最終更新日 2025-10-24

三好長慶
 ~武も文も我にありと驕慢を示す~

三好長慶が将軍・足利義輝の前で「武も文も我にあり」と豪語した驕慢譚を検証。史実との乖離や、長慶の人物像、彼が生きた時代の力学から、物語が生まれた背景を解明。

三好長慶の驕慢譚 ―「武も文も我にあり」と謳われた天下人の実像と虚像

序章:驕慢譚の深層へ ― なぜこの逸話は語り継がれるのか

戦国時代、数多の英雄たちが覇を競う中で、ひときわ異彩を放つ逸話が存在する。それは、畿内の覇者・三好長慶が、時の将軍・足利義輝の御前にて堂々と漢詩を吟じ、そして言い放ったとされる一言に集約される。「武も文も我にあり」。この言葉は、主君を凌駕し、将軍さえも傀儡とした男の絶対的な自信と、旧来の権威に対する挑戦の象徴として、鮮烈なイメージとともに語り継がれてきた。あたかも、下剋上という時代の精神そのものが、一人の人物の姿を借りて現出したかのような劇的な場面である。

しかし、この心を揺さぶる物語は、果たして歴史の舞台で実際に演じられた一幕なのであろうか。それとも、後世の人々が「最初の天下人」と評される長慶の偉業を讃えるために、あるいはその驕りを戒めるために紡ぎ出した創作なのであろうか。本報告書は、この「驕慢譚」という一点に焦点を絞り、単なる物語の再話に留まることなく、現存する史料の光を当て、その核心に迫ることを目的とする。この逸話の真偽を問う旅は、三好長慶という複雑な人物の実像、そして彼が生きた時代の力学と価値観を、より深く理解するための重要な鍵となるであろう。

第一章:舞台設定 ― 長慶と義輝、二人の天下人の奇妙な関係

この逸話が生まれる土壌を理解するためには、まず三好長慶と室町幕府第13代将軍・足利義輝との間に横たわっていた、単純な主従関係では到底説明できない、複雑かつ緊張をはらんだ力関係を解き明かす必要がある。両者の関係は、敵対、和睦、そして奇妙な共存という変転を辿り、その力学の推移こそが、物語の背景を形成している。

時系列で見る関係性の変遷

長慶と義輝の関係は、長慶がその主君・細川晴元と対立したことに端を発する。晴元を支持する将軍家は、必然的に長慶の敵となった。天文18年(1549年)、長慶は摂津江口の戦いで晴元と、その重臣であった同族の三好政長を破る 1 。この決定的な勝利により、晴元は当時まだ義藤と名乗っていた若き将軍・義輝を伴い、京の都を捨てて近江坂本へと逃亡した 3

ここに、戦国史上でも特異な時代が幕を開ける。長慶は、将軍を京から追放したまま、新たな将軍を擁立することも、自らが将軍になろうとすることもなく、畿内を実力で統治し始めたのである 5 。これは、足利将軍家の権威を形式的にすら必要としない、新たな権力構造の出現を意味していた。三好政権の誕生である 6

しかし、両者の関係は断絶したままではなかった。天文21年(1552年)、一度は和睦が成立し、義輝は京へと帰還を果たす 3 。だが、この融和は長くは続かなかった。翌天文22年(1553年)には、長慶暗殺の噂が流れるなど関係は再び悪化し、義輝はまたしても近江朽木へと落ち延びることになる 8

この後、約5年間にわたる将軍不在の時代を経て、永禄元年(1558年)、近江守護・六角義賢の仲介によって、両者は再び和睦する 10 。これにより義輝は京へ戻り、以後、長慶が永禄7年(1564年)に没するまで、将軍は京に在住し、長慶が畿内の実権を握るという、二頭政治とも言うべき奇妙な共存関係が続くことになる。この時期、義輝は諸大名間の紛争調停に乗り出すなど、将軍権威の回復に精力的に努めた 11 。一方で、長慶もまた、その将軍の権威を自己の統治に利用する側面があり、両者は互いに牽制しつつも、ある種の相互依存関係にあった 12

