六角義賢
~観音寺騒動で仏像汗、敗運の兆し~
六角義賢の観音寺騒動で、城内の仏像が汗を流したとされる。これは六角家没落の凶兆とされたが、史実ではなく、当時の人々の信仰心と社会不安が生んだ伝説。
観音寺騒動と汗をかく仏像の怪異 ― 六角家没落の凶兆、その真相と心象風景
序章:凶兆の逸話 ― 歴史の記憶に刻まれた不吉なる汗
永禄六年(1563年)、近江国(現在の滋賀県)に半世紀以上にわたり君臨した名門守護大名・六角氏。その権勢の象徴であった巨大山城・観音寺城を、一つの不吉な噂が駆け巡ったと伝えられる。「城内の仏像が、まるで人のように汗を流し始めた」というのである。この怪異は、やがて六角家に訪れる破滅的な運命を暗示する「敗運の兆し」として、人々の間で囁かれた。
この「汗をかく仏像」の逸話は、単なる怪談や奇譚として片付けられるべきものではない。それは、栄華を極めた一族が、その栄光の頂から崩れ落ちる音を象徴する、強烈な歴史的記憶として後世に語り継がれてきたからである。この逸話の背景には、六角氏の屋台骨を内側からへし折った「観音寺騒動」という、凄惨な内紛の史実が存在する。
本報告書は、まずこの逸話が史実として記録されているのか、それとも後世に生まれた伝承なのかという問いを入り口とする。その上で、逸話の舞台となった観音寺騒動の全貌を、史料に基づきながら時系列に沿って克明に再構成する。さらに、なぜ「汗をかく仏像」という特異なモチーフが、この歴史的事件と分かちがたく結びついたのかを、当時の人々の信仰心や集団心理、そして騒乱の裏にあった政治的力学といった多角的な視点から深く掘り下げ、その真相に迫ることを目的とする。これは、史実と人々の心象風景が織りなす、歴史の深層を解き明かす試みである。
第一部:観音寺騒動 ― 史実の再構成
六角家没落の直接的な引き金となった観音寺騒動は、永禄六年(1563年)十月に突如として勃発したわけではない。その根源には、数年前から蓄積されていた権力構造の歪みと、家臣団の間に漂う不信感があった。ここでは、騒動に至るまでの経緯と、その後の破滅的な展開を、史実に基づき再現する。
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和暦 (西暦) |
出来事 |
主要人物 |
意義・典拠 |
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永禄3年 (1560) |
野良田の戦い。六角義賢、宿敵であった浅井長政に大敗を喫する。 |
六角義賢、浅井長政 |
六角氏の軍事的権威が大きく失墜。義賢は出家し「承禎」と号す 1 。 |
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永禄6年10月1日 (1563) |
六角義治、観音寺城内にて筆頭重臣・後藤賢豊とその嫡男・壱岐守を謀殺。 |
六角義治、後藤賢豊 |
観音寺騒動の直接的な勃発 2 。 |
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永禄6年10月上旬 |
後藤氏縁故の重臣ら(永田・三上・池田・平井・進藤氏など)が城内の自邸を焼き払い離反。浅井長政に支援を要請。 |
永田景弘、三上恒安ら、浅井長政 |
家臣団の集団蜂起と六角氏の完全な孤立化 2 。 |
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永禄6年10月7日頃 |
反乱軍、浅井軍の支援を得て観音寺城を包囲。 |
六角義治、浅井長政 |
六角義治・義賢父子は観音寺城から敗走 2 。 |
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永禄6年10月20日頃 |
重臣・蒲生定秀の仲介により和睦が成立。義治は隠居させられ、家督は弟・義定が継ぐことに。 |
六角義治、蒲生定秀、後藤高治 |
六角氏の権力失墜が確定。大名としての統制力を喪失 2 。 |
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永禄11年9月 (1568) |
織田信長の上洛軍が近江に侵攻。六角父子はほとんど抵抗できず、観音寺城は戦わずして開城。 |
織田信長、六角義賢・義治 |
戦国大名としての六角氏の事実上の滅亡 3 。 |
第一章:騒動前夜 ― 巨城に漂う不穏な空気
