上杉謙信
~敵将飢えに苦しむと聞き義の塩贈る~
上杉謙信の「敵に塩を送る」逸話を分析。武田信玄の窮地に対し、謙信が義侠心、経済合理性、政治的計算を兼ね備えた複合戦略として塩を供給した真相を解説。
上杉謙信「敵に塩を送る」の逸話 ― 義侠心と戦略の狭間、その真相に迫る
序章:義の武将か、怜悧な戦略家か
戦国乱世の数多の逸話の中でも、上杉謙信が宿敵・武田信玄の窮地を救ったとされる「敵に塩を送る」という物語は、ひときわ異彩を放っています。敵将が領民の苦しむ様を見かね、人道的な見地から必需品である塩を供給したというこの話は、謙信の「義」を象徴する美談として、今日まで広く語り継がれてきました 1 。それは、弱肉強食の時代にあって、武士の情けや人間としての矜持がいかに尊いものであったかを示す物語として、我々の心に深く刻まれています。
しかし、この広く知られた美談の裏側には、より複雑で多層的な歴史の力学が隠されています。近年の研究では、この逸話に対して様々な角度から光が当てられ、単純な義侠譚として片付けることのできない、いくつもの疑問が提示されているのです。そもそも、謙信が塩を「無償で送ったという史実はない」という指摘は、この物語の根幹を揺るがします 3 。さらに、卓越した経済感覚を持つ謙信が、敵の窮地を絶好の「ビジネスチャンス」と捉え、むしろ高値で塩を売りつけたのではないか、という経済合理性の観点からの分析も存在します 4 。果ては、同時代の一次史料には一切の記述が見られないことから、逸話そのものが後世の創作、すなわち「史実ではない」とする厳しい見解まであるのです 6 。
本報告書は、この「敵に塩を送る」という一つの逸話に焦点を絞り、その背景にある政治・経済・軍事の複雑な情勢を時系列に沿って丹念に解き明かすことを目的とします。通説である「義の美談」という表層的な理解に留まることなく、その引き金となった大国間の同盟破綻、塩が戦略物資として持った決定的な意味、そして上杉謙信という稀代の武将が下した決断の真意に、史料を基に多角的に迫ります。義の武将か、怜悧な戦略家か。あるいはその両面を併せ持つ、より深遠な人物であったのか。伝説のベールを一枚一枚剥がし、その奥に潜む歴史の真実を探求する旅が、ここから始まります。
第一章:危機への序曲 ― 甲相駿三国同盟の崩壊
上杉謙信による「塩送り」の逸話は、一個人の決断というよりも、永禄年間の東日本を揺るがした国際情勢の激変という、巨大な地殻変動の中から生まれました。そのすべての発端となったのが、甲斐の武田、相模の北条、駿河の今川という三国が結んだ鉄壁の同盟、「甲相駿三国同盟」の崩壊です。
均衡の時代と三国同盟
天文23年(1554年)、武田信玄(当時は晴信)、北条氏康、今川義元の三者は、互いの娘を嫡男に嫁がせるという婚姻関係を基盤とした、強固な軍事同盟を完成させました 7 。これにより、各国は背後の憂いを断ち切ることに成功します。武田は長年の宿敵である越後の上杉謙信との信濃を巡る戦いに、北条は関東平定に、そして今川は尾張への西方展開に、それぞれ全力を傾注することが可能となったのです 8 。この同盟は、約15年間にわたり東日本の勢力均衡を維持する、極めて重要な安全保障体制として機能していました。
激震:桶狭間の戦いとパワーバランスの崩壊
この鉄の均衡が、突如として崩れ去ります。永禄3年(1560年)、今川義元が尾張に侵攻するも、織田信長の奇襲によって討ち死にするという、歴史的な大事件「桶狭間の戦い」が勃発したのです。同盟の重鎮であった義元の死は、今川家の急激な弱体化を招き、三国間のパワーバランスを根底から覆しました 8 。
この状況を最も冷静に、そして冷徹に見つめていたのが武田信玄でした。北では依然として上杉謙信との激しい攻防が続き(第四次川中島の戦いは永禄4年)、これ以上の北進が困難であると悟った信玄にとって、弱体化した南の隣国・駿河は、新たな生存戦略の標的として映りました。海を持たない甲斐国にとって、駿河は悲願である「海への出口」であり、経済的な生命線を確保するための最重要拠点でした 10 。
