最終更新日 2025-10-21

前田利常
 ~利家の教え守り自ら畑耕す~

前田利常が利家の教えを守り畑を耕した逸話。徳川幕府の猜疑を欺く「うつけ」の仮面と、藩の財政基盤を確立する農政改革「改作仕法」の裏に隠された為政者の深謀遠慮。

前田利常、鍬を握る ― 加賀百万石の存亡を賭けた一世一代の演劇

序章:逸話への誘い ― なぜ加賀百万石の殿様は鍬を取ったのか

加賀藩三代藩主、前田利常。彼の人物像を語る上で、しばしば引き合いに出される一つの逸話がある。「利家の教えを守り、家臣の前で自ら畑を耕した」という、いわゆる倹約譚である。この物語は、藩祖である父・前田利家の質実剛健な家風を受け継ぎ、藩主自らが範を示すことで家臣や領民に倹約と勤勉の重要性を説いた美談として、長らく語り継がれてきた。

しかし、この行動を単なる道徳的な教訓や父への敬意の発露としてのみ捉えることは、その本質を見誤ることに繋がる。徳川幕府という巨大な中央権力と常に対峙し、外様大名として最大の百万石という所領を維持し続けなければならなかった前田家。その三代目当主である利常の行動は、常に深遠な政治的計算の上に成り立っていた。彼が鍬を握りしめたその手には、単なる土の重みだけではなく、加賀百万石の未来、ひいては前田家の存亡そのものが掛かっていたのである。

本報告書は、この「畑を耕す」という一見素朴な逸話に焦点を絞り、その背景にある三重の構造―すなわち【父・利家から継承された実践的経営哲学】、【徳川幕府の猜疑心を欺くための高度な政治的パフォーマンス】、そして【藩の礎を築くための為政者としての農本思想の表明】―を、時系列に沿って徹底的に解き明かすものである。鍬を振り下ろす利常の姿の中に秘められた、彼の深謀遠慮、為政者としての哲学、そして加賀前田家が生き残りを賭けて演じ続けた壮大な政治劇の真髄に迫りたい。

第一章:原点 ― 父・利家が遺した「土の匂い」の教え

前田利常の行動原理を理解するためには、まずその原点である父・利家の教えを正しく認識する必要がある。藩祖・前田利家といえば、「槍の又左」の異名が示す通りの猛将として知られるが、その一方で、彼の治世の根幹には極めて現実的かつ実践的な経済観念が存在した。

利家の「そろばんを弾く」実利主義

利家は、当時としては珍しくそろばんを自ら弾き、金銭の出納を細かく管理するほどの倹約家であったと伝えられている 1 。その執着ぶりは時に「吝嗇家(りんしょくか)」、すなわち「けち」と評されるほどであった 2 。この性格が形成された背景には、若き日に主君・織田信長の勘気を被り、浪人として困窮した生活を経験したことが大きいとされる 1 。金銭の重要性を骨身に染みて理解していた利家にとって、倹約は単なる守銭奴的な行動ではなく、家と家臣団を維持するための生存戦略そのものであった。彼は、親交のある大名が困窮すれば迷わず金を貸すなど、人情の機微も解する人物であり、その倹約はあくまでも目的を見据えたものであった 1

教えの本質 ― 妻・まつの叱責が示すもの

利家が継承させようとした「教え」の本質は、ある有名な逸話によって鮮明に描き出される。天正12年(1584年)の末森城の戦いにおいて、佐々成政の大軍に城が包囲され、寡兵で籠城する味方が窮地に陥った際のことである。援軍を出すべき状況にもかかわらず、利家は兵力の不足を理由に出陣をためらい、蓄財に腐心していた。その様子を見かねた妻・まつ(芳春院)は、利家が貯め込んだ金銀の詰まった袋を彼の前に突き出し、痛烈な言葉を浴びせた。

「常々、家来を多くお抱えなさいませと忠告申し上げたのに、お聞き入れにならず、お金ばかり貯めていらっしゃったのですから、さあ、この金銀に槍でも持たせて戦わせてはいかがですか」 2

