生駒吉乃:その実像と虚像をめぐる歴史学的考察
序章:生駒吉乃とは何者か
生駒吉乃は、戦国時代の武将・織田信長の側室として、歴史の片隅にその名を留める女性です。信長の嫡男とされることもある織田信忠(これには異説が存在します
1
)、次男の織田信雄、そして娘の徳姫(松平信康室、これも生母については諸説あります
1
)の母と伝えられ、信長から格別の寵愛を受けたとされています
1
。しかしながら、彼女の生涯や人物像については、特に『武功夜話』という後世に成立した史料に記された記述の影響が大きく、この史料自体の史料的価値をめぐる学術的な議論も活発であるため、生駒吉乃に対する歴史的評価は一様ではありません
1
。
生駒吉乃の評価がこのように錯綜する背景には、彼女に関する同時代の信頼できる史料が極めて乏しいという根本的な問題が存在します。その結果、後世に成立し、物語性の強い『武功夜話』のような文献への依存度が高まらざるを得ませんでした。例えば、吉乃という名前自体が『武功夜話』に由来するものであり
1
、信長との出会いや寵愛の具体的なエピソードの多くも同書に依拠しています
2
。しかし、『武功夜話』については、その内容の信憑性や成立時期に関して多くの疑問が提出されており、偽書であるとの見解も有力です
1
。信頼性の低い史料に依拠することで、吉乃の人物像、特に信長との関係や子供たちの生母といった重要な点について不確かな情報が広まり、歴史的評価が複雑化しているのが現状です。これは、歴史上の人物、とりわけ記録の少ない女性の評価が、後世の記述によっていかに大きく左右されうるかという、歴史学における普遍的な課題を示唆していると言えるでしょう。
本報告は、現存する比較的信頼性の高い史料と、議論のある史料双方を慎重に比較検討することにより、生駒吉乃の出自、織田信長との関係、彼女の子供たちとされる信忠・信雄・徳姫の生母問題、吉乃の晩年と死、菩提寺である久昌寺の歴史と現状、そして吉乃像の形成に大きな影響を与えた『武功夜話』の記述内容とその史料的評価などを多角的に検証します。これにより、可能な限り史実に基づいた生駒吉乃の姿を浮き彫りにし、後世に形成されたイメージとの差異を明らかにすることを目的とします。
報告の構成として、まず吉乃の出自と彼女が属した生駒家について詳述し、次に織田信長との関係、子供たちの生母をめぐる諸説を検討します。続いて、吉乃の晩年と死、菩提寺である久昌寺と墓所について触れ、さらに『武功夜話』が吉乃像に与えた影響とその問題点を論じます。最後に、これらの分析を踏まえ、生駒吉乃の実像と虚像について総合的な結論を提示します。
1. 生駒吉乃の出自と生駒家
生駒吉乃の生涯を理解する上で、彼女が生まれた生駒家の背景を知ることは不可欠です。生駒氏は、戦国時代において尾張国北部に勢力を持った一族でした。
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生駒家の系譜と活動拠点
生駒氏は、尾張国丹羽郡小折村(現在の愛知県江南市大字小折周辺)を本拠地とした土豪でした 2。吉乃の父は、一般に生駒家宗(いこま いえむね)、通称を蔵人(くろうど)とすると伝えられています 1。家宗は、尾張国と美濃国の国境付近にあって、両国間の通商に深く関与していた人物とされています 1。
生駒氏の出自については、大和国生駒郷(現在の奈良県生駒市周辺)から尾張国小折に移り住み、小折城とも呼ばれる生駒屋敷を拠点として構えたという伝承があります
15
。家宗の父、すなわち吉乃の祖父にあたる生駒豊政(加賀守)は、織田信長の父・信秀の弟である織田信康(犬山城主)に仕えており、家宗自身も信康とその子である織田信清に仕えたと記録されています
15
。信清が後に信長と対立するのは永禄年間以降のことであり、家宗が活動していた時期には、生駒家は織田信秀・信長父子の家臣団に連なる、いわゆる陪臣(ばいしん)という立場であったと考えられます
15
。
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史料に見る生駒家の家業(武士か商人か、その両面性)
生駒家の生業については、史料によって異なる側面が強調されており、議論の的となっています。『武功夜話』やそれに影響を受けた一部の資料では、生駒家は馬借(陸上運送業)や、染物の原料となる灰、灯油などを商い、それによって財を成した商業的性格の強い土豪、あるいは「武家商人」として描かれています 1。これらの記述によれば、生駒屋敷は遠方からも多種多様な人々が集まる情報交換の拠点としての機能も有していたとされます 1。
これに対して、生駒家の現当主である生駒英夫氏は、この商人説を強く否定しています。生駒氏は、生駒家は商人ではなく、犬山城主・織田信康に仕えた旗本(主君直属の重要な家臣)であり、周辺の有力な豪族と婚姻関係を結ぶことで勢力を伸張させた武家であったと主張しています。馬借や商売に従事したという記録は、生駒家の古文書には一切存在しないとしています
1
。実際に、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いにおいて、吉乃の兄である生駒家長が織田信長を支援した功により、信長から尾張国内の自由通行権(関銭免除)を保証する書状を与えられたという記録も残っており、これは生駒家が武士として信長に貢献していたことを示唆しています
17
。
一方で、吉乃の父・家宗が「通商に従事していた」という記録
1
や、生駒氏が「灰と油を商う馬借で財を蓄え、勢力を持つようになった土豪である」との研究報告
14
も存在します。これらの情報は、生駒家が武士としての側面を持ちながらも、商業活動にも深く関与していた可能性を示唆しています。
戦国時代の土豪は、単一の属性で捉えることが難しい存在です。彼らは在地領主として武力を保持し、軍事的な役割を果たす一方で、経済活動にも積極的に関与し、それによって勢力を維持・拡大することが一般的でした。生駒家もまた、そのような多面的な性格を持つ土豪であった可能性が高いと考えられます。生駒家子孫による「武士」であることの強調は、江戸時代以降に確立された士農工商という身分制度の影響や、武家としての家格を重んじる意識が背景にあるのかもしれません。「武家商人」
2
