最終更新日 2025-10-25

前田慶次
 ~舞を披露、矢玉の中を歩く傾奇~

前田慶次の「敵前での舞と矢玉の中の闊歩」逸話は、長谷堂城の奮戦と聚楽第の猿舞が融合した創作。傾奇者としての彼の本質と伝説の形成過程を探る。

前田慶次『敵前での舞と矢玉の中の闊歩』傾奇譚の真相 ― 史実と伝説の境界を探る

序章:傾奇譚の核心へ ― 伝説の輪郭と探求の始点

戦国時代の終焉を彩る数多の武将の中でも、前田慶次(本名:利益)ほど、その生き様が伝説として語り継がれる人物は稀有である 1 。彼の名を最も象徴する逸話の一つが、本報告書で探求する『敵将の前で舞を披露し、矢玉の中を悠然と歩いた』という、鮮烈なイメージを喚起する傾奇譚である。この物語は、絶体絶命の戦場にあって死を恐れず、むしろそれを自己表現の舞台とするかのような、常軌を逸した豪胆さを示している。それはまさに、彼が「天下御免の傾奇者」として広く認知されるに至ったパブリックイメージの核をなすものと言えよう 2

しかし、この劇的な逸話は、文字通りの史実として受け止めてよいものだろうか。あるいは、慶次という非凡な人物像を後世に伝えるため、様々な事実や逸話が融合し、再構成されて生まれた物語なのであろうか。慶次には、風呂場で脇差に見せかけた竹光で垢をこする、叔父である前田利家を水風呂に入れてからかう、聚楽第の宴席で猿の面をつけて大名たちの膝に乗るなど、真偽はともかく数多くの奇行譚が伝えられている 1 。これらの逸話群が、特定の戦闘における彼の武勇伝に影響を与え、変容させた可能性は十分に考えられる。

本報告書は、この伝説の表層をなぞるのではなく、史実の核と創作の衣を丹念に剥がしていくことを目的とする。逸話の舞台となったとされる「長谷堂城の戦い」の歴史的背景を詳述し、現存する記録から慶次の実際の行動を検証する。さらに、逸話の重要な構成要素である「舞」の源流を別の逸話に求め、二つの異なる物語がなぜ一つの壮大な傾奇譚として結晶化したのか、その成立過程を解明する。この探求は、単なる逸話の真偽判定に留まらず、前田慶次という人物の本質、そして彼をめぐる伝説がどのように形成され、受容されてきたのかという、歴史と文化の交差点に光を当てる試みである。

第一章:歴史的背景 ―「北の関ヶ原」長谷堂城の戦い

前田慶次の伝説的な武勇伝が生まれたとされるのは、慶長5年(1600年)に起こった慶長出羽合戦、通称「長谷堂城の戦い」である。この戦いは、天下分け目と謳われた関ヶ原の戦いと連動して発生した、いわば「北の関ヶ原」とも呼ぶべき重要な軍事衝突であった。慶次の行動の真価を理解するためには、彼が置かれていたこの絶望的とも言える戦況をまず把握せねばならない。

第一節:天下分け目の情勢と上杉家の決断

豊臣秀吉の死後、その政治的空白を埋める形で急速に台頭したのが徳川家康であった。これに対し、豊臣政権の奉行であった石田三成は家康への対抗心を露わにし、両者の対立は日本の諸大名を二分する激しい政治闘争へと発展していく 6 。このとき、会津120万石を領する大大名であった上杉景勝と、その家宰・直江兼続は、三成との盟友関係を重んじ、「義」を掲げて反家康の旗幟を鮮明にした。

上杉家のこの決断を決定的なものとしたのが、家康の上洛要求に対して兼続が送ったとされる痛烈な返書、いわゆる「直江状」である。この書状は家康を激しく挑発し、結果として家康自らが総大将となる会津征伐軍の派遣を引き起こした 6 。これは、上杉家がもはや退路を断ち、徳川との全面対決をもって自家の存亡を賭けるという、極めて重大な覚悟の表明であった。慶長5年(1600年)、前田慶次が上杉家に客将として仕官したのは、まさにこの緊張が最高潮に達していた時期であり、彼は自らの意志で、この巨大な戦乱の渦中へと身を投じたのである 7

