加藤嘉明
~夜の火の玉にならば我が灯にと笑う~
加藤嘉明が松山城築城中に現れた怪火に対し「ならば我が灯に」と豪語した逸話を分析。彼の剛胆さ、合理性、人心掌握術、そして築城と怪異の民俗学的背景を解説する。
伊予松山城 怪火譚の深層分析 ―加藤嘉明「ならば我が灯に」の逸話に関する歴史的・民俗学的考察―
序章:語り継がれる「沈勇の士」と怪火の逸話
戦国時代という激動の時代を駆け抜け、一代で会津四十万石の大大名にまで上り詰めた武将、加藤嘉明。賤ヶ岳の七本槍の一人としてその武勇を轟かせた彼は、同時に「沈勇の士」とも評される、冷静沈着で動じない精神力を持つ人物として知られている 1 。その嘉明の人物像を象徴する逸話として、後世に語り継がれる一つの物語がある。それは、彼が伊予松山城を築城していた最中、夜な夜な普請場に現れる不気味な火の玉、すなわち「怪火」に遭遇した際の出来事である。人々が不吉な現象に恐れおののく中、嘉明はそれを臆面もなく見据え、笑ってこう言い放ったという。「ならば我が灯にせん」と。
この逸話は、超自然的な脅威すらも自らの目的のための道具として利用しようとする、嘉明の豪胆さと究極の合理主義を鮮やかに描き出しており、彼の人物伝においてしばしば引用される。しかし、この魅力的な物語には一つの大きな謎がつきまとう。それは、この怪火譚が、同時代史料や、江戸時代に編纂された『明良洪範』や『常山紀談』といった主要な武将言行録の中に、明確な形で記録されていないという事実である 3 。有名な「虫喰南蛮」の皿の逸話や、赤熱した火箸を素手で掴んだ話などはこれらの文献に記されているにもかかわらず、怪火譚はそこには見当たらない。
この事実は、本報告書の探求の出発点となる。この逸話は単なる史実の記録ではなく、より複雑な背景を持つ文化的産物なのではないか。本報告書は、この加藤嘉明と怪火の逸話を単に再話するのではなく、その物語が生まれ、語り継がれるに至った土壌を徹底的に分析することを目的とする。まず、逸話の舞台となった慶長年間の伊予松山における築城の歴史的背景を明らかにする。次に、現存する資料から逸話の情景を時系列に沿って可能な限りリアルに再構築する。そして最後に、この物語を「加藤嘉明の人物像」「伊予国の民俗的背景」「築城と怪異譚の類型的関係」という三つの分析的視点から多角的に解剖し、なぜこの物語が加藤嘉明という人物に結びつけられ、松山という土地の foundational myth(創設神話)として機能するに至ったのか、その深層にある意味を解き明かす。これは、史実の有無を超えて、一つの物語が「名将の記憶」としていかに形成され、人々の心に刻まれていったかを追う知的な旅である。
第一部:逸話の舞台 ― 慶長の伊予松山と築城の現実
第一章:新時代の幕開けと伊予国の戦略的価値
加藤嘉明と怪火の逸話が展開される舞台は、天下分け目の戦いが終わった直後の伊予国(現在の愛媛県)である。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、嘉明は徳川家康率いる東軍に与し、その勝利に貢献した。戦後、その功績を認められ、伊予正木(松前)二十万石の大名として封じられた 6 。これは、豊臣秀吉の子飼いの武将であった嘉明が、新たな時代の覇者である徳川家の下でその地位を確固たるものにしたことを意味する。
しかし、当時の日本はまだ完全な泰平には至っていなかった。豊臣家は大坂に健在であり、西国の諸大名の中には依然として徳川への反感を抱く者も少なくなかった。このような情勢下において、伊予国は極めて重要な戦略的拠点であった。瀬戸内海に面し、四国の玄関口である伊予は、西国大名の動向を監視し、有事の際には中国地方や九州への睨みを利かせるための要衝だったのである。
