上杉景勝
~終始沈黙敵将退かす寡黙の威譚~
上杉景勝の「寡黙の威譚」は、関ヶ原前の徳川家康との外交対立が源泉。上洛拒否と「直江状」による「沈黙」と「言葉」の戦略が、いかに伝説となったかを探る。
上杉景勝『寡黙の威譚』の歴史的実相:慶長五年の外交交渉と伝説の形成
序章:寡黙の威譚 ― 逸話の概要とその史料的検証
逸話の提示と通説の確認
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、上杉景勝。その人物像を語る上で、一つの象徴的な逸話が広く知られている。それは「会談の席で終始沈黙を貫き、その威厳のみで敵将を圧倒し、退かせた」という寡黙の威譚である。この物語は、景勝が持つとされる「寡黙」にして「威厳」に満ちた人格を、鮮やかに描き出すものとして、後世に語り継がれてきた 1 。
この「寡黙で威厳ある」人物像は、他の著名な逸話によっても補強されている。例えば、生涯でただ一度、飼っていた猿が自身の真似をした際に思わず笑ったという「猿の逸話」は、その一度の笑みが特筆されるほど、彼が普段いかに感情を表に出さなかったかを物語る 1 。また、当代きっての傾奇者(かぶきもの)として知られた前田慶次ですら、宴席で諸大名をからかう中で、景勝の前だけはその威風に気圧されて膝に乗ることができなかったという逸話も存在する 1 。これらの物語は相互に作用し、「沈黙の逸話」がごく自然に受け入れられる文化的土壌を形成してきた。
史料的検証と本報告書の主題設定
しかしながら、この「会談での沈黙によって敵将を退けた」という具体的な出来事を、同時代に記録された一次史料、すなわち当事者間の書状や公的な日記などで確認することは極めて困難である。この種の物語は、江戸時代に入ってから編纂された『武家事紀』や『常山紀談』といった逸話集や軍記物語の中で、理想の武将像として形成され、流布していった可能性が非常に高い 8 。
したがって、本報告書は、この逸話を文字通りの史実として追跡することを目的としない。代わりに、より根源的な問い、すなわち**「この伝説を生み出した歴史的実相とは何か?」**を主題として設定する。そして、その問いに対する答えとして、慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの直前に、当代随一の実力者であった徳川家康との間で繰り広げられた、極度の緊張を伴う外交的対立こそが、この「寡黙の威譚」の源泉であるという仮説を提示する。
この歴史的局面において、上杉景勝は家康からの上洛要求を拒否するという物理的な「沈黙」を貫き、一方で家老・直江兼続が執筆したとされる「直江状」という痛烈な「言葉」によって、家康という最大の「敵将」と対峙した。この「沈黙(上洛拒否)」と「言葉(返書)」による対決の構造こそが、後世に語り継がれる逸話の原型となった。本報告書は、この仮説を時系列に沿って徹底的に検証し、伝説が生まれるまでの過程を詳細に解説するものである。
第一部:歴史的実相 ― 慶長五年の対立構造
第一章:天下分け目の前夜 ― 対立の火種
豊臣政権下のパワーバランス
慶長3年(1598年)8月、天下人・豊臣秀吉がその生涯を閉じると、日本の政治情勢は急速に流動化し始めた。秀吉は幼い息子・秀頼の将来を案じ、有力大名による合議制を敷いた。その最高意思決定機関が「五大老」であり、上杉景勝はその一員として会津120万石を領する大大名であった 10 。官位や石高において、彼は五大老筆頭の徳川家康とほぼ同格の存在であり、豊臣政権の重鎮として、家康の独走を牽制する役割を暗に期待されていた 10 。
しかし、秀吉の死という権力の空白が生まれるや否や、家康はその巧みな政治手腕を発揮し、天下の実権掌握へと動き出す。秀吉が生前に固く禁じた大名間の私的な婚姻を次々と進め、自らの派閥を形成。豊臣政権のルールを公然と破ることで、その影響力を急速に拡大させていった。この家康の越権行為は、他の大老や五奉行、特に石田三成らとの間に深刻な対立を生む直接的な原因となった。
上杉方の軍備増強と家康の猜疑心
このような中央政界の不穏な動きと並行して、景勝は本国・会津での領国経営に力を注いでいた。慶長3年(1598年)、長年の本拠地であった越後から会津へ移封されたばかりの上杉家にとって、新たな領地のインフラ整備と防衛体制の強化は喫緊の課題であった。しかし、この一連の領国経営が、家康に「謀反の疑い」を抱かせる格好の口実を与えることとなる 10 。