このまつの言葉は、単に夫の吝嗇をなじったものではない。それは、前田家の家訓の核心を突く、極めて重要な指摘であった。すなわち、①財産の目的は「家を守る(=軍備を整え、家臣を養う)」ことにあり、②その目的を見失った蓄財は全くの無価値である、という真理である。この叱責に奮起した利家は出陣し、見事勝利を収めた。

利常が父から受け継いだのは、「金を貯めろ」という単純な命令ではなかった。それは、「財の真の価値を見極め、家の存続という究極の目的のために、いかに資源を配分すべきか」という、より高度な経営哲学であった。無益な奢侈を戒め、藩の礎となるもの、すなわち農業生産力や人材にこそ価値を見出すという、極めて実践的な思想。後世に創作されたともいわれる徳川家康の「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」といった抽象的な遺訓とは一線を画す 6 、前田家特有の「土の匂い」がする家訓こそが、利常の行動の根源にあったのである。

第二章:舞台 ― 徳川の視線と「うつけ」の仮面

利常がなぜ、あえて「畑を耕す」という奇異なパフォーマンスを必要としたのか。その答えは、当時の加賀藩が置かれていた、息詰まるような政治的緊張関係の中にある。外様最大の大名である前田家は、徳川幕府にとって常に潜在的な脅威であり、その視線は絶えず加賀に向けられていた。

二度の存亡の危機 ― 「慶長」と「寛永」

前田家は、徳川の世になってから二度にわたり、存亡の危機に瀕している。一度目は、利家が没した直後の慶長4年(1599年)から翌年にかけての「慶長の危機」である。家康は、二代藩主・利長に謀反の嫌疑をかけ、加賀征伐の軍を起こそうとした。この時は、利長の母・まつが人質として江戸に下ることで、かろうじて戦を回避した 9

そして二度目が、利常の代に起きた寛永8年(1631年)の「寛永の危機」である。幕府に無断で金沢城を修築したことや、大坂の陣での論功行賞を独自に行ったことなどを理由に、再び謀反の疑いをかけられた 9 。利常と嫡男の光高が弁明のために江戸へ赴いても、三代将軍・家光は面会すら許さなかったという 10 。重臣の尽力によりこの危機も乗り越えたが、これらの経験は利常に拭い難い教訓を刻み込んだ。すなわち、「加賀百万石の当主は、賢君であってはならない」という、強迫観念にも似た処世術である。

計算され尽くした奇行の数々

この「寛永の危機」を境に、利常の言動は常軌を逸したものになっていく。それはすべて、幕府の警戒心を解き、「前田利常は、百万石を預かるには不適格な、ただの奇矯な暗君である」と幕閣に誤認させるための、計算され尽くした演技であった。

  • 鼻毛の逸話: 彼は故意に鼻毛を伸ばし続け、見るに見かねた家臣が手鏡を差し出すと、「これは加州(加賀)・能州(能登)・越中の三国を守り、お前たちを安泰に暮させるための鼻毛じゃ。わしが愚かに見えれば、それで幕府の目も緩むというものよ」と、その真意を打ち明けたと伝えられる 11
  • 江戸城での奇行: 江戸城内では、その奇行に拍車がかかった。「小便禁止。違反者には黄金一枚の罰金」との立て札を見るや、あえてその前で放尿し、「大名が黄金惜しさに小便を我慢できるか」と言い放って罰金を支払った 13 。また、病気でしばらく登城を休んだことを老中に皮肉られると、「疝気(せんき)でここが痛くてかなわぬ故」と述べ、満座の中で自らの陰嚢を晒して見せたという 9

これらの常識外れの行動は、すべて「江戸(幕府)」という外部の観客に向けられたものであった。しかし、ここに利常の戦略の真の巧妙さがある。彼は、二つの異なる舞台で、全く逆のメッセージを発信する二人の役柄を完璧に演じ分けていたのである。