信玄のこの戦略転換は、武田家内部にすら深刻な対立を生みます。今川家から正室を迎えていた嫡男・武田義信は、駿河侵攻に猛反対しました。しかし、信玄の意志は固く、最終的に義信を廃嫡し、死に追いやるという非情な決断を下してまで、南進への道を切り開いたのです 12 。
同盟の終焉:駿河侵攻と「塩止め」の発令
周到な準備を進めた信玄は、今川家の旧領である三河を平定しつつあった徳川家康と密約を結びます。その内容は、大井川を境として、東の駿河を武田が、西の遠江を徳川が領有するというものでした 13 。そして永禄11年(1568年)12月、信玄は長年の同盟を一方的に破棄し、大軍を率いて駿河への侵攻を開始します。ここに甲相駿三国同盟は、完全にその歴史的役割を終えました 14 。
この信玄の裏切り行為に激怒したのが、今川氏真と、氏真に娘(早川殿)を嫁がせていた北条氏康でした 12 。しかし、即座に武田と全面戦争に突入することは、北条にとっても大きなリスクを伴います。そこで彼らが選択したのが、武田の最大の弱点を突く経済制裁でした。永禄10年(1567年)6月、信玄の駿河侵攻計画を察知した今川氏は、北条氏と連携し、甲斐国への塩の輸出を全面的に禁止する「塩止め」を断行したのです 6 。これは単なる感情的な報復ではなく、直接的な軍事衝突を避けつつ、敵国の社会基盤そのものを揺るがすことを狙った、極めて計算された戦略的措置でした。
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年代(西暦) |
主な出来事 |
武田家の動向 |
今川・北条家の動向 |
上杉家の動向 |
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天文23年(1554) |
甲相駿三国同盟の成立 |
背後の安全を確保し、信濃経略に注力 |
相互の安全を確保し、北条は関東、今川は西方へ注力 |
武田との信濃を巡る抗争が激化 |
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永禄3年(1560) |
桶狭間の戦い |
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今川義元が討死。今川家が急激に弱体化 |
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永禄4年(1561) |
第四次川中島の戦い |
上杉謙信と激闘。北進の限界を認識し始める |
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武田信玄と激闘 |
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永禄10年(1567) |
武田義信事件/ 塩止め発令 |
駿河侵攻に反対する嫡男・義信が死去 |
今川・北条が連携し、甲斐への塩の輸出を禁止 |
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永禄11年(1568) |
駿河侵攻 |
徳川家康と密約を結び、駿河へ侵攻 |
武田軍の侵攻を受け、今川氏真は掛川城へ籠城 |
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永禄12年(1569) |
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甲斐の塩不足を知り、塩の交易を止めず(逸話の年) |
この年表が示すように、謙信の行動は突発的なものではなく、長年にわたる国際関係の変化の末に起きた、必然的な出来事であったことが理解できます。信玄の駿河侵攻は、単なる領土的野心というよりも、桶狭間以降のパワーバランスの変化に対応し、将来の脅威を未然に排除するための国家安全保障戦略の転換でした。そして、それに対する今川・北条の「塩止め」は、軍事力に代わる最も合理的かつ効果的な報復手段だったのです。
第二章:塩という名の兵糧攻め ― 甲斐・信濃を襲った未曾有の国難