家康が問題視した上杉方の具体的な動きは、主に以下の四点に集約される 13 。
- 神指城の新規築城 : 本拠である会津若松の鶴ヶ城とは別に、大規模な平城である神指城の建設に着手した。これは、より近代的で大規模な軍事拠点を作る意図があったと見なされた。
- 武具・兵糧の大量収集 : 領内で鉄砲や弓矢、槍といった武具を大量に買い集め、兵糧米の備蓄を強化した。
- 浪人の雇用 : 全国から名の知られた武士や牢人を積極的に召し抱え、軍事力を増強した 15 。
- 街道・橋梁の整備 : 領内の主要な街道を整備し、河川に橋を架けるなど、交通網の整備を進めた。これは平時においては領国経営の一環であるが、有事の際には軍隊の迅速な移動を可能にするための準備と解釈された。
これらの動向は、上杉家の会津移封に伴い越後の新たな領主となった堀秀治らによって、逐一家康のもとへ報告された。堀氏にとって、隣国の大大名である上杉家の軍備増強は直接的な脅威であり、その動向を警戒するのは当然であった 16 。家康はこれらの報告を巧みに利用し、上杉家に謀反の嫌疑をかけ、豊臣政権の公儀を代行する形で上杉討伐を断行するための大義名分を構築し始めたのである。
第二章:家康からの使者 ― 緊迫の外交交渉
外交僧・西笑承兌の起用
慶長5年(1600年)春、家康は景勝に対し、一連の軍備増強について釈明するための上洛を促すことを決意する。この極めて繊細な外交交渉において、家康は単なる武官の使者ではなく、一人の高僧を仲介役として起用した。その人物こそ、京都・相国寺の住持であり、当代随一の学識を誇る臨済宗の僧、西笑承兌(さいしょうじょうたい)であった 18 。
承兌は、秀吉の時代から政治顧問として重用され、明や朝鮮との外交文書の起草を管轄するなど、外交の第一線で活躍してきた人物である 21 。家康が彼を起用した背景には、いくつかの計算があった。第一に、承兌は直江兼続とも親交があり、交渉の糸口となり得た。第二に、幕府の公式な命令ではなく、高僧からの「忠告」という形を取ることで、要求の威圧感を和らげつつも、その内容は公的な権威を持つものとして相手に伝えられる。家康は、この承兌を介した交渉によって、上杉家を平和的に屈服させるか、あるいはそれを拒否させて討伐の口実を得るか、いずれに転んでも有利な状況を作り出そうとしたのである。
【時系列解説①:慶長5年4月1日】家康の詰問状(承兌書状)
承兌の名義で、上杉家の宰相である直江兼続宛に一通の書状が送られた。日付は卯月朔日(4月1日)。これが事実上の詰問状であり、天下分け目の外交戦の火蓋を切る一通となった。その内容は、後の「直江状」を理解する上で不可欠な前提となるものであり、極めて巧妙な恫喝と懐柔が織り交ぜられていた 19 。
- 上洛遅延への不審 : 書状はまず、「景勝公の上洛が遅延していることについて、内府様(家康)は大変ご不審に思っておられます」と、問題の核心を突きつける形で始まる。
- 軍備増強への非難 : 続けて、「神指原に新しい城を築き、武具を買い集め、道を整備しているとの噂が上方まで聞こえており、穏便ならざる事態です」と、具体的な疑惑を列挙し、上杉方の行動を非難する。
- 釈明の要求 : そして、「もし景勝公に謀反の心が毛頭ないのであれば、一刻も早く上洛して、内府様に直接釈明なさるべきです。それが叶わぬならば、神仏に誓う起請文(誓紙)を以て潔白を証明なされよ」と、明確な服従を要求する。
- 恫喝と懐柔 : さらに、加賀の前田利長が謀反の嫌疑をかけられた際に、母の芳春院を人質として江戸に送ることで許された一件を引き合いに出し 26 、「前田家の例を教訓とされよ」と恭順の道を示唆する。その一方で、「これは上杉家の存亡がかかる一大事であり、貴殿(兼続)も熟慮されよ」と、拒否した場合の破滅的な結末を強く匂わせた。
この書状は、表向きは承兌からの忠告という体裁を取りながらも、その実態は家康の意志を代弁した最後通牒に他ならなかった。
【時系列解説②:慶長5年4月13日】使者の会津到着
この詰問状を携え、家康の家臣である伊奈昭綱と、五奉行の一人・増田長盛の家臣である河村長門が、公式な使者として会津に到着した。日付は4月13日であったと「直江状」には記されている 19 。彼らの到着により、会津城内には凄まじい緊張が走ったことは想像に難くない。
