上杉謙信
~死して尚軍神戦略図広げる譚~
上杉謙信の「死して尚軍神戦略図広げる」逸話は史実ではない。脳卒中で倒れ、後継者も指名できず内乱を招いた。英雄の死に意味を求める後世の創作。
軍神、最後の刻 ― 上杉謙信「戦略図と最期」の逸話、その虚構と実像
序章:語り継がれる「死して尚軍神」の情景
越後の龍、軍神と畏怖された上杉謙信。その生涯の幕引きを飾る逸話として、後世に語り継がれてきた一つの情景がある。それは、彼の死が単なる肉体の終焉ではなく、その戦略家としての魂が燃え尽きる瞬間であったとする物語である。
天正六年(1578年)三月、織田信長を討つべく、生涯最大ともいえる上洛戦の出陣を目前に控えた春日山城。城内がかつてない緊張と高揚に包まれる中、謙信は病の床に就いていた。しかし、その意識は朦朧としながらも、傍らに広げられた巨大な関東の戦略図から離れることはなかったという。かすれる声で重臣を呼び寄せ、震える指先で図上の一点を指し示し、敵の配置、味方の進軍経路、そして勝利への最後の布石を授ける。肉体の限界を超えてなお、その精神は戦場の只中にあり、天下の行く末を見据えていた―。
この「死して尚軍神」とでも言うべき逸話は、上杉謙信という武将の「義」と「武」を象徴する究極の姿として、我々の心に強く焼き付いている。しかし、英雄の最期を彩るこの劇的な物語は、果たして歴史の真実を映しているのであろうか。それとも、理想化された英雄像が生み出した、美しくも儚い伝説に過ぎないのだろうか。本報告書は、この一点を解明すべく、史料の断片を繋ぎ合わせ、医学的、政治的、そして文化的見地から、上杉謙信の最期の四日間に多角的に光を当てるものである。
第一章:運命の日 ― 天正六年三月九日、軍神倒れる
天正六年三月九日、春日山城は出陣前の最後の喧騒の中にあった。数万の兵を動員し、長年の宿敵であった織田信長との決戦、そして天下布武の阻止を目指す大遠征。その総大将である上杉謙信は、この日を境に歴史の表舞台から姿を消すことになる。彼の最期の始まりを巡っては、古くから二つの異なる説が伝えられている。
「厠での卒中」説 ― 通説が描く突然の悲劇
最も広く知られているのは、厠(かわや)で脳卒中に倒れたとする説である。関東への出陣を前に、謙信は家臣たちと酒宴を開いていた。しかし、途中で厠に立ったきり、なかなか戻ってこない。不審に思った近臣が様子を見に行くと、謙信は厠の中で意識を失い、昏睡状態で倒れていたという 1 。この通説は、英雄の最期としてはあまりに突然で、ある種の人間的な脆さを感じさせる。特に、冬の寒さが残る三月の越後において、暖かい部屋から寒い厠へ移動した際の急激な血圧の変動が、脳卒中の引き金になったと医学的に説明されることが多い 2 。この劇的な状況は、後の世に広く受け入れられ、謙信の死のイメージとして定着していった 3 。
異説の提示 ― 「書斎での腹痛」という記録
しかし近年、この通説に疑問を呈する研究が登場している。歴史家・乃至政彦氏らが提唱するのは、謙信が倒れた場所は厠ではなく書斎であり、その病状は脳卒中ではなく激しい腹痛、すなわち「虫気(ちゅうき)」であったとする説である 4 。この説の最大の根拠は、謙信の死後、養子の上杉景勝が発給した書状に「去十三日謙信不慮之虫気(去る十三日、謙信、不慮の虫気にて)」と記されている点にある 5 。同時代に、後継者である景勝自身が記したこの一次史料は、後年に編纂された『上杉家御年譜』などが伝える「卒中風」という記述 6 よりも信憑性が高いと考えることができる。
謙信の最期の状況に関する記録が、後世にまとめられた公式の記録(通説)と、死の直後に書かれた書状(異説の根拠)とで、このように明確に食い違っている。この事実そのものが、謙信の死が単純な病死としてではなく、その直後から情報の混乱と、何らかの政治的意図を含んだ錯綜の中にあったことを強く示唆している。我々が探求する「戦略図の逸話」の真偽は、まず、この謙信の死の実態そのものを巡る論争と不可分であることを認識しなければならない。
第二章:沈黙の四日間 ― 医学的見地から見た病状の推移
三月九日に倒れてから、十三日に息を引き取るまでの四日間。謙信の容態はどのように推移したのか。残された記録を現代医学の知見と照らし合わせることで、彼の意識状態、そして「戦略を語る」という行為が可能であったか否かが、より鮮明に浮かび上がってくる。
病状の時系列分析
- 発作直後(三月九日~十一日): 記録によれば、倒れた謙信はそのまま昏睡状態に陥ったとされる 1 。当時の医療水準では、脳卒中に対して有効な治療法は存在せず、家臣たちはただ回復を祈り、加持祈祷に頼るほかなかった。城内には絶望的な空気が漂い、目前に迫った大遠征は完全に停止した。この二日間、謙信が意識を取り戻したという記録は見当たらない。
