最終更新日 2025-10-25

伊達成実
 ~主の肖像を抱え怒りを買い退去~

伊達成実が出奔時に政宗の肖像画を抱いた逸話の真偽を検証。史実の出奔理由と、政宗の花押に隠された秘密の印による帰参の経緯を解説し、忠節の真実を探る。

伊達成実「肖像画拝持出奔譚」の徹底的歴史考証 ― 虚構の裏に隠された忠節の真実 ―

序章:語り継がれる忠臣の像 ― 逸話の提示とその歴史的価値

伊達成実。伊達政宗の従弟にして、伊達家随一の猛将と謳われた武人である。彼の生涯を彩る数多の武勇伝の中でも、ひときゆわ異彩を放ち、後世の人々の心を打ち続けてきた逸話がある。それは、主君・政宗の怒りを買い、長年仕えた伊達家から出奔する際の、悲壮にして純粋な忠節の物語である。

曰く、文禄から慶長年間にかけての数年間、成実は政宗との間に生じた深刻な確執の末、ついに伊達家を去る決意を固める。夜陰に紛れ、伏見の屋敷を後にするその時、彼は金銀財宝や名物利器には一切目もくれなかった。ただ密かに、敬愛してやまない主君・政宗の肖像画一枚のみを懐に抱き、誰にも行き先を告げることなく姿を消した、と。

この「肖像画拝持出奔譚」は、たとえ主君と袂を分かつとも、その心根にある忠誠心は微塵も揺るがないという、武士の鑑たる成実の姿を象徴的に描き出している。身体は主君のもとを離れても、魂は常に主君の肖像と共にある。この情緒的な物語は、成実を単なる勇将ではなく、深い情義を胸に秘めた理想の忠臣として、後世の記憶に刻み込む上で絶大な効果を発揮した。

しかしながら、この感動的な逸話に対して、歴史学の観点から冷徹な光を当てるとき、我々は重大な事実に直面する。伊達家の公式な編年史である『伊達治家記録』や、成実自身が晩年に著したとされる軍記『成実記』をはじめ、同時代を生きた人物たちが残した一次史料の中に、この肖像画に関する記述は一切見出すことができないのである 1

この史料上の「不在」は、単なる記録の欠落を意味するものではない。むしろ、それは歴史の深層に横たわる、より複雑な真実の存在を示唆している。成実の出奔は、伊達家にとって紛れもない一大スキャンダルであり、その原因や経緯には、単純な忠節譚では覆い隠せない、生々しい人間関係の軋轢や政治的な対立が存在した。後世の人々は、この不可解で説明の難しい「功臣の離反」という歴史の空白を埋め、成実の忠臣としての名誉を回復させるために、新たな「物語」を必要としたのではないか。

したがって、本報告書は、広く流布する肖像画の逸話を単に紹介するものではない。その史実性を徹底的に検証し、逸話がなぜ生まれ、語り継がれる必要があったのかという歴史的背景を探る。そして、虚構のベールを剥がした先にある、より確かな史料に裏付けられた、伊達成実と伊達政宗の間に交わされた「真の忠節の証」を明らかにすることを目的とする。

第一章:亀裂の序曲 ― 出奔前夜、伏見屋敷の緊張

伊達成実の出奔という衝撃的な事件を理解するためには、まず、その背景にある彼の強烈な自負心と、それを蝕んでいった不満の数々を解き明かす必要がある。文禄2年(1593年)の朝鮮出兵からの帰国後、彼が政宗と共に滞在した京・伏見の伊達屋敷は、華やかな中央政界の舞台であると同時に、主従の間に亀裂が深まる静かな戦場でもあった 3

揺るぎなき「自負心」の源泉

成実が抱いていた「自分が伊達家を支えている」という自負心は、決して過剰な自意識ではなかった。それは、彼の血筋と、命を賭して積み上げた数々の戦功に裏打ちされた、確固たる信念であった 5

第一に、彼は伊達家14代当主・稙宗の三男・実元を父に持ち、政宗の祖父・晴宗の娘を母に持つ、政宗とは従兄弟の関係にある伊達一門衆であった 6 。単なる家臣ではなく、宗家と極めて近い血縁者であるという事実は、彼の発言力と家中に占める地位の根幹をなしていた。

