最終更新日 2025-05-27

蔵春院

蔵春院

早川殿(蔵春院)に関する調査報告

序章

本報告は、戦国時代から江戸時代初期にかけて生きた女性、早川殿(はやかわどの、法名:蔵春院殿)の生涯とその時代背景について、現存する史料に基づき詳細かつ徹底的に調査し、その実像に迫ることを目的とする。早川殿は、相模の戦国大名北条氏康の娘として生まれ、駿河の戦国大名今川義元の嫡男・氏真(うじざね)に嫁いだ人物である 1 。彼女の人生は、甲相駿三国同盟という当時の複雑な政治情勢と深く結びつき、夫・氏真と共に今川家の没落と流転の日々を経験することとなった。

早川殿の実名や正確な生年は明らかになっていないものの 1 、断片的な記録や後世の編纂物、墓碑銘などを通じて、その人物像や夫婦関係、子女、そして晩年に至るまでの足跡をある程度辿ることができる。本報告では、まず早川殿の出自と婚姻の背景を明らかにし、次に今川家没落後の苦難に満ちた日々を追う。さらに、夫・氏真との関係性や逸話を通じて彼女の人物像を考察し、最後にその死と子女、後世への影響について詳述する。

戦国時代の女性に関する史料は総じて乏しく、早川殿も例外ではない。しかし、彼女の生涯を丹念に追うことは、政略結婚の渦中にありながらも夫を支え、家を守ろうとした一人の女性の生き様を浮き彫りにするだけでなく、当時の武家社会における女性の役割や立場、そして大名家の興亡が個人の運命に与えた影響を具体的に理解する上で、重要な示唆を与えてくれるものと考える。本報告が、早川殿という歴史上の人物への理解を深め、さらなる研究への一助となることを期待する。

第一章:早川殿の出自と婚姻

本章では、早川殿の生誕から今川氏真との婚姻に至るまでの経緯と、その背景にある政治状況について詳述する。

1.1 生誕と家族背景

早川殿の出自を理解するためには、まず彼女の父母と兄弟姉妹、そして生年に関する諸説を検討する必要がある。

父母:北条氏康と瑞渓院

早川殿の父は、相模国(現在の神奈川県)を拠点とし、関東一円にその勢力を拡大した後北条氏第三代当主・北条氏康である 2 。氏康は、武勇に優れるだけでなく、領国経営にも卓越した手腕を発揮し、後北条氏の最盛期を築いた戦国大名として知られている。

母は瑞渓院(ずいけいいん)と称される女性で、駿河国の戦国大名今川義元の姉にあたる 5 。瑞渓院の母、すなわち早川殿の祖母にあたる寿桂尼(じゅけいに)は、今川氏親の正室として、夫亡き後も氏輝・義元・氏真の三代にわたり今川家の政治に深く関与し、その才腕を振るったことで知られる人物である 5 。この血縁関係は、後に早川殿が今川家に嫁ぐ上で極めて重要な意味を持つことになった。早川殿は、父方を通じて関東の雄・北条氏の血を引き、母方を通じて東海の名門・今川氏の血を引くという、名家の姫君であった。

兄弟姉妹

早川殿には複数の兄弟姉妹がいたことが確認されている。嫡兄には、後に後北条家第四代当主となる北条氏政がおり 4 、他にも氏照(武蔵八王子城主)などが知られている 5 。早川殿の兄弟姉妹との具体的な関係性を示す史料は乏しいが、特に兄・氏政の政治的判断は、後に早川殿と夫・氏真の運命に大きな影響を与えることとなる。また、伊豆修善寺の金龍院の位牌によれば、北条幻庵の姉妹として長松院、青松院の名が見え、長松院は今川氏真夫妻が北条氏を頼った際に同行していた可能性も示唆されている 7

生年に関する諸説と検討

早川殿の正確な生年は、現存する史料からは特定できていない 2 。しかし、いくつかの説が存在し、それぞれ検討の余地がある。

一つの説として、夫である今川氏真よりも年上の「姉女房(あねにょうぼう)」であったとするものがある 2 。史料によっては、天文23年(1554年)の結婚時、氏真が16歳、早川殿が17歳であったと記されている 8 。氏真の生年は天文7年(1538年)とされているため 9 、この記述が正しければ、早川殿は氏真より一つ年上ということになる。

一方で、氏真よりも年下であったとする研究者の推測も存在する。歴史学者の黒田基樹氏は、早川殿を北条氏規(うじのり)よりも年少の天文16年(1547年)から天文17年(1548年)頃の生まれと推測し、氏康の四女と位置付けている 1 。また、長谷川幸一氏も天文15年(1546年)以降の生まれと推測している 1 。これらの説に従うならば、結婚時の早川殿の年齢は7歳から9歳となり、非常に若年での婚姻であったことになる。この「年少婚」説の根拠の一つとして、結婚から第一子出産までに比較的長い期間が空いている点が挙げられることがある 1

