最終更新日 2025-10-21

前田利家
 ~病床で「秀吉亡き後、秀頼を」~

前田利家は病床で秀吉の遺言「秀頼後見」を託され、家康の独走を牽制。死後、豊臣政権は崩壊し、前田家は存続のため家康に恭順。利家の遺言は忠義と家の存続の二重性。

前田利家の最期:病床に託された「秀頼後見」の遺言、その史実と深層

第一章:序論 - 均衡の瀬戸際に立つ巨星:秀吉死後の政治情勢

前田利家の最期をめぐる逸話、すなわち病床で豊臣秀頼の後事を家臣に託したとされる「忠臣譚」は、その言葉の背後に横たわる複雑な政治情勢と、利家自身が置かれた絶望的な立場を理解することなくして、その真意を汲み取ることはできない。本報告書は、慶長3年(1598年)8月の豊臣秀吉の死から、翌慶長4年(1599年)閏3月の利家の死に至るまでの期間に焦点を絞り、この逸話が持つ多層的な意味を、史料に基づき時系列で徹底的に分析するものである。

1.1. 秀吉の遺言と五大老体制の脆弱性

天下を統一した豊臣秀吉は、その死に際して、未だ6歳の嫡子・秀頼の将来を深く案じていた。彼は自身の死後、豊臣政権が瓦解することを防ぐため、徳川家康を筆頭とする五大老(徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家)と、石田三成ら五奉行による合議制という権力構造を遺した 1 。その目的は、有力大名間の権力均衡を保ち、秀頼が成人するまで政権を安定させることにあった 1

この体制において、秀吉が特に重責を託したのが、若き日よりの旧友である前田利家であった。秀吉は遺言の中で、最大の実力者である家康には伏見城にあって政務を執るよう命じる一方、利家に対しては秀頼の傅役(教育係)として大坂城に入り、幼君を直接補佐するよう明確に指示した 3 。秀吉は死の床で利家の手を固く握り、「秀頼をたのむぞよ」と繰り返し懇願したと伝えられている 4 。この役割分担は、家康の強大な権力を利家の存在によって牽制し、権力の集中を防ぐという秀吉の深謀遠慮の表れであった。しかし、この意図は裏目に出る。結果として、伏見城の家康と大坂城の利家・秀頼という二つの権力中枢が並立する状況を生み出し、政権内の対立構造をむしろ先鋭化させる要因となったのである。

1.2. 徳川家康の台頭と「重石」としての利家

秀吉が構築した合議制は、その死の直後から早くも機能不全に陥り始める。五大老筆頭の家康は、秀吉が固く禁じていた大名間の私的な婚姻を独断で推し進めるなど、豊臣の法度を公然と無視し、その影響力を急速に拡大させていった 5 。他の大老たちが家康の威勢を前に沈黙する中、この独走を食い止め得る唯一の存在が、利家であった。

利家は、五大老の次席という地位に加え、秀吉との長年にわたる個人的な絆からくる権威を有しており、家康と唯一対等に渡り合える人物と目されていた。彼は石田三成ら奉行衆と連携し、家康の法度違反を厳しく詰問する中心的役割を果たした 5 。この時、両陣営の間には一触即発の緊張が走り、利家は豊臣政権の崩壊を防ぐための、文字通りの「重石」として機能していた。

しかし、この均衡は極めて危ういものであった。秀吉が考案した五大老・五奉行による集団指導体制は、本来、制度として権力の暴走を抑制するはずであった。だが現実には、その機能は利家個人の「威光」と、家康に対する「個人的な抑止力」という、極めて属人的な要素に依存していた。当時の政治勢力は、水野伍貴氏らが指摘するように、家康を中心とする派閥、毛利輝元と石田三成らが結びついた派閥、そして利家自身の派閥という三極の鼎立構造にあったと分析されている 7 。この構造において、利家は単なる一勢力の長であるだけでなく、他の二つの勢力の衝突を防ぐバランサーの役割を担っていた。したがって、利家の健康状態が悪化することは、単に一個人の病状の問題に留まらず、豊臣政権というシステム全体の崩壊に直結する致命的な構造的リスクだったのである。利家の死は、単に「重石」が失われることを意味するのではなく、政権をかろうじて支えていた最後の支柱が失われることを意味していた。