年号(西暦)

主な出来事

両者の力関係

典拠

天文18年(1549)

江口の戦い。長慶が勝利し、義輝・晴元は近江へ逃れる。

長慶の圧倒的優位

2

天文21年(1552)

長慶と義輝が和睦。義輝が帰京する。

緊張をはらんだ和解

3

天文22年(1553)

関係が再度悪化。義輝が再び近江へ逃れる。

長慶の優位確定

8

永禄元年(1558)

六角氏の仲介で再度和睦。義輝が5年ぶりに帰京する。

拮抗・奇妙な共存

9

永禄7年(1564)

三好長慶、死去。

-

13

永禄8年(1565)

永禄の変。三好三人衆らにより義輝が殺害される。

-

14

共生を伴う拮抗関係

ここで一つの疑問が生じる。なぜ、圧倒的な軍事力を有していた長慶は、敵対する義輝を完全に排除しなかったのか。一部の記録は、長慶の性格が敵を徹底的に追い詰めない「寛容」あるいは「微温的」なものであったと示唆している 8 。しかし、その理由は単なる性格論に帰結するものではない。より深く考察すれば、そこには極めて高度な政治的判断が存在したことが見えてくる。

長慶は、旧来の権威秩序を完全に破壊する革命家ではなく、その構造を維持した上で、自らがその頂点に立とうとした現実主義者であった。室町幕府の将軍という権威は、特に地方の諸大名に対しては依然として絶大な影響力を持っていた。長慶にとって、将軍を完全に滅ぼすことは、自らの支配の正統性を担保する装置の一つを失うことを意味した。むしろ、将軍を「生かさず殺さず」の状態で京に置き、その権威を自らの統治のために利用することこそが、最も合理的な選択だったのである 12

一方の義輝も、京を離れて流浪の身となっては、将軍としての実権を振るうことはできない。彼は長慶との危険な共存を受け入れることで、再び政治の中心地に戻り、権威回復の機会を窺う道を選んだ。

かくして、両者の間には、互いを必要としながらも、水面下では激しく牽制し合う「共生を伴う拮抗関係」が成立した。将軍の御前という公式の場で、陪臣に過ぎないはずの長慶が、その実力を誇示する。このような一触即発の逸話が生まれるには、これ以上ないほどふさわしい、張り詰めた空気が京の都には満ちていたのである。

第二章:「武も文も我にあり」― 宣言の根拠を探る

逸話の核心をなす「武も文も我にあり」という長慶の自己評価は、単なる自惚れや誇張ではなかった。彼の生涯を検証すれば、この言葉が客観的な事実に裏打ちされた、揺るぎない自負であったことが明らかになる。

第一節:「武」の実績 ― 天下人への道

三好長慶の「武」は、戦場における個人的武勇に留まらず、一個の政治権力を樹立し、国家を運営する能力にまで及んでいた。

まず、その軍事的成功は疑いようがない。父・元長を死に追いやった仇敵の一人である三好政長を江口の戦いで討ち取り 1 、かつての主君・細川晴元を畿内から追放したことで、彼は名実ともに関西における最大の軍事勢力としての地位を確立した 1 。その勢力は、本拠地の四国から畿内一円に及び、最盛期には山城、摂津、河内、和泉、大和の五畿内に加え、阿波、讃岐、淡路など計10ヶ国近くを支配下に置いたとされる 1

さらに特筆すべきは、その政治的権勢である。前述の通り、彼は将軍を擁立することなく、幕府の役割を代行する中央政権、すなわち「三好政権」を樹立した 1 。これは、後の織田信長による天下統一事業の先駆的モデルとさえ評価されている 1 。永禄3年(1560年)の正親町天皇の即位式においては、長慶がその警護の大役を務め、将軍を介さずに朝廷と直接交渉して「永禄」への改元を主導するなど、その権力はもはや将軍を凌駕していた 1 。当時の人々が彼を「日本の副王」と呼んだという記録は、その権勢がいかなるものであったかを雄弁に物語っている 1