対外的には、幕府に対して「暗君・うつけ」を演じ、油断を誘う。一方で、対内的には、加賀の家臣や領民に対して「賢君・農本主義者」としての姿を見せ、藩の結束と統治理念の共有を図る。これから詳述する「畑を耕す」逸話は、まさにこの後者、すなわち内部の観客に向けられた、極めて重要な政治的パフォーマンスだったのである。

第三章:本伝 ― ある日の小松城、利常、畑に立つ(逸話の再現と時系列解説)

この逸話が持つ劇的な効果を理解するためには、その情景をリアルタイムで再構築することが不可欠である。物語の舞台は、寛永16年(1639年)、利常が家督を長男の光高に譲り、小松城に隠居した後のことである 16 。表向きは政務の一線から退いた「ご隠居様」という立場が、彼の行動の意図をより深く、そして象徴的なものとして浮かび上がらせる。

静かな午後、突然の行動

その日の小松城は、穏やかな日差しに包まれていた。利常は城の一角にある縁側から、静かに畑を眺めている。近習たちは、隠居後の主君が手持ち無沙汰にしているのだろうと、ささやき合っていた。しばらくすると、利常はおもむろに立ち上がり、近習にこう命じた。

「百姓の着るような、古びた着物と鍬を一本、ここへ持ってまいれ」

近習たちは主君の意図が全く分からず、顔を見合わせ困惑した。しかし、命令は絶対である。彼らが恐る恐る粗末な野良着と鍬を差し出すと、利常は身にまとっていた豪華な着物をあっさりと脱ぎ捨て、その野良着に身を包んだ。その姿は、もはや加賀百万石の太守ではなく、長年土と共に生きてきた一介の老農夫そのものであった。

畑へ、そして家臣たちの諫言

驚きに声も出ない家臣たちを尻目に、利常は鍬を肩にかつぐと、慣れた足取りで畑へと向かった。その異様な光景の噂はたちまち城内に広まり、慌てた重臣たちが彼の後を追って駆けつけてきた。畑に到着した利常が、乾いた土に鍬を振り下ろそうとしたその時、一人の老臣が進み出た。

「殿! そのようなことは、我々にお命じくださいませ。太守様が自ら土に触れられるなど、あってはならぬことでございます!」

必死の形相で諫言する老臣に、他の家臣たちも次々に同調し、その場は大きなざわめきに包まれた。利常の行動は、彼らの常識や身分秩序を根底から揺るがすものであった。

鍬の重み、土の匂い

しかし、利常は家臣たちの制止を全く意に介さず、乾いた土に力強く鍬を打ち込んだ。ザクリ、という音と共に土が掘り起こされる。彼はしばらくの間、一心不乱に土を耕し続けた。やがて、額に浮かんだ汗を手でぬぐうと、息を切らしながらも、静かに、しかし城内に響き渡るような威厳を込めて語り始めた。

「皆、よう聞け。わしがなぜこのようなことをするか、不思議に思うておるであろう。これはな、亡き父上(利家)が常々申しておられたことの実践じゃ。父上は『家を守るとは、家臣と領民を守ることである』と申された 18 。その領民を養うのが、この土であり、この土から生まれる一粒の米である。加賀百万石の威光も、華美な城も、お前たちの俸禄も、すべてはこの土くれから生まれておることを、決して忘れてはならぬ」

利常は、固唾をのんで見守る家臣たちを見渡し、言葉を続けた。

「江戸では、わしのことを『うつけ者』『たわけ者』と笑うておるそうじゃ。それでよい。幕府の目には、そう映っておればよい。だがな、お前たちまで、この加賀の礎が何であるかを見失うてはならぬ。この鍬の重み、この土の匂いこそが、前田家そのものじゃ。このことを、肝に銘じよ」

家臣たちは、誰一人として言葉を発することができなかった。彼らは、目の前で繰り広げられた光景が、単なる隠居老人の気まぐれや奇行ではなく、藩の根幹を揺るがすなという、主君からの厳粛な教えそのものであることを、深く悟ったのである。

