徳川家康の正室、瀬名姫、一般には築山殿(つきやまどの)として知られるこの女性は、戦国時代の日本史において、その生涯と死の真相が長らく議論の的となってきた人物である。彼女の存在は、家康が天下統一への道を歩む過程における徳川家内部の複雑な力学や、同盟関係の緊張を象徴している。本報告は、現存する史料に基づき、築山殿の出自、家康との結婚、戦国乱世における彼女の立場、そして悲劇的な最期を遂げるに至った信康事件の深層、さらには後世における歴史的評価の変遷とゆかりの地について、包括的な分析を行うことを目的とする。
築山殿は、後年岡崎の築山に居住したことからその名で呼ばれるようになったが. 1 結婚前の名は瀬名姫(せなひめ)といい、これは今川氏ゆかりの地名である駿河国瀬名(現在の静岡市葵区瀬名)に由来すると考えられる. 1 また、駿河御前(するがごぜん)とも称された記録もある. 2 しかし、彼女の実名(諱)は不明である. 2 このように複数の呼称が存在し、個人の実名が歴史の表舞台から見えにくいのは、当時の高貴な女性の立場を反映している。彼女たちの名はしばしば居住地や敬称で呼ばれ、個人の特定が困難な場合が多い。
生年に関しては、徳川家康と同じ天文11年(1542年)とする説が一般的である. 3 一方で、天文8年(1539年)から天文11年の間とする説もあり、これに従えば家康より2歳年上か、少なくとも同年齢であったと推測される. 2 女性の生年記録が男性ほど正確に残されなかったこの時代において、このような幅が存在するのは珍しくない。
父親は関口親永(ちかなが)、または氏純(うじずみ)と伝えられる今川氏の重臣であった. 1 関口氏は今川氏の御一家衆(ごいっかしゅう)に連なる名門であり 2 、親永自身も駿河持船城主を務めるなど、今川家中で有力な立場にあった. 6 この父の地位は、築山殿が高い身分の出身であったことを示している。
母親の出自については諸説あり、確定していない。伝統的には今川義元の妹 1 または伯母 2 とされ、この場合、築山殿は義元の姪にあたることになる。しかし、『井伊年譜』や『系図纂要』などによれば、井伊直平の娘が今川義元の側室となった後、その養妹として関口親永に嫁いだとされ、この説では井伊氏との繋がりが浮上する. 2 さらに、関口親永が先代関口刑部少輔某の婿養子であったとする説もあり、その場合は母親も関口氏の出身と考えられる. 2 近年の研究では、黒田基樹氏などが今川義元の実妹とする説には慎重な見方を示しており、『当代記』など初期の信頼性の高い史料には義元との直接的な血縁関係を示す記述が見られないことを指摘している. 2 このように、彼女の基本的な情報である名前、生年、そして特に母系の出自に関する曖昧さは、歴史記録における女性の周縁的な位置づけを浮き彫りにする。彼女たちのアイデンティティは、父や夫、息子といった男性との関係性や、その家系の政治的有用性によって規定されることが多く、個人の生涯を詳細に再構築することはしばしば困難を伴う。母の出自をめぐる議論は、築山殿の今川家中における立場や家康との結婚の背景を理解する上で、重要な論点となる。
母親の正確な出自がどうであれ、築山殿が今川氏の権力構造と深く結びついた「名門のお嬢様」 3 であったことは疑いない。父・関口親永は今川氏の重臣であり 3 、親永の実家である瀬名氏と共に、関口氏は今川氏の御一家衆として特別な地位を占めていた. 2
彼女は今川氏の本拠地である駿府(現在の静岡市)で育ったと考えられ、当時の駿府は今川義元が京の文化を積極的に導入し、文化の中心地としても栄えていた. 3 このような洗練された環境での教育や生活は、彼女の教養や価値観を形成する上で大きな影響を与えたであろう。それは後に、より質朴な三河の風土や徳川家の気風との間に、ある種の摩擦を生む一因となった可能性も否定できない。