彼らこそが、上杉家の「威厳」と「沈黙」を肌で感じることになる、最初の「敵将」の代理人であった。彼らが会津で目にしたもの、そして突きつけられたものこそが、「寡黙の威譚」の歴史的核となるのである。
第二部:「沈黙」から「返書」へ ― 寡黙の威光の真実
第一章:直江状 ― 言葉による抵抗
【時系列解説③:会談の実際】景勝の「沈黙」という名の戦略
使者である伊奈昭綱と河村長門が会津城に到着した際、彼らが直接、上杉景勝本人と対面し、交渉を行ったとは考えにくい。当時の武家の慣習と政治的力学から判断すれば、120万石の大大名である景勝が、陪臣(増田長盛の家臣)を含む使者と直接言葉を交わすことは、自らの権威を著しく損なう行為であった。
ここで、景勝が取ったであろう行動こそが、「沈黙」の逸話の原型である。すなわち、景勝は城の奥深くに控え、使者の前に姿を見せることなく、一言も発しない。この物理的な不在と沈黙は、単なる消極的な態度ではなく、計算された政治的戦略であった。それは、家康の土俵(上洛しての釈明)に乗ることを拒否し、使者との間に明確な身分の差を見せつけることで、上杉家の揺るぎない権威と威厳を誇示する行為だったのである。
実際の応対は、すべて宰相である直江兼続が取り仕切ったと考えるのが最も自然である。使者たちは、主君の姿を見ることさえできず、その代理人である兼続を通じて、上杉家の総意として練り上げられた、一切の妥協を排した強硬な意志を突きつけられることになる。景勝の「沈黙」は、背後に控える巨大な権威の象徴として機能し、兼続が発する言葉に絶大な重みを与えた。これこそが、「寡黙の威譚」が伝える、威厳に満ちた圧力の歴史的実相であった。
【時系列解説④:慶長5年4月14日】返書「直江状」の提出
景勝の「沈黙」という名の決意を代弁する形で、兼続は承兌(そしてその背後にいる家康)に対し、前代未聞とも言える痛烈な返書を叩きつけた。これが世に名高い「直江状」である。この書状こそ、「沈黙」の奥に秘められた上杉家の思想、論理、そして矜持を雄弁に物語るものであり、「敵将を退かせた」力の正体であった。
ただし、「直江状」はその原本が現存せず、後世の写本のみが伝わっているため、その内容の細部や表現について、後世の創作や脚色が含まれるとする「偽書説」も学界では根強く存在する 27 。しかし、上杉方が何らかの形で家康を激怒させるに足る強硬な返書を送ったことは、複数の史料から確実視されている 17 。したがって、現存する「直江状」は、たとえ細部に脚色があったとしても、当時の上杉家の精神と論理を色濃く反映した、極めて価値の高い歴史資料であると言える。
その内容は、家康からの詰問に対し、理路整然と、しかし極めて挑発的に反論するものであった。以下に、家康の詰問と「直江状」の反論を論点ごとに対比し、その詳細を解説する。
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論点 |
徳川家康の詰問(承兌書状による) |
上杉方の反論(直江状による) |
解説 |
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1. 上洛遅延 |
景勝の上洛が遅れている。これは謀反の疑いがあるからに他ならない。速やかに上洛し、釈明せよ。 |
国替え直後で政務が多忙な上、会津は雪国であり冬期(10月から3月)は往来が不可能である。讒言を鵜呑みにし、こうした事情も考慮せず一方的に上洛せよとは「乳呑子の会釈(子供だましの議論)」に等しい 19 。 |
上杉方の正当な理由を具体的に述べ、家康の要求が非論理的かつ高圧的であると一蹴。相手の議論の幼稚さを指摘することで、精神的優位に立とうとしている。 |
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2. 軍備増強 |
武器を集め、道を整備しているのは、明らかに戦の準備ではないか。 |
上方の武士が茶器や香道具を収集するように、田舎武士が武具を揃えるのは当然の「風俗」である。道や橋の整備は領国経営の基本であり、もし謀反を企むなら、むしろ道を塞ぎ防御を固めるのが常道であろう 19 。 |
