本報告書は、日本の戦国時代から江戸時代初期にかけて生きた女性、嶺松院(れいしょういん)の生涯とその歴史的意義について、現存する史料に基づき詳細に考証するものである。戦国乱世にあっては、女性、特に武家の姫は、家の存続や同盟関係の強化のための政略結婚の道具として扱われることが常であった。嶺松院もまた、その運命に翻弄されながらも、独自の足跡を残した人物である。
嶺松院という院号を持つ人物は複数存在するが(例:島津家の嶺松院 1 、鳥取県の曹洞宗光圓山嶺松院 2 )、本報告書で対象とするのは、「海道一の弓取り」と称された駿河の大名、今川義元の娘である嶺松院である。彼女の波乱に満ちた生涯を辿ることで、戦国時代の女性の生き様の一端を明らかにするとともに、歴史の大きな流れの中で彼女が果たした役割を考察する。
嶺松院は、天文10年(1541年)頃に生まれたと推定される 3 。父は駿河、遠江、三河を領し、「海道一の弓取り」とまで謳われた戦国大名・今川義元である 5 。母は、甲斐の武田信虎の娘であり、武田信玄の姉にあたる定恵院(じょうけいいん)である 3 。この出自は、嶺松院が今川家と武田家という二つの有力大名の血を引く、極めて重要な立場にあったことを示している。兄には、後に今川家の家督を継ぐ今川氏真がいた 3 。
嶺松院が生まれた頃の今川氏は、義元の卓越した政治・軍事手腕のもと、その勢力を最大限に拡大し、東海地方に覇を唱えていた。そのような環境で育った彼女は、大名の姫として相応しい高度な教養を身につけていたと考えられるが、戦国時代の女性の常として、その幼少期に関する具体的な記録は乏しい。しかしながら、彼女の母が武田家出身であったという事実は、後の嶺松院の人生、特に最初の結婚相手が武田信玄の嫡男・義信であったことに繋がる、重要な伏線であったと言える。血縁を重視する当時の武家社会において、彼女の血筋は、それ自体が戦略的な価値を持つものであった。
嶺松院の実名は、史料上では確認されておらず、不明とされている 3 。一方で、後世の文学作品、例えば集英社みらい文庫の「戦国姫」シリーズなどにおいては、「春姫(はるひめ)」という名で描かれることがある 5 。
しかしながら、この「春姫」という呼称が、歴史的事実に基づくものか、あるいは後世の創作や通称であるかについては、慎重な検討が必要である。当時の高貴な女性は、実名(諱)を公にすることは少なく、多くの場合、御台所名や敬称、あるいは後に出家した際の院号などで呼ばれた。嶺松院もその例に漏れず、生前は「御台様」などと呼ばれ、死後に「嶺松院」という院号が定着したと考えるのが自然であろう。「春姫」という名が一次史料で確認できない以上、これはあくまで物語上の設定、あるいは民間伝承の類に由来する可能性が高いと推察される。
嶺松院の母であり、甲駿同盟の絆を象徴する存在であった定恵院が天文19年(1550年)6月2日に死去すると 3 、今川家と武田家の間では、同盟関係の維持・強化が喫緊の課題となった。その具体的な策として、嶺松院と武田信玄の嫡男・義信との婚姻が決定される。
天文21年(1552年)、嶺松院は武田義信のもとへ嫁いだ 4 。この結婚は、今川氏、武田氏、そして相模の北条氏の間で結ばれた甲相駿三国同盟を磐石なものにするための、極めて重要な政略結婚であった 3 。嶺松院の母は武田信玄の姉であり、義信の父である信玄から見れば嶺松院は姪にあたる。つまり、この結婚はいとこ同士の婚姻であり 4 、血縁関係を二重にすることで、同盟の結束をより強固なものにしようという意図が込められていた。戦国時代において、女性はしばしばこのように家の存続や勢力拡大のための「駒」として扱われ、嶺松院もまた、この三国間の勢力均衡を保つための「生きた証」としての役割を担うこととなったのである。
武田義信に嫁いだ嶺松院の甲斐での生活や、武田家における具体的な立場を示す詳細な史料は少ないものの、夫婦仲は円満であったと伝えられている 5 。 5 の記述は児童向け書籍の読者感想であり、史実としての確実性には留意が必要だが、少なくとも夫婦仲が険悪であったという積極的な記録も見当たらない。政略結婚であっても、夫婦として良好な関係を築くことはあり得たであろう。