観音寺騒動の根は、永禄三年(1560年)の「野良田の戦い」にまで遡る。この戦いで、当主・六角義賢は、かつては支配下にあった北近江の浅井長政に、まさかの大敗を喫した 1 。二万五千と号する大軍を率いながら、その半数にも満たない浅井軍に敗れたという事実は、近江一国に君臨してきた六角氏の軍事的権威を根底から揺るがした 1 。この敗戦の衝撃は大きく、義賢は家督を嫡男の義治に譲り、自身は出家して「承禎」と号した。しかし、これは名目上の隠居に過ぎず、政治の実権は依然として承禎が握り続けるという、歪な二重権力構造を生み出すことになる 1 。
若き新当主・六角義治は、父の権威が失墜した状況下で家督を継いだことに焦りを募らせていた。自らの手で権力を確立し、父を超えたいという野心に燃える一方で、家中を実質的に取り仕切るのは、父・承禎と、彼が絶大な信頼を寄せる宿老たちであった。
その筆頭格が、後藤賢豊である。進藤貞治(騒動時には既に病没)と共に「六角の両藤」と称された賢豊は、先々代の定頼の時代から六角家に仕え、家中で比類なき人望と権勢を誇っていた 1 。その影響力は絶大で、奉行人として当主代理の権限すら有していたとされる 7 。義治にとって、この賢豊の存在は、父・承禎が張り巡らせた旧体制の象徴であり、自らの親政を阻む最大の障壁に他ならなかった 2 。承禎の影響力を排除するためには、まずその後ろ盾となっている賢豊を排除せねばならない。若き当主の心中に、そのような危険な野心が芽生え始めていたのである。観音寺城の壮麗な御殿の奥深くでは、主君と宿老の間に、修復不可能な亀裂が静かに広がっていた。
第二章:永禄六年十月一日、観音寺城 ― 悲劇の引き金
永禄六年(1563年)十月一日、秋風が観音寺城の石垣を吹き抜ける中、後藤賢豊とその嫡男・壱岐守は、主君・六角義治からの召喚命令を受け、居城である観音寺城へと登城した 2 。近頃の義治の自分に対する冷淡な態度に、賢豊は一抹の不安を覚えていたかもしれない。「殿がお呼びだと聞いて城に参った。しかし、殿はなかなか現れない。このところ、殿は儂のことが疎ましいようだった」 9 。主家の行く末を案じ、あえて憎まれ役を買って出ることもあった賢豊の忠義は、若き主君には届いていなかった。
賢豊父子が通された一室で待っていると、突如として周囲の襖が開き、武装した兵たちがなだれ込んできた。それは評定の場ではなく、紛れもない誅殺の場であった 9 。義治の腹心たちが抜刀して襲いかかる。賢豊父子とわずかな供の者は応戦したものの、多勢に無勢であった 9 。謀反の企てなど微塵もない忠臣が、主君の個人的な猜疑心と権力欲のために、問答無用で斬り捨てられたのである 8 。
この凶行の公式な名目は「無礼討ち」であったと伝わるが、具体的にどのような「無礼」があったのかを記す史料は存在しない 5 。これは、誅殺を正当化する理由が見当たらなかったことの裏返しとも言える。この暴挙は、義治の独断によるものであった可能性が高い 2 。当時、父・承禎は観音寺城の支城である箕作城に隠居しており、息子の凶行を事前に察知できなかったか、あるいは事後にその報を聞き、愕然としたものと推測される。いずれにせよ、この一滴の血が、六角家という巨大な器に満たされていた家臣団の信頼を、一瞬にして溢れさせることになる。
第三章:城下の激震と家臣団の離反 ― 崩れゆく権威
筆頭家老父子の謀殺という、前代未聞の凶報は、瞬く間に観音寺城下を駆け巡り、家臣団に激震を走らせた。長年にわたり六角家を支えてきた宿老への理不尽な仕打ちは、義治に対する家臣たちの不信感を怒りへと変えた。特に、後藤氏と縁戚関係にあった永田景弘、三上恒安、池田秀雄、平井定武、進藤賢盛といった「六角六人衆」に数えられるほどの重臣たちの憤激は凄まじかった 2 。
彼らの行動は迅速かつ決定的であった。義治への抗議と決別の意思を示すため、彼らは観音寺城内に構えていた自らの壮麗な邸宅に火を放ち、黒煙が天を突く中、兵を率いてそれぞれの所領へと引き上げていったのである 2 。これは単なる出奔ではない。主君との主従関係を一方的に断ち切り、武装して対立姿勢を明確にした、紛れもない反乱の狼煙であった。
さらに彼らは、六角家にとって致命的となる行動に出る。それまで長年にわたり敵対関係にあった北近江の浅井長政に使者を送り、主君・義治を討つための軍事支援を要請したのである 2 。父と兄を殺された後藤家の次男・後藤高治は、一族の存亡をかけて「仇討ち」という大義名分を掲げ、反乱軍の中核となった 9 。主家の内紛に、宿敵が介入するという最悪の事態。六角氏を中心として成り立っていた南近江の国人領主連合体制は、当主自身の愚行によって、この日、内部から完全に崩壊した。
第四章:敗走、そして屈辱 ― 観音寺城からの逃亡
観音寺城は、日本五大山城の一つに数えられる難攻不落の要塞であった。しかし、その防御力は、城内に屋敷を構える重臣たちがそれぞれの曲輪を守ってこそ機能するものであった 9 。その重臣のほとんどが敵に回った今、観音寺城はもはや「裸の城」と化していた 13 。
