最終更新日 2025-05-27

島津亀寿

島津亀寿

島津亀寿:戦国乱世を生きた薩摩の姫君、その実像と伝説

はじめに

本報告書は、戦国時代から江戸時代初期という激動の時代を生きた女性、島津亀寿の生涯を、現存する多様な史料調査に基づき、詳細に解明することを目的とする。彼女の出自、政略結婚、人質としての生活、夫との複雑な関係、そして後世に語り継がれる「じめさあ」伝説に至るまでを網羅的に扱い、その実像に迫るものである。島津亀寿は、島津宗家の家督継承問題に深く関与し、また豊臣政権下での人質として島津氏の存続にも影響を与えた人物であり、戦国期における女性の役割と生き様を考察する上で、極めて重要な存在と言える。

1. 島津亀寿の出自と時代背景

1.1 生誕と家族構成

島津亀寿は、元亀2年(1571年)4月26日、薩摩の戦国大名、島津義久の三女として生を受けた 1 。母は、鉄砲伝来で知られる種子島時尭の娘、円信院殿である 1 。亀寿には異母姉の御平、同母姉の新城がおり、これらの姉妹たちの婚姻もまた、島津家の政略と深く結びついていた 2 。当時の記録によれば、亀寿は結婚後、「御上様(おかみさま)」、「国分(国府)様」、「国分御上様」などと呼ばれていたことが確認できる 2 。幼名は亀寿とされ、成人してからは「御料様」(御料人の意)と呼ばれたことを示唆する記録も存在する 5

亀寿の誕生は、島津家が九州統一を目指して勢力を拡大し、同時に豊臣秀吉による中央集権化の波が九州にも及ぼうとする、まさに激動の時代と重なる。父・義久に男子がいなかったことは、亀寿をはじめとする娘たちの運命に大きな影響を与えた。彼女たちは単に政略結婚の駒としてだけでなく、島津家の血筋を繋ぎ、有力武将との婚姻を通じて一族の結束を固めるための、極めて重要な存在であった。特に亀寿は、父・義久から「至極の御愛子」と評されるほど寵愛され、その地位は格別高く、事実上、島津本宗家の次期家督を継承する「嫡女」に擬せられていた可能性も指摘されている 5 。これは、彼女の立場が単なる婚姻の対象に留まらなかったことを示唆しており、後の夫・島津忠恒との関係や、養子・島津光久の養育にも繋がる重要な伏線となる。

また、亀寿の母が種子島氏の出身であることは、当時の最先端兵器であった鉄砲の供給源として重要な種子島氏との連携を意味し、島津家の軍事力や政治的立場にも少なからぬ影響を与えたと考えられる。しかし、その母・円信院殿は亀寿がわずか二歳の時に亡くなっており 3 、この事実は亀寿の幼少期の人格形成に何らかの影響を及ぼした可能性も否定できないが、具体的な記録は乏しい。

以下に、島津亀寿の生涯と関連する主要な出来事をまとめた年表、および主要な関係人物の一覧を示す。

表1:島津亀寿 関連年表

年代(西暦)

元号

亀寿の年齢

亀寿の出来事

島津家・国内の主要な出来事

典拠

1571年

元亀2年

0歳

4月26日、島津義久の三女として誕生。母は種子島時尭の娘・円信院殿。

1

1573年頃

元亀4年頃

2歳頃

母・円信院殿死去。

3

1587年

天正15年

17歳

島津氏、豊臣秀吉に降伏。母らと共に人質として上洛。

豊臣秀吉による九州平定。

3

1589年

天正17年

19歳

従兄弟の島津久保(島津義弘の次男)と結婚。

2

1593年

文禄2年

23歳

夫・久保、朝鮮(巨済島)にて病死。

文禄の役。

3

1594年頃

文禄3年頃

24歳頃

久保の弟・島津忠恒(後の家久)と再婚。

豊臣秀吉、忠恒を島津家後継者として指名。

6

1599年

慶長4年

29歳

島津義弘より薩摩国日置郡内5千石を与えられる。

2

1600年

慶長5年

30歳

父・義久より大隅国大禰寝村2739石を与えられる。関ヶ原の戦い後、侍女の身代わりで帰国。

関ヶ原の戦い。

2

1611年

慶長16年

41歳

父・義久死去。国分城へ移住。

7

1616年

元和2年

46歳

島津光久(忠恒の次男)誕生。後に養子とする。

10

1624年

寛永元年

54歳

一代限りとして1万石を与えられる。

2

1630年

寛永7年

60歳

10月5日、国分城にて死去。法名「持明彭窓庵主興国寺殿」。

1

表2:島津亀寿 主要関係人物一覧

氏名

亀寿との続柄

生没年(主な事績)

