九戸政実
~武士の道言葉にあらず悲劇譚~
天正19年、九戸政実は豊臣軍の謀略で降伏。約束は反故にされ処刑。最期の「武士の道は言葉にあらず」は、天下統一の犠牲となった悲劇を物語る。
『武士の道は言葉にあらず』- 九戸政実、降伏と裏切りの悲劇譚、その瞬間の全貌
序章:天正十九年九月、九戸城の空
天正19年(1591年)9月初頭、陸奥国糠部郡の空は、既に晩秋の気配を色濃く漂わせていた。眼下に馬淵川と白鳥川を天然の濠とし、丘陵の地形を巧みに利用して築かれた九戸城は、天下に難攻不落を謳われた堅城である 1 。その城壁の下には、およそ6万という未曾有の大軍が、あたかも大地を覆い尽くすかのように陣を敷いていた。総大将は関白豊臣秀次の名代、蒲生氏郷、浅野長政、そして徳川家康の重臣である井伊直政といった、当代きっての武将たちが顔を揃えている 3 。彼らが率いるのは、豊臣秀吉による天下統一の総仕上げ、「奥州再仕置」のために動員された精鋭たちであった 5 。
対する城兵は、九戸政実が率いるわずか5千 3 。その兵力差は12倍以上という、誰の目にも絶望的なものであった。しかし、城は沈黙のうちにその威容を保ち、九戸の兵たちの士気は未だ衰えを見せていなかった。同年9月2日、豊臣軍による総攻撃の火蓋が切られたが、九戸城の堅固な守りと城兵の決死の抵抗の前に多大な犠牲を強いられ、攻めあぐねる状況に陥っていた 8 。
戦況は膠着し、豊臣軍の陣中には焦りの色が浮かび始めていた。みちのくの冬は早い。雪に閉ざされる前にこの戦を終わらせなければ、大軍の維持は困難となる。一方、籠城を続ける九戸方にとっても、残された兵糧は尽きかけており、時間は決して味方ではなかった 1 。武力による決着が互いに困難となりつつあるこの状況こそが、後に語り継がれる悲劇、すなわち「謀略」という非情な一手へと、天下の軍勢を向かわせる直接的な引き金となったのである。
第一章:謀略の使者、薩天和尚
謀略の発案
力攻めでの損害の大きさに業を煮やした豊臣軍の首脳、とりわけ検地奉行としても名を馳せた浅野長政は、武力ではなく人の心を操ることで城門を開かせようという、冷徹な一計を案じた 6 。天下統一という大義名分の下、この戦を早期に終結させるためとあらば、武士の信義に悖る手段も厭わない。その策謀は、九戸政実という一人の武将の心を、内側から砕くことを目的としていた。
使者の選定と心理戦
策の成否を分ける使者として白羽の矢が立てられたのは、九戸氏代々の菩提寺である長興寺の住職、薩天和尚であった 7 。これは、単に政実が深く帰依し、信頼を寄せる人物というだけではない、極めて巧妙かつ残酷な人選であった。豊臣方は、この人選を通じて、政実を単なる軍事的な駆け引きの場から、道徳的・宗教的な葛藤の場へと引きずり込もうとしたのである。
浅野長政の陣屋に呼び出された薩天和尚に対し、長政は降伏勧告がいかに「仏の慈悲」であり、「無益な殺生を避けるための唯一の道」であるかを説いたと伝えられる。軍記物によれば、その口上は「政実殿の武勇は天下に聞こえしもの。このまま玉砕させるは武門の誉れに非ず。城兵と女子供の命を助けるため、貴僧の手で政実殿に降伏を説いてはくれまいか」といった趣旨であったという 12 。
この言葉の裏には、しかし、約束を反故にすることを前提とした冷酷な計算が隠されていた。豊臣方が薩天和尚を選んだ真の狙いは、政実の精神を二つの側面から引き裂くことにあった。一つは、敵の甘言に乗ることを恥とし、玉砕を選ぶのが本分と考える「武士としての義」。もう一つは、領民や兵士の命を守ることを第一とする「領主としての情」である。もし、敵の将が直接降伏を勧告すれば、政実は武士の意地としてそれを一蹴したであろう。しかし、深く帰依する和尚が「民を救うのが仏の道」と説けば、その言葉は単なる敵の勧告ではなく、抗いがたい宗教的・道徳的な重みを持つ。これを拒絶することは、仏の教えに背き、民の命を見捨てることを意味し、領主としての責任を放棄するに等しい。豊臣方は薩天和尚を媒介とすることで、政実を「武士の意地」か「領主の慈悲」かという究極の二者択一に追い込み、後者を選ばざるを得ない状況へと巧みに誘導したのである。それは、城壁を物理的にではなく、政実の心を内側から崩すための、周到に仕組まれた攻撃であった。
