最終更新日 2025-10-19

伊達政宗
 ~城下建設で町割りを碁盤で決定~

伊達政宗が碁盤で町割りを決めた逸話は、史実ではないが、彼の先進的な都市計画思想を象徴する。経済と防災を重視した合理的な設計は、現代仙台の礎となっている。

碁盤の上の天下 ― 伊達政宗、仙台城下町割り伝説の深層

序章:逸話の核心と仙台創生前夜

「伊達政宗、城下建設に際し、町割りを自ら碁盤にて決す」―。

戦国の雄、伊達政宗の数多ある逸話の中でも、ひときわその知性と先進性を物語るものとして、この都市設計譚は語り継がれてきた。あたかも天下を争う盤面に見立て、次の一手、また一手と石を置いていくように、新たな城下町の骨格を定めたというのである。しかし、この魅力的な物語は、文字通りの史実なのであろうか。それとも、稀代の戦略家であった政宗の偉業を象徴する、後世に生まれた伝説なのであろうか。本報告は、この「碁盤の町割り」という逸話の深層に分け入り、そこに秘められた政宗の都市構想と思想の真実に迫るものである。

この壮大な都市計画が動き出す直前、慶長5年(1600年)、日本は天下分け目の関ヶ原の戦いの渦中にあった。東軍を率いる徳川家康と西軍の石田三成が激突する中、奥州の独眼竜・伊達政宗は、家康からの「勝利の暁には旧領安堵の上、五十万石を加増する」という、いわゆる「百万石のお墨付き」を信じ、上杉景勝の牽制という重要な役割を担った 1 。しかし、戦いがわずか一日で終結し、徳川の覇権が確固たるものとなると、政宗の野心的な動きは逆に警戒され、約束は反故にされた。

この結果、政宗は徳川体制下で62万石の大名として生きる道を現実的に受け入れざるを得なくなる。もはや武力で天下を望む時代ではない。新たな時代における伊達家の安泰と繁栄をいかにして築くか。そのための新たな拠点として選ばれたのが、仙台の地であった。旧来の拠点であった岩出山からの遷府は、単なる居城の移転ではなかった 2 。それは、戦国の価値観が終焉を迎えつつある時代の転換点において、政宗が描く未来の領国経営の青写真を示す、一大政治プロジェクトの幕開けを告げる一手だったのである。

第一章:千代から仙台へ ― 新たな拠点「青葉山」の選定

政宗が新たな本拠地として白羽の矢を立てたのは、当時「千代(せんだい)」と呼ばれていた地であった 2 。数ある候補の中からこの地が選ばれた背景には、政宗の極めて合理的かつ多角的な戦略眼が存在した。

なぜ「千代」の地だったのか

第一に、その地形的優位性である。西にそびえる青葉山は天然の要害であり、その東麓を流れる広瀬川は、城を守る広大な外堀の役割を果たす 3 。城下町を建設する予定の広瀬川左岸(東側)は、川面から20メートル以上高い河岸段丘となっており、防御において絶大な利点を持っていた 5

さらに重要なのは、政宗がこの地形に防災上の価値を見出していた点である。政宗は当初、水陸交通の便が良い石巻の日和山に築城することも検討したと伝わるが、最終的には内陸の段丘上を選んだ 6 。これは、自身の領地が慶長の大津波によって甚大な被害を受けた経験から、洪水や津波といった自然災害のリスクを最大限に回避しようとする、明確な意図があったと考えられる 5 。防衛と防災。この二つの観点から、青葉山と広瀬川が織りなす地形は、まさに理想的な地であった。

第二に、戦略的価値の高さである。この地は、江戸と奥州の各地を結ぶ大動脈、奥州街道に近接している 8 。これは、平時における領国経営の効率化はもちろんのこと、徳川幕府との関係を維持し、中央の情報を迅速に入手する上でも極めて重要であった。軍事拠点としての堅固さと、政治・経済の中心地としての利便性を両立できる地政学的な妙が、この地にはあったのである。

縄張りの開始 ― 荒野に立つ政宗

関ヶ原の戦いが終結した慶長5年(1600年)12月、政宗は自ら千代の地に赴き、仙台城の縄張り(設計)を開始した 2 。冬枯れの荒野に立ち、眼下に広がる未開の段丘と、その向こうに広がる平野を見渡した時、彼の頭の中には、すでに未来都市の壮大な青写真が広がっていたに違いない。それは単に城を築き、家臣や民を住まわせるというだけではない。これから始まるであろう泰平の世を見据え、伊達62万石の富と文化が花開く、東北随一の拠点都市を創り上げるという壮大な構想であった。この瞬間に放たれた一矢が、後の「杜の都」仙台の原点となるのである。

