最終更新日 2025-10-19

上杉謙信
 ~生涯妻娶らず毘沙門天の化身~

謙信の「生涯不犯」と「毘沙門天の化身」は強さの源泉だったが、その生き様は彼の死後に上杉家を危機へと導く、光と影を併せ持つ物語である。

軍神の戒律 ― 上杉謙信、「生涯不犯」と「毘沙門天の化身」という名の桎梏

序章:神格化された武将、その実像への問い

戦国時代の数多の武将の中でも、上杉謙信ほど神格化された存在は稀である。その人物像を形成する二大要素こそ、「毘沙門天の化身」という超常的な信仰心と、「生涯不犯」という為政者として極めて異例の生き様である 1 。これらは単に個人的な信条や後世に生まれた伝説に留まるものではない。彼の軍事戦略、人心掌握術、そして彼が一代で築き上げた上杉家の未来そのものを決定づけた、極めて実践的な行動原理であった。

謙信は自らを軍神・毘沙門天の生まれ変わりであると公言し、その神威を背に生涯で70回以上の合戦に臨み、敗北はわずか2回のみと伝えられるほどの武勇を誇った 3 。同時に、彼は大名として家を存続させるための最重要事である「子孫を残すこと」を放棄し、生涯にわたり妻を娶らなかった 5 。この二つの特異な側面は、表裏一体となって「軍神・上杉謙信」という唯一無二のペルソナを構築していた。

しかし、その超人的な生き様は、彼の死と共に巨大な権力の真空を生み出し、上杉家を未曾有の危機へと導くことになる。本報告書は、この「毘沙門天の化身」という信仰と「生涯不犯」という戒律が、如何に絡み合いながら謙信という存在を形成し、その強さの源泉となり、そして最終的に彼の死後、上杉家に何をもたらしたのかを、逸話の情景を織り交ぜながら時系列に沿って徹底的に解明することを目的とする。

第一部:毘沙門天の化身、その誕生と発露

上杉謙信が単なる一武将から「軍神」へと昇華していく過程は、彼の個人的な信仰心と、越後という複雑な国を統べるための高度な政治的計算が交錯した結果であった。彼が如何にして「毘沙門天の化身」という自己認識を確立し、それを内外に示していったのか、その軌跡を追う。

第一章:信仰の源流 ― 越後の龍が目覚めるまで

謙信の深い信仰心の土壌は、その幼少期にすでに形成されていた。母である虎御前から仏の功徳や物語を聞いて育ったことは、彼の精神世界の根幹に仏教的な価値観を植え付けた 3 。さらに、兄・長尾晴景との家督争いの渦中で、7歳から14歳までを過ごした菩提寺・林泉寺での生活は、その人格形成に決定的な影響を与えた。ここで彼は、名僧・天室光育らの下で禅の教えを学び、求道的で禁欲的な精神性を培ったのである 6

この経験は、単なる宗教教育に留まらなかった。兄から実力で家督を奪うという、儒教的倫理観からは正当化し難い形で国主となった謙信にとって、自らの統治の正統性をどこに求めるかは死活問題であった。越後の国人衆は独立性が高く、一筋縄ではいかない猛者揃いである。血縁や家格といった伝統的権威だけでは、彼らを完全に心服させることは難しい。この状況を打破するために、彼は自らの権威を人間世界の序列を超越した「神威」に求めた。すなわち、単に毘沙門天を崇拝するのではなく、自らを「毘沙門天の生まれ変わり」そのものであると位置づけたのである 3

彼は家臣たちに対し、自分を毘沙門天そのものと思うように常々言い聞かせていたと伝えられる 7 。これは、家臣たちに「長尾景虎(謙信の元服名)に従う」のではなく、「神の代理人たる毘沙門天の化身に従う」という認識を植え付けるための、極めて高度な心理的・政治的戦略であった。この自己神格化によって、彼は家督簒奪という出自の弱さを克服し、絶対的なカリスマを確立していったのである。

第二章:戦場に翻る神意 ― 「毘」の軍旗

謙信の信仰が最も劇的に発露したのは、戦場においてであった。彼が軍旗として用いた、紺地の布に白く「毘」の一文字を染め抜いた旗印は、その象徴である 8 。この旗は、単に毘沙門天の加護を祈願するものではない。それは、軍神・毘沙門天の化身たる謙信自身がこの軍を率いていることを戦場で宣言する、神威の顕現であった 10 。この「毘」の旗が戦場にはためく時、上杉軍は単なる武士の集団から、神将に率いられた「聖なる軍勢」へと変貌を遂げ、兵たちの士気は極限まで高揚したと想像に難くない 12

