最終更新日 2025-05-26

山手殿

山手殿

山手殿:真田昌幸の正室、その実像と謎

序論:山手殿とは何者か

山手殿(やまのてどの)は、戦国時代から江戸時代前期にかけて生きた女性であり、真田昌幸の正室として、また真田信之(信幸)、真田信繁(幸村)という戦国乱世に名を馳せた武将たちの母として歴史に名を留めています 1 。彼女の生涯は、夫・昌幸が知略を巡らせ、息子たちが武勇を誇った真田家の興亡と、その背景にある戦国時代の激動と分かちがたく結びついています。

しかしながら、山手殿に関する同時代の信頼できる史料は極めて乏しく、その出自や具体的な人となり、詳細な事績については多くの謎に包まれています 1 。これは、戦国時代の女性に関する記録が、男性中心の社会構造や記録のあり方の中で限定的であったという一般的な傾向を反映しています。家父長制のもと、女性の活動は家庭内に限定されることが多く、公的な記録に詳細が残されることは稀でした 4 。山手殿の場合も、夫や息子たちの事績を通して間接的にその存在が語られることが主であり、彼女自身の主体的な行動や思想を伝える記録は断片的です。この史料的制約は、山手殿の人物像を多角的に理解する上での大きな課題であり、本報告では、現存する限られた史料と後世の研究成果に基づき、彼女の実像に迫ることを試みます。

第一章:山手殿の出自に関する諸説

山手殿の出自については、決定的な史料が存在しないため、長年にわたり様々な説が提唱されてきました。それぞれの説には根拠とされる史料や伝承がありますが、同時に批判や疑問点も指摘されており、未だ定説を見るには至っていません。