第二章:碁盤の上の天下 ― 政宗の思考と「伝説」の誕生

仙台城の建設と並行して、城下町の建設は慶長6年(1601年)から本格的に開始された 9 。この都市計画の中核をなすのが、かの「碁盤の町割り」の逸話である。

【逸話の情景再構成】

築城が進む青葉城の一室、あるいは仮設の陣屋に、巨大な城下予定地の絵図が広げられている。その前に座すのは、鋭い隻眼を絵図に注ぐ伊達政宗その人である。傍らには、腹心中の腹心であり、「智の武将」と称された片倉小十郎景綱の姿もあったであろう 11

「小十郎、見るがよい。この城の大手より真東へ引いたこの線、これを『大町』と定める。城の威光と商いの富を、この道筋に乗せて東の果てまで届かせるのだ」

政宗は扇子で絵図の一点を指し示す。

「はっ。して、南北を貫く道筋は」

「うむ。奥州街道をここに通す。北は陸奥の果て、南は江戸へ通じる人の流れ、物の流れ、そして情報の流れを、この辻で交わらせる。この辻こそが、仙台の中心、『芭蕉の辻』となる」

政宗の言葉には、迷いがない。まるで熟慮を重ねた一局の、決定的な一手を打つかのように、都市の骨格が次々と定められていく。

「殿、城下の守りは如何に。あまりに道筋が真っ直ぐでは、敵の侵入を容易くしませぬか」

景綱が懸念を口にすると、政宗は静かに首を振る。

「時代は変わった。これよりは、城を枕に討死にする戦ではなく、いかに民を富ませ、国を強くするかが肝要となる。守りは広瀬川の断崖と、外縁に配する足軽衆に任せればよい。町の中は、物の流れ、人の往来の良さをこそ重視する。滞りのない流れこそが、富を生む源泉となるのだ」

この会話は創作であるが、仙台城下町の構造が持つ思想を代弁している。それは、軍事的な防衛機能よりも、経済的な合理性と将来の発展性を見据えた、明確な意志に基づいていた。

なぜ「碁盤」という比喩が生まれたのか ― 思想の探求

では、なぜこの都市計画が「碁盤」に喩えられたのか。それは、戦国武将、特に知将と呼ばれる者たちにとって、囲碁が単なる遊戯ではなかったという文化的背景に根差している。織田信長は、囲碁の名手であった日海(後の本因坊算砂)を高く評価し、「名人」の称号を与えたとされ、豊臣秀吉や徳川家康もまた囲碁を嗜んだ 12 。武田信玄は、「勝利のためとはいえ、家臣を犠牲(捨て石)にはできぬ」と語った逸話が残るように、囲碁を戦略思考の訓練の場と捉えていた 13

囲碁は、盤面全体を見渡し、部分的な戦いの優劣だけでなく、最終的な勝利のためにどこに石を置くべきかを考える「大局観」を養う 12 。一手一手の石が、全体の形勢に複雑な影響を及ぼす。この思考法は、都市計画において、一つの道路や一つの区画が都市全体の機能や将来にどのような影響を与えるかを考えるプロセスと酷似している 14

政宗が文字通り碁盤を目の前に置いて町割りを指示した、という直接的な一次史料は見当たらない。しかし、結果として生み出された仙台の都市構造は、まさしく碁盤のように整然とし、極めて合理的であった 8 。このことから、この逸話の価値は、その「事実性(Fact)」にあるのではなく、政宗の都市計画が持つ思想や構造が、囲碁の戦略性や大局観と酷似しているという「本質的な真実(Truth)」を、極めて巧みに、そして魅力的に表現している点にあると考えられる。後世の人々が、その計画の見事さと合理性を説明する最も的確な比喩として「碁盤で決めた」という物語を形成・伝承したのである。この逸話は、政宗の「思考の型」そのものを象徴する、秀逸な文化的シンボルなのだ。

第三章:一石ずつ置かれる町 ― 芭蕉の辻を基点とした実践

政宗の頭の中にあった壮大な構想は、具体的な都市空間へと着実に落とし込まれていった。その実践は、まさに碁盤に一石ずつ石を置いていくような、緻密さと計画性をもって進められた。