彼の戦術と信仰は、不可分に結びついていた。出陣に際して、謙信は居城・春日山城内に建立した毘沙門堂に何日も籠り、一心不乱に祈りを捧げたとされる 12 。これは単なる出陣前の儀式ではない。彼はこの静寂と孤独の中で、「この戦に大義はあるか、正義はあるか」と自問自答を繰り返した 12 。他国からの救援要請に応じるなど、「義」のない戦はしないという彼の信条は、この毘沙門堂での瞑想の中から生まれてきた。

毘沙門天は戦勝の神であると同時に、仏法を守護する善神でもある 14 。謙信は自らの軍事行動を、私利私欲のための侵略ではなく、「不義を討ち、仏法を守るための聖戦」と位置づけた。この大義名分こそが、彼の戦いを神聖化し、家臣や領民の絶大な支持を取り付ける論理的基盤となった。祈りが極まり、神がかり的な状態で下される彼の采配は、家臣たちに絶対的な信頼を抱かせ、上杉軍団の驚異的な強さの源泉となったのである 4

第三章:逸話に見る神との一体感

謙信の毘沙門天信仰の深さと、彼が「化身」として認識されていたことを示す逸話は数多く残されている。中でも「泥足毘沙門天」と「槍尻の泉」の伝説は、その神との一体感を象徴するものである。

「泥足毘沙門天」― 神は我らと共に戦場にあり

ある激戦を終え、謙信が居城・春日山城へと帰還した時のことである。彼はまず、城内に建立した毘沙門堂へ向かい、戦勝の報告と感謝を捧げようとした。静寂に包まれた堂内へ一人、足を踏み入れる。すると、そこにはあるはずのない光景が広がっていた。清められたはずの床板に、生々しい泥の足跡が点々と残されているではないか 15

不審に思い、その足跡を辿っていくと、それは祭壇に荘厳に安置された毘沙門天像の足元まで続いていた 16 。その瞬間、謙信は驚愕し、やがて歓喜に打ち震えた。傍らの家臣たちに、彼はこう告げたであろう。

「見よ、我らが命を懸けて戦っている間、毘沙門天もまた、我らと共に戦場を駆け巡り、その御足を泥に塗れておられたのだ」

この言葉は瞬く間に城内に広まり、家臣たちは主君が神と共にあることを改めて確信した。この出来事は、謙信の神性を視覚的に証明する決定的な逸話となり、以降、この毘沙門天像は「泥足毘沙門天」と呼ばれ、上杉家が会津、そして米沢へと移封される際にも大切に持ち運ばれるなど、上杉家の象徴として崇められることとなった 15

「槍尻の泉」― 神威による奇跡の顕現

永禄四年(1561年)、戦国史上最も激しい戦いの一つに数えられる第四次川中島の戦いの最中、もう一つの奇跡が起きたと伝えられる。武田信玄と対峙すべく、謙信は妻女山(さいじょざん)に一万を超える大軍を布陣させた 18 。しかし、長期間にわたる布陣は、軍にとって最も重要な生命線の一つである「水」の不足という深刻な問題を引き起こした。

兵たちの間に渇きと疲労、そして先の見えない戦いへの不安が広がり始める。その時、謙信は静かに愛用の槍を手に取り、天を仰いで一心に祈りを捧げた。

「妻女におわすよろずの神よ、我に清き水を与え給え!」 20

祈りを終えた謙信は、おもむろに槍を構えると、「えい!」という気合一閃、その石突(柄の末端部分)で力強く地面を突いた。すると、不思議なことに、その場所から清水がこんこんと湧き出し、泉となったという 20 。この泉は兵たちの渇きを癒し、士気を大いに高めた。

後に「謙信槍尻の泉」と呼ばれるこの伝説は、彼が単に神の加護を受ける受動的な存在ではなく、自らの意志と信仰の力で奇跡を現出させることができる、まさに「化身」であることを物語るものとして、後世まで長く語り継がれたのである 22