「姉女房」説と「年少婚」説のどちらが史実に近いかについては、現時点では断定が難しい。それぞれの説が依拠する史料や解釈には一長一短があり、今後の研究によって新たな知見がもたらされる可能性もある。ただ、いずれの説をとるにしても、戦国時代の女性の記録が男性中心の視点で残される傾向が強く、個々の女性に関する正確な情報が欠落しやすいという史料的限界を念頭に置く必要がある。

1.2 今川氏真との婚姻

早川殿の人生における最初の大きな転機は、今川氏真との婚姻である。この婚姻は、当時の東国における大名間の力関係を象徴する出来事であった。

甲相駿三国同盟と政略結婚の背景

早川殿は、天文23年(1554年)7月、駿河・遠江・三河を治める戦国大名・今川義元の嫡男である今川氏真に嫁いだ 1 。当時、氏真は16歳または17歳であったとされる 2

この婚姻は、単なる両家の縁組に留まらず、甲斐国(現在の山梨県)の武田信玄、相模国の北条氏康、そして駿河国の今川義元という、東国を代表する三人の戦国大名の間で締結された「甲相駿三国同盟」の成立と深く関わっていた 4 。この同盟は、それぞれの勢力圏の安定化と、西方や北方への勢力拡大を共通の目的としており、相互の嫡子と娘を娶わせることで同盟関係を強固にする、典型的な政略結婚であった。具体的には、早川殿と氏真の婚姻に先立ち、あるいは並行して、氏康の嫡男・氏政は武田信玄の娘・黄梅院(おうばいいん)を、信玄の嫡男・義信は氏真の妹・嶺松院(れいしょういん)をそれぞれ正室に迎えている 4 。これにより、三家は互いに姻戚関係で結ばれ、一時的な勢力均衡と平和がもたらされた。

早川殿の婚姻は、彼女自身が北条家から今川家への「信義の証」として送られた、ある種の人質的な側面も帯びていたと言えるだろう。同盟が維持されている間は、彼女の存在が両家の友好関係を象徴するものであったが、ひとたび同盟が破綻すれば、その立場は極めて微妙なものとならざるを得なかった。

婚姻の時期、年齢、行列の様子

早川殿の輿入れは、天文23年(1554年)7月に行われた 1 。その行列は非常に壮麗なものであったと伝えられている。甲斐国で記された年代記『勝山記(妙法寺記)』には、きらびやかな武具で飾られた行列が通り過ぎる様子を、沿道の人々が前代未聞の賑わいで見物した、という伝聞が記されている 1 。花嫁の受け渡しは、北条領と今川領の境界である三島(現在の静岡県三島市)で行われ、その日は特に天候に恵まれたという 1

また、伊豆国と駿河国の国境を流れる境川(現在の黄瀬川か)に架けられた農業用水路である「千貫樋(せんがんぴ)」は、北条氏康が娘婿である氏真への引出物として、莫大な費用を投じて建設したものであるという伝承も残されている 1 。これが事実であれば、氏康の早川殿への深い愛情と、今川家との同盟を重視する姿勢の表れと解釈できる。

結婚時の早川殿の年齢については、前述の生年諸説によって大きく異なる。もし「姉女房」説が正しければ17歳程度 8 、もし「年少婚」説(天文16-17年頃生まれ)が正しければ7歳から8歳程度 1 となる。幼少での婚姻であれば、成人するまで実際の夫婦生活が始まることはなかったと考えられる。

第二章:戦国乱世を生きた早川殿 ― 今川家没落と流転の日々

早川殿が今川家に嫁いでから数年後、今川家は大きな転換期を迎える。本章では、今川家の没落と、それに伴う早川殿の流転の人生を追う。

2.1 今川家の斜陽と夫・氏真の苦境

早川殿の結婚生活は、当初は名門今川家の安泰の中で始まったかに見えたが、舅・今川義元の死を境に、夫・氏真と共に激動の運命に巻き込まれていく。

桶狭間の戦い以降の今川領国の動揺

永禄3年(1560年)5月、今川義元は尾張国(現在の愛知県西部)への大軍事侵攻の最中、桶狭間の戦いで織田信長軍の奇襲を受け、討死した 9 。この敗戦は、東海地方に覇を唱えていた今川家にとって致命的な打撃となり、その後の急速な衰退の端緒となった。

