前田利家
~妻まつ鎧着て兵叱咤し利家奮起~
前田利家は末森城の戦いで撤退寸前、妻まつが鎧を着て兵を叱咤し、利家を奮起させた逸話で知られる。史実ではないが、まつの深い理解と覚悟が前田家を救った伝説。
史料から紐解く「末森城の戦い」における前田まつの叱咤激励 ― 伝説と真実の狭間で
序章:伝説の幕開け ― 英雄譚のプロローグ
「妻まつ、鎧を纏い兵を叱咤し、夫利家を奮起させる」。この一節は、戦国武将・前田利家の妻、まつの「内助の功」を象徴する逸話として、広く世に知られている 1 。撤退寸前の夫を、妻の勇気ある行動が反転攻勢へと導いたというこの物語は、理想的な夫婦像、そして困難に立ち向かう女性の強さの象徴として、後世に語り継がれてきた。その情景は、あたかも一幅の絵画のように鮮烈な印象を与える。
しかし、この勇壮なイメージは、歴史的事実を正確に反映したものなのであろうか。本報告書は、この広く流布する逸話の核心に迫ることを目的とする。調査を深めるにつれ、この物語には複数の伝承が存在し、特に象徴的とされる「鎧を着て」という描写は、信頼性の高い同時代の史料には見当たらないという事実に直面する。一般に流布する逸話は、歴史の「核」となる事実に、後世の理想や物語的な脚色が加わることで形成されることが多い。まつが鎧を纏うというイメージは、彼女の精神的な勇ましさや決意を視覚的に、より劇的に表現するための、後世、特に大河ドラマのような映像メディアが生んだ「物語的発明」である可能性が極めて高い 3 。
したがって、本報告書では、主要な典拠とされる『川角太閤記』や『武家事紀』といった近世の史料を丹念に読み解き、「何が起きたのか」という事実の探求に留まらず、「なぜそのように語られるようになったのか」という伝説の形成過程にまで踏み込む。これにより、前田まつの叱咤激励という逸話の真の姿を、伝説と史実の狭間から浮かび上がらせることを試みる。
第一章:絶体絶命 ― 天正十二年九月、末森城の悲鳴
物語の舞台は、天正12年(1584年)9月、能登国末森城である 5 。この年、羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄連合軍が激突した「小牧・長久手の戦い」の余波は、遠く北陸の地にも及んでいた。秀吉方に属する前田利家に対し、家康方に与した越中の雄・佐々成政が牙を剥いたのである 6 。かつては織田信長のもとで共に戦った同僚であり、宿命のライバルでもあった二人の対立は、天下の覇権を巡る代理戦争の様相を呈していた 7 。成政の胸中には、秀吉のもとで着実に出世を重ねる利家への嫉妬も渦巻いていたと推察される 6 。
この個人的感情と政治的対立が交錯する中で、成政が標的としたのが末森城であった。この城は、利家が領する加賀国と能登国の結節点に位置する、極めて重要な戦略拠点であった 8 。もし末森城が陥落すれば、前田領は南北に分断され、その軍事力は半減してしまう 5 。成政はこの一点を突き、前田家の生命線を断ち切ろうと企図したのである。
天正12年9月9日、成政は総勢15,000と号する大軍を率いて宝達山を越え、末森城を完全に包囲した 5 。対する末森城の守備兵は、城代の奥村永福(助右衛門)らが率いるわずか500名に過ぎなかった 3 。30倍という圧倒的な兵力差は、誰の目にも絶望的に映った。
佐々軍の猛攻は凄まじく、城下で防戦にあたった前田方の将・土肥伊予はたちまち討ち死にし、城兵は二の丸まで後退を余儀なくされた 9 。城内では、落城の時が刻一刻と迫る中、奥村永福の妻・安(つね)が薙刀を手に取り、兵士たちを鼓舞し、負傷者の介抱や炊き出しに奔走したと伝わる 6 。城兵は、金沢城からの援軍が到着することを信じ、必死の抵抗を続けていた。この地獄のような戦場から、一縷の望みを託した急使が金沢城へと放たれたのである。
第二章:金沢城の激論 ― 義と命令の狭間で
9月11日の午後2時頃、末森城からの急使が約30kmの道のりを経て金沢城に到着した 3 。城内に伝わった悲報は、瞬く間に衝撃と混乱を巻き起こした。直ちに軍議が開かれたが、その議論は紛糾を極めた。なぜなら、当主である前田利家は、三重の苦悩に苛まれていたからである。
第一に、 軍事的劣勢 である。金沢城で即座に動員可能な兵力は、わずか2,500に過ぎなかった 3 。対する佐々軍は15,000。たとえ救援に向かったとしても、野戦となれば勝ち目は薄く、共倒れになる危険性が高かった。
第二に、 政治的束縛 である。利家は、主君である羽柴秀吉から「金沢城を一歩も出てはならぬ。城の守りに専念せよ」という厳命を受けていた 3 。これは、家康との本戦に集中する秀吉が、北陸戦線での戦力分散や各個撃破のリスクを避けるための、極めて合理的な戦略的判断であった。この命令を破ることは、主君への反逆と見なされかねない重大な政治的賭けを意味した。