  • 1. 菊亭晴季の娘説
    この説は、山手殿が公家の中でも名門である清華家の出身、菊亭晴季(きくてい はるすえ)の娘、あるいは養女であったとするものです 1。主に江戸時代以降に編纂された真田氏関連の系図や記録類にこの記述が見られます 1。しかし、この説にはいくつかの大きな疑問点が提示されています。第一に、当時の真田昌幸の身分は、甲斐武田氏に仕える一家臣に過ぎず、朝廷においても高い官位を有し、武田信玄の正室・三条の方の実家である三条家と同格とされる菊亭家から正室を迎えることは、身分的に見て極めて考えにくいとされています 1。また、菊亭晴季の生年から考察しても、山手殿が実娘である可能性は低いと指摘されています 1。これらの点から、菊亭晴季の娘説は、江戸時代に入り大名家としての地位を確立した真田家が、自らの家格をより高めるために、後世になってから付け加えられた、あるいは脚色された可能性が高いと考えられています 1。このような家系の権威付けは、他の多くの武家にも見られる現象であり、当時の社会的な価値観を反映したものと言えるでしょう。
  • 2. 宇多頼忠の娘説
    次に有力視されるのが、遠江国の国衆で、後に豊臣秀吉の家臣となった宇多頼忠(うだ よりただ)の娘とする説です 1。この説の主な根拠としては、石田三成の正室である皎月院(こうげついん)が宇多頼忠の娘であり、山手殿はその姉妹にあたるという記述が『石田氏系図』に存在すること 11、また江戸時代に成立した『尾張藩石河系図』にも、山手殿の出家後の名である寒松院が宇多頼忠の娘として明記されていることなどが挙げられます 11。さらに、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの直前、石田三成が真田昌幸に宛てた書状の中に、大坂にいた山手殿の安否に触れた後、宇多頼忠・頼重父子の動向について言及している箇所があり、これが両家の縁戚関係を示唆するものと解釈されています 11。
    歴史研究家の白川亨氏などは、この宇多頼忠説を最も妥当なものとして主張しています。白川氏は、徳川幕府の治世下において、逆賊とされた石田三成との縁戚関係を隠蔽する目的で、現実的ではない菊亭氏説が意図的に流布されたのではないかと推論しています 11。
    一方で、この説にも反論があります。歴史学者の柴辻俊六氏は、真田氏と石田氏の間に深い関係があったことは事実であるものの、山手殿が昌幸に嫁いだとされる永禄年間(1558年~1570年)には、昌幸、頼忠、そして石田三成を結びつけるだけの具体的な背景が存在しない点を指摘し、宇多頼忠の娘説を確実なものとは言えないとしています 11。また、丸島和洋氏は、昌幸の娘である趙州院が宇多頼次(宇多頼忠の子、あるいは近縁者で石田三成の妻の従兄弟)に嫁いでいる事実から、これが誤伝として山手殿の出自説に転じた可能性を指摘しています 11。もし宇多頼忠説が事実であった場合、真田家と石田三成は単なる政治的同盟関係を超えた強固な姻戚関係にあったことになり、関ヶ原の戦いにおける昌幸・信繁の西軍加担という決断の背景を理解する上で重要な要素となりますが、婚姻時期と石田三成の台頭時期のずれなどを考慮すると、慎重な検討が必要です。
  • 3. 遠山右馬助の娘説
    柴辻俊六氏が、昌幸の正室の出自として最も現実的で説明がつくとしているのが、武田信玄の家臣であった遠山右馬助(とおやま うまのすけ)の娘とする説です 1。遠山氏は『甲陽軍鑑』にもその名が見える武田家臣であり、昌幸とも面識があった可能性が高いとされます 11。また、『沼田記』には、遠山右馬助が騎馬10騎、足軽30人を率いる足軽大将であったと記されています 11。当時の昌幸の身分を考慮すれば、同じ武田家中の武将の娘を妻とすることは自然な縁組であり、他の説に比べて身分的な釣り合いも取れています。しかし、この遠山右馬助については実名や詳細な系譜が不明であり、武田氏滅亡後の動向も『寛政重修諸家譜』などの公的な記録には見られないなど、人物の特定が難しいという問題点があります 11。この説は、山手殿の出自を特定の権威や家格に結びつけるのではなく、当時の武家社会における一般的な婚姻のあり方として捉える視点を提供します。
  • 4. 武田信玄の養女説
    高野山蓮華定院(真田昌幸・信繁親子が配流された際に仮寓した寺院)に残る過去帳には、山手殿が「武田信玄公養女」と記されていることから、信玄の養女として昌幸に嫁いだとする説も存在します 1。戦国時代において「養女」という関係は、必ずしも血縁を伴うものではなく、主君が家臣の娘を形式的に養女とし、他の家臣に嫁がせることで主従関係を強化したり、同盟関係を補強したりする手段として用いられることがありました。山手殿が信玄の「養女」と記録されている場合、彼女の実の出自が何であれ、その婚姻が武田家の公認のもとに行われ、家中で昌幸が期待されていたことの表れと解釈することも可能です。6には、武田信玄自身が昌幸の結婚を決定したという記述もあり、この養女説と整合する可能性も考えられます。ただし、過去帳の成立時期や記録の正確性については、さらなる検証が必要です。
  • 5. その他の説(正親町家関連説、「京の御前」という呼称からの考察など)
    その他にもいくつかの説があります。『滋野世記』には、正親町実彦(おおぎまち さねひこ)の姪で、菊亭家の養女として昌幸に嫁いだという記述が見られます 1。正親町家は菊亭家や三条家よりは家格が下がるものの公家であり、実彦の養父・正親町公叙が天文5年(1536年)に甲斐国に下向した記録があり、武田家との接点も示唆されています 1。
    また、天正6年(1578年)から7年(1579年)頃に成立したとされる真田氏の検地帳の写本(『真田氏給人知行地検地帳』『小県郡御図帳』)には、山手殿を指すと考えられる「京之御前様」という記載があります 1。この呼称は、彼女が京都の出身であるか、あるいは京都と何らかの深いつながりを持つ女性であったことを強く示唆しています。このことから、「公家出身説には脚色があるにしても、武田信玄の正室である三条の方ゆかりの侍女など、京から来た女性ではないか」という推測もなされています 1。当時の「京」は文化の中心地であり、「京の御前」という呼称には、単に出身地を示すだけでなく、洗練された教養や雅やかさといったニュアンスが含まれていた可能性があります。山手殿が実際にどの程度の教養を持っていたかは不明ですが、この呼称は彼女が周囲から一定の敬意をもって遇されていたこと、また、信濃の在地領主の妻としては異質な、中央の文化の香りを漂わせる存在であった可能性を示唆します。

これらの諸説が並立する背景には、前述の通り、戦国時代の女性に関する一次史料が極めて少ないという現実があります 4 。特に夫や息子が歴史的に著名でない場合、その妻や母の名前すら記録に残らないことも珍しくありません。山手殿は夫も息子も著名な人物ですが、それでも彼女自身の出自を直接的に示す確実な史料が乏しいのは、当時の記録保存の慣習や、男性中心の歴史記述のあり方を反映していると言えるでしょう。