父・義元の後を継いで今川家当主となった夫・氏真であったが、領国の動揺を抑えることは困難であった。特に、三河国(現在の愛知県東部)では、今川家の人質となっていた松平元康(後の徳川家康)が岡崎城で独立し、織田信長と同盟を結んだ 2 。これにより、今川家は三河における影響力を失い、さらに遠江国(現在の静岡県西部)においても国人領主たちの離反が相次いだ 9 。氏真はこれらの事態に対し有効な手を打てず、今川家の領国は次第に縮小していった。

駿河失陥と掛川城への逃避(早川殿の苦難)

永禄11年(1568年)12月、甲斐の武田信玄が甲相駿三国同盟を破棄し、駿河国への侵攻を開始した 1 。今川家の重臣の中にも信玄に内通する者が現れるなど、今川方は有効な抵抗もできず、氏真は本拠地である駿府の今川館を追われることとなった。この時、早川殿も氏真と行動を共にし、重臣である朝比奈康朝(あさひなやすとも)が守る遠江国の掛川城へと逃れた 1

この逃避行の際、早川殿は輿(こし)などの乗り物も用意されず、徒歩で避難せざるを得なかったと伝えられている 1 。北条氏康の娘であり、今川家の正室という高い身分であった彼女にとって、これは大きな屈辱であり、肉体的にも精神的にも過酷な体験であったと推察される。この出来事は、父・北条氏康を激怒させたとされる。氏康は、娘である早川殿がこのような扱いを受けたこと、そして同盟を一方的に破棄した武田信玄の行為に対し強い不信感を抱き、武田との甲相同盟を破棄して上杉謙信との越相同盟に転換し、今川氏を支援するために駿河へ出兵するに至ったという 1 。この氏康の行動は、単なる娘への情愛だけでなく、大名としての面子や、武田の行動に対する政治的判断が複雑に絡み合った結果と考えられる。

しかし、掛川城もやがて徳川家康軍に包囲され、永禄12年(1569年)5月、氏真は家臣たちの助命を条件に城を明け渡した 8 。これにより、氏真は戦国大名としての地位を完全に失い、今川家は事実上滅亡した。

2.2 北条家への帰還と「早川殿」という呼称

領国を失った氏真と早川殿は、早川殿の実家である北条氏を頼ることになる。

伊豆戸倉城、そして小田原早川郷での生活

掛川城を開城した後、氏真と早川殿、そして既に生まれていた長女は、北条氏康に迎えられ、まず伊豆国の戸倉城(現在の静岡県駿東郡清水町)に身を寄せた 5 。その後、氏康の配慮により、小田原城下の早川郷(現在の神奈川県小田原市南部)に屋敷を与えられ、そこに移り住んだ 1

一般に「早川殿」という呼称は、彼女がこの小田原の早川郷に居住したことに由来すると考えられている 1 。この地で、元亀元年(1570年)、早川殿は氏真にとって待望の嫡男となる今川範以(のりもち)を出産している 1 。この呼称の定着は、彼女の生涯における重要な転換点、すなわち駿河の奥方としての地位を失い、流浪の身の上となったことを象徴しているとも言える。なお、『大三川志』という史料には、氏真自身を指して「早川殿」と称した記述も見られるが 5 、今日では一般的に早川殿は氏真の妻を指す呼称として理解されている。

父・北条氏康の死と甲相同盟の復活、それに伴う夫妻の境遇の変化

早川郷での生活は、必ずしも安泰ではなかった。元亀2年(1571年)10月3日、早川殿の父であり、氏真夫妻の最大の庇護者であった北条氏康が小田原で病死した 1

氏康の死後、家督を継いだ兄・北条氏政は、外交方針を転換し、かつての敵であった武田信玄との甲相同盟を復活させた 1 。この同盟復活の条件として、北条氏は武田氏による駿河領有を承認したとされ、これにより氏真の駿河復帰の望みは完全に絶たれた。そればかりか、氏真夫妻は実家であるはずの北条家においてもその立場を失い、小田原を去らざるを得ない状況に追い込まれた。これは北条家全体の戦略的判断であったとはいえ、早川殿と氏真にとっては、実家から梯子を外された形となり、その苦境は一層深まった。

2.3 徳川家康の庇護下での生活と晩年

実家である北条家を頼れなくなった氏真と早川殿は、かつての家臣であり、今川家から独立した徳川家康の庇護を求めるという、皮肉な運命を辿ることになる。

小田原からの退去(『松平記』等の逸話とその史実性の検討)