第二に、彼の武功は群を抜いていた。天正13年(1585年)の人取橋の戦いでは、父・輝宗を失い動揺する政宗の本陣が佐竹・蘆名連合軍の猛攻によって崩壊する絶体絶命の危機に瀕した。多くの将兵が潰走する中、成実は「退いて敗れるくらいならここで討死する」とわずかな手勢で踏みとどまり、獅子奮迅の働きで敵の追撃を食い止め、政宗の撤退を成功させた 3 。この戦功なくして、若き政宗の命はなかったかもしれない。その後も、郡山合戦や摺上原の戦いなど、政宗の奥州統一事業における主要な合戦のほとんどで中核を担い、勝利に貢献した 3

さらに、天正18年(1590年)、天下人・豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻めるにあたり、政宗に参陣を命じた際、家臣団が日和見な態度を取る中で、成実ひとりが「今から参陣しても遅きに失する。むしろ、この奥州の地で天下に優劣を争うべきだ」と、秀吉との徹底抗戦を主張するほどの気骨を見せた 4 。結果的に政宗は恭順の道を選ぶが、その留守中の領国経営は成実に託されており、軍事・政治の両面で政宗が最も信頼を置く人物であったことは疑いようがない 8

燻る不満の火種

しかし、豊臣政権という巨大な権力構造の中に伊達家が組み込まれる中で、成実の自負心は次第に満たされぬものとなっていく。

最大の要因は、所領と家中の席次に対する不満であった。秀吉による奥州仕置の結果、伊達家の領地は大幅に削減された。これに伴う家臣団の知行再編で、成実は奥州統一の拠点であった二本松城から角田城へと移封される 9 。これは単純な領地の変更に留まらず、彼の功績が正当に評価されていないという不満の象徴となった。

さらに深刻だったのが、伊達家中の序列、すなわち席次の問題である。政宗は、叔父にあたる石川昭光(輝宗の四男)らを成実よりも上席に据えた 3 。血縁の近さや家格を重んじた政宗の判断であったが、数々の戦場で命を賭してきた成実にとって、実功よりも家格が優先される人事は到底受け入れがたいものであった。この席次への不満は、出奔の最も有力な原因として、多くの記録で指摘されている 9 。後年の記録である「万治3年書上」には、成実の出奔(牢人分)という事情があったため、彼の家(亘理伊達家)が客分扱いとなり、石川家の下座になったと記されており、この問題が後々まで尾を引いたことがわかる 9

加えて、朝鮮出兵後の恩賞が、その働きに見合わないほど少なかったことへの不満も燻っていた 1 。これは成実個人の問題ではなく、遠藤文七郎宗信のように同様の理由で一時出奔した家臣もおり、当時の伊達家が抱える構造的な問題であった 1

こうした公的な不満に加え、成実の私生活における孤独も、彼の心を追い詰めていた可能性がある。文禄4年(1595年)頃、彼は角田で愛娘を、そして伏見に呼び寄せた正室・玄ノ方も病で相次いで亡くしている 1 。伊達家の大黒柱としての自負と、その功績が認められない現実との乖離、そして家族を失った深い喪失感が、伏見の屋敷で彼の心を蝕んでいたとしても不思議ではない。

第二章:決別の刻 ― 文禄・慶長の空白期間と角田城の悲劇

積もりに積もった不満と孤独は、ついに伊達成実を伊達家からの出奔という、当時としては最も極端な行動へと駆り立てた。しかし、その決断が引き起こした波紋は、彼の個人的な離反に留まらず、故郷の角田城に血の雨を降らせるという悲劇的な結末を迎えることになる。

謎に包まれた出奔

成実がいつ、どのようにして政宗のもとを去ったのか、その正確な記録は残されていない。出奔の時期については、文禄4年(1595年)の豊臣秀次事件の後から、慶長3年(1598年)の秀吉死去までの間とされ、諸説が入り乱れている 1 。この記録の錯綜自体が、彼の出奔がいかに密かに、そしておそらくは突発的に行われたかを物語っている。

後世の創作物などを参考にその情景を推察すれば、ある夜、成実は伏見の屋敷をわずかな供回りだけを連れて抜け出したのであろう 1 。主君・政宗にも、同僚の片倉景綱にも何も告げず、ただ静かに姿を消した。それは、伊達家の将来を憂う諫言などではなく、積年の鬱屈が爆発した末の、絶縁状に近い行動であった。