今川・北条両氏による「塩止め」は、武田の領国である甲斐・信濃に未曾有の国難をもたらしました。それは、単に食卓から塩味が消えるといった次元の話ではありません。人間の生命維持、食料の安定供給、そして社会経済の根幹を揺るがす、まさに「塩という名の兵糧攻め」でした。
内陸国の生命線、断たれる
甲斐(現在の山梨県)と信濃(現在の長野県)は、四方を山に囲まれた典型的な内陸国です。そのため、生活に不可欠な塩は、100%他国からの輸入に頼らざるを得ませんでした 16 。その供給ルートは、大きく二つに分かれていました。一つは、太平洋側の駿河・相模から運ばれる「南塩」。もう一つは、日本海側の越後から運ばれる「北塩」です 17 。
武田領にとって、特に主要な供給源となっていたのが、距離的にも近く、交易関係も深かった太平洋側の「南塩」でした。しかし、永禄10年の「塩止め」によって、この最大の生命線が完全に断ち切られてしまったのです 5 。これは、現代で言えば、国家のエネルギー供給の大部分を占める石油の輸入が、ある日突然停止するに等しい経済的打撃でした 10 。
「塩飢饉」がもたらした三重の苦しみ
塩の供給停止は、武田領内に深刻な「塩飢饉」を引き起こし、人々に三重の苦しみを与えました。
第一に、 人体への直接的な影響 です。塩分は、人間の体液バランスを維持し、神経伝達や筋肉の収縮を正常に保つために不可欠なミネラルです。塩分が極度に不足すると、脱力感、めまい、立ちくらみ、無気力といった症状が現れ、重篤な場合は生命の危機に直結します 19 。特に、戦場で激しく体を動かす兵士や、酷暑の中で農作業に従事する領民にとって、塩分不足は士気や労働意欲の著しい低下を招いたことでしょう。精神的な不安や抵抗力の減退も引き起こし、領国全体の活力を内側から蝕んでいきました 19 。
第二に、 食料保存の危機 です。冷蔵・冷凍技術が存在しない戦国時代において、塩は最も重要な食料保存料でした 14 。魚や肉を塩漬けにして長期保存する、野菜を漬物にする、そして武士の重要な兵糧食である味噌を造る。これらすべてに大量の塩が必要でした 10 。塩が手に入らないということは、収穫した食料を冬のために備蓄することが困難になることを意味します。これは、食料不足に直結し、飢餓の恐怖を領民に与えました。まさに、国全体の生存基盤が脅かされる事態だったのです 21 。
第三に、 社会・経済の混乱 です。供給が途絶えたことで、領内に残された塩の価格は異常なまでに高騰したと考えられます。これにより、富裕層は塩を買い占め、一般の領民は塩を手に入れることすらできなくなりました。経済格差が拡大し、社会不安が増大したことは想像に難くありません。
この「塩止め」という戦略が特異であったのは、それが武士同士の戦闘を主眼とするのではなく、敵国の非戦闘員、すなわち領民全体の生活を直接の標的とした点にあります。兵士だけでなく、老人、女性、子供を含む全ての領民の生命と食料基盤を脅かすこの戦術は、国家の総力を削ぐことを目的とした、近代の「総力戦」思想の萌芽ともいえるものでした。後に上杉謙信が「争う所は弓箭(きゅうせん)に在りて、米塩(べいえん)に在らず」(戦いは弓矢で行うものであり、米や塩で行うものではない)と述べたとされる言葉は 22 、まさにこの「戦いのルール」を逸脱した非人道的な戦術に対する、当時の武士の価値観からの痛烈な批判と読み取ることができるのです。
第三章:越後の龍の深慮 ― 上杉謙信、動く
甲斐・信濃が未曾有の国難に喘ぐ中、その報は北の宿敵、越後の上杉謙信の耳にも届きました。長年のライバルである武田信玄を滅ぼす絶好の機会。家臣たちが「我らも塩を止め、信玄を完全に追い詰めましょう」と進言したであろうことは、想像に難くありません 16 。しかし、謙信が下した決断は、彼らの予想を裏切るものでした。この決断の裏には、一体どのような思惑が隠されていたのでしょうか。通説である「義侠心」だけでは説明しきれない、怜悧な戦略家としての謙信の深慮を多角的に分析します。
謙信の言葉と決断