第二部:生涯不犯の誓い ― その謎と深層

謙信のもう一つの特異性である「生涯不犯」は、彼の神格化されたイメージを補強する一方で、多くの謎を残している。戦国大名にとって、跡継ぎを儲けることは家の存続をかけた最重要課題であったにもかかわらず、なぜ彼はその道を自ら閉ざしたのか。その理由を巡っては、古くから様々な説が唱えられてきた。

第一章:通説としての「宗教戒律説」

最も広く知られ、また彼のパブリックイメージと最も合致するのが、毘沙門天への篤い信仰心が高じた結果、俗世の欲、特に色欲を断つという仏教的な「不犯」の誓いを立てたとする説である 2 。彼の日常は質素を極め、そのストイックな生活態度は、厳しい戒律を守り修行に励む求道者の姿と重なる 23

戦国という欲望渦巻く時代にあって、禁欲を貫くその姿は、家臣や民衆の目に神聖なものとして映り、「不犯の聖将」というイメージを定着させるに至った 2 。この説は、彼の「毘沙門天の化身」という自己認識と論理的に合致しており、彼の超人性を示す根拠として長らく受け入れられてきた。

第二章:現実主義者としての「政治戦略説」

一方で、謙信の「不犯」を、極めて冷徹な政治的判断の結果と見る説も有力である。戦国大名家において、当主の跡継ぎ問題は常に深刻な内紛の火種であった。正室の子、側室の子、あるいは複数の男子がいれば、家臣団を巻き込んだ血で血を洗う家督争いに発展する危険性を常にはらんでいた。

謙信は、自らが実子を儲けないことで、そうした家中の分裂を未然に防ごうとしたのではないか、という見方である 25 。これは、彼の信仰心とは別の、極めて合理的な統治者としての一面を浮き彫りにする。

さらに、実子を持たない代わりに、彼は「養子縁組」を強力な外交カードとして活用した。特に、宿敵であった北条家から上杉景虎を養子として迎えたことは、その最たる例である。血縁というしがらみに縛られず、政略によって後継者候補を選ぶという柔軟な戦略は、彼の勢力圏を安定させ、拡大させる上で大きな意味を持っていた。この説に立てば、「不犯」は彼の信仰の帰結ではなく、乱世を生き抜くための深謀遠慮であったということになる。

これらの「宗教戒律説」と「政治戦略説」は、必ずしも対立するものではない。むしろ、互いに補強し合う関係にあると考えることができる。つまり、謙信は家督争いを避けるという極めて政治的な判断を下し、それを家臣や他国に納得させるための大義名分として、自らの強固な毘沙門天信仰を利用したのである。「これは我が信仰に基づく神聖な誓いである」と宣言することで、彼の政治的決断は誰も異を唱えることのできない絶対的な権威を帯びることになった。彼の信仰は、彼の政治的決断に正当性を与えるための、最強の「鎧」として機能したと言えよう。

第三章:人間的側面からの「悲恋伝説」

謙信の超人的なイメージの裏に、人間的な苦悩や情愛を見出そうとする試みから生まれたのが、「悲恋伝説」である。いくつかのバリエーションが存在するが、最も有名なのが「伊勢姫」との物語である 27

この伝説によれば、謙信は関東出兵の際に人質として越後に来た上野国の姫・伊勢姫の美しさと気高さに心惹かれ、妻に迎えたいと願った。しかし、家臣たちは「敵国の姫を正室とすることは、上杉家の将来に禍根を残す」と猛反対。家中の和を重んじた謙信は、断腸の思いでその恋を諦めざるを得なかった。その後、伊勢姫は出家し、ほどなくして病死してしまう。その死を知った謙信は体調を崩すほどに深く悲しみ、彼女への愛を貫くため、生涯他の女性を愛さず、不犯を誓ったという 26

この種の悲恋物語は、英雄譚に人間的な深みと共感を加えるため、後世に創作されることが少なくない。残念ながら、伊勢姫をはじめとする伝説上の女性たちの存在は、同時代の信頼できる史料からは確認されていないのが現状である 29 。しかし、このような伝説が生まれ、語り継がれてきたこと自体が、謙信の「不犯」という異例の生き様が、いかに人々の心を捉え、その理由を知りたいという強い欲求を掻き立ててきたかの証左と言えるだろう。

第四章:近年の研究動向 ― 覆される伝説

長らく定説とされてきた謙信の「生涯不犯」であるが、近年の研究によって、この大前提そのものを揺るがす史料が発見され、歴史学界に大きな波紋を広げている。その史料とは、高野山清浄心院に残された『越後過去名簿』と呼ばれる過去帳である 30

