戦国乱世は、武力による雌雄を決する時代であったと同時に、情報が戦略の帰趨を左右する時代でもあった。各大名は諜報活動に力を注ぎ、その担い手として忍びの者が暗躍したことは広く知られている。しかし、その影で女性が果たした役割については、男性中心の史料からは見えにくい「影の歴史」として、未だ多くが謎に包まれている。女性は、その性別故に警戒されにくく、男性では入り込めない奥向きの情報に接し得た可能性が考えられるが、具体的な活動を裏付ける確実な史料は乏しいのが現状である。
このような中で、戦国時代に活動したとされる女性の一人に「望月千代女(もちづきちよじょ、あるいは、ちよめ)」がいる。彼女は、甲斐の武田信玄に仕え、多くの「くノ一」(女忍者)を率いた頭領、あるいは「歩き巫女」を組織して諜報活動に従事させたと語り継がれる人物である 1 。その名は、戦国時代の女性としては異例なほどに知られているが、その実像は厚いヴェールに覆われ、史実としての確証は乏しく、学術的な議論の対象となっている。望月千代女という名は、ある種のシンボルとして、戦国時代の女性の諜報活動に関する人々の想像力をかき立て、様々な物語を生み出す源泉となってきた側面も否定できない。
本報告では、この望月千代女という人物に着目し、彼女に関する伝承、関連史料とされるもの、そして近年の研究成果を多角的に検討することで、その実像と虚像を可能な限り明らかにすることを目的とする。
望月千代女の伝説を理解する上で、まず彼女の出自と、夫とされる人物、そして武田信玄との関わりについての伝承を整理する必要がある。これらの要素は、彼女が「くノ一」あるいは諜報組織の指導者として語られる物語の根幹を成している。
望月氏は、信濃国(現在の長野県)の有力な国衆であり、古くは滋野氏の末裔と称される名族であったと伝えられている 3 。この望月氏の出自が、千代女を忍者と結びつける一つの要因となっている。特に、望月家の一族が、近江国甲賀の地で活動した甲賀流忍者の有力な家系である「甲賀五十三家」の筆頭であったという説が存在し、望月千代女自身もこの甲賀望月家の本家筋にあたる滋野家の出身であるという伝承がある 3 。この血縁関係が、彼女が忍術の素養を持ち、後に武田信玄のもとで諜報活動に関わる背景として語られることが多い。実際に、望月家と甲賀忍者の関係を指摘する記述は複数見られ 3 、千代女がその血筋を引いているという物語は、彼女を「くノ一」として描く上で重要な論理的支柱となっている。
望月千代女は、信濃国望月城(現在の長野県佐久市)の城主であった望月盛時(もちづきもりとき)の妻であったとされるのが一般的な伝承である 4 。この望月盛時は、武田信玄の家臣、あるいは信玄の甥であったとも言われ 6 、永禄四年(1561年)に勃発した第四次川中島の戦いにおいて、上杉軍との激戦の末に討死したと伝えられている 5 。
夫である盛時の戦死は、千代女のその後の運命を大きく左右し、武田信玄に仕える直接的な契機となったと物語られることが多い。しかし、この望月盛時という人物については、その実在を含め詳細が不明な点が多く、第四次川中島の戦いで討死したのは望月盛時ではなく、同族の望月信頼(もちづきのぶより)であるとする説や、その信頼も同合戦では死なず後に病死したとする説も提示されている 8 。このように、夫・望月盛時の人物像や死の状況が曖昧であることは、逆に千代女の物語を自由に構築する上で好都合であった可能性も考えられる。史料の空白部分が、伝説や創作の想像力を刺激し、英雄譚や悲劇のヒロインに典型的な「名家の出身」「悲劇的な夫との死別」といった要素を彼女の物語に付与することを容易にしたのかもしれない。
夫・盛時との死別後、望月千代女は武田信玄に見出され、「甲斐信濃二国巫女頭領(かいしなのにこくみこがしら)」という特異な役職に任命されたという伝承が、彼女の物語の中核を成している 1 。この任命は、第四次川中島の戦いの後、すなわち永禄四年(1561年)以降のこととされ、信玄は千代女に対し、信濃国小県郡祢津村(ねつむら、現在の長野県東御市祢津)を拠点として「歩き巫女」と呼ばれる女性たちを育成し、全国各地に派遣して諜報活動に従事させるよう命じたとされている 1 。