甲斐の窮状を知った謙信は、今川・北条のやり方を卑怯だと断じ、激しく憤ったと伝えられています。「塩とは、人が生きていくのになくてはならない物。たとえ敵とはいえ、これを見すごす事は武士の恥。すぐにも松本に塩を送り届けよ」 2 。また、信玄に宛てた書状とされるものには、「我公と争へども、争う所は弓箭に在りて、米塩に在らず」と記し、越後から塩を供給することを申し出たとされています 16 。
これらの言葉は、謙信の行動原理を解き明かす上で三つの異なる解釈を可能にします。
解釈A:義侠心説(通説)
最も広く知られているのが、この行動を純粋な義侠心の発露と見る解釈です。自らを毘沙門天の化身と信じ、「義」を何よりも重んじた謙信にとって、敵の領民を巻き込む非人道的な兵糧攻めは、武士として、また人間として許容できるものではなかった、というものです 1 。宿敵との決着は、戦場において正々堂々とつけるべきであり、このような卑劣な手段を用いるべきではない。この武士としての美学と、領民を憐れむ人間的な情が、彼を行動へと駆り立てたとする見方です。
解釈B:経済合理性説
しかし、一方で謙信は卓越した商才の持ち主でもありました。越後の特産品である青苧(あおそ、麻の原料)の交易を独占し、日本海航路の拠点港である直江津の関税収入などで莫大な富を築いていたのです 5 。そんな経済感覚に優れた謙信が、この状況を絶好のビジネスチャンスと捉えたとしても不思議ではありません。
太平洋側の「南塩」の供給が完全にストップしたことで、武田領内では塩の需要が極度に高まり、価格は暴騰していたはずです。この状況で、唯一の供給源となりうる日本海側の「北塩」の価値は、計り知れないものとなっていました。謙信が塩の交易を止めなかったのは、この千載一遇の機会を逃さず、高騰した塩を武田領に「売る」ことで、越後の商人たちを潤わせ、ひいては上杉家の財政に莫大な利益をもたらすためであった、とするのがこの経済合理性説です 4 。この説に立てば、謙信の行動は美談ではなく、極めて冷静な経済政策の一環であったということになります。
解釈C:政治的計算説
さらに、より高度な外交戦略、すなわち政治的な計算があったとする見方も存在します。当時の謙信にとっての主敵は、武田信玄だけではありませんでした。関東の覇権を巡り、北条氏とも激しく対立していたのです 16 。
この状況で、北条氏が主導する「塩止め」の包囲網に加担することは、結果的に北条氏を利することにつながります。逆に、この包囲網に与しないことで、敵対勢力である武田と北条の足並みを乱し、両者の間に楔を打ち込むことができます。さらに、信玄を滅ぼしてしまうのではなく、生かさず殺さずの状態に置くことで、北条氏に対する牽制力として利用し続ける、という深謀遠慮があった可能性も指摘されています。信玄を完全に追い詰めれば、彼が北条と和睦して、矛先を越後に向けてくる危険性すらありました。そう考えれば、塩の供給を続けることは、敵の連携を妨害し、自国の安全保障に資する、極めて優れた外交戦略であったと言えるのです。
「義」「利」「政」のハイブリッド戦略
これら三つの解釈は、互いに排他的なものではありません。むしろ、上杉謙信の決断は、これら「義」「利」「政」の三要素が絶妙なバランスで融合した、極めて高度なハイブリッド戦略であったと考えるべきでしょう。
- 「義」 :人道に反する兵糧攻めをしないという態度は、謙信自身の哲学であると同時に、諸大名に対して「義の将・上杉」という強力なブランドイメージを発信するプロパガンダとしても機能しました。
- 「利」 :塩の交易を止めないことは、越後の経済に莫大な利益をもたらす、極めて合理的な経済政策でした。
- 「政」 :北条の戦略に乗らないことで、敵の連携を分断し、武田を対北条の防波堤として利用する余地を残す、優れた外交戦略でした。
一つの行動が、これら全ての目的を同時に達成する「一石三鳥」の妙手。美談として語られる「義」の側面は、実はこの複合的で深遠な戦略の、最も分かりやすく、人々の心に響く「表の顔」に過ぎなかったのかもしれません。
第四章:義塩の真相 ― 「塩の道」を辿る