また、長慶は堺の自由都市としての経済力にいち早く着目し、貿易によって得られる莫大な富を軍事力に転換するという、先進的な経済政策を実践した 8 。鉄砲の組織的運用やキリスト教の布教公認なども、信長に先駆けて行っており、旧弊に囚われない革新的な精神の持ち主であった 5

第二節:「文」の素養 ― 乱世の文化人

長慶の非凡さは、「武」の領域だけに留まらなかった。彼は当代屈指の文化人としてもその名を馳せており、特に和歌の一形式である連歌への傾倒は並々ならぬものがあった 5

その象徴的な事例が、永禄4年(1561年)に自身の居城である飯盛城(大阪府大東市・四條畷市)で催された大規模な連歌会である。この会は3日間にわたって開かれ、詠まれた句は『飯盛千句』として記録され、今日に伝わっている 5 。これは、彼の文化活動が単なる座興ではなく、一大イベントとして企画・実行されるほどの規模と質を伴っていたことを示している。

そして、彼の「文」の素養が本物であったことを示す、何よりの客観的な証拠が存在する。それは、当代随一の文化人であり、後に歌学の秘伝である「古今伝授」を受けることになる細川藤孝(幽斎)が、長慶の連歌を高く評価していたという事実である。『耳底記』という書物には、藤孝が「修理大夫(長慶のこと)連歌は、いかにも案じてしたる連歌なりしなり」と述べたと記されている 7 。これは、「長慶の詠む句は、実によく推敲され、考え抜かれたものである」という意味であり、専門家の目から見ても、彼の作品が優れたものであったことを証明している。連歌のみならず、茶の湯にも深く通じていたとされ、長慶はまさに文武両道を究めた武将であった 5

「文」の政治的機能 ― 新興権力者による正統性の獲得戦略

長慶がこれほどまでに文化活動に心血を注いだのはなぜか。戦国時代の武将にとって、「文」の素養は単なる個人の教養や趣味ではなかった 19 。それは、自らの権力を社会的に承認させ、正統性を獲得するための、極めて重要な「政治的ツール」としての機能を持っていた。

特に、三好長慶のように、伝統的な家格や秩序を実力で覆した新興権力者にとって、その意味合いはより一層大きかった。京の公家や有力寺社といった、古くからの伝統的支配層と渡り合い、彼らに新たな支配者として認めさせるためには、「武」の力だけでは不十分であった。連歌や茶の湯といった、都の洗練された文化を自らが主導し、その中心に座すことで、長慶は自らが単なる力自慢の田舎武者ではなく、京の都を治めるにふさわしい文化的素養と正統性を備えた人物であることを、内外に強くアピールしたのである。茶の湯が織田信長や豊臣秀吉によって政治的に利用されたことはよく知られているが 22 、長慶はその先駆者であったと言える。

したがって、「文も我にあり」という宣言は、単なる個人的な自負の表明に留まらない。それは、「私には、この天下を武力で平定する能力と、文化的に統治する正統性の両方がある」という、極めて高度な政治的パフォーマンスであったと解釈することができる。それは、旧来の権威である将軍に対し、新たな時代の実力者が自らの統治理念を突きつけた瞬間でもあった。

第三章:逸話の検証 ― 同時代史料の沈黙と後世の創作

長慶が「武も文も我にあり」と宣言するに足る実績と素養を兼ね備えていたことは、歴史的事実である。しかし、問題は、彼がその言葉を「将軍・義輝の御前で」口にしたか否かである。この劇的な逸話の史実性を、史料批判の観点から徹底的に検証する。

一次史料の沈黙

歴史研究の基本は、対象となる時代に生きた人々によって書かれた記録、すなわち一次史料に依拠することである。この逸話が起こったとされる時期、長慶と義輝が公式に面会した記録は存在する。例えば、公家・山科言継が記した日記である『言継卿記』には、天文22年(1553年)閏1月1日に、長慶とその嫡男・義興が上洛し、義輝と面会したことが記されている 24 。しかし、この記録には、会見の具体的な会話内容や雰囲気についての記述はなく、当然ながら長慶が詩を吟じたり、驕慢な態度をとったりしたという描写は一切見当たらない。

