井伊直政
~赤は血の色、恐るるに足らず~
井伊直政の「赤は血の色、恐るるに足らず」の逸話は史料的根拠がなく近年の創作だが、赤備えの猛将としての彼の本質と武士の死生観を巧みに表現している。
【徹底調査報告書】井伊直政『赤は血の色』勇壮譚の深層分析—史実と創作の境界線
序章:勇壮譚の魅力と謎
徳川四天王の一人、「井伊の赤鬼」と恐れられた猛将、井伊直政。その苛烈な生涯を象徴する逸話として、一つの勇壮譚が語り継がれている。『傷を負っても笑い、「赤は血の色、恐るるに足らず」と言った』—この言葉は、彼の武勇と不屈の精神を鮮烈に描き出し、多くの人々を魅了してきた 1 。常に軍の先頭に立ち、敵陣へ真っ先に切り込むことを信条とした直政の生き様と、この逸話は完璧に合致するように響く 3 。
しかし、このあまりにも象徴的な言葉は、果たしていつ、いかなる状況で発せられたのであろうか。そして、その記録は歴史的検証に耐えうるものなのか。本報告書は、この魅力的な勇壮譚の核心に迫るべく、逸話の舞台となったであろう合戦の状況、負傷の実態、そして言葉そのものの典拠を徹底的に調査・分析し、その実像を明らかにすることを目的とする。
第一部:逸話の舞台—慶長五年九月十五日、関ヶ原の死線
逸話が生まれる歴史的背景として唯一考えられるのは、天下分け目の関ヶ原の戦いである。この日、井伊直政がどのような役割を担い、いかにして負傷に至ったのか。その軌跡を時系列で克明に再現する。
1. 開戦前夜:先鋒への執念
慶長5年(1600年)9月15日、美濃国関ヶ原。井伊直政はこの決戦において、単なる一軍の大将としてだけではなく、極めて重要な立場にあった。彼は徳川家康の四男であり、自身の娘婿でもある松平忠吉(当時21歳)の初陣における後見役(こうけんやく)を任されていたのである 5 。若き忠吉に武功を立てさせ、その名を天下に示さしめることは、直政にとって最優先の使命であった 8 。
この使命感が、徳川軍の軍監によって定められた戦の作法を破る行動へと繋がる。東軍の先鋒は、豊臣恩顧の福島正則隊と厳命されていた。しかし、午前8時頃、濃霧が立ち込める中、直政と忠吉の一隊は福島隊の制止を振り切り、前方の西軍・宇喜多秀家隊に向けて発砲。これが天下分け目の戦いの火蓋を切る一撃となった 8 。この「抜け駆け」とも呼ばれる軍令違反は、単なる忠吉への功名心だけでなく、徳川本隊がこの戦の主導権を握るのだという家康の暗黙の意図を汲んだ、高度な政治的判断であったとする説もある 10 。徳川家臣団の中で新参者であった直政にとって、この合戦は自らの存在価値を譜代の宿老たちに改めて証明する絶好の機会でもあった。彼の先陣への執着は、その背負った重圧の裏返しでもあったと言えよう 11 。
2. 合戦本戦:『赤備え』の躍動
開戦後、直政が率いる「井伊の赤備え」は、その名を天下に轟かせるにふさわしい奮戦を見せる。かつて武田信玄麾下で最強と謳われた山県昌景の部隊を継承し、甲冑から旗指物に至るまで朱色で染め上げたこの精鋭部隊は、戦場において圧倒的な威圧感を放った 8 。直政自身も鬼の角のような立物を付けた兜をかぶり、長槍を振るって敵を蹴散らしたと伝わる 12 。『井伊の赤鬼』の異名通りの働きで、大谷吉継隊など西軍の主力を相手に激戦を繰り広げ、東軍の勝利に大きく貢献したのである。
3. 終盤:『島津の退き口』—死闘の始まり
合戦が終盤に差し掛かり、西軍の敗色が濃厚となると、戦場中央に孤立した島津義弘率いる約1500の兵が、前代未聞の退却戦を開始する。それは後方に退くのではなく、敵である徳川家康の本陣目掛けて正面突破を敢行し、伊勢街道へと抜けるという壮絶なものであった。世に言う「島津の退き口」である 8 。
島津隊の決死の突撃は東軍に動揺を与えたが、その進路上にいた井伊直政と松平忠吉は、この好機を逃さなかった。彼らは本多忠勝らと共に、退却する島津隊に猛然と食らいつき、追撃を開始した 8 。彦根城博物館が所蔵する『関ヶ原合戦図屏風』には、赤備えの井伊隊が島津隊を追走する躍動感あふれる姿が描かれており、この追撃戦の激しさを今に伝えている 16 。この執拗な追撃こそが、本報告書の核心となる直政の負傷、ひいては彼の命運を決定づける直接的な原因となるのであった。
第二部:歴史的瞬間—銃弾と負傷の実相
逸話の背景には、英雄的な言葉だけでは語り尽くせない、過酷な現実が存在した。井伊直政が負傷した瞬間の具体的な状況を、複数の史料や研究を基に多角的に再構築する。
1. 狙撃の瞬間:烏頭坂の攻防