この一連の政治的・軍事的決断の連鎖は、後の撤退戦における絶望的な状況を必然的にもたらすものであった。上杉家は、徳川本隊という日本最強の軍団と直接対峙する道を選んだ。それは、組織として存亡の危機に瀕した極限状況であり、慶次の行動は、単なる個人的な武勇伝ではなく、この巨大な歴史のうねりの中で発揮されたものであったことを理解することが、本逸話を考察する上での第一歩となる。

第二節:出羽の戦線 ― 長谷堂城攻防

慶長5年7月、家康率いる会津征伐軍が出陣するも、その道中で石田三成らが畿内で挙兵したとの報が届く。家康は軍議の末、軍を西に転じさせ、関ヶ原へと向かうことを決断した。これにより、上杉家は徳川本隊との直接対決を免れたが、同時に新たな軍事目標が浮上した。それは、背後の脅威であり、徳川方に与していた出羽山形城主・最上義光の攻略であった 6

直江兼続は、約2万と号する大軍を率いて最上領内へと侵攻を開始した。対する最上軍の兵力は1万に満たず、その主力が守る山形城の支城群は、上杉軍の猛攻の前に次々と陥落していった 8 。しかし、山形城の南西約6キロに位置する長谷堂城において、上杉軍の進撃は停滞を余儀なくされる。城主・志村光安らが率いる約1,000の寡兵は、10倍以上の兵力差にもかかわらず驚異的な粘りを見せ、上杉軍の度重なる総攻撃をことごとく撃退したのである 8

この長谷堂城での予期せぬ膠着状態は、上杉軍の戦略に深刻な綻びを生じさせた。当初の目的であった最上領の迅速な制圧という目論見が外れたことで、上杉軍は敵地の奥深くで貴重な時間を浪費することになる。そして、まさにその間に、日本の運命を決定づける中央の情勢は、彼らにとって最悪の方向へと急変していた。この時間的遅延が、後に彼らを敵地での孤立という危機的状況へと追い込む直接的な原因となったのである。

第三節:暗転 ― 西軍敗北の報と軍議

長谷堂城を包囲し、攻めあぐねていた上杉軍本陣に、衝撃的な報せがもたらされたのは9月29日のことであった。それは、9月15日に行われた関ヶ原の本戦において、盟友である石田三成率いる西軍が、わずか一日で壊滅的な敗北を喫したという内容であった 10 。この報は、上杉軍が拠って立つ大義名分と戦略的前提を根底から覆すものであった。彼らは今や、勝利者となった徳川方の大軍に包囲される危険に晒された、敵地における孤立した存在となったのである。

この絶望的な報に、総大将である直江兼続は激しく動揺し、自害して責を負おうとしたと伝えられている 11 。軍の最高指揮官が冷静さを失えば、組織は統制を失い、全軍崩壊の危機に瀕する。まさにその時、兼続を諫め、思いとどまらせたのが前田慶次であったという逸話が残されている 11 。慶次は兼続を一喝し、生きて米沢へ帰り、上杉家の家名を保つことこそが真の戦いであると説き、撤退を決意させたとされる 11

この逸話が史実であるか否かは別にしても、それは慶次が単なる一介の武将ではなく、上杉軍の最高指揮官の精神的支柱としても機能し得る、卓越した胆力と状況判断能力の持ち主であったことを示唆している。彼の「傾奇者」として培われた、常識にとらわれない強靭な精神は、組織が崩壊しかねないこのような極限状況においてこそ、その真価を発揮したと言えるだろう。慶次の進言により、上杉軍は全軍の生還を目指す、戦国史上でも屈指の困難な撤退戦へと臨むことになったのである。

第二章:殿軍の死闘 ― 矢玉の中の獅子奮迅

ユーザーが提示した逸話の核心部分、『矢玉の中を悠然と歩いた』という描写は、この絶望的な撤退戦において慶次が見せた活躍にその源流を持つ。この章では、その行動の史実的根拠を探り、伝説が生まれるに至った戦場の実相に迫る。

第一節:「殿(しんがり)」という死地

戦国時代の合戦において、「殿(しんがり)」は最も過酷で名誉ある任務の一つとされた。それは、撤退する本隊を無事に逃がすため、軍の最後尾にあって追撃してくる敵軍を食い止める役割を担う部隊である 12 。敵の最も激しい攻撃に直接晒されるため、殿軍は甚大な損害を被ることが常であり、生還すら困難とされる、文字通りの死地であった。