という表現は、あるいは生駒氏の実態をより的確に捉えている可能性も考慮すべきでしょう。
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吉乃の誕生と成長、最初の結婚と離縁
生駒吉乃は、享禄元年(1528年)に生駒家宗の長女として誕生したと伝えられています 2。彼女の最初の夫は、土田弥平次(弥平治とも記される)という人物であったとされ、主に『前野家文書』(『武功夜話』の母体となったとされる文書群)にその記述が見られます 1。
しかし、弘治2年(1556年)、夫である弥平次は明智城(現在の岐阜県可児市にあった城)をめぐる合戦で戦死したとされています
1
。これにより吉乃は若くして夫を失い、実家である生駒屋敷へと戻ることになりました。この時、彼女はいわゆる後家(ごけ)の身となりました。
2. 織田信長との関係
実家に戻った生駒吉乃は、その後、尾張国で急速に勢力を拡大しつつあった織田信長と運命的な出会いを果たし、その側室となります。
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信長との出会いと側室になった経緯
多くの史料や伝承によれば、実家の生駒屋敷に身を寄せていた吉乃は、やがて織田信長に見初められ、その側室になったとされています 1。生駒家は前述の通り、商業活動を通じて広範な情報網を持つ拠点でもあったため、信長は若き頃、あるいは元服する以前から情報収集などの目的で生駒屋敷に出入りしていたという説があります 1。その中で、容姿が美しく、心優しいと伝えられる吉乃と出会ったと想像されています 18。
信長が吉乃に強く惹かれた理由については、いくつかの推測がなされています。吉乃の美貌は言うまでもなく、信長が幼少期に実母・土田御前からの愛情が薄かったとされることから、吉乃の持つ母性的な包容力や優しさに心惹かれたのではないかという説があります
4
。また、生駒家が持つ経済力や情報収集能力も、天下統一を目指す信長にとって大きな魅力であった可能性も指摘されています
1
。
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信長の寵愛と吉乃の立場(「準正室」説の検討)
生駒吉乃は、織田信長の数多い側室の中でも特に深い寵愛を受け、正室である濃姫(帰蝶)と同等に扱われた、あるいは「準正室」とも言うべき特別な立場にあったと、複数の資料で言及されています 2。
この背景には、信長の正室・濃姫との間に子供が生まれなかったという事情が大きく関わっていると考えられます
3
。戦国武将にとって、家督を継承する男子をもうけることは極めて重要な課題であり、その点で信長の子供たち、特に後継者候補となる男子を産んだ吉乃の存在は、織田家の中で非常に大きなものがあったと推測されます
19
。
「準正室」という表現は、吉乃が信長から受けた寵愛の深さや、織田家における実質的な影響力の大きさを示すものと言えるでしょう。しかし、これはあくまで法的な正室とは異なる立場であり、その地位は微妙なものであったと考えられます。信長の嫡男とされる信忠を産んだという事実(これについては後述の通り異説もあります)が、彼女の立場を実質的に高めていたことは想像に難くありませんが、「準」という言葉が示す通り、濃姫の正室としての公式な地位を脅かすものではなかったと理解すべきです。信長からの寵愛の度合いと、公式な身分上の地位とは、分けて考える必要があります。
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小牧山城への移住
永禄6年(1563年)、織田信長は美濃国攻略の拠点として小牧山城(現在の愛知県小牧市)を築城しました。この際、信長は吉乃のために「御台御殿(みだいごてん)」と呼ばれる館を城内に建てたと伝えられています 3。そして、信長は生駒屋敷にいる吉乃を小牧山城へ迎え入れようと使者を送りました。
しかし、吉乃の兄である生駒家長から、吉乃が病のため体調が悪く、移動することができないという旨の連絡が信長のもとに届きました。この時、信長は初めて吉乃の深刻な病状を知ったとされています
3
。知らせを受けた信長は、自ら馬を駆って生駒屋敷に赴き、吉乃を輿(こし)に乗せて小牧山城へと丁重に連れ帰ったと言われています。当時の身分制度からすれば、側室である吉乃が輿に乗ることは破格の待遇であり、この逸話は信長の吉乃に対する深い愛情と配慮を示すものとして語り継がれています
3
。
小牧山城に入った吉乃は、家臣たちの前で、信長の嫡男・信忠の生母として披露され、正式に側室としての地位を認められたとされています
3
。
3. 子供たち:信忠・信雄・徳姫の生母をめぐる諸説
生駒吉乃が織田信長の子供たちのうち、誰の生母であったかという点は、彼女の生涯を語る上で最も重要かつ複雑な問題の一つです。史料によって記述に差異があり、特に長男・信忠と長女・徳姫については議論があります。
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総論:吉乃が生母とされる子供たち
一般的に、生駒吉乃は織田信忠(通称:奇妙丸、後の織田家当主)、織田信雄(通称:茶筅丸、後に北畠家を継ぐ)、そして徳姫(後に松平信康の正室となる)の三人の子供たちの生母であると言われています 2。これらの子供たちは、信長の主要な後継者や、重要な同盟関係を築く上で大きな役割を果たしました。
しかしながら、全ての史料がこの説を支持しているわけではなく、特に信忠と徳姫の生母に関しては、生駒吉乃ではないとする異説も存在し、確定的とは言えません
1
。
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織田信忠の生母に関する史料と考察
織田信忠は、信長の長男として家督を継承し、本能寺の変で父と共に非業の死を遂げた人物です。その生母については、いくつかの説が存在します。
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『武功夜話』やそれに類する記録、例えば江南市のウェブサイトに掲載されている情報などでは、信忠の生母は吉乃であるとされています
4
。