表1:山手殿 出自に関する諸説の比較

出自説

主な根拠・関連史料

主な提唱者・関連研究者

批判・反論・問題点

考察・可能性

菊亭晴季の娘(養女)説

後世の真田氏関連編纂物、家系図 1

当時の昌幸の身分と菊亭家の家格不相応、晴季の生年との矛盾、後世の格付け意識による創作の可能性 1

史実としての可能性は低いが、江戸期真田家の自己認識や社会的戦略を反映した「記憶」の表れか。

宇多頼忠の娘説

『石田氏系図』、『尾張藩石河系図』、石田三成書状 11

白川亨

永禄年間に昌幸・頼忠・石田氏を結びつける背景の欠如(柴辻俊六)、昌幸の娘・趙州院と宇多頼次の婚姻からの誤伝の可能性(丸島和洋) 11

事実であれば真田家と石田三成との強固な姻戚関係を示唆するが、婚姻時期と三成の台頭時期にズレがあり慎重な検討が必要。武田家臣時代の昌幸と宇多頼忠(当時は尾藤姓か)の接点はあり得る。

遠山右馬助の娘説

『甲陽軍鑑』、『沼田記』 11

柴辻俊六

遠山右馬助の実名・系譜不明、人物比定の困難 11

当時の昌幸の身分から見て現実的な婚姻相手の可能性。武家の娘としての「等身大」の姿を示唆。

武田信玄の養女説

高野山蓮華定院過去帳 1

過去帳の記録の同時代性、記録経緯の検証が必要。

実の出自に関わらず、婚姻が武田家の公認・後援のもとに行われた可能性。昌幸の武田家中での期待の表れか。

正親町実彦の姪説

『滋野世記』、真田氏検地帳写「京之御前様」 1

『滋野世記』の史料的性格の検討が必要。

京都との繋がりを示唆。「京の御前」呼称と関連し、一定の文化的背景を持つ可能性。

公家ゆかりの女性説

真田氏検地帳写「京之御前様」 1

具体的な家名や人物の特定は困難。

京都出身、あるいは三条の方の侍女など、京文化に触れた女性であった可能性。「京の御前」という呼称が彼女の文化的素養や周囲からの敬意を示唆するか。

第二章:山手殿の生涯と真田昌幸

山手殿の具体的な生涯は、夫である真田昌幸の波乱に満ちた人生と深く結びついています。彼女自身の言葉や行動を直接伝える史料は少ないものの、関連する出来事からその足跡を辿ることができます。