原点「芭蕉の辻」

計画を具現化する上での絶対的な基準点、いわば碁盤の「天元」に置かれたのが「芭蕉の辻」であった 17 。これは、仙台城の大手門から真東に伸びるメインストリート「大町通り」(東西軸)と、領内を南北に貫く大動脈「奥州街道」(南北軸)が交差する十字路である 15 。政宗は、この交差点を城下の中心と明確に定め、ここから四方へ向かって町を割り付けていった 3 。芭蕉の辻は、単なる地理的な中心ではなく、藩の御用商人たちが軒を連ね、高札場が設けられるなど、仙台の経済、交通、そして情報の中枢として意図的に設計されたのである 9

整然たる区画整理

芭蕉の辻を基点として、仙台の町は驚くほど整然とした碁盤の目状に整備されていった 20 。現存する江戸時代の絵図を見ても、その計画性の高さは一目瞭然である 16 。この町割りは、人々の身分や職業に応じて巧みにゾーニング(区域分け)されていた。

特筆すべきは、武家地と町人地の明確な区分である。侍が住む区域は「丁(ちょう)」、商人や職人が住む区域は「町(まち)」と呼ばれ、厳格に使い分けられていた 7 。例えば、芭蕉の辻から南北に伸びる奥州街道沿いには国分町や南町といった商業地が配され、その東西には東一番丁から東十番丁、北一番丁から北八番丁といった武家屋敷が整然と並んだ 9 。これは、都市空間そのものが、当時の身分制社会を可視化したものであったことを示している。

さらに、このゾーニングは職能ごとにも徹底されていた。城下町の運営や藩の需要に応えるため、鍛冶職人たちは南鍛冶町や北鍛冶町に 22 、大工たちは大工町に 17 、藩お抱えの染師たちは南染師町に 23 、といった具合に専門職能集団が集住させられた。これは、藩が必要な技術や製品を安定的に確保するための産業政策であり、都市計画と一体となって進められた。

また、軍事的な役割を担う足軽たちの居住区は、城下の外縁部に計画的に配置された。例えば、三百人町には鉄砲足軽が 23 、五十人町には五十人衆が住んだように 23 、その町名は部隊の規模を直接示している。彼らは平時には城下の周縁を守る警備力であり、有事の際には敵の侵攻を食い止める第一の防衛線となる、軍事的な緩衝地帯として機能したのである 24

以下の表は、政宗の都市計画がいかに緻密で、社会構造をそのまま都市空間に反映させたものであったかをまとめたものである。

仙台開府当初の階級・職能別居住区画整理表

身分・職能

主な居住区(代表的な町名・丁名)

配置場所(城からの位置関係)

配置の意図・役割

関連資料

上級武士

川内屋敷群、東一番丁など

城の直下、城下中心部

城の直接防衛、藩政の中枢機能

4

中級武士

東二番丁~東十番丁、北一番丁など

中心部の武家地(丁)

行政実務、常備戦力

4

足軽

五十人町、三百人町、連坊小路

城下外縁部の要所

軍事的緩衝地帯、防衛の第一線

23

商人(御譜代町)

大町、国分町、南町、肴町

芭蕉の辻周辺、幹線道路沿い

経済活動の中核、城下の物流・商業拠点

9

職人

南鍛冶町、北鍛冶町、大工町、南染師町

町人地の周辺・裏手

藩の需要に応える生産拠点、技術集団の管理

17

寺社

北山五山、新寺小路

城下の北(鬼門)、南東の外縁部

精神的鎮護、有事の際の防御拠点(ただし限定的)

4

このように、政宗が碁盤の上に置いた一石一石は、それぞれが明確な役割と意図を持ち、全体として機能的な社会システムを形成していたのである。

第四章:盤面を超えた思想 ― 経済と未来を見据えた先進性

伊達政宗の仙台城下町計画が「常識はずれ」で「先進的」と評価される理由は、その整然とした街路だけではない。盤面そのものの設計思想に、時代の先を読む深い洞察が込められていたからである。

「守る城下」から「稼ぐ都市」へ

戦国時代末期から江戸時代初期にかけて築かれた多くの城下町は、軍事防衛を最優先に設計されていた。敵の侵入速度を削ぐための袋小路や、見通しの悪い鉤の手(クランク状の道)、さらには城と武家屋敷群を堀と土塁で囲い込む「総構(そうがまえ)」などがその典型である 25 。会津若松城や米沢城など、東北の主要な城下町も総構えを備えていた 25