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江戸時代中期に編纂された幕府の公式系図集である『寛政重修諸家譜』には、織田信忠の母は「生駒氏家宗が女」と明記されています
20
。また、「織田家譜」という系図も同様の記述をしています
20
。
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吉乃の菩提寺である久昌寺に伝わる『久昌寺縁起』(17世紀後半成立と推定)には、織田信長が生駒家宗の娘を娶り、信忠・信雄・徳姫の二男一女を産んだと明確に記されています
22
。この縁起は、生駒家自身が編纂に関与した可能性も指摘されており、生駒家側の伝承を反映していると考えられます。
-
岐阜県岐阜市にある崇福寺には、天正5年(1577年)6月付で織田信忠が発給したとされる書状が残されています。この書状の中で信忠は、崇福寺を「亡母久庵慶珠(きゅうあんけいしゅ/けいじゅ)」の位牌所として指定し、諸役を免除する旨を伝えています
24
。この「久庵慶珠」という法名が、生駒吉乃の法名とされる「久菴桂昌大禅定尼(きゅうあんけいしょうだいぜんじょうに)」
1
と酷似していることから、両者は同一人物であり、すなわち信忠の生母は生駒吉乃であるとする説が有力視されています
25
。
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『寛政重修諸家譜』などの記述に基づき、吉乃が最初の夫である土田弥平次と死別したのが弘治2年(1556年)9月以降であり、その後信長の側室となって弘治3年(1557年)に信忠を、さらに永禄元年(1558年)3月に信雄を産んだとすると、わずか1年半ほどの間に二人の子供を連続して出産することになり、年代的に無理があるのではないかという矛盾点が指摘されています
1
。
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一部の資料では、「崇福寺宛信忠書状」において実母は不明とされている、という解釈も過去にはありました
20
。しかし、これは「久庵慶珠」という法名が具体的に誰を指すのかが明確でなかった時期の解釈である可能性が高く、近年の研究では「久庵慶珠」を生母と解釈する傾向にあります
25
。
-
生駒家に関連する史料以外では、信忠の生母を生駒吉乃とする明確な同時代の記録は乏しいとされています
1
。
-
織田信長の信頼できる伝記とされる『信長公記』(太田牛一著)には、信忠の生母に関する直接的な記述は見当たらず、側室の子である信忠や信雄が、正室・濃姫の住む清洲城で養育されたという記録が残されています
26
。これは、濃姫が養母としての役割を果たした可能性を示唆していますが、生母が誰であったかを直接示すものではありません。
-
『勢州軍記』などの軍記物には、信長の正室である濃姫が信忠を養子にしたという説も記されています
20
。これは、生母が誰であれ、正室が嫡男の養育に関与したことを示すものかもしれません。
-
その他、坂氏の娘説
28
や、具体的な名前が不詳な他の側室説も存在しますが、これらは根拠となる史料が乏しく、有力とは言えません
29
。
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織田信雄の生母に関する史料と考察
織田信雄の生母については、比較的多くの史料が生駒氏の娘(吉乃、あるいは法名の久庵桂昌)であると記しており、信忠や徳姫に比べると異論は少ないようです 1。
江戸時代に成立した『勢州軍記』や生駒家の家譜である『生駒家譜』、そして『寛政重修諸家譜』などは、信雄の生母を生駒家宗の娘、久庵桂昌大禅定尼(俗名を「吉乃」あるいは「お類」とする)であり、信忠や徳姫とは同母兄弟姉妹にあたると記述しています
30
。また、『久昌寺縁起』も信雄の母を生駒家宗の娘としています
22
。
-
徳姫の生母に関する史料と考察
徳姫(五徳、岡崎殿とも呼ばれる)は、織田信長の長女として生まれ、徳川家康の嫡男・松平信康に嫁ぎましたが、後に信康事件に関わる悲劇の女性としても知られています。彼女の生母も、一般的には生駒吉乃(久菴桂昌)とされています 1。
しかしながら、『織田家雑録』という史料には、徳姫が織田信忠の姉であるという記述が見られます
32
。もしこの記述が事実であるならば、信忠と徳姫の生母が同じで、かつ信雄とは異なる可能性、あるいは子供たちの出生順に関する記録に混乱があることを示唆し、徳姫の生母が生駒氏であるという通説に対して矛盾が生じることになります。
子供たちの生母に関する情報がこのように錯綜している背景には、当時の記録のあり方、特に側室やその子供たちに関する記録が必ずしも網羅的・正確ではなかったという事情が考えられます。また、『久昌寺縁起』のような菩提寺によって編纂された記録や、『寛政重修諸家譜』のような後世に編纂された系図類は、それぞれの編纂意図や依拠した情報源によって内容が左右される可能性があります。例えば、特定の家系を顕彰する目的で、都合の良い情報が強調されたり、不確かな情報が採用されたりすることも考えられます。
「崇福寺宛信忠書状」に見られる「久庵慶珠」と、吉乃の法名とされる「久菴桂昌」の戒名の著しい類似性は、織田信忠の生母が生駒吉乃である可能性を強く示唆する重要な手がかりと言えます。しかしながら、前述した信忠・信雄の出生年の近さに関する矛盾点など、依然として解決すべき課題も残されています。これらの点を総合的に勘案すると、信雄の生母が吉乃であることは比較的確実性が高いものの、信忠と徳姫については、吉乃が生母である可能性は高いものの、断定するにはさらなる史料の発見や緻密な検証が待たれる状況と言えるでしょう。
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【表1】子供たちの生母に関する諸説比較
子供名
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生母:生駒吉乃説の主な根拠史料
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生母:その他の説と主な根拠史料