嘉明が当初居城としたのは、伊予灘に面した平城である正木城(松前城)であった。しかしこの城は、関ヶ原の戦いの最中に西軍の毛利輝元の軍勢によって攻撃を受け、辛うじて守り抜いたという苦い経験があった 8 。この経験は、平城である正木城の防御能力の限界を嘉明に痛感させた。来るべき新たな戦乱の時代、あるいは依然として燻り続ける不穏な火種に備えるためには、より堅固で、領国支配の中心となりうる新たな城郭が不可欠である。この戦略的判断こそが、伊予松山城築城計画の直接的な動機であった。嘉明は、道後平野の中心にそびえる勝山を新たな築城地に選定した。これは、平野部にありながら天然の要害をなす山を利用する「平山城」であり、防衛と領国経営の両面を考慮した、まさに新時代の要塞を築こうとする嘉明の強い意志の表れだったのである 8 。
第二章:一大事業としての松山城築城
慶長7年(1602年)、徳川幕府の許可を得て、加藤嘉明は普請奉行に腹心の足立重信を任命し、勝山における新城の築城を開始した 9 。これは単なる城の建設ではなく、新たな都市をゼロから創り出す壮大な国家プロジェクトであった。山頂を削り、巨大な石を切り出して運び、緻密な計算に基づいて石垣を組み上げる。天守や櫓を建設する一方で、麓には城下町を整備し、家臣団の屋敷や商人の町を割り振っていく 10 。さらに、領内の治水事業も並行して進められ、重信の名を冠した重信川の改修工事など、大規模な土木事業が展開された 10 。
この築城は、二十数年もの歳月を要する、まさに一大事業であった 10 。動員された人夫は数千、数万人に及び、彼らは昼夜を問わず過酷な労働に従事した。その労をねぎらうため、嘉明の夫人自らが路上で握り飯を配ったという逸話も残っており、領民総出の国家的プロジェクトであったことがうかがえる 10 。
しかし、その裏側には、人々の疲労と不安が渦巻いていたに違いない。見知らぬ土地に連れてこられ、慣れない山仕事や石運びで命を落とす者もいたであろう。特に、古くから神聖視されてきた山を削り、その姿を大きく変えてしまう築城という行為は、その土地に根付く神々や精霊、あるいは古くからその地に眠る霊を怒らせるのではないかという、根源的な畏怖の念を人々の心に植え付けた。昼間の喧騒が静まり、夜の闇が普請場を包むとき、人々の心には疲労と共に得体の知れない恐怖が忍び寄る。このような極限の心理状態は、怪異や超常現象が生まれる格好の土壌となる。松山城築城の現場は、物理的な城が築かれると同時に、数々の伝説や噂話が生まれる精神的な空間でもあった。嘉明と怪火の物語は、まさにこの巨大事業がもたらした物理的・心理的緊張の中から生まれ出たものだったのである。
第二部:逸話の核心 ― 怪火と対峙する加藤嘉明
(注:本章で記述される逸話の具体的な会話や情景は、現存する一次史料には見られない。しかし、加藤嘉明の人物像や伊予の民俗伝承、築城の状況といった歴史的蓋然性に基づき、物語の核心を時系列に沿って再構築するものである。)
第一章:闇夜の怪異 ― 普請場を惑わす火の玉
松山城の築城が本格化し、本丸の石垣が徐々にその威容を現し始めた頃のことである。昼間の喧騒が嘘のように静まり返った深夜の普請場、月も隠れた闇夜に、それは初めて目撃された。夜間の作業にあたっていた人夫や足軽たちが、ふと南の方角、石手川の向こうにある粟井坂の闇から、一つの火の玉が音もなく浮かび上がるのを見たのである。
それは提灯の火ではない。松明の火でもない。赤みがかった橙色の光の塊が、まるで意思を持つかのように、ゆらりゆらりと宙を漂い、普請場の真上をゆっくりと通過していく。その光に照らされた人々の顔は青ざめ、石を運ぶ槌音は止み、現場は水を打ったような静寂に包まれた。火の玉はしばらく普請場の上空を浮遊したかと思うと、やがて北の空へと吸い込まれるように消えていった。
最初の目撃から数日、その怪火は夜ごと現れるようになった。決まって同じ方角から現れ、同じように普請場の上を通過して消えていく。この不可解な現象は、作業に従事する者たちの間に急速に恐怖を広めていった。