第二章:終焉への道程 - 慶長四年、病床の利家

秀吉死後の激動の中、利家の肉体は着実に蝕まれていった。本章では、利家の病状が悪化していく過程と、死の直前に起きた二つの象徴的な逸話、「家康の見舞い」と「経帷子問答」を、史料に基づき時系列に沿って詳細に検証する。これらの出来事は、利家が最期に抱いた覚悟と苦悩を浮き彫りにする。


表1:前田利家の最期に至る主要関連年表(慶長3年8月~慶長4年5月)

年月日(旧暦)

出来事

典拠

慶長3年(1598年)8月18日

豊臣秀吉、伏見城にて死去。

4

慶長4年(1599年)正月

徳川家康、伊達政宗・福島正則・蜂須賀家政らと独断で婚姻政策を推進。

5

慶長4年(1599年)正月~2月

利家、三成らと連携し家康を詰問。両者対立し、大坂・伏見は緊迫状態に。

6

慶長4年(1599年)2月

利家と家康が互いの屋敷を訪問し、和解が成立。しかし利家の病状が悪化。

8

慶長4年(1599年)2月~閏3月初頭

家康、病状が悪化した利家を大坂の邸宅に見舞う。「布団の下の太刀」の逸話。

9

慶長4年(1599年)閏3月3日

前田利家、大坂の自邸にて死去(享年62)。

5

慶長4年(1599年)閏3月3日夜~4日

利家の死の直後、加藤清正ら七将が石田三成を襲撃。

11

慶長4年(1599年)4月以降

家康、利家の嫡男・利長に「家康暗殺計画」の嫌疑をかけ、加賀征伐を画策。

9

慶長4年(1599年)5月

利長の母・まつ(芳春院)が、前田家存続のため自ら人質となり江戸へ下向。

13


2.1. 死の影と政治的責務(慶長4年正月~2月)

秀吉の死後、豊臣政権の運営という重責は、利家の心身に重くのしかかった。度重なる問題解決のために老体に鞭打った結果、彼の持病は急速に悪化していった 15 。しかし、病を押してでも果たさねばならぬ責務があった。それが、徳川家康の独走を阻止することであった。

慶長4年正月、家康が豊臣家の法度を破り、諸大名との私的な婚姻を強行すると、利家はこれを看過しなかった。彼は他の大老・奉行と連携して家康を詰問。一時は、利家方の大坂と家康方の伏見とで、互いに兵を構えるほどの険悪な雰囲気に包まれた。最終的に、利家が家康の屋敷を訪れ、次いで家康が利家を見舞うという形で和解は成立したものの、この一連の心労が利家の寿命をさらに縮めたことは疑いようがなかった 8

2.2. 緊迫の対面:家康の見舞いと布団の下の太刀(慶長4年2月~閏3月初頭)

和解後、利家の病状は悪化の一途をたどる。その報を聞いた家康は、見舞いのために大坂にある利家の邸宅を訪れた。この時の緊迫した対面の様子は、後世の史料、特に『浅川聞書』や『古心堂叢書利家公夜話首書』などに、 dramatic な逸話として記録されている 9

利家は、家康との対面に際し、病床の布団の下に抜き身の太刀を忍ばせていたという 9 。家康は利家の枕元に座り、丁重に見舞いの言葉を述べた。利家は衰弱しながらもこれに応対し、両者の間に表向き穏やかな時間が流れた。しかし、その水面下では凄まじい覚悟が秘められていた。

家康が邸を辞去した後、利家は傍にいた嫡男・利長を呼び寄せ、布団の下から抜き身の刀を取り出して見せた。そして、次のように語ったと伝えられている。

「先ほど、わしがお前に『心得ているか』と尋ねたのは、もしお前が天下を背負って立つ覚悟のある返事をしたならば、この手で家康を刺し殺すつもりであった。だが、人の入れ知恵で大義が成就するものではない。わしは諦めて、お前のことを家康に頼んでおいた」 10。

さらに利家は、「天下はやがて家康の手に渡るであろう」と、未来を予見する言葉を続けたという 10。この逸話は、利家が単なる律儀者ではなく、天下の趨勢を冷静に見極め、必要とあらば天下人・家康を屠る覚悟をも持っていた、戦国武将としての凄みを示すものとして語り継がれている。

2.3. 生死観の吐露:妻まつの経帷子問答(慶長4年閏3月3日間際)