永禄六年十月七日、後藤氏を中心とする反乱軍は、浅井長政の援軍を得て数千の軍勢に膨れ上がり、観音寺城へと殺到した 2 。城を包囲する軍勢の中には、昨日まで義治に仕えていた者たちの旗印が無数に翻っていた。わずかな手勢しか持たない義治には、もはや籠城して戦う選択肢すら残されていなかった 2 。
進退窮まった六角義治は、ついに観音寺城を放棄。重臣の中でも最後まで中立を保っていた蒲生定秀・賢秀親子を頼り、その居城である日野城へと落ち延びた 2 。時を同じくして、箕作城にいた父・承禎も、事態の深刻さを悟り、甲賀郡の有力国人である三雲氏のもとへと逃亡した 2 。近江に半世紀以上君臨した六角氏の当主父子が、自らの家臣に追われて本拠地から逃げ出すという、前代未聞の事態であった。
この混乱を収拾すべく、蒲生定秀が両者の仲介に乗り出した 2 。十月二十日、和睦が成立するが、その条件は六角氏にとって屈辱以外の何物でもなかった。後藤高治の家督相続と所領の安堵を認め、そして何よりも、この騒動を引き起こした義治は隠居させられ、家督を弟の義定に譲ることが定められたのである 1 。この一件により、六角氏の権威は完全に地に堕ちた。家臣団の信頼を失い、内部から崩壊した六角氏は、もはやかつての勢いを失っていた。このわずか五年後、足利義昭を奉じて上洛を目指す織田信長の圧倒的な軍事力の前に、六角氏はほとんど抵抗することすらできず、観音寺城を明け渡すことになる 1 。観音寺騒動は、名門六角氏の長い歴史に、事実上の終止符を打った事件だったのである。
第二部:汗をかく仏像 ― 伝承の分析
観音寺騒動という歴史的事件の凄惨な内実を理解した上で、我々は再び冒頭の問いに戻らなければならない。この動乱の最中、観音寺城の仏像は本当に汗を流したのだろうか。この章では、逸話そのものに焦点を当て、史実としての記録の有無を検証すると共に、なぜこの怪異譚が生まれ、人々の記憶に刻み込まれることになったのかを、文化的・心理的側面から深く考察する。
第五章:仏像は本当に汗を流したか ― 記録と伝承の狭間
結論から言えば、観音寺騒動を記した同時代の信頼性の高い一次史料の中に、「仏像が汗をかいた」という記述は一切見当たらない 2 。『足利季世記』や『近江蒲生郡志』に引用される古記録など、騒動の経緯を伝える史料は存在するが、そのいずれもが、後藤賢豊の謀殺とそれに続く家臣団の離反という政治的・軍事的側面に焦点を当てており、超常現象については沈黙している 15 。
この事実は、この逸話が史実、すなわち実際に起きた出来事の記録ではなく、事件後、あるいはおそらくは事件の直後から人々の間で語られ始め、後世に定着した「伝承」である可能性が極めて高いことを示唆している。では、この伝承の源流はどこにあるのか。一つの可能性として、江戸時代に成立したとされる軍記物『江源武鑑』などが考えられる。しかし、この書物は六角氏の特定の家系を正当化する意図で書かれたとされ、年代の誤りも多く、史料としての信頼性には大きな疑問符がつく 1 。もう一つの可能性は、観音寺城の城下町であった石寺(現在の東近江市)周辺で、事件の衝撃を語り継ぐための口伝として、地域社会に根付いていったというものである 17 。
ここで重要なのは、分析の視点を転換することである。「仏像は汗をかいたか否か」という事実確認の問いは、史料が存在しない以上、水掛け論に終わってしまう。我々が問うべきは、「なぜ人々は、この未曾有の事件に際して、仏像が汗をかいたと信じ、またその物語を語り継ぐ必要があったのか」という、物語の機能と意味を探る問いである。この問いこそが、当時の人々の精神世界へと我々を導く鍵となる。
第六章:凶兆としての「汗」― 戦国武将の信仰と怪異
戦国時代は、合理性と非合理性が混在した時代であった。武将たちは、一方で鉄砲のような最新兵器を駆使し、緻密な戦略を練る現実主義者であったが、その一方で、常に死と隣り合わせの日常を生きるがゆえに、神仏への信仰心が篤く、吉凶の兆しや超常現象を極めて重視していた 19 。上杉謙信が自らを毘沙門天の化身と信じ、その加護を頼りに戦った逸話は有名であるし、多くの武将が守護仏の小像を兜の中に忍ばせ、戦場に赴いた 19 。夢のお告げ、奇妙な自然現象、怪異譚は、単なる迷信ではなく、神仏の意思や未来を暗示する重要なメッセージとして真剣に受け止められていたのである。
この文脈において、「汗をかく仏像」というモチーフは、特別な意味を持つ。日本各地には、同様の伝承が数多く残されている。例えば、宇都宮の一向寺に伝わる「汗かき阿弥陀」は、五十里洪水や関東大震災といった大災害の前日に汗をかいたとされ 20 、日野市の高幡不動尊に安置される不動明王像も、天変地異を知らせるために汗を流すという伝説を持つ 22 。これらの伝承に共通するのは、仏像の汗が「世に重大な異変が起こる前触れ」、すなわち凶兆として機能している点である。
