべきものであったことを強調する効果を持ち、それゆえに記録され、語り継がれることになったとも考えられる。
北の方の名を後世に最も強く印象付けたのは、関ヶ原の戦いの前哨戦として知られる安濃津城の戦いにおける勇猛果敢な活躍である。
慶長5年(1600年)8月、関ヶ原の本戦に先立ち、富田信高が城主を務める伊勢国安濃津城(現在の三重県津市)は、西軍による攻撃に晒された 5 。信高は徳川家康に従い東軍に与しており、会津の上杉景勝討伐に向かう家康から、安濃津城が交通の要衝であるため帰還して防備を固めるよう命じられていた 5 。西軍は毛利秀元を総大将とし、長束正家、吉川広家、長宗我部盛親らを主力とする約3万の兵力で安濃津城に迫った 5 。これに対し、信高が率いる城兵は1,700名(あるいは徳川家康に従軍した兵が300名で、城の守備兵はそれ以上いた可能性もあるが 5 )と、兵力において圧倒的に不利な状況であった。
8月23日から始まった安濃津城攻防戦は熾烈を極めた 1 。西軍の猛攻、特に毛利秀元と吉川広家による大砲攻撃によって城の櫓が破壊され、二の丸、三の丸へと西軍兵が侵入する事態となった 5 。城主である富田信高自身も本丸から打って出て槍を振るって奮戦したが、衆寡敵せず、敵兵に幾重にも囲まれ、まさに絶体絶命の危機に陥った 1 。
この時、戦場に颯爽と現れた一人の若武者がいた。緋縅(ひおどし)の美しい具足を身に着け、半月を打った兜の緒を締め、薙刀(あるいは片鎌の手槍とも 13 )を手に、群がる敵兵の中に割って入り、瞬く間に5、6人の敵兵を討ち取ったと伝えられる 5 。この勇猛な若武者こそ、富田信高の妻、北の方その人であった。彼女は美しく化粧を施し、爪には紅をさしていたという 5 。夫が討ち死にするとの報を聞き、居ても立ってもいられず、自ら甲冑を身にまとって戦場に駆けつけたのであった。彼女の獅子奮迅の働きにより、富田信高は九死に一生を得て、辛うじて本丸へと生還することができた 5 。
この北の方の武勇は、『武功雑記』などの戦記物に記されており、一説には西軍の将・毛利秀元の家臣で「大剛の士」として知られた中川清左衛門をも討ち取ったとされている 5 。女性が甲冑を身に着けて直接戦闘に参加することは当時極めて稀であり 5 、彼女の行動は平安時代末期の巴御前にも比されるほどの偉業として語り継がれた。
この北の方の武勇伝は、主に肥前国平戸藩主・松浦鎮信(あるいはその家臣)が編纂したとされる戦国時代の逸話集『武功雑記』や、江戸時代中期の儒学者・中井竹山が著した『逸史』などに記述が見られる 5 。これらの記録は、彼女の武勇が当時から人々の間で語り継がれていたことを示している。
彼女の勇名は徳川家康の耳にも達し、家康はその武勇に大いに感動したと伝えられている 5 。このことは、戦後、富田信高が家康から安濃津城主に返り咲き、さらに加増されたことと無関係ではないかもしれない。東軍に与した富田家の忠義を強調し、家康による戦後の恩賞を正当化する意味合いも、こうした逸話の流布には含まれていた可能性がある。また、このような「女武者」の物語は、武家の女性の理想像の一つとして、あるいは教訓として語り継がれる中で、より劇的に、そして英雄譚として伝えられていったことも考えられる。
安濃津城は最終的に西軍に開城したが、北の方の奮戦は城兵の士気を大いに高め、西軍の猛攻を持ちこたえる一助となった。この戦いは「東海の関ヶ原」とも呼ばれ、富田信高の妻の勇ましい内助の功と共に後世に語り伝えられている 5 。
幕末から明治時代にかけて活躍した浮世絵師・月岡芳年は、「教導立志基 富田信高」と題する武者絵の中で、薙刀を手に夫を護衛する北の方の勇姿を描いている 10 。この浮世絵は、彼女の逸話が時代を超えて人々に感銘を与え、広く知られていたことの証左と言えるだろう。
富田信高と北の方の間には、複数の子女がいたことが記録されている。
富田信高と継室である北の方(宇喜多忠家の娘)の間には、少なくとも二人の息子がいたことが確認される 1 。
長男は富田知幸(とみた ともゆき)といい、父・信高の改易後、水戸藩の初代藩主である徳川頼房に仕えた。その子孫は水戸藩士として家名を存続させたとされる 1 。
次男は富田知儀(とみた とものり)である。彼は館林藩主時代の徳川綱吉(後の江戸幕府5代将軍)に仕え、その後、綱吉が将軍になると500俵取りの旗本となった。知儀の子である富田知郷の代には7000石にまで加増され、上級旗本として幕府に仕え続けた 1 。