氏真夫妻が小田原を退去し、徳川家康を頼るに至る経緯については、特に『松平記』などの後代の編纂物に、早川殿の主体的な行動を強調する逸話が記されている 1 。それによると、武田信玄が密かに氏真の殺害を企てているという情報を得た氏政が、そのことを氏真に伝えた際、早川殿は「氏政の姉」として大いに憤慨し、小田原に居合わせた今川家の譜代衆を集め、白昼堂々、早川の港から船を出して小田原を脱出し、遠江国にいた家康を頼ったというものである 5

この逸話は、早川殿の気丈さ、夫への献身、そして危機的状況における判断力と行動力を示すものとして、しばしば引用される。しかしながら、『松平記』自体が徳川氏の視点から書かれた記録であり、また氏真に対して好意的な記述が多いとされることから、この逸話の史実性については慎重な検討が必要である 5 。同様の記述は『北条五代記』にも見られるが、これも戦記物語としての性格が強く、文学的な脚色が含まれている可能性が高い 5 。これらの逸話は、早川殿を「賢夫人」や「烈女」として描こうとする意図が感じられ、後世の早川殿のイメージ形成に影響を与えた可能性が考えられる。なぜそのような記述が生まれたのか、当時の徳川家と今川氏の関係性や、物語としての面白さを求める風潮などが背景にあるのかもしれない。

史実として、氏真夫妻が徳川家康の庇護下に入ったことが確認できるのは、天正元年(1573年)8月頃である 1

浜松、駿府、京都、そして江戸品川へ

徳川家康の庇護下に入った氏真と早川殿は、その後も流転の生活を続ける。まず家康の拠点であった浜松(現在の静岡県浜松市)周辺で暮らし、天正14年(1586年)に家康が本拠を駿府(現在の静岡市)に移すと、それに従って駿府で生活したと思われる 1

天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐で実家の北条氏が滅亡し、徳川家康が関東へ移封されると、氏真と早川殿は京都に移り住んだ 1 。京都では、今川家が元々交流のあった公家や文化人たちとの交友を深め、氏真は和歌や蹴鞠といった文化活動に才能を発揮し、早川殿も夫を支えながら穏やかな日々を送ったと伝えられている 8

そして慶長17年(1612年)、徳川家康から江戸の品川に屋敷を与えられ、夫妻は江戸に移り住んだ 1 。これが早川殿の終焉の地となる。

第三章:早川殿の人物像と夫婦関係

本章では、早川殿の人物像について、特に夫・今川氏真との関係性や伝承される逸話、そして限られた史料からうかがえる教養や信仰の側面から考察する。

3.1 夫・今川氏真との絆

早川殿と今川氏真の夫婦関係は、戦国時代の政略結婚としては特筆すべきものであったと評価されている。

政略結婚から始まった夫婦の生涯にわたる支え合い

早川殿と今川氏真の結婚は、前述の通り甲相駿三国同盟という政治的背景のもとに行われた政略結婚であった 1 。しかし、二人の夫婦仲は極めて良好であったと多くの記録や伝承が示している 8

最大の試練は、今川家の没落であった。桶狭間の戦いでの義元の死後、領国を次々と失い、ついには戦国大名としての地位も失った氏真に対し、早川殿は離縁することなく最後まで連れ添い、数々の苦難を共に乗り越えた 2 。駿河を追われ、掛川城で籠城し、実家である北条氏を頼り、そしてその北条氏からも追われる形で徳川家康の庇護下に入るという、まさに波乱万丈の人生であったが、早川殿は常に氏真の傍らにあり続けた。このような夫婦の絆は、利害が複雑に絡み合う戦国時代の武家社会において、稀有な例と言えるだろう。

氏真の文化活動と早川殿の関わり(肖像画等から伺える夫婦像)

夫である今川氏真は、武将としての評価は必ずしも高くない一方で、和歌や蹴鞠といった文化的活動においては優れた才能を発揮した人物として知られている 8 。氏真は生涯に多くの和歌を詠み、『集外三十六歌仙』にも名を連ねている 9 。また、織田信長の前で蹴鞠を披露した逸話も有名である 9

早川殿自身がこれらの文化活動に直接どのように関わったかを示す具体的な記録は少ない。しかし、夫婦仲が極めて良好であったことを考えると、氏真の精神的な支えとなり、その文化的活動を理解し、共感していた可能性は高い。

二人の夫婦仲の良さを視覚的に伝えるものとして、元和4年(1618年)の年記を持つ今川氏真夫妻の肖像画(現在は米国の個人蔵)が現存している 1 。この肖像画は、夫妻の没後まもなく、遺族によって追慕のために制作されたものとみられている 1 。一部の記述によれば、この肖像画は夫婦が並んで向き合う形で描かれており、これは戦国時代の夫婦の肖像画としては珍しい形式であると指摘されている 16 。もしこの指摘が正しければ、それは彼らの深い情愛と相互尊重の関係を象徴するものと言えるだろう。この肖像画の存在自体が、単なる記録以上の、彼らの絆の深さを後世に伝えようとする意図の表れかもしれない。