観音寺城の仏像の汗も、まさにこの系譜に連なるものと解釈できる。主君が、長年にわたり家を支えてきた功臣を、私的な感情で誅殺するという行為は、当時の武家社会の根幹をなす主従の倫理、すなわち「忠義」と「恩賞」の秩序を根底から覆す、あってはならないことであった。それは単なる政治的失策ではなく、人倫にもとる「非道」であり、社会全体の安定を脅かす深刻な異常事態であった。
この逸話は、この異常事態に対する「仏の嘆き」や「天の警告」を、人々が理解できる形で具現化した物語なのである。人間の世界で起きた理不尽な悲劇に対し、超越的な存在である仏が同情し、涙の代わりに汗を流して悲しんでいる。あるいは、これから六角家に訪れるであろう破滅的な運命を、慈悲の心から事前に警告してくれている。このように解釈することで、人々は目の前で起きた不可解で衝撃的な出来事を、自らの世界観の中に位置づけることができた。この物語は、史実そのものではないかもしれないが、事件がもたらした道徳的・感情的な衝撃の大きさを正確に記録する「心象風景の記録」、すなわち「心理的な真実」として、極めて重要な意味を持っていたのである。
第七章:噂の伝播 ― 人々の心が生んだ凶兆
では、この「汗をかく仏像」という凶兆の噂は、具体的にどのようにして生まれ、広まっていったのだろうか。そこには、当時の人々の集団心理と、高度な政治的計算が複雑に絡み合っていた可能性が考えられる。
第一に、集団心理が噂を発生させた可能性である。観音寺騒動の渦中、城下を満たしていたのは、主家への怒りと不信、そして自分たちの未来に対する底知れぬ不安であった。このような極度の社会的ストレス下では、人々は合理的思考を失い、些細な現象にも過剰な意味を見出そうとする傾向がある。例えば、近江の湿度の高い気候の中、仏像の冷たい表面に生じた結露のような、ごくありふれた自然現象が、誰かの目には「仏像が汗をかいている」という超常現象として映ったかもしれない。そして、その一人の「目撃談」が、不安と恐怖に満ちた人々の間で口コミとして伝播するうちに、疑う余地のない「事実」として増幅され、定着していった。これは、社会不安が生み出した幻影とも言える。
第二に、この噂が意図的に流布された、政治的プロパガンダであった可能性である。これはより戦略的な視点であり、見過ごすことはできない。主君・義治に反旗を翻した後藤派の重臣たちにとって、自らの行動を正当化することは喫緊の課題であった。主君への反逆は、いかなる理由があろうとも「謀反」と見なされかねない重罪である。彼らは、自分たちの挙兵が単なる私怨や権力闘争ではなく、大義に基づいたものであることを、他の国人衆や領民に示す必要があった。
そのための最も効果的な手段が、超自然的な権威を借りることである。「主君・義治の非道には、城の仏様さえも嘆き悲しみ、警告の汗を流しておられる」― このような噂を流布させることができれば、状況は一変する。彼らの反乱は、人間の次元を超えた、神仏の意思に沿った「天誅」としての大義名分を得ることになる。これにより、義治は「仏罰が下るべき不徳の将」として孤立し、反乱軍には「天に是認された義軍」という権威が付与される。それは、敵対していた浅井長政に支援を要請するという、前代未聞の行動すら正当化しうる強力な論理であった。このように考えると、「汗をかく仏像」の逸話は、人々の素朴な信仰心を利用して、反乱の正統性を構築し、敵対者を道徳的に断罪するために仕掛けられた、高度な情報戦の一環であった可能性も否定できないのである。
結論:史実と心象が織りなす歴史の深層
観音寺騒動は、六角義治という一人の若き当主の愚行に端を発しながらも、その影響は一個人の失策に留まらなかった。それは、鎌倉時代から近江に根を張り、室町幕府の有力守護として、また戦国大名として栄華を誇った名門・六角氏の数百年にわたる支配を、事実上終わらせる決定的な転換点であった。この内紛による権力基盤の崩壊がなければ、五年後の織田信長の上洛はより困難なものとなり、その後の日本の歴史は大きく異なる様相を呈していたかもしれない。
本報告書が探求してきた「汗をかく仏像」の逸話は、同時代の一次史料からはその存在を証明することが困難な、伝承の域を出ない物語である。しかし、それはこの物語が無価値であることを意味しない。むしろ、この逸話は、観音寺騒動という未曾有の内紛が、六角家の家臣団、そして近江の領民たちに与えた社会全体の衝撃、そして名門の崩壊を予感した人々の恐怖と絶望を、これ以上ないほど鮮明に映し出す「心象風景の記録」として、一次史料とは異なる次元で極めて重要な歴史的価値を持つ。