この一報に接した際の政宗の心中は、驚愕と怒り、そして裏切られたという屈辱感に満ちていたに違いない。単なる一人の家臣の逐電ではない。一門の筆頭格であり、数々の戦場を共にした従弟の離反は、政宗個人のプライドを深く傷つけると同時に、伊達家の内部に深刻な不和があることを天下に示す、極めて重大な事件であった。

角田城接収の惨劇

政宗の対応は迅速かつ苛烈であった。彼は直ちに腹心の屋代景頼に対し、成実の旧領である角田城を接収するよう厳命を下した 11 。主を失った城を、伊達宗家の管理下に置くという当然の処置ではあったが、これが流血の事態を招く。

角田城では、成実の留守を預かる家臣たちが、この命令に直面した。多くは主命に従い城の明け渡しに応じたが、成実の家老であった羽田実景(右馬助)はこれを断固として拒否した。「主君・成実公の許しなくして、城を渡すことはできぬ」というのが彼の言い分であった。羽田は自らの屋敷に、彼に同調する約30名の家臣と共に立てこもり、徹底抗戦の構えを見せた 1

屋代景頼率いる接収軍は、抵抗する羽田らを攻撃。壮絶な戦闘の末、羽田実景をはじめとする籠城者全員が討死し、屋敷は炎に包まれた 1 。主君の不在時に、その家臣たちが宗家の軍によって殲滅されるという、伊達家の歴史の中でも稀に見る悲劇であった。

この角田城事件は、単に「主命に背いた家臣を誅罰した」という単純な構図では説明できない、より複雑な内実をはらんでいる。史料を深く読み解くと、この事件が成実家臣団内部の深刻な対立が、政宗の介入によって顕在化した結果であった可能性が浮かび上がってくる。

第一に、羽田実景の抵抗は、成実家臣団全体の総意ではなかった。史料によれば、白根沢重綱や青木胤綱といった他の重臣たちは羽田の行動に同調せず、むしろ屋代景頼の討伐軍に加わっている 1 。これは、成実の留守居役たちの間で、方針をめぐる深刻な意見の対立があったことを示す決定的な証拠である。

第二に、羽田実景自身が、成実の出奔をそそのかした張本人であるとする説が存在する 13 。この説によれば、羽田は角田において専横を極めており、他の家臣たちの反感を買っていた。その内部対立の情報を得た政宗が、成実の出奔を好機と捉え、問題人物であった羽田を「宗家への反逆者」として合法的に排除しようとした、という見方である。この場合、屋代景頼の軍勢は、成実家中の反羽田派と連携した「誅罰軍」としての性格を帯びることになる。

これらの点を総合すると、角田城の悲劇は、「政宗軍 vs 成実家臣団」という対立構造ではなく、「政宗軍 + 成実家中の反羽田派 vs 羽田派」という、内紛の様相を呈していたと解釈するのが妥当であろう。政宗の非情な命令は、成実の不在という権力の空白を利用して、家中の不満分子を一掃し、自身の支配を再徹底するという、極めて高度な政治的判断であった可能性が高い。

この解釈を裏付けるのが、後の成実の帰参に際しての政宗の処置である。政宗は、この角田城での惨劇の全責任を、命令を忠実に実行した屋代景頼一人に負わせ、彼を伊達家から追放している 1 。これは、自らの冷徹な判断を糊塗し、成実との関係を修復するために、景頼をスケープゴートにした非情な政治的采配であった。虚構の物語が覆い隠そうとしたのは、まさにこのような、主君・政宗の冷徹なリアリズムと、それに翻弄された家臣たちの悲劇だったのである。

第三章:肖像画の不在と忠節譚の形成

伊達成実の出奔と角田城の悲劇という、深刻な亀裂の史実を前にしたとき、「主君の肖像画を抱いて去った」という美しい物語は、その居場所を失う。この逸話は、史実としてではなく、なぜそのような「物語」が必要とされたのかという観点から考察されるべきである。

史料の沈黙と肖像画の価値

前述の通り、『伊達治家記録』や『成実記』といった伊達家関連の基本史料に、肖像画に関する記述は一切存在しない 1 。特に、成実自身が関わったとされる『成実記』が、出奔の事実そのものにさえ触れていない点は重要である 1 。この沈黙は、この出来事が彼にとって公に語るべき美談ではなく、むしろ語るに忍びない、個人的な苦渋に満ちた記憶であったことを強く示唆している。公的な「忠節の証」として肖像画を掲げる行為とは、その精神性において相容れない。