この異例とも言える抜擢の背景には、前述した千代女の出自、すなわち甲賀忍者との繋がりが影響したのではないかとも示唆されている 3 。信玄が、彼女の血筋や潜在的な能力を見込んで、このような重要な任務を託したというのである。この「巫女頭領任命」の逸話は、望月千代女を単なる戦死した武将の未亡人ではなく、戦国大名の諜報戦略の一翼を担う能動的な存在として描き出す上で、決定的な役割を果たしている。
望月千代女伝説において、彼女が率いたとされる「歩き巫女」集団は、その諜報活動の具体的な実行部隊として極めて重要な位置を占める。ここでは、歩き巫女の拠点とされた信濃国祢津村の伝承や、彼女たちの組織、訓練、活動内容に関する言い伝え、そして近年の研究成果について詳述する。
長野県東御市祢津地区は、古くから「歩き巫女ノノウの里」として知られ、多くの歩き巫女たちが居住していたと伝えられている 11 。この「ノノウ」とは、この地方における巫女の特有の呼称であり、神降ろしや口寄せ、祈祷などを行うシャーマン的な存在であったとされる 7 。望月千代女は、この祢津村に武田信玄の命により「甲斐信濃巫女道」と名付けた修練道場を設立し、全国から集めた少女たちに歩き巫女としての訓練を施したという伝承が広く知られている 3 。祢津が「日本一の巫女の村」と称されたという言い伝えも、この地が千代女の活動拠点とされる根拠の一つとなっている 12 。
伝承によれば、望月千代女が育成した歩き巫女たちは、高度に組織化され、専門的な訓練を受けた諜報集団であったとされる。彼女たちは、戦乱によって身寄りを失った孤児や捨て子、迷い子などの中から、特に容姿が美しく、利発で機転の利く少女たちが選ばれたという 1 。道場では、基本的な巫女としての技能、すなわち神降ろし、口寄せ、占い、祓い、禊ぎ、病気の治療、呪術、祈祷などに加え、諜報員として必要な情報収集や情報操作の技術、さらには読み書き算盤といった基礎的な教養も徹底的に教え込まれたとされる 1 。
訓練を終えた歩き巫女たちは、二人から三人、あるいは単独で全国各地へ派遣され、表向きは巫女として人々の悩みを聞き、吉凶を占い、様々な神事を行う一方で、裏では各国の情勢や敵方の動向を探り、得られた情報を武田信玄のもとへ報告する任務を担っていたと伝えられている 1 。彼女たちは、「神事舞太夫(しんじまいだゆう)」と呼ばれる男性の統率者を中心に数人のグループを組んで活動することもあったという 3 。巫女という立場は、当時の社会において比較的自由な移動が許され、また人々の内情に深く関わる機会も多かったため、諜報活動を行う上で有利であったと考えられている。
こうした伝承に対し、より実証的なアプローチから歩き巫女の実態に迫ろうとしたのが、地元の歴史研究家である石川好一氏である。石川氏は、長年にわたり祢津の歩き巫女「ノノウ」に関する調査・研究を行い、その成果を発表している 12 。
石川氏の研究の重要な基盤となったのが、祢津の巫女の家系であった篠原家に残されていた古文書類(篠原家文書)の発見である 12 。これらの文書には、歩き巫女たちが所持していたとされる人相書きのようなものや、彼女たちの活動に関わる記録が含まれており、何らかの情報伝達や特定の人物の探索に関与していた可能性を示唆している 12 。
石川氏は、望月千代女が忍者であったとする直接的な資料の信憑性については慎重な立場を取りつつも 8 、これらの篠原家文書の存在から、歩き巫女たちが単なる宗教者にとどまらず、ある種の情報活動に関わっていた可能性を指摘している。石川氏によれば、祢津の歩き巫女たちは、神事舞太夫に率いられて全国を巡回し、人々の悩みを聞き、占い、癒しを与える存在であった。また、神事舞太夫は江戸の浅草寺にいた寺社奉行配下の宗教的権威者「田村」の指揮下にあり、そのおかげで全国の関所を自由に通行できたという 12 。
巫女になるための条件として「美人」であることが挙げられ、6歳から10歳くらいの少女たちが、親の承諾(口減らしの側面もあった)と村役人の発行する証書のもとで神事舞太夫に託されたこと、そして肉食禁止や冬の水行といった厳しい修行が存在したことなども、石川氏は具体的な資料や聞き取りに基づいて明らかにしている 12 。