第二章:城中の激論 - 降伏か、玉砕か
降伏勧告がもたらした衝撃
薩天和尚が九戸城にもたらした降伏の条件――「政実をはじめとする主将たちの命と引き換えに、城内の兵士、女子供の命は保証する」というもの――は、籠城を続ける城内に大きな動揺を走らせた 10 。それは一筋の光明であると同時に、武士としての誇りを捨てることを意味する過酷な選択であった。知らせを聞いた家臣たちの意見は、真っ二つに割れた。
「武士の道は、降伏に非ず。たとえこの城を枕に討ち死にしようとも、最後まで戦い抜くべきでござる」「豊臣の甘言、信ずるに足らず。これは我らを油断させるための罠に相違ない」。徹底抗戦を主張する強硬派の家臣たちは、主君の翻意を促すべく声を荒らげた。ある軍記によれば、家臣の一人である畠山重勝は、政実の態度を軟弱とみなし、その場で自刃して主君を諫めたとさえ伝えられている 13 。城内は、敵の謀略によって内側から引き裂かれ、激しい議論と疑心暗鬼が渦巻く、緊迫した空気に包まれた。
政実の苦悩と悲壮な決断
家臣たちの激論を前に、九戸政実の心中は千々に乱れていた。一方には、南部家随一の精鋭と謳われた九戸一族の誇りと、武士としての意地がある 15 。しかし、目の前には、日に日に痩せ衰えていく兵士たちの姿、そして物陰で怯える女子供の顔があった。兵糧はもはや底を突きかけており、これ以上の籠城は飢えによる共倒れを意味するだけであった 1 。
政実の脳裏には、領主として守るべき民の顔が浮かんでいた。この戦は、南部家の家督争いと、中央政権による奥州仕置への反発から始まったものであり、領民に罪はない 6 。彼らの命を、自らの意地のために犠牲にして良いものか。苦悩の末、政実はついに決断を下す。『九戸軍談記』などの後世の記録は、その時の政実の言葉をこう伝えている。「皆の命を救えるとあらば、勇んでこの首差し出そうではないか!」 11 。それは、武士としての死ではなく、数千の命を救うための、領主としての死を選ぶという悲壮な決意表明であった。
表1:九戸城、最後の数日間(天正19年9月2日~9月20日)
降伏の決断から悲劇的な結末までの一連の出来事は、驚くべき速さで進行した。以下の時系列表は、その間の両軍の動向をまとめたものである。
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日付 |
九戸城(政実方)の動向 |
豊臣軍(仕置軍)の動向 |
備考 |
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9月2日 |
九戸城に籠城。徹底抗戦の構えを固める。 |
6万の兵で九戸城を完全包囲し、総攻撃を開始する 7 。 |
熾烈な攻防が続くも、城は陥落せず。 |
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9月3日 |
籠城を続けるが、兵糧の欠乏と兵士の疲弊が深刻化する。 |
攻城戦での甚大な損害に鑑み、浅野長政らが謀略による開城を画策する 6 。 |
戦況は膠着状態に陥る。 |
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9月4日 |
薩天和尚の説得を受け入れ、政実が降伏を決断。白装束姿で開城する 6 。 |
政実ら主導者を捕縛。直後に約束を反故にし、城内へ乱入して「撫で斬り」を開始する 1 。 |
降伏したその日に裏切りが実行された。 |
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9月5-7日 |
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城内の掃討と放火を継続。城は三日三晩燃え続けたと伝わる 9 。 |
九戸城は事実上壊滅した。 |
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9月8-19日 |
政実ら主だった者たちは、処刑地である三迫へと護送される。 |