通説によれば、直政が負傷したのは、島津隊が用いた決死の遅滞戦術「捨て奸(すてがまり)」によるものであった。これは、退却する本隊を守るため、小部隊がその場に留まって追撃部隊の将を狙撃し、全滅するまで戦い続けるという壮絶な戦法である 14 。
具体的な狙撃者として、島津方の鉄砲の名手・柏木源藤(かしわぎげんとう)の名が挙げられている。彼は現在の岐阜県大垣市上石津町にある烏頭坂(うとうざか)付近で、猛追してきた井伊直政を馬上から撃ち落としたとされる 12 。島津隊はあぐらをかいた姿勢で敵将を精密に狙撃する「座禅陣」と呼ばれる戦法も用いたとされ、直政はその恐るべき射撃技術の犠牲となったのである 21 。
一方で、近年の研究では異なる状況も示唆されている。直政は退却中の島津隊を深追いしたのではなく、まだ小関村の本陣近くに布陣していた島津勢の前面に立ち塞がった際に狙撃されたとする説である 22 。この説に立てば、世に名高い「島津の退き口」に対する組織的な追撃は行われていなかった可能性があり、逸話の前提となる状況認識を大きく変えることになる。いずれにせよ、直政が島津隊の鉄砲によって重傷を負ったという事実に揺るぎはない。
2. 傷の状態と戦場の医療
史料によって右腕、あるいは左腕や胸部など記述に差異はあるものの、多くの記録では右腕の肘関節付近に銃創を負ったとされている 5 。この一撃で直政は落馬したとも伝わる 12 。
当時の戦国時代において、刀傷や槍傷の治療を専門とする「金瘡医(きんそうい)」は存在したが、火縄銃による銃創の治療は極めて困難であった 24 。銃弾は体内で不規則に変形し、骨を砕きながら深く突き刺さるため、弾丸の摘出は難しく、傷口から細菌が侵入することによる感染症、特に破傷風の危険性が非常に高かった 26 。英雄譚では一瞬の出来事として語られる負傷も、現実には当時の医療技術の限界に直面した、絶望的な傷であった。
3. 致命傷—二年後の死
勇壮譚では武勇の証とされたこの傷は、実際には彼の命を確実に蝕む致命傷であった 5 。関ヶ原の戦いが終わった後、直政は傷の治療に専念することなく、西軍大名の処遇を決める戦後処理の外交交渉などに奔走する 29 。彼の類稀な政治手腕は、徳川幕府の基盤固めに不可欠であったが、その激務は彼の回復を妨げた。
傷は最後まで癒えることなく、慶長7年(1602年)2月1日、直政はこの関ヶ原で受けた銃創が悪化し、破傷風などが原因で42歳の若さでこの世を去った 23 。逸話が切り取る「傷を負っても笑う」という一瞬の勇壮さの裏には、一つの銃創が二年もの歳月をかけて英雄を死に至らしめるという、長く苦しい闘病の現実が横たわっていたのである。
第三部:言葉の検証—『赤は血の色』の源流を探る
本報告書の調査において、最も核心的な部分がこの言葉そのものの検証である。果たして井伊直政は、負傷した際に「赤は血の色、恐るるに足らず」と本当に語ったのであろうか。
1. 史料上の不在
井伊家の歴史を記した公式な記録である『井伊家伝記』(江戸時代中期成立)や、新井白石が諸大名の事績をまとめた『藩翰譜』をはじめ、江戸時代に編纂された主要な史料や軍記物を精査した結果、 ご依頼の『傷を負っても笑い「赤は血の色、恐るるに足らず」と言った』という具体的な発言や、それに類する記述は一切確認できなかった 30 。関ヶ原の戦いを詳細に描いた合戦図屏風などにも、そのような場面は描かれていない 16 。歴史的記録の中に、この勇壮譚を直接裏付ける証拠は存在しない。
2. 逸話の発生源—近年の創作の可能性
では、この鮮烈な言葉はどこから来たのか。徹底的な調査の結果、この言葉の直接的な出典は、 近年になって創作された物語である可能性が極めて高い という結論に至った。
具体的には、ウェブサイト『note』に2020年代に掲載された「拙者の履歴書」という、歴史上の人物が自らの半生を一人称で語るという形式の**空想企画(創作記事)**の中に、酷似した表現が見出された 23 。その記事において、井伊直政を名乗る語り手は、自らが率いる「赤備え」の精神を兵士たちに説く場面で、次のように語っている。
「赤は血の色。一度出陣したら、命を落とすとも退かぬ覚悟の象徴である」拙者はそう兵たちに説いた。 23
この記事では、関ヶ原で負傷した際の発言としてではなく、平時に部隊の結束を高めるために語った言葉として創作されている。この創作された力強い言葉が、直政の勇猛果敢なイメージと結びつき、いつしか「関ヶ原で負傷した際に、笑いながら言った」という、より劇的な物語へと脚色され、インターネットなどを通じて流布していったものと強く推察される。