第三に、 家臣への情誼 である。末森城で命を懸けて戦っている奥村永福は、利家が最も信頼を寄せる譜代の重臣の一人であった 12 。彼らを見殺しにすることは、多くの家臣の命を預かる当主としての信義を根底から揺るがし、前田家の結束を崩壊させかねない行為であった。
軍議では、これらの要因が複雑に絡み合った。秀吉の命令、圧倒的な兵力差、そして金沢城自体の防衛という現実的な問題を前に、家臣団の大勢は「援軍は出すべきではない」という意見に傾いていた 6 。合理的に考えれば、末森城という「部分」を犠牲にしてでも、金沢城という「全体」を守ることが最善の策であった。
利家の逡巡は、単なる優柔不断ではなかった。それは、戦国武将が常に直面する「主君への忠誠」という絶対的な義務と、「自身の領国と家臣を守る」というもう一つの絶対的な責務が、真正面から衝突した究極のジレンマであった。論理的に考えれば考えるほど、身動きが取れなくなる。利家は、この痛烈な板挟みの中で、苦悶の表情を浮かべることしかできなかった。この膠着した状況を打破するには、合理的な計算や論理を超えた、何か別の力が必要とされていたのである。
第三章:まつの叱咤 ― 記録された二つの「内助の功」
利家と家臣団が絶望的な論理の袋小路に迷い込んでいたその時、歴史を動かす介入者が現れる。妻のまつである。彼女が如何にして夫の心を動かしたのか、その詳細は史料によって異なる二つの形で伝えられている。
第一節:『川角太閤記』に描かれた一喝 ― 夫の心を射抜いた痛烈な皮肉
江戸時代初期に成立したとされる軍記物『川角太閤記』には、極めて劇的な場面が記録されている。軍議が停滞し、利家が苦悩の極みに達しているその場に、まつが静かに姿を現した。彼女の手には、利家が日頃から蓄財に励んでいた金銀の詰まった袋があったという 3 。まつは、その袋を夫の前に差し出す、あるいは投げつけるようにして、冷徹な口調でこう言い放った。
「日頃より、金銀にて兵を養うよう申しておりますのに、殿は蓄えることばかり。最早、兵を集めるには手遅れでございましょう。さすれば、この金銀に槍でも持たせて派兵されてはいかがでございましょうか」 3
この言葉は、利家の最も触れられたくない核心を突くものであった。利家は「槍の又左」と称された勇猛な武将であると同時に、前田家を支えるための堅実な経営者として、倹約家、悪く言えば「吝嗇(けち)」として知られていた 13 。彼の蓄財は、万一に備え家を守るための合理的な判断であったはずだ。しかし、まつの言葉は、その自負を「家臣を見殺しにするほどの守銭奴の行い」と断じ、痛烈に皮肉ったのである。
夫としての、そして一家の主としてのプライドを根底から踏みにじられた利家は、激怒した。『川角太閤記』は、その怒りが「思わず刀を抜こうとするほど」であったと記している 3 。まつは、夫の性格を完璧に把握していた。正論で説得しても動かないと見抜き、あえて彼を激怒させるという劇薬を用いたのである。この燃え上がるような怒りは、秀吉への恐怖や合理的な損得勘定を瞬時に吹き飛ばし、「男の意地」という一点に彼の全感情を集中させた。逡巡を断ち切るための、これ以上ない強力な起爆剤となったのである。
第二節:もう一つの逸話 ― 『武家事紀』にみる決死の覚悟
一方、江戸時代中期に成立した『武家事紀』などには、趣の異なるもう一つの伝承が残されている。こちらの逸話では、まつの言葉は皮肉ではなく、一族の運命を共にする決死の覚悟の表明であった 15 。
出陣を決意した、あるいは未だ迷う利家と重臣たちを前に、まつは厳粛な面持ちでこう宣言したという。
「もし、末森の城が陥落したとあらば、皆様、生きてお戻りなさいますな。私も、こちらに残る皆様のご家族と、この城に火を放ち、自害して果てる覚悟でございます」 15
この言葉は、利家個人の感情に訴えるものではない。それは、この戦いが前田家全体の存亡をかけたものであり、金沢城に残る者も戦場に出る者も、全員が運命共同体であることを突きつけるものであった。「生きて帰るな」という言葉は、家臣団全員に「退路はない」という事実を認識させ、個人的な恐怖や打算を超越した、一族としての悲壮な決意と結束を生み出す力を持っていた。これにより、戦いの意味は、一人の重臣を救うという個人的な情義から、前田家の存続そのものを賭けた聖戦へと昇華されたのである。
第三節:「鎧を着て」の謎 ― 英雄譚の形成と変容
ここで、冒頭に提示した「鎧を着て」というイメージについて考察する必要がある。上記で詳述した『川角太閤記』や『武家事紀』をはじめ、信頼性の高い近世の史料において、まつが物理的に「鎧を着た」という直接的な記述は見当たらない。