- 一時的な意識回復(三月十二日): 事態が動いたのは、倒れてから三日目の三月十二日であった。この日、謙信は一時的に意識を取り戻し、目を開けたと伝えられている。しかし、その記録は極めて重要な一文を伴っている。「唇は動かすものの発語は不能」 1 。これは、意識はあるものの、言葉を理解したり、話したりする能力が失われる「失語症」と呼ばれる症状に酷似している。
- 最期の時(三月十三日): 束の間の意識回復も長くは続かず、謙信は再び深い昏睡状態に陥り、翌十三日、ついに四十九年の生涯を閉じた 1 。
医学的結論 ― 語られなかった最後の戦略
謙信の病状、特に「開眼すれども発語不能」という状態は、現代医学における高血圧性脳出血の典型的な症状と一致する 1 。謙信が日頃から大酒飲みで、肴には梅干しなどの塩辛いものを好んだという食生活の記録は 3 、彼が高血圧症であった可能性を強く示唆している。さらに、四十歳の頃にも軽い左半身麻痺の発作を起こしたという記録もあり 1 、これが脳卒中の前兆であった可能性も考えられる。
医学的に見て、重度の失語症を伴う脳出血患者が、戦略図のような複雑な視覚情報を正確に認識し、それに基づいて論理的な思考を組み立て、他者に明確な指示を伝達する、といった高度な認知活動を行うことは不可能である。唇を動かすことはできても、それは意味のある言葉を紡ぐ行為とは全く異なる。この医学的分析は、「死の直前まで戦略図を広げていた」という逸話の信憑性を根底から覆す、極めて強力な反証となる。逸話が描く明晰な意識と、史料が示唆する深刻な言語障害の間には、越えがたい断絶が存在するのである。この分析はまた、歴史上の人物の行動を検証する上で、史料の記述を鵜呑みにするのではなく、現代の科学的知見という学際的なアプローチがいかに有効であるかを示している。
第三章:不在の「遺言」と「御館の乱」という現実
もし仮に、医学的な見解を退け、謙信が死の直前まで戦略を語れるほど明晰な意識を保っていたとしよう。その場合、論理的に一つの重大な問いが浮かび上がる。天下の軍略を論じる余裕があったのであれば、なぜそれ以上に重要であるはずの「後継者の指名」と「家中の結束」を、明確な遺言として残さなかったのか。
史実の提示 ― 御館の乱の勃発
史実は、この問いに対して残酷な答えを突きつける。謙信の死後、越後は血で血を洗う内乱の渦に叩き込まれた。実子がいなかった謙信には、姉の子である上杉景勝と、北条家から人質として迎え入れた上杉景虎という二人の養子がいた。しかし、謙信はどちらを後継者とするか、公式に指名しないまま世を去った 9 。その結果、両者を担ぐ家臣団は二つに割れ、上杉家の家督を巡る凄惨な内乱「御館の乱」が勃発したのである 6 。
景勝の行動が示す「遺言」の不在
この内乱の勃発こそが、「謙信が有効な遺言を残せなかった」ことの何よりの証拠である。特に、景勝の行動はその事実を雄弁に物語っている。謙信の死の翌々日である三月十五日、景勝は機先を制して春日山城の本丸を占拠し、上杉家の財政を支える金蔵と、軍事力の源泉である兵器蔵を掌握した 6 。そして、「謙信の遺言により」自分が家督を継いだと一方的に内外へ宣言したのである 6 。もし、家臣一同が納得するような明確で正当な遺言が存在したのであれば、このような実力行使に訴える必要はなかったはずだ。彼の行動は、むしろ確固たる遺言が存在しなかったことの強力な傍証となっている。
一方で、景虎の実家である北条家の記録には、景虎こそが後継者であったと記されており 9 、両者の主張は真っ向から対立していた。この骨肉の争いは越後を疲弊させ、上杉家が長年かけて築き上げた国力を大きく削ぐ結果となった。
「御館の乱」という歴史の現実は、単なる後継者争いではない。それは、「謙信が後継者を指名できなかった」という事実がもたらした直接的な帰結である。そしてその事実は、「謙信が死の直前まで明晰な意識を保っていた」という逸話と、根本的に矛盾する。戦国の世を知り尽くした謙信が、自らの死後に内乱が起きることを予見できなかったはずがない。もし彼に一言でも発する力があったなら、彼は軍略ではなく、まず家中の安泰をこそ命じたであろう。この政治的帰結から逆算するならば、「戦略図の逸話」が成立する余地は、もはや存在しないと言わざるを得ない。
表1:上杉謙信 最期の四日間の比較 ― 逸話と史実の再構築
これまでの医学的、政治的分析で明らかになった「逸話」と「史実」の間の巨大な溝を、以下の表にまとめる。両者を時系列で比較することで、その対比はより一層鮮明となる。
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日付(天正6年) |
逸話・伝説上の謙信の姿 |