  • 1. 生年と没年、呼称
    山手殿の正確な生年は不明ですが、天文18年(1549年)頃ではないかと推定されています 1。没年は慶長18年6月3日(西暦1613年7月20日)と記録されており 1、これは夫・昌幸が九度山で亡くなってからちょうど2年後のことでした 1。
    彼女は一般に「山手殿」または「山之手殿」と呼ばれました 1。これは、上田城内の山手郭に居住していたことに由来する可能性が考えられます。また、第一章で触れたように、検地帳には「京の御前」という呼称も見られます 1。関ヶ原の戦いの後に出家してからの法号は「寒松院(かんしょういん)」であり、その法名は寒松院殿宝月妙鑑大姉(かんしょういんでんほうげつみょうかんだいし)と伝えられています 1。これらの呼称の変遷は、彼女の生涯における立場や状況の変化、例えば居住地、出自への敬意、そして晩年の信仰生活といった各段階を象徴していると解釈することもできるでしょう。
  • 2. 真田昌幸との婚姻
    山手殿が真田昌幸(当時は武藤喜兵衛と名乗ることもあった)と結婚したのは、永禄7年(1564年)頃とされています 1。この時期は、長男である信之(後の信幸)が永禄9年(1566年)に誕生する前に、長女の村松殿が生まれていることから逆算して推定されています 1。6の記述によれば、当時18歳であった昌幸の結婚は、主君である武田信玄の決定によるものであったとされており、信玄の意向が強く働いた可能性が示唆されています。この頃の昌幸は、父・真田幸隆(幸綱)のもとで武田信玄に仕える一武将であり、山手殿との婚姻もまた、当時の武家の習いとして、家同士の結びつきを強化する政略的な意味合いを少なからず含んでいたと考えられます。山手殿の出自が仮に武田家臣団やそれに準ずる家柄であったならば、この婚姻は武田家中における真田家の地位安定に寄与した可能性も否定できません。
  • 3. 武田氏滅亡時の動向
    天正10年(1582年)3月、織田信長・徳川家康連合軍による甲州征伐によって武田氏が滅亡するという大きな歴史的転換点において、山手殿は人質として武田氏の本拠地である甲斐の新府城にいました 1。武田氏の滅亡という混乱の中で、彼女は「九死に一生を得て」新府城を脱出し、夫・昌幸のいる上田へと帰還したと伝えられています 1。この脱出の具体的な経緯は詳らかではありませんが、真田家の家臣による手引きや、混乱に乗じた機転があったものと推測されます。この出来事は、戦国時代の女性が常に政争や戦乱の渦中にあり、生命の危険と隣り合わせであった過酷な現実を象徴しています。人質となることは、特に大名や有力武将の妻女にとっては避けがたい運命であり、主家の滅亡は自らの命運にも直結しました。山手殿が無事にこの危機を乗り越えられたことは、彼女自身の強運のみならず、真田家の結束力や危機管理能力の高さを示すものかもしれません。
  • 4. 関ヶ原の戦い前後の動向
    慶長5年(1600年)、天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いが勃発する直前、山手殿は大坂に滞在しており、西軍の人質という立場に置かれました 1。この時期、豊臣政権下では諸大名の妻子が大坂に居住することが半ば義務付けられており、山手殿もその一人であったと考えられます。
    彼女の処遇については、いくつかの情報が錯綜しています。同年7月30日付の石田三成方の大谷吉継(次男・信繁の岳父)の書状によれば、吉継の娘で信繁の妻である竹林院とともに、吉継のもとで無事に保護されたとされています 1。一方で、大坂城に一時抑留されたものの、真田家臣である河原綱家の機転によって救出され、上田城へ帰還したという説も伝えられています 1。
    さらに、同年8月6日付で石田三成が昌幸に宛てた書状には、「御内儀(山手殿)も大坂へ入り候、何事もなく候、宇多河内父子(宇多頼忠・頼重)も当城(佐和山城)留守居として今日当地へ参り候」との記述があり、山手殿の無事を伝えるとともに、宇多頼忠父子の動向にも触れています 1。この書状の内容から、山手殿の人質としての立場は、ある程度形式的なものであった可能性も示唆されています。
    関ヶ原前夜の緊迫した状況下で、山手殿の安否は、西軍につくか東軍につくかという重大な決断を迫られていた昌幸にとって、大きな懸念材料であったことは想像に難くありません。大谷吉継や石田三成からの書状は、彼女の無事を伝えることで昌幸を西軍に引き留めようとする政治的な意図があったとも考えられます。諸説ある彼女の動向は、当時の情報伝達の不確かさや、各勢力の思惑が複雑に絡み合っていたことを示していると言えるでしょう。
  • 5. 夫・昌幸の九度山配流と山手殿のその後
    関ヶ原の戦いで西軍が敗北した後、慶長5年(1600年)12月13日、真田昌幸と次男の信繁親子は、徳川家康によって高野山(後に九度山)への配流を命じられました 1。しかし、山手殿はこの配流には同行せず、東軍に属して真田家の存続を許された長男の信之(当時は信幸)に引き取られ、上田に留まりました。信繁の妻である竹林院らは夫に従い九度山へ赴きましたが 7、山手殿が上田に残った理由は、信之が家名を保ったことによるものか、あるいは高齢などの健康上の理由があったのか、詳細は不明です。
    この後、山手殿は出家し、「寒松院」と号しました 1。そして慶長6年(1601年)頃から、上田城の鬼門(北東)に位置し、夫・昌幸が上田城築城の際に再興し、山手殿自身もその発願に関わったと伝えられる禅寺・大輪寺で生活を始めたとされています 1。
    夫と次男との別離、そして長男の庇護下での生活という状況は、山手殿にとって大きな精神的試練であったと想像されます。出家し仏門に帰依したことは、戦乱の世の無常を感じ、心の平安を求める彼女の心情の表れであったと考えられます。また、結果的に真田家の血脈を保つことになった信之の母として上田に留まったことは、真田家にとって重要な意味を持っていたと言えるでしょう。

表2:山手殿 関連年表

年代(西暦)

山手殿の動向・出来事

真田昌幸の動向

真田信之(信幸)の動向

真田信繁(幸村)の動向

日本の主要な歴史的出来事

天文18年頃(1549年)

生誕(推定) 1

永禄7年頃(1564年)

真田昌幸(当時 武藤喜兵衛)と婚姻(推定) 1

武田信玄に仕える。武藤喜兵衛として活動。

第四次川中島の戦い(1561年)