また、戦国時代における武将の肖像画が持つ意味合いを考えることも重要である。それは単なる記念の似顔絵ではなく、家の権威を象徴するもの、あるいは亡き主君や先祖を祀り、偲ぶためのものであった 14 。伊達政宗が、自身の肖像画や木像を作る際には、失明した右目を健常な姿で描くよう遺言したという逸話は、肖像画が単なる外見の写しを超え、理想化された本人そのものと同一視されるほどの重みを持っていたことを示している 15 。そのような重要な意味を持つ肖像画を、主君に背いて出奔する者が持ち出すという行為は、忠節の証というよりは、むしろ主家の権威を盗み出すに等しい、不敬な行為と見なされる可能性さえあった。

忠節譚の成立過程

これらの状況証拠は、「肖像画拝持」の逸話が同時代の史実ではなく、江戸時代に入ってから形成された創作、すなわち「物語」である可能性を強く示唆している。

その成立の背景には、江戸幕府が確立し、儒教的な道徳観、特に主君への絶対的な忠誠が社会の根幹となった時代の価値観がある。この価値観に照らし合わせたとき、伊達成実の出奔という行動は、理由はどうあれ主君に背いた「不忠」の行いであり、そのままでは理解されがたいものであった。しかし、彼は最終的に伊達家に帰参し、再び重臣として生涯を終えている。この「一時的な離反」と「生涯にわたる忠誠」という、一見矛盾する二つの事実を両立させ、彼の忠臣としての名誉を完全に回復させるための論理、すなわち物語が必要とされたのである。

「肖像画を抱いて出る」という逸話は、この問題を解決するための、極めて優れた物語装置であった。この一つの行為によって、成実の出奔は、主君への諫言や、やむにやまれぬ事情による一時的な離脱であり、その本心は常に政宗への揺るぎない忠誠心にあった、と劇的に再解釈される。角田城の悲劇を含む深刻な対立の記憶は、この情緒的な物語の背後に薄められ、主従の美しい絆の物語として昇華されるのである。こうして、歴史上の複雑な事実は、後世の価値観に沿った、分かりやすく感動的な物語へと再構築されていったと考えられる。

以下の表は、後世に創作された「肖像画の逸話」と、次章で詳述する史実としての「忠節の証」を比較し、その性質の違いを明確にしたものである。

表1:伊達成実の忠節をめぐる「逸話」と「史実」の比較

比較項目

逸話:肖像画拝持譚

史実:セキレイの花押譚

媒体

主君・伊達政宗の肖像画

主君・伊達政宗の直筆書状と花押

史料的根拠

『伊達治家記録』『成実記』等に記載なし。江戸期以降の講談や創作の可能性が高い。

『伊達治家記録』等の記述や、近年の研究で支持される。花押の真贋証明法は他の逸話とも整合性が取れる 1

象徴する忠節

視覚的で情緒的。「姿形」への思慕と忠誠。公然と示し得ない、秘められた忠義。

文書的で論理的。「意志」への服従と信頼。本人同士にしか通じない、絶対的な証明を伴う忠義。

物語の機能

出奔という「裏切り」に見えかねない行動を、「心は離れていない」という忠節の物語に転換・美化する。

数年にわたる深刻な断絶を、主君の直接的な呼びかけによって劇的に解消する。和解の決定打となる。

歴史的意義

後世の人々が成実の人物像を理想化し、主従関係を儒教的価値観で理解するための「物語装置」。

戦国武将間の極めて個人的で、政治的・軍事的にも重要なコミュニケーションの実態を示す一級の史料。

第四章:真実の忠節 ― 鎧櫃に秘められた「セキレイの花押」

虚構の肖像画の物語が覆い隠した、伊達成実と伊達政宗の間の断絶と和解。その真実は、一枚の絵画よりも遥かに生々しく、そして劇的な形で、史料の中に記録されている。肖像画に代わる「真実の忠節の証」は、一通の書状と、そこに記された小さな「しるし」であった。

流浪の日々と忠義の選択

伊達家を出奔した成実の足取りは、まず高野山へと向かった 9 。ここで彼は、先立たれた妻子(正室・玄ノ方と娘)の菩提を弔いながら、雌伏の時を過ごした 1 。彼の出奔の噂は瞬く間に諸大名の間に広まり、当代きっての勇将である彼のもとには、数多くの仕官の誘いが舞い込んだ。