史実が語るのは、権力闘争の冷徹な経緯である。一方で、伝承が語るのは、その史実を生きた人々の心の叫びである。歴史とは、単に起きた出来事を年表として並べたものではなく、人々がその事実をどう受け止め、どう解釈し、どのような物語として後世に語り継いできたかという、記憶の重層的な集積体なのである。観音寺城の仏像が流したとされる一筋の「汗」。それは、六角義賢・義治父子の敗運の兆しであると同時に、主従の倫理が崩壊し、明日をも知れぬ激動の時代を生きた人々の、悲しみと不安が結晶化した、歴史の涙そのものであったと言えるだろう。
引用文献
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- 観音寺騒動 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/key/kannonjisoudou.html
- 観音寺城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E5%AF%BA%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 六角義賢は何をした人?「なんど負けても信長にゲリラ戦を挑んですべてを失った」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/yoshikata-rokkaku
- 六角承禎―負けても勝った、名門大名 | 天野純希 「戦国サバイバー」 | よみタイ https://yomitai.jp/series/sengokusurvivor/03-rokkakuyoshikata/3/
- 大手道(本谷筋)とその周辺 Archive - 観音寺城|散策の備忘録 http://kannonjijo.com/cat-2/
- 観音寺騒動とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E5%AF%BA%E9%A8%92%E5%8B%95
- 上洛と観音寺騒動とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E4%B8%8A%E6%B4%9B%E3%81%A8%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E5%AF%BA%E9%A8%92%E5%8B%95
- 第三十七話 観音寺騒動・上 - 長政記~戦国に転移し、滅亡の歴史に抗う(スタジオぞうさん) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/16818093092828939670/episodes/16818093093251296035
- 長政記~戦国に転移し、家族のために歴史に抗う - 三十五 観音寺騒動① https://ncode.syosetu.com/n5003gr/38/
- 後藤賢豊 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E8%B3%A2%E8%B1%8A
- 観音寺騒動(かんのんじそうどう)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E5%AF%BA%E9%A8%92%E5%8B%95-1296380
- 淡海乃海 水面が揺れる時 - 観音寺崩れ - 小説家になろう https://ncode.syosetu.com/n9975de/29/
- 「六角義賢(承禎)」信長に最後まで抵抗し続けた男! 宇多源氏の当主 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/308
- 永禄6年(1563年)10月に、近江の戦国大名六角氏において発生した観音寺騒動と城下・石場寺の兵火に... | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/reference/show?id=1000143839&page=ref_view&type=reference&lsmp=1&rnk=1&mcmd=25&st=ref_cnt_all&asc=desc&pg=2661
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- 第13回 汗かき阿弥陀客仏といわれる由縁 https://www.u-tenchijin.com/wp-content/uploads/2021/03/201309_02.pdf
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