しかし、政宗は仙台に総構えを設けなかった 25 。また、防衛目的の複雑な街路も他の城下町に比べて著しく少ない 25 。これは、政宗が「城下での大規模な戦闘はもはや起こらない」という、来るべき泰平の世を正確に予見していたことの証左である。彼は、都市の役割が軍事拠点から経済・行政の中心へとシフトすることを見抜き、防衛機能の優先度を意図的に下げたのである。この思想は、防衛よりも経済を重視した織田信長の安土城下町の系譜に連なるものと言える 27

碁盤の目状の街路は、防衛には不利かもしれないが、人や物の流れを円滑にし、商業活動を活性化させる上では最適の構造である 29 。政宗の狙いは、仙台を単なる居城の町ではなく、領国全体の富が集積し、新たな価値を生み出す経済エンジンとすることにあった。その構想は城下町だけに留まらなかった。北上川の舟運を整備して内陸部の米を石巻港に集め、そこから巨大消費地である江戸へ大量に輸送する広域的な物流ネットワークを構築したのである 30 。仙台城下町は、この壮大な経済システムの司令塔として設計されていたのだ。

地形の克服と共生 ― 総合的環境設計

政宗の計画が二次元的な盤面上の構想に留まらなかったことは、その水利計画に最も顕著に表れている。前述の通り、仙台城下は防災上の理由から水利の便の悪い河岸段丘上に建設された 5 。これは、約5万人ともいわれる城下の住民の生活用水をどう確保するかという、深刻な課題を生み出した 5

この難問に対し、政宗が下した決断は、広瀬川の上流から水を引き、城下町全体に水を供給する巨大な用水路網の建設であった。これが、総延長44kmにも及んだと伝わる「四ツ谷用水」である 7 。この用水路は、城下を縦横に巡り、人々の生活用水を賄うだけでなく、防火用水、さらには田畑を潤す農業用水としても機能した。また、武家屋敷の庭園や生垣を育み、後の「杜の都」の原風景を形成する上でも決定的な役割を果たした 3

これは、自然の制約(水不足)を、優れた土木技術(用水路建設)によって創造的に解決し、都市の持続可能性を確保するという、極めて高度な環境設計思想である。碁盤の目という都市の「骨格」に、四ツ谷用水という「血管」を通わせることで、政宗は仙台という都市に生命を吹き込んだ。彼の構想は、地表に線を引くだけの町割りではなく、地形、水利、防災、そして景観までを統合した、三次元的かつ総合的なものであったのだ。

終章:四百年の時を超えて ― 現代に息づく政宗の碁盤

伊達政宗が碁盤の上に描いた都市の骨格は、驚くべき強靭さをもって、その後の時代の変遷を乗り越えてきた。

江戸時代を通じて、仙台はこの計画的な都市基盤の上で発展を続け、東北随一の城下町として繁栄を謳歌した。そして、近代化の波が押し寄せ、さらには昭和20年(1945年)7月の仙台空襲によって市街地の大部分が焦土と化すという壊滅的な打撃を受けた後でさえも、政宗の町割りは生き続けた 32

戦後の復興計画において、仙台市は旧来の城下町の区画を基礎として、道路の拡幅や新たな街路の整備を行った 3 。現在、仙台のシンボルとして知られる青葉通や定禅寺通のケヤキ並木も、元をたどれば政宗が定めた東西の道筋の上にある。400年前に引かれた線が、現代の100万都市の骨格を規定し続けているという事実は、その都市計画がいかに優れ、普遍的な価値を持っていたかを雄弁に物語っている 32

改めて、「伊達政宗が碁盤で町割りをした」という逸話に立ち返りたい。本報告で詳述してきたように、この物語は文字通りの事実であるか否かを超えて、仙台という都市の創生に関わる本質的な精神を凝縮して後世に伝えている。それは、戦国の価値観から脱却し、未来を見据えた政宗の①先見的で合理的な計画思想であり、軍事よりも②経済と民生を重視した先進性であり、そして③自然と共生し、永続する都市の礎を築いた偉業の象徴である。

政宗が碁盤に置いた一石は、400年の時を超えて現代仙台の礎となり、今なお市民の暮らしの中に、そして街並みの記憶の中に息づいている。この逸話は、単なる過去の物語ではない。仙台という都市のアイデンティティそのものであり、未来へと語り継がれていくべき、不滅の伝説なのである。