「あれは、この土地で敗れ去った武者の怨霊だ」
「長宗我部の軍勢に討たれた伊予の侍の魂が、我らの普請を邪魔しにきているのだ」
伊予の地に古くから伝わる「粟井坂の恠火」の伝説と結びつき、噂は瞬く間に真実味を帯びていった 12。粟井坂は古戦場であり、そこで討ち死にした武士の霊が火の玉となって現れるという言い伝えがあったのである。
恐怖は人々の心を蝕み、作業の能率を著しく低下させた。夜間の作業を怖がり、持ち場を離れる者が続出する。このままでは、城の完成に重大な支障をきたしかねない。現場の監督役たちは、この由々しき事態を城主である加藤嘉明に報告せざるを得なくなった。
第二章:「ならば我が灯に」 ― 主君の沈勇
普請場に設けられた陣屋で、嘉明は現場監督役からの報告を静かに聞いていた。報告者は顔をこわばらせ、声には隠しきれない恐怖が滲んでいた。
「御屋形様、これはただ事ではございませぬ。まさしく物の怪の仕業。一度夜間の普請を中断し、高僧を招いてご祈祷をなさるべきかと存じます。このままでは人夫たちの士気に関わりまする」
家臣たちの進言は、当時の常識からすれば至極もっともなものであった。超自然的な現象に対しては、神仏の力に頼るのが当然の対処法であった。しかし、報告を聞き終えた嘉明の表情に、恐れや動揺の色は微塵もなかった。彼はただ静かに頷くと、低いがよく通る声で言った。
「そうか。毎夜現れるというのだな。ならば、今宵、儂が直々に見てやろう」
その夜、嘉明は数名の供だけを連れて、夜の普請場に姿を現した。闇に沈む石垣の上に立ち、怪火が現れるという南の方角をじっと見据える。供の者たちが固唾を飲んで見守る中、果たして、例の火の玉が闇の底からふわりと浮かび上がってきた。ゆらめく怪火が近づくにつれ、供の者たちは息を呑み、ある者は思わず後ずさった。
しかし、嘉明は一歩も引かなかった。彼はその不気味な光の塊を臆することなく見据え、その唇に、ふと笑みが浮かんだ。それは嘲笑でもなければ、恐怖を隠すための虚勢でもない。目の前の現象を完全に理解し、掌握した者の、静かで力強い笑みであった。
張り詰めた空気の中、嘉明の声が響き渡った。
「怪火か。毎夜現れては普請の邪魔をするという。…ならば、案ずるには及ばぬ。あれは我が城の行く末を祝う灯火であろう。暗がりで難儀しておったところだ。ちょうど良い、あれを我らが灯りとして、一層作業に励め」
その言葉は、恐怖に囚われていた者たちの耳に、雷鳴のように突き刺さった。怨霊、祟り、不吉の象徴であったはずの怪火が、主君の一言によって、吉兆の「灯火」へとその意味を完全に転換させられた瞬間であった。超自然的な脅威を、現実的な築城事業の「道具」として再定義してみせたのである。
嘉明の言葉に呼応するかのように、あるいはその覇気に気圧されたかのように、火の玉はふっと揺らめき、やがて闇の中へと掻き消えた。そして、その夜を境に、普請場に怪火が現れることは二度となくなったという。
この出来事は、瞬く間に城下の隅々にまで知れ渡った。怨霊すらも自らの城を照らす灯りにしてしまう主君。その動じない剛胆さと、逆境を好機に変える機知は、人々の恐怖を驚嘆と畏敬の念へと変えた。この逸話は、加藤嘉明という武将が、人知を超えた存在すらも支配下に置く傑出した器量の持ち主であることを示す伝説となり、松山城の礎を築く人々の心に深く刻み込まれたのである。
第三部:逸話の多角的分析 ― なぜこの物語は生まれたか
第一章:人物像からの考察 ― 逸話に投影された嘉明の気質
加藤嘉明の怪火譚が、なぜこれほどまでに彼の人物像を的確に表す物語として語り継がれてきたのか。その答えは、この逸話が嘉明の記録に残る複数の性格的特徴を見事に一つの場面に凝縮している点にある。