しかし、駿河の華やかな文化の中で育った嶺松院にとって、質実剛健を旨とする甲斐の風土や武田家の家風は、少なからず戸惑いを感じさせるものであったかもしれない。異郷での生活には、言葉や習慣の違いなど、様々な苦労が伴ったであろうことは想像に難くない。それでも彼女は、武田家の嫡男の正室として、その立場を全うしようと努めたものと思われる。
順風満帆に見えた嶺松院の結婚生活は、突如として暗転する。永禄8年(1565年)、夫である武田義信が、父・信玄に対して謀反を企てたとして廃嫡され、甲府の東光寺に幽閉されるという「義信事件」が発生したのである 3 。事件の背景には、今川家との同盟を重視する義信と、尾張の織田信長との連携を模索し、今川領への侵攻をも視野に入れ始めたとされる信玄との間での、外交方針を巡る深刻な対立があったと言われている 7 。
この事件は、嶺松院の立場を極めて危ういものにした。夫が失脚し、謀反人の妻という境遇に立たされた彼女の精神的打撃は計り知れない。さらに追い打ちをかけるように、永禄10年(1567年)10月19日、義信は幽閉先の東光寺で死去した 3 。その死因は病死とされているが 7 、父・信玄による実質的な誅殺であったとする説も根強く、真相は定かではない。いずれにせよ、嶺松院にとっては、夫との突然の死別であり、その悲しみは深かったであろう。義信事件は、単なる武田家の内紛に留まらず、甲駿同盟の亀裂を決定的なものとし、嶺松院の運命を大きく揺るがすことになった。彼女は、かつての同盟相手でありながら、今や敵対する可能性を孕む今川家の出身者として、武田家における居場所を失いつつあった。
夫・義信の死後、嶺松院の武田家における立場は完全に失われた。永禄10年(1567年)11月には、嶺松院は駿河の今川家へ送り返されることとなった 7 。これは、兄である今川氏真からの強い要請に基づくものであったとも言われている 6 。この嶺松院の帰国は、武田・今川間の婚姻関係の公式な解消を意味し、長年にわたる甲駿同盟の完全な終焉を象徴する出来事であった 6 。そして、その翌年の永禄11年(1568年)、武田信玄は駿河への侵攻を開始するのである 6 。
嶺松院と武田義信の間には、娘が一人いたとされている 4 。この娘は園光院(えんこういん)と称され、母である嶺松院と共に駿河へ帰国したと伝えられている 4 。しかし、園光院のその後の消息については、史料が乏しく、詳しいことは分かっていない 10 。一説には、母と共に叔父である今川氏真夫妻のもとでしばらく行動を共にしたと言われるが 10 、その後の人生がどのようなものであったかは、歴史の闇に包まれている。これは、戦国時代の政争に敗れた側の女性や子供たちの記録が、いかに残りづらいかを示す一例と言えよう。今川家そのものが没落していく過程で、園光院のような立場の人物の記録が散逸したか、あるいは重要視されなかった可能性が考えられる。
実家である今川家に帰国した嶺松院は、その後出家し、「貞春尼(ていしゅんに)」と称するようになった 3 。夫との死別、そして実家の没落という相次ぐ不幸に見舞われた彼女にとって、出家は俗世との縁を断ち切り、新たな人生を歩むための一つの選択であったと考えられる。また、戦乱の世にあって、尼僧という立場は、ある程度の身の安全を保障する意味合いも持っていたであろう。今川氏が武田信玄や徳川家康によって領国を失った後は、兄・今川氏真やその妻・早川殿(北条氏康の娘)らと行動を共にし、苦難の時期を過ごしたと伝えられている 10 。
流転の日々を送っていた貞春尼であったが、その運命は再び大きく転換する。後に天下人となる徳川家康によって見出され、その嫡男である徳川秀忠(後の江戸幕府第二代将軍)の養育係として召し出されたのである。彼女は「御介錯上臈(ごかいしゃくじょうろう)」という、武家の嫡男の教育や身の回りの世話一切を取り仕切る女性家老とも言うべき重要な役職に就いた 3 。