この『言継卿記』に限らず、その他の同時代に書かれた公家の日記や武将の書状など、信頼性の高い一次史料を渉猟しても、この逸話を直接的に裏付ける記述は、現在のところ発見されていない。歴史の重要な一場面であるならば、誰かしらの見聞録に書き留められていても不思議ではないが、同時代は完全に沈黙しているのである。

後世の軍記物と大衆文化における長慶像

では、この逸話はどこから来たのか。『足利季世記』 25 や『続応仁後記』 8 といった、事件からやや後の時代に成立した軍記物語は、長慶の行動や性格について多くの記述を含んでいる。しかし、これらの書物は歴史書であると同時に、読者の興味を引くための文学的な脚色が多く含まれており、その記述を鵜呑みにすることはできない。そして、これらの軍記物語の中にも、問題の逸話が具体的な形で描写されているわけではない。

逸話の発生源を考える上で、より可能性が高いのは、江戸時代以降に発展した大衆文化の影響である。泰平の世となった江戸時代、浄瑠璃や歌舞伎といった大衆芸能が花開き、戦国時代の武将たちは英雄や悪役として脚色され、物語の題材として盛んに取り上げられた 13 。三好長慶もその例外ではなく、彼の生涯を題材とした作品が作られている 28 。特に、江戸後期の大坂では、「奴の小万」という武芸に秀でた女傑が長慶の末裔を名乗り、人形浄瑠璃や歌舞伎のヒロインとして絶大な人気を博したという事例もある 29

このような過程で、三好長慶という人物像は、史実から離れ、大衆の求める英雄像や、あるいは権力を驕る悪役像として、より単純化・類型化されていったと考えられる。将軍の前で自らの才を誇示するという、極めて演劇的で分かりやすいこの逸話は、そうした大衆文化の土壌の中で生まれ、磨かれていった可能性が極めて高い。

逸話の「物語的真実」― 歴史的記憶の結晶化

一次史料に記録がない以上、この逸話が特定の日に起こった出来事、すなわち「史実」である可能性は低いと言わざるを得ない。しかし、そう結論づけるだけで思考を止めてしまうのは早計である。なぜ、史実ではないかもしれない物語が、これほどまでに広く、そして長く語り継がれてきたのか。

その答えは、この逸話が「史実」ではないかもしれないが、三好長慶という人物と彼が生きた時代の「本質」を見事に捉えた、「物語的真実」を内包しているからに他ならない。江戸時代の人々にとって、三好長慶は「将軍を都から追い出し、下剋上を体現した最初の天下人」という、強烈なイメージで記憶されていた。この逸話は、彼が勝利を重ね、将軍を傀儡化し、文化の担い手としても君臨したという、複雑で長期にわたる政治過程を、「将軍の前で堂々と自らの文武を誇る」という、たった一つの象徴的なシーンに凝縮し、結晶化させている。

つまり、この物語は、ある特定の日に起こった出来事の正確な記録ではない。それは、三好長慶という歴史上の人物が、後世の人々によってどのように記憶され、どのように解釈されたかを示す、貴重な「歴史的記憶の産物」なのである。

第四章:比較史的考察 ― 「驕慢」の表現

三好長慶の逸話が持つ特異性をより明確にするため、歴史上、類似した状況下で起こった別の事例と比較検討を行う。その最も適切な比較対象は、長慶の約20年後、同じく将軍との対立の末にその権威を無力化した織田信長が、将軍・足利義昭に対して行った行為である。

比較対象:織田信長による足利義昭への「異見十七ヶ条」

元亀3年(1572年)、織田信長は、自らが擁立した将軍・足利義昭の行状を厳しく弾劾する17ヶ条からなる意見書、通称「異見十七ヶ条」を突きつけた 31 。これは、家臣が将軍の権威に対し、公然と、そして文書という形で異を唱えた、史実として明確に記録されている画期的な事件である。