死期が目前に迫る中、利家の武人としての矜持と独自の死生観を示す、もう一つの象徴的な逸話が残されている。それは、妻のまつ(芳春院)との最期の問答である。

いよいよ病が重くなった利家を見て、まつは自ら一針一針縫い上げた経帷子(経文を記した死装束)を夫に着せようとした 16。後生の成仏を願うまつの心遣いであった。彼女は利家にこう語りかけたという。

「あなたは若い頃より数多の戦場に赴き、多くの人の命を奪ってこられました。後生が恐ろしいものです。どうか、この経帷子をお召しになってください」 9。

これに対し、利家は毅然として首を横に振った。そして、『亜相公御夜話』などの記録によれば、彼は次のように言い放ったとされる。

「わしはこれまで幾多の戦に出て敵を殺してきたが、理由なく人を殺したり、民を苦しめたりしたことは一度もない。故に、地獄に落ちるはずがない。もし万が一、地獄へ参ることになったならば、先に逝った者どもを率いて、閻魔や牛頭馬頭どもを相手にもうひと戦さしてくれるわ。その帷子は、後からお前が纏って参れ」 9。

この言葉は、自らの生涯の行いに一片の悔いもなく、死の恐怖すら乗り越えようとする、利家の豪胆な気性を見事に表している。

これら二つの逸話は、利家の人物像を鮮やかに描き出す一方で、その成立背景には注意が必要である。特に「布団の下の太刀」の物語は、後世、徳川の治世下で加賀藩がその立場を確立していく過程で、戦略的に形成・伝承された可能性が指摘できる。利家の死後、息子の利長は早々に家康に恭順し、母を人質に差し出すという苦渋の決断を下す。この行動は、豊臣家への裏切りと見なされかねないものであった。しかし、「父・利家自身が天下の趨勢を予見し、息子の将来を家康に託していた」という物語があれば、利長の行動は父の深遠な遺志を継いだ賢明な判断へと昇華される。この逸話の主要な典拠である『利家公夜話』が前田家の記録であることを踏まえれば、この物語が持つ政治的正当化の意図は明らかであり、史実の記録というよりも、家の歴史を後世の価値観に合わせて「編集」した結果である可能性を考慮すべきであろう。

第三章:核心の遺言 - 「秀頼様、御大事に」

利家の最期をめぐる逸話の核心は、彼が残したとされる遺言そのものにある。「秀頼を頼む」という一言に集約されるこの遺言は、しかし、史料を丹念に読み解くと、単一のメッセージではなく、複数の宛先に対して異なるニュアンスで発せられた、多層的な構造を持っていたことがわかる。本章では、主要な史料を比較検討し、その言葉に込められた忠義、政治的計算、そして親としての願いという複雑な真意に迫る。

3.1. 複数の史料にみる遺言の姿

利家の遺言は、特定の文書として残されているわけではなく、『加賀藩史料』や『亜相公御夜話』といった編纂物の中に、彼の最期の言行として記録されている。それらを比較すると、強調される側面に差異が見られ、利家が置かれた状況の複雑さを物語っている。


表2:主要史料における利家の遺言・言行録の比較

史料名

主な内容・特徴

宛先

ニュアンス

『加賀藩史料』

「秀頼公に反乱する者あらば、前田軍全軍で撃破せよ」という具体的かつ強硬な軍事行動を指示。徳川家康を明確に意識した内容。

嫡男・利長

豊臣家への忠義を貫徹せよという「公的」な命令。前田家の軍事的役割を強調。

『亜相公御夜話』

「家康の見舞い」や「経帷子問答」など、利家の人物像を伝える逸話が豊富。「御家騒動は先代の不始末が原因」と述べ、後事を整理。

嫡男・利長、家臣団

家の存続と内紛の防止を重視。現実的な統治者としての一面を強調。

『古心堂叢書利家公夜話首書』、『陳善録』

家康の見舞いの際に、「天下はやがて家康の手に渡る」と予見し、「肥前(利長)事頼み申し候」と息子を託したとされる。

徳川家康、嫡男・利長

天下の趨勢を冷静に分析し、現実的な選択として家康との協調を示唆する「私的」なメッセージ。

秀吉の遺言状

秀吉自身が五大老に対し「繰り返し繰り返し、秀頼のこと、おすがり申し上げます」と懇願。利家はこの遺志を継承する立場にあった。

五大老(利家含む)