3.2 逸話にみる早川殿の姿

早川殿の人物像を具体的に伝えるものとして、いくつかの逸話が残されている。これらの逸話の史実性については慎重な検討が必要であるが、彼女の性格や行動の一端をうかがわせるものとして重要である。

小田原脱出の逸話の再検討

第二章でも触れたように、『松平記』などには、北条氏政が武田信玄と和睦し、氏真の立場が危うくなった際、早川殿が主導して小田原を脱出したという逸話が記されている 1 。この逸話は、早川殿の気丈さ、決断力、そして夫への深い愛情を示すものとして語られることが多い。しかし、前述の通り、これらの記述は氏真に好意的な戦記物に見られるものであり、その史実性については留保が必要である 5 。仮にこの逸話が史実でないとしても、早川殿がそのような行動力のある女性として記憶された背景には、何らかの事実があった可能性も否定できない。

信長への蹴鞠披露を進言した逸話

もう一つ有名な逸話として、今川氏真が織田信長に謁見した際、信長から蹴鞠の披露を求められた時のものがある。父・義元を討った信長の前で遊戯である蹴鞠を披露することに屈辱を感じ、ためらう氏真に対し、早川殿が「今は耐える時です。あなたと子供たちの命のため、そして今川家の再興のためにも、信長の言う通りにしてください。世間の人々が何と笑おうとも、私だけはあなたの素晴らしさを理解しています」といった趣旨の言葉で説得したと伝えられている 19

この逸話が事実であれば、早川殿は単に夫に従順なだけの女性ではなく、冷静な状況判断力と、家族の将来を見据えた現実的な思考ができる賢明な人物であったことを示している。ただし、この逸話も一次史料における明確な典拠は確認されておらず、後世の創作である可能性も考慮する必要がある。しかし、このような「賢夫人」としてのイメージが早川殿に付与された背景には、彼女が実際に困難な状況下で夫を支え続けたという事実が影響しているのかもしれない。

その他の伝承と評価

その他にも、夫・氏真が今川家を滅亡に導いた徳川家康を頼るという屈辱的な決断をした際も、早川殿は離縁することなく氏真と共に浜松へ移り住んだこと 2 や、浜松からさらに移動する際に、早川殿が自身の知人を集めて船を手配し、氏真と共に脱出したという逸話も残されている 2

これらの逸話は、早川殿の夫への献身、困難に立ち向かう強さ、そして現実的な対処能力をうかがわせる。史実性の検証は不可欠であるが、これらの伝承を通じて形成された早川殿の人物像は、後世の人々にとって魅力的なものであったと言えるだろう。

3.3 教養と信仰(史料に基づく考察)

早川殿自身の和歌や手紙といった、彼女の教養の度合いを直接的に示す史料は、残念ながら現存しているものは極めて少ない。しかし、彼女の出自や立場から、相応の教養を身につけていたと推測することは可能である。

父・北条氏康は文武両道に秀でた人物であり、母・瑞渓院も名門今川家の出身である。そのような家庭環境で育ち、さらに今川家の正室として迎えられた早川殿が、当時の高貴な女性に求められる一定の教養、例えば和歌の素養や書道などを身につけていたとしても不思議ではない。

彼女の主体性や実務能力の一端を示す貴重な史料として、永禄11年(1568年)11月11日付で、早川殿が姑・寿桂尼の所領の一部であった笹間郷上河内村(現在の静岡県島田市)の峯叟院(ほうそういん)に対し、寺領を安堵する朱印状を発給している事実が確認されている 1 。この朱印状の発給は、早川殿が単に奥向きの存在ではなく、限定的ではあるものの、家の財産管理や宗教的権威に関わる一定の公的・経済的権能を有していたことを示唆している。これは、戦国時代の高位の女性が家の運営に関与する事例の一つとして注目される。

信仰心については、彼女の法名が「蔵春院殿天安理性禅定尼」であること 1 や、複数の墓所が存在することから、仏教への帰依が深かったことがうかがえる。しかし、具体的な信仰活動に関する詳細な記録は乏しい。

第四章:早川殿の死と後世への影響

本章では、早川殿の最期と、彼女が遺した子女、そしてその後の今川家の動向、さらには歴史における早川殿の評価について述べる。

4.1 没年に関する諸説と墓所

早川殿の没年については、複数の説が存在し、その典拠となる史料の解釈も分かれている。

慶長18年説と慶長19年説の典拠と検討

早川殿の没年には、大きく分けて慶長18年(1613年)説と慶長19年(1614年)説の二つが主要なものとして挙げられる。

慶長18年2月15日(1613年4月5日)説:

この説は、多くの概説書やインターネット上の情報で採用されており 1、その根拠として「北条家過去帳」に記された法名「蔵春院殿天安理性禅定尼」と関連付けられることが多い 1。歴史学者の黒田基樹氏の研究もこの説を支持しているとされ 1、特にその著作『北条氏康の妻 瑞渓院』では、この日付が示されている 1。

また、東京都杉並区今川にある観泉寺には、早川殿の二十五回忌にあたる寛永14年(1637年)に四男・澄存によって造立された墓塔が現存しており 1、この建立年から逆算すると慶長18年没が妥当であるとする見方もある 5。具体的には、没年を1年目と数える場合、25年目は1613年から数えて1637年となるためである。

慶長19年甲寅春十三日(1614年)説:

この説の主な典拠は、東京都中野区上高田にある萬昌院功運寺の今川家墓所に現存する早川殿の墓塔の墓碑銘である 5。この墓碑銘には「蔵春院殿天厳理性大姉 慶長十九年甲寅春十三日」と刻まれており、「甲寅」は慶長19年の干支である。「春十三日」が具体的に何月何日を指すかは解釈の余地があるが、年が慶長19年であることは明確である。

これら二つの説のどちらがより妥当性が高いかについては、史料の性質を考慮する必要がある。「北条家過去帳」は同時代の記録に近い性格を持つ可能性がある一方、萬昌院功運寺の墓碑銘は現存する金石文であり、その記載内容は重視されるべきである。観泉寺の二十五回忌墓碑との整合性については、前述の通り慶長18年説を支持する根拠となり得るが、回忌の数え方や建立の事情によっては、必ずしも矛盾しない可能性も残る。

法名についても、「蔵春院殿天安理性禅定尼」(北条家過去帳、観泉寺墓碑銘 1)と「蔵春院殿天厳理性大姉」(萬昌院功運寺墓碑銘 5)とで、「安」と「厳」、「禅定尼」と「大姉」という差異が見られる点も留意が必要である。

現状では、慶長18年説が比較的広く受け入れられているように見受けられるが、慶長19年説の根拠となる墓碑銘の存在も無視できず、断定は難しい。本報告では、両説が存在することを指摘するに留める。

提案テーブル:早川殿の没年に関する諸説と典拠

没年説

主な典拠

関連する墓所・墓碑銘

主要研究者の見解(推定含む)

備考

慶長18年2月15日(1613年4月5日)

『北条家過去帳』 1 、黒田基樹氏の研究 1

観泉寺(二十五回忌墓碑、寛永14年造立) 1

黒田基樹氏など 2

観泉寺の二十五回忌墓碑の建立年から逆算して整合性が高いとされる。法名は「蔵春院殿天安理性禅定尼」 1

慶長19年甲寅春十三日(1614年)

萬昌院功運寺の墓碑銘 5

萬昌院功運寺(墓碑銘現存) 5

墓碑銘には「蔵春院殿天厳理性大姉」とある 5

墓所:萬昌院功運寺と観泉寺

早川殿の墓所として知られるのは、前述の東京都中野区上高田にある曹洞宗の寺院、萬昌院功運寺と、東京都杉並区今川にある同じく曹洞宗の寺院、観泉寺である。

萬昌院功運寺には、慶長19年の年紀が刻まれた早川殿の墓塔(無縫塔)が現存する 5 。この寺は、元々今川義元の三男で氏真の弟にあたる一月長得(いちげつちょうとく)が開基となった萬昌院と、永井尚政が開基となった功運寺が後に合併した寺院である 23

一方、観泉寺は今川氏真が開基とされ、江戸時代には高家今川氏の知行地であり菩提寺であった 1。ここには、早川殿の没後二十五回忌にあたる寛永14年(1637年)に、四男の澄存(ちょうそん)によって造立されたと伝えられる墓塔が現存する 1。氏真の墓も観泉寺にあり、早川殿の墓と並んで祀られている 9。

氏真は当初、萬昌院に葬られたが、寛文2年(1662年)に萬昌院が移転する際、その墓は早川殿の墓(二十五回忌碑)と共に観泉寺に改葬されたと伝えられている 5。

4.2 子女とその後の今川家

早川殿は今川氏真との間に、一女四男、計五人の子供を儲けたとされている 2 。これらの子女たちは、戦国大名としての今川家が滅亡した後も、それぞれの道を歩み、今川家の血筋を後世に伝えた。

