最終更新日 2025-10-21

伊達政宗
 ~支倉常長を欧州へ派遣、名を西に~

伊達政宗は慶長大津波後の復興、支倉常長を欧州へ派遣。スペインとの交易・軍事同盟を試みるも、国内情勢変化で交渉頓挫。帰国後、政宗は禁教令を発令、使節は悲劇的結末。

奥州の龍、西へ ― 慶長遣欧使節、その野望と栄光、そして終焉の全貌

序章:黎明 ― 独眼竜が見た夢

慶長年間、日本は大きな転換期にあった。関ヶ原の戦いを経て徳川家康による全国支配体制が盤石となりつつあり、世は戦乱の時代から治世の時代へと移行し始めていた。しかし、その静かな潮流の下で、未だ消えぬ野心の炎を燃やし続ける男がいた。奥州六十二万石の領主、「独眼竜」伊達政宗である。

徳川の天下と外様大名の渇望

「遅れてきた英雄」と評される政宗は、その生涯を通じて天下への渇望を抱き続けていた。しかし、徳川幕府の成立は、その野望に事実上の終止符を打った。外様大名の筆頭として常に幕府から警戒され、江戸城の普請や度重なる参勤交代によって、その財政は絶えず圧迫されていた 1 。国内においてこれ以上の飛躍が望めない状況下で、政宗の目は自然と海の彼方、未知なる世界へと向けられていった。米による増収には限界があり、藩の富国強兵を実現するためには、新たな収益源が必要不可欠であった 1

この閉塞感こそが、政宗を前代未聞の壮大な計画へと駆り立てた原動力であった。彼は、徳川の支配下で一地方大名として埋没するのではなく、海外との直接交易によって藩を富ませ、独自の地位を築くことを夢見たのである 2

慶長大津波という天災と、復興という大義名分

慶長16年(1611年)12月2日、三陸沖を震源とする巨大地震が発生し、それに伴う大津波が仙台藩の沿岸部を襲った。この「慶長大津波」は、後年の東日本大震災に匹敵する規模であったとされ、仙台領内だけで死者は数千人に及んだと記録されている 3 。港は壊滅し、物資は流され、藩の経済基盤は根底から揺らいだ。

この未曾有の国難は、しかし、政宗にとって一つの「機会」ともなった。藩の存亡をかけた復興事業は、誰にも反対することのできない絶対的な大義名分である。政宗はこの「復興」を旗印に掲げることで、自らの真の目的、すなわち海外交易路の開拓という野心的な計画を正当化し、幕府の公認を取り付けるための絶好の口実を得たのである 2 。津波からの復興という喫緊の課題が、藩の目を海外に向けさせ、莫大な利益をもたらすであろうスペイン・メキシコとの直接交易という壮大な構想へと繋がっていった 2 。天災すらも自らの戦略に組み込む、政宗の非凡な政治的嗅覚がここに見て取れる。

宣教師ソテロとの邂逅 ― 野望と信仰の合流点

政宗の野望に具体的な形を与えたのは、一人のフランシスコ会宣教師、ルイス・ソテロとの出会いであった 1 。ソテロは日本での布教活動に情熱を燃やす一方で、当時、日本の布教界で主導権を握っていたイエズス会に対抗し、自らが属するフランシスコ会の影響力を高め、いずれは日本における司教の地位に就くという強い野心を抱いていた 1

政宗にとってソテロは、スペイン国王やローマ教皇との交渉を可能にするための、またとない案内役であった。一方、ソテロにとって政宗は、自らの宗教的野心を実現するための、最も強力な庇護者であった。ここに、奥州の覇者の世俗的な野心と、スペイン人宣教師の宗教的な野心が奇跡的に交差し、互いの利害が完全に一致した。慶長遣欧使節という壮大な事業は、この「共犯関係」ともいえる二人の強固な結びつきなくしては、決して実現しなかったであろう。

第一章:胎動 ― 使節選定とサン・ファン・バウティスタ号

計画は、政宗の周到な準備のもと、着実に具体化されていった。誰を、何を使って、どのように送るのか。その一つ一つの選択には、彼の野望と計算が幾重にも張り巡らされていた。

大使・支倉常長 ― なぜ彼だったのか?