秀吉との個人的な友誼と信頼に基づく、豊臣家への絶対的な忠誠の誓い。


この表が示すように、利家の遺言は、その側面によって大きく異なる顔を見せる。

第一に、 豊臣家への絶対的な忠誠 である。これは、秀吉が死の間際に利家の手を取って託した「秀頼を頼む」という言葉 4 に直接応えるものであり、利家の遺言全体の根幹をなす大義名分であった。

第二に、 嫡男・利長への具体的な指示 である。『加賀藩史料』によれば、利家はより踏み込んだ、軍事的な命令を利長に残している。「豊臣秀頼公に反乱する者があれば、前田軍の総力を挙げてこれを撃破せよ」という言葉は、その筆頭に家康を想定していたことは明らかである 19 。さらに、「(わが死後)三年間は加賀国へは戻らず、上方にあれ」という指示も残している 8 。これは、中央の政治情勢から目を離さず、豊臣政権の一翼を担い続けよという、極めて政治的な意図を持つ遺言であった。

第三に、 家臣団への訓戒 である。『両亜相公遺誡』などには、家臣の統制や心構えに関する利家の言葉がまとめられている 18 。これは、百万石の大名家の当主として、組織の安定と永続を願う統治者としての側面を示している。

3.2. 忠義と現実の間で:遺言に込められた真意

一見すると、これらの遺言は豊臣家への忠義という一点で貫かれているように見える。しかし、その内実を深く考察すると、利家が抱えていた深刻なジレンマが浮かび上がってくる。「秀頼公に反する者を討て」という遺言は、前田家を徳川家との全面対決へと導きかねない、極めて危険なものであった。利家自身、そのことを理解していなかったはずはない。

その一方で、「家康の見舞い」の逸話に見られるように、利長のことを家康に託した 10 という、正反対の記録も存在する。豊臣家への忠誠を命じながら、その最大の脅威であるはずの家康に息子の将来を託す。この相矛盾する言動こそが、利家の最期の苦悩を最も象徴している。

この矛盾を理解するためには、利家の遺言が「二重構造」になっていたと解釈するのが最も合理的であろう。

**【公的な遺言】**としての「秀頼様を護り、反乱者を討て」という言葉は、豊臣政権の重鎮として、また秀吉の無二の盟友としての立場上、公に表明せねばならない「建前」であり、前田家が立つべき大義名分であった。これは家臣団や他の豊臣恩顧の大名を結束させるための旗印でもあった。

一方で、**【私的な遺言】**としての「天下は家康に渡る。利長を頼む」という言葉は、加賀百万石の始祖として、何よりも家の存続を第一に考える現実主義者としての「本音」であった可能性が極めて高い。彼は、自らの死後、家康に対抗できる勢力が存在しないであろう冷徹な現実を見抜いていた。

利家は、息子・利長に対し、この二つの相克するメッセージを同時に残したのである。それは、父として息子に「理想(忠義)」と「現実(生き残り)」の両方を示し、来るべき動乱の時代において、状況に応じて最善の道を選び取れという、過酷な最終判断を委ねたに他ならない。それは、単純な忠臣の言葉ではなく、家の未来を案じる一人の父親の、血を吐くような願いが込められた、究極の遺言であった。

第四章:激震と崩壊 - 利家の死がもたらしたもの

慶長4年(1599年)閏3月3日、巨星墜つ。前田利家の死は、単なる一個人の逝去に留まらなかった。それは、かろうじて保たれていた豊臣政権内の脆弱なパワーバランスを根底から覆し、堰を切ったように政治的混乱を噴出させる号砲となった。利家が遺した「秀頼後見」の願いは、彼の死の直後から、冷徹な現実政治の奔流に飲み込まれていく。

4.1. 重石の喪失:石田三成襲撃事件の勃発(慶長4年閏3月4日)

利家の死が豊臣政権の崩壊の引き金であったことを、何よりも雄弁に物語るのが、その直後に発生した「石田三成襲撃事件」である。利家が息を引き取ったまさにその夜、あるいは翌日の閏3月4日、加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興ら、豊臣家中の武断派七将が、かねてより対立していた五奉行の一人、石田三成の大坂屋敷を襲撃するという事件が勃発した 11