上杉軍が撤退を開始するにあたり、この最も危険な任務に自ら名乗りを上げたのが前田慶次であったと伝えられている。一説には、彼は「負け戦は俺の好物」と豪語し、この絶望的な役回りを引き受けたとされる 13 。この言葉は、単なる蛮勇や武功への渇望から発せられたものではない。それは、自らを客将として厚遇してくれた上杉家と、盟友である直江兼続への「義」を果たすための、彼なりの最大の誠意の表明であった。彼の生き様そのものが、最も困難な状況でこそ輝くという「傾奇者」としての美学の実践であり、殿という死地こそが、彼の魂が最も輝く舞台であったと言えよう。

第二節:戦場のリアルタイム再現 ― 慶次の武勇

関ヶ原での勝利の報に勢いづいた最上義光軍は、かねてからの宿敵である上杉軍を殲滅せんと、猛烈な追撃を開始した。さらに、最上からの援軍要請に応じた伊達政宗の軍勢もこれに加わり、上杉軍の退路はまさに死線と化した 10

この熾烈な追撃戦の最中、殿軍を率いる前田慶次の武勇は、敵味方の双方を震撼させた。彼は三間柄(約5.4メートル)と伝えられる朱柄の大槍を自在に振るい、わずかな手勢を率いては怒涛のごとく押し寄せる追撃軍に何度も突撃を敢行した 6 。その戦術は、敵の勢いを挫き、大軍の足を止めては退くという、見事な遅滞戦術であった 14

軍記物に残るその姿は壮絶を極める。ある記録によれば、戦闘を終えた慶次の鎧には七、八本もの矢が突き刺さって折れており、愛用の大槍は敵兵の血脂でぬめり、刃はこぼれ、歪んでいた。そして、彼自身も愛馬の松風も、返り血と自らの血で真っ赤に染まっていたという 14 。この戦いの激しさは、敵将である最上義光の兜に銃弾が命中し、兜の一部である篠垂(しのだれ)が吹き飛ばされたという記録からも裏付けられる 10 。慶次が戦ったのは、まさに文字通りの「矢玉の中」であったのだ。

この状況を鑑みれば、『悠然と歩いた』という表現は、文字通りの物理的な歩行を指すものではないと考えるのが妥当である。それは、死の恐怖が渦巻く戦場の中心にあって、微塵も動じることなく、むしろその状況を楽しんでいるかのように振る舞う慶次の超人的な精神状態と、戦場全体を支配するかのごとき圧倒的な武勇を、後世の人々が比喩的に表現したものであろう。常人には理解しがたい彼の「傾いた」戦いぶりそのものが、畏敬の念を込めて「悠然と闊歩する」という詩的なイメージへと昇華され、伝説として語り継がれるに至ったと推察される。

第三章:「舞」の逸話の源流を探る ― 事実と創作の境界線

逸話のもう一つの重要な要素である『敵将の前で舞を披露し』という部分に焦点を当てる。長谷堂城の戦いにおける慶次の奮戦は史実として確認できるが、「舞」という行為はどこから来たのか。この章では、その出所を特定し、なぜ戦闘の逸話と結びついたのかを分析する。

第一節:長谷堂城の記録の検証

長谷堂城の戦いに関する同時代の記録や、それに準ずる『最上義光記』などの軍記物を精査しても、この撤退戦の文脈において前田慶次が「舞った」という記述は一切見当たらない 15 。彼の行動は、あくまで槍働きによる「奮戦」や「獅子奮迅の活躍」として記録されており、戦場で舞うというような遊芸的な行為が差し挟まれる余地はない 6

史料に「舞」の記述が存在しないという事実は、この逸話が単一の歴史的出来事を忠実に記録したものではないことを決定づける。これは、異なる二つ以上のエピソードが、後世において一つの物語として融合した可能性を強く示唆するものである。したがって、我々は「舞」の源流を、長谷堂城の戦場とは全く別の場面に求めなければならない。

第二節:もう一つの「舞」― 聚楽第の猿舞

前田慶次の「舞」に関する逸話として、古くから知られているのが「猿舞」のエピソードである。これは江戸時代中期の逸話集『常山紀談』などに見られるもので、長谷堂城の戦いとは全く異なる状況下での出来事として語られている 1