家康(当時は松平元康)が人質として駿府にいた際、今川氏の権力構造に深く組み込まれた家系の女性と結婚したことは、家康自身の今川体制内での地位向上に繋がった。この結婚により、家康は今川氏の一門に準じる「親類衆」としての扱いを受けることになったのである. 2 築山殿の血筋は、今川氏が家康を管理し、松平氏を従属させ続けるための戦略的要素であったと言える。一方で家康にとっても、この結婚は、たとえ人質という立場であっても、支配勢力との間に一定の正統性と繋がりをもたらすものであった。この結婚は、個人の意思を超えた政略の産物であり、築山殿の「価値」はその血筋と、今川・松平間の媒介としての役割に深く結びついていた。この、政略の道具としての側面は、特に家康が今川氏から独立する際に、彼女の運命に大きな影響を与えることになる。
表1:築山殿 主要経歴情報
属性 |
詳細 |
典拠資料例 |
通称 |
築山殿(つきやまどの)、瀬名姫(せなひめ)、駿河御前(するがごぜん) |
1 |
実名(諱) |
不明 |
2 |
推定生年 |
天文11年(1542年)、または天文8年~11年(1539年~1542年) |
2 |
父 |
関口親永(ちかなが) / 氏純(うじずみ) |
3 |
母(諸説) |
今川義元の妹または伯母<br>井伊直平の娘(後に今川義元の養妹)<br>関口氏の娘(親永が婿養子の場合) |
2 |
夫 |
徳川家康(とくがわいえやす)、旧名:松平元康(まつだいらもとやす) |
|
子 |
松平信康(まつだいらのぶやす)、亀姫(かめひめ) |
1 |
この表は、複数の資料から得られる築山殿に関する基本的な情報を整理したものである。特に生年や母親の出自については諸説あり、歴史的記録の限界を示している。典拠資料を明記することで、各情報の出所を確認できるようにした。
築山殿は、松平元康(後の徳川家康)が今川氏の人質として駿府に滞在していた弘治2年(1556年) 4 あるいは弘治3年(1557年) 2 に結婚した。当時、家康は15歳前後、築山殿は15歳から17歳程度であったと推定される 9 。
この結婚は、今川義元による政略的な意図が色濃く反映されたものであった。今川氏の重臣である関口親永の娘(場合によっては義元自身の姪)を若き松平氏の当主に嫁がせることで、義元は松平氏および三河国に対する支配をより強固なものにしようとしたのである 10 。家康にとってこの結婚は、依然として従属的な立場ではあったものの、今川氏の「親類衆」という準一門の扱いを受けることになり、その地位を安定させる効果があった 2 。戦国時代において、このような政略結婚は同盟の強化、忠誠の確保、あるいは服属儀礼の一環として常套手段であり、築山殿は今川氏の政治的駒として重要な役割を担ったと言える。
当時、この結婚は家康にとって「良縁」と見なされていた 10 。今川氏の有力家臣の家柄であり、義元の姪かもしれない築山殿は、服属する小大名の嫡男であった家康よりも格上の存在であった 7 。この初期の身分差は、夫婦関係や彼女の自己認識に影響を与えた可能性も考えられる。
築山殿は家康との間に二人の子供をもうけた。
長男であり嫡男の松平信康(まつだいらのぶやす)は、永禄2年(1559年)に誕生した 1。幼名は竹千代(たけちよ)である 2。
長女の亀姫(かめひめ)は、永禄3年(1560年)に生まれた 1。
結婚当初、一家は今川氏の本拠地である駿府で生活していた 8 。今川氏の監視下にあったとはいえ、この時期は比較的安定したものであったろう。家康の正室として、特に嫡男信康の誕生後は、築山殿の立場は重要なものとなった。彼女の役割には、家庭内の管理運営や、今川社会における松平家の体面を保つことなどが含まれていたと考えられる。
