最終更新日 2025-10-22

前田まつ
 ~白装束で兵叱咤「加賀の肝っ玉」~

前田まつが白装束で兵を叱咤し「加賀の肝っ玉」と称された逸話。府中城での死の覚悟と末森城での夫への叱咤が融合し、前田家の危機を救った伝説の真髄を探る。

「加賀の肝っ玉」伝説の深層:前田まつ「白装束と兵叱咤」の逸話、その真実に迫る

第一章:序論 ― 逸話の解剖と「白装束」の謎

前田利家の妻、まつ(後の芳春院)の人物像を象徴する逸話として、「柴田との緊張下、白装束で兵を叱咤し『加賀の肝っ玉』と称された」という物語は、武辺女房譚として広く知られている。この鮮烈なイメージは、夫の危機に際して類稀なる胆力と才覚を発揮した戦国女性の姿を、後世に力強く伝えてきた。しかし、このドラマチックな物語は、果たして単一の歴史的瞬間に起こった出来事なのであろうか。

本報告は、この著名な逸話の構成要素を歴史的史料に基づき丹念に分解し、再検証することを目的とする。具体的には、以下の三つの核心的な問いに答えることを通じて、伝説の背後に隠された真実に迫る。

第一に、逸話の舞台は、本当に織田家の筆頭家老・柴田勝家との緊張関係が高まっていた時期であったのか。第二に、まつは具体的にどのような状況で、誰を、いかなる言葉で「叱咤」したのか。そして第三に、彼女の覚悟を象徴する「白装束」は、史実としてどの場面に属するものなのか、あるいは後世の創作によるものなのか。

調査を進める中で明らかになるのは、一般に流布するこの逸話が、実は時間も場所も異なる二つの重大な危機における、まつの気丈な振る舞いが後世に融合し、一つの物語として結晶化したものであるという事実である。すなわち、前田家の存亡が文字通り風前の灯であった「府中城での死の覚悟」と、戦況の膠着を打破した「末森城での痛烈な叱咤」という、別個の出来事が伝説の源泉となっている。

本報告では、まず「白装束」という象徴的なイメージの源泉と考えられる「賤ヶ岳の戦い」後の府中城における危機的状況を詳述する。次に、逸話の核となる「兵叱咤」が行われた「末森城の戦い」の様相を、ご要望に沿って時系列で克明に再現する。最後に、これら二つの出来事が、如何にして「加賀の肝っ玉」という一つの偉大な伝説を形成するに至ったのか、その歴史的、文化的背景を深く考察していく。

第二章:前段 ― 賤ヶ岳の戦いと府中城での覚悟(「柴田との緊張下」と「白装束」の文脈)

背景:義理と友情の板挟み

天正10年(1582年)6月、本能寺の変によって織田信長が横死すると、織田家の家臣団はその後継者を巡って激しく対立した。その中心にいたのが、織田家筆頭家老としての実績と誇りを持つ柴田勝家と、信長の仇・明智光秀を討ち、急速に台頭した羽柴秀吉であった。前田利家は、この両者の間で極めて困難な立場に置かれることとなる。

柴田勝家は、利家が若き日に信長の勘気を被り浪人していた際にも、変わらず励まし続けた恩人であり、北陸方面軍の総司令官として利家を与力(配下の協力武将)に置く直属の上官でもあった。利家は17歳年長の勝家を「親父(おやじ)様」と呼び、深く敬愛していたと伝わる 1 。一方、羽柴秀吉は尾張時代からの旧友であり、妻のまつも秀吉の正室・ねね(おね)とは昵懇の仲であった 2 。義理の勝家か、時勢と友情の秀吉か。この選択は、前田家の未来そのものを左右する、究極の決断であった。

賤ヶ岳での戦線離脱

天正11年(1583年)4月、両者の対立はついに賤ヶ岳の戦いとして火蓋を切る。利家は与力としての立場上、勝家軍の一翼を担い、30,000の軍勢の一員として北近江に布陣した 4 。しかし、戦いが激化する中、茂山に布陣していた利家の軍勢は突如として戦線を離脱する。後方を守るべき前田軍の撤退は、柴田軍の陣形に致命的な動揺を与え、全体の総崩れを招く一因となった 4

この行動は、後世「裏切り」や「日和見」と非難されることもあるが、秀吉からの調略に応じた結果とも推測されている 5 。いずれにせよ、恩人である勝家を見捨てる形となったこの決断は、勝利した秀吉との次の対峙において、利家を極めて危険な立場へと追い込むことになった。

