加藤嘉明
~敵船乗り込み刀失うも櫓で薙ぐ~
加藤嘉明が慶長の役で敵船に乗り込み刀を失うも櫓で敵兵を薙ぎ倒した逸話の真相を考察。漆川梁海戦の背景と嘉明の奮戦、武勇、経験、剛毅さ、合理性、情愛が凝縮。
加藤嘉明、敵船乗り込み刀失うも櫓で薙ぐ ― ある水軍勇士の逸話、その徹底的考察
序章:漆黒の海、鬨の声 ― 逸話の舞台へ
戦国日本の歴史において、数多の武将がその武勇を語り継がれているが、加藤嘉明(かとうよしあきら)という武将の名は、特に海戦における一際異彩を放つ逸話と共に記憶されている。「敵船に乗り込み、刀を失うも櫓(ろ)で敵兵を薙ぎ倒した」―この短い伝承は、彼の豪胆さと機転を象徴する物語として、後世に語り継がれてきた。しかし、この逸話は、単なる一個人の武勇伝としてのみ語られるべきではない。それは、国家の命運を賭けた大規模な国際戦争の、ある決定的な局面において生まれた必然の産物であった。本報告書は、この逸話が生まれた歴史的背景を徹底的に掘り下げ、その瞬間の状況、そして嘉明の行動を時系列に沿って克明に再構築することを目的とする。
物語の舞台は、慶長2年(1597年)の朝鮮半島南岸。豊臣秀吉による二度目の朝鮮出兵、すなわち「慶長の役」の戦端が開かれた直後である。文禄の役(1592-1593年)が膠着状態に陥り、日明間で続けられていた和平交渉が決裂した結果、秀吉は再び14万を超える大軍を朝鮮半島へ送り込んだ。この再出兵において、日本軍が最も警戒し、そして打破すべき障壁と見なしていたのが、朝鮮水軍の存在であった。特に、文禄の役において数々の海戦で日本水軍を苦しめた名将・李舜臣(イ・スンシン)の存在は、日本側の兵站線を脅かす最大の脅威として認識されていた。
しかし、慶長の役が始まる直前、戦局を大きく左右する事態が朝鮮側で発生する。政敵の讒言(ざんげん)により、李舜臣が三道水軍統制使(さんどうすいぐんとうせいし)の任を解かれ、一兵卒として白衣従軍(はくいじゅうぐん)を命じられるという、にわかには信じがたい更迭劇が起こったのである 1 。彼の後任には、李舜臣としばしば対立していた元均(ウォン・ギュン)が就任した。この人事は、日本水軍にとってまさに千載一遇の好機であった。元均は、朝鮮王朝からの度重なる出撃命令に追い立てられる形で無理な作戦行動を繰り返し、麾下の艦隊は次第に疲弊していく 1 。
この好機を逃すまいと、日本水軍の猛者たちが朝鮮半島南岸、巨済島(コジェとう)沖に集結した。その中核を担ったのが、藤堂高虎(とうどうたかとら)、脇坂安治(わきざかやすはる)、そして加藤嘉明であった 1 。彼らはいずれも秀吉のもとで水軍を率いた経験を持つ歴戦の将であり、特に嘉明は賤ヶ岳の七本槍の一人として陸戦での武勇も鳴り響いていた 4 。陸の勇者が、海の戦場でその真価を問われる時が迫っていた。朝鮮水軍の混乱という外的要因が、嘉明の武勇伝が生まれるための土壌を整えたのである。漆黒の海が血で染まる、運命の夜明けは目前に迫っていた。
第一章:漆川梁、運命の海域 ― 地の利と両軍の対峙
決戦の舞台となったのは、巨済島の北西岸に位置する漆川梁(しっせんりょう、チルチョンニャン)と呼ばれる海域であった。ここは巨済島と、それに近接する漆川島(現・七川島)に挟まれた、極めて狭隘(きょうあい)な水道である 1 。潮の流れは複雑で速く、大型の艦船が自由に運動するには著しく不向きな地形であった。この地理的特徴こそが、日本水軍が勝利を手繰り寄せるための最大の鍵となる。
戦場の地理的優位性