この結婚の基盤は、徹頭徹尾、政治的なものであった。築山殿の家系は、家康の主君である今川氏と密接に結びついていた。家康は人質であり、その忠誠は今川氏にとって最重要事項であった。築山殿は、その繋がりを担保する存在であり、一種の人質のような立場でもあった。嫡男信康の誕生は、松平氏と、母方を通じて今川氏の勢力圏に血縁的にも結びつく後継者を得たという意味で、極めて重要であった。しかし、この結婚の安定性は、今川氏の支配と家康のその体制への服従が継続することを前提としていた。家康が独立を志向した時、今川氏との繋がりに深く根差した築山殿の立場は必然的に複雑化し、対立や疑惑の源泉となる可能性を孕んでいた。彼女のアイデンティティは今川氏と結びついており、家康の後の行動は、彼女を実家の忠誠と夫の野心との間で引き裂かれる、耐え難い状況へと追い込むことになる。
永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれるという衝撃的な事件が起こる 2 。当時、松平元康(後の家康)は今川軍として大高城への兵糧入れなどの任務に従事していたが 5 、義元の死を好機と捉えた。
元康は駿府へ戻らず、父祖伝来の地である三河国岡崎へ帰還し、弱体化した今川氏からの独立へと舵を切った 2 。この決断は、当時駿府に残されていた妻の築山殿と子供たち(信康と亀姫)を極めて危険な状況に陥れた 10 。彼らは事実上、元康の行動に対する人質となり、今川氏真の怒りに直面することになったのである 10 。氏真は元康の裏切りに激怒し、築山殿らを殺害しようとしたとも伝えられている 10 。
永禄5年(1562年)、元康が織田信長と同盟を結んだことで、今川氏真の怒りは頂点に達した 2 。石川数正らの交渉により、築山殿と子供たち(あるいは『当代記』によれば竹千代(信康)のみ 2 )は、今川方の鵜殿氏長・氏次兄弟との人質交換という形で岡崎へ移ることになった 2 。この出来事は、彼女の身の安全を確保したものの、夫の新たな同盟関係の下、三河という新しい、そしておそらくは異質な環境への適応を強いるものであった。
岡崎に移った築山殿は、すぐには岡崎城内に入らず、城外の寺院(現在の西岸寺付近とされる)などに居住したとみられる 2 。彼女が「築山殿」と呼ばれるようになったのは、岡崎の築山という地の近くに住んだことに由来する 1 。
松平家忠の日記『家忠日記』において、彼女が正室を表す「御前さま」ではなく、「信康御母さま」と記されていることなどから、今川氏との手切れにあたって離縁された、あるいは地位が低下したのではないかという見方もある 2 。しかし、今川氏親の妻である寿桂尼も夫の存命中から今川館の外に別宅を設けていた例などから、名門出身の彼女に対する家康の配慮であり、正室の立場は不変だったとする説も存在する 2 。
元亀元年(1570年)、家康が本拠を浜松城に移し、嫡男の信康が岡崎城主となると、築山殿は信康の生母として岡崎城に入城した 2 。岡崎城では、築山殿、息子の信康、そして信康の正室で織田信長の娘である徳姫(五徳)が同居することになった 12 。一方、家康は浜松で側室を迎え、次々と子供をもうけており 3 、築山殿との間には物理的、そしておそらくは心理的な距離が生じていた。
故郷駿府からの離別、実家の没落、そして夫の新たな政治的選択による立場的不安定さは、築山殿に大きな精神的負担を与えたと考えられる。特に、岡崎に移った当初、城外に住まわされたことや、家康が浜松に移って新たな家庭を築き始めたことは、彼女の孤立感や疎外感を深めた可能性がある。彼女の主な役割が「信康の母」として認識されるようになったことは 2 、家康の正室としての実質的な影響力の低下を意味したかもしれない。このような状況は、後の信康事件における彼女の行動や、周囲からの評価に影響を与えたであろう。かつて今川氏との繋がりが彼女の価値であったが、徳川・織田同盟の下では、その出自がむしろ重荷となり、疑惑の目を向けられる要因となった可能性も否定できない。
永禄5年(1562年)、家康が織田信長と同盟を結んだことにより、今川氏真は激怒し、その報復として築山殿の父・関口親永とその妻(築山殿の母)に自害を命じたとされてきた 2 。この事件は、家康の政治的選択が築山殿の肉親に直接的な悲劇をもたらしたことを意味する。