史料・医学的見地から再構築される謙信の状態 |
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3月9日 |
関東出陣に向け、戦略図を広げ最後の作戦を練る。 |
厠(あるいは書斎)にて卒中(高血圧性脳出血)で倒れ、昏睡状態に陥る 1 。 |
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3月10日-11日 |
意識は朦朧としながらも、時折、図面を指し示す。 |
意識不明の状態が続く。治療法はなく、加持祈祷が行われる 1 。 |
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3月12日 |
養子や重臣を枕元に呼び、後継や今後の戦略を託す。 |
一時的に開眼し意識が戻るが、発語不能(失語症)。意思疎通は極めて困難 1 。 |
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3月13日 |
全ての策を授け終え、静かに息を引き取る。 |
再び昏睡状態に陥り、同日、死去。明確な遺言は残されず、御館の乱の火種となる [1, 7, 9]。 |
第四章:もう一つの死因 ― 「虫気」説の再検討
ここで、第一章で提示したもう一つの死因、「虫気」説に立ち返ってみたい。もし謙信の死因が脳卒中ではなく、景勝の書状が記す通り「不慮之虫気」であった場合、逸話の信憑性はどう変わるだろうか。
「虫気」は、現代でいう腹痛を指すことが多いが、当時は原因不明の内臓疾患全般を指す、やや曖昧な言葉でもあった 5 。激しい腹痛を伴う病、例えば消化器系の重篤な疾患であったと仮定すれば、脳卒中のように即座に意識や言語能力を奪われるとは限らない。理論上は、激痛に苦しみながらも、意識を保ち、言葉を発する余地は残される。この可能性は、「戦略図の逸話」が成立するための、わずかな希望の光に見えるかもしれない。
しかし、この仮説もまた、乗り越えられない論理的矛盾に突き当たる。それは、第三章で詳述した「御館の乱」という動かぬ事実である。仮に「虫気」説が正しく、謙信に最期の言葉を残す意識と能力があったとするならば、「なぜ彼は後継者を指名しなかったのか」という根本的な疑問が、より一層不可解なものとして立ち現れる。意識があったにもかかわらず、家中の分裂を招く最大の懸案事項を放置したとすれば、それは戦国大名としての謙信の評価を著しく損なう判断ミスとなる。
結局のところ、死因が脳卒中であれ「虫気」であれ、その後の政治的帰結である「御館の乱」の勃発という事実が、逸話の成立を阻む巨大な壁として立ちはだかる。死因論争そのものは興味深いテーマであるが、どちらの説を採用したとしても、「死の直前まで戦略を語った」という逸話が、その後の歴史展開と整合性を取ることはないのである。
第五章:逸話の源流 ― 『常山紀談』に見る英雄像の創造
医学的にも、政治的にも、史実とは考えがたい「戦略図の逸話」。では、この英雄的な物語は、いつ、どのようにして生まれたのだろうか。その源流を辿る旅は、戦国の世から泰平の江戸時代へと我々を誘う。
戦乱の時代が終わり、徳川幕府による安定した統治が確立された江戸時代、武士のあり方は大きく変容した。現実の戦場で命を懸ける機会が失われた代わりに、武士の生き方や精神性を理想化・道徳化する「武士道」という観念が重視されるようになった。人々は、過去の戦国武将たちの生き様に、理想の武士像を投影し、教訓を見出そうとしたのである。
こうした風潮の中で、江戸時代中期に成立した湯浅常山の武将逸話集『常山紀談』のような書物が、大きな役割を果たした 11 。これらの書物は、歴史の正確な記録を目的とするのではなく、武士としての心構えや教訓、そして英雄たちの人間的魅力を伝えることに重きを置いていた。そこでは、史実が脚色され、時には全くの創作が加えられることも珍しくなかった。
上杉謙信の「軍神」としてのイメージは、まさにこのような時代背景の中で固定化され、神格化されていったと考えられる。突然の病に倒れ、言葉も発せず、家中に深刻な混乱の種を残して呆気なく死んだという人間的な最期は、理想化された「軍神」のイメージにはふさわしくない。人々は、英雄には英雄にふさわしい最期を求めた。その願望に応える形で、「死の瞬間まで軍略を巡らせ、天下への采配を振るおうとしていた」という、完璧な英雄の物語が創作され、求められ、そして語り継がれていったのである。この逸話は、謙信の死の実態を解明するだけでなく、後の時代の人々が「上杉謙信」という英雄に何を求め、どのように彼の記憶を形成していったのかという、歴史認識の変遷そのものを明らかにする、歴史の「二重構造」を示す格好の事例と言えるだろう。