その内容を見てみると、長慶の逸話との違いは明らかである。「異見十七ヶ条」は、極めて具体的かつ政治的・行政的な問題点の指摘に終始している。例えば、「宮中への出仕を怠っているではないか」(第一条)、「幕府に忠誠を尽くす者をないがしろにし、素性の知れぬ新参者ばかりを優遇している」(第三条)、「兵糧米を売って私腹を肥やし、将軍が商売をするなど前代未聞である」(第十四条)といった、生々しい批判が延々と続く 31 。これは、詩を吟じるような高尚な行為とは全く異なる、現実的な権力闘争の記録そのものである。

文学的表現と政治的文書の差異

この比較から、極めて重要な示唆が得られる。実際の歴史における権力者同士の対立や、下位の者が上位の者の権威に挑戦する場面は、信長の「異見十七ヶ条」のように、具体的で、時には些末とも思えるような問題点の指摘を積み重ねる、という形を取ることが多い。これは、自らの行動を正当化し、相手の非を明らかにするための「大義名分」を構築するという、現実的な政治プロセスに他ならない。

一方で、三好長慶の逸話は、そうした生々しい政治的駆け引きをすべて捨象し、「武」と「文」という、人間が持つ能力の根源的かつ普遍的なテーマへと問題を昇華させている。この劇的で洗練された表現形式は、実際の政治的対立の場面というよりも、後世の作者が、複雑な歴史的状況を一つの象徴的なシーンに凝縮して描き出した、文学的・演劇的な創作であることを強く示唆している。

結論として、こう言うことができるだろう。史実における権力闘争は、しばしば「文書」によって行われる。しかし、物語におけるそれは、より象徴的な「詩」や「宣言」によって語られるのである。この対比は、長慶の逸話が史実そのものではなく、史実を基に再構成された物語であることを、より一層明確に示している。

結論:史実を超えた「真実」― 驕慢譚が映し出す時代の本質

本報告書における徹底的な調査と多角的な分析の結果、三好長慶が将軍・足利義輝の前で詩を吟じ「武も文も我にあり」と豪語したとされる逸話は、特定の時点における 歴史的事実である可能性は極めて低い と結論づけられる。同時代の信頼性の高い一次史料にはその記録が一切なく、その物語的な性質や、類似の史実(信長の異見十七ヶ条)との表現形式の差異は、この逸話が後世、特に武将の英雄譚がもてはやされた江戸時代の大衆文化の中で形成されたものであることを強く示唆している。

しかし、この逸話が「史実ではない」という一点をもって、その価値を切り捨てるべきではない。むしろ、この物語は、史実の断片的な記録だけでは捉えきれない、より大きな**歴史の「真実」**を私たちに伝えている。その真実とは、室町幕府の権威が地に堕ち、家柄や血筋ではなく、実力を持つ者が新たな時代の支配者となる「下剋上」という時代の本質そのものである。三好長慶が、将軍を軍事的に凌駕するほどの「武」の力を持ち、同時に、京の都を治めるにふさわしい高度な「文」の教養を兼ね備えていたことは、紛れもない歴史的事実である。

この驕慢譚は、その歴史的現実を、一人の傑出した人物の、たった一つの言動に集約して描き出した、優れた**「歴史的寓話(アレゴリー)」**なのである。人々はこの逸話を通じて、複雑怪奇な時代の転換点を直感的かつ鮮明に理解し、記憶してきた。したがって、この物語は、三好長慶という一人の武将の個人的な驕慢さを伝えるだけでなく、足利将軍家という中世以来の権威が、一介の家臣が放つ「文武」の圧倒的な輝きの前に、その光を失った時代の決定的な瞬間を象徴する、不朽のナラティブとして評価されるべきであろう。それは史実を超え、人々の記憶の中で生き続ける、もう一つの「真実」の姿なのである。