しかし、臨済寺から永禄6年(1563年)閏12月付の親永の署名がある文書が発見されたことにより、少なくとも同年までは親永が生存していたことが判明している 2 。この発見は、親永の死の正確な時期や直接的な原因について再検討を促すものである。ただ、時期にずれがあったとしても、今川氏真の怒りが関口家に向かったことは想像に難くない。『松平記』には、築山殿が、今川氏を裏切り、自分たちを見捨て、父を死に至らしめた夫の家康を深く恨んでいたと記されている 10 。
いずれにせよ、実家の両親を夫の政治的判断の結果として失ったことは、築山殿にとって計り知れない衝撃であったろう。それは彼女の過去との繋がりを断ち切るだけでなく、家康に対する不信感や怨恨を抱かせるに十分な出来事であったと考えられる。この個人的な悲劇は、政治的混乱と自身の立場の不安定さの中で起こり、彼女の脆弱性を増し、息子信康の地位保全への執着を強めたかもしれない。この個人的な背景は、信康事件における彼女の行動を理解する上で極めて重要である。
天正7年(1579年)、築山殿とその息子である松平信康は、徳川家の宿敵であった武田氏への内通という重大な嫌疑をかけられた 4 。
この事件の引き金の一つと広く認識されているのが、信康の正室であり織田信長の娘である徳姫(五徳)が、父信長に送った書状(通称「十二ヶ条の訴状」)である 12。
その書状には、以下のような内容が含まれていたと伝えられている 15。
徳姫の書状はまた、信康自身の残虐な行為や粗暴な性格についても告発していたとされる 10 。
武田氏との内通の証拠として、武田勝頼からの誓書があったとも言われるが、これを目にしたのは家康を含めごく少数であり、徳姫自身も築山殿の侍女から伝え聞いたのみで、実際には見ていないとされる 5 。この内通疑惑の史実性については、長篠の戦い(1575年)以降の武田氏の勢力衰退を考慮すると、疑問視する見解もある 5 。桑田忠親氏は、信頼できる一次史料には築山殿の内通や減敬との密通を示す記述がないと指摘している 2 。
一部の説では、この1579年の告発を、天正3年(1575年)の岡崎の家臣らによる武田氏への内通計画(大賀弥四郎事件)と関連付けている。築山殿もこの事件に関与しており、これが後の疑惑の伏線となったとする見方である 14 。『岡崎東泉記』は、この大賀弥四郎事件に際し、巫女や唐人医師減敬を介して築山殿が関与したと記している 17 。
これらの告発は、徳姫の個人的な不満、政治的な疑惑(武田氏との内通)、そして人物評(信康の残虐性、築山殿の悪意)が複雑に絡み合ったものであり、それぞれの真偽については議論の余地が大きい。
徳姫からの書状を受け取った織田信長は、これらの告発を深刻に受け止めたとされる 15 。
一般的な説では、信長は激怒または懸念し、家康に対して築山殿と信康の両名を処断するよう命じたとされる 3 。当時、織田・徳川同盟において信長は上位の立場にあり、家康にとってその命令は拒否し難いものであったと考えられる 3 。
しかし、異説も存在する。『安土日記』や『当代記』などの史料に基づく解釈では、信長の対応はより曖昧なものであったとされる 2 。家康の使者として派遣された酒井忠次が弁明に失敗した後(あるいは弁明しなかった後) 17 、信長は家康に対し「徳川殿の思うがままに」あるいは「いかようにも存分にせよ」と、処置を家康の裁量に委ねたとされる 2 。
この点は極めて重要である。もし信長が直接処刑を命じたのであれば、家康は同盟維持のために家族を犠牲にした悲劇の人物となる。しかし、信長が裁量を認めたのであれば、家康自身の動機や主体性が事件の中心となる。信長の関与は、直接的な命令であれ、より巧妙な圧力であれ、間違いなく大きな触媒であった。たとえ明確な命令を下さなかったとしても、信長の認識と事態解決への期待は、家康に重くのしかかったであろう。この曖昧さが、家康の責任の度合いについて様々な解釈を可能にしている。「命令説」は、後の徳川幕府にとって、家康のイメージを保つ上で都合の良い物語であった可能性もある。「裁量説」は、徳川家内部の問題が主因であったとする説への扉を開く。