上杉謙信の決断は、具体的にどのように実行されたのでしょうか。一般的に流布している、謙信が大規模な輸送隊を組織して甲斐に塩を「贈った」というイメージは、史実とはやや異なります。真相は、彼が越後と信濃を結ぶ既存の交易ルート、すなわち「塩の道」の封鎖を「しなかった」という、より現実的なものでした 4 。この章では、その具体的なプロセスを、当時の情景と共に描き出します。
「贈る」から「止めず」へ
謙信の行動の核心は、無償での「贈与」ではなく、商人による「商取引」の継続を容認したことにあります。彼は、越後の塩商人たちに対し、武田領への塩の販売を禁じませんでした。それどころか、不当に価格を吊り上げることなく、公正な価格で取引するよう命じたとさえ言われています 3 。これは、国家による人道支援というよりは、自由な経済活動を保障するという政策的判断でした。
この商取引の主役となったのが、越後の糸魚川から信濃の松本平に至る、約120キロメートルの険しい山道「千国街道(ちくにかいどう)」です。古くから「塩の道」として知られたこの街道を、越後の塩が武田領へと運ばれていきました 17 。
塩の道・千国街道の過酷な現実
「塩の道」と聞くと、どこか牧歌的な響きがありますが、その実態は過酷を極めました。千国街道は、姫川の急峻な渓谷を避け、山の中腹や尾根づたいに続く険しい山道でした。冬には雪崩の危険に晒され、夏には豪雨による崖崩れが頻発する、まさに命がけのルートだったのです 25 。
この道で塩を運んだのは、「牛方(うしかた)」や「歩荷(ぼっか)」と呼ばれる輸送のプロフェッショナルたちでした。牛方は、一頭あたり二俵(約60-70kg)の塩俵を積んだ牛の群れを操り、歩荷は自らの背に重い塩を背負って、険しい山道を踏破しました 18 。彼らのこうした苦難に満ちた労働なくして、越後の塩が甲斐・信濃の民の元に届くことはあり得ませんでした。
商人たちの躍動と経済的帰結
この歴史的な商取引において、重要な役割を果たした人物の伝承が残っています。甲斐の商人、塩屋孫左衛門(しおやまござえもん)です。彼は信玄の命を受け、自ら越後まで赴き、この貴重な「義塩」を受け取って甲斐まで運んだとされています 6 。信玄はその功績を大いに称え、孫左衛門に当時の甲州金の刻印であった「吉」の字を屋号として与えたといいます。これが現在まで続く老舗「吉字屋」の始まりとされています 26 。
この伝承は、この出来事が国家間の贈与ではなく、商人を通じた明確な商取引であったことを強く示唆しています。結果として、武田領では切望されていた塩が供給され、領民は救われました。その一方で、塩は高値で取引され、越後の塩商人たち、そして彼らから税を徴収する上杉家は、莫大な経済的利益を得たであろうことは論理的な帰結です 4 。
この逸話は、謙信や信玄といった英雄たちの物語であると同時に、彼らの政策の末端で経済を動かした、名もなき商人や輸送業者たちの物語でもあります。戦乱の世を生き抜く彼らの経済合理性とたくましい労働力が、歴史を動かす大きな力となっていたのです。
第五章:伝説の誕生と史実の探求
上杉謙信による塩の供給は、なぜ後世に「美談」として語り継がれるようになったのでしょうか。この章では、史実と伝説がどのように交錯し、今日の我々が知る物語が形成されていったのか、史料批判の観点からそのプロセスを探求します。
武田方の反応と史料の検討
敵方からの思いがけない助けに対し、武田信玄とその家臣たちが深く感謝したことは、想像に難くありません。「味方に欲しい大将よ」と感嘆したという記録も残されています 3 。また、信玄が感謝の意を示すため、謙信に「塩留めの太刀」という名の刀を贈ったという逸話も伝えられており、これが事実であれば、両者の間には一定の意思の疎通があったことを示唆します 27 。
しかし、この逸話の史実性を検証する上で、極めて重大な問題があります。それは、この出来事が、同時代に書かれた信頼性の高い一次史料、例えば武将が交わした書状などには一切記録されていないという点です 6 。