- |
弁明の機会は与えられなかった。 |
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9月20日 |
栗原郡三迫にて、政実らが斬首される 18 。 |
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九戸政実の乱は完全に終結した。 |
この表が示すように、降伏勧告から虐殺、そして処刑までの一連の出来事は、わずか半月余りのうちに、いかに迅速かつ計画的に行われたかがわかる。特に9月4日の欄は、政実の降伏と豊臣軍の虐殺開始が同日に行われていることを示しており、降伏したその瞬間に裏切りが実行されたという事実を冷徹に物語っている。
第三章:白装束の開城 - 偽りの約束
天正19年9月4日、九戸城の大手門が、重い音を立てて静かに開かれた。先頭に立って姿を現したのは、髪を剃り落とし、死を覚悟した者のまとう白装束に身を包んだ九戸政実であった。その表情に悲壮感はあっても、臆する色は見られない。続いて、弟の実親、重臣の櫛引清長ら七人の武将たちも、主君と同じ姿で静かに従った 6 。それは、敗者が勝者に対して見せる最大限の礼を尽くした、武士としての降伏の作法であった。
城門と豊臣軍の陣営との間には、張り詰めた静寂が広がっていた。数万の兵士たちが固唾を飲んで見守る中、政実の一行は、総大将の陣へと歩を進める。彼らが豊臣方の陣営に足を踏み入れ、その身柄を拘束された、まさにその瞬間であった。
背後の九戸城から、突如として鬨の声が轟いた。約束が偽りであったことを、政実はその声で悟った。振り返る間もなく、豊臣軍の兵士たちが、堰を切ったように城内へと雪崩れ込んでいく。その光景を前に、政実の胸に去来したものは、怒りか、絶望か、あるいは自らの判断を悔いる無念であったか。もはや言葉を発することも、抵抗することも許されず、ただ裏切りの瞬間を目の当たりにするしかなかった。
第四章:二の丸の阿鼻叫喚 - 撫で斬りの真実
凄惨を極めた虐殺
約束を反故にして城内になだれ込んだ豊臣軍は、もはや抵抗する術を持たない城兵、そして戦には無関係であるはずの女子供に至るまで、その刃を向けた。人々は二の丸へと追い込まれ、そこで繰り広げられたのは、一方的な殺戮、すなわち「撫で斬り」であった 1 。四方から火が放たれ、城は紅蓮の炎に包まれた。その炎と煙は三日三晩、夜空を焦がし続けたと伝えられている 9 。城内は阿鼻叫喚の地獄と化し、数千の命が、偽りの和睦の代償として失われた。
考古学が裏付ける悲劇
この凄惨な虐殺は、後世の軍記物が誇張して描いた物語ではなかった。その事実は、現代の考古学調査によって、動かぬ物証と共に証明されている。九戸城の二の丸跡で行われた発掘調査では、この時のものと思われる多数の人骨が出土した。その中には、明らかに斬首された痕跡のあるものや、無数の刀傷を負った女性の骨も含まれていた 9 。これらの発見は、軍記物に描かれた「撫で斬り」が、紛れもない歴史的事実であったことを裏付けている。
この残虐行為は、単なる戦後処理の逸脱ではなかった。むしろ、天下統一を完成させようとする豊臣秀吉による、計算され尽くした政治的パフォーマンス、すなわち「見せしめ」としての側面が強い。当時の東北地方は、奥州仕置後もなお、中央政権への不満が各地でくすぶる火種を抱えていた 6 。秀吉にとって、南部家屈指の実力者である九戸政実の反乱は、この不満分子に同調の動きを広げかねない、極めて危険な事態であった。
したがって、この反乱の鎮圧は、単に九戸氏を滅ぼすだけでなく、「天下人に逆らう者がどのような末路を辿るか」を、東北全土の大名や国人衆に強烈に見せつける必要があった。降伏を受け入れた上で、約束を反故にして女子供まで皆殺しにするという行為は、軍事的な合理性を逸脱している。それは、「慈悲を乞うても無駄である」「抵抗の意志を持つこと自体を許さない」という、恐怖による支配の意思表示に他ならなかった。この九戸城での一件により、秀吉は東北地方における最後の抵抗の芽を、物理的にも心理的にも、完全に摘み取ったのである。
第五章:三迫の露 - 最期の言葉