府中城の絶体絶命と「白装束」の蓋然性

賤ヶ岳から撤退した利家は、自身の居城である越前・府中城(福井県武生市)に籠城した。そこへ、敗走する勝家本隊を追撃する秀吉の大軍が殺到する。記録によれば、秀吉軍は府中城に対して実際に鉄砲を撃ちかけるなど、攻撃の意思を明確に示しており、城内は絶体絶命の状況に陥った 3 。降伏か、玉砕か。前田家は滅亡の瀬戸際に立たされたのである。

この極限状況において、まつの政治的才覚が発揮されたと見られている。『川角太閤記』には、秀吉が利家と会見する前に、まずまつに会ったと記されており、彼女が夫の赦免を必死に嘆願したという説が存在する 6 。ねねとの親密な関係も、この交渉を有利に進める上で大きな助けとなったであろう 2

そして、この府中城での籠城こそ、まつの生涯において最も「死」を覚悟した瞬間であった。交渉が決裂すれば、城は落ち、一族は皆殺しにされる。このような状況で、城主の妻が自害の覚悟を示すために「白装束」を準備、あるいは身にまとうことは、当時の武家の慣習として極めて自然なことであった 7 。白は仏教において清浄や純粋を意味し、死者が穢れなく浄土へ旅立つことを願う色とされる 7 。落城に際して女性が自害する際の死装束として、白の小袖が用いられたことは想像に難くない。

したがって、逸話に登場する象徴的な「白装束」は、この府中城の危機的状況において、まつの示した「死の覚悟」の表象として、最も高い蓋然性を持つ。この鮮烈なイメージが、後世に語り継がれる中で、よりドラマチックな別の逸話へと移植されていったと考えられるのである。


項目

賤ヶ岳の戦い後の府中城

末森城の戦い

時期

天正11年(1583年)4月

天正12年(1584年)9月

場所

越前・府中城

加賀・金沢城

対峙した相手

羽柴(豊臣)秀吉

佐々成政

利家の状況

敗走・籠城し、降伏か討死かの岐路

援軍要請を受け、出陣を逡巡

まつの役割(伝承)

秀吉への赦免交渉、死の覚悟

夫・利家の叱咤激励

「白装束」との関連

「死の覚悟」の象徴として蓋然性が高い

直接の記述はないが、象徴として結合


第三章:本伝 ― 末森城の戦い、その瞬間の再現(「兵叱咤」の逸話)

第一幕:戦雲急を告げる

賤ヶ岳の戦いから約1年半後の天正12年(1584年)9月。天下の情勢は、秀吉と徳川家康・織田信雄連合軍が対峙する「小牧・長久手の戦い」の渦中にあった。利家は秀吉方として、本拠地である加賀・金沢城の守りを固めるよう命じられていた 8

この機を捉え、家康方に与した越中の大大名・佐々成政が動いた。成政は1万5千と号する大軍を率いて、前田領である能登の国境へと侵攻。加賀と能登を結ぶ戦略上の要衝・末森城を包囲したのである。城を守るのは城代・奥村永福らわずかな兵。金沢城には、末森城からの急使が次々と到着し、城が風前の灯であることを告げた。城内は、にわかに緊張と動揺に包まれた。

第二幕:利家の逡巡

報告を受けた利家は、苦悶した。救援に向かうべきは当然であったが、敵は1万5千の大軍。対する利家が金沢城の守備兵力を除いて、即座に動員できる兵力はわずか2,500程度であったと伝わる 6 。兵力差は歴然であり、寡兵での出陣は無謀な賭けにも思えた。もし敗れれば、本拠地である金沢城までが危険に晒される。重臣たちとの軍議は紛糾し、利家は出陣の決断を下せずにいた。

この逡巡の背景には、利家の性格も影響していた。彼は「槍の又左」と称される猛将である一方、かなりの倹約家としても知られ、日頃から蓄財に励んでいた 3 。この性格が、非常時に備えて兵力を増強するよりも、財貨を蓄えることを優先させた一因となっていた可能性は否めない。そしてその結果が、この国家存亡の危機において、深刻な兵力不足という形で露呈したのである。

第三幕:まつの登場と叱咤

利家が重臣たちを前にして決断を下せず、城内の空気が重く沈む中、奥からまつが静かに姿を現した。彼女の手には、いくつかの袋が握られていた。それは、夫である利家が日頃から大切に蓄えてきた金銀の数々であった 9