永禄9年(1566年)

長男・信幸(後の信之)誕生 1

誕生

永禄10年(1567年)

次男・信繁(後の幸村)誕生 3

誕生

天正3年(1575年)

長篠の戦いで兄信綱・昌輝戦死、真田家家督相続。

長篠の戦い

天正10年(1582年)

甲州征伐により武田氏滅亡。人質としていた新府城より脱出し上田へ帰還 1

武田氏滅亡。織田信長に属す。本能寺の変後、自立。

母・山手殿と共に新府城より脱出 23

甲州征伐、本能寺の変、山崎の戦い、清洲会議

天正13年(1585年)

第一次上田合戦で徳川軍を撃退。

第一次上田合戦で活躍。

豊臣秀吉、関白就任

慶長5年(1600年)

関ヶ原の戦い直前、大坂で西軍の人質となる 1 。戦後、信之に引き取られ上田に残留。出家し寒松院と号す 1

犬伏の別れで西軍に属す。第二次上田合戦。戦後、高野山(九度山)へ配流 7

犬伏の別れで東軍に属す。関ヶ原の戦い後、上田藩主となり真田家を存続。母・山手殿を引き取る 1

犬伏の別れで父と共に西軍に属す。第二次上田合戦。戦後、父と共に高野山(九度山)へ配流 7

関ヶ原の戦い

慶長6年頃(1601年)

上田・大輪寺で生活を始める 1

九度山での生活。

上田藩主。

九度山での生活。

慶長16年(1611年)

九度山にて死去 2

慶長18年(1613年)

6月3日、死去。大輪寺に葬られる 1

元和元年(1615年)

大坂夏の陣で活躍し戦死。

大坂夏の陣、豊臣氏滅亡

第三章:母としての山手殿

山手殿は、真田信之と信繁という、戦国時代から江戸時代初期にかけて大きな足跡を残した兄弟の母です。彼女が息子たちにどのような影響を与え、どのような関係性を築いていたのか、限られた史料から探ります。