妻と嫡男に対する告発、そして信長からの圧力(直接的か間接的かを問わず)に直面した家康は、極めて困難な立場に立たされた 3 。特に武田氏という共通の敵が存在する中で、織田氏との同盟を維持することは、自身の生存と野心にとって不可欠であった 3 。
家康はこの決断に苦悩したと言われている 12。
まず信康を岡崎城から退去させ、大浜、次いで堀江城、最後に二俣城へと移送・幽閉した 21。この移動は、家康が時間稼ぎを試みた、あるいは事態好転の僅かな望みを託した行動と解釈する向きもある 21。
しかし最終的に、家康は築山殿の処刑と信康の自刃を命じた 4。
家康自身が堀秀政に宛てた書状では、信康を岡崎から追放した理由として、信康の「不覚悟」を挙げているが 2 、これは内通を直接的に認めるものではなく、曖昧な表現である。
家康の行動は、その動機が何であれ、残酷であり、個人的にも政治的にも深刻な結果をもたらした。正室と嫡男を犠牲にするという彼の決断は、戦国大名に要求される非情さを示している。
信康事件の原因については、単一の単純な理由ではなく、複数の要因が絡み合って発生したと考えられる。主な説は以下の通りである。
表2:信康事件の原因に関する主要説
説 |
主要な論点・典拠資料からの証拠 |
関連資料例 |
織田信長の直接命令説(伝統的見解) |
徳姫の書状に激怒した信長が、同盟維持の証として家康に妻子の処断を強要した。家康は不本意ながら従った。 |
4 |
家康の主体的判断説(徳川家内部の問題) |
|
|
父子間の政治的・政策的対立 |
信康が岡崎で独自の勢力を形成し、家康の方針(対武田強硬策、親織田路線)と対立した(例:信康は武田との和睦を模索)。信康の「逆心」が原因。 |
17 |
徳川家中の派閥抗争 |
浜松の家康派と岡崎の信康派の間で深刻な対立があり、事件はその頂点であった。 |
17 |
築山殿・信康の実際の罪状 |
大賀弥四郎事件への関与や、実際に武田氏との内通行為があった。 |
17 |
家康による権力基盤強化のための粛清 |
家康が、告発を口実に、問題のある後継者や妻を排除し、自身の権力を固め、徳川家の方針を統一しようとした。 |
21 |
徳姫の書状が主たる引き金説 |
徳姫の個人的な不満(不仲、側室問題など)が信長への告発につながり、事件を誘発した。 |
12 |
この事件は、戦国時代の権力力学の縮図と言える。大名間の同盟関係(織田・徳川の上下関係)、大名家内部の政治(岡崎対浜松の派閥、後継者問題、当主の絶対的権力)、個人的な人間関係(夫婦の不和、父子の確執)、そして情報戦(告発状や使者の役割)といった要素が複雑に絡み合っている。伝統的な「信長の命令説」は根強いものの、近年の研究では徳川家内部の問題、特に家康の主体的な判断が事件の核心にあったとする見方が有力になりつつある。家康が、信長の圧力を受けつつも、あるいはそれを巧みに利用しつつ、自身の戦略的判断に基づいて、 perceived threats(反抗的な息子、今川の血を濃く引く妻、そして彼らを中心とする後継者候補)を排除し、権力集中を図った可能性が示唆される。この事件は、戦国期の指導者が一族の存続と覇権確立のために、いかに非情な選択を迫られたかを生々しく物語っている。
築山殿の処刑は、天正7年8月29日(西暦1579年9月19日または20日頃)に執行された 4。
処刑場所は遠江国、浜松近郊の富塚(とみつか)4、あるいは小藪(こやぶ)11 とされる。具体的には「御前谷(ごぜんだに)」と呼ばれる場所であったという記録もある 11。これは岡崎から浜松へ向かう道中であった 11。
