丹羽長秀
~信長急死後冷静に仁政譚~
丹羽長秀「信長急死後の仁政譚」の徹底解剖 ― 史実と伝説の狭間 ―
序章:天正十年六月二日、大坂の激震
天正10年(1582年)5月下旬、大坂・住吉の浜は、天下統一事業の最終段階を象徴する熱気に満ちていた。織田信長の三男・織田信孝を総大将に、そして織田家宿老中の宿老・丹羽長秀を副将とする数万の軍勢が、四国の雄・長宗我部元親を討伐すべく、渡海の準備を整えていたのである 1 。これは、羽柴秀吉の中国攻め、柴田勝家の北陸平定、滝川一益の関東管領就任と並行して進められる、信長による天下布武の総仕上げとも言うべき一大事業であった 3 。
長秀はこの軍事行動の中核を担うと同時に、織田家の重鎮として外交・儀礼にも奔走していた。変の直前である5月中旬には、甲州征伐の論功行賞で駿河一国を与えられた徳川家康と、その同盟者である穴山梅雪の饗応役を務めている 4 。近江番場に仮の御殿を建てて一行を歓待するなど、その周到な準備は、長秀の卓越した行政手腕と、信長からの絶大な信頼を物語っていた 4 。
饗応の任を終えた長秀は、信孝と共に大坂へ移動し、来るべき四国渡海に向けた最終指揮を執っていた。九鬼嘉隆率いる水軍も合流し、兵士たちの士気は最高潮に達していたであろう。彼らが目指す先は四国の平定、そしてその先にある信長が描く新しい日本の姿であった。この時点では、主君の死という未曾有の悲劇が、文字通り数日後に迫っていることなど、誰も想像だにしていなかった。この大坂の陣営こそが、歴史が激しく転回する、その震源地となるのである。
当時の織田家が抱える軍事力が、いかに広範囲に展開し、それぞれが重要な任務を帯びていたかを理解することは、本能寺の変という突発事態に対する長秀の立場を把握する上で不可欠である。
表1:本能寺の変勃発時における織田家方面軍司令官の動静一覧
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方面軍司令官 |
所在地 |
任務 |
推定兵力 |
当面の敵 |
京都までの距離 |
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丹羽長秀 |
摂津国大坂 |
四国方面軍副将 |
数万人規模 |
長宗我部元親 |
約50 km |
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羽柴秀吉 |
備中国高松 |
中国方面軍司令官 |
約30,000 |
毛利輝元 |
約230 km |
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柴田勝家 |
越中国魚津 |
北陸方面軍司令官 |
約40,000 |
上杉景勝 |
約350 km |
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滝川一益 |
上野国厩橋 |
関東方面軍司令官 |
約40,000 |
北条氏政 |
約480 km |
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明智光秀 |
丹波国亀山 |
(中国方面軍援軍) |
約13,000 |
(なし) |
約20 km |
この表が示す通り、長秀は畿内にあって即応可能な最大規模の軍団を掌握していた。この地政学的な優位性こそが、彼の決断一つ一つに、織田家の未来を左右するほどの重みを与えていたのである。
第一章:凶報、そして最初の決断
第一節:飛脚がもたらした絶望
天正10年6月2日、昼過ぎとも夕刻とも言われる頃、京の方向から一騎の飛脚が、静穏を破って四国征伐軍の陣営に駆け込んできた。その口から発せられた言葉は、そこにいた全ての将兵の思考を停止させるに足る、衝撃的なものであった。
「申し上げます! 本日未明、信長公、本能寺にて明智日向守(光秀)様の軍勢に襲われ、御自害なされました!」 6
一瞬の静寂の後、陣中は凄まじい喧騒に包まれた。信じられない、何かの間違いだ、と誰もが思ったであろう。しかし、間髪入れずに届いた第二報が、その悪夢を現実に引き戻す。
「織田信忠様も、二条御所にて奮戦の末、討死なされたとの由!」 6
絶対的君主であった信長と、その後継者である信忠の同時死。織田家という巨大な権力機構の中枢が、一瞬にして真空状態となったのである。総大将である織田信孝と、副将の丹羽長秀は、すぐさま本陣で向き合ったはずである。兵士たちは動揺し、将校たちは怒号を上げ、統制は失われかけていた。この大軍が烏合の衆と化し、自壊を始めるまでに、もはや時間の猶予はなかった。