特に、関ヶ原の戦いが間近に迫る緊迫した情勢の中、会津の上杉景勝からは五万石という破格の待遇で招聘された 7 。また、徳川家康からも、小田原城主・大久保忠隣を介して誘いがあったという 17 。しかし、成実はこれらの誘いをすべて固辞した。彼は高野山を出た後、相模国糟谷(現在の神奈川県伊勢原市)に身を寄せ、静かに関東の情勢と、古巣である伊達家の動向を注視し続けていた 1 。この行動は、彼が諸国を流浪しながらも、その心は決して伊達家から離れていなかったことの何よりの証左である。

片倉景綱の説得と鎧櫃

慶長5年(1600年)、徳川家康が上杉景勝討伐の兵を挙げ、天下分け目の戦いが目前に迫る。政宗も家康方として出陣するため、大坂から領国へと帰還する途上にあった。この機を逃さず、政宗は腹心の片倉景綱に密命を下す。それは、糟谷に潜む成実を説得し、伊達家に帰参させることであった 1

政宗の軍勢から密かに離れた景綱は、糟谷の寺で成実と対面した。しかし、景綱はそこで能弁に帰参を説いたわけではない。彼は多くを語らず、ただ、成実がかつて戦場でその身を包んだ愛用の鎧兜と太刀を、無言で彼の前に差し出したのである 1 。それは、言葉以上に雄弁なメッセージであった。「伊達の武の象徴である貴殿が、この天下の動乱に際して、浪々の身でいてよいのか」。武人・成実の魂を、これほど強く揺さぶる説得はなかったであろう。

成実はその場では返答をしなかった。景綱もまた、一言挨拶を交わしただけであっさりとその場を辞した。しかし、彼の残した鎧櫃の中に、この和解劇の決定打が秘めされていた。

魂を揺さぶる「針の一刺し」

景綱が去った後、成実が鎧櫃を開くと、中には一通の書状が納められていた。それは、主君・伊達政宗の直筆であった。そこに記されていた言葉は、ただ一言、「帰参せよ」 1

そして、その書状の末尾には、政宗の署名代わりである「花押」が記されていた。政宗の花押は、小鳥の「セキレイ」を象った、独特のデザインで知られている 18 。だが、成実の目に飛び込んできたのは、その花押の、ある一点の異様さであった。セキレイの「目の部分」に、まるで命を吹き込むかのように、針で一突きした小さな穴が開けられていたのである 1

この「針の一刺し」こそが、政宗から成実へ送られた、何者にも偽造できない絶対的な信頼の証であった。かつて葛西大崎一揆の際、政宗は一揆を煽動したとする偽の書状によって、秀吉から謀反の嫌疑をかけられるという窮地に陥った。その時、政宗は「自身の真筆の書状には、必ずセキレイの花押の目に針で穴を開けている。この証拠とされた書状にはそれがない」と主張し、潔白を証明したという逸話が残っている 16 。この真贋を見分けるための秘密の符牒は、主君である政宗と、ごく限られた腹心しか知り得ない、究極の暗号であった。

この「目に穴の開いた花押」を目にした瞬間、成実の胸には万感の思いが込み上げたに違いない。数年間にわたる確執、不満、疑念、そして孤独。その全てが、この針の一刺しによって氷解した。これは、単なる帰参命令ではない。主君・政宗自らが、偽りなく、心の底からお前を必要としている、という魂の呼びかけであった。

それは、絵師が描いた外見の写しである肖像画などとは比較にならない、主君本人の「意志」と「魂」が宿った「真の肖像」であった。いかなる絵画よりも鮮明に、若き日から生死を共にしてきた主君・政宗その人の姿を、成実の心に映し出したのである。

全ての迷いを振り払った成実は、直ちに徳川家康のもとへ馳せ参じ、「ゆえあって伊達家に帰参し、会津攻めに参陣する」と堂々と表明した 1 。そして慶長5年7月12日、政宗が評定を開いている北目城の広間に、伊達成実は数年ぶりにその姿を現したのであった。

結論:虚構の肖像画、実在の絆

伊達成実が主君・伊達政宗の怒りを買って出奔する際、その肖像画を密かに抱いて去ったという忠節譚。本報告書で詳述してきた通り、この逸話が史実である可能性は極めて低い。それは、同時代の一次史料に一切の痕跡を残さず、むしろ記録に残る深刻な対立関係とは相容れない、後世に形成された理想化された「物語」である。