典拠

島津義久

1533年 - 1611年。島津家第16代当主。九州統一を目指す。亀寿を溺愛。

1

円信院殿

生年不詳 - 1573年頃。種子島時尭の娘。亀寿2歳の時に死去。

1

御平

異母姉

1551年 - 1603年。島津義虎(薩州家)室。

2

新城

同母姉

1563年 - 没年不詳。島津彰久(垂水島津家)室。

2

島津久保

最初の夫

1573年 - 1593年。島津義弘の次男。亀寿の従兄弟。文禄の役で朝鮮にて病死。

1

島津忠恒(家久)

二番目の夫

1576年 - 1638年。島津義弘の三男。薩摩藩初代藩主。亀寿の従兄弟。亀寿とは不仲であったとされる。

1

島津光久

養子

1616年 - 1694年。島津忠恒(家久)の次男。母は忠恒の側室(島津忠清の娘)。薩摩藩二代藩主。亀寿の養子となる。

2

2. 政略の渦中を生きた亀寿

2.1 最初の結婚:島津久保との縁組と死別

亀寿の最初の結婚相手は、従兄弟にあたる島津久保であった 1 。久保は島津義弘の次男であり、父・義久に男子がいなかったことから、久保を養子として迎え入れ、亀寿と結婚させることで島津家の家督を継承させるという明確な意図があった 3 。天正17年(1589年)、亀寿19歳、久保17歳の時であった 3 。夫婦仲は睦まじかったと伝えられている 3 。しかし、この結婚生活は長くは続かなかった。久保は文禄の役(朝鮮出兵)に従軍し、結婚からわずか4年後の文禄2年(1593年)、朝鮮の巨済島にて21歳の若さで病死してしまう 3 。これにより、亀寿は若くして未亡人となり、島津家の後継者計画にも大きな狂いが生じることとなった。

2.2 豊臣政権下での人質生活とその意義

天正15年(1587年)、島津氏が豊臣秀吉の圧倒的な軍事力の前に降伏すると、亀寿は母・円信院殿(実際には継母か、あるいは他の女性親族の可能性が高い。実母は既に死去しているため)や妹らと共に京都に送られ、人質としての役割を担うことになった 2 。当時17歳の亀寿にとって、故郷薩摩を離れての生活は、不安と緊張に満ちたものであったと想像される。

しかし、この京都での生活は、亀寿にとって単なる苦難の期間ではなかった。中央の進んだ文化や政治情報に直接触れる貴重な機会ともなったのである。記録によれば、亀寿は京都から薩摩へ様々な情報を送り届け、島津氏が近世大名へと円滑に移行していく上で、少なからぬ貢献を果たしたと評価されている 6 。これは、彼女が単に受動的な人質としての日々を送っていたのではなく、島津家の一員としての自覚を持ち、能動的に情報収集や伝達に関わっていた可能性を示唆している。父・義久もまた、この時期に京都に滞在し、公家や文化人との交流を深めており 14 、亀寿も同様の環境に身を置くことで、政治的見聞を広めたと考えられる。

関ヶ原の戦い(慶長5年、1600年)の後、西軍に与した島津氏は苦しい立場に置かれた。義弘の正室である宰相殿の帰国は許されたものの、亀寿の帰国は当初許可されなかった。この時、亀寿に仕える侍女の御松という女性が、亀寿の身代わりとなって大坂の屋敷に留まることを申し出たため、亀寿は宰相殿と共に密かに薩摩へ帰国することができたという逸話も残っている 9 。このエピソードは、亀寿が依然として中央政権にとって重要な監視対象と見なされていたこと、そして彼女の周囲に忠義を尽くす人々がいたことを物語っている。