第二節:粛清の刃 ― 津田信澄の誅殺
この極度の混乱と危機の最中にあって、長秀と信孝は驚くほど冷徹かつ迅速な決断を下す。それは、軍団の内部崩壊を防ぐための、非情なる一手であった。彼らの視線は、軍中にいた一人の武将に向けられていた。津田七兵衛信澄。彼は信長の弟・信行の子、すなわち信孝にとっては従兄弟にあたる織田一門の重鎮である。しかし、彼にはもう一つの顔があった。明智光秀の娘婿、という立場である 7 。
信孝と長秀の間で、次のような会話が交わされたと想像に難くない。
「日向守が謀反…。にわかには信じられぬが、事実とすれば一刻の猶予もならぬ。この軍勢の中に、光秀に通じる者がおらぬとも限らぬ」
「…津田七兵衛殿。彼は光秀が婿にございます。かつて父君(信行)が上様(信長)に謀反を起こした経緯もございます」
「うむ。今この場で疑いの芽を摘んでおかねば、この大軍が内から崩れるやもしれぬ」
信孝が主導し、長秀がこれに同意する形で、津田信澄の誅殺が決定された 9 。信澄は、大坂城千貫櫓において弁明の機会も与えられぬまま、信孝の兵に囲まれ、命を落とした 1 。
この行動は、一見すると、後世に語られる長秀の温厚な「仁政」のイメージとは相容れない、残酷な粛清に見える。しかし、組織論の観点から見れば、これは組織の存続を最優先するリーダーとして、最も合理的かつ効果的な判断であった。信澄の存在は、光秀の縁者であるという一点において、軍内に疑心暗鬼を生む最大の火種であった。彼を放置すれば、兵たちの間で「信澄は光秀に通じているのではないか」という疑念が広がり、軍は内部分裂を起こしていただろう。最悪の場合、数万の軍勢が同士討ちを始め、自壊していた可能性すら否定できない。
信澄一人の犠牲によって、軍全体の統制を維持し、無用な内部抗争による更なる流血を未然に防ぐ。これは、表面的な温情ではなく、組織全体を生かすという、より高次の目的を持った決断であった。まさしく、組織の崩壊を防ぐための「非情の仁政」と評価できる。この最初の決断は、長秀の行動原理が感傷的なヒューマニズムではなく、冷徹なリアリズムに基づいていたことを明確に示している。
第二章:沈黙の軍団 ― なぜ長秀は動かなかったのか
津田信澄を誅殺し、内部の動揺を力ずくで抑え込んだ長秀と信孝。彼らは京都に最も近い大軍団を率いていた。常識的に考えれば、直ちに京へ進軍し、「主君の仇」である明智光秀を討つべきであった。しかし、長秀は動かなかった。彼は大坂の地に留まり、数日間を「静観」するのである 1 。
この行動は、結果的に中国大返しを成功させた羽柴秀吉に手柄を譲る形となり、後世、「出遅れ」「大失態」と評される一因となった 10 。だが、当時の長秀が置かれた状況を多角的に分析すると、その「静観」が単なる混乱や躊躇ではなく、高度な戦略的判断、すなわち「能動的待機(Active Waiting)」であった可能性が浮かび上がってくる。
第一節:京への道、塞がれた選択肢
大坂から京都まではわずか一日ほどの行程である。しかし、その短い道のりの先には、幾重もの見えざる障壁が存在していた。
第一に、 圧倒的な情報不足 である。敵である明智光秀が、どれほどの兵力を動員し、京都周辺にどのような布陣を敷いているのか、全く不明であった。また、光秀に同調する勢力が畿内にどれほどいるのかも分からない。このような状況で無策に突入すれば、待ち伏せや奇襲に遭い、数万の大軍が壊滅する危険性があった。
第二に、 兵の動揺と士気の低下 である。絶対的君主の突然の死は、兵士たちに深刻な心理的打撃を与えていた 1 。彼らは四国を攻めるために集められたのであり、突如として京で光秀と戦うという想定外の事態に、即座に対応できる精神状態ではなかった。このような混乱した軍を性急に進軍させれば、統制が取れずに逃亡兵が続出し、軍そのものが瓦解する恐れがあった。
第三に、 政治的な配慮 である。この軍の総大将は、あくまで信長の遺児である織田信孝であった。長秀の立場は副将であり、信孝の身の安全を確保し、織田家の正統な後継者候補である彼を「御旗」として軽々しく危険に晒すことはできなかった。長秀の独断専行は許されず、全ての行動は信孝との合議の上で進める必要があった。
第二節:「冷静」の正体 ― 能動的待機という戦略
これらの障壁を前に、長秀が選択した「待機」は、何もしない「停滞」ではなかった。それは、リスクを最小化し、来るべき決戦に備えるための、極めて能動的な時間活用であった。
まず、第一章で述べた津田信澄の誅殺は、まさにこの待機期間を有効に使うための地ならしであった。内部の不安要素を排除し、軍の結束を固めることが最優先された。