三成は事前に情報を察知し、辛くも難を逃れて伏見城の自邸に退避するが、この事件の衝撃は大きかった。これまで、家康の台頭に危機感を抱く三成ら文治派と、朝鮮出兵の際の査定などを巡って三成に遺恨を持つ清正ら武断派との対立は、水面下で燻り続けていた。この対立が物理的な衝突に至るのをかろうじて抑え込んでいたのが、両派から一定の敬意を払われていた利家の存在であった 8 。利家という絶対的な「重石」が失われた瞬間、武断派の不満は暴力という形で一気に噴出したのである 7 。この事件は、豊臣政権がもはや内部対立を調停する能力を完全に喪失したことを天下に示し、家康が政局の主導権を握る絶好の機会を与える結果となった。

4.2. 前田家の危機とまつの決断(慶長4年4月~5月)

政権内の混乱を好機と見た家康は、次なる標的を、最大の潜在的敵対勢力である前田家に定めた。父の跡を継いで五大老の一人となったばかりの嫡男・利長に対し、家康は「家康暗殺計画」に加担したという、事実無根の嫌疑をかけたのである 13 。そして、これを口実に「加賀征伐」の軍を起こす構えを見せた 9 。これは、利家の死によって弱体化した前田家を完全に屈服させ、自らの覇権を確立するための、巧妙かつ冷徹な政治的策略であった。

父の遺言「反乱者を討て」に従えば、徳川との全面対決は避けられない。前田家内では主戦論も根強く、若き当主・利長も大いに苦悩した 14 。この絶体絶命の危機を救ったのは、武力でも交渉でもなく、一人の女性の覚悟であった。利家の妻であり、利長の母である、まつ(芳春院)である。

まつは、家中が戦か恭順かで揺れる中、利長を諭してこう言ったと伝えられる。「侍は、家を立てることが第一にござります。つまらぬ意地のために家を潰すようなことがあってはなりませぬ」 20 。そして、徳川への恭順の証として、自らが人質となって江戸へ下ることを申し出たのである。これは、単なる母の自己犠牲ではなかった。前田家が豊臣恩顧の大名という立場を清算し、新たな時代の実力者である徳川の体制下で生き残る道を選ぶという、極めて戦略的な政治決断であった。

まつの決断を受け、利長は徳川への臣従を表明。慶長4年5月、まつは江戸へと旅立った 13 。これにより、家康による加賀征伐は回避され、前田家は存亡の危機を脱した。しかし、この出来事は、利家が死の床で託した「秀頼公を護り、反乱者を討て」という公的な遺言が、彼の死後わずか2ヶ月で事実上、完全に放棄されたことを意味していた。

まつの江戸下向は、戦国時代から近世へと移行する時代の価値観の変化を象徴する出来事でもあった。個人の武勇や旧主への忠義といった戦国的な価値観よりも、「家」という組織の永続性を最優先する近世的な価値観への転換である。まつの決断は、利家の遺言の「本音」の部分、すなわち「家の存続」という至上命題を、最も困難な形で実現したものであった。それは、夫の遺志を裏切ったのではなく、その最も深い部分を継承し、実行したと評価することができるだろう。

第五章:結論 - 「忠臣」前田利家像の形成

本報告書は、前田利家の最期にまつわる「秀頼後見」の逸話を、秀吉死後の政治情勢と史料の多角的な分析を通じて検証してきた。その結果、一般に流布する「忠臣譚」という単純なイメージの裏に、忠義と家の存続という二つの相克する要求の間で苦悩した、一人の人間としての利家の複雑な実像が浮かび上がってくる。

5.1. 史実と物語の乖離

史実としての利家の最期は、豊臣家への忠誠を貫こうとする義理と、徳川家康の圧倒的な力を前に自家の安泰を図らねばならない現実との間で引き裂かれた、悲劇的なものであった。彼が息子・利長に残したとされる遺言は、このジレンマを反映し、「反乱者を討て」という公的な建前と、「天下は家康に渡る」という私的な本音の二重構造を持っていた可能性が極めて高い。それは、息子に過酷な選択を委ねる、苦渋に満ちたメッセージであった。