  • 1. 子供たち
    山手殿と真田昌幸の間には、長女である村松殿(むらまつどの、小山田茂誠室)、長男の真田信之(のぶゆき、幼名は源三郎、初名は信幸)、そして次男の真田信繁(のぶしげ、幼名は源二郎、一般には幸村の名で知られる)の三人が生まれたことが確実視されています 1。昌幸にはこの他にも複数の子女がいたと記録されていますが 2、これらの子供たちの生母が山手殿であったかについては不明な点が多く、側室の子であった可能性も考えられます。
    戦国時代の武将は、家系の繁栄や他の勢力との同盟関係構築のために複数の妻(正室、側室)を持つことが一般的でした。山手殿が正室として、後に真田家を継承する信之と、武勇でその名を天下に轟かせる信繁という、真田家を代表する二人の息子を産んだという事実は、彼女の家における地位の安定性を示唆するものと言えるでしょう。記録には残りにくいものの、側室の子らとの関係や、家督相続を巡る母としての立場など、当時の武家の内情には複雑な人間模様が存在した可能性も考慮に入れる必要があります。
  • 2. 息子たちとの関係性を示す逸話や記録
    山手殿と息子たち、特に信之や信繁との具体的な関係性や日常的な交流を示す直接的な書状や詳細な逸話は、残念ながら現存する史料からは乏しいのが現状です 1。しかし、いくつかの出来事から、その関係性の一端をうかがい知ることができます。
    天正10年(1582年)の武田氏滅亡の際、甲斐の新府城に人質として留め置かれていた山手殿は、同じく人質であった長男・信之(当時は信幸)と共に危機を脱し、上田の昌幸のもとへ逃れたとされています 23。これは、母と子が共に生命の危険を乗り越えたことを示す数少ない貴重な記録であり、困難な状況下での親子の絆をうかがわせます。
    また、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、夫・昌幸と次男・信繁が九度山へ配流された際、山手殿は東軍に属して真田家の存続を許された長男・信之に引き取られ、上田で生活を送りました 1。この事実は、信之が母を大切に遇し、その晩年の面倒を見たことを示唆しています。74には「寒松院(山手殿)は九度山に同行したと思われていた記述がありましたが、実際には同行していません。しかし注目すべきは、『同行しなかった』ことではなく、同行せずとも、家を支え続けたという事実です」という記述があり、これは山手殿が上田にあって信之と連携し、あるいは精神的な支えとなっていた可能性を示唆しています。
    直接的な記録は少ないものの、これらの状況証拠は、少なくとも信之との間には良好な母子関係が存在したことをうかがわせます。信繁との関係については、九度山に同行しなかったという事実がありますが、関ヶ原の戦い前に大坂で人質となった際、信繁の岳父である大谷吉継が山手殿を保護したという記録もあり 19、これは吉継が信繁の母を気遣った行動とも解釈できます。息子たちの性格形成や教育に母親としてどのような具体的な影響を与えたのかは、史料の制約から推測の域を出ませんが、激動の戦国時代を生き抜いた女性としての強さや知恵、そして深い愛情を子供たちに伝えていた可能性は十分に考えられます。
  • 3. 「犬伏の別れ」における山手殿
    慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いを目前にして、真田昌幸、長男・信幸(後の信之)、次男・信繁(幸村)の三人は、下野国犬伏(現在の栃木県佐野市)において密議を重ねました。その結果、真田家がどちらに転んでも存続できるように、昌幸と信繁は西軍(豊臣方)に、信幸は東軍(徳川方)にそれぞれ味方するという、苦渋の決断を下しました。これが世に言う「犬伏の別れ」です 3。
    この重大な決断が下された犬伏の場に、山手殿が同席していたという記録はありません。当時、彼女は大坂に滞在しており、西軍の人質という立場にありました 1。夫と二人の息子が敵味方に分かれて戦うという状況は、妻として、そして母として、察するに余りある苦悩であったことでしょう。さらに、自らが一方の勢力の人質となっているという状況も、彼女の心痛を一層深いものにしたと考えられます。しかし、この時の山手殿の具体的な心境を示す史料は見当たらず 30、その胸の内は歴史の闇に閉ざされたままです。
    「犬伏の別れ」は、真田家の存亡をかけた男性たちの知略や武勇の物語として語られることが多いですが、その陰で翻弄された女性たちの視点も忘れてはなりません。山手殿だけでなく、信幸の妻である小松姫(本多忠勝の娘で徳川家康の養女)や、信繁の妻である竹林院(大谷吉継の娘)もまた、この決断によってそれぞれ複雑で困難な立場に置かれました。山手殿は、一方の息子が味方する勢力の人質となり、もう一方の息子がその勢力と敵対するという、極めて過酷な運命の渦中に身を置いたのです。家の存続という大義名分のもと、個人の感情は抑圧されがちであった戦国時代とはいえ、家族が引き裂かれる悲しみや将来への不安は、察するに余りあります。

第四章:晩年と信仰生活

関ヶ原の戦いを経て、夫と次男との別離を経験した山手殿は、長男・信之の庇護のもと、上田で静かな晩年を送ることになります。その生活の中心にあったのは、仏道への帰依でした。