死因は、家康の家臣による殺害(斬殺)であった 3。実行した家臣として、野中重政(通称:三五郎)と岡本時仲(通称:平右衛門)の名が挙げられている 4。
享年は、天文11年(1542年)生まれであれば数えで38歳、それ以前の生まれであれば40歳前後であったと推定される 4。
築山殿の死に対する家康の反応については、ある記録では「女なのだから、もっと違うやりかたがあったのではないか」とその処刑方法への配慮の欠如を嘆いたとされるが 25、別の資料では信康の死は悲しんだものの、築山殿の死を悲しんだかは不明であるとしている 3。
彼女の処刑は迅速かつ非情に行われ、信康の自刃に先立って執行された。その場所から、移動中に襲撃され殺害された可能性が示唆される。
築山殿の処刑から約半月後の天正7年9月15日(西暦1579年10月5日頃)、嫡男の松平信康も死を迎えた 4。
場所は遠江国の二俣城(ふたまたじょう)であった 4。
死因は、家康の命令による切腹であった 4。
享年は数えで21歳であった 26。
築山殿が先に処刑され、その後信康が自刃に追い込まれたという順序、そして両名とも彼らの権力基盤であった岡崎から離れた場所で排除されたという事実は、この粛清が計画的であったことを示唆している。築山殿を先に排除することで、信康をさらに孤立させ、疑惑の中心人物の一人、あるいは反乱の潜在的な旗頭を排除する戦略的な意図があったのかもしれない。岡崎から離れた場所での処断は、信康らに忠実な家臣団からの即座の反発を最小限に抑えるためであったろう。この母子の計画的な排除は、断固たる、そして非情な行動であり、 perceived problem の完全な解決を目指したものであった可能性が高い。もし信康に関する信長の命令が曖昧なものであった場合、築山殿の死は必ずしも「必要」ではなかったかもしれない。それゆえ、彼女の死は、家康(あるいは徳川家中の有力派閥)が彼女自身を明確な問題、あるいは「信康問題」と不可分な存在と見なしていたことを強く示唆する。これは、信長の命令を超えて、徳川家内部の力学に事件の原因を求める説を補強するものである。
嫡男・信康の死は、徳川家の後継者問題に根本的な変化をもたらした。家康の次男・結城秀康も(実子ではないという疑念やその他の理由から)後継者候補から外され 28 、結果として三男の秀忠が後継者となり、第二代徳川将軍の座に就くことになった 17 。この事件は悲劇的ではあったが、最終的には家康が自ら選んだ、そして事件後に自身の監督下で育てた後継者によって、一族の将来の指導体制を確固たるものにすることを可能にした。
信康と築山殿を中心とする岡崎派という、潜在的な内部対抗勢力あるいは不満分子を排除したことで、家康は自身の権威を強化し、徳川家の方針、特に織田信長への忠誠路線を明確にした 27。
家康の私生活においては、築山殿の死後、公式な正室を迎えることはなかったと伝えられている 21。これは、事件によるトラウマや罪悪感、あるいは政治的な判断によるものかもしれない。
家臣団の反応としては、『三河物語』が酒井忠次が信康を弁護しなかったことを批判しており、一部の家臣が信康の死を不当と感じていたことを示唆している 23。しかし、家康は忠次を引き続き重用しており、忠次が家康の暗黙の指示に従っていた可能性も示される 23。信康の死後、岡崎城では怪異が続いたとされ、供養塔が建てられたという話もある 30。また、多くの岡崎の家臣が処罰されたり、出奔したりした 17。
他の大名からの直接的かつ広範な反応については、信長の関与を除き、提供された資料からは詳細は不明である。