3. なぜ創作は真実味を帯びるのか
史実ではないとすれば、なぜこの創作された逸話は多くの人々に「いかにも直政らしい」と感じさせ、あたかも史実のように受け入れられているのだろうか。その理由は、この言葉が直政という人物の本質的な要素を巧みに凝縮しているからに他ならない。
- 『赤鬼』と『赤備え』の象徴性: 直政の異名である「井伊の赤鬼」と、彼の部隊の象徴である「赤備え」は、「赤」という色を彼のアイデンティティと不可分に結びつけている 1 。そのため、「赤は血の色」という言葉は、彼の存在そのものを語っているかのような説得力を持つ。
- 生涯の傷という事実: 徳川四天王の同僚・本多忠勝が生涯無傷を誇ったのとは対照的に、直政は常に最前線で戦い、重装備にもかかわらず生傷が絶えなかったという史実がある 3 。この事実は、「傷を恐れない」という逸話の精神性と完全に一致する。
- 武士の死生観との合致: 己の死を恐れず、主君のために命を懸けることを至上の名誉とする武士道的な価値観と、この逸話が示す精神性は見事に調和している 33 。
つまり、この逸話は**「史実ではないが、井伊直政という人物の本質を非常によく捉えた、優れた創作」**であると言える。それは、複雑な歴史上の人物像を、象徴的な言葉を通じて理解したいという人々の欲求に応える、非常に効果的な「要約」として機能しているのである。
【勇壮譚と史実の比較】
本章の結論として、逸話と歴史的実態の差異を以下の表にまとめる。
|
項目 |
利用者様ご提示の勇壮譚 |
史料に基づく歴史的実態 |
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状況 |
不明瞭(合戦中) |
関ヶ原の戦いにおける島津隊追撃戦の最中 |
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負傷 |
傷を負う |
島津隊の鉄砲により右腕(または左腕)を狙撃される |
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行動 |
笑う |
負傷後も戦後処理の激務に従事 |
|
発言 |
「赤は血の色、恐るるに足らず」 |
史料上の記録なし(近年の創作に由来) |
|
結果 |
不明瞭(勇壮さを示す) |
傷が原因となり、慶長7年(1602年)に死去 |
第四部:直政の精神—史実に見る武士の死生観
創作された言葉の代わりに、史料から読み解ける井伊直政の真の精神性や死生観はどのようなものであったか。確かな記録から、彼の実像に迫る。
1. 『赤備え』に込めた覚悟
直政が武田の赤備えを継承したことは、単に軍装を模倣しただけではなかった 2 。戦場で最も目立つ「赤」を部隊の色とすることは、敵の攻撃を一身に引き受けることを意味し、決して退却しないという不退転の覚悟の表明であった 35 。古代より「赤」が魔除けや生命力の色とされてきたように 36 、直政はこの色を、敵を威嚇し味方を鼓舞する心理的な兵器として戦略的に活用したのである 2 。彼の部隊が「火の塊が突進してくるように見えた」と恐れられたのは 2 、その色彩戦略が成功していた証左と言える。
2. 実在する逸話が示す人物像
直政の人物像を物語る、史料に記録された逸話が存在する。
- 『伊賀越えの赤飯』: 天正10年(1582年)の本能寺の変後、堺にいた家康一行が決死の覚悟で伊賀の山道を越えて三河へ逃れる際のことである。空腹に耐えかねた一行が道中の神社の供物である赤飯に手をつける中、直政ただ一人が頑として口にしなかった。家康に勧められても、「もしここで敵に襲われ討ち死にした際、腹の中から盗んだ供物が出てきては武士の名折れ。主君に恥をかかせることになります」と答えたという 11 。この逸話は、彼の潔癖なまでの誇りと、いかなる状況でも死を覚悟していた武士としての精神性、そして家康への絶対的な忠誠心を明確に示している。
- 『芋汁事件』: 若き日の直政が、古参の重臣・大久保忠世の陣に招かれ、まずい芋汁を振る舞われた際、無邪気に「醤油があれば美味しくなるのですが」と口走り、周囲の顰蹙を買った。忠世は「兵卒はこれすら満足に食えぬ。将たる者はそのことを忘れるな」と諭したという 37 。この逸話は、名門出身である彼の育ちの良さと、同時に徳川家中でやや浮いた存在であったことを示唆している。こうした経験が、彼を自他ともに厳しい、隙のない武将へと成長させた一因であろう。