使節団の正使にはルイス・ソテロが、そして副使として、政宗の家臣である支倉六右衛門常長(はせくらろくえもんつねなが)が抜擢された 5 。常長は六百石取りの中級武士であり、朝鮮出兵の際に海外での経験を持ち、鉄砲組頭として部隊を率いた経験から、一行を統率する能力を高く評価されていた 3

しかし、彼が選ばれた理由は、その能力だけではなかった。常長には、個人的な事情があった。彼の父・山口常成は罪を犯して切腹を命じられ、常長自身も連座して一時は追放の憂き目に遭っていたのである 2 。この大役は、彼にとって一族の汚名をすすぎ、名誉を回復するための、まさに千載一遇の機会であった。この個人的な事情が、何としても任務を成功させねばならないという、彼の強烈な動機となった 2

一方で、政宗の側には冷徹な計算があった。イエズス会宣教師アンジェリスが本国に送った書簡によれば、政宗は「もしこの計画が失敗したり、幕府から咎められたりした場合に、全ての責任を負わせるには、さほど有力でない家臣が好都合だと考えた」と記されている 2 。つまり常長は、成功すれば大手柄を立てる有能な家臣であると同時に、失敗した際には全ての責めを負わせて切り捨てることができる、政治的に弱い立場にある人物でもあった。能力と脆弱性、そして成功への渇望。これら全てを兼ね備えた常長は、政宗の野望を実現するための、まさに「理想的な駒」だったのである。

サン・ファン・バウティスタ号建造 ― 奥州の技術と野心の結晶

使節団を海の彼方へ運ぶため、政宗は仙台藩内で巨大なガレオン船の建造を命じた。この船は後に「サン・ファン・バウティスタ号」と名付けられる。全長55メートル、500トン級のこの木造帆船を日本国内で建造すること自体が、前代未聞の壮挙であった 9

建造にあたっては、幕府も協力的であり、船大工や水主頭(かこがしら)を派遣している 6 。さらに、当時日本近海の測量に来ていたスペイン人探検家セバスティアン・ビスカイノらの技術指導も得て、大工800人、鍛冶700人、雑役3000人という驚異的な人員が動員され、わずか45日間で船体を完成させたと伝えられている 6 。この一大事業は、仙台藩の豊かな財力と高い技術力、そして動員力を天下に示す絶好の機会となった。奥州の山々から切り出された良質な木材が、政宗の野心を乗せる巨大な方舟へと姿を変えていったのである 14

政宗の国書 ― 外交文書に隠された真意

使節団には、政宗がスペイン国王フェリペ3世、ローマ教皇パウルス5世、そしてセビリア市などに宛てた複数の国書が託された 15 。金銀箔を散らした豪華な料紙に書かれたこれらの書状には、表向き、丁重な言葉が並んでいた。宣教師ソテロの教えに感銘を受け、自らもキリスト教徒になることを希望していること、領内での布教を許可するので宣教師を派遣してほしいこと、そしてメキシコ(ノビスパニア)との交易を望むことなどが記されている 15

しかし、その言葉の裏には、政宗のしたたかな外交戦略が隠されていた。彼にとってキリスト教への帰依は、信仰の問題である以上に、交渉を有利に進めるための強力な外交カードであった。このカードを切ることで、彼は単なる交易許可に留まらず、その先にあるスペインとの軍事同盟の締結までをも視野に入れていた可能性が指摘されている 4 。徳川の天下が未だ盤石とは言えない時期、スペインという強大な軍事国家を後ろ盾につけることができれば、再び天下を望むことも夢ではない。政宗の多層的な目的は、以下の表のように整理することができる。

目的の階層

具体的な内容

根拠となる史料・説

第一階層(表向きの目的・大義名分)

慶長大津波からの復興のための財源確保

2

キリスト教布教の要請と、政宗自身の入信希望

15

第二階層(経済的実利)

メキシコ(ノビスパニア)との直接交易路の開拓

2

第三階層(政治的・軍事的野心)

スペインとの軍事同盟締結による幕府牽制・転覆の可能性

1

海外との独自パイプを持つことによる仙台藩の地位向上

1

第二章:出帆 ― 月ノ浦から太平洋へ

全ての準備が整い、運命の日が訪れた。奥州の小さな港から、日本の歴史を大きく動かす可能性を秘めた航海が始まろうとしていた。

慶長18年10月28日、月ノ浦の情景

慶長18年(1613年)10月28日(旧暦9月15日)、牡鹿半島の月ノ浦(つきのうら)は、歴史的な船出を見送る人々でごった返していた。東北の秋の冷たい風が吹き抜ける中 1 、港には完成したばかりのサン・ファン・バウティスタ号が、その威容を誇るかのように浮かんでいた。

船に乗り込むのは、大使・支倉常長をはじめとする仙台藩の武士、日本人商人や水夫、そしてソテロらスペイン人やポルトガル人など、総勢180余名 4 。異なる言語と文化を持つ人々が乗り合わせた船内は、希望と同時に、未知の航海への不安と緊張が入り混じった独特の空気に包まれていただろう。