まつは逡巡する夫の前に進み出ると、その金銀が詰まった袋を、あたかも投げ出すかのように差し出した 6 。そして、場にいる誰もが息をのむ中、冷静かつ痛烈な皮肉を込めた言葉を放ったのである。

「日頃から兵を養うよう、あれほど申しておりますのに、殿は蓄財にばかりお励みになる。もはや手遅れでございましょう。さすれば、いっそその金銀に槍でも持たせて、ご出陣なされてはいかがですか」 6

この言葉は、単なる激励ではなかった。それは、夫の価値観、武将としての矜持、そして領主としてのこれまでの統治方針そのものに対する、痛烈極まりない批判であった。「兵よりも金子が大事なのですか」という、武士にとって最大の侮辱とも受け取れる問いを、まつは夫に突きつけたのである。彼女は、正論や同情では夫の迷いを断ち切れないことを見抜いていた。利家の倹約家としての性分と、武人としての高い誇りを熟知していたからこそ、あえてその誇りを深く傷つけ、「怒り」という最も強力な行動のエネルギーを引き出すという、極めて高度な心理的戦略に打って出たのだ。

第四幕:利家の激高と奮起

まつの言葉は、利家の心に突き刺さった。侮辱されたと感じた彼の表情は怒りに染まり、『川角太閤記』によれば、思わず腰の刀の柄に手をかけるほど激高したと記されている 9

しかし、その怒りは破滅的な方向には向かわなかった。利家は、その燃え上がる感情を、敵将・佐々成政への闘志へと昇華させた。彼は、まつと重臣たちに向かって、啖呵を切るように叫んだという。

「見ておれ! わしが金を貯めていたのが正しかったと、今に教えてくれるわ!」 8

この瞬間、利家の迷いは完全に吹き飛んだ。彼は即座に出陣を決定。まつの差し出した金銀で兵をかき集め、兵力を増強すると、嫡男・利長と共に嵐の中を末森城へと急行したのである 8

第五幕:勝利と伝説の誕生

利家率いる前田軍は、悪天候を突いて敵の警戒網を突破し、末森城を包囲する佐々軍の背後を急襲した。不意を突かれた佐々軍は混乱に陥り、激戦の末に敗走。九死に一生を得た末森城は陥落を免れ、前田家は最大の危機を脱した。

この出陣に際し、まつが夫と重臣たちに向かって「もし末森の城が落ちたならば、皆様、生きてお帰りなさいますな。私もこちらで、皆様のご家族と城に火を放ち、自害いたします」と演説し、彼らの背水の陣の覚悟を促したという説も伝わっている 2 。この言葉は、彼女の叱咤が単なる感情的なものではなく、自らの命をも賭した、家全体の総力を挙げた戦いへの決意表明であったことを示している。まつのこの気丈な振る舞いこそが、利家を奮い立たせ、加賀百万石の礎となる大勝利を引き寄せた。「加賀の肝っ玉」の伝説が誕生した瞬間であった。

第四章:考察 ― 「白装束」の象徴性と伝説の形成

史料批判と逸話の信憑性

末森城の戦いにおける、まつの叱咤激励の逸話。その主要な典拠は、江戸時代初期に成立したとされる『川角太閤記』である 6 。この書物は、豊臣秀吉の事績を中心に描いた軍記物語であり、歴史的事実を核としながらも、物語としての面白さや教訓的な意味合いを強めるための脚色が含まれている可能性が高い。特に登場人物の会話などは、その場の雰囲気を伝えるために創作された部分も少なくないと考えられる。

したがって、まつが利家を叱咤したという出来事の核心は史実であった可能性が高いものの、その具体的な言葉のやり取りや、利家が刀に手をかけるといった劇的な描写は、前田家の「内助の功」を後世に際立たせるための演出が加えられたものと見るのが妥当であろう 10 。しかし、それはこの逸話の価値を損なうものではない。むしろ、なぜこのような物語が生まれ、語り継がれる必要があったのかを考えることこそが、歴史の真実に迫る鍵となる。

「白装束」イメージの結合プロセス

本報告で繰り返し指摘してきた通り、末森城の逸話に関する主要な史料には、まつが「白装束」をまとっていたという直接的な記述は見当たらない。では、なぜ「白装束」という強烈なビジュアルが、この逸話と不可分に結びつくようになったのか。

その答えは、前田まつの人物像を語る上で不可欠な二つの要素、すなわち「死を恐れぬ覚悟」と「夫を動かす胆力」を、一つの視覚的なイメージに集約させるための、後世の物語化のプロセスに見出すことができる。