石川氏の研究は、望月千代女伝説における「くノ一」としての側面を直接的に肯定するものではない。しかし、戦国時代から江戸時代にかけて、女性たちが広範な地域を移動し、多様な階層の人々と接触する独自のネットワークを持っていた可能性を示唆しており、たとえ専門的な諜報員でなくとも、彼女たちが見聞した情報が特定の勢力にとって価値を持ち、間接的に情報伝達の担い手となり得た土壌が存在したことを示している。また、孤児の引き取りや厳しい修行、経済的な豊かさの裏にあった地元での疎外感といった歩き巫女の生活実態に関する記述は 12 、当時の社会における女性の立場や、特殊な技能を持つ集団のあり方について貴重な示唆を与えている。
望月千代女が「くノ一」であり、武田信玄の諜報網の中核を担ったとする説は、今日広く知られている。しかし、この説はどのようにして形成され、学術的にはどのように評価されているのであろうか。本章では、「くノ一」説の源流を辿り、それに対する学術的な懐疑と反論を詳細に検討する。
望月千代女という名が歴史に関心を持つ人々の間で知られるようになった最初のきっかけは、民俗学者の中山太郎が昭和五年(1930年)に著した『日本巫女史』であるとされる 4 。この著作の中で中山は、「千代女房(ちよにょうぼう)」という名の巫女に言及し、彼女が永禄十二年(1569年)に武田信玄から甲斐・信濃両国の「神子頭(みこがしら)」に任じられたとする朱印状(免許状)の文面を掲載した 4 。
この「千代女房」は、川中島の戦いで戦死したとされる望月盛時(印月斎とも)の後室であり、夫の死後、旧縁を頼って信濃国小県郡祢津村に移住し、その結果、祢津村は江戸時代を通じて巫女村として栄えることになった、と中山は記している 4 。中山のこの記述は、後の望月千代女伝説の出発点と位置づけられるが、重要なのは、中山の著作自体には「千代女房」を「女忍者」や「忍び」とする記述は一切見られない点である 8 。
望月千代女を「くノ一」とする説が初めて明確に提示されたのは、時代考証家であった稲垣史生が昭和四十六年(1971年)に刊行した『考証日本史』においてである 4 。稲垣は、中山太郎の『日本巫女史』を種本としつつも、独自の解釈を加えた。すなわち、「仮にも武将の妻であった者が、巫女のような当時の社会では比較的低い身分とされた者たちと直接関わることは考えにくい」という推論を根拠として、祢津村の巫女たちは実は「くノ一」であり、武田家のために全国各地で情報収集活動に従事していたのではないか、という仮説を提唱したのである 4 。
稲垣は同書の「武田信玄と巫女村」と題された章で、(1)第四次川中島の合戦における局地戦の様子を詳細に述べ、(2)その戦いで望月千代女の夫とされる望月盛時が討死にし、(3)盛時の死後、武田信玄が千代女に朱印状(免許状)を与え、それが祢津の巫女村が生まれる機縁となり、(4)その巫女たちが諜報活動を行い、(5)望月千代女自身も影で忍者として活動した、と主張した 4 。稲垣史生こそが、今日流布する「望月千代女=くノ一」説の創始者と言える。しかし、その論拠は史料的裏付けよりも、状況証拠や個人的な推測に重きを置いたものであったことが、後の研究者による批判の対象となる。
稲垣史生によって提唱された望月千代女「くノ一」説が、より広範な読者層に浸透する上で大きな役割を果たしたのが、武術史研究家であった名和弓雄である。名和は、平成三年(1991年)に刊行された『歴史読本 臨時増刊号 決定版「忍者」のすべて』に、「望月千代女の伝記」と称する二頁の記事を寄稿した 4 。この記事は、稲垣の説を基盤としつつ、さらに大衆向けに脚色を加えたものであったと考えられている。
特筆すべきは、名和がこの記事の中で、望月千代女を「上忍(じょうにん)」であったと記述した点である。しかし、近年の忍者研究においては、伊賀や甲賀の忍びの間に「上忍・中忍・下忍」といった明確な階層区分が存在したという説は学術的に否定されており、これは後世の創作や誤解に基づくものとされている 4 。名和による「上忍」という表現は、望月千代女伝説にさらなるフィクションの要素を加え、その信憑性を低下させる一因となった。
中山太郎に始まり、稲垣史生、名和弓雄らによって形成・拡散された望月千代女「くノ一」説に対し、1990年代後半以降、歴史学や忍者研究の専門家から厳しい学術的検証の目が向けられるようになった。