富田信高には大森左近の娘とされる側室もおり、次男の知儀についてはこちらの女性の子である可能性も示唆されている史料もある 1 。しかし、一般的には北の方の子として扱われることが多いようである。本報告書では、『寛政重修諸家譜』などの系譜情報を総合的に判断し、知幸・知儀ともに北の方の子である可能性を考慮して記述を進める。
富田信高が正室、継室である北の方、さらに側室を持っていたことは、当時の武家における家の存続と繁栄のための戦略の一環と見ることができる。複数の妻を持つことで男子誕生の確率を高め、その子らを異なる有力な主君に仕えさせることは、一方が何らかの理由で改易などの不運に見舞われた場合でも、他方で家名を存続させるためのリスク分散策であった。北の方の子らが水戸藩士や幕府の旗本としてそれぞれ家系を繋いだことは、富田信高の改易という困難な状況にもかかわらず、この戦略がある程度成功したことを示している。
安濃津城での武勇伝により名を馳せた北の方であったが、その後の人生は夫・富田信高の運命と共に大きく揺れ動くこととなる。
安濃津城の戦いにおける奮戦は徳川家康に高く評価され、富田信高は戦後に所領を安堵された上、慶長13年(1608年)には伊予国宇和島10万石(12万石ともされる 1 )へと加増移封された 5 。宇和島では海運工事や掘削事業を手掛けるなど、藩政の確立に努めた 1 。
しかし、その栄華は長くは続かず、慶長18年(1613年)、富田信高は突如として改易処分を受けることとなった 1 。改易の直接的な原因は、北の方の親族間で起こった騒動に信高が巻き込まれたことにあった。北の方の弟である坂崎直盛(出羽守、宇喜多詮家)と、北の方の甥(坂崎直盛にとっても甥)にあたる宇喜多左門との間に刃傷沙汰が発生したのである 1 。事件の詳細は諸説あるが、宇喜多左門が坂崎直盛の家臣を殺害して出奔し、祖父である宇喜多忠家のもとへ逃れた。忠家は左門の身を案じ、娘婿である富田信高のもとへ匿うよう依頼したとされる 1 。
北の方はこの甥である左門を庇い、夫である信高にその保護を願い出た。信高は妻の願いを聞き入れて左門を宇和島城下に匿ったが、このことを知った坂崎直盛は激怒し、北の方が左門に宛てた手紙などを証拠として幕府に訴え出た 1 。結果として、富田信高は宇喜多左門を匿った罪を問われ、改易という厳しい処分を下されたのである。わずか5年間の宇和島城主であった。この事件の背景には、当時幕府内で権勢を誇った大久保長安の失脚事件(大久保長安事件)への連座説も存在し、信高の改易が単なる縁戚間の騒動だけが理由ではなかった可能性も指摘されている 1 。
この一連の出来事は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武家社会における縁故関係の複雑さと、一度幕府の不興を買えば、それまでの功績や忠誠も顧みられず容赦なく処罰される厳しさを示している。安濃津城での北の方自身の武功や、信高の東軍への貢献も、縁戚が関わる不祥事と幕府の権威の前では無力であった。これは、個人の能力や過去の功績だけでなく、一族全体の行動や評判が個々の運命を大きく左右するという、当時の社会構造を色濃く反映している。
改易後、富田信高は陸奥国磐城平藩主・鳥居忠政に預けられ、岩城(現在の福島県いわき市)に蟄居することになった 1 。その後、陸奥国棚倉(現在の福島県棚倉町)に流されたと伝えられている 5 。
北の方もまた、夫である信高と運命を共にし、この配流に従ったと考えられている。「陸奥国棚倉(福島県棚倉町)に流された富田信高夫妻は、この地で没したとも言われています」との記述もあり 5 、苦難の日々を夫と共に送ったことがうかがえる。
富田信高は、配流先の近隣である小名浜(現在の福島県いわき市小名浜)の禅長寺において、寛永10年(1633年)2月29日に死去したとされている 1 。禅長寺には富田信高の位牌が現在も残されており、この地で没したことの傍証となっている 14 。
しかしながら、北の方自身の晩年や正確な没年、そして墓所に関する明確な記録は、現存する史料からは見出すことができない 5 。棚倉町の郷土史料や、夫・信高が没した禅長寺に関連する記録を調査しても、彼女個人に関する具体的な情報は極めて乏しいのが現状である 14 。夫である信高の死没地や位牌の存在は確認されるものの、北の方自身の最期については歴史の闇に埋もれてしまっている。これは、当時の女性が夫や家の記録に付随する形でしか歴史に名を残しにくかった現実を物語っている。特に、改易という不名誉な形で歴史の表舞台から退場した場合、その家族、とりわけ女性の記録は散逸しやすかったと考えられる。彼女の華々しい武勇伝が語り継がれる一方で、その最期に関する記録がほとんど残されていないことは、歴史記述における一つの限界を示していると言えるだろう。