その舞台は、豊臣秀吉が主催した宴席、おそらくは聚楽第のような壮麗な場所であったとされる。そこには徳川家康をはじめとする全国の錚々たる大名たちが顔を揃えていた 13 。宴もたけなわとなった頃、どこからともなく一人の男が下座から現れる。猿のお面をつけ、手ぬぐいで頬被りをした滑稽な姿で、扇を片手に面白おかしく舞い始めた。その男こそ、前田慶次であった 3

慶次の舞は次第にエスカレートし、彼はあろうことか、列席する大名たちの膝の上に次々と腰かけていくという、前代未聞の無礼を働き始めた。ともすればその場で斬り捨てられてもおかしくない不敬な行為であるが、宴の余興という雰囲気の中、誰も彼を咎める者はいなかった 3 。しかし、この逸話には重要なクライマックスがある。慶次は諸大名の膝を渡り歩きながら、自らが主君と仰ぐ上杉景勝の前だけは、敬意を払ってその前を避け、次の大名の膝へと移ったというのである 17

この「猿舞」の逸話は、前田慶次の「傾奇者」としての本質を鮮やかに描き出している。それは、天下人である秀吉や諸大名の権威すらもからかいの対象とする大胆不敵な反骨心と、自らが心から認め、敬服する人物に対しては礼を尽くすという、確固たる価値基準の二面性である。彼の「傾き」が、単なる無軌道な反抗や奇行ではなく、彼自身の美学と道理に基づいた自己表現であったことを、この逸話は雄弁に物語っている。

第三節:伝説の融合と変容 ― なぜ戦場で舞う物語が生まれたか

ここに、本報告書の核心的な分析がある。長谷堂城の撤退戦で見せた「死を恐れぬ究極の武勇」と、聚楽第の宴席で見せた「権威を恐れぬ究極の振る舞い」。この二つの異なる極限状況下で慶次が発揮した「傾き」の精神が、後世の講談師や物語作家たちの手によって、一つの壮大な物語へと結晶化していったと考えられる。

この伝説の融合には、いくつかのメカニズムが働いたと推察される。第一に、両逸話の根底には「常識的な生死感や身分秩序を超越し、自らの美学を貫く」という共通の精神性が流れている。死地である戦場も、華やかな宴席も、彼にとっては自らの生き様を表現する舞台に過ぎなかった。第二に、物語としての劇的効果である。「戦場で舞う」という、本来最もありえない行為の組み合わせは、「武」と「遊」の究極的な融合であり、聴衆や読者の心を強く惹きつける、極めて魅力的な物語的装置となる。

そして、この融合したイメージを現代において決定的なものとしたのが、漫画『花の慶次 ―雲のかなたに―』に代表される近現代の創作物の影響である 18 。これらの作品で描かれた、壮絶な長谷堂城の戦いにおける慶次の英雄的な活躍は 10 、多くの人々にとっての「前田慶次像」そのものとなり、史実と創作が融合した伝説を広く浸透させる上で計り知れない役割を果たした。

この融合の過程を視覚的に整理すると、以下の表のようになる。

逸話の要素

長谷堂城の戦い(殿軍)

聚楽第の宴席(猿舞)

ユーザー提示の傾奇譚(融合伝説)

場所

出羽国・長谷堂城近辺の戦場

京都・聚楽第(またはそれに類する宴席)

戦場

状況

熾烈な撤退戦(死地)

諸大名が集う宴席(社交場)

敵軍との対峙

行動

大槍を振るい獅子奮迅の戦い

猿の面をつけ、大名の膝に乗る舞

舞を披露し、悠然と歩く

典拠

『最上義光記』等に奮戦の記録あり 15

『常山紀談』等に逸話あり 1

特定の一次史料にはなし

本質

武人としての究極の武勇

傾奇者としての常識破りの振る舞い

武勇と傾奇の精神の融合

この表が示すように、ユーザーが提示した傾奇譚は、史実性の高い「長谷堂城での奮戦」というパーツと、慶次のキャラクターを象徴する「猿舞」というパーツが、後世に一つの物語として再構築されたものである。それは、歴史的事実そのものではないかもしれないが、前田慶次という人物の本質をより鮮やかに伝えるための、「最高の物語」なのである。

第四章:時系列による再構築 ― 長谷堂撤退戦における前田慶次の一日

これまでの分析に基づき、逸話の舞台となった慶長5年(1600年)10月1日の出来事を、史実と蓋然性の高い想像を織り交ぜ、ドキュメンタリータッチの物語として再構成する。