第四章:真意 ― パフォーマンスの裏にある為政者の顔

小松城での一幕は、単なる精神論の表明に留まるものではなかった。それは、利常がその後の治世で断行することになる、具体的かつ壮大な政策と密接に結びついた、計算されたパフォーマンスであった。彼の視線は、目の前の畑の先にある、加賀藩全体の未来を見据えていた。

農政大改革「改作仕法」

利常は隠居後、幼くして家督を継いだ孫・綱紀の後見人として、藩政の実権を再び握る。そして、慶安4年(1651年)から、加賀藩の歴史上最大級の農政改革である「改作仕法(かいさくしほう)」を開始した 17 。この改革は、疲弊した農村を救済し、藩の財政基盤を盤石にすることを目的とした、極めて体系的なものであった。

その内容は多岐にわたる。貧農を救うための借金の帳消しや、農具・種籾を購入するための資金(改作入用銀)の貸し付け 19 。家臣が自らの知行地から直接年貢を徴収する地方知行制を廃止し、藩が一元的に税を管理する俸禄制へと移行させることで、農民の二重課税の苦しみをなくした 20 。さらに、十村制度を整備して村落支配を強化し、年貢率を固定化する定免制を導入することで、農民の生産意欲向上と藩の安定した税収確保を両立させたのである 19

現場主義者・利常の姿

特筆すべきは、利常がこの大改革を城中からの命令だけで済ませなかった点である。彼は「鷹狩り」と称して頻繁に領内を自ら巡察し、改革が適切に運用されているか、効率的な作付けが行われているか、遊休地はないかなどをその目で直接確かめ、現場の役人や十村たちに細かく指示を与えていた 19

この「自ら領内を検分する」という史実と、「自ら畑を耕す」という逸話は、まさしく表裏一体の関係にある。逸話は、彼の農政にかける理念を象徴的に示す「宣言」であり、領内検分はその理念を実践に移す「行動」であった。この二つを重ね合わせることで、利常の行動が一貫した哲学に基づいていたことが明らかになる。「畑を耕す」というパフォーマンスは、これから藩の仕組みを根底から覆す大改革「改作仕法」の断行に先立ち、その精神を家臣団に視覚的かつ強烈に刷り込むための、壮大な序幕(プレリュード)だったのである。それは、利常の固い決意表明であると同時に、家臣たちへの意識改革を促すための、何よりも雄弁な「実物教育」であったと言えよう。

前田利常の二面性戦略

利常の治世は、この二面性の巧みな使い分けによって成り立っていた。その戦略は、以下の表のように整理することができる。

項目

対外的戦略(幕府向け)

対内的戦略(藩内向け)

演じられた役

暗君・うつけ(愚者)

賢君・農本主義者

象徴的行動

鼻毛を伸ばす、殿中で奇行に及ぶ

自ら畑を耕す

目的

幕府の警戒心を解き、加賀藩の安泰を図る

藩の理念を共有し、財政基盤を確立する

具体的な政策

(なし。あくまで演技)

農政大改革「改作仕法」の断行

キーワード

韜晦(とうかい)、擬態

経国済民、農本思想

この表が示すように、「畑を耕す」という行為は、利常が周到に構築した統治戦略の、対内部門における象徴的な行動として明確に位置づけられる。彼は二つの仮面を完璧に使い分けることで、外からの脅威を回避し、内からの繁栄を築き上げるという、極めて困難な課題を成し遂げたのである。

終章:逸話の完成 ― 虚実の間に宿る前田家の魂

最後に、この「畑を耕す」逸話そのものの史実性について考察し、本報告の結びとしたい。利常の言行録として知られる『微妙公御夜話』をはじめとする同時代の一次史料を精査しても、彼が自ら畑を耕したという直接的かつ明確な記述を見出すことは困難である 13

このことから、この逸話は利常の死後、彼が成し遂げた偉大な功績、とりわけ「改作仕法」による藩政の安定という事実を背景に、その人物像を象徴する物語として形成され、後世に語り継がれていった可能性が高いと考えられる。物語は、時として史実そのものよりも雄弁に、人物の本質を伝える力を持つ。