  • 1. 寒松院としての生活
    関ヶ原の戦いが終結し、真田家の運命が大きく転換した後、上田に戻った山手殿は出家し、「寒松院(かんしょういん)」と号しました 1。これは慶長5年(1600年)の末頃から慶長6年(1601年)の初頭にかけてのことと考えられます。
    慶長6年(1601年)頃からは、上田城の鬼門(北東)鎮護のために夫・真田昌幸が再興し、山手殿自身もその建立を願い出たと伝えられる曹洞宗の寺院・大輪寺(だいりんじ、長野県上田市)で生活を始めたとされています 1。
    寒松院としての具体的な信仰生活の内容を詳細に伝える記録は乏しいのが現状です 32。しかし、禅寺である大輪寺に身を寄せ、仏道に深く帰依し、静穏な余生を送ったと推測されます。戦乱の世の無常を身をもって体験し、夫や次男の冥福を祈り、また、徳川の世で新たな歩みを始めた真田家の安泰を願う日々であったのかもしれません。
    度重なる戦乱と家族との別離を経験した山手殿にとって、仏門への帰依は大きな精神的な支えとなったと考えられます。大輪寺が夫・昌幸によって再建され、自身もその発願に深く関わったという寺伝 14 は、彼女とこの寺院との間に特別な精神的結びつきがあったことを示唆しており、晩年を過ごす場として心の安らぎを得ていた可能性があります。「寒松」という院号は、冬の厳しい寒さの中でも緑を保つ松の姿に、不変の節操や困難に耐える強さといった意味合いが込められることがあり、彼女の晩年の心境や生き様を象徴しているのかもしれません。また、17の記述によれば、山手殿の墓所がある大輪寺および長野市の大林寺の山号はいずれも「寒松山」であり、院号と山号の関連性がうかがえます。
  • 2. 最期と墓所
    寒松院こと山手殿は、慶長18年6月3日(西暦1613年7月20日)にその生涯を閉じました 1。夫・真田昌幸が九度山で没した慶長16年(1611年)からちょうど2年後、奇しくも昌幸の三回忌にあたる日に亡くなったと伝えられています 1。享年は、推定される生年から計算すると65歳前後であったと考えられます。
    彼女の墓所は、以下の二箇所に現存しています。
  • 大輪寺(長野県上田市): 山手殿が晩年を過ごし、最期を迎えた寺院であり、境内には彼女の墓所(供養塔)が残されています 1 。この墓は、上田市の指定史跡にもなっています 14
  • 大林寺(長野県長野市松代町): 関ヶ原の戦いの後、真田家を継いだ長男・信之は、後に上田から松代へ移封されました。その際、信之は母・寒松院の菩提を弔うため、上田の大輪寺から分霊して松代に大林寺を建立し、ここにも寒松院の供養塔を設けたとされています 1 。興味深いことに、この大林寺の山号もまた、母の院号にちなんで「寒松山」と名付けられました 17 。 上田と松代という、真田家にとって重要な二つの地に母の墓所(または供養塔)を設けたという事実は、長男・信之がいかに母・山手殿を敬愛し、その冥福を深く祈っていたかを示しています。特に、松代に新たに寺を建立し、母の院号にちなんだ山号を冠した行為は、信之の母に対する追慕の念の篤さを物語るものと言えるでしょう。これは、戦国時代の武家の親子関係が、単に家制度や戦略に基づく厳しい側面だけでなく、深い情愛によって結ばれていた側面も存在したことを示唆しています。二つの墓所の存在は、山手殿が真田家にとって、特に信之にとって、いかに重要な存在であったかを後世に静かに伝えています。

第五章:歴史的評価と創作における山手殿

山手殿に関する同時代の史料は極めて限られており、その人となりや具体的な功績を詳細に知ることは困難です。しかし、彼女が真田昌幸の正室として、また信之・信繁兄弟の母として果たした役割は、間接的ながらも歴史的に評価され、後世の創作物においても様々な形で描かれてきました。

  • 1. 歴史的評価
    山手殿の人柄や具体的な行動、あるいは政治的な影響力を直接的に示す同時代の史料は、現在のところほとんど確認されていません 1。そのため、彼女の歴史的評価を客観的かつ具体的に行うことは非常に難しいと言わざるを得ません。
    しかし、真田昌幸の正室として、後に真田家を継ぎ松代藩の初代藩主となる信之と、「日本一の兵(つわもの)」と称される武勇で知られる信繁を産み育てたという事実は、真田家の存続と発展において極めて重要な役割を果たしたと評価できます。特に、信之が徳川の治世下で巧みに立ち回り真田家を大名として存続させ、信繁が大坂の陣でその名を歴史に刻んだ背景には、母である山手殿の存在が、直接的ではないにしても、何らかの影響を与えていた可能性は否定できません 43。
    また、第一章で触れた「京の御前」という呼称が、彼女が京都の文化や教養に触れた人物であったことを示唆するのであれば、真田家における文化的側面や、子供たちの教育、価値観の形成に何らかの影響を及ぼした可能性も考えられます 1。しかし、これも具体的な証拠に乏しく、あくまで推測の域を出るものではありません。
    歴史上の人物、特に記録の少ない女性に対しては、後世の価値観に基づいた「良妻賢母」といった理想的なイメージが投影されやすい傾向があります。山手殿に関しても、信之・信繁という優れた息子たちを育て上げた母として、そのような評価がなされることがあります。しかし、史料的な裏付けがない限り、それはあくまで後世の解釈や願望の反映に過ぎません。彼女の真の姿は、断片的な情報から慎重に再構築していく必要があります。
  • 2. 創作における山手殿
    史料の乏しい山手殿ですが、真田昌幸の妻、信之・信繁の母という重要な立場から、後世の小説やドラマなどの創作物においては、比較的頻繁に登場し、様々なキャラクターとして描かれています。
  • 主な登場作品と描かれ方:
  • 池波正太郎『真田太平記』: この作品及びこれを原作としたNHK新大型時代劇(1985年放送、演:小山明子)では、山手殿は菊亭晴季の娘という設定が採用されています 1 。作品中では、夫・昌幸との関係は必ずしも温かいものとして描かれていないものの、息子たち、特に信之に対して深い愛情を抱く母としての側面が描写されています 58
  • NHK大河ドラマ『真田丸』(2016年放送): この作品では、高畑淳子さんが山手殿を演じ、「薫(かおる)」というオリジナルの名で登場しました 1 。出自については、菊亭晴季の娘を自称しているものの、実際は侍女であったという、より複雑でドラマチックな設定がなされています 1 。性格描写も、従来の山手殿像とは異なり、やや奔放で時にコミカルな一面も見せつつ、家族を深く愛し、真田家の行く末を案じる母としての姿が印象的に描かれました。
  • その他の作品: その他にも、アーケードゲーム『戦国大戦』など、様々な歴史関連のゲームや小説にも登場し、それぞれの作品世界の中で独自のキャラクターとして描かれています 1
  • 描かれ方の比較と分析: 『真田太平記』における山手殿は、比較的伝統的な武家の妻、そして母としての側面が強調されているのに対し、『真田丸』の薫は、より個性的でアクティブ、時には史実の枠を大胆に超えたキャラクター造形がなされています。特に『真田丸』における出自の設定(公家の娘を自称する侍女)は、彼女の言動に深みと複雑さを与え、物語における独自の役割を担わせることに成功していました。 これらの創作物は、史料の空白部分を想像力で補い、山手殿という人物に具体的なイメージや感情移入の余地を与える一方で、当然ながら史実とは異なる解釈やフィクションの要素が含まれていることに留意する必要があります。 特に『真田丸』のような国民的な人気を博したドラマにおける山手殿(薫)の描写は、多くの視聴者にとっての山手殿像を形成する上で大きな影響力を持ったと考えられます。創作物は歴史への関心を喚起し、歴史上の人物を身近に感じさせる力を持つ一方で、その描写が史実そのものであるかのような誤解を生む可能性も常に内包しています。歴史研究においては、これらの創作物と史実とを明確に区別し、それぞれの文脈の中で理解することが求められます。