11 の記述によれば、貞春尼は秀忠が誕生して以来、実に33年もの長きにわたり秀忠に奉公し、単なる世話役としてではなく、後見役として彼を支え、徳川家の奥向きにおいて極めて重要な役割を担ったとされている 11 。かつての敵対勢力であった今川家の姫、それも武田家に嫁ぎ、悲劇的な結末を迎えた女性が、徳川家の次期当主の養育という重責を任された背景には、彼女自身の高い教養や人格、そして今川家に対する家康の何らかの配慮や評価があったものと推察される。AERA dot.の記事が示唆するように、家康が今川家をある種頼りにしていた可能性も否定できない 3 。今川家で培われた文化的な素養や、武田家での経験、そしてその後の苦難を乗り越えてきた彼女の人間的な深みが、秀忠の人格形成に少なからぬ影響を与えた可能性は十分に考えられる。
貞春尼が徳川秀忠の養育係として重用されたことは、単に彼女個人の安泰をもたらしただけでなく、没落した今川家の存続にも極めて大きな意味を持った。彼女の徳川家における確固たる地位と、秀忠からの厚い信頼は、兄である今川氏真とその一族が徳川体制下で庇護を受ける上で、間接的ながら強力な後ろ盾となったのである 11 。
黒田基樹氏が指摘するように、貞春尼の存在によって徳川家と今川家は強固に結びつき、彼女こそが駿河没落後の今川家において最も活躍した人物であり、その後の今川家の存続をもたらした最大の功労者であったと言っても過言ではない 11 。大名としての今川家は滅亡したが、氏真の子孫は江戸幕府の高家として家名を保ち続けることができた。これは、貞春尼が徳川家の奥向きで築き上げた信頼と影響力なくしてはあり得なかったであろう。彼女は、武力や政略の表舞台ではなく、人間関係と誠実な奉公という「内」の力によって、一族の命脈を繋ぐという大きな成果を成し遂げたのである。これは、戦国から江戸初期にかけての女性が果たし得た、多様な歴史的役割の一つの輝かしい実例と言える。
徳川家において重きをなした貞春尼、すなわち嶺松院は、慶長17年(1612年)8月19日にその生涯を閉じた。推定年齢は71歳であった 3 。興味深いことに、彼女の死は、兄・今川氏真が江戸に移住してからわずか4ヶ月後のことであった。このことから、氏真の江戸移住は、妹である貞春尼の病状が悪化したとの報を受け、その最期を看取るためであった可能性も指摘されている 11 。
彼女の最期は、兄・氏真とその妻・早川殿をはじめ、嫡孫の今川範英(直房)、次男の品川高久(氏真の次男で品川家の養子)、そして娘婿にあたる吉良義定とその家族など、多くの近親者に見守られたと伝えられている 11 。戦国の動乱を生き抜き、数多の悲劇を経験した女性が、晩年には比較的穏やかな環境で、家族に囲まれて最期を迎えることができたのは、彼女が徳川家で築き上げた功績と信頼の賜物であったと言えよう。
嶺松院の法名は、「嶺寒院殿松誉貞春禅定尼(れいかんいんでんしょうよていしゅんぜんじょうに)」あるいは「嶺松院殿栄誉貞春大姉(れいしょういんでんえいよていしゅんだいし)」と伝えられている 11 。複数の法名が記録されているのは、伝承の過程で異同が生じた可能性を示すものであるが、一般的には「嶺松院」の院号で知られている。
嶺松院の菩提寺や墓所の特定については、いくつかの情報があるものの、断定するには至っていない。今川家ゆかりの寺院としては、東京都中野区上高田にある萬昌院(後に功運寺と合併し萬昌院功運寺となる)が挙げられる 12 。この萬昌院は、嶺松院の弟(今川義元の三男とされるが、史料によっては氏真の弟・長得が開基とある 12 )である今川長得が開基となり、兄の氏真も当初はこの寺に葬られた 12 。
11 の記述には、萬昌院の過去帳に嶺松院の法名「嶺松院殿栄誉貞春大姉」が記されているとあり、これは彼女の死亡記録として重要である。しかし、これが即座に萬昌院に彼女の墓所が存在することを示す直接的な証拠となるかについては、慎重な判断が求められる。萬昌院功運寺に関する 12 の解説では、嶺松院(貞春尼)の墓や過去帳の記録に関する具体的な言及は見られない。
一方で、今川氏真とその妻・早川殿の墓は、後に今川家の知行地であった武蔵国多摩郡井草村(現在の東京都杉並区今川)にある宝珠山観泉寺に移されている 15 。嶺松院の墓も同様に別の場所に移されたのか、あるいは萬昌院が1917年(大正6年)に火災に見舞われていることなどから 12 、記録や墓石が不明確になった可能性も考えられる。高名な人物であっても、特に女性の場合、墓所の特定が困難となる事例は少なくない。嶺松院の確実な墓所の特定については、今後の更なる史料調査が待たれるところである。