我々が知る物語の主な出典は、いずれも江戸時代に入ってから編纂された二次史料です。代表的なものとして、武田家の軍学をまとめた『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』や、上杉家の公式な歴史書である『謙信公御年譜(けんしんこうごねんぷ)』が挙げられます 3 。これらの書物は、貴重な情報を多く含んでいる一方で、後世の視点からの脚色や、編纂者の意図が加わっている可能性が常に指摘されています。特に『甲陽軍鑑』については、その史料的価値を巡って明治時代から論争があり、物語的な記述が多いことが知られています 28 。
史実性を巡る論争
こうした状況から、この逸話の史実性については、研究者の間でも意見が分かれています。
- 否定・懐疑論: 一次史料が存在しないこと、そして後世の編纂物にしか見られないことから、この逸話は史実ではなく、後世に創作された物語である、あるいは事実があったとしても大幅に脚色されている、とする見解です。特に『謙信公御年譜』の記述は、米沢に移封された後の上杉家が、藩祖である謙信の偉大さを強調するために加えた創作の可能性があると指摘されています 6 。
- 肯定論: 一方で、何らかの事実はあったはずだ、とする肯定的な見解も有力です。その最大の論拠は、この物語が敵であったはずの武田家側、すなわち『甲陽軍鑑』などによっても語り継がれている点にあります。歴史家の乃至政彦氏は、武田家が滅亡した後、その旧臣たちがわざわざ敵将である謙信を称賛する物語を創作するメリットは薄いと指摘します。むしろ、武田家臣たちにとって、謙信のこの行動がよほど印象的で、「風流」なものとして心に残り、語り継がれていった結果、史実として定着したのではないかと論じています 29 。
「記憶の文化史」としての逸話
この逸話の真の価値は、単なる史実性の有無を問うこと以上に、「なぜそのように記憶され、語り継がれたのか」という、記憶の文化史(ヒストリー・オブ・メモリー)の観点から分析することで、より深い意味が浮かび上がってきます。
- 上杉家にとって: 藩祖である謙信の「義将」としてのイメージを確立し、家の権威を高めるための格好のプロパガンダとなりました。
- 武田家にとって: 滅亡後、旧臣たちが「我らが主君・信玄の好敵手は、これほどまでに器の大きな人物であった」と語ることは、間接的に自らの主君の格をも高め、敗北の記憶を昇華させるという心理的な機能を持っていたと考えられます。
つまり、この逸話は、かつての敵同士が、それぞれの家のブランド価値を高めるという、ある種共通の目的のために、無意識のうちに「共作」した物語であると解釈することも可能です。史実がどうであったかという追求と並行して、この「伝説が果たした役割」を分析することこそが、物語の本質を理解する鍵となるのです。
終章:逸話を超えて ― 上杉謙信の「義」の本質
これまで見てきたように、上杉謙信が宿敵・武田信玄に塩を送ったとされる逸話は、単純な美談として語ることのできない、極めて多層的で複雑な背景を持っています。その決断は、純粋な義侠心だけでも、また剥き出しの功利主義だけでもなく、自身の哲学と、国家経営者としての冷徹な現実主義が高度に統合された、複合的な産物であったと結論付けることができます。
謙信の行動を、「義」か「利」かという二元論で裁断することは、歴史の深みを見誤ることにつながります。彼にとっての「義」とは、単なる感傷的な人情や、その場限りの武士の情けではなかったのではないでしょうか。それはむしろ、自らが理想とする「あるべき戦国の世の秩序」を実現するための、極めて実践的かつ戦略的な行動原理であったと考えられます。敵の領民を巻き込むような非人道的な戦術を排し、あくまで戦場において、正々堂々たる武力によって覇を競う。この秩序観こそが、彼の「義」の根幹を成していたのではないでしょうか。
塩の交易を止めないという決断は、この「義」の哲学を貫きながら、同時に越後の経済を潤し(利)、武田と北条の連携を分断する(政)という、複数の目的を同時に達成する最善手でした。彼の「義」は、決して現実から乖離した理想論ではなく、現実的な利益や戦略と両立しうる、強固な統治理念であったのです。