第一に、逸話は嘉明の「剛毅(ごうき)」さと「沈勇(ちんゆう)」を完璧に体現している。彼は関ヶ原の戦いの前哨戦である岐阜城攻めにおいて、井伊直政と作戦を巡って激しく対立し、刀に手をかけるほどであったと伝えられるほどの剛直な性格の持ち主であった 14 。また、『明良洪範』に記された有名な逸話では、小姓たちが囲炉裏で火箸を焼いて遊んでいたところに嘉明が現れ、慌てて灰の中に落とした真っ赤な火箸を、顔色一つ変えずに素手で拾い上げ、静かに灰に突き立てたとされる 3 。物理的な熱さや、大名同士の激しい対立といった現実的な脅威に対して全く動じないその精神性は、正体不明の超自然的な怪火を前にしても揺るがない姿と完全に一致する。怪火を前にした彼の笑みは、赤熱した火箸を掴んだ際の冷静さに通じるものがある。
第二に、逸話は嘉明の極めて高い「合理主義」と「現実主義」を映し出している。彼の「ならば我が灯に」という言葉は、単なる勇気の発露ではない。それは、目の前の現象を即座に分析し、自らの目的にとって最も有益な形に再定義する、卓越した現実処理能力の表れである。この思考様式は、彼が単なる武勇一辺倒の武将ではなく、重信川の改修や城下町の建設、後年の会津藩における産業育成など、優れた土木・行政能力を発揮した領主であった事実と符合する 10 。彼は怪火を祓う対象や戦う対象としてではなく、夜間作業の照明という「リソース(資源)」として捉えた。この発想の転換こそ、嘉明という人物の真骨頂である。
そして最も重要な第三の点は、この逸話が彼の「家臣や領民の士気(モラル)を最優先する」という指導者としての哲学を象徴していることである。この構造は、彼の最も有名な逸話である「虫喰南蛮」の皿の話と驚くほど酷似している。嘉明は、家臣が誤って割ってしまった秘蔵の小皿十枚組の一枚を咎めるどころか、残りの九枚も全て叩き割り、こう言った。「九枚残りあるうちは、一枚誰が粗相したかといつまでも士の名を残す。家人は我が四肢であり、如何に逸品であろうとも家来には代えられぬ」 3 。この逸話の本質は、物の価値よりも人の心の安寧を優先する、という彼の哲学にある。家臣一人の心の傷を防ぐために、一国にも値するとされた名物を惜しげもなく破壊した嘉明。その彼が、築城という一大事業に従事する数千の兵や人夫たちの恐怖心を取り除き、プロジェクトの士気を維持するために、怪火という超自然的な脅威に立ち向かうのは、全く同じ論理の延長線上にある。虫喰南蛮の逸話では、彼は「証拠」を物理的に破壊することで家臣の心を救った。怪火譚では、彼は「恐怖の物語」を「吉兆の物語」へと意味的に破壊・再構築することで、人々の心を救ったのである。
このように、怪火の逸話は、嘉明の剛毅さ、合理性、そして家臣への深い配慮という、彼の核となる複数の性格的特徴を一つの劇的な場面に凝縮して描き出す、極めて洗練された物語構造を持っている。それは単なる出来事の記録ではなく、加藤嘉明という人物の本質を伝えるために、時間をかけて磨き上げられた「人物像の結晶」としての物語なのである。
第二章:民俗学的考察 ― 伊予国に伝わる「怪火」と「怨霊」
加藤嘉明の怪火譚を深く理解するためには、物語の舞台となった伊予国が、古くから豊かな怪異譚や怨霊伝承を持つ土地であったことを認識する必要がある。この物語は、嘉明という個人のキャラクターだけで成立したのではなく、伊予という土地が持つ「記憶」や「世界観」との対話の中から生まれてきたと考えられる。
最も直接的な関連性を持つのが、「松山七不思議」の一つとして数えられる「粟井坂の恠火(あわいざかのかいか)」の伝承である 12 。これは、松山城の南、石手川の対岸に位置する粟井坂で、古くの合戦で討ち死にした武士の霊が、毎年8月になると火の玉となって現れるという、極めて具体的な言い伝えである。嘉明の逸話に登場する怪火が、普請場の南から現れたとされる点と、この粟井坂の位置関係は地理的に一致する。つまり、築城現場の人々が目撃した怪火は、彼らにとって全く未知の現象ではなく、「あの粟井坂の怨霊火に違いない」と即座に解釈される、既存の民俗的文脈の中にあった。このことは、物語に強いリアリティを与え、人々の恐怖を増幅させる要因となったであろう。