では、なぜこのイメージがこれほどまでに広く流布したのか。それは、まつの示した精神的な勇ましさや、夫と一族の運命を共にするという決死の覚悟を、より分かりやすく、より視覚的なシンボルとして表現するために、後世の物語作者たちによって付加された脚色である可能性が極めて高い。講談や浄瑠璃、そして現代におけるテレビドラマといった大衆文化の中で、彼女の「言葉の刃」や「覚悟の表明」が、いつしか「本物の武具」へと姿を変え、英雄譚として昇華されていったと考えられる 3 。
これら二つの主要な伝承は、異なるアプローチでありながら、共に利家の心を動かし、歴史を転換させたという点で共通している。以下の表は、二つの逸話の性質を比較したものである。
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典拠(史料) |
まつの行動・発言の要約 |
利家への心理的影響 |
逸話が象徴するもの |
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『川角太閤記』 |
金銀の袋を提示し、「金銀に槍を持たせては」と痛烈に皮肉る。 |
個人のプライド(倹約家としての自負)を刺激し、激怒させることで逡巡を断ち切らせる。 |
夫の性格を熟知した上での、計算された心理的介入。起爆剤としての役割。 |
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『武家事紀』など |
「城が落ちれば自害する」と宣言し、一族郎党の運命共同体としての覚悟を迫る。 |
「退路を断つ」ことで、戦いの意味を個人的な情義から一族の存亡へと昇華させ、悲壮な決意を促す。 |
藩主の妻としての公的な覚悟。運命共同体の結束。 |
第四章:払暁の奇襲 ― 槍の又左、奮起す
まつの言葉によって、全ての迷いを吹き飛ばされた利家は、即座に出陣を決断する。それは、主君・秀吉の命令に背くという、自らの政治生命を賭けた重大な決断であった。もはや彼の心に逡巡はなかった。
利家は手勢2,500を率いて金沢城を出立すると、夜陰に乗じて末森城へと続く約30kmの道のりを急いだ 3 。その行軍は、神速かつ巧妙を極めた。道中、高松村(現在のかほく市)の農民・桜井三郎左衛門と出会い、彼から佐々軍の布陣が手薄な海岸線の間道があることを聞き出す 5 。この事実は、利家が日頃から領民との信頼関係を築いていたことの証左でもある。利家はこの貴重な情報を容れ、佐々軍が警戒のために北川尻に配置していた神保氏張の部隊を巧みに避けながら、暗い海岸沿いの道を進軍した 5 。
9月12日の未明、前田軍は末森城に近い今浜に到着。夜が明け、東の空が白み始めるのと同時に、末森城を包囲する佐々軍の背後から一斉に奇襲をかけた 5 。全く予期していなかった背後からの攻撃に、佐々軍は大混乱に陥った。さらに、この奇襲を城内から確認した奥村永福の守備隊も、援軍の到来に士気を爆発させ、城門を開いて打って出た。
前後から挟撃される形となった佐々軍は、もはや組織的な抵抗もままならず、多数の死者を出して敗走を始めた 5 。総大将の佐々成政も、態勢の立て直しを諦め、越中へと撤退していった 11 。こうして、絶望的と見られた末森城の籠城戦は、利家の劇的な救援によって奇跡的な勝利に終わった。利家は同日の夕方には金沢城に凱旋し、城兵は歓喜に沸いた 12 。
この鮮やかな勝利は、まつの叱咤という「原因」がなければ決して生まれなかった「結果」である。もし彼女の介入がなければ、利家は逡巡の末に貴重な時間を浪費し、末森城は陥落していただろう。そうなれば、前田家は加賀と能登を分断され、その後の「加賀百万石」の歴史も大きく変わっていた可能性が高い。まつの言葉は、単なる夫婦間のやり取りではなく、前田家の運命を、ひいては北陸の勢力図を塗り替える歴史の転換点となったのである。
結論:賢妻の本質 ― 鎧にあらず、言葉こそが刃なり
本報告書で検証してきたように、「前田まつの叱咤激励」という逸話の核心は、彼女が物理的な武具である鎧を身に纏い、兵士を直接鼓舞したという点にあるのではない。その伝説は、彼女の功績を後世が分かりやすく象徴化したものに過ぎない。
この逸話の本質は、以下の三点に集約される。
第一に、 夫への深い理解 である。まつは、夫である利家の性格―「槍の又左」と謳われた武人としての誇り、家を守るための倹約家としての一面、そして家臣を見捨てられない情の深さ―を誰よりも深く理解していた。
第二に、 的確な状況判断 である。彼女は、利家が主君への忠誠と家臣への情誼という二つの絶対的な価値観の板挟みとなり、論理の迷宮で身動きが取れなくなっていることを見抜いた。そして、その膠着状態を打破するためには、合理的な説得ではなく、感情を揺さぶる一撃が必要であると正確に認識していた。