(払暁)敗報と決断

長谷堂城を望む上杉軍の本陣は、夜明け前から異様な静寂と緊張に包まれていた。前々日にもたらされた関ヶ原敗北の報は、兵士たちの間に動揺と絶望を広げていた。本陣の幕舎の中、総大将・直江兼続は地図を睨みつけたまま微動だにしない。その顔には、盟友を失い、主家を窮地に陥れたことへの深い苦悩が刻まれている。やがて彼は静かに脇差に手をかけた。

「殿、早まるな」

背後からかけられた低い声に、兼続ははっと我に返る。そこに立っていたのは、客将の前田慶次であった。その眼光は、戦場の喧騒の中にあっても変わらぬ鋭さを保っている。

「責はすべてこの兼続にある。将として、兵たちに顔向けできぬ」

「ここで大将が腹を切って、誰がこの者らを故郷へ返すのだ。殿、ここから生きて帰り、上杉の家名を保つことこそが、真の戦にござる。退き口は、この慶次が引き受け申す」 11

慶次の言葉には、揺るぎない確信が満ちていた。

「この慶次が、生涯一度の大傾きを見せ申す。見事、全軍を米沢まで連れ帰ってご覧に入れよう」

その言葉に、兼続は自刃の念を振り払い、撤退の決断を下した。

(日中)撤退開始と追撃

夜が明けると同時に、上杉軍は撤退を開始した。兼続の卓越した指揮のもと、2万の軍勢は驚くほどの秩序を保ち、米沢への道を急ぐ。その巨大な軍列の最後尾に、慶次率いる数百の兵からなる殿軍が位置していた。

彼らが動き出すや否や、それまで息を潜めていた最上・伊達連合軍が、鬨の声を上げて怒涛のごとく襲いかかってきた。関ヶ原の勝利で勢いづく彼らの目的は、上杉軍の殲滅ただ一つ。退路である最上川周辺の隘路は、瞬く間に鉄砲の硝煙と鬨の声、そして断末魔の叫びが入り混じる地獄絵図と化した。

(午後)死闘と傾き

追撃軍の先鋒が、慶次の部隊に牙を剥く。だが、慶次は馬上、朱柄の大槍を水平に構え、微動だにしない。敵兵が槍の間合いに入るや、彼は獣のような雄叫びを上げ、愛馬・松風とともに敵陣の只中へと突入した。

彼の戦いぶりは、もはや人間の技ではなかった。5メートルを超える長大な槍が、まるで生き物のように敵兵を薙ぎ払い、突き、叩き潰していく。それは凄惨な殺戮でありながら、どこか舞踏を思わせるほどの流麗さと力強さを兼ね備えていた。敵の第一陣を蹴散らした慶次は、槍に体重を預けて高らかに笑う。その姿は、死地にある悲壮な武者ではなく、最高の舞台で喝采を浴びる役者のようであった。

彼は何度も敵陣への突入と離脱を繰り返した。矢が鎧を掠め、鉄砲玉が耳元をかすめても、彼の表情には恐怖の色一つ浮かばない。むしろ、死が近づくほどに彼の生命は輝きを増すかのようであった。彼は、文字通り「矢玉の中」を、恐怖の対象としてではなく、自らが最も輝ける場所として闊歩していた。それは物理的な歩行ではない。死をも超越した精神の自由闊達な闊歩であった。

(日没)撤退完了

陽が西の山々に傾く頃、慶次率いる殿軍は、その役目を果たしきった。彼らの壮絶な抵抗により、追撃軍はついに足を止め、上杉軍本隊は安全圏まで離脱することに成功したのである。

やがて本隊と合流した慶次の姿に、兵士たちは息を呑んだ。鎧は砕け、七、八本の矢の根が突き立ち、全身は血で赤黒く染まっていた 14 。しかし、その双眸の光だけは、少しも衰えていなかった。無言で彼を迎える兼続と、馬上から静かに頷き返す慶次。二人の間には、言葉を超えた深い信頼と感謝の念が通い合っていた。この日、前田慶次は伝説となった。