2.3 二度目の結婚:島津忠恒(家久)との再婚と島津家の継承問題

最初の夫・久保の死後、亀寿は久保の実弟である島津忠恒(後の薩摩藩初代藩主・家久)と再婚することになる 1 。これは、文禄3年(1594年)頃のことで、豊臣秀吉の指名により、忠恒が島津家の正式な後継者と定められたことと深く連動していた 8

この再婚は、久保の早世によって不安定化した島津家の家督継承を安定させるための、極めて政略的な意味合いの強いものであった。義久の娘である亀寿が、新たな後継者である忠恒の正室となることで、忠恒の家督継承の正統性を補強し、島津家内の結束を固めるという重要な役割が期待されたのである 15 。当時の記録には「島津家の家督相続権は義久・亀寿にあった」との記述も見られ 3 、亀寿の立場が単なる配偶者ではなく、家督の行方を左右する鍵を握る存在であったことを示唆している。

亀寿の二度にわたる結婚は、いずれも島津家の家督継承という重大な問題と密接に結びついていた。最初の夫・久保の早世は、島津家の後継者計画に大きな変更を余儀なくさせ、結果として忠恒の台頭と亀寿との再婚という新たな展開を生んだ。この一連の出来事の中で、亀寿自身の意向がどれほど反映されたかは定かではないが、彼女が島津家の政略の中心人物として、その運命に翻弄されつつも、重要な役割を担い続けたことは疑いようがない。忠恒との再婚は、亀寿にとって必ずしも幸福なものではなかったと伝えられているが 3 、島津家の安定という大局的な観点からは、避けて通れない選択であったと言えるだろう。彼女の存在は、義久を中心とする旧体制と、義弘・忠恒を中心とする新体制との間の移行期において、権力の正統性を担保する象徴としての意味合いも持っていたと考えられる。

3. 夫・島津忠恒(家久)との関係

3.1 夫婦仲の実情と背景

島津亀寿と、二番目の夫である島津忠恒(後の家久)との夫婦仲は、極めて険悪であったと多くの史料や伝承が一致して伝えている 3 。亀寿と忠恒の間には、ついに子供が生まれることはなかった 3 。この不仲を象徴する逸話として、亀寿が亡くなった際に忠恒が詠んだとされる和歌が残されている。それは亀寿付きの奥女中に宛てたもので、「あたし世の 雲かくれ行(いく) 神無月 しぐるる袖の いつはりもかな」というものであった 11 。この歌は、「はかない世の中だ、亀寿はこの神無月に亡くなってしまった。悲しみの涙で袖が濡れるほどか、と言われると、まあそこまでではないのだが」といった意味合いに解釈され、忠恒の亀寿に対する愛情の薄さ、あるいは冷淡さを示すものとしてしばしば引用される。

父・義久が存命中は、忠恒も亀寿に対して一定の配慮を見せていたようであるが、慶長16年(1611年)に義久が死去すると、その態度は露骨なものとなる。忠恒は亀寿を鹿児島城から、義久の隠居城であった国分城へと移し、事実上の別居状態とした 7 。その後、忠恒は多くの側室を抱え、記録によれば30人以上もの子女を儲けたとされている 11

この夫婦の不仲は、単に個人的な感情のもつれという次元に留まらず、当時の島津家が抱えていた複雑な権力構造や、家督継承を巡る深刻な対立を反映していた可能性が高い。義久の娘であり、その血筋の正統性を象徴する存在であった亀寿と、兄の死や豊臣秀吉の指名という経緯を経て家督を継承し、実力でのし上がろうとする忠恒との間には、当初から埋めがたい溝が存在したのかもしれない。義久の死は、両者の力関係に決定的な変化をもたらし、忠恒が義久の権威という「重し」から解放されたことで、亀寿を遠ざけ、自らの権力基盤をより強固なものにしようとする動きを加速させたと解釈できる。

3.2 亀寿の政治的影響力と家中での立場

義父である島津義久が存命であった間、亀寿は島津家の正室として、一定の政治的影響力を保持していたと考えられる。忠恒も、義久の生存中はあからさまに側室を持つことを遠慮したと伝えられている 12 。これは、亀寿の背後にいる義久の権威を無視できなかったことの現れであろう。