「我が名を西に知らしめよ」 ― 逸話の検証と、その真意

この船出に際し、政宗が常長に「我が名を西に知らしめよ」と語ったという逸話が、後世に広く知られている。この印象的な言葉は、山岡荘八の歴史小説『伊達政宗』などで描かれたものであり、同時代の史料で確認できるものではない 17 。常長自身が記したとされる19冊の日記も明治以降に行方不明となっており、二人の間で実際にどのような会話が交わされたのかを直接知る術は、残念ながら残されていない 18

しかし、この言葉は、文字通りの史実(Literal Truth)ではないとしても、この事業の本質を見事に捉えた「象徴的真実(Symbolic Truth)」として、極めて重要な意味を持つ。政宗が巨大なガレオン船を建造し、国王や教皇に国書を送り、交易や同盟を模索した一連の行動は、まさしく「自らの名と奥州伊達家の力を、西欧世界に知らしめる」という強烈な意志の表れであった。事実、後に常長がローマで授与された公民権証書には、ラテン語で「イダテ マサムネ(伊達政宗)」の名が明確に記されている 19 。実際に口にしたか否かにかかわらず、慶長遣欧使節という事業そのものが、この言葉を雄弁に体現していたのである。

太平洋横断 ― 3ヶ月の航海

月ノ浦を出帆したサン・ファン・バウティスタ号は、一路東を目指し、広大な太平洋へと乗り出した。当時の航海は、まさに命がけの冒険であった。正確な経度を測定する技術はまだ確立されておらず、船乗りたちはトラバースボードと呼ばれる原始的な記録装置を使い、30分ごとに進んだ方角と距離を記録して、自船のおおよその位置を推測するしかなかった 10

3ヶ月に及ぶ航海の間、一行は荒れ狂う嵐や壊血病の恐怖と戦いながら、ひたすら目的地を目指した。船内では、限られた食料と水を分け合い、異なる文化を持つ者同士が時に協力し、時に反目しながら、過酷な日々を過ごした。そして、この長い旅路の間に、故国日本では、彼らの運命を大きく左右する変化が静かに進行していた。

西暦(和暦)

使節団の動向

日本国内・世界の関連動向

1613(慶長18)

10月28日、月ノ浦を出帆。

幕府、キリスト教禁教令を全国に布告。

1614(慶長19)

1月25日、メキシコ・アカプルコ到着。12月、マドリード到着。

大坂冬の陣が勃発。

1615(元和元)

1月、国王フェリペ3世に謁見。2月、常長が洗礼を受ける。11月、ローマ教皇パウルス5世に謁見。

大坂夏の陣、豊臣家滅亡。徳川の天下が盤石となる。

1616(元和2)

ローマを離れ、帰国の途へ。

ヨーロッパ船の来航を平戸・長崎に限定。

1620(元和6)

9月、常長が長崎経由で仙台に帰着。

幕府によるキリシタン弾圧が激化(元和の大殉教など)。

第三章:交渉 ― 新大陸とスペイン宮廷

3ヶ月の過酷な航海の末、使節団はついに新大陸の地に第一歩を記した。ここから、ヨーロッパの権力の中枢との、困難な外交交渉が始まる。

新大陸での歓迎と現実

慶長19年(1614年)1月25日、サン・ファン・バウティスタ号は、スペイン領ヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)の拠点港アカプルコに無事入港した 9 。東洋の未知の国からやってきた使節団は、現地で大きな歓迎を受けた。一行のうち、商人たちの多くは交易の準備のためメキシコに留まり、常長とソテロを中心とする約30名が、最終目的地であるヨーロッパへと向かうことになった 20

一行は陸路でメキシコを横断し、大西洋岸のサン・フアン・デ・ウルアからスペイン艦隊の船に乗り換え、大西洋を渡った。太平洋と大西洋、二つの大洋を横断した最初の日本人となったのである。

スペイン国王フェリペ3世との謁見

スペインに到着した一行は、セビリアなどを経て、元和元年(1615年)1月30日、首都マドリードで国王フェリペ3世への謁見を果たした 18 。壮麗な宮殿で、常長は政宗から託された国書を恭しく奉呈し、通訳のソテロを介して、奥州の国主からの願いを堂々と述べた 18 。交易の許可と、領内への宣教師派遣の要請である。