富田信高の妻、北の方の生涯を概観すると、彼女が戦国乱世の激動と、それに続く江戸初期の武家社会の厳しさの中で生きた女性であったことが浮かび上がる。
宇喜多一族という名門の血を引き、宇喜多秀家の養女として富田信高の継室となった北の方は、何よりもまず、慶長5年(1600年)の安濃津城の戦いにおける類稀なる武勇によって、その名を歴史に刻んだ。夫の危機に際し、自ら甲冑を身にまとい戦場に赴いた彼女の行動は、戦乱の世における女性の気概と夫への深い献身を示すものとして、後世にわたり語り継がれている。月岡芳年の浮世絵をはじめとする芸術作品の題材ともなり、その勇名は広く知られることとなった。
一方で、彼女の人生は、その出自や縁戚関係によって大きく左右された側面も持つ。宇喜多家との繋がりは、彼女の婚姻を成立させる上で有利に働いたであろうが、皮肉にも、その縁戚(弟・坂崎直盛と甥・宇喜多左門)間の騒動が、夫・富田信高の改易という悲劇的な結果を招く一因となった。これは、個人の武勇や功績だけでは抗えない、当時の武家社会の複雑な人間関係と厳格な秩序の前に翻弄された生涯であったことを示している。
史料から明らかになる点としては、彼女の実父が宇喜多忠家、養父が宇喜多秀家であること、富田信高の継室であったこと、安濃津城での目覚ましい活躍、そして富田知幸・知儀という息子たちがいたことなどが挙げられる。
しかしながら、「宇喜多旭」という呼称の歴史的確証は得られず、また、正確な生没年、富田信高との婚姻に至る具体的な経緯、そして夫の改易後の詳細な動向や彼女自身の最期については、史料的な制約から不明な点が多く残る。特に晩年に関する記録の乏しさは、歴史の記録が往々にして男性中心であり、また、失脚した家の女性についてはさらに情報が失われやすいという現実を反映している。
北の方の物語は、戦国時代の女性の生き様の一端を鮮やかに照らし出すと同時に、歴史記録の偏在性と限界をも私たちに示唆している。彼女の武勇伝は英雄譚として消費されやすいが、その華々しい逸話の陰には、記録に残されなかった多くの苦難や、一人の女性としての複雑な感情があったであろうことは想像に難くない。歴史の光と影の中で、北の方は特異な存在として記憶されるべき人物であると言えるだろう。
表1:北の方 関連年表
年代(西暦) |
出来事 |
備考 |
生年不詳 |
北の方、誕生(父:宇喜多忠家) |
|
不詳 |
宇喜多秀家の養女となる |
|
不詳 |
富田信高と婚姻(継室として) |
信高の正室は宇喜多安信の娘 |
慶長5年(1600年) |
安濃津城の戦い。北の方、夫・信高を救うため奮戦 |
関ヶ原の戦いの前哨戦 |
不詳 |
長男・富田知幸 誕生(推定) |
後に水戸藩士 |
不詳 |
次男・富田知儀 誕生(推定) |
後に旗本 |
慶長13年(1608年) |
夫・富田信高、伊予国宇和島へ10万石(12万石とも)で加増移封 |
|
慶長18年(1613年) |
夫・富田信高、改易。陸奥国へ配流 |
宇喜多左門を匿ったことなどが原因 |
寛永10年(1633年) |
夫・富田信高、配流先の近隣、小名浜の禅長寺にて死去(享年61) |
|
没年不詳 |
北の方、死去 |
没地、墓所など詳細は不明 |
(参考)宇喜多忠家 |
1536年?~1609年 |
北の方の実父 6 |
(参考)宇喜多秀家 |
1572年~1655年 |
北の方の養父 8 |
表2:富田信高と北の方の家族関係
人物 |
関係 |
備考 |
北の方 |
|
本報告書の主題。宇喜多忠家の娘、宇喜多秀家の養女。 |
宇喜多忠家 |
実父 |
宇喜多直家の異母弟 6 。 |
宇喜多秀家 |
養父 |
宇喜多直家の子。豊臣政権五大老の一人 7 。 |
坂崎直盛(宇喜多詮家) |
兄弟 |
宇喜多忠家の子。後に津和野藩主。富田信高改易の原因の一つとなる事件に関与 1 。 |
富田信高 |
夫 |
伊勢安濃津城主、後に伊予宇和島藩主。改易され陸奥へ配流 1 。 |
富田一白(知信) |
義父(信高の父) |
豊臣秀吉に仕える 1 。 |
黒田久綱の娘 |
義母(信高の母) |
1 |
宇喜多安信の娘 |
信高の正室 |
北の方が継室として嫁ぐ前の妻 1 。 |
富田知幸 |
長男 |
徳川頼房(水戸藩初代藩主)に仕え、子孫は水戸藩士として存続 1 。 |
富田知儀 |
次男 |
徳川綱吉に仕え、後に旗本。子孫は上級旗本として存続 1 。 |
(参考)宇喜多左門 |
甥(北の方の兄弟・坂崎直盛の子、または宇喜多一族の近縁者) |
坂崎直盛との刃傷沙汰の後、富田信高に匿われる。これが信高改易の一因となる 1 。 |