さらに注目すべきは、「国分様(亀寿)は新城様(亀寿の姉)御妹様にて御座成され候得共、中納言様(忠恒)御廉中にて、御本家御相続遊ばされ候」という記録である 5 。この記述は、亀寿が島津本家を相続したと見なされ、夫である忠恒の家督継承の正当性を担保する役割を担い、さらには家督相続の決定そのものに関与する権限を有していた可能性を示唆している。また、島津家の歴代の財産を亀寿が保持し、後継者の決定権も彼女が有していたという説も存在する 18 。これらのことから、亀寿は単に「当主の妻」という立場に留まらず、島津家の家政や権力構造において、無視できない存在であったことが窺える。

3.3 養子・島津光久の擁立と義久血脈の維持

亀寿と忠恒の間に実子がいなかったことは、島津家の将来にとって大きな問題であった。この状況を打開するため、亀寿は驚くべき行動に出る。自身の姉である新城の孫(すなわち義久の曽孫にあたる、島津忠清の娘)を、夫・忠恒の側室として推挙したのである 15 。そして、この側室が産んだ男子が、後の薩摩藩二代藩主となる島津光久であった。亀寿はこの光久を自身の養子として迎え入れた 2

この一連の動きは、亀寿の強い意志と戦略的な思考を示すものと言える。夫・忠恒との関係が冷え切っていたにもかかわらず、彼女は島津本宗家の家督に義久の血筋を残すという明確な目的意識を持ち、それを実現させた。これは、亀寿が単に運命に翻弄されるだけの受動的な存在ではなく、自らの立場と島津家の将来を深く憂慮し、主体的に行動した証左である。結果として、島津義弘の子である忠恒の系統に、再び義久の血が注入される形となり、島津家内の血統的なバランスにも配慮した、巧みな政治的判断であったと評価できるだろう。

忠恒が亀寿の死に際して詠んだとされる和歌は、表面的には冷淡な内容であるが、長年連れ添った正室の死に対する何らかの複雑な感慨が、屈折した形で表現された可能性も皆無ではない。しかしながら、他の多くの不仲を示す状況証拠と合わせて考えれば、額面通り、最後まで亀寿に対する忠恒の情愛は薄かったと解釈するのが自然であろう。

4. 晩年の亀寿

4.1 国分城への移住とその経緯

慶長16年(1611年)、父である島津義久が79歳でその生涯を閉じると、亀寿の立場は大きく変化する。夫・忠恒(家久)は、義父の死を待っていたかのように、亀寿を鹿児島城から国分城へと移住させた 7 。これは事実上の追放であり、亀寿は正室の座を追われた形となったと一般に解されている 7 。国分城は、義久が慶長9年(1604年)に築城し、晩年を過ごした隠居城であり、亀寿にとっては父の思い出が残る場所であった 7

この国分への移住の背景には、より複雑な政治的経緯があったとする説も存在する。慶長15年(1610年)、忠恒は徳川家康に対し、亀寿との間に子が望めないことなどを理由に、徳川家からの養子迎え入れを願い出た。この動きと連動し、家康から「亀寿には国分に滞留してもらい、家久(忠恒)は側室を置いたらどうか」という内命が下されたというのである 12 。この内命は、忠恒側近の伊勢貞昌が家康側近の本多正信と事前に調整し、さらには島津義弘の内意も受けた上で画策されたものであったとされ、亀寿の国分移住は、忠恒の個人的な感情だけでなく、徳川幕府の意向や島津家内部の力学が複雑に絡み合った結果であった可能性が示唆される 12

4.2 国分での生活と所領

国分城へ移った亀寿は、そこで晩年を過ごすことになった。彼女は「国分様」あるいは「国分御上様」などと呼ばれ、地域の人々からは一定の敬意をもって遇されていたようである 2

経済的にも、亀寿は決して困窮していたわけではなかった。慶長4年(1599年)には叔父にあたる島津義弘から薩摩国日置郡内で5千石を、翌慶長5年(1600年)には父・義久から大隅国大禰寝村(現在の鹿児島県肝属郡南大隅町根占)2739石余を与えられていた 2 。さらに、寛永元年(1624年)、亀寿が54歳の時には、彼女一代限りという条件で、無役(租税免除)の知行地として1万石もの広大な所領が改めて与えられている 2 。この事実は、亀寿が夫・忠恒との関係は冷え切っていたものの、島津家内において依然として一定の地位と敬意を払われていたことを示している。これは、彼女が義久の娘であるという出自や、次期当主となる島津光久の養母であったことなどが考慮された結果であると考えられる。