さらに、伊予国、特にその沿岸部や島嶼部には、様々な種類の怪火伝承が存在した。死者の霊火とされる「オボラ」や「オボラビ」、不知火に似た現象、あるいは竜神の灯火とされる「竜灯」など、夜の闇に現れる正体不明の光は、この地方の人々にとって馴染み深い怪異であった 16 。これらの伝承は、自然現象(例えば、リンの発火や不知火のような大気光学現象)が、人々の信仰や畏怖と結びついて物語化されたものである。このような豊かな怪火の文化があったからこそ、築城現場に現れた光もまた、即座に超自然的な「怪火」として認識され、物語の題材となり得たのである。
この民俗的背景を踏まえると、嘉明の逸話は新たな側面を見せ始める。それは、単に一人の武将が幽霊を恐れなかったという話ではない。これは、その土地に新しくやってきた支配者である加藤嘉明が、土地に古くから根付く霊的存在、すなわち「地霊(ゲニウス・ロキ)」と対峙し、それを支配下に置くという、極めて象徴的な物語なのである。伊予の地に眠る古の武士たちの怨霊は、いわば旧来の秩序や土地の記憶を象徴する存在である。その怨霊が、新時代の支配者である嘉明の築く城の前に現れる。これは、新旧の力が対峙する、一つの儀式的な場面と解釈できる。ここで嘉明が恐怖を示したり、怨霊を鎮めるための儀式を行ったりすれば、それは彼が土地の古き力に対してある種の敬意を払い、その存在を認めたことになる。しかし、彼はそうしなかった。彼は笑い、それを「我が灯に」と宣言することで、古き怨霊の力を無効化し、自らの新しい秩序の下に組み込んでしまった。これは、嘉明が伊予の民衆だけでなく、その土地の超自然的な領域をも完全に掌握したことを宣言する、強力な創設神話なのである。
第三章:類型論的考察 ― 「築城」と「怪異」の普遍的結合
加藤嘉明の怪火譚は、日本全国に見られる「築城」という行為と「怪異」を結びつける物語の類型の中に位置づけることで、その普遍的な意味と特異性がより鮮明になる。城の建設は、単なる土木工事ではない。それは、自然の地形を大きく改変し、一つの土地に永続的な権力の象徴を打ち立てるという、極めて強大な行為である。そのため、城の築城譚には、しばしば超自然的な要素が伴う。
最も有名な類型の一つが、「人柱(ひとばしら)」伝説である。例えば、松江城の築城工事が難航した際、美しい踊り子の娘を人柱として埋めたことでようやく完成したが、その後、城下で盆踊りがあると天守が揺れるようになったという伝説がある 18 。これは、偉大な建造物の完成には、神々や土地の霊を鎮めるための犠牲が必要であるという、古代的な信仰の表れである。人柱は、人間が超自然的な力に対して捧げる、一種の服従の証であった。
また、城そのものに妖怪や霊が棲みつくとされる伝説も数多い。姫路城の天守に棲むという「長壁姫(おさかべひめ)」や、大坂城にまつわる淀君の怨霊や様々な怪異譚は、城という巨大な建造物が、人間の世界と異界とが交錯する特別な場所(トポス)であることを示している 19 。これらの物語は、城が持つ威容と、そこに秘められた歴史の闇に対する人々の畏怖を反映している。
一方で、築城に際して吉兆となる超自然的な存在が現れる「創設者伝説」も存在する。徳川家康の生誕地である岡崎城では、築城の際に井戸から龍神が現れたという「昇龍伝説」が語り継がれており、これは徳川家の支配の正当性を神話的に裏付ける役割を果たしている 22 。