結論:山手殿の実像と謎

山手殿は、真田昌幸の正室として、また真田信之・信繁兄弟の母として、戦国時代から江戸時代初期という激動の時代を生きた女性です。現存する限られた史料からうかがえる彼女の姿は、武田氏の滅亡や関ヶ原の戦いといった歴史の大きな転換点において、人質となるなど困難な状況に身を置きながらも生き抜き、晩年は出家して仏門に帰依し、信仰に心の平安を求めた女性として浮かび上がってきます。

出自や具体的な人柄、詳細な事績については不明な点が多いものの、長男・信之に引き取られて庇護を受け、上田と松代の二箇所に墓所が設けられていることなどから、家族からは大切にされていた様子がうかがえます。特に、信之が母の菩提を弔うために松代に大林寺を建立し、母の院号にちなんだ山号を付けたことは、息子からの深い敬愛の念を示すものと言えるでしょう。

しかしながら、山手殿の実像には依然として多くの謎が残されています。最大の謎は、やはりその出自に関する問題です。菊亭晴季の娘説、宇多頼忠の娘説、遠山右馬助の娘説など、複数の説が提唱されていますが、いずれも決定的な証拠に欠け、未だ結論は出ていません。新たな史料の発見や、既存史料の多角的な再解釈によって、将来的にこの論争に新たな光が当てられる可能性も残されています 61

また、彼女が「京の御前」と呼ばれた背景にある教養の程度や、それが息子たちの人格形成や真田家の文化にどのような影響を与えたのかといった点も、さらなる研究が待たれる興味深いテーマです。

戦国時代の女性に関する史料は、男性中心の記録が多い中で、全体的に乏しいのが現状です 4 。山手殿個人の研究を進めることはもちろん重要ですが、当時の女性の社会的地位、家庭内での役割、信仰生活、文化的活動といった、より広い文脈での研究が進展することが、彼女のような記録の少ない人物像の解明にも大きく寄与するでしょう。

山手殿のような、歴史の表舞台にはあまり登場しないものの、重要な役割を果たした女性の生涯を丹念に掘り起こし、その実像に迫ろうとすることは、男性中心に語られがちな歴史に新たな視点と深みをもたらします。それはまた、歴史の中で声を持たなかった人々の生を現代に伝え、歴史叙述のあり方そのものを豊かにしていく作業でもあると言えるでしょう。山手殿の研究は、まさにそうした意義を持つものと考えられます。

引用文献

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