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主な論点・問題点
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織田信忠
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『武功夜話』
4
、久昌寺縁起
22
、『寛政重修諸家譜』
20
、「崇福寺宛信忠書状」(母「久庵慶珠」)
24
|
実母不明(「崇福寺宛信忠書状」の解釈による
20
)、濃姫養子説(『勢州軍記』
20
)、坂氏娘説
28
など
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吉乃を母とした場合の信忠・信雄の出生年の近さの矛盾
1
。『信長公記』に生母の直接的記述なし
26
。「久庵慶珠」と「久菴桂昌」の戒名の類似性。
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織田信雄
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『勢州軍記』、『生駒家譜』、『寛政重修諸家譜』
30
、久昌寺縁起
22
、その他多くの史料で一致
1
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特筆すべき異説は少ない
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比較的異論が少なく、生駒吉乃が生母である可能性が高い。
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徳姫
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久昌寺縁起
22
、その他多くの史料で吉乃を母とする
1
|
『織田家雑録』(信忠の姉とする記述があり、生母が吉乃であることに矛盾の可能性)
32
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『織田家雑録』の記述が事実であれば、信忠と同母で信雄とは異母、あるいは出生順に混乱がある可能性。
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4. 吉乃の晩年と死
生駒吉乃は、信長の寵愛を受け、子供たちにも恵まれましたが、その生涯は決して長いものではありませんでした。
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病と死因に関する記述
多くの伝承によれば、吉乃は三番目の子供とされる徳姫を出産した後、産後の肥立ちが悪く、体調を崩しがちになり、病床に伏せることが多くなったとされています 2。信長に余計な心配をかけまいと、自身の病状を隠していたため、信長は当初その深刻さに気づかなかったようです 2。
前述の通り、永禄6年(1563年)に小牧山城へ移った後も、吉乃の病状は回復することなく、これが直接的な死因となったと考えられています
3
。
-
没年と享年に関する諸説
吉乃の没年については、永禄9年(1566年)5月13日とする説が一般的であり、多くの資料で一致が見られます 1。
一方で、享年については諸説あります。一般的には39歳で亡くなったとされますが
1
、これは生年を享禄元年(1528年)とした場合に合致する年齢です
2
。しかし、信長よりも4歳年下であり、29歳で死去したという説も存在します
1
。信長は天文3年(1534年)生まれであるため、もし吉乃が4歳年下であれば天文7年(1538年)生まれとなり、永禄9年(1566年)に亡くなったとすれば、数え年で29歳となります。さらに、
47
では兄弟姉妹関係から推測して25、26歳あたりではないかという見解も示されていますが、その具体的な根拠は明らかにされていません。
このように享年に不一致が見られるのは、吉乃の正確な生年を確定できる信頼性の高い同時代史料が乏しいことに起因します。39歳説は『武功夜話』などの記述に依拠している可能性も考えられますが、生駒家の子孫は『武功夜話』の記述の多くを否定しているため、享年についても慎重な検討が求められます。いずれの説がより信頼性の高い史料に基づいているかを見極めることが重要です。
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信長の悲嘆と伝えられる逸話
吉乃が亡くなった際、冷酷非情とも評される信長が、その死を深く悲しんだという逸話が数多く伝えられています。ある伝承では、信長は人目もはばからずに三日三晩泣き続けたとも言われ 3、また、涙を流してその死を惜しんだともされています 18。これらの逸話は、生駒吉乃が「信長に最も愛された女性」として語り継がれる大きな理由の一つとなっています 3。
吉乃の菩提寺である久昌寺に伝わる『久昌寺縁起』にも、信長が常に亡き妻を哀れみ慕い、小牧山城の楼閣から(吉乃が荼毘に付された)西方を望んでは悲しみの涙を幾筋も流し、嘆き惜しむことが止まなかったという趣旨の記述が見られます
22
。
吉乃には、死後「久菴桂昌大禅定尼(きゅうあんけいしょうだいぜんじょうに)」という法名が贈られました
1
。この法名は、彼女の信仰心や生前の徳を偲んで付けられたものと考えられます。
5. 菩提寺久昌寺と吉乃の墓所
生駒吉乃の菩提を弔う寺院として、愛知県江南市に現存(現在は廃寺となり公園化)する久昌寺は、彼女の生涯を語る上で欠かせない場所です。
-
久昌寺の創建と生駒家との関わり(『久昌寺縁起』の記述を中心に)
久昌寺は、愛知県江南市田代町に位置した寺院で、その起源は古く、元は龍徳寺(りょうとくじ)と称し、さらにその前身は至徳元年(1384年)に禅喜寺として創建されたのが始まりであると伝えられています 19。生駒氏が本拠地である大和国から尾張国小折に移り住んできた際に、菩提寺としたとされています 19。
久昌寺に伝わる『久昌寺縁起』によれば、生駒吉乃(法名:久菴桂昌大禅定尼)が永禄9年(1566年)に亡くなった際、その法名にちなんで、寺号が龍徳寺から現在の「久昌寺」に改められたと記されています