これらの類型と比較したとき、加藤嘉明の怪火譚の持つ際立った独創性が浮かび上がる。多くの築城伝説が、人柱のように「人間が超自然的な力に服従する」物語であったり、城の怪異のように「人間が超自然的な力に脅かされる」物語であったりするのに対し、嘉明の物語は「人間が超自然的な力を支配する」という、全く逆のベクトルを持っている。彼は怪火に犠牲を捧げもせず、恐怖に脅かされもしない。それどころか、怨霊である可能性が高い怪火を、自らの事業に役立つ「灯り」として使役しようとする。これは、人柱伝説とは正反対の、人間中心主義的な世界観の表明である。また、岡崎城の龍神伝説が、元々吉兆である龍神の出現によって支配者を祝福する受動的な構造であるのに対し、嘉明の物語は、本来は凶兆であるはずの怪火を、支配者の意志の力によって能動的に吉兆へと転換させる、よりダイナミックな構造を持つ。
この分析から導き出されるのは、加藤嘉明の怪火譚が、単なる怪談ではなく、極めて効果的に計算された「ポジティブな創設神話」として機能しているという事実である。この物語は、創設者である嘉明を、古くからの土地の霊や祟りといった負の遺産にさえも屈しない、どころかそれを自らの力に変えてしまうほどの傑出した人物として描き出す。それは、新しい支配者が旧来の権威や迷信を打ち破り、合理的で強力な意志によって新しい時代を切り拓いていく姿を象徴している。この逸話は、加藤家の支配の正当性と、その始祖である嘉明の非凡さを、これ以上ないほど劇的に人々の記憶に刻み込むための、優れた物語装置だったのである。
結論:史実を超えた「名将の記憶」
本報告書は、加藤嘉明の伊予松山城築城にまつわる「ならば我が灯に」という怪火譚について、その歴史的・民俗学的背景を多角的に分析した。その結果、この逸話が、同時代の信頼性の高い史料には見られない一方で、その物語が成立し、語り継がれるに足る複数の強固な根拠を持つことが明らかになった。
第一に、この物語は加藤嘉明という人物の documented character(記録された性格)と驚くほど一致している。彼の剛毅さ、冷静な判断力、そして何よりも家臣や領民の士気を重んじる指導者としての哲学が、怪火との対峙という一つの劇的な場面に完璧に投影されている。特に、名物「虫喰南蛮」を自ら砕いて家臣の心の負担を取り除いた逸話と、怪火を「灯り」と再定義して人々の恐怖を取り除いた逸話は、物理的な世界と超自然的な世界という違いこそあれ、彼のリーダーシップの本質を示す同じ構造を持っている。
第二に、物語は伊予国という土地が持つ豊かな民俗的土壌に深く根差している。「粟井坂の恠火」に代表される怨霊火の伝承は、築城現場に現れた怪異に具体的な「物語」を与え、人々の恐怖にリアリティをもたらした。嘉明の行動は、この土地に古くから存在する地霊や記憶に対する、新しい支配者としての勝利宣言であり、伊予の土地を物理的にも精神的にも完全に掌握したことを象徴する創設神話として機能した。
第三に、全国の築城伝説との比較を通じて、この逸話が持つ特異な構造が明らかになった。多くの伝説が人柱や祟りといった、人間が超自然的な力に服従・畏怖する形式をとる中で、嘉明の物語は人間が超自然的な力を支配し、使役するという、極めて能動的で力強い形式をとっている。これは、嘉明を旧来の迷信を打ち破る合理的で強力な新時代のリーダーとして描き出す、非常に洗練されたプロパガンダ、あるいは英雄譚としての側面を持っている。
結論として、加藤嘉明と怪火の逸話の「真実」は、それが歴史的事実として起こったか否かという次元にはない。その真実は、この物語が加藤嘉明という武将の本質を捉え、伊予という土地の文脈に共鳴し、そして理想的な指導者像という普遍的な原型に合致する、力強い「文化的記憶」であるという点にある。この物語は、恐怖に満ちた夜の闇を照らす一筋の光のように、混沌とした時代に人々が求めた理想のリーダー像―すなわち、いかなる困難や未知の脅威にも動じず、それを乗り越える力と知恵、そして人々を守るという強い意志を持つ人物―を鮮やかに描き出した。史実として記録されなかったとしても、「ならば我が灯に」の言葉は、加藤嘉明という名将の記憶を象徴する、不滅の灯火として後世に語り継がれているのである。