処刑地への道
捕らえられた政実と主だった者たちは、反乱の弁明をする機会も与えられぬまま 6 、処刑地として定められた栗原郡三迫(現在の宮城県栗原市)へと護送された 5 。故郷・九戸の地を背に、死地へと向かう道中、政実の胸中にはどのような想いが去来したであろうか。信じた和尚の言葉、守れなかった民や家族への想い、そして武士の信義を踏みにじられたことへの、言葉にならない無念さが渦巻いていたに違いない。
最期の瞬間と魂の叫び
天正19年9月20日、一行は三迫の上品寺、あるいはその付近の丘で処刑の時を迎えた 18 。伝説によれば、他の者たちが豊臣や南部信直を声高に罵る中、政実は従容として、静かに死に臨んだと伝えられる 18 。
そして、まさに首を刎ねられんとするその瞬間、政実は最後の力を振り絞り、天に向かって叫んだとされる。
「武士の道は言葉にあらず」
この一言に、彼のすべての無念と怒り、そして絶望が凝縮されていた。言葉で交わした約束(=武士の面目、信義)がいかに脆く、たやすく踏みにじられるものであるか。もはや言葉によって己の正義を証明する術はなく、残されたのは、自らの死をもってしか武士の道を示すことができないという、悲痛な魂の叫びであった。言葉を信じたがゆえに裏切られ、すべてを失った男が最後に辿り着いた、あまりにも悲しい真理であった。
史実と文学の交差点
興味深いことに、この象徴的な最期の言葉「武士の道は言葉にあらず」の直接的な出典は、同時代の一次史料には見出すことが難しい。この言葉が広く知られるようになったのは、後世の作家、幸田露伴が著した歴史小説『蒲生氏郷』によるところが大きい 24 。
しかし、これはこの逸話の価値を何ら貶めるものではない。むしろ、九戸政実の悲劇的な生涯と最期が、後世の作家の創作意欲を掻き立てるほどに劇的であったことの証左である。そして、この「武士の道は言葉にあらず」という言葉が、彼の悲劇の本質をあまりにも的確に、そして鮮烈に表現していたために、あたかも史実の言葉として人々の記憶に深く刻み込まれることになったのである。史実としての「裏切り」と、それを象徴する「文学的表現」とが分かちがたく結びついたこの逸話は、歴史がどのように語り継がれていくかを示す、一つの好例と言えよう。
終章:悲劇譚の残響
九戸政実の処刑後、その首は京都に送られ、一条戻橋に晒されたとも伝えられている 10 。しかし、故郷の地には、主君を慕う家臣の忠義を物語る、もう一つの伝承が残された。家臣の一人であった佐藤外記が、乞食に身をやつして密かに京に潜入し、主君の首を奪い返すと、故郷の九戸村まで持ち帰り、山中に手厚く葬ったというのである 11 。現在も九戸村に残る「政実公の首塚」は、この悲劇を忘れまいとする地元の人々の想いと、主君への変わらぬ忠義の結晶として、静かに佇んでいる。
九戸政実の悲劇譚は、長く続いた戦国乱世の終焉と、豊臣政権による新たな中央集権体制の確立が、いかに苛烈な犠牲の上に成り立っていたかを物語る、象徴的な出来事であった。信義や一族の名誉といった、旧来の武士たちが重んじてきた価値観が、天下統一という絶対的な権力の前ではあまりにも無力であり、時には謀略によって無慈悲に蹂躙される時代の大きな転換点であった。
九戸政実の最期の叫び、「武士の道は言葉にあらず」は、滅びゆく者たちの挽歌であり、新しい時代の非情さに対する痛烈な告発として、400年以上の時を経た今なお、我々の胸に深く響き渡るのである。
引用文献
- 天下人の6万の軍勢を退けた城の秘密とは?九戸城に隠された3つの驚くべき真実 - note https://note.com/aokomaki/n/nd940872b10e8
- 【岩手県】九戸城の歴史 反乱の舞台となった難攻不落の要害 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2318
- 青森・岩手・宮城「九戸政実、覇王・秀吉に挑んだ男」 - JR東日本 https://www.jreast.co.jp/tohokurekishi/course/course_2021y/tohoku_01_2021y.html