この史料価値が極めて高いとされる記録の中に、永禄二年(1559年)、謙信が30歳の時に、「越後府中」の「御新造(ごしんぞう)」と記された「昌栄善女」なる女性が、自身の死後の冥福を祈る生前供養(逆修)を行ったという記述が見つかった 31 。「御新造」とは、当時の武家社会において、当主の正室やそれに準ずる極めて高貴な女性を指す言葉であった 24 。この時期の「越後府中」の支配者は言うまでもなく上杉謙信であり、この「御新造」が謙信の妻であった可能性がにわかに浮上したのである 32

もしこの女性が本当に謙信の妻であったとすれば、「生涯不犯」という伝説は根底から覆ることになる。なぜ彼女の存在は歴史の表舞台から消されなければならなかったのか。あるいは、「不犯」という言葉が、我々が現代的な感覚で解釈する「一切の性的交渉を持たない」という意味ではなく、単に「正室を置いて世継ぎとなる実子を儲けなかった」という事実を指していたに過ぎないのか 26

この発見は、歴史の事実と、後世に理想化され再構築された伝説との間に存在する乖離を浮き彫りにした。謙信の死後、その神格化を進める過程で、「世継ぎを残さなかった」という事実が、より禁欲的で超人なイメージである「一切の女性を寄せ付けなかった」という「生涯不犯」の物語へと昇華されていった可能性も考えられる。この「御新造」を巡る論争は、今なお学術界で活発な議論が続いており、上杉謙信という人物像の再検討を迫る重要な鍵となっている。

第三部:化身と不犯がもたらした必然の帰結 ― 御館の乱

謙信が生涯をかけて築き上げた「毘沙門天の化身」という絶対的なカリスマと、「生涯不犯」という統治システムは、皮肉にも彼の死後、上杉家最大の悲劇である「御館の乱」を引き起こす直接的な原因となった。彼が残した「光」が強ければ強いほど、その死によって生まれた「影」もまた、深く暗いものとなったのである。

第一章:後継者指名の不在という時限爆弾

天正六年(1578年)三月九日、関東への大遠征を目前に控えた謙信は、春日山城内の厠で突如として倒れた。そして、意識が戻ることのないまま、四日後の三月十三日に急死する 33 。享年49。あまりにも突然の死であった。

生涯不犯を貫き、実子を残さなかった彼には、当然ながら明確な後継者を指名した遺言も存在しなかった。絶対的な権力者であった謙信の死は、上杉家に巨大な権力の真空地帯を生み出した。その空白を埋めるべく、二人の後継者候補が残された。

一人は、謙信の実の姉である仙桃院の子、すなわち甥にあたる上杉景勝。彼は上杉家中の有力一門である上田長尾家の出身であり、血縁的な繋がりが最も強い存在であった 34。

もう一人は、かつての越相同盟の証として、関東の雄・北条氏康の子から謙信の養子となった上杉景虎。彼は謙信から元服名である「景虎」の名を与えられるなど、格別の寵愛を受けていた 35。

謙信は生前、この二人を天秤にかけるかのように、どちらにも後継者としての期待を抱かせるような処遇を与えていた。景勝には自身の官名「弾正少弼」を譲り、景虎には家臣に課される軍役を免除するなど、それぞれが「我こそが正統な後継者である」と主張できる根拠を持っていたのである 34 。これは、謙信という絶対的な調停者が存在する間は機能する、危ういバランスの上に成り立った体制であった。彼の死という想定外の事態によって、この時限爆弾の針は一気に動き出した。

第二章:越後を二分する後継者戦争

謙信の死の直後から、水面下での駆け引きは始まっていた。そして、いち早く行動を起こしたのは景勝であった。彼は謙信の死からわずか二日後の三月十五日、「謙信公の遺言である」と称して、春日山城の本丸、そして上杉家の財産が納められた金蔵と兵器蔵を電光石火の速さで占拠した 33 。これは、自身が後継者であるという既成事実を家中に示すための、極めて大胆な先制行動であった。

一方、城内で孤立した景虎は、前関東管領・上杉憲政の居館として春日山城下に築かれた「御館(おたて)」へと移り、自らの正当性を主張して対抗した 38 。ここに、上杉家の家臣団、ひいては越後一国を二分する内乱、「御館の乱」の火蓋が切って落とされたのである 40