家康の疑惑を「田舎武士の風俗」という常識論で切り返し、逆にその指摘が軍事を知らない者の浅慮であると痛烈に皮肉っている。論理のすり替えと挑発を巧みに組み合わせている。 |
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3. 釈明方法 |
疑いを晴らしたいのであれば、起請文を提出し、恭順の意を示せ。 |
近年、有力大名が交わした起請文など、いとも簡単に反故にされているではないか。そもそも筋道としては、我々を讒言した者(堀秀治)と直接対決させ、黒白をつけさせるべきだ。それをせず一方的に服従を迫るのは不当である 19 。 |
誓紙という形式的な権威が失墜している現実を突き、家康の裁定そのものの公正性に根本的な疑問を投げかけている。単なる釈明ではなく、対等な立場での審理を要求している。 |
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4. 総合的態度 |
内府様(家康)の御威光を恐れ、前田利長のように賢明に振る舞うべきである。 |
(前田家の件は)「北国肥前殿の儀、思召のままに仰せ付けられ候。御威光浅からざる事と存じ奉り候」(意訳:前田家の件は、内府様が思うがままに力ずくで屈服させましたな。その御威光、大したものでございます) 26 。我々は太閤殿下以来の律儀者であり、心変わりなどしない。 |
家康が誇示した権威を逆手に取り、痛烈な皮肉で応酬。上杉家は権力や圧力には決して屈しないという、「義」の精神を鮮明に表明している。 |
この返書を受け取った家康は、その理路整然としながらも極めて無礼かつ挑発的な内容に激怒したと伝えられる。これにより、両者の交渉は完全に決裂。「上杉討伐」の決意を固めた家康は、諸大名を率いて会津へ軍を進めることになる 4 。
ここで決定的に重要なのは、上杉方の「沈黙」と「言葉」は、敵を平和的に退かせたのではなく、逆に天下分け目の大戦を誘発したという歴史的事実である。逸話が語る「敵将を退かせた」という結末は、史実とは全く正反対の結果を描いている。この「結果の逆転」こそ、伝説が形成される過程で最も重要な改変であった。
第二章:逸話の再解釈と人物像の形成
逸話の構造分析 ― 史実から伝説へ
以上の詳細な分析から、「会談で終始沈黙し、敵将を退かせた」という逸話は、慶長5年の緊迫した外交交渉という史実が、長い年月を経て、より分かりやすく、より英雄的な物語へと昇華されたものであると結論付けられる。その変容の構造は、以下のように整理できる。
- 「敵将」の集約 : 史実における交渉相手は、家康本人、実際の使者である伊奈・河村、そして仲介役の西笑承兌といった複数の人物であった。これらが伝説化の過程で、一人の象徴的な「敵将」というキャラクターに集約された。
- 「会談」への凝縮 : 複雑な書状の往復と、代理人を介した間接的な交渉というプロセスが、一つの劇的な「会談」の場面へと凝縮された。これにより、物語はよりドラマチックで視覚的なものとなった。
- 「沈黙」の人格化 : 上洛を拒否し、使者と直接対峙しないという高度な政治的・戦略的判断が、景勝個人の「寡黙な威厳」という人格的特性へと還元された。組織としての決断が、リーダー個人の資質として語られるようになったのである。
- 「退かせた」という結果の改変 : 実際には関ヶ原の戦いを誘発し、結果的に上杉家は敗北と減封を喫した。この軍事的・政治的敗北という事実が、相手を道義的に屈服させたという象身的な「精神的勝利」へと完全に書き換えられた。
この物語の再構築は、敗者となった上杉家が、自らの歴史と誇りを後世に伝えるために必要不可欠な作業であった。軍事的な勝敗とは別の次元に、「義」を貫いたという精神的な勝利の物語を創造したのである。
江戸時代の武士道と景勝像
江戸時代に入り、徳川幕府による安定した治世が確立されると、武士に求められる価値観は、戦場での武勇から、平時における精神性や倫理観へと重点を移していった。主君への絶対的な忠義、家名の名誉、そして何事にも動じない精神力、すなわち「不動心」が、理想的な武士の姿として称揚された 30 。
このような時代の価値観の中で、上杉景勝の逸話は、絶対的な権力者であった徳川に屈しなかった不屈の精神の象徴として、また理想的な武将の姿として、ますます輝きを増していった。関ヶ原の戦後、会津120万石から米沢30万石へと大幅に減封されながらも、一人の家臣もリストラしなかったという逸話は 1 、彼の仁愛と義理堅さを示すものとして「寡黙の威譚」と結びつき、景勝は「義」を貫く寡黙な名君として、そのイメージを不動のものとした 36 。