次に、 兵站の確保と維持 である。数万の軍勢をその場に留め置くだけでも、膨大な兵糧と物資が必要となる。一日あたり兵一人に米六合が必要とされた時代、この大軍を維持する兵站管理は、それ自体が一大事業であった 12 。長秀はこの間、兵糧の管理と分配に全力を注ぎ、軍の飢餓とそれに伴う秩序の崩壊を防いでいたと考えられる。これこそが、彼の真骨頂であった。
そして最も重要なのが、 情報収集と情勢分析 である。長秀は各地へ密偵を放ち、光秀の動向はもちろんのこと、備中の羽柴秀吉、越中の柴田勝家、伊賀越えで堺から脱出した徳川家康など、他の織田家臣団の動向を必死に探っていたはずである。誰が最初に光秀討伐の兵を挙げ、誰がそれに同調するのか。この情報戦を制し、最も勝算の高い勢力と連携することこそが、織田家を再興する唯一の道であった。
長秀の「待機」は、後の勝利に繋がる不可欠な「準備期間」であった。もし彼が焦って進軍していれば、情報不足と士気の低いまま光秀軍と衝突し、各個撃破されていた可能性すらある。彼の沈黙は、織田家の未来を見据えた、冷静沈着な戦略家の貌を我々に見せつけるのである。
表2:丹羽長秀の行動年表(天正10年6月2日~6月13日)
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日付(天正10年) |
長秀・信孝の動向(大坂・摂津) |
関連する出来事 |
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6月2日 |
本能寺の変の凶報を受領。津田信澄を誅殺。 |
本能寺の変勃発。織田信長・信忠自害。 |
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6月3日-4日 |
大坂に留まり、軍の統制維持と情報収集に努める。 |
明智光秀が近江諸城を攻略、安土城を掌握。 |
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6月5日-6日 |
継続して大坂に在陣。情勢を見極める。 |
羽柴秀吉が毛利氏と和睦し、京へ向け進軍開始(中国大返し)。 |
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6月7日-10日 |
秀吉の「中国大返し」の報に接し、情勢を分析。合流を決断。 |
秀吉が姫路城に到着。摂津へ向けて急進。 |
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6月11日 |
秀吉軍と合流(摂津富田)。 |
秀吉、池田恒興らと軍議。 |
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6月13日 |
山崎の戦いに参陣。明智軍と交戦。 |
山崎の戦い。明智光秀が敗走、後に討たれる。 |
第三章:逸話の核心 ― 「蔵の開放」は真実か
本報告書の主題である「信長急死後も冷静に蔵を開け兵糧を分けた」という丹羽長秀の仁政譚。この逸話は、彼の冷静さと懐の深さを示すエピソードとして、広く知られている。しかし、この物語の核心に迫る時、我々は史実と伝説の微妙な境界線上に立つことになる。
第一節:「仁政譚」の構造と典拠の不在
まず、この逸話の構造を改めて確認する。それは、「主君の死という大混乱の中、長秀は全く動じず、軍の維持と兵士の安寧を第一に考え、蔵を開放して潤沢に兵糧を分け与えた」というものである。この行動は、兵士たちの動揺を鎮め、軍団の結束を維持したと解釈される。
しかし、この具体的な行動を記した同時代の一次史料、例えば太田牛一が著した『信長公記』などには、該当する記述を見出すことができない 4 。江戸時代に成立した軍記物や逸話集においても、このエピソードが明確な形で語られている例は稀である。この「史料の沈黙」は、この逸話が文字通りの史実であったかどうかについて、大きな疑問符を投げかける。では、なぜこのような物語が生まれ、長秀の人物像と強く結びつくことになったのだろうか。その答えの鍵は、彼が生前に得ていた異名にあった。
第二節:「米五郎左」の伝説 ― 逸話の源流を探る
丹羽長秀は、織田家臣団の中で「米五郎左(こめごろうざ)」という独特の異名で呼ばれていた 14 。これは、彼の通称である「五郎左衛門」に、人間が生きていく上で不可欠な「米」を冠したものである。この異名は、彼が織田家にとって、まさに米のように重要で欠かせない存在であったことを示している 1 。