日本水軍の基本的な戦術は、安宅船(あたけぶね)や関船(せきぶね)、小早(こばや)といった比較的小型で機動力の高い船を駆使し、敵船に高速で接近、鉤縄(かぎなわ)をかけて乗り移り、得意の白兵戦に持ち込む「移乗攻撃」であった。これは、陸上での槍働きや斬り合いをそのまま海上に持ち込んだ戦法であり、個々の武士の戦闘能力を最大限に活かすものであった 5 。
一方、朝鮮水軍の主力は「板屋船(いたやせん、パノクソン)」と呼ばれる大型の戦闘艦であり、その強みは天字銃筒(てんじじゅうとう)などの大口径火砲による圧倒的な遠距離砲撃能力にあった。彼らは安全な距離から日本船を一方的に砲撃し、撃沈することを必勝の戦術としていた。
この両者の戦術的特性を鑑みた時、漆川梁という戦場が日本側にとっていかに有利であったかは明白である。狭い海域は、朝鮮水軍がその大艦隊を自由に展開し、得意の砲撃陣形を組むことを不可能にする。逆に、船同士が密集せざるを得ない状況は、日本側にとって移乗攻撃を仕掛ける絶好の機会を提供した。つまり、戦場選定の段階で、日本水軍は自軍の長所を最大限に発揮し、敵軍の長所を無力化するという、極めて高度な戦術的思考を展開していたのである。嘉明の逸話は、この周到に準備された「必勝の計」の頂点で咲いた、一輪のあだ花であったとも言える。
決戦前夜の両軍
慶長2年7月15日の夜、元均率いる朝鮮水軍本隊は、度重なる出撃と敗走の末、この漆川梁に停泊していた 1 。兵士たちは連戦に疲弊し、士気は著しく低下していた。日本側の諜報網は、この敵艦隊の所在と油断しきった状況を正確に掴んでいた。藤堂高虎ら日本水軍の首脳陣は、この情報を基に、水陸両面からの挟撃作戦を練り上げる。夜陰に乗じて海上から主力が奇襲をかけ、同時に沿岸に配置した島津義弘や小西行長らの陸上部隊が鉄砲による援護射撃で退路を断つという、まさに殲滅を目的とした作戦であった 1 。
この決戦に臨む両軍の状況は、以下の表のように対照的であった。
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項目 |
日本水軍 |
朝鮮水軍 |
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総指揮 |
(明確な総大将は不在、諸将の連合軍) |
元均(三道水軍統制使) |
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主要指揮官 |
藤堂高虎、加藤嘉明、脇坂安治、菅達長 |
李億祺、崔湖、裴楔 |
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推定艦船数 |
500~1000隻(大小の関船、小早が中心) |
約160~200隻(大型の板屋船が主力) |
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主力戦術 |
移乗攻撃による白兵戦 |
大砲による遠距離砲撃戦 |
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兵員の士気 |
高い(好機と判断) |
低い(連戦による疲弊) |
出典: 1
数では朝鮮水軍が上回っていたものの、その実態は疲弊し、指揮系統に問題を抱えた集団であった。対する日本水軍は、明確な作戦目標と地の利を背景に、士気高く決戦の時を待っていた。加藤嘉明もまた、麾下の兵を率い、静かに闘志を燃やしながら、夜明けと共に訪れるであろう激戦の気配を感じていたに違いない。
第二章:暁の強襲 ― 合戦の火蓋
慶長2年7月16日、未明。漆川梁の海面は、夜の帳(とばり)に包まれ、静寂が支配していた。停泊する朝鮮水軍の巨大な艦影は、まるで動かぬ山脈のように黒々と連なっていた。その静寂を切り裂いたのは、日本水軍の鬨(とき)の声であった。