特に、敗戦によって外様大名という立場に置かれ、常に幕府の監視下にあった米沢藩にとって、藩祖・景勝のこうした英雄的な物語は、藩士たちの誇りを支え、藩のアイデンティティを形成する上で極めて重要な役割を果たした 37 。江戸時代を通じて行われた藩史編纂事業などを通じて、これらの逸話は公式な歴史として定着し、語り継がれていったのである 40 。
結論:伝説と史実の狭間で
本報告書で検証した通り、上杉景勝が「会談で終始沈黙し、その威厳のみで敵将を退かせた」という逸話は、文字通りの史実として証明できるものではない。同時代の一次史料に、そのような劇的な場面を直接記録したものは見当たらない。
しかし、この逸話は単なる根拠のない作り話でもない。それは、慶長5年(1600年)、天下の覇権をその手に収めようとする徳川家康という巨大な権力に対し、上杉家が組織の存亡と誇りを賭けて対峙したという、紛れもない歴史的実相をその核心において捉えている。
景勝の「沈黙」とは、一個人の性格的寡黙さを超えた、巨大な圧力に屈しないという上杉家の断固たる意志の表明であった。それは上洛を拒否するという具体的な政治行動であり、計算された戦略であった。そして、その沈黙を破って発せられた「直江状」という「言葉」は、武力だけでなく、論理と気概をもって自らの正当性を主張する、上杉家の矜持そのものであった。
したがって、この「寡黙の威譚」は、複雑な歴史的経緯を一つの象徴的な物語へとドラマチックに凝縮した「もう一つの真実」として理解すべきである。それは、軍事的な勝敗を超えた精神的な勝利の記憶であり、上杉景勝という武将、そして彼が率いた上杉家の不屈の精神性を後世に伝え続ける、類稀なる価値を持つ歴史的ナラティブであると言えるだろう。
引用文献
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- うえすぎかげかつ【上杉景勝】 | う | 辞典 - キッズネット https://kids.gakken.co.jp/jiten/dictionary01300027/
- 上杉景勝(うえすぎかげかつ) - 米沢観光ナビ https://travelyonezawa.com/spot/uesugi-kagekatsu/
- 上杉景勝の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/38295/
- 一生に1度しか笑わなかった、関ヶ原合戦のきっかけをつくった男【上杉景勝】 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/40093
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- 上杉謙信の名言・逸話48選 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/304
- 直江兼続のファッション/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/92087/
- 上杉景勝はどうして家康に叛いて西軍に味方したのか?【どうする家康】 - ほのぼの日本史 https://hono.jp/sengoku/uesugi/uesugi-kagekatu/
- 上杉景勝(うえすぎ かげかつ) 拙者の履歴書 Vol.27〜逆境を耐え抜く器量 - note https://note.com/digitaljokers/n/na86a33320c57
- 小早川秀秋の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/35768/
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- 歴史上の人物を四柱推命で鑑定!第76回~上杉景勝 https://www.rekishijin.com/1934/2
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