そして、利家の死後、歴史は冷徹に進んだ。彼の死をきっかけに豊臣政権の内部対立は決定的となり、跡を継いだ前田家は、豊臣家を守るどころか、いち早く徳川家に恭順することで家の存続を図った。母・まつを人質に差し出すという決断は、利家の「忠臣」としての公的な遺志が、現実政治の前では完遂されなかったことを明確に示している。

5.2. 「忠臣譚」の必要性

にもかかわらず、なぜ前田利家は後世、「秀吉との友誼に殉じようとした最後の忠臣」として記憶されることになったのか。その背景には、江戸時代を通じて日本最大の外様大名であり続けた加賀藩の、戦略的なイメージ構築があったと考えられる。

徳川の治世下において、前田家はその始祖が徳川家康と敵対しかけたという事実をそのままにしておくわけにはいかなかった。同時に、徳川に従属したという現実を、単なる屈服ではなく、より高次の判断であったと正当化する必要があった。そのために、始祖・利家は「豊臣家への忠義を貫き通そうとしたが、天下の趨勢を冷静に見抜き、息子の代での徳川との協調路線を予見していた深慮遠謀の人物」として描かれる必要があったのである。

本報告書で検証した「布団の下の太刀」や「経帷子問答」といった逸話は、まさにこの「忠臣・利家」像を補強するために、加賀藩によって強調され、語り継がれていった物語であったと言えよう 22 。それは、史実を完全に捏造したものではないにせよ、特定の側面を強調し、政治的な意味合いを付与することで形成された「作られた記憶」であった。

5.3. 総括:遺言の真の継承者

本報告を通じて明らかになったのは、前田利家の遺言が持つ二重性、すなわち、表向きの「豊臣家への忠義」と、その内面に秘められた「前田家存続への渇望」である。

そして、その遺言の真の核心、すなわち「いかなる手段を講じてでも、家を存続させよ」という、言葉にはされない非情なメッセージを正確に読み解き、実行したのは、若き当主として苦悩した息子の利長であり、そして何よりも、自らの身を犠牲にして家の未来を切り開いた妻・まつであった。彼らは、利家の公的な言葉ではなく、その沈黙の願いを継承したのである。

したがって、前田利家の最期をめぐるこの逸話は、単なる美しくも儚い「忠臣譚」としてではなく、戦国の終焉という時代の大きな転換点において、一個人が忠義と家の存続という究極の選択を迫られた、壮絶な人間ドラマの記録として理解されるべきである。それは、理想だけでは生き残れない時代の厳しさと、その中で最善の道を探し求めた人々の、苦悩と決断の物語なのである。

引用文献

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  2. [170]豊臣秀吉の遺言状 - 未形の空 https://sorahirune.blog.fc2.com/blog-entry-170.html
  3. すべては秀吉の死から始まった:天下分け目の「関ヶ原の戦い」を考察する(上) | nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b06915/
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  13. 乱世戦国で武功を立て続けた豪傑・前田利家の妻として「加賀百万石」の栄華を築いた前田利長の母として戦国を生き抜いた賢女【芳春院(まつ)】 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/45063
  14. 利家が死んだ後の前田家はどうなったのか? 我が嫡男・利長と、自慢の妻・まつが生き抜いた大戦(おおいくさ)について語ろう。 - さんたつ by 散歩の達人 https://san-tatsu.jp/articles/277735/
  15. 前田利家はなぜ家康を殺さなかったのか?――五大老五奉行の時代、そして利家の最期のとき https://san-tatsu.jp/articles/271250/
  16. 戦国時代きっての傾奇者?武将・前田利家の過激で豪快すぎる死に様 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/134190
  17. 律義者・前田利家、最期の逸話~地獄で閻魔とひと戦さ? | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4856
  18. 前田利家ってどんな人? 名言や逸話からその人物像に迫る | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/807
  19. 天下目前だった?前田利家の最期と遺言とは - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2127
  20. 利長の母まつ、江戸に下る - 古城万華鏡Ⅲ https://www.yamagen-jouzou.com/murocho/aji/kojyou3/kojyou3_2.html
  21. 利家とまつの生涯 http://v-rise.world.coocan.jp/rekisan/htdocs/infoseek090519/nhktaiga/tosiiematsu/tosiiematu.htm
  22. 前田利家編 - 武将の聖地 | 名古屋おもてなし武将隊 https://busho-tai.jp/pilgrimage/maedatoshiie/