夜陰と霧に紛れて朝鮮艦隊に音もなく肉薄した日本の船団から、まず藤堂高虎の部隊が猛然と突撃を開始した 1 。鬨の声に続き、数百、数千の鉄砲が一斉に火を噴き、その轟音は静まり返った海峡に木霊した。眠りの中にあった朝鮮水軍は、完全な不意を突かれた。何が起きたのかを把握する間もなく、日本の関船や小早が矢のように密集した艦隊の懐深くへと侵入してくる。
朝鮮水軍は大混乱に陥った。狭い海域に停泊していたことが仇となり、すぐさま迎撃態勢を整えることも、隊列を組んで退却することもできない。指揮官である元均からの命令は届かず、各艦は個別に、しかし有効な反撃もできぬまま、一方的に攻め立てられた。まさに、水上に浮かぶ城が、四方八方から攻め寄せられる攻城戦の様相を呈していた。
この海上からの主攻に呼応し、作戦通り陸上からも攻撃が開始された。巨済島の沿岸に潜んでいた島津義弘、小西行長らの部隊が、朝鮮艦隊に向けて猛烈な鉄砲射撃を浴びせかけたのである 1 。海上からの攻撃を避けようと岸に近づけば陸から撃たれ、陸からの射撃を避けようと沖へ出れば日本の船団が待ち構えている。逃げ場を完全に失った朝鮮艦隊は、狭い海域で右往左往するうちに互いの船が衝突し、さらに身動きが取れなくなっていく。朝鮮水軍にとって、そこはもはや戦場ではなく、一方的な殺戮の場と化していた。
この混乱の渦中、加藤嘉明率いる伊予水軍もまた、荒れ狂う波濤(はとう)のごとく敵陣へと突入していた。嘉明は、自らが座乗する関船の船首に立ち、冷静に戦況を見極めていた。彼の目は、無数にある敵船の中から、ひときわ大きく、そして最も華麗な将旗を掲げた一隻の板屋船を捉えていた。敵の中枢、大将の座乗艦に違いなかった。小魚を蹴散らすことに意味はない。狙うは敵将の首、ただ一つ。嘉明は麾下の兵士たちに檄を飛ばし、自らの船の進路をその巨大な目標へと向けさせた。この圧倒的に優位な状況は、嘉明のような猛将がその武勇を遺憾なく発揮するための、完璧な舞台装置であった。彼の伝説が生まれる瞬間は、刻一刻と近づいていた。
第三章:修羅の船上 ― 敵旗艦への肉薄
阿鼻叫喚の地獄と化した漆川梁の海域で、加藤嘉明の部隊は敵旗艦と思しき巨大な板屋船へと猛然と肉薄していた。嘉明は、揺れる関船の舳先(へさき)に仁王立ちとなり、右手に持った采配で目標を指し示しながら、腹の底から声を張り上げた。
「あれぞ敵の大将船!者ども、遅れるな!一番乗りの功名は、我ら伊予の者が頂くぞ!」
その声は、鉄砲の轟音や兵士たちの怒号の中でも、不思議と麾下の者たちの耳に明瞭に届いた。主君の言葉に鼓舞され、漕ぎ手たちは最後の力を振り絞って櫂(かい)を動かし、戦闘員たちは刀や槍の柄を固く握りしめた。
敵旗艦に接近するまでのわずかな時間、それはまさに死線の上を渡るがごとき行程であった。敵船からも矢や鉄砲弾が雨霰(あめあられ)と降り注ぎ、嘉明の船の周りには絶えず水柱が上がった。船板を貫通した流れ弾が兵士を掠め、鮮血が舞う。しかし、嘉明は微動だにせず、泰然自若として前方の敵艦を睨み据えていた。その姿は、かつて初陣前の主君を差し置いて勝手に従軍し、豊臣秀吉の正室ねねを激怒させたという逸話 8 に見られるような、彼の剛毅で物事に動じない性格そのものであった。
ついに、嘉明の関船は敵板屋船の巨大な舷側(げんそく)に到達した。
「鉤をかけよ!」
嘉明の号令一下、数人の兵士が先端に鉄の鉤がついた縄を投げ放つ。鉤は敵船の舷にガシリと食い込み、両船は荒波の中できしみながらも一つに結びつけられた。敵兵は舷側から長槍を突き出し、あるいは縄を切断しようと必死の抵抗を試みる。船べりでは、両軍の兵士による熾烈な攻防が繰り広げられた。