この歴史的な謁見の場で、常長はさらに一歩踏み込んだ行動に出る。彼は国王に対し、「キリスト教徒になりたい。ついては、私の洗礼式に国王陛下にご臨席いただきたい」と願い出たのである 18 。これは単なる個人的な信仰告白ではなかった。カトリックの守護者を自認するスペイン国王の前で洗礼を受けることは、政宗のキリスト教への「本気度」をアピールし、交渉を有利に進めるための、極めて高度な外交的パフォーマンスであった。この願いは聞き入れられ、常長は同年2月17日、国王臨席のもとで洗礼を受け、「ドン・フィリッポ・フランシスコ」という洗礼名を授かった。

第四章:栄光 ― 永遠の都ローマにて

スペインでの一定の成果を得た一行は、次なる目的地、カトリック世界の中心であるローマを目指した。ここで常長は、その生涯で最も輝かしい栄光の瞬間を迎えることになる。

ローマへの凱旋

元和元年(1615年)10月25日、常長ら一行は「永遠の都」ローマに到着した。彼らの入市は、一大イベントとしてローマ市民に迎えられた。10月29日には華麗な衣装を身にまとった一行の入市式典が盛大に行われ、沿道は東洋から来た珍しい武士たちを一目見ようとする群衆で埋め尽くされたという 23 。日本の、それも一地方大名の家臣が、ヨーロッパ世界の中心でこれほどの歓迎を受けることは、まさに前代未聞の出来事であった。

教皇パウルス5世との拝謁

そして同年11月3日、常長はサン・ピエトロ宮(ヴァチカン)において、カトリック世界の最高権威者であるローマ教皇パウルス5世への拝謁という、歴史的な栄誉に浴した 24 。荘厳な儀式の中、常長は政宗の国書を捧げ、日本のキリスト教徒を代表して、殉教者の列福などを願い出た。この謁見は、天正遣欧少年使節以来となる、日本からの公式な使節と教皇との会見であり、日欧交渉史における金字塔であった。

栄光の証 ― 公民権証書と肖像画

ローマでの栄光を象徴するのが、現在、国宝として仙台市博物館に所蔵されている二つの遺品である。一つは、ローマ市議会が常長に与えた「ローマ市公民権証書」である 26 。豪華な羊皮紙に金泥で記されたこの証書は、常長に正式な市民権を与え、彼を貴族に列することを宣言している 19

もう一つは、ローマで描かれたとされる油彩の「支倉常長像」である 27 。そこに描かれた常長は、日本の伝統的な袴を身に着け、大小の刀を佩きながらも、手にはロザリオを持ち、敬虔な祈りを捧げている 27 。その表情には、長旅の疲れと、異文化の中で大役を背負う緊張感が滲んでいるようにも見える 29 。この和洋が混在した姿は、まさに二つの世界の狭間に立ち、主君の野望と自らの信仰、そして一族の運命を一身に背負った彼の数奇な人生そのものを象徴している。

しかし、この栄光の頂点にあった瞬間、すでに彼の、そしてこの使節団の運命には暗い影が忍び寄っていた。常長がローマで歓待されていた頃、故国日本では大坂の陣が終結し、徳川の支配体制は絶対的なものとなっていた。そして、幕府のキリスト教禁教政策はますます厳しさを増し、その情報はヨーロッパにも伝わっていた 11 。常長が手にした栄光は、実質的な外交成果の欠如と、日本の国内情勢の激変という二つの厳しい現実から目を逸らさせる、束の間の幻に過ぎなかったのである。

第五章:落日 ― 変わり果てた故国へ

栄光の時は短く、一行は厳しい現実に直面する。交渉は暗礁に乗り上げ、7年という長い歳月を経て帰国の途についた常長を待ち受けていたのは、変わり果てた故国の姿であった。

交渉の頓挫と帰国の途

ローマでの栄光とは裏腹に、使節団の主目的であったスペインとの通商交渉は、一向に進展しなかった。スペイン側は、日本本国でキリスト教徒への弾圧が強化されている情報を掴んでおり、そのような国と積極的に関係を結ぶことに躊躇したのである 11 。結局、常長たちは明確な成果を得られないまま、失意のうちに帰国の途につかざるを得なかった。

帰路、一行はフィリピンのマニラに立ち寄るが、ここで約2年間足止めを食らう。この間に、彼らが太平洋を渡ってきたサン・ファン・バウティスタ号は、フィリピン総督の懇願により、スペイン側に売却された 22 。政宗の野望の象徴であった巨大な船を手放したことは、この計画が完全に頓挫したことを物語っていた。

元和6年、仙台への帰着

元和6年(1620年)9月、常長はソテロと別れ、別の船で長崎に到着。ついに7年ぶりに日本の土を踏んだ。そして仙台に戻り、主君・伊達政宗との再会を果たす。7年間の過酷な旅は、彼の容貌を大きく変えていたと伝えられている 31