信康事件は、秀忠の台頭、家康の権力集中、そして家康の個人的な選択(公式な再婚を避けるなど)に永続的な影響を与えた。岡崎派という対抗勢力の排除は、家康がより統一された政策(例えば親織田路線)を推進することを可能にした。この事件は、徳川領内における不忠や派閥主義の結末について厳しい警告となり、家康が天下統一へと向かう中で、一族の内部規律や統治アプローチを形成する上で影響を与えたと考えられる。後年、家康が関ヶ原の戦いの際に「せがれ(信康)がいればこんな思いをしなくて済んだ」と漏らしたという逸話は 17 、真偽はともかく、この決断から生じた心理的、戦略的な複雑さを反映している。
築山殿の歴史的評価は、時代と共に大きく変遷してきた。
江戸時代 – 「悪女説」の流布
『玉輿記』、『柳営婦人伝』、『武徳編年集成』、『改正三河後風土記』といった江戸時代に成立した多くの編纂物において、築山殿は生来性質が悪く、嫉妬深く、傲慢で、悪意に満ちた女性として描かれている 2。『改正三河後風土記』に至っては、唐人医師・減敬との密通の噂まで記している 2。
このような否定的な描写は、徳川幕府の創始者である家康の行動を正当化し、そのイメージを保護する目的があったと考えられる。築山殿を悪役に仕立て上げることで、悲劇的な事件の責任を家康や信長から彼女に転嫁することが可能になったのである 11。これは、徳川の公式な歴史観を構築する一環であった。
近代以降 – 「悲劇のヒロイン説」への転換
現代の歴史家や分析では、彼女を政略結婚の犠牲者、夫の愛情の薄さ、そして戦国時代の非情な権力闘争の犠牲者として、より同情的に捉える傾向が強まっている 2。
桑田忠親氏などの研究者は、築山殿の不義や武田氏との内通といった疑惑を裏付ける信頼性の高い同時代の一次史料が存在しないことを指摘している 2。
彼女の今川出身という出自、家康の今川氏からの離反、実家の両親の死、家康との別居、そして織田・徳川同盟という複雑な政治状況などが、彼女の悲劇的な運命を決定づけた重要な要因として再評価されている 2。
現代の歴史学は、伝統的な物語に対してより批判的であり、人物をその広範な社会政治的文脈の中で理解しようとするため、歴史における女性のより多角的な描写へと繋がっている。
築山殿の評価の変遷は、歴史記述がいかに権力や時代の価値観を反映するかを示す好例である。江戸時代の「悪女説」は、徳川幕府のイデオロギーを色濃く反映している。一方、近現代における「悲劇のヒロイン」への評価のシフトは、より批判的な歴史研究と、変化する社会規範の現れと言える。彼女の物語は、「歴史」が固定されたものではなく、新たな証拠、変化する研究方法、そして進化する社会的価値観を通じて絶えず再解釈されることを示している。
築山殿と松平信康の遺骸や慰霊のための史跡は、彼らの旧領地である岡崎や、終焉の地であり当時の家康の本拠地であった浜松に点在している。
表3:築山殿及び松平信康の主要な墓所・慰霊碑
対象者 |
史跡名 |
所在地(市・区・町) |
内容(首塚、胴塚、主要墓所など) |
関連資料例 |
築山殿 |
西来院(月窟廟) |
浜松市中央区広沢 |
主要墓所(胴塚) |
11 |
築山殿 |
祐傳寺 |
岡崎市両町 |
当初の首塚 |
33 |
築山殿 |
八柱神社 |
岡崎市欠町石ヶ崎 |
後の首塚 |
33 |
築山殿 |
清瀧寺 |
浜松市天竜区二俣町 |
当初の埋葬地とする説あり(異説あり) |
4 |
松平信康 |
清瀧寺 |
浜松市天竜区二俣町 |
主要墓所・菩提寺 |
33 |
松平信康 |
若宮八幡宮 |
岡崎市 |
首塚 |
33 |
松平信康 |
西念寺 |
東京都新宿区 |
供養塔(服部半蔵建立) |
34 |
その他の関連史跡:
これらの史跡の存在は、事件の悲劇性と、その後の慰霊や記憶の政治的・社会的管理の複雑さを物語っている。岡崎は彼らの旧領であり、石川数正のような家臣による埋葬は、旧主への忠誠心や家康による故郷での慰霊の意図を示唆する。浜松は終焉の地であり、家康の本拠地に近いことから、西来院や清瀧寺は家康の後援を受けて重要な慰霊施設となった可能性があり、責任、悔恨、あるいは霊の鎮魂といった複雑な動機が絡み合っていたと考えられる。遺骸が首と胴で別々に葬られたことは、非業の死を遂げた者や、検視のために首が運ばれた(築山殿の首が信長のもとに届けられたという伝承もある 30 )場合の慣習を反映しているかもしれない。これらの場所は、彼らの生涯と死の地理的軌跡をたどるだけでなく、徳川家がこの内部の悲劇とどのように向き合い、その歴史的物語を構築していったかを理解するための焦点となる。