その時、誰よりも早く動いたのは大将である加藤嘉明その人であった。彼は味方が敵船になだれ込むための道を切り開くべく、自らが先頭に立つことを選んだ。それは、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の合戦で、得意の槍を振るって武功を挙げ、「賤ヶ岳七本槍」の一人に数えられた若き日の勇猛さを彷彿とさせる行動であった 4 。陸(おか)の戦場で最高の名誉とされる一番槍の功を、彼はこの海の戦場でも成し遂げようとしていた。
嘉明は助走もつけず、軽々と関船の舷を飛び越え、敵船の分厚い船べりに手をかけた。そして、全身のばねを使って一気にその巨体を引き上げ、敵兵が驚愕する中、板屋船の甲板に躍り出た。大将自らが行う「一番乗り」。それは単なる蛮勇ではない。混乱した白兵戦の最中において、部下の士気を極限まで高め、部隊の戦闘能力を最大化するための、最も効果的かつ合理的な指揮官としての戦術的行動であった。嘉明の乗り込みを合図に、伊予の兵たちが雄叫びを上げながら、次々と敵船へと殺到していった。
第四章:一閃、そして喪失 ― 櫓を掴む手
嘉明が乗り込んだ敵旗艦の甲板は、まさに修羅場であった。日ノ本と朝鮮、両国の兵士たちが入り乱れ、狭い空間で死力を尽くして斬り結んでいた。血の鉄臭い匂いが鼻をつき、金属が激しくぶつかり合う甲高い音、そして断末魔の悲鳴と勝利の雄叫びが渾然一体となって鼓膜を揺さぶる。嘉明は、その地獄絵図の中心で、愛用の刀を抜き放ち、獣のごとく敵中へと斬り込んでいった。
彼の剣閃は鋭く、その動きに一切の無駄はなかった。向かってくる敵兵を一人、また一人と斬り伏せ、瞬く間に足元には屍が積み上がっていく。しかし、敵もさるもの、大将と見て取った嘉明に次々と兵を繰り出し、その行く手を阻もうとする。四方八方から突き出される槍、振り下ろされる刃。嘉明はそれらを巧みに捌き、あるいは受け流しながら、着実に船の中枢へと進んでいった。
激しい戦闘の最中、その瞬間は突如として訪れた。敵兵の一人が振り下ろした渾身の一撃を、嘉明が自らの刀で受け止めた時であった。凄まじい衝撃と共に、甲高い金属音が響き渡り、嘉明の手にした刀は真ん中からぽっきりと折れてしまった。あるいは、敵兵の体に深々と突き刺さったまま抜けなくなったのかもしれない。いずれにせよ、彼は戦場の真っ只中で、最大の武器を失ったのである。
一瞬の静寂。四方から迫りくる敵兵の殺気が、肌を刺すように感じられる。丸腰となった大将の姿を見て、敵兵の顔に獰猛な笑みが浮かんだ。絶体絶命の窮地。普通の武士であれば、ここで死を覚悟するか、絶望に打ちひしがれたであろう。しかし、加藤嘉明は違った。彼の脳裏をよぎったのは焦りや恐怖ではなく、いかにしてこの状況を打開し、戦闘を継続するかという、極めて実践的な思考であった。
その時、嘉明の鋭い目が、甲板の隅に転がっていた一本の太く長い木製の棒を捉えた。船を漕ぐための「櫓」であった。それは武器として作られたものではない。ただの、船の推進具である。しかし、嘉明に迷いはなかった。彼は折れた刀を投げ捨てると、敵の槍衾をかいくぐり、その櫓を鷲掴みにした。
「刀折れたり!…されど、戦はまだ終わっておらぬわ!」
内心でそう叫んだか、あるいは無言であったか。嘉明は、そのずしりと重い櫓を両手で固く握りしめ、まるで長大な棍棒のように構えた。その行動は、彼の武人としての本質―すなわち、いかなる状況下でも目的達成を諦めない不屈の精神と、常識にとらわれない驚異的な即応性―を如実に物語っていた。