4.3 最期と法名「持明彭窓庵主興国寺殿」

寛永7年(1630年)10月5日、島津亀寿は国分城にてその波乱に満ちた生涯を閉じた 1 。享年60歳であった 6

彼女の法名は「持明彭窓庵主興国寺殿(じみょうほうそうあんしゅこうこくじでん)」と伝えられている 2 。この法名に含まれる「持明院(じみょういん)」という院号は、後に鹿児島で広く知られることになる「じめさあ」という愛称の直接的な由来となった。また、「興国寺殿」という部分は、彼女の菩提寺の一つが興国寺であった可能性を示唆している。

亀寿の国分移住は、夫・忠恒による「追放」という側面と、父・義久ゆかりの地での「隠棲」という側面の両方から捉えることができる。忠恒にとっては自らの権力基盤を固めるための一つの手段であったかもしれないが、亀寿にとっては、父の記憶が色濃く残る国分の地で、一定の敬意と経済的基盤を保持しながら、比較的穏やかな余生を送る形になったと言えるのかもしれない。

5. 「じめさあ」伝説と後世の亀寿像

5.1 「じめさあ」像の由来と現在に伝わる化粧行事

島津亀寿の名は、今日、鹿児島において「じめさあ」という愛称と共に広く知られている。これは、鹿児島市城山町の鹿児島市立美術館の敷地内の一角(西郷隆盛像の裏手)に安置されている石像に由来する 2

この石像は、昭和4年(1929年)、当時鹿児島市役所の敷地であった場所から偶然発見されたものとされている 2 。発見当初は苔むした大石であったが、苔を払うと女性の顔が現れたため、これが島津亀寿の像であると見なされるようになった。そして、亀寿の法名「持明院様」が鹿児島の方言で訛って「じめさあ」と呼ばれるようになったと伝えられている 2

以来、毎年亀寿の命日である10月5日(あるいはその前日)には、この「じめさあ」像に化粧を施す行事が恒例となっている 2 。この化粧は、鹿児島市役所の女性職員の手によって行われ、白粉や紅だけでなく、時にはその時々の流行を取り入れたメイクが施されることもあり、地元の風物詩として親しまれている 2

5.2 亀寿の容貌と人柄に関する諸説

「じめさあ」伝説と結びついて語られる亀寿の人物像には、いくつかの特徴的な点がある。最も広く知られているのは、「器量には優れなかった(不美人であった)が、その人柄は非常に優しく、多くの人々から慕われた」というものである 2 。この説は、素朴で決して美しいとは言えない「じめさあ」像の造形と結びつけられ、民衆の間に深く浸透している。

一方で、これとは対照的な伝承も存在する。鹿児島市吉野町にある鶴嶺神社では、亀寿は「非常に美しく賢い女性だった」と伝えられており、この神社に参拝すると亀寿にあやかって心身ともに美しくなれるという信仰もある 18

人柄については、夫・忠恒との夫婦仲は極めて悪かったものの、庶民からは尊敬されていたらしいという点では、比較的多くの伝承が一致している 7

これらの相反する容貌に関する伝承は、亀寿の実像が歴史の彼方にあって曖昧であること、そして時代や語り手によって、人々がそれぞれ異なる亀寿像を抱き、語り継いできたことを物語っている。「器量に優れなかったが心優しい」という物語の類型は、民衆にとって親しみやすく、共感を呼びやすいものであったため、広く受け入れられた可能性が考えられる。なお、亀寿の肖像画は存在したものの、西南戦争の際に鶴嶺神社の他の宝物と共に官軍に持ち去られ、行方不明になったとされており 18 、彼女の実際の容貌をめぐる謎を一層深める要因となっている。

5.3 桐野作人氏らによる研究と「じめさあ」伝説への考察

近年、歴史作家の桐野作人氏らによって、「じめさあ」伝説に対する学術的な検証が進められている。桐野氏は、「じめさあ」像が元々島津亀寿の像として造られたという一般的な説に対して、否定的な見解を示している 2