  • 長女(名は不詳):吉良義定室
    永禄10年(1567年)前後に生まれたと推測され、氏真の駿河没落時には既に生まれていたことが確認されている 1。後に三河国の吉良義定(きらよしさだ)に嫁いだ 1。吉良氏は足利氏一門の名家であり、今川家とは縁戚関係にあった。
  • 長男:今川範以(いまがわのりもち)
    元亀元年(1570年)、氏真が33歳の時に小田原の早川郷で生まれた嫡男である 1。父・氏真と共に京都で暮らし、公家衆と交流し和歌を嗜むなど文化的な素養を身につけたが、仕官することはなかった 30。慶長9年(1604年)の和歌会で講師を務めた記録を最後に『言経卿記』から姿を消し、慶長12年(1607年)11月、父や母に先立ち38歳で病没した 1。彼の死後、弟の澄存が高野山高室院に供養碑を建てている 30。範以の嫡男・範英(後の直房)は氏真に養育され、後に江戸幕府の高家として取り立てられた 30。
  • 次男:品川高久(しながわたかひさ)
    天正4年(1576年)に生まれた 1。徳川秀忠に出仕し、江戸幕府の旗本となった 1。今川姓は嫡家のみと定められたため、江戸品川に住んだことから品川姓を名乗り、高家品川家の祖となった 5。その子孫は高家として明治維新まで続いた 5。
  • 三男:西尾安信(にしおやすのぶ)
    生年は不詳だが、天正年間の生まれとされる 33。西尾伝十郎を称した 5。庶出説や、澄存の弟である四男とする説もある 33。慶長18年(1613年)に、母・早川殿よりも一年早く死去したと伝えられている 5。
  • 四男:澄存(ちょうそん)
    天正7年(1579年)に生まれた 1。幼くして出家し、聖護院門跡道澄(どうちょう)の弟子となり、後に大僧正に昇り、京都の若王子(にゃくおうじ)神社の別当寺であった若王寺の住職を務めた 1。母・早川殿の死に際しては高野山高室院で日牌供養を行い、二十五回忌には観泉寺に墓塔を造立するなど、母への孝養篤い人物であったことがうかがえる 1。また、兄・範以の供養碑も高野山に建立している 30。

これらの子女を通じて、今川家の血脈は江戸時代にも受け継がれ、特に次男・高久の系統である高家品川家と、長男・範以の孫である今川直房に始まる高家今川家は、江戸幕府の儀礼を司る重要な役割を担った 12 。戦国大名としての今川家は滅亡したが、早川殿が産んだ子供たちによって、その家名は文化的な側面で存続したと言える。

4.3 歴史的評価と現代における早川殿像

早川殿に関する学術的な研究は、夫である今川氏真や父・北条氏康、あるいは今川氏や北条氏といった大名家の研究の中で触れられることが多く、彼女個人に焦点を当てたものは限られている。これは、戦国時代の女性に関する史料が乏しいこと、そして歴史叙述が男性中心になりがちであったことによる。

しかし、近年の歴史研究においては、女性の役割や主体性に着目する視点が重要視されるようになり、早川殿のような人物についても、断片的な史料からその実像を再構築しようとする試みがなされている。特に、黒田基樹氏や長谷川幸一氏などの研究者によって、彼女の生涯に関する詳細な考証が進められている 1

早川殿の人物像は、政略結婚の道具として翻弄されながらも、夫・氏真を献身的に支え続け、多くの苦難を乗り越えた「賢夫人」「貞淑な妻」として描かれることが多い。特に、氏真との夫婦仲の良さは特筆され、戦国時代における理想的な夫婦像の一つとして語られることもある 2

一方で、小田原脱出の逸話に見られるような気丈さや行動力も、彼女の魅力の一つとして認識されている 5 。これらの逸話の史実性には検討の余地があるものの、早川殿が単に受動的な存在ではなく、困難な状況下で自ら判断し行動しようとした女性として捉えられていることを示している。

近年では、NHK大河ドラマ『どうする家康』(2023年放送)において、女優の志田未来氏が早川殿(ドラマ内では「糸」という名で登場)を演じ、その聡明で心優しい人柄と、夫・氏真を支える姿が描かれたことで、一般の歴史愛好家の間でもその名が知られるようになった 4 。こうした映像作品を通じて、早川殿の人物像は新たな解釈と共に広がりを見せている。

戦国史研究において、早川殿は、激動の時代を生きた一人の女性として、また、名門北条家と今川家を結ぶ重要な存在として、今後も多角的な視点からの研究が期待される人物である。