19
。また、久昌寺の山号である「嫩桂山(どんけいざん)」は、吉乃と信長が愛を育んだとされる生駒屋敷にあった二株の「嫩の桂(わかきかつら)」の木が、久しく栄えたことに由来するという伝承もあります
4
。
『久昌寺縁起』は、17世紀後半に生駒家六代目当主である生駒利勝が編纂させたとされ、織田信長と生駒吉乃の関係に直接触れた唯一の文書とも言われています
17
。しかし、この縁起の史料的価値については慎重な検討が必要です。成立が江戸時代中期であり、吉乃の死から約100年が経過している点を考慮しなければなりません。寺社縁起というものは、その寺社の由来や霊験を語り、信仰や寄進を集める目的で編纂されることが多く、内容に誇張や創作が含まれる可能性が常に指摘されます
37
。特に、生駒家自身が編纂に関与していることから
17
、生駒氏の家格を高め、織田信長との特別な繋がりを強調する意図があった可能性も否定できません。信長の悲嘆といった情緒的な記述は、物語性を高めるための脚色である可能性も考慮に入れるべきでしょう。しかしながら、菩提寺の記録として、吉乃の法名、子供たちの名前、寺領の寄進といった具体的な情報については、一定程度の信頼性を持つと考えられる側面もあります。
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吉乃の墓と香華料
生駒吉乃の墓は、久昌寺の本堂西側にあった墓地にあり、生駒家歴代当主の墓と共に、江南市の文化財(史跡)に指定されています 1。
信長は、吉乃の死を悼み、その香華料(こうげりょう:香や花を供えるための費用)として660石という広大な寺領を久昌寺に与えたと伝えられています
1
。『久昌寺縁起』には、後に織田信雄が母である吉乃の遠忌(おんき:年忌法要)を追悼し、丹羽郡五明村(現在の愛知県丹羽郡扶桑町あたりか)の地660石を久昌寺の厨料(くりょう:寺の運営費用)に充てさせたと記されています
23
。この石高は、当時の寺院への寄進としては非常に大きなものであり、信長あるいは信雄の吉乃に対する深い情愛と、生駒家への配慮を示すものと考えられます。
-
近年の久昌寺:廃寺と公園化の経緯、墓所の現状
歴史ある久昌寺ですが、近年、大きな転機を迎えました。約60年前から専属の住職がおらず、檀家もごく少数に限られるなど、寺院の維持管理が極めて困難な状況にありました 19。その結果、令和3年(2021年)には宗教法人としての解散が決定され、令和5年(2023年)8月には法人登記記録も閉鎖されるに至りました 1。
寺院の伽藍(がらん:主要な建物群)は、令和4年(2022年)5月から解体工事が始まり、その跡地は江南市に売却されました。市は、この地を2023年度中に公園(久昌寺跡公園)として整備する計画を進めています
1
。
廃寺となった後も、生駒吉乃を含む生駒家歴代の墓所は現地に残されることになっています。また、旧境内に近接する場所に、久昌寺の旧本尊や吉乃らの位牌を安置するための小堂が新たに建てられる予定であると報じられています
1
。
久昌寺跡公園は既に一部開園しており、園内には複合遊具や藤棚、ベンチといった設備に加え、駐車場やトイレも整備されています
41
。公園内の案内板や説明碑、あるいは新設される小堂の具体的な様子や、生駒吉乃に関する展示の有無については、現時点での提供資料からは詳細を確認できませんでしたが、訪問者の記録によれば、生駒家石像群として歴代当主の墓が立ち並んでいる様子がうかがえます
44
。
-
その他のゆかりの地(龍神社、吉乃の方荼毘地など)
久昌寺以外にも、江南市内には生駒吉乃ゆかりの地が点在しています。
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龍神社(りゅうじんじゃ):
生駒家の氏神であったとされ、織田信長の次男・信雄の出生地であるという伝承や、吉乃が信長と密会した「吉乃御殿」がこの場所にあったという言い伝えも残っています
11
。
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吉乃の方荼毘地(きつねのほうだびち)(経塚):
生駒吉乃が小牧山城で亡くなった後、この場所で荼毘に付されたと伝えられています。現地には石碑が建てられており、傍らには女優の高木美保氏によって「吉乃桜」と命名された彼岸桜の木が植えられています
4
。
-
生駒屋敷跡(小折城跡):
生駒吉乃が生まれ育ち、最初の夫と死別した後に戻り、織田信長と出会ったとされる場所です。後に豊臣秀吉となる木下藤吉郎が、吉乃の口添えによって信長に仕えることになったという伝承も残されています
11
。
6. 史料批判:『武功夜話』と吉乃像の形成
生駒吉乃の人物像や生涯に関する情報の多くが、『武功夜話』という史料に依拠していることは既に述べた通りです。ここでは、この『武功夜話』が吉乃像の形成にどのような影響を与え、またその史料的価値がどのように評価されているのかを詳述します。
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『武功夜話』における吉乃像(名前「吉乃」、人物像、逸話)
『武功夜話』は、戦国時代から安土桃山時代にかけての尾張国の土豪であった前野家に伝来したとされる覚書などを集成した家譜の一種とされ、昭和34年(1959年)にその存在が確認され、昭和62年(1987年)に活字として出版されました 13。
この史料において、織田信長の側室は「吉乃」という名で登場します
1
。実際、現在一般的に知られている「生駒吉乃」という呼称の主要な典拠はこの『武功夜話』であり、他の比較的信頼性の高い史料では、通常「生駒家宗女(生駒家宗の娘)」といった形で記述されることが多いのです
1
。
『武功夜話』は、織田信長と吉乃の出会いを運命的なものとして描き、二人の間のロマンスや、吉乃の短いながらも波乱に満ちた生涯、そして信忠・信雄・徳姫といった子供たちの母としての姿などを、非常に情緒豊かに描写しています
4
。例えば、信長が吉乃の美しさだけでなくその母性的な優しさに惹かれたという記述や、生駒家の持つ経済力も信長にとって魅力であったという背景、そして吉乃が信長を陰で献身的に支えたといったエピソードなどが、この『武功夜話』を通じて広く知られるようになりました