  1. 核となる事実①(府中城の危機): 天正11年、秀吉の大軍に包囲され、一族滅亡の危機に瀕した際、まつは城主の妻として「死の覚悟」を決めた。この極限状況こそが、「白装束」というイメージを最も強く喚起させる歴史的文脈である。
  2. 核となる事実②(末森城の危機): 天正12年、夫が逡巡し、家臣団が動揺する中、まつは痛烈な叱咤によって事態を打開した。これは、「加賀の肝っ玉」を象徴する具体的な行動と言葉である。
  3. 伝説化の段階: 江戸時代に入り、加賀百万石の礎を築いた藩祖夫妻の物語が語り継がれる中で、これら二つのエピソードは、まつの気性を示す代表例として頻繁に引用されるようになった。
  4. 融合と結晶化: やがて、物語の語り手や聞き手の中で、よりドラマチックで記憶に残りやすい「叱咤」の場面に、彼女の覚悟を最も端的に象徴するビジュアルである「白装束」が重ね合わされる。これにより、「死の覚悟(白装束)をもって、夫を叱咤し(金銀と槍)、家を救った賢婦」という、一つの完璧な英雄譚が完成したのである。

この逸話は、戦国時代において女性が単に家の奥にいる存在ではなく、家の存亡に深く関与し、時には当主である夫の意思決定にさえ決定的な影響を与えたことを示す「武辺女房譚」の典型として、後世に大きな影響を与えた。

第五章:結論 ― 「加賀の肝っ玉」伝説の真髄

本報告の調査と分析を通じて、「前田まつが白装束で兵を叱咤した」という著名な逸話が、歴史上、明確に区別されるべき二つの出来事の融合によって形成されたものであることが明らかになった。すなわち、天正11年(1583年)の「府中城の危機」が「白装束」で象徴される死の覚悟の文脈を提供し、天正12年(1584年)の「末森城の戦い」が「兵叱咤」という具体的な行動の舞台となったのである。

末森城におけるまつの叱咤は、単なる気性の激しさの発露ではない。それは、夫の性格と武人としての矜持を完璧に理解した上で、最も効果的な言葉を選び、行動を促した、高度な心理的戦略であった。彼女の「肝っ玉」の本質とは、この冷静な状況分析能力と、身の危険を顧みずに最善の行動を実行する「戦略的胆力」にこそある。

この伝説は、史実の細部を超えて、より大きな歴史的「真実」を伝えている。それは、前田家が幾多の存亡の危機を乗り越え、やがて加賀百万石という比類なき大藩へと発展する過程において、まつの存在がいかに決定的であったかという事実である。もし府中城で彼女の外交的才覚がなければ、前田家は秀吉に滅ぼされていたかもしれない。もし末森城で彼女の叱咤がなければ、利家は佐々成政に敗れ、その後の発展は望めなかったかもしれない。

その意味で、「白装束で兵を叱咤した」という逸話は、文字通りの事実を記録したものではないかもしれないが、加賀百万石の「創世神話」の一つとして、前田まつの果たした歴史的役割の重要性を、何よりも雄弁に物語っているのである。

引用文献

  1. 賤ケ岳の戦いで板挟みになった前田利家! 究極の選択の結果は ... https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/89985/
  2. 前田まつが有名なのはなぜ?~前田利家の賢妻として残した功績 (2ページ目) - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/14390/?pg=2
  3. 戦国大河『利家とまつ』異聞 秀吉が「賤ケ岳」で敵対した前田利家を許した理由【麒麟がくる 満喫リポート】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/394537
  4. 賤ヶ岳の戦い - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7258/
  5. 賤ヶ岳の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%A4%E3%83%B6%E5%B2%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  6. 「おまつ(芳春院)」前田利家の正妻は加賀100万石を存続させた立役者だった! | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/115
  7. 白装束と死装束の違いとは?着せる理由や宗教別の着せ方・意味も解説 - 小さなお葬式 https://www.osohshiki.jp/column/article/1931/
  8. 前田利家は何をした人?「信長の親衛隊長・槍の又左が秀吉の時代に家康を抑えた」ハナシ https://busho.fun/person/toshiie-maeda
  9. 前田利家の妻がわざと夫を怒らせた理由とは?女性たちがカギを握った?末森城の戦い https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/88415/
  10. 【合戦解説】賎ヶ岳の戦い 羽柴 vs 柴田 〜 織田家を我が物にしたい羽柴秀吉とそれを阻止したい柴田勝家がついに激突する 〜 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=ABjT1ZrxvXc