嶺松院の生涯を振り返ると、彼女はまさに戦国という時代の激流に翻弄された女性であったと言える。今川家の姫として生まれ、武田家へ政略結婚の道具として嫁ぎ、夫の非業の死と実家の没落という悲運を経験した。しかし、彼女はそのような逆境に屈することなく、後半生においては徳川家康・秀忠父子に仕え、特に秀忠の養育という大任を全うすることで、徳川政権の安定に貢献した。さらに、その働きは結果として、兄・氏真をはじめとする今川一族の保護と家名の存続に繋がり、今川家にとって「最大の功労者」と評されるほどの役割を果たした 11 。
彼女の功績は、戦場での華々しい武功とは異なるが、奥向きという「内」の世界で発揮された知性と誠実さ、そして人間関係構築能力によるものであり、戦国から江戸初期にかけての女性の多様な生き方と、歴史における影響力を示す貴重な事例である。困難な状況下にあっても、自身の置かれた立場で最善を尽くし、道を切り開いた嶺松院の生涯は、現代に生きる我々にも多くの示唆を与えてくれるであろう。
本報告書では、戦国時代から江戸時代初期を生きた女性、嶺松院の生涯を、現存する史料に基づいて概観した。彼女は、政略結婚の駒としての役割を強いられながらも、その後の人生で徳川家の重鎮として、また今川家の命脈を繋ぐキーパーソンとして、歴史に確かな足跡を残した。その生涯は、戦国乱世における女性の過酷な運命と、その中で発揮された強靭さ、そして時に歴史を動かすことさえある個人の影響力を物語っている。
本報告で明らかになった点は多いものの、嶺松院と武田義信の娘である園光院のその後の詳細な消息や、嶺松院自身の確実な墓所の特定など、未だ解明されていない課題も残されている。これらの点については、今後の更なる史料の発見と研究の進展が期待される。
年号(西暦) |
嶺松院の年齢(推定) |
出来事 |
関連人物 |
主要関連資料 |
天文10年頃 (1541) |
0歳 |
誕生 |
今川義元、定恵院 |
3 |
天文19年 (1550) |
10歳頃 |
母・定恵院死去 |
定恵院 |
3 |
天文21年 (1552) |
12歳頃 |
武田信玄の嫡男・義信と結婚、甲斐へ |
武田義信、武田信玄、今川義元 |
3 |
永禄3年 (1560) |
20歳頃 |
桶狭間の戦い、父・今川義元討死 |
今川義元 |
4 |
永禄8年 (1565) |
25歳頃 |
義信事件発生、夫・武田義信が廃嫡・幽閉 |
武田義信、武田信玄 |
3 |
永禄10年 (1567) |
27歳頃 |
10月、武田義信死去。11月、娘・園光院と共に駿河へ帰国、武田家と離縁 |
武田義信、今川氏真、園光院 |
3 |
時期不明 |
|
出家、「貞春尼」と称す |
|
3 |
天正7年頃 (1579) |
39歳頃 |
徳川秀忠誕生。その後、秀忠の御介錯上臈として徳川家に仕える |
徳川家康、徳川秀忠 |
3 |
慶長17年 (1612) |
71歳 |
8月19日、江戸にて死去 |
今川氏真、早川殿、徳川秀忠 |
3 |
人物名 |
嶺松院との続柄 |
簡単な説明 |
主要関連資料 |
今川義元 |
父 |
駿河の戦国大名。「海道一の弓取り」。桶狭間の戦いで織田信長に討たれる。 |
3 |
定恵院 |
母 |
武田信虎の娘、武田信玄の姉。 |
3 |
今川氏真 |
兄 |
今川家最後の当主。父の死後、領国を失うが、文化人として生き、徳川家康に庇護される。 |
3 |
武田信玄 |
舅(夫の父) |
甲斐の戦国大名。嶺松院の母・定恵院の弟。 |
3 |
武田義信 |
夫 |
武田信玄の嫡男。父と対立し廃嫡、後に死去。 |
3 |
園光院 |
娘 |
武田義信との間の娘。母と共に駿河へ帰国したが、その後の消息は不明な点が多い。 |
4 |
徳川家康 |
主君 |
江戸幕府初代将軍。嶺松院(貞春尼)を召し出し、秀忠の養育を任せる。 |
3 |
徳川秀忠 |
養育対象 |
江戸幕府第二代将軍。嶺松院(貞春尼)によって養育される。 |
3 |
早川殿 |
義姉(兄の妻) |
北条氏康の娘。今川氏真の正室。 |
10 |