結論:傾奇者伝説の形成と本質

本報告書における詳細な分析の結果、『敵将の前で舞を披露し、矢玉の中を悠然と歩いた』という前田慶次の逸話は、単一の歴史的事実を記述したものではないという結論に至った。この傾奇譚は、二つの異なる源流を持つ物語が、後世において融合・昇華されることによって形成された「最高の物語」である。

その一つは、慶長出羽合戦における「長谷堂城の戦い」での殿軍としての獅子奮迅の活躍である。これは、慶次が絶体絶命の状況下で見せた、武人としての卓越した武勇と精神力を示す史実性の高い出来事である。彼の戦いぶりは、文字通り「矢玉の中」を死をも恐れず闊歩するかのようであり、これが逸話の核となった。

もう一つは、「聚楽第の猿舞」に代表される、彼の「傾奇者」としての本質を示す逸話群である。これは、彼がいかなる権威にも屈することなく、自らの美学と価値基準に基づいて行動したことを象徴する物語であり、「舞」という要素の源流となった。

この二つの物語、すなわち「究極の武勇」と「究極の自由な精神」は、根底において「常識や秩序を超越する」という共通の精神性で結ばれている。後世の語り部や創作者たちは、この二つの要素を組み合わせることで、前田慶次という人物の本質をより劇的かつ象徴的に表現する、一つの完成された伝説を創り上げたのである。

したがって、この逸話は、史実そのものではないかもしれないが、史実を超えた「真実」を我々に伝えている。それは、前田慶次という人物が、戦場における死の恐怖に対しても、社会における権威の圧力に対しても、決して屈することなく、己の信じる「義」と美学を貫き通した、真の「傾奇者」であったという本質である 20

我々が今なお前田慶次の物語に心を惹かれるのは、記録された彼の武功の数々だけが理由ではない。むしろ、史実と創作の境界線上に咲いた、このような伝説の中に凝縮された、何ものにも縛られない自由で気高い魂のあり方そのものに魅了されるからであろう。彼の生き様は、時代を超えて、自らの「道理」を持って生きることの価値を、現代に生きる我々にも力強く問いかけているのである 21

引用文献

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  2. 米澤前田慶次の会発足!:一般社団法人 米沢観光コンベンション協会 https://yonezawa.info/log/?l=130395
  3. 前田慶次の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/38365/
  4. (前田慶次と城一覧) - /ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/46/
  5. 傾奇者・前田慶次の生き方を通して考える https://lab.kuas.ac.jp/~jinbungakkai/pdf/2007/c2007_05.pdf
  6. 前田慶次‐上杉の城下町 米沢|特定非営利活動法人 米沢伝承館 http://www.yonezawadenshoukan.jp/jokamachi/maedakeiji.html
  7. 最後まで上杉軍に仕えた、かぶきもの前田慶次「戦国武将名鑑」 | Discover Japan https://discoverjapan-web.com/article/57764
  8. 米澤前田慶次の会 慶次と米沢 - Biglobe http://www7b.biglobe.ne.jp/~maedakeiji/keijiyonezawa.html
  9. 17 - web 集英社文庫 https://bunko.shueisha.co.jp/serial/yano/04_17.html
  10. 長谷堂城の戦い ~直江兼続の関ヶ原~ - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/hasedo.html
  11. 「前田慶次郎」は義を重んじた生粋の傾奇者だった! - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/113
  12. 前田慶次の武将年表/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/64494/
  13. 前田慶次は何をした人?「天下御免!戦国随一の傾奇者は雲のように悠々と生きた」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/keiji-maeda
  14. 泰綱と慶次 - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/uesugi/serious09.html
  15. 最上義光歴史館/鉄砲の威力 https://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=56556
  16. 知識人たちの戦い - 最上義光歴史館 https://sp.mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=55729
  17. 前田慶次逸話集 - 「傾奇御免」 http://keijiyz.maeda-keiji.com/story.html
  18. 花の慶次の登場人物 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E3%81%AE%E6%85%B6%E6%AC%A1%E3%81%AE%E7%99%BB%E5%A0%B4%E4%BA%BA%E7%89%A9
  19. 花の慶次 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E3%81%AE%E6%85%B6%E6%AC%A1
  20. 天下一の傾奇者(かぶきもの)前田慶次が、 『金の慶次』として帰ってきた! https://shop.denen-shuzo.co.jp/blog/denen-hananokeiji/
  21. 前田慶次 大ふへんもの - 置賜文化フォーラム http://okibun.jp/maedakeiji/