結論:軍神の神話 ― なぜこの逸話は求められたのか
本報告書で展開した医学的、政治的、そして文献学的な多角的な検証の結果、上杉謙信が「死の直前まで戦略図を広げていた」という逸話は、歴史的事実ではなく、後世に創られた美談であると結論付けられる。
史実として再構築される謙信の最期は、あまりにも人間的な悲劇であった。日頃の食生活に起因するであろう高血圧という生活習慣病が引き金となり、脳卒中で倒れる。言葉を発する能力を失い、自らの後継者を指名することもできぬまま世を去り、その結果として、生涯をかけて守り育てた国を内乱の地獄に陥れてしまった。これは、軍神の仮面の下にある、一人の人間の限界と悲運の物語である。
一方で、伝説としての最期は、死の瞬間まで軍神であり続け、天下への夢を追い続けた英雄的な姿を描き出す。人々はなぜ、この呆気なく悲劇的な現実ではなく、英雄的な虚構を必要とし、語り継いできたのか。それは、英雄の死に意味と秩序を与え、その理想の姿を永遠のものとして後世に伝えたいという、人間の普遍的な願望の表れに他ならない。
上杉謙信の最期を巡る逸話は、歴史の事実そのものと、人々が歴史に求める「物語」との間にある、深く、そして時には美しい溝の存在を我々に教えてくれる。我々はこの逸話を通して、一人の武将の死の真相を知ると同時に、英雄の記憶が時代と共にいかにして神話へと昇華されていくのかという、歴史のもう一つの側面を垣間見ることができるのである。
引用文献
- ぼんじゅ~る http://www.nagaoka-med.or.jp/kaihou/kaihou2008/kaihou0806/kaihou0806.html
- 戦国武将から考える高血圧診療 - 病気と治療の検索サイト - メディカルブレイン https://medical-b.jp/c01-01-024/book024-08/
- 生活習慣病を管理し、脳卒中を防ぐ - 私 の カ ル テ http://www.tsushimacity-hp.jp/kouhou/watashinokarute.files/R0208.pdf
- 「戦国最強武将トイレで死んだ」説、明らかになった真相 - JBpress https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64052
- 「酒好きが祟ってトイレで脳卒中」はウソ?上杉謙信の本当の死因 ... https://mag.japaaan.com/archives/171510/2
- 御館の乱〜上杉謙信の後継者争い、景虎vs景勝をわかりやすく解説 ... https://www.tabi-samurai-japan.com/story/event/575/
- www.nagaoka-med.or.jp http://www.nagaoka-med.or.jp/kaihou/kaihou2008/kaihou0806/kaihou0806.html#:~:text=%E4%B8%8A%E6%9D%89%E8%AC%99%E4%BF%A1%20%E2%80%95%E9%AB%98%E8%A1%80%E5%9C%A7%E6%80%A7%E8%84%B3%E5%87%BA%E8%A1%80%E2%80%95%EF%BC%881530%EF%BD%9E1587%EF%BC%89&text=%E4%B8%89%E6%97%A5%E7%9B%AE%E3%81%AB%E4%B8%80,%E7%97%87%E3%81%AE%E5%85%B8%E5%9E%8B%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82
- 源頼朝や上杉謙信も脳卒中だった!?脳卒中の予兆と、その治療法 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=8Kf22fqk-n8
- file-16 直江兼続の謎 その1~御館の乱の分岐点~ - 新潟文化物語 https://n-story.jp/topic/16/
- 武将ブログ 「上杉謙信」の本当の死因/ホームメイト - 刀剣広場 https://www.touken-hiroba.jp/blog/8905253-2/
- 戦国武将逸話集(オンデマンド版) [978-4-585-95441-5] - 勉誠社 https://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&products_id=100897
- 上杉謙信の名言・逸話48選 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/304