3. 『傷』と『誉れ』—本多忠勝との対比
直政の武士としてのあり方を理解する上で、同僚である本多忠勝との比較は極めて有効である。忠勝は生涯で参加した57度の合戦において「かすり傷一つ負わなかった」ことが最大の武勇伝とされている 41 。これは彼の巧みな戦術眼と危険察知能力の高さを示すものであった。
対照的に、直政は常に分厚い甲冑で身を固めていたにもかかわらず、生傷が絶えなかったと記録されている 3 。これは両者の戦術思想の違いを物語っている。忠勝が部隊を巧みに指揮して勝利を掴む将であったのに対し、直政は自らが先頭に立って敵陣に突撃し、その背中を見せることで部隊を鼓舞する「率先垂範型」の将であった 10 。彼にとって、戦場で負う傷は不名誉などではなく、主君のために命を懸けて最前線で戦った証し、すなわち武士最高の「誉れ傷(ほまれきず)」だったのである 46 。彼の悲劇的な生涯は、父の誅殺に始まり、家臣団との軋轢、そして志半ばでの戦傷死と、後世の人々の「判官贔屓」の情をかき立てる要素に満ちている。この悲運の勇将という側面が、彼を理想化し、より勇壮な逸話を生み出す土壌となったのかもしれない 23 。
結論:勇壮譚の向こうに見える実像
本報告書の徹底調査の結果、井伊直政の『傷を負っても笑い「赤は血の色、恐るるに足らず」と言った』という逸話は、具体的な発言として史料的根拠が見いだせず、近年に創作された物語である可能性が極めて高いと結論付けられる。
しかし、この逸話は単なる作り話として切り捨てられるべきものではない。史実ではないとしても、それは「井伊の赤鬼」と恐れられ、生涯を傷だらけで戦い抜き、その身を盾として主君・徳川家康に全てを捧げた井伊直政という武将の精神性の本質を、見事に捉えているからである。
英雄譚は、時に史実の記録を離れ、後世の人々の理想や願望を反映して形作られる。この勇壮譚は、史実そのものではないかもしれないが、井伊直政という人物が、人々にどのように記憶され、語り継がれるべき英雄と見なされているかを示す、一つの「真実」の形と言えるだろう。我々はこの逸話を通じて、記録の向こう側にある、井伊直政の鮮烈にして悲劇的な生き様に、より深く思いを馳せることができるのである。
引用文献
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- 戦国最強! 勇猛果敢、武田・井伊・真田の「赤備え」【戦国ことば解説】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1127539
- 赤備えの猛将、井伊直政! - 岡崎城公園 https://okazaki-kanko.jp/okazaki-park/feature/busho-profile/ii
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- 徳川四天王 随一の出世頭 赤備え軍団・井伊直政 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/10340
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- 徳川四天王の『赤備え』井伊直政。『赤心』で家康に仕えた直政の生涯に迫る! | サムライ書房 https://samuraishobo.com/samurai_10016/
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- (井伊直政と城一覧) - /ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/14/
- 井伊直政 赤備えを率いた智勇兼備の将 その活躍ぶりに見るリーダーの在り方とは? - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=rWblm1i-XIs
- 刀をメイン武器として使っていたのは幕末だけ?日本刀の立ち位置を考えてみる https://intojapanwaraku.com/rock/craft-rock/156218/
- 疵 (キズ) は武士の誉なり - Chicago Blog https://regimentals.jugem.jp/?eid=5632
- 天の命ずるままに https://ktymtskz.my.coocan.jp/denki2/iina10.htm