家臣の過ちを未来永劫責めさせないために、自ら秘蔵の南蛮渡りの皿を全て叩き割ったという逸話 9 。あるいは、小姓たちの悪戯で赤く焼けた火箸を、顔色一つ変えずに素手で掴み、灰に「一」の字を書いてみせたという逸話 10 。これらの物語に共通するのは、目の前の目的(家臣の救済や威厳の維持)を達成するためには、手段(高価な皿や自らの肉体の痛み)を厭わないという、彼の徹底した合理性と剛胆さである。今、この船上で、「勝利」という至上目的のために、「刀」という手段に固執せず、「櫓」という代替手段を即座に採用したのも、全く同じ精神の発露であった。
構えを解いた嘉明は、雄叫びと共にその長大な櫓を横薙ぎに一閃させた。それは槍術でも剣術でもない、ただ純粋な膂力(りょりょく)と闘争本能から繰り出された一撃であった。しかし、賤ヶ岳で鳴らした槍術の体捌きが、その異形の武器に恐るべき破壊力を与えていた。風を切り裂く轟音と共に振るわれた櫓は、向かってきた数人の敵兵をまとめて薙ぎ払い、甲板の彼方へと叩き飛ばした。兜や鎧は砕け、骨の折れる鈍い音が響き渡る。その常人離れした光景に、敵兵はもちろん、味方の兵士たちさえも一瞬息を呑んだ。加藤嘉明が「水軍の勇士」としての伝説を不動のものとした瞬間であった。
第五章:武勇の残響 ― 伝説の誕生
加藤嘉明が櫓を振るって奮戦するその異様な姿は、敵にとっては恐怖の象徴となり、味方にとっては絶大な鼓舞となった。大将が武器を失ってもなお、手近な道具を武器に変えて戦い続ける姿は、伊予の兵士たちの闘争心に火をつけた。彼らは主君に続けとばかりに一層激しく敵に襲いかかり、敵旗艦の抵抗は急速に衰えていった。
やがて敵旗艦は完全に制圧され、他の海域でも同様に日本水軍の猛攻が続き、この漆川梁海戦は夜明けからわずかな時間で日本側の一方的な、そして圧倒的な勝利に終わった。朝鮮水軍は文字通り壊滅的な打撃を受けた。『島津家文書』によれば、160隻以上の船舶が鹵獲(ろかく)あるいは焼却され、数千の兵が討ち取られたと記録されている 1 。三道水軍統制使の元均をはじめ、李億祺、崔湖といった主だった将官もこの戦いで命を落とし、朝鮮水軍はその組織的抵抗力をほぼ完全に喪失した 1 。
戦いが終わった後、生還した兵士たちの口から口へと、加藤嘉明の超人的な武勇伝が語り継がれていった。「左馬助(さまのすけ、嘉明の官職名)様は、敵の大将船に一番乗りなされた」「戦の最中に刀が折れたが、少しも騒がず、そばにあった櫓を掴んで敵を薙ぎ倒された」―こうした話は、聞く者の胸を熱くさせ、やがて多少の脚色が加わりながらも、「水軍の勇将・加藤嘉明」を象徴する不滅の伝説として定着していった。後世、講談や軍記読み物といった大衆芸能の中で、この逸話はさらに劇的に語られ、多くの人々に知られることとなったであろう 12 。
この「敵船乗り込み刀失うも櫓で薙ぐ」という逸話は、加藤嘉明という武将の持つ複数の側面が見事に融合した、奇跡的な瞬間を切り取ったものと言える。第一に、賤ヶ岳の七本槍として知られる陸戦での卓越した武勇。第二に、文禄・慶長の役を通じて培われた水軍の将としての経験と状況判断能力。そして第三に、焼けた火箸を素手で掴むほどの剛毅さと、家臣の失敗を許すために秘蔵の皿を全て割るという合理性と深い情愛 14 。これら彼の生涯を貫く性格的特徴の全てが、この一つの行動の中に凝縮されている。
加藤嘉明の櫓での奮戦は、単なる一個人の武勇伝に留まらない。それは、絶体絶命の窮地にあっても決して諦めず、手元にあるあらゆるものを利用して活路を見出そうとする、戦国武将の強靭な精神力の象徴である。史実の記録としては断片的にしか残されていないかもしれないこの逸話が、なぜこれほどまでに人々の心を捉え、語り継がれてきたのか。それは