望月千代女「くノ一」説に対する最も包括的かつ詳細な学術的批判を展開したのが、三重大学人文学部准教授(当時)であった吉丸雄哉氏である。吉丸氏は、平成二十九年(2017年)に刊行された書籍『忍者の誕生』(吉丸雄哉・山田雄司編、勉誠出版)に収録された論文「望月千代女伝の虚妄」などにおいて、稲垣史生が提唱した説を「妄説」であると断じ、その内容の大部分が史料的根拠を欠いた憶測によって構成されていると厳しく批判した 4 。
吉丸氏は、稲垣の『考証日本史』における主張に対し、具体的に以下の反論を行っている 4 。
吉丸氏のこれらの指摘は、歴史学における実証主義の重要性と、安易な通説に対する健全な懐疑精神の必要性を示すものである。
望月千代女「くノ一」説の核心的な根拠の一つとされる武田信玄の朱印状(免許状)についても、その信憑性には大きな疑問符が付けられている。前述の通り、中山太郎が『日本巫女史』に掲載したとされるこの免許状は、現物の所在が確認されておらず、信頼できる写しも伝わっていない 4 。歴史研究において、このような実物未確認の文書を史料として扱うことには極めて慎重な態度が求められる。
一般的に、戦国時代から江戸時代初期にかけて作成されたとされるこの種の免許状や系図類には偽物が多く、その史料的価値を認めるには厳密な再検討が必要であるとされている 4 。民俗学者の福田晃氏も、信玄の免許状や千代女に関する伝承の信憑性については、早くから疑念を示していた 4 。この「信玄の免許状」の不在は、伝説の核心部分における物証の欠如を意味し、これが伝説全体の信憑性を大きく揺るがす最大の要因の一つとなっている。
学術的な観点からは、前近代の日本において、男性忍者と同様の諜報活動や破壊工作を専門的に行う「女忍者(くノ一)」が組織的に存在したかについては、依然として疑問視されているのが現状である 17 。女性を指す隠語としての「くノ一」という言葉自体は、17世紀後半頃から見られるようになるが、例えば代表的な忍術伝書である『万川集海(まんせんしゅうかい)』巻八の「くノ一の術」では、情報収集や潜入の手助けとして女性を利用する術策として記述されており、必ずしも女性自身が主体的な忍者として活動することを示すものではない 17 。
黒装束に身を包み、手裏剣を投げるような女忍者のイメージは、主に江戸時代以降の文芸作品や、戦後の小説、漫画、映画などを通じて形成されたものであるとの指摘もある 17 。
ただし、女性が全く忍術と無縁であったかと言えば、そう断言することも難しい。例えば、武田氏旧臣の家に伝来し、後に松代藩(真田氏)に伝わったとされる忍術流派(江戸時代には甲陽流とも呼ばれる)の伝書の中には、「聖女(しょうじょ、あるいは、ひじりめ)」という女性の伝承者の名前が記されていることが確認されている 8 。これは、女性でありながら忍術を会得し、それを伝えた人物が存在した可能性を示唆する珍しい事例である。しかし、この「聖女」が具体的にどのような活動をしていたのか、またこれが望月千代女と直接関連するものであるかについては、現在のところ不明である。
このように、望月千代女の「くノ一」伝説は、20世紀後半における歴史研究と大衆向け出版物の相互作用の中で段階的に形成された「現代の神話」に近い側面を持つと言える。中山太郎による巫女「千代女房」の紹介から始まり、稲垣史生による「くノ一」への飛躍、そして名和弓雄による大衆化という過程を経て、当初の学術的文脈から離れ、より魅力的で分かりやすい「女忍者頭領」のイメージが定着していったと考えられる。
研究者名 |
主な著作/記事 |
提唱した主な説・内容 |
説の根拠・特徴 |
学術的評価・反論(吉丸氏などによる) |
中山太郎 |
『日本巫女史』(1930年) |
信濃の巫女「千代女房」が武田信玄から甲斐信濃神子頭に任じられた朱印状を持つ。望月盛時の後室で祢津村に移住し、同村が巫女村として栄えた。 |
朱印状(とされるもの)の掲載。ただし「忍者」の記述はない。 |
朱印状の現物は所在不明。吉丸氏は、中山の著作自体は憶測ではないが、稲垣がこれを忍者説に飛躍させたと指摘 8 。 |
稲垣史生 |
『考証日本史』(1971年) |
望月千代女は「くノ一」であり、祢津村の巫女たちは武田家のために諜報活動を行った。千代女も忍者として活動。 |