「敵に塩を送る」という言葉は、今日、窮地にある敵をその弱みにつけこまずに助ける、度量の大きい行為のたとえとして使われます。この逸話の真の価値は、その史実性の確定以上に、時代を超えて我々に問いかける普遍的な教訓にあるのかもしれません。それは、目先の利益や感情的な敵対心に囚われることなく、より大きな視点から物事を判断することの重要性。そして、いかなる競争においても、守るべき一線、すなわち人道や公正さという普遍的なルールが存在することを示唆しています。戦国という極限状況の中で上杉謙信が示したこの深遠な決断は、混迷を深める現代社会を生きる我々にとっても、なお多くの示唆を与え続けているのです。
引用文献
- 上杉謙信の「敵に塩を送る」は本当か - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=caKSse0L3KY
- 敵に塩を送る 長野県の民話 <福娘童話集 きょうの日本民話> http://hukumusume.com/douwa/pc/minwa/01/11_jc.html
- 上杉謙信の美談「敵に塩を送る」実は打算だった そもそも武田信玄に ... https://toyokeizai.net/articles/-/421451?display=b
- 塩の道 ~ 敵に塩を送る https://washimo-web.jp/Report/Mag-Shionomichi.htm
- 【武田信玄と上杉謙信の関係】第一次~第五次合戦まで「川中島の戦い」を徹底解説 - 歴史プラス https://rekishiplus.com/?mode=f6
- 「敵に塩を送る」本当にあった? 上杉謙信と武田信玄、美談の真相は https://withnews.jp/article/f0180717002qq000000000000000G00110601qq000017487A
- 甲相駿三国同盟 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E7%9B%B8%E9%A7%BF%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%90%8C%E7%9B%9F
- 歴史用語コラム 甲相駿三国同盟とは|株式会社アイセレクト - note https://note.com/aiselect0903/n/nb915b5531219
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- 縄をかじって塩分補給…武田信玄が「味噌」に命をかけた実情 - THE GOLD ONLINE https://gentosha-go.com/articles/-/26033
- 「駿河侵攻」信玄の大胆すぎる外交転換でカオスと化した外交関係 ... https://sengoku-his.com/778
- 約束違反に激怒したのは家康の方だった - 歴史人 https://www.rekishijin.com/26706/2
- 徳川家康と武田信玄の遠江をめぐるせめぎ合い 同盟と裏切りと上杉 ... https://www.rekishijin.com/26840
- 1月11日は「塩の日」 - 西日本新聞めくると https://mekuruto.nishinippon.co.jp/card/4779/
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- 信玄に塩を送ったというのは本当か?|戦国のすべて https://sgns.jp/addon/p.php?p=1525&bflag=1&uid=NULLGWDOCOMO
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- 腹が減っては戦ができぬ…血で血を洗う戦国時代の食事ノウハウを米・塩・水・毒という点から紹介! | 歴史・文化 - Japaaan - ページ 2 https://mag.japaaan.com/archives/245140/2
- 塩の歴史 https://www.shionavi.com/salt/history
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