この評価は、特に彼の卓越した行政手腕と兵站管理能力に向けられたものであった。大規模な軍事行動における物資の調達、輸送、分配、さらには安土城普請の総奉行として巨大プロジェクトを差配する能力など、彼の管理能力は織田家中で並ぶ者がなかった 17 。主君である信長からの信頼も絶大で、信長が酔って「不動行光(名物)、つくも髪(名物)、人には五郎左御座候」と唄ったという逸話は、長秀が信長にとって名刀や名物茶器に匹敵する「宝」と見なされていたことを如実に物語っている 15 。
第三節:現実的な兵糧管理という「真の仁政」
これらの背景を踏まえると、「蔵を開け兵糧を分けた」という逸話の真相が見えてくる。それは、文字通りの行動を指す記録ではなく、むしろ長秀の本質的な能力と功績が、後世において象徴的な物語へと昇華した姿なのである。
本能寺の変の直後、大坂に集結した数万の軍勢は、指導者を失い、飢餓と混乱による崩壊の危機に瀕していた。この未曾有の危機において、長秀がその「米五郎左」たる所以である卓越した管理能力を最大限に発揮し、兵糧を滞りなく、かつ公平に分配し続けたことは、ほぼ間違いない事実であろう。彼の仁政とは、無計画に蔵を開放するような感傷的な振る舞いではなく、組織を維持するために必要不可欠な、計画的で厳格な兵站管理そのものであった。兵士一人一人に食料が行き渡り、軍の秩序が保たれたこと、それ自体が彼の行った最大の「仁政」であった。
この「兵糧を適切に管理し、軍の崩壊を防いだ」という抽象的で地味な功績が、時を経て人々の記憶の中で語り継がれるうちに、「蔵を開けて兵糧を分け与えた」という、より具体的で、英雄的で、分かりやすい物語へと「結晶化」していった。この逸話は、史実そのものではないかもしれないが、長秀という人物の真価を伝える「真実の物語」なのである。それは、歴史的事実が人々の記憶の中で伝説へと昇華していくプロセスを示す、格好の事例と言えるだろう。
第四章:合流、そして新たな時代の胎動
丹羽長秀が「能動的待機」によって大坂の地で軍を維持し、情勢を見極めている間、西国では歴史を塗り替えるほどの劇的な事態が進行していた。備中高松城で毛利軍と対峙していた羽柴秀吉が、信長の死を知るや否や、驚異的な速さで毛利方と和睦を結び、電光石火の勢いで京へ向けて軍を東進させ始めたのである。いわゆる「中国大返し」である。
この報が長秀の元にもたらされた時、畿内のパワーバランスは決定的に変わった。光秀討伐の主導権が、もはや秀吉の手に渡ったことは誰の目にも明らかであった。長秀と信孝は、単独での行動という選択肢を捨て、最も合理的かつ現実的な道、すなわち秀吉軍との合流を決断する。
天正10年6月11日頃、長秀と信孝が率いる四国征伐軍は、摂津富田あたりで、怒涛の勢いで駆け上がってきた秀吉軍と合流を果たした。この合流は、秀吉にとって計り知れない価値を持っていた。信長の遺児である織田信孝と、織田家筆頭宿老である丹羽長秀を味方に加えたことで、秀吉の軍は単なる一軍閥から、「主君の仇を討つ」という絶対的な大義名分を掲げる織田家の正統な後継軍へと変貌を遂げたからである。長秀の存在そのものが、秀吉の行動に権威と正当性を与えたのである。
合流後、丹羽長秀の軍勢は秀吉軍の中核となり、6月13日の山崎の戦いにおいて明智光秀の軍勢と激突した。この戦いで長秀は、名目上の総大将として、あるいは主力部隊の一翼として、勝利に大きく貢献した 1 。しかし、この戦いの主役が、もはや長秀ではなく、稀代の才覚で時流を掴んだ羽柴秀吉であったことは、紛れもない事実であった。長秀の冷静な判断と行動は、織田家の崩壊を防ぎ、結果として新たな時代の扉を開く役割を果たしたのである。
結論:丹羽長秀の「仁政」の再評価
本能寺の変という、日本の歴史上類を見ない国家的危機に際し、丹羽長秀が示した一連の行動は、後世に語り継がれる「蔵を開けて兵糧を分けた」という温情的な仁政譚とは、その様相を大きく異にする。本報告書で詳述した分析を通じて、彼の「仁政」の本質を再評価することができる。
長秀が取った最初の行動は、組織の分裂という最悪の事態を避けるための「津田信澄誅殺」という 非情の決断 であった。これは、個人の情よりも組織全体の存続を優先する、冷徹なリアリストとしての側面を浮き彫りにする。
彼の次なる行動は、情報なきまま無謀な突撃を避け、勝機を待つための**戦略的静観(能動的待機)**であった。これは、短期的な手柄よりも長期的な織田家の安泰を願う、大局的な視野を持つ戦略家としての判断であった。