第三に、その状況下で最も効果的な 究極のコミュニケーション を実践したことである。彼女が用いたのは、鋼の鎧ではなく、夫の魂を直接揺さぶる「言葉の刃」であった。それは時に、プライドを切り裂く痛烈な皮肉(『川角太閤記』)であり、時に、退路を断ち切る一蓮托生の覚悟(『武家事紀』)であった。いずれにせよ、その言葉は利家の心を捉え、彼を絶望的な逡巡から解き放った。
まつの行動は、政治的制約や軍事的劣勢という現実の巨大な壁を打ち破るための、最も効果的で洗練された「心理的介入」であった。これこそが、後に加賀百万石の礎を築くことになる前田家の危機を救った「内助の功」の真髄である。伝説は彼女に勇壮な鎧をまとわせたが、彼女の真の力は、夫への深い愛情に裏打ちされた知性、そして共に死ぬことをも厭わない決然たる覚悟の中にこそ存在したのである。
引用文献
- 前田慶次の心を動かした、大河ドラマ『利家とまつ』の魅力 - PHPオンライン https://shuchi.php.co.jp/article/7745?p=1
- 前田利家の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/38366/
- 前田利家の妻がわざと夫を怒らせた理由とは?女性たちがカギを握った?末森城の戦い https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/88415/
- 利家とまつ〜加賀百万石物語〜 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A9%E5%AE%B6%E3%81%A8%E3%81%BE%E3%81%A4%E3%80%9C%E5%8A%A0%E8%B3%80%E7%99%BE%E4%B8%87%E7%9F%B3%E7%89%A9%E8%AA%9E%E3%80%9C
- 末森城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E6%A3%AE%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 百万石がはじまったまち?!前田利家と宝達志水町の接点を ... https://www.hodatsushimizu.jp/kanko/mottoslow/toshiiemaeda_02.html
- 16 「前田利家 VS 佐々成政」 - 日本史探究スペシャル ライバルたちの光芒~宿命の対決が歴史を動かした!~|BS-TBS https://bs.tbs.co.jp/rival/bknm/16.html
- 末森城の戦いは前田家の運命を決めた!前田利家 VS 佐々成政とその後 (2ページ目) - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/14388/?pg=2
- 末森城 : 佐々成政vs前田利家「末森合戦」舞台の城。 - 城めぐりチャンネル https://akiou.wordpress.com/2016/11/24/suemori/
- 北陸の歴史から現代の経営戦略を学ぶ https://www.hokukei.or.jp/contents/pdf_exl/specialtop2506.pdf
- プレイバック利家とまつ・(35)末森城の決戦 - それゆけ!! Kassy号 - ココログ http://kassy4503505075642.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/35-e239.html
- と加賀の山城 https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/kinsei/suemori.pdf
- 「おまつ(芳春院)」前田利家の正妻は加賀100万石を存続させた立役者だった! https://sengoku-his.com/115
- 戦国大河『利家とまつ』異聞 秀吉が「賤ケ岳」で敵対した前田利家を許した理由【麒麟がくる 満喫リポート】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/394537
- 前田まつが有名なのはなぜ?~前田利家の賢妻として残した功績 (2ページ目) - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/14390/?pg=2