引用文献
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- PHP文庫 加藤嘉明―「賎ヶ岳七本鑓」知られざる勇将 - 紀伊國屋書店 https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784569762654
- 加藤嘉明 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%98%89%E6%98%8E
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- 賤ヶ岳七本槍の加藤嘉明が生んだ「家風」と御家騒動 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/37879
- 牛馬の仲買人だった加藤嘉明は、なぜ水軍の将になれたのか? 〜加藤左馬助嘉明 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/13271
- 【現存12天守に登閣しよう】伊予松山城「賤ヶ岳の七本槍」加藤嘉明が築いた実戦城郭 - 城びと https://shirobito.jp/article/632
- 歴史と人物 | 城探訪 | 四国・愛媛の松山城 https://www.matsuyamajo.jp/discover/history.html
- 1 加藤嘉明時代 - データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/64/view/8039
- 加藤嘉明(かとう よしあき) 拙者の履歴書 Vol.90~一槍ひと振り、六十万石の譜 - note https://note.com/digitaljokers/n/ne12b02ab1474
- 類似事例 - 国際日本文化研究センター | 怪異・妖怪伝承データベース https://www.nichibun.ac.jp/cgi-bin/YoukaiDB3/simsearch.cgi?ID=0640174
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- 賤ヶ岳七本槍の加藤嘉明が生んだ「家風」と御家騒動 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/37879/2
- 加藤嘉明とは 豊臣子飼いの水軍将、李舜臣に挑む - 戦国未満 https://sengokumiman.com/katoyoshiaki.html
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- 小泉八雲とセツが愛した島根ゆかりの地をめぐる | しまね観光ナビ https://www.kankou-shimane.com/feature/72158
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- 長壁姫 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%A3%81%E5%A7%AB
- 日本のお城にまつわる怖~い話 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=kLtUQwrgEZQ
- 知ってた?岡崎の妖怪たち https://citypromotion.okazaki-kanko.jp/report/life-kk-04