重要なのは、たとえ逸話そのものが後世の創作や脚色であったとしても、その物語が描き出す利常像は、史実としての彼の姿と何ら矛盾するものではないという点である。むしろ、彼の為政者としての本質―幕府を欺く深謀遠慮、藩の礎である民政への情熱、そして父祖から受け継いだ実践的な哲学―を、見事に一つの情景の中に凝縮し、後世に伝えている。

結論として、前田利常が自ら畑を耕したという逸話は、単なる倹約譚や美談ではない。それは、父・利家から受け継いだ実利的な家訓を胸に、徳川幕府の猜疑の目を欺く「うつけ」の仮面を被りながら、藩の百年を見据えた大改革を断行した名君の姿を映し出す、多面的な輝きを放つ鏡である。鍬を握り、土と向き合うその姿は、それが事実であったか創作であったかという虚実の境を超えて、加賀百万石の礎を築いた前田家の魂そのものを、現代の我々に力強く語りかけてくるのである。

引用文献

  1. 前田利家(前田利家と城一覧)/ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/16991_tour_072/
  2. 前田利家と愛刀/ホームメイト - 名古屋刀剣博物館 https://www.meihaku.jp/sengoku-sword/favoriteswords-maedatoshiie/
  3. 前田利家「家臣にお年玉をねだる」超ドケチ事情 挙げ句の果てには「農民に行政を丸投げ」 https://toyokeizai.net/articles/-/505350
  4. 【クイズ】 前田利家が行った、驚きの節約法とは? - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/quiz/202
  5. 経済感覚に優れた前田利家...人件費を惜しみ「農民42名を代官に任命」した計算高さ https://rekishikaido.php.co.jp/detail/11525
  6. 我慢すること - 社労士オフィスろーど https://office-road.jp/blog/owner/2251/
  7. 東照宮御遺訓 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E7%85%A7%E5%AE%AE%E5%BE%A1%E9%81%BA%E8%A8%93
  8. 徳川家康の遺訓 http://www.edu-konan.jp/ishibe-jh/ikiruhint/tokugawa.html
  9. 徳川家を鼻毛で翻弄? 前田利常のかぶき者伝説/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/17934/
  10. [四]幕府との確執、加賀藩の生き残り戦略 https://kagahan.jp/point4
  11. 前田利常~鼻毛を伸ばして愚鈍を装った加賀の名君 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4428
  12. 鼻毛を出し生活、ヘビを使った処刑…加賀藩主・前田利常の奇想天外すぎるエピソード4選 https://mag.japaaan.com/archives/239763
  13. 前田利常 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E5%B8%B8
  14. 奇行は計略か?前田利常 鼻毛伝説に秘められた徳川幕府への策 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=5O5Bw6X4Gt0
  15. 【Podcast版】 あんまり役に立たない日本史 #019「前田利常」 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=LMJhsZZnX68
  16. 加賀藩第三代 前田利常公の墓 https://gururinkansai.com/maedatoshitsunenohaka.html
  17. 大名 - 7.微妙公御夜話 - 国立公文書館 https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/daimyou/contents/07.html
  18. 前田利長(まえだ としなが) 拙者の履歴書 Vol.83~加賀百万石、父の志を継ぎて - note https://note.com/digitaljokers/n/nbc72b16f6949
  19. 改作法 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%B9%E4%BD%9C%E6%B3%95
  20. 年未詳8月1日付前田利常書状(伊藤内膳・長屋七郎右衛門宛) - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/611443
  21. 小松城の利常と十村たち https://www.city.komatsu.lg.jp/material/files/group/39/198.pdf
  22. 改作法(カイサクホウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%94%B9%E4%BD%9C%E6%B3%95-42420
  23. 微妙公御夜話 - Wikisource https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%BE%AE%E5%A6%99%E5%85%AC%E5%BE%A1%E5%A4%9C%E8%A9%B1