この争いは、単なる養子同士の跡目争いに留まらなかった。景虎の背後には、実家である関東の強大な北条家が控えており、その同盟者である武田家もまた、越後の混乱に乗じて介入の機会を窺っていた 36 。乱の構造は、以下の表のように整理できる。

表1:御館の乱における主要人物とそれぞれの正当性

後継者候補

上杉景勝

上杉景虎

謙信との関係

甥(姉・仙桃院の子)

養子(北条氏康の実子)

後継者としての主張・根拠

・上杉家中の有力一門、上田長尾家の出身

・謙信の官名「弾正少弼」を継承 34

・謙信の初名「景虎」を与えられる

・家臣に課される軍役を免除(当主格の待遇) 34

主な支持勢力

直江信綱、斎藤朝信ら越後の譜代重臣 41

上杉景信、北条景広ら外様・親北条派の国人 41

この表が示すように、対立は景勝を支持する「血縁と内政」を重視する国内派と、景虎を支持する「謙信の寵愛と外交」を重視する国外派の深刻な派閥抗争の様相を呈していた。

戦いは約一年間にわたり、越後の全土を巻き込んで繰り広げられた。当初は北条家の支援を背景に景虎方が優勢であったが、景勝は武田勝頼との間に甲越同盟を締結することで戦局を逆転させる 41 。最終的に追い詰められた景虎は、天正七年(1579年)三月、鮫ヶ尾城にて妻子と共に自刃し、26年の短い生涯を閉じた 34

この争いによって、上杉家は上杉景信、北条景広といった多くの有能な将兵を失い、その国力は著しく疲弊した。謙信が一代で築き上げた強大な軍団は、内部抗争によって深刻なダメージを負ったのである。謙信の「生涯不犯」と、後継者を明確にしなかった統治システムは、最終的に自らの家を破滅寸前にまで追い込むという、最大の皮肉な結果を招いた。彼の個人的なカリスマは、血縁や制度によって継承できるものではなかった。神の後継者を誰も指名できなかったことこそが、この悲劇の根本原因であった。

終章:伝説の完成と後世への影響

御館の乱という大きな代償を払いながらも、上杉家は景勝の下で再建の道を歩み始める。そして、戦国の世が終わり、泰平の江戸時代が訪れると、上杉謙信の人物像は講談や文学作品を通じて、さらに理想化・神格化されていくことになる。

特筆すべきは、宿敵であった武田信玄でさえ、謙信を高く評価していたと伝えられる点である。武田家の軍学書『甲陽軍鑑』には、信玄が自らの死に際し、後継者である勝頼にこう遺言したと記されている。

「困ったことがあれば謙信を頼れ。彼は義に厚い男だから、若いお前を苦しめるようなことはしないだろう。私は大人げないことに、最後まで謙信に頼ると言い出さなかったが、お前は必ず謙信を頼りとするがよい」 44

敵将からも認められたその「義将」としての姿は、彼の評価を不動のものとした。江戸時代後期の儒学者・頼山陽が、川中島の一騎打ちを詠んだ漢詩「不識庵機山を撃つの図に題す」は、その英雄像を決定づけた 29 。戦国の世にありながら私利私欲なく、ただ「義」のために戦い続けた清廉な軍神というイメージは、この時代に完成されたと言える。

結論として、「生涯不犯の毘沙門天の化身」という上杉謙信のペルソナは、彼自身の敬虔な信仰心と、乱世を生き抜くための冷徹な政治的計算が、奇跡的なバランスで融合した唯一無二の産物であった。それは、彼の生前において上杉家に比類なき強さをもたらす眩い「光」であった。しかし同時に、その死後、家を分裂させ、滅亡の淵へと追いやる深刻な「影」をも内包していた。

この光と影の相克こそが、「上杉謙信」という逸話の本質であり、戦国という時代が生み出した最も複雑で、そして魅力的な人間像の一つであると言えるだろう。彼の生き様は、絶対的な個人のカリスマに依存した統治の脆弱性と、後継者問題の重要性を、我々に強く示唆しているのである。

引用文献

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  42. 上杉謙信の部下、最強越後軍団を徹底解説!一番強いのは誰かを考える https://hono.jp/sengoku/uesugi/strongest/
  43. 上杉景虎の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/97918/
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