歴史小説や大河ドラマなどのフィクション作品における築山殿の描かれ方は、時代と共に変化してきた。
長らく、江戸時代の「悪女説」を引き継ぎ、嫉妬深く、陰謀を巡らす悪質な女性として描かれる傾向が強かった 2 。1961年の映画『反逆児』や1983年のNHK大河ドラマ『徳川家康』などがその例として挙げられる 2 。
しかし、近年の作品では、より複雑で、しばしば同情的な人物像が提示されるようになってきている 2。
2017年のNHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』では、菜々緒が演じる築山殿は、聡明で芯の強い女性として描かれた 2。
2023年のNHK大河ドラマ『どうする家康』では、有村架純が演じる築山殿(瀬名)は、家康を支える慈愛に満ちた妻として、さらには戦のない世を目指す理想家として描かれ、従来のイメージを大きく覆した 2。この作品では、彼女と信康は平和を愛する人物として描かれ、その悲劇的な結末は、壮大ながらも現実離れした平和構想が頓挫した結果として描かれている 39。
このような描写の変遷の背景には、歴史研究の進展と一次史料の再評価、ジェンダー観の変化と歴史における女性の視点への関心の高まり、そして脚本家が現代の視聴者に共感を呼ぶ、あるいは新たな解釈を提示する魅力的なキャラクターを創造しようとする意図などがあると考えられる 39 。
フィクションにおける築山殿の描写は、歴史的「事実」、解釈、そして創造的な物語作りの交差点である。初期のフィクションはしばしば確立された、偏見を含む可能性のある二次資料に依拠していた。歴史研究がより多角的な視点を提供するにつれて、一部のフィクション作品はこれらを取り入れ、彼女を犠牲者またはより複雑な人物として描き始めた。現代のドラマは、特定のテーマ(例えば家康の苦悩や平和への希求)を探求するために、たとえ伝統的な歴史解釈から逸脱するとしても、登場人物を大胆に再解釈することがある 39 。大衆メディアは歴史上の人物に対する一般の認識を形成する上で重要な役割を果たす。広く視聴される大河ドラマでの同情的な描写は、多くの学術論文よりも一般の理解に大きな影響を与える可能性がある。フィクションにおけるこの進化は、逆により正確な歴史的理解への関心を刺激し、古い、偏った物語に対する批判的な考察を促すこともある。それはまた、歴史上の人物が、現代のテーマや関心事を探求するために、異なる世代によってどのように再利用され得るかを示している。
瀬名姫、すなわち築山殿の生涯は、高貴な出自、政略的な結婚、戦国時代の激動、そして悲劇的な最期という要素に彩られている。信康事件の真相については未だ決定的な合意はなく、政治的圧力、個人的な関係、そして派閥闘争の可能性が複雑に絡み合っていたと考えられる。
彼女の歴史的評価は、徳川時代の史書における悪女としての断罪から、現代の学術研究や一部の大衆文化における、より多角的でしばしば悲劇的な人物としての再評価へと、大きな変遷を遂げてきた。
築山殿の物語は、戦国時代の日本における女性の不安定な立場を痛切に示している。彼女たちの人生はしばしば男性の政治的野心によって左右され、その遺産は後世の歴史解釈によって形作られ、また再構築され得る。彼女の生涯は、封建時代の日本における権力、同盟、そして裏切りの非情な現実を垣間見せる窓となっている。築山殿を理解するためには、彼女が生きた時代の文脈、そして彼女の物語が語り継がれてきた歴史的背景そのものを考慮に入れる必要がある。