桐野氏の説によれば、この石像は、江戸時代に島津家の祈願所であった大乗院(現在の鹿児島市立清水中学校の場所にあったとされる)に存在した「白地蔵」と呼ばれる地蔵菩薩像であった可能性が高いという。大乗院では、この「白地蔵」に祈願のために白粉を塗るという習慣があったとされ、その姿は現在の「じめさあ」像に酷似していると指摘されている。そして、明治初期の廃仏毀釈によって大乗院が廃寺となった後、この「白地蔵」が何らかの経緯で現在の場所に移され、後に亀寿の像と結びつけられて「じめさあ」と呼ばれるようになったのではないか、と推測している 2 。大乗院の本尊であった千手観音は島津亀寿の寄進によるものと伝えられており 26 、この大乗院と亀寿とのゆかりが、「白地蔵」が亀寿の像と見なされるようになった一因ではないかと桐野氏は示唆している 2

「じめさあ=亀寿」「亀寿=不美人」という認識は、現在でも鹿児島市民の間に根強く残っているが、亀寿が不美人であったという明確な史料的根拠はなく、また「じめさあ」像が亀寿本人を模して造られたという直接的な史料も存在しないことが指摘されている 24 。近年の研究や、仙巌園で開催された亀寿生誕450年記念企画展「みんなのジメサア」などでは、「亀寿美人説」も紹介されるなど、亀寿の人物像に対する見直しが進みつつある 24

「じめさあ」伝説は、歴史上の人物が民衆の記憶の中でどのように変容し、受容されていくかを示す興味深い事例である。亀寿の法名「持明院」と石像が結びついた背景には、大乗院という共通の接点や、地元の人々の間に亀寿に対する何らかの親愛の情、あるいは同情のような感情が存在した可能性が考えられる。桐野氏の研究は、「じめさあ」伝説を史料に基づいて批判的に検証するものであり、歴史学的なアプローチの重要性を示している。しかし、それは伝説自体が持つ文化的な意味や、人々の亀寿に対する想いを完全に否定するものではなく、むしろ伝説が形成されるプロセスそのものを歴史研究の対象とすることができることを示している。

6. 墓所と慰霊の場

6.1 国分における終焉の地と関連寺社

島津亀寿は、寛永7年(1630年)に国分城でその生涯を閉じた 2 。彼女の法名は「持明彭窓庵主興国寺殿」であり 2 、このことから興国寺が彼女の菩提寺の一つであった可能性が考えられる。

現在の霧島市国分には、亀寿にゆかりのある寺社跡がいくつか存在する。その一つが遠寿寺跡である。遠寿寺は元々本成寺という名の寺であったが、亀寿が母・妙蓮(円信院殿)の菩提を弔うために元和元年(1615年)に再興し、遠寿寺と改名したと伝えられている 27 。現在は墓地のみが残っており、そこには妙蓮の供養塔がある 27 。この事実は、亀寿の信仰心や母への孝養の心を示すエピソードとして重要であり、政略結婚や夫との不和といった困難な状況の中にあっても、自身のルーツや信仰を大切にしていた一面を窺わせる。

また、国分には父・島津義久の墓所も複数存在しており(金剛寺跡、徳持庵跡など) 12 、亀寿が晩年を過ごしたこの地は、島津家にとって歴史的に重要な場所であったことがわかる。

6.2 福昌寺、鶴嶺神社など、亀寿にゆかりのある墓所・祭祀施設

亀寿の墓所の正確な所在地や形態については、いくつかの説があり、断定は難しい。国分で亡くなったことから、国分近辺に埋葬された可能性が高いと考えられるが、一方で、島津家代々の菩提寺である福昌寺(鹿児島市池之上町) 21 へ、初め興国寺に葬られた後に改葬されたという説も存在する 31

興味深いのは、福昌寺の墓地において、夫である島津忠恒(家久)とは墓が並んでいないという点である 17 。これは、生前の夫婦仲の険悪さが、死後の墓所の配置にまで影響を及ぼした可能性を示唆しており、二人の関係性を象徴するかのようである。福昌寺跡の墓地には、島津家歴代当主の墓が多く残されているが、亀寿自身の墓碑に関する明確な記録は、提供された資料からは確認が困難であった 32