- 九戸政実 http://www.vill.kunohe.iwate.jp/docs/251.html
- 「九戸政実の乱(1591年)」秀吉、天下統一への最終段階。奥州再仕置と北の精鋭・九戸軍大攻囲 https://sengoku-his.com/122
- 九戸政実の乱古戦場:岩手県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/kunohemasazane/
- 九戸城跡 - 二戸市 https://www.city.ninohe.lg.jp/Link/Pdf/213
- 戸城 http://www.tokugikon.jp/gikonshi/279/279shiro.pdf
- 九戸政実の乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%88%B8%E6%94%BF%E5%AE%9F%E3%81%AE%E4%B9%B1
- 九戸政実の乱(2/2)秀吉の天下統一最後の戦い - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/event/285/2/
- 秀吉の天下統一最後の相手「九戸政実」の城だった九戸城の物語 - COLORS STYLE https://colors-style.com/articles/458
- 九戸城跡 - 二戸市教育委員会 http://www.edu.city.ninohe.iwate.jp/~maibun/pamphlet_kunohejyo.pdf
- 発行/階上町 039-1201 青森県三戸郡階上町大字道仏字天当平1-87 編集/企画課 TEL(0178) 88-2113 FAX (0178) 88-2117 https://www.town.hashikami.lg.jp/index.cfm/9,10918,c,html/10918/2004.02.pdf
- 九ノ戸神社 - “九戸政実の乱"終焉地の不思議 - 日本伝承大鑑 https://japanmystery.com/miyagi/kunohe.html
- 九戸城(岩手県) | いるかも 山城 https://jh.irukamo.com/kunohejo/
- 九戸政実(くのへ まさざね) 拙者の履歴書 Vol.151~義に殉じた叛臣 - note https://note.com/digitaljokers/n/nf65a22bd17cf
- 六万の軍勢に耐えた九戸城が持つ秘密とアイヌ語地名 - note https://note.com/aokomaki/n/n71134dd99735
- 九ノ戸神社(三迫) - 北奥三国物語 https://www.goemonto.rexw.jp/kunohejinja01.html
- 岩手県二戸市九戸城跡 https://www.city.ninohe.lg.jp/info/2324
- 岩手県二戸市・中世の終焉:秀吉に抗して散った 名将 九戸政実の乱 - フォートラベル https://4travel.jp/travelogue/11060582
- 史跡九戸城跡発掘調査総括報告書 - 全国文化財総覧 https://sitereports.nabunken.go.jp/63073
- 政實公の首塚 - 九戸村 http://www.vill.kunohe.iwate.jp/docs/235.html
- 【九戸政實】首級清めの池と九ノ戸神社 - もとじろう旅ブログ https://sendai-deep.hatenablog.com/entry/2021/11/28/160230
- 幸田露伴 蒲生氏郷 - 青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/000051/files/2709_23559.html
- 哀涙の政実を訪ねて。政実関連史跡を巡る。 http://www.edu.city.ninohe.iwate.jp/kakuka/maibun/kunohejoseki/syuhenmap.html