引用文献

  1. 三好長慶は何をした人?「五畿を平定して信長に先駆けた最初の天下人になった」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/nagayoshi-miyoshi
  2. 三好長慶の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/46488/
  3. 足利義輝 京都の武将/ホームメイト - 刀剣ワールド大阪 https://www.osaka-touken-world.jp/kansai-warlords/kansai-yoshiteru/
  4. 戦国の梟雄はいかにして世に出たか。松永久秀(1) - 大和徒然草子 https://www.yamatotsurezure.com/entry/hisahide01
  5. 偉人たちの知られざる足跡を訪ねて 戦国乱世に畿内を制した「天下人」の先駆者 三好長慶 https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/bsignal/22_vol_196/issue/02.html
  6. 戦国の天下人 三好長慶と阿波三好家 https://ailand.or.jp/wp-content/uploads/2023/03/1521b7be191e0a21ebc56d430720998f.pdf
  7. 「三好長慶」戦国最初の天下人!信長よりも先に天下を手にした武将 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/607
  8. 三好長慶 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E9%95%B7%E6%85%B6
  9. 永禄の変(1/2)「剣豪将軍」足利義輝、三好三人衆らに討たれる https://www.tabi-samurai-japan.com/story/event/694/
  10. 「永禄の変(1565年)」三好氏による足利義輝殺害事件。剣豪将軍の最期とは | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/212
  11. 「北白川の戦い(1558年)」三好長慶と将軍・足利義輝の和睦。将軍は5年ぶりに帰京 https://sengoku-his.com/444
  12. 10分で読める歴史と観光の繋がり 真の敵は足利将軍だった。将軍義輝と三好長慶の対立、織田信長が掲げた天下布武 ゆかりの初代二条城、小田原城、岐阜城、紀州根来寺 | いろいろオモシロク https://www.chubu-kanko.jp/ck.blog/2022/12/10/10%E5%88%86%E3%81%A7%E8%AA%AD%E3%82%81%E3%82%8B%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%A8%E8%A6%B3%E5%85%89%E3%80%80%E7%9C%9F%E3%81%AE%E6%95%B5%E3%81%AF%E5%B0%86%E8%BB%8D%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%82%E4%B8%89/
  13. 三好 長慶とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E4%B8%89%E5%A5%BD+%E9%95%B7%E6%85%B6
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  15. 12歳で和睦の仲介?戦国時代最初の天下人・三好長慶のポテンシャルが半端ない! - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/89141/
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  17. 生誕500年!戦国武将「三好長慶」を知る - 大東市ホームページ https://www.city.daito.lg.jp/soshiki/56/46868.html
  18. 【麒麟がくる】第6回「三好長慶襲撃計画」レビューと解説 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/882
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  21. 戦国武将に学ぶ健康長寿の秘密 ① - 第一薬品工業株式会社 https://www.d1yk.co.jp/health-information/2018/post-46.html
  22. 著名人が遺した辞世の句/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/historical-last-words/
  23. 千利休-歴史上の実力者/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/44325/
  24. 歴史の目的をめぐって 三好義興 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-32-miyosi-yosioki.html
  25. 歴史の目的をめぐって 三好長慶 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-32-miyosi-nagayosi.html
  26. 歴史の目的をめぐって 三好政長 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-32-miyosi-masanaga.html
  27. 第五節 浄瑠璃 - データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/52/view/6887
  28. 三好長慶(ミヨシナガヨシ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E9%95%B7%E6%85%B6-16803
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  30. 小説「奴の小万と呼ばれた女(三好正慶尼伝説) 感想」松井今朝子 https://trillion-3934p.hatenablog.com/entry/2023/08/11/111300
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  32. 織田信長 vs 足利義昭、将軍追放の裏側!天正元年(1573)に何が起きたのか? https://sengoku-his.com/2798
  33. 第52話 番外編 織田信長が足利義昭に出した異見十七箇条の中身を見てみよう! https://akechikai.or.jp/archives/oshiete/510
  34. 信長、将軍足利義昭を痛烈に批判。「十七カ条の異見書(1572年)」とは | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/832