中山の記述を基に、「武将の妻が巫女は不自然」との推論から「くノ一」説を提唱。第四次川中島の詳細、盛時の死、朱印状、巫女の諜報活動などを記述。 |
吉丸氏により「妄説」と批判。史料的裏付けの欠如、事実誤認(盛時の死など)、大部分が憶測であると指摘 4 。 |
名和弓雄 |
『歴史読本臨時増刊「忍者」のすべて』(1991年)記事 |
望月千代女の伝記を紹介し、稲垣説を普及。千代女を「上忍」と記述。 |
稲垣説を基に大衆向けに記述。 |
吉丸氏により、稲垣説を広めたものと指摘。そもそも「上忍・中忍・下忍」という階層区分は学術的に存在しない 4 。 |
吉丸雄哉 |
『忍者の誕生』所収「望月千代女伝の虚妄」(2017年)など |
望月千代女の「くノ一」説は稲垣史生による創作であり、学術的根拠に乏しい「虚妄」であると論証。 |
稲垣説の論拠(史料解釈、事実関係)を詳細に検討し、矛盾点や史料的裏付けのなさを指摘。信玄の免許状の信憑性にも疑問を呈す。 |
望月千代女=くノ一説に対する最も有力な学術的批判として評価される。 |
石川好一 |
『信濃の歩き巫女 祢津の里ノノウの実像』など |
信濃国祢津村の歩き巫女「ノノウ」の実態研究。神事舞太夫に率いられ全国を巡回。篠原家文書(人相書きなど)から情報活動の可能性も示唆。 |
祢津の巫女の家(篠原家)に残された資料や聞き取り調査に基づく。 |
千代女が忍者だという資料には懐疑的。歩き巫女の宗教的・社会的位置づけを重視。千代女伝説とは別に、地域史研究として価値が高い 8 。 |
史実としての確証が乏しい一方で、望月千代女は小説、漫画、ゲームといった様々な創作物の世界で、魅力的なキャラクターとして頻繁に登場してきた。本章では、これらの創作物における望月千代女像の多様性と、それが大衆的なイメージ形成に与えた影響について考察する。
望月千代女は、歴史小説や時代小説はもとより、漫画、アニメ、そして『戦国無双』シリーズ、『Fate/Grand Order』、『信長の野望 出陣』といった人気ゲームに至るまで、多岐にわたるジャンルの創作物でその姿を見ることができる 2 。
これらの作品における彼女のキャラクター設定は、実に様々である。ある作品では武田信玄に忠誠を誓う勇猛果敢な女忍者として、またある作品では男を惑わす妖艶なくノ一として、あるいは悲劇的な運命に翻弄されるヒロインとして、さらには巫女としての神秘的な能力を持つ存在として描かれるなど、クリエイターの自由な発想によって多様な個性が付与されている 21 。
例えば、映画『武田くノ一忍法伝 千代女』では、望月千代女は甲賀出身の歩き巫女であり、夫を戦乱で失った悲しみを乗り越え、太平の世を願って武田信玄のために尽くす「くノ一」として描かれる。彼女は戦乱で生まれた孤児の少女たちを「くノ一」として育成し、その集団を統率するリーダーとして登場する 22 。一方、ゲーム『信長の野望 出陣』においては、【窺見の巫】望月千代女という名称で登場し、弓を扱う兵種で、味方を回復したり防御力を上昇させたりするサポート系の能力を持つSSRランクの武将として設定されている 24 。アニヲタWiki(仮)の記述によれば、史実において明確に存在が確認されている数少ない「くノ一」の一人として紹介されつつも、近年のゲーム作品への登場によって一般の認知度が向上していると指摘されている 21 。
このように、創作物における望月千代女は、史実の制約から解き放たれ、物語のテーマやジャンル、ターゲット層に応じて、その容姿、性格、能力、背景などが柔軟に設定される傾向にある。
多くの創作物に見られる望月千代女像は、前章で述べた稲垣史生や名和弓雄らによって広められた「くノ一の頭領・望月千代女」というイメージを基盤としつつ、さらに独自の脚色やフィクションの要素を大胆に加えていることが多い 21 。学術的な実在性の議論や史料的根拠の有無とは別に、エンターテイメントとしての魅力、すなわちミステリアスな女忍者、悲劇性を帯びたヒロイン、あるいは強く美しい戦う女性といった要素が優先される傾向が顕著である。