結論

本報告では、戦国時代から江戸時代初期を生きた女性、早川殿(蔵春院殿)の生涯について、現存する史料と研究に基づいて詳細な調査を行った。

早川殿は、相模の戦国大名・北条氏康の娘として生まれ、甲相駿三国同盟の一環として駿河の今川氏真に嫁いだ。この婚姻は典型的な政略結婚であったが、夫婦仲は極めて良好であったと伝えられ、今川家没落後も夫と共に数々の苦難を乗り越え、生涯を添い遂げた。その生涯は、戦国時代の女性が単に政略の道具としてだけでなく、家の存続や夫の精神的支柱として重要な役割を果たし得たことを示す一例と言える。

彼女の生年や実名など、基本的な情報については不明な点が多く、これは当時の女性に関する記録の乏しさを物語っている。しかし、断片的な史料や逸話、墓碑銘などを繋ぎ合わせることで、その人物像の一端をうかがい知ることができる。特に、駿河失陥時の苦難や、実家である北条家との関係の変化、そして徳川家康の庇護下での後半生は、戦国時代の激動と、それに翻弄されながらも強く生き抜いた女性の姿を浮き彫りにする。

没年については慶長18年説と慶長19年説が存在し、それぞれに典拠となる史料があるが、現時点では断定が難しい。しかし、いずれにせよ夫・氏真に先立って江戸でその生涯を閉じた。彼女が遺した子女たちは、戦国大名としての今川家が滅亡した後も、高家今川家・品川家として江戸幕府に仕え、その血脈を後世に伝えた。

早川殿に関する史料は限定的であり、特に彼女自身の言葉や主体的な行動を直接示すものは少ない。しかし、夫を支え、家族を守り、激動の時代を生き抜いたその生涯は、戦国時代の女性史を考える上で貴重な示唆を与えてくれる。今後、さらなる史料の発見や、既存史料の新たな解釈を通じて、早川殿の実像がより明らかにされることが期待される。特に、彼女の教養や信仰、あるいは政治的な状況認識など、内面に関わる部分については、さらなる研究の深化が望まれる。

参考文献

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  • 今川氏と観泉寺編纂刊行委員会 編『今川氏と観泉寺』吉川弘文館、1974年。
  • 黒田基樹『北条氏康の妻 瑞渓院』平凡社〈中世から近世へ〉、2017年。
  • 黒田基樹 編『北条氏康とその時代』戒光祥出版〈シリーズ・戦国大名の新研究 2〉、2021年。
  • 黒田基樹・浅倉直美 編『北条氏康の子供たち』平凡社〈中世から近世へ〉、2015年。
  • 長谷川幸一「早川殿―今川氏真の室―」
  • 戦国史研究会 編『論集 戦国大名今川氏』岩田書院〈論集戦国大名シリーズ12〉、2020年。
  • 長谷川幸一「天正元年以降における今川氏真の政治的地位」
  • 小和田哲男『今川義元のすべて』新人物往来社、1994年。
  • 小和田哲男 監修『今川義元―その魅力と実像―』静岡新聞社、2019年。
  • 「早川殿」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2024年7月18日 (木) 01:50 UTC、URL:(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A9%E5%B7%9D%E6%AE%BF)
  • 「今川氏真」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2024年7月19日 (金) 00:12 UTC、URL:(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E6%B0%8F%E7%9C%9F)
  • 郷土史愛好会(ブログ)「早川殿(蔵春院殿)―北条氏康の娘―」2015年2月21日記事、URL: http://kyoudosi.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-f20f.html
  • その他、本報告書作成にあたり参照したウェブサイト資料(URLは各引用箇所に記載の通り)。

引用文献

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  4. 糸(早川殿) 日本史辞典/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/ito-hayakawadono/
  5. 郷土士の歴史探究記事 その5 http://kyoudosi.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-f20f.html
  6. 同盟で嫁いだお姫様たちの行く末 http://umenoyaissei.com/doumeidetotuidaohimesamatachi.pdf
  7. 今川から戻った長松院様~①北条五代の娘たち http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-3132.html
  8. 『どうする家康』闇落ちキャラ!?今川氏真が辿った人生とは - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/216392/
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  16. ニ代目ボンクラ君主は錬金術師?〜今川氏真の不思議な生涯〜 - 小説家になろう https://ncode.syosetu.com/n8549hf/
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  19. 北条氏康の娘たち② ~早川殿 - マイナー・史跡巡り https://tamaki39.blogspot.com/2017/04/blog-post_30.html
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  21. 早川殿とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E6%97%A9%E5%B7%9D%E6%AE%BF
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  27. 【~連載~静岡の歴史を学ぼう242】Kansenji Temple Part 1 観泉寺パート1 - note https://note.com/shizutea/n/n674ea44249c1
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  29. 今川氏真の墓/今川家累代の墓(東京都) - 平山城 https://jh.irukamo.com/imagawaujizanenohaka/
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