常長は政宗に対し、旅の報告を行うとともに、ローマから持ち帰った教皇パウルス5世の肖像画や十字架、ロザリオなどを献上した 18 。この謁見の場で、二人の間にどのような言葉が交わされたのか、史料は沈黙している。しかし、7年前に野心を燃やして自分を送り出した主君が、今や幕府の体制下で生きる現実主義者へと変貌していたことを、常長は痛感したに違いない。彼が持ち帰ったヨーロッパでの栄光の報告は、もはや政宗にとって輝かしい未来への鍵ではなく、幕府から謀反の疑いをかけられかねない、危険な「過去の遺物」となっていた。

政宗の決断と常長のその後

政宗の決断は迅速かつ冷徹であった。常長の帰国からわずか数日後、彼は仙台藩領内にキリスト教禁教令を発令したのである 18 。これは、幕府への恭順の意を明確に示し、お家取り潰しの危険を回避するための、苦渋に満ちた政治的決断であった。同時に、幕府の重臣・土井利勝に対し、常長の帰国と、マニラに残ったソテロの処遇について報告し、その判断を幕府に委ねている 8 。かつて天下を夢見た「夢想家」としての政宗は完全に姿を消し、仙台藩六十二万石の安泰を最優先する、冷徹な「現実主義者」へと回帰した瞬間であった。

その後の常長の公式な記録は、歴史から忽然と姿を消す。帰国した翌年の元和7年(1621年)7月1日に病没したと伝えられているが 3 、その死には謎が多く、一説には政宗が幕府の追及から彼を匿い、密かに天寿を全うさせたとも言われている 32 。いずれにせよ、ヨーロッパの宮廷で栄光の頂点を極めた男は、故国では歴史の表舞台に立つことを許されず、静かにその生涯を終えた。彼の最期が謎に包まれていること自体が、時代の激流に翻弄された彼の悲劇的な生涯を雄弁に物語っている。

終章:遺産 ― 「名を西に」の真相

慶長遣欧使節は、通商交渉や軍事同盟の締結という当初の目的を何一つ達成できず、結果だけを見れば「失敗」した計画であったかもしれない 24 。しかし、この壮大な挑戦が歴史に残した足跡は、決して小さなものではない。

日本人が自ら建造した西洋式帆船で、太平洋を二往復するという航海技術上の偉業は、日本の交通史において特筆すべき成果である 34 。また、使節一行がローマ教皇に直接願い出たことが、後に「日本二十六聖人」の列福、列聖へと繋がる一助となったことも、キリスト教史における意義は大きい 34 。何よりも、この事業は、戦国時代の気風がまだ色濃く残る時代に、一地方大名が国家規模の構想力と行動力をもって世界に挑んだ、最後の、そして最大級の国際的挑戦であった。

政宗が船出の際に常長に託したとされる「我が名を西に知らしめよ」という願い。彼は、自らが望んだ「力」による形、すなわち交易による富や軍事同盟による威光によって、その名を西欧世界に轟かせることはできなかった。

しかし、皮肉なことに、この壮大な「失敗の物語」そのものが、400年以上の時を超えて、伊達政宗と支倉常長の名を、日本とヨーロッパの交流史に燦然と輝かせ続けている。彼らの抱いた野心、海を渡った勇気、異文化との交流、そして時代の波に翻弄された悲劇的な結末。その全てが一体となった物語として、二人の名は西欧、そして世界中の人々の記憶に刻み込まれている。

最終的に、政宗の願いは、彼が全く意図しなかった形で、歴史の物語として成就したのである。奥州の龍が見た夢は、こうして永遠の伝説となった。

引用文献

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  2. 慶長遣欧使節:伊達政宗の壮大な海外進出と支倉常長の運命|hiro - note https://note.com/hiro_k670/n/n0b5954adda9f
  3. サン・ファン館|慶長遣欧使節と支倉常長 https://www.santjuan.or.jp/history.html
  4. 慶長遣欧使節/支倉常長 - 世界史の窓 https://www.y-history.net/appendix/wh0801-115_1.html
  5. 慶長遣欧使節 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E9%95%B7%E9%81%A3%E6%AC%A7%E4%BD%BF%E7%AF%80
  6. 慶長遣欧使節〜伊達政宗の外交団、スペインとローマをわかりやすく解説 - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/event/870/
  7. www.santjuan.or.jp https://www.santjuan.or.jp/history.html#:~:text=%E4%BD%BF%E7%AF%80%E3%81%AB%E6%94%AF%E5%80%89%E5%B8%B8%E9%95%B7,%E3%81%A8%E3%82%82%E8%A8%80%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
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