4
。
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『武功夜話』の史料的価値に関する諸家の見解(肯定論と否定論)
『武功夜話』の史料としての価値については、その発見当初から学界内外で大きな議論が巻き起こっており、今日においても偽書であるとする説が有力です。 1。
批判的な見解を持つ研究者からは、具体的に以下のような問題点が指摘されています。まず、使用されている文体や語彙、表現方法に不自然な点が多く、戦国時代や安土桃山時代のものとしては時代的にそぐわない箇所が見られること。次に、記述されている年紀(年月日)に不正確な点が多く、官職名などの誤記も散見されること。そして何よりも、太田牛一の『信長公記』のような信頼性の高い良質な一次史料との間に、記述内容の矛盾点が多数存在することなどが挙げられています
6
。その内容の信憑性の低さから、「ボロボロの三文小説」とまで酷評されることもあります
6
。
さらに、史料研究の基本である原本の公開がなされておらず、専門家による十分な筆跡鑑定や料紙調査といった科学的な検証が行われていない点も、その史料的価値に大きな疑問符を投げかける要因となっています
5
。
一方で、一部の研究者や、特に歴史小説家、メディア関係者などの間では、『武功夜話』の記述を肯定的に評価し、歴史的事実を伝えるものとして積極的に受容する動きも見られました。NHKの大河ドラマをはじめとする歴史関連番組などで、その内容が採用されたことも、一般への認知度を高める一因となりました
6
。
『武功夜話』をめぐるこのような評価の対立は、歴史史料、特に物語性が高く、人々の興味や関心を強く惹きつけるような内容を持つ史料を取り扱う際の、史料批判の重要性を改めて浮き彫りにしています。魅力的な逸話が満載であるからといって、その成立背景や信憑性を十分に吟味することなく、安易に史実として受け入れることは極めて危険です。『武功夜話』が提供する情報は、他の確実性の高い史料との比較検討を抜きにして、歴史的事実として無批判に受容すべきではないでしょう。この史料が、歴史情報、特に記録の少ない人物に関する情報が、どのように受容され、時には誤った情報が定着してしまうかというプロセスを示す一つの事例と言えるかもしれません。歴史学における厳密な史料批判の重要性と、その成果を一般に正しく伝えていく啓発活動の必要性を示唆していると言えます。
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生駒家子孫による『武功夜話』批判と「吉乃」の名、「類」の名について
生駒家の第19代当主である生駒英夫氏は、この『武功夜話』について、史実を記したものではなく、あくまで小説として評価されるべきであると、一貫して強く主張しています 5。
英夫氏によれば、「吉乃」という名前は『武功夜話』の作者である吉田健一氏(あるいはその周辺の人物)による創作であり、生駒家にそのような名前の女性がいたという伝承はなく、当時そのように呼ばれていた事実もないとしています
1
。生駒家では、信長の側室となった女性は法名である「久菴(きゅうあん)」と呼んでいたと述べています
5
。
また、一部で吉乃の別名として伝えられる「類(るい)」という名前についても、同様に小説上の創作であり、生駒家に伝わる古文書などには一切そのような記載はないと明確に否定しています
1
。
さらに、生駒家が馬借や商人を生業としていたという『武功夜話』の記述についても、小説を面白くするための脚色であり、実際には生駒家は代々武家であったと強調しています
1
。
英夫氏は、『武功夜話』が史実として社会に流布することで、尾張地方の戦国史研究に混乱が生じ、何よりも生駒家の名誉が著しく毀損されていると訴えています
5
。
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【表2】生駒吉乃の呼称と情報源の比較
呼称
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主な情報源
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史料の信頼性・性格
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呼称の背景にある可能性
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生駒家宗女
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『信長公記』など、比較的信頼性の高い同時代に近い史料
1
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高い(客観的記述)
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実名が不明、あるいは記録上重要視されなかったため、父の名をもって「家宗の娘」と記された。当時の女性の記録としては一般的。
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吉乃(吉野)
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『武功夜話』
1
、及びそれに依拠する二次資料、伝承
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低い~中程度(物語性、創作の可能性が高い)
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『武功夜話』の作者による創作、あるいは何らかの伝承を元にした可能性。生駒家子孫は明確に否定
1
。現代的で美しい響きから一般に広く受け入れられた。
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類