そして、その静観を物理的に可能にしたのが、「米五郎左」の異名に象徴される、数万の軍勢を混乱なく維持する 卓越した兵站管理能力 であった。これこそが、彼の仁政の根幹をなすものであり、兵士たちにとって最も現実的な救いであった。
結論として、丹羽長秀の「仁政」とは、兵一人一人に情けをかけるといったミクロな視点のものではなく、組織という共同体を維持し、その崩壊による大混乱と無用な犠牲を防ぐという、マクロな視点に立った**「究極のリアリズム」**であったと言える。
「蔵を開けた」という逸話は、文字通りの史実ではない可能性が極めて高い。しかし、それは決して無価値な創作ではない。彼の本質的な能力と、危機における真の功績が、後世の人々の記憶の中で語り継がれるべき**「真実の物語」**として結晶化し、昇華した姿なのである。この逸話を通じて、我々は、派手な武功の影で、組織の根幹を黙々と支え続けた丹羽長秀という武将の、静かなる偉大さを再認識することができるのである。
引用文献
- 【これを読めばだいたい分かる】丹羽長秀の歴史 - note https://note.com/sengoku_irotuya/n/nca411812cdfe
- 丹羽長秀の実像に迫る!織田信長が「友であり、兄弟」と呼んだ男~米五郎左と呼ばれた万能武将の生涯とは? - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/person/niwanagahide/
- 本能寺の変 - 大山崎町 http://www.town.oyamazaki.kyoto.jp/annai/kikakuzaisei/kannkou/kanko/machinokankosupotto/tenkawakemenotennozan/hideyosinomiti/930.html
- 本能寺の変 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89
- 1582年(前半) 本能寺の変と伊賀越え | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1582-2/
- 丹羽長秀(にわ ながひで) 拙者の履歴書 Vol.76~信長公と共に駆けた生涯 - note https://note.com/digitaljokers/n/n06536ff8bddf
- 丹羽長秀の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/46489/
- 織田一族と津田一族 - BIGLOBE https://www2s.biglobe.ne.jp/gokuh/ghp/think/zakki_01.htm
- 「織田信孝(神戸信孝)」信長の三男。兄との差別を糧にのし上がる!? | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/492
- 丹羽長秀は何をした人?「米のように欠かせない男が安土城の普請に腕を振るった」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/nagahide-niwa
- 信長の三男・織田信孝が辿った生涯|清須会議で、織田家の後継者になれなかった男の壮絶な最期【日本史人物伝】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1140839
- 豊臣政権のロジスティクス【戦国ロジ其の5】 - LOGI-BIZ online https://online.logi-biz.com/9631/
- 本能寺は「織田信長の定宿」は大きな誤解である 本能寺の変にはなぜこんなにも誤謬が多いのか https://toyokeizai.net/articles/-/397458?display=b
- 木綿藤吉 米五郎左 掛かれ柴田に 退き佐久間とは誰?意味とゆかりの地を解説 https://sengokushiseki.com/?p=9642
- 丹羽長秀 愛知の武将/ホームメイト https://www.touken-collection-nagoya.jp/historian-aichi/aichi-niwa/
- (丹羽長秀と城一覧) - /ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/16999_tour_080/
- 第28話 丹羽長秀 - 蔵人会計事務所 https://www.c-road.jp/6column/column28.html