しかし、この逸話が単なる「嘘」や「偽り」であると断じるのは早計であろう。それは、一度は袂を分かつほどの激しい気性と深刻な対立がありながらも、その根底には決して断ち切ることのできない忠誠心と絆があった、という伊達成実と伊達政宗の関係性の本質を、後世の人々が理解し、語り継ぐために生み出された、一つの象徴的な表現であった。歴史の複雑な真実を、誰もが共感できる情緒的な物語へと昇華させる、文化的な営為の産物なのである。

一方で、歴史の探求は、我々をより深く、そして揺るぎない感動へと導く。断片的な史料を丹念に繋ぎ合わせることで浮かび上がる、鎧櫃に秘められた「目に穴の開いたセキレイの花押」のエピソードこそ、二人の間に実在した絆の証左である。それは、創作された美しい物語よりも、遥かに人間的で、生々しい。

角田城で繰り広げられた悲劇、数年にわたる流浪の生活、そして諸大名からの破格の誘いを断り続けた成実の矜持。それらの苦悩と葛藤の全てを、主君からの、二人だけにしか通じない秘密の符牒が打ち消し、再び戦場へと呼び戻す。この一連のドラマは、戦国という時代の非情さと、その中で交わされた人間同士の疑いようのない信頼と情誼を見事に描き出している。

伊達成実の忠節は、一枚の絵画によってではなく、主君の魂が宿った一筆の「しるし」によって証明された。虚構の物語は人々の心を慰め、史実は我々の知性を刺激する。この両者を見つめることで初めて、我々は伊達成実という武将の、そして彼が生きた時代の、真の姿に迫ることができるのである。

引用文献

  1. 伊達家関連史料に見る伊達政宗の三重臣らの出奔 https://hsaeki13.sakura.ne.jp/satou2024014.pdf
  2. 伊達政宗の残虐性を轟かせた「撫で斬り」の真実 謙信越山 - JBpress https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/60793?page=2
  3. 伊達成実 - 戦国武将のハナシ https://busho.fun/person/shigezane-date
  4. 伊達成実 - 亘理町観光協会 https://www.datenawatari.jp/pages/17/
  5. 伊達家を出奔した伊達成実の「自負心」 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/48518/2
  6. 伊達家を出奔した伊達成実の「自負心」 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/48518
  7. 伊達成実とは 人質の方がマシだった?政宗従弟 - 戦国未満 https://sengokumiman.com/dateshigezane.html
  8. 独眼竜・伊達政宗はなぜ小田原攻めに遅参してしまったのか - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/105
  9. 成実出奔 http://shigezane.info/majime/nazo/shuppon1.html
  10. Masamune's Left Hand Man: The Turbulent Life of Date Masamune - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=0nGrQJ0KxXk
  11. 伊達家の武将 http://www3.omn.ne.jp/~nishiki/history/date.html
  12. 角田城 - お城散歩 - FC2 https://kahoo0516.blog.fc2.com/blog-entry-936.html
  13. 伊達成実専門サイト 成実三昧 角田城接収 http://shigezane.info/majime/nazo/kakudasesshuu.html
  14. 史伝 『仙台藩主伊達政宗と 官房長官 茂庭綱元』 https://hsaeki13.sakura.ne.jp/satou20231201.pdf
  15. 戦国武将の肖像画エピソードが面白い!豊臣秀吉・徳川家康・伊達政宗の逸話を紹介 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/89240/
  16. 493 渡辺武の「歴史講座」伊達政宗と秀吉・家康 https://second-life.or.jp/event_report/493rekishi-datemasamune/493rekishi-datemasamune.html
  17. 伊達成実とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E4%BC%8A%E9%81%94%E6%88%90%E5%AE%9F
  18. www.city.sendai.jp https://www.city.sendai.jp/museum/kidscorner/kids-08/kidscorner/kids-11.html#:~:text=%E4%BC%8A%E9%81%94%E6%94%BF%E5%AE%97%E3%81%AE%E6%9B%B8%E7%8A%B6%EF%BC%88%E8%8A%B1%E6%8A%BC%EF%BC%89&text=%E6%89%8B%E7%B4%99%E3%81%AB%E3%81%AF%E6%94%BF%E5%AE%97%E3%81%AE,%E3%81%A8%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
  19. セキレイ - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%AD%E3%83%AC%E3%82%A4