引用文献

  1. 伊達政宗は徳川家康の求めで関ケ原の戦いへ!2万石加増と仙台築城を許される - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/6293/
  2. 第44集 戦国から近世へ 城・館・町(PDF:5394KB) - 仙台市 https://www.city.sendai.jp/bunkazai-kanri/documents/pan44.pdf
  3. 仙台の都市計画のあゆみ https://www.city.sendai.jp/toshi-kekakuchose/kurashi/machi/kaihatsu/toshikekaku/aramashi/ayumi.html
  4. 第23集 仙台の由緒ある町名・通名 辻標のしおり https://www.city.sendai.jp/bunkazai-kanri/documents/23k.pdf
  5. 「仙台の地形と水との関わり」~地形から見る仙台の過去・現在・未来 - 宮城の新聞 https://shinbun.fan-miyagi.jp/article/article_20220301.php
  6. 坂口安吾 安吾の新日本地理 伊達政宗の城へ乗込む――仙台の巻―― - 青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/45903_37422.html
  7. 伊達政宗が拓いた杜の都 仙台市/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/44021/
  8. 本町の歴史【仙台本町商店街振興組合】 http://www.s-honcho.com/guide/index.html
  9. ファイナンス 2020年7月号 No.656 66/86 https://www.mof.go.jp/public_relations/finance/denshi/202007/pageindices/index66.html
  10. 我が町 田町 https://tamachi-sendai.jp/tamashi/
  11. 「片倉小十郎景綱」秀吉と家康も家臣に迎えたかった!?伊達政宗の名参謀 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/109
  12. 戦国時代の盤上戦略!囲碁と将棋、武将たちの知恵比べ⚔️ - note https://note.com/uver2012/n/n8fa2a07707b3
  13. 戦国武将のたしなみ!戦術眼を養う囲碁将棋について語る! - さんたつ by 散歩の達人 https://san-tatsu.jp/articles/328754/
  14. 信長と囲碁〜なぜ織田信長は囲碁を打っていたのか? | GLOBIS学び放題×知見録 https://globis.jp/article/6001/
  15. 伊達政宗の城|仙台城跡と城下町 - 仙台松島観光|ランキング、モデルコース、おすすめスポット https://sendai.official.jp/masamune-castle-ruins-town/
  16. 明治元年現状仙台城市之図 | 伊達な歴史の新体験 https://www.sendai-vrtour.jp/ja/meiji/
  17. 現代宮城風土記#41:仙台城下町の構造と現代の町|みやせん(宮城仙台の豆知識) - note https://note.com/miya_sen_mame/n/n668c58805708
  18. 伊達な歴史の新体験|達人コース~仙台城下町割りを探る~ | 【公式】仙台観光情報サイト https://www.sentabi.jp/modelcourse/tatsujin01/
  19. 芭蕉の辻 「仙台」 https://www.jcca.or.jp/kaishi/264/264_anokoro.pdf
  20. 仙台市街の町割形態 http://hist-geo.jp/img/archive/010_219.pdf
  21. キッズコーナー(城下絵図)|仙台市博物館 https://www.city.sendai.jp/museum/kidscorner/kids-08/kidscorner-03/kids-22.html
  22. 奥州街道を歩く - 仙台市 https://www.city.sendai.jp/waka-katsudo/wakabayashiku/machizukuri/miryoku/oshu.html
  23. 町名に見る城下町 - 仙台市 https://www.city.sendai.jp/waka-katsudo/wakabayashiku/machizukuri/miryoku/jokamachi.html
  24. 杜の都とは?仙台が「杜の都」と言われる由来となった森はどこにある!? (2ページ目) - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/6448/?pg=2
  25. 【WEB連載】再録「政宗が目指したもの~450年目の再検証~」第2 ... https://kappo.machico.mu/articles/1749
  26. 城下町の面影が残る仙台・荒町界隈のおすすめ観光ルートをご紹介します! - スカイチケット https://skyticket.jp/guide/343962/
  27. 城下町の基本知識/ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/17043_tour_124/
  28. 城下町 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%8E%E4%B8%8B%E7%94%BA
  29. 独眼竜・伊達政宗を歩く 第2回〜仙台の街に残る都市伝説 - note https://note.com/rootsofjapan/n/ndf9a096f15df
  30. 仙台を繁栄させた、伊達政宗の“一手先を行く”経営術 | BizDrive(ビズドライブ) https://business.ntt-east.co.jp/bizdrive/column/dr00002-088.html
  31. みどりの歴史 - 仙台市 https://www.city.sendai.jp/hyakunen-chose/kurashi/shizen/midori/hyakunen/rekishi.html
  32. 仙台を発展させた政宗の都市計画 - まなびのめ http://manabinome.com/archives/1850