これらの創作物の影響力は決して小さくない。むしろ、学術的な研究成果よりもはるかに広範な人々にリーチし、特定の歴史的人物に対するイメージを形成・定着させる力を持つ。ゲームや漫画、映画といった大衆文化メディアを通じて、「望月千代女=くノ一」というイメージが繰り返し提示されることで、多くの人々にとってそれが一種の「事実」として認識されやすくなっているのである 25 。その結果、史実の不確かさとは裏腹に、非常に具体的で定型化されたキャラクター像が大衆の間に広く浸透している。
望月千代女がこれほどまでに創作物で頻繁に取り上げられる背景には、彼女の伝説が(史実としての裏付けはともかくとして)「戦う女性」「影の立役者」「悲劇性を秘めたミステリアスな存在」といった、現代のエンターテイメント作品で求められるキャラクター類型に合致する要素を内包しているからだと考えられる。史実が不確かであることは、逆にクリエイターにとって「空白を埋める」自由な創作の余地を提供し、魅力的な素材となっているのである。
本報告では、望月千代女という人物について、その出自、伝承、歩き巫女との関連、「くノ一」説の形成と学術的検証、そして創作物における描かれ方までを多角的に検討してきた。その結果、彼女の実像と虚像は複雑に絡み合い、一筋縄では解き明かせない様相を呈していることが明らかになった。
現時点での史料研究からは、望月千代女が武田信玄配下の「くノ一」の頭領として大規模な諜報活動を指揮したという具体的な証拠は見出されていない。いわゆる「くノ一・望月千代女」のイメージは、主に20世紀後半の著作物、特に稲垣史生や名和弓雄らの著作によって形成・増幅された虚像に近い側面が強いと結論づけられる 4 。その根拠とされた武田信玄の免許状も、現物の所在が不明であり、信憑性には大きな疑問が残る。
一方で、信濃国祢津村に「ノノウ」と呼ばれる歩き巫女たちが存在し、彼女たちが広範囲を移動し、多様な人々と接触するネットワークを持っていたことは、石川好一氏らの研究によって示唆されている。戦国時代において、女性が何らかの形で情報伝達に関与した可能性は完全に否定できるものではない。望月千代女伝説は、そうした歴史的背景の中で、具体的な個人の活動が見えにくい「影の歴史」の一端が、特定の人物の物語として集約され、語り継がれるようになったものかもしれない。
このような伝説が生まれ、広く受け入れられてきた背景には、忍者やくノ一といった存在に対する大衆の根強い好奇心や、戦国乱世のミステリアスな側面への憧憬、さらには「強く美しい女性像」への期待などが複合的に影響していると考えられる。史実の核が不明瞭であるほど、物語は人々の願望や時代の価値観を反映して、雪だるま式に虚像が肉付けされていく傾向がある。望月千代女の物語は、その典型例と言えるかもしれない。
望月千代女に関する研究や議論は、単に一人の歴史上の人物の実在性を問うというミクロな視点にとどまらず、よりマクロな問いを我々に投げかける。それは、歴史的事実がどのように認識され、伝承され、時には歪められていくのかという、歴史認識論そのものに関わる問題である。史料批判の重要性、通説への安易な盲信の危険性、そして歴史学と大衆文化との複雑な関係性を考える上で、望月千代女の事例は極めて示唆に富んでいる。
今後の課題としては、まず新たな関連史料の発見に期待が寄せられる。もし望月千代女や当時の歩き巫女の活動を具体的に示す一次史料が発見されれば、議論は新たな局面を迎えるであろう。それと同時に、既存史料の再解釈や、より広範な視点からの研究も求められる。「くノ一」や歩き巫女といった存在が、当時の社会構造の中で実際にどのような役割を担い、どのように認識されていたのかを、ジェンダー史や社会史の観点も取り入れながら明らかにしていく必要がある。
望月千代女という存在は、史実の人物というよりも、ある種の「文化的アイコン」としての性格を強く帯びるようになっている。多くの人々にとっての彼女は、学術的な議論の対象ではなく、物語やゲームのキャラクターとしてのイメージが支配的である。そのイメージは、必ずしも史実と一致しなくとも、特定の魅力(強さ、ミステリアスさ、悲劇性など)を体現するものとして受容されている。歴史学が「過去の事実を確定する」作業であると同時に、「過去がどのように語られてきたか(語られ方)を研究する」学問でもあることを、望月千代女をめぐる言説は改めて示していると言えよう。彼女の実像と虚像の狭間を丹念に探求することは、歴史と現代社会との関わり方を考える上でも、引き続き重要な意義を持つであろう。