一方、鹿児島市吉野町にある鶴嶺神社は、島津家歴代当主とその家族を祀るために明治2年(1869年)に創建された神社である 18 。亀寿もこの神社の祭神の一人として名を連ねており、「持明院様(じめさあ)」として知られている。鶴嶺神社の伝承では、亀寿は「美しく聡明であった姫君」とされており 18 、この神社に参拝すると心身ともに美しくなるとも言われている。

鶴嶺神社で亀寿が「美しく賢い姫君」として祀られているのは、「じめさあ」伝説における「不美人だが心優しい」というイメージとは対照的である。これは、祀られる場所や時代、あるいは語り継ぐ主体によって、亀寿の人物像が異なる形で形成され、伝えられてきたことを示唆している。神社における祭祀は、為政者側による公的な顕彰としての側面が強く、民衆的な伝説とは異なる亀寿像が意図的に、あるいは自然発生的に形成された可能性が考えられる。

7. おわりに

7.1 島津亀寿の生涯の総括と歴史的評価

島津亀寿の生涯を振り返ると、彼女が島津家の家督継承という極めて重大な局面において、その血筋の故に否応なく中心的な役割を担わされた女性であったことがわかる。父・義久に男子がいなかったという事実は、亀寿の運命を大きく左右し、彼女を政略の渦中へと投げ込んだ。

豊臣政権下での人質生活は、亀寿個人にとっては苦難の連続であったと想像されるが、結果として島津家の安泰に貢献し、また彼女自身にとっても中央の政治や文化に触れる貴重な経験となった。京都から薩摩へともたらされた情報は、島津氏が近世大名へと脱皮していく上で、無視できない影響を与えたであろう。

二度にわたる結婚、特に二番目の夫である島津忠恒(家久)との不和は、亀寿の私生活における大きな不幸であったと言わざるを得ない。しかし、そのような状況下にあっても、彼女は養子・島津光久を通じて父・義久の血脈を後世に繋ぐという、島津家の歴史において極めて大きな意味を持つ役割を果たした。この一点だけでも、亀寿の存在意義は計り知れない。

亀寿の生涯は、戦国時代から江戸時代初期という激動の転換期を生きた武家の女性が、いかに厳しい政治的・社会的な制約の中で自らの役割を果たし、時には主体的に行動し、影響力を行使しようとしたかを示す、貴重な一例と言えるだろう。彼女の行動や選択は、常に島津家という「家」の存続と繁栄という大きな枠組みの中でなされたものであり、その文脈の中で評価される必要がある。

7.2 現代に語り継がれる亀寿の姿

「じめさあ」の伝説は、史実とは異なる部分を含みつつも、島津亀寿という歴史上の人物が、時代を超えて地域の人々に記憶され、親しまれ続けていることの何よりの証左である。その素朴な石像に毎年化粧が施されるという行事は、亀寿に対する民衆の温かい眼差しと、彼女の物語が持つ普遍的な魅力を示している。

桐野作人氏らによる近年の研究は、この「じめさあ」伝説に新たな光を当て、史料に基づいた亀寿の実像に迫ろうとする試みである。これらの研究によって、亀寿の多面的な人物像が徐々に明らかになりつつあり、単なる悲劇のヒロインや、不美人だが心優しいといった紋切り型のイメージを超えた、より複雑で人間味あふれる姿が浮かび上がってくることが期待される。

「じめさあ」伝説の形成と持続は、民衆が歴史上の人物をどのように記憶し、意味づけるかという文化的なプロセスそのものを示している。史実の正確性とは別に、伝説が持つ社会的・心理的な機能、例えば困難な状況にあっても優しさを失わなかったとされる人物への共感や、地域共同体のアイデンティティ形成への寄与などを考察することは、歴史理解を深める上で有益である。

島津亀寿の生涯は、歴史の中に埋もれがちな女性の視点から戦国時代を再考する上で、多くの示唆を与えてくれる。彼女に関する研究は、まだ発展途上であり、新たな史料の発見や解釈によって、その人物像がさらに豊かに描き出される可能性を秘めている。特に、亀寿自身の内面や主体的な意思決定に関する直接的な史料が乏しい中で、残された記録の断片からその姿を丹念に再構築していく作業は、歴史研究の醍醐味の一つと言えるだろう。島津亀寿という一人の女性の生き様を通して、私たちは戦国という時代の奥深さ、そしてそこに生きた人々の息遣いを、より鮮明に感じ取ることができるのである。

引用文献

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