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生駒家の伝承として一部で言及されるが、生駒家子孫は否定
1
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低い(根拠不明確、子孫が否定)
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『武功夜話』と同様に小説上の創作である可能性が高い。
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久菴桂昌大禅定尼
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久昌寺の記録(『久昌寺縁起』など)
1
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中程度~高い(菩提寺の記録、ただし縁起の成立は後世)
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死後に贈られた法名(戒名)。「久菴」は庵号、「桂昌」が戒名とされる。「大禅定尼」は高位の女性尼僧への尊称。生駒吉乃本人を指す最も確実性の高い呼称の一つ。
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久庵慶珠
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「崇福寺宛信忠書状」(天正5年)
24
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高い(信忠自筆の可能性もある一次史料)
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信忠が生母に対して用いた法名、あるいはそれに類する呼称。「久菴桂昌」と酷似しており、同一人物である可能性が極めて高い。表記の違いは、写し間違い、あるいは当時の音通によるものか。
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(その他)桂昌(尼)、久菴
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江戸初期~末期の生駒家文書、大正時代~戦前の生駒家での呼称
1
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中程度(家内での呼称)
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法名の一部を用いた略称、あるいは通称として家中で使用されていた可能性。
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7. 結論:生駒吉乃の実像と虚像
これまで見てきたように、生駒吉乃に関する情報は、史料の性質や成立時期によって大きく異なり、その実像と後世に形成された虚像とが複雑に絡み合っています。
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史料から見える吉乃の姿の再構築
比較的信頼性の高いと考えられる史料、例えば『久昌寺縁起』(ただし、その編纂意図と成立時期を考慮に入れる必要あり)、『崇福寺宛信忠書状』、そして『寛政重修諸家譜』(これも後世の編纂物である点に留意)などを総合的に検討すると、生駒吉乃の実像について以下の点が浮かび上がってきます。
彼女は尾張国小折の有力土豪である生駒家宗の娘として生まれました
1
。一度は土田弥平次なる人物に嫁ぎましたが、夫と死別し、実家に戻っていたところを織田信長に見出され、その側室となりました
1
。信長との間には、次男の織田信雄をもうけたことはほぼ確実視されています
1
。長男の信忠と長女の徳姫についても、吉乃が生母である可能性は高いものの、一部に異説も存在します(前掲【表1】参照)。
信長からは格別の寵愛を受け、病がちであった吉乃は、信長の配慮により小牧山城に迎え入れられました
3
。しかし、その生涯は短く、永禄9年(1566年)に若くして病死したとされています
1
。その亡骸は菩提寺である久昌寺に葬られ、信長(あるいは息子の信雄)によって手厚く弔われたことが伝えられています
19
。
これらの比較的確かな情報から、生駒吉乃は、織田家の中で、特に信長の子供たちを産んだ母として重要な役割を果たした女性であったと推察されます。彼女の生涯は、戦国時代の武家の女性が置かれた立場や生き様の一端を垣間見せてくれます。
『武功夜話』が描くような、信長との情熱的なロマンスのヒロインという側面よりも、むしろ戦国時代の有力な土豪の娘として生まれ、政略的な意味合いも皆無ではなかったであろう形で信長の側室となり、そして何よりも織田家の後継者を生むという極めて重要な役割を担った女性であったと考えるのが、より実像に近いのかもしれません。信長からの寵愛が深かったことは、複数の史料や伝承からうかがえますが、その具体的な内実や吉乃自身の感情、思想といった内面については、現存する史料の制約から、残念ながら不明な点が多いと言わざるを得ません。
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後世における吉乃像の変遷とその要因
生駒吉乃のイメージは、時代と共に変遷を遂げてきました。江戸時代に成立した『久昌寺縁起』や『寛政重修諸家譜』における記述は、彼女を信長の重要な側室、そして信忠・信雄・徳姫の母として位置づけています。これらの史料は、ある程度客観的な記録を目指しつつも、それぞれの編纂意図(例えば生駒家の顕彰や幕府の公式記録としての体裁など)を含んでいると考えられます。
昭和期に入り、『武功夜話』が発見され、活字として広く流布するようになると、そこに描かれた情緒豊かでドラマティックな吉乃像が、一般の人々の間に強く印象付けられることになりました。信長との運命的な出会い、深い愛情、そして悲劇的な死といった物語は、歴史小説やテレビドラマなどの創作物の格好の題材となり、吉乃の知名度を飛躍的に高めると同時に、多分にロマンチックに美化されたイメージを定着させる結果となりました。
近年では、生駒家の子孫である生駒英夫氏による積極的な情報発信が、この『武功夜話』によって形成された従来の吉乃像に一石を投じています。「吉乃」という名前や生駒家の家業に関する『武功夜話』の記述を明確に否定し、史実に基づいた生駒家の姿を伝えようとする試みは、歴史像の再検討を促すものとして注目されます。
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今後の研究課題
生駒吉乃の実像をより深く明らかにするためには、今後さらなる研究の進展が期待されます。具体的には、以下のような点が課題として挙げられるでしょう。
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生駒吉乃に関する同時代の一次史料のさらなる発掘と丹念な分析。特に、織田家や生駒家に関連する古文書、当時の人々の日記や書状の中に、これまで見過ごされてきた記述が存在する可能性も否定できません。
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『武功夜話』以外の、比較的信頼性が高いとされる史料(例えば、寺社に残る記録や、他の武家の家譜など)における、吉乃自身やその子供たちに関する記述の網羅的な再検討。
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織田信忠の書状に見られる「久庵慶珠」と、吉乃の法名「久菴桂昌」との関連性について、戒名の授与慣習や当時の仏教界の状況などを踏まえた、より詳細な仏教史的・文献学的な検討。
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生駒氏の経済活動と武士としての性格の両面性について、当時の尾張・美濃地方の社会経済史的背景を踏まえた、より実証的な研究の深化。
生駒吉乃は、断片的な史料と後世の創作とが織り交ざる中で、多様な顔を持つ女性として語り継がれてきました。今後の研究によって、彼女の真実に一歩でも近づくことが期待されます。
引用文献
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生駒吉乃 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%A7%92%E5%90%89%E4%B9%83
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織田信長の準正室!?「生駒吉乃」という女性が戦国時代に ...
https://mag.japaaan.com/archives/187377
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織田信長の準正室!?「生駒吉乃」という女性が戦国時代に ...
https://mag.japaaan.com/archives/187379
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武功夜話 7.「信長」と「吉乃の方」とのラブストーリー そして短い ...
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「武功夜話」問題に於ける、私の想い。 =すべては、「生駒吉乃 ...
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『新版 偽書『武功夜話』の研究』|感想・レビュー - 読書メーター
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『武功夜話』の真偽性
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【歴史散策】織田信長の最愛の女性 久菴さんの墓所へ - 明智えっくんのガンプラブログ
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江南市にある織田信長「最愛の女性」の菩提寺が取り壊しへ|スタッフブログ
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江南紀行 信長「最愛の女性」菩提寺・久昌寺の取り壊し編
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織田信忠とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書
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織田家18代当主も当惑 次男を叱責した信長の怒りの手紙 | AERA ...
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織田勘九郎信忠②生母など - 戦国徒然(麒麟屋絢丸) - カクヨム
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信長の正室「濃姫」の妄想止まらず|千世(ちせ) - note
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織田三七郎信孝の母、坂氏娘の素性の考察 - 戦国徒然(麒麟屋絢丸) - カクヨム
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小折城の見所と写真・100人城主の評価(愛知県江南市) - 攻城団
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愛知県の霊園・墓地《創価学会》 285件 - いいお墓
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熟女好きにされた織田信長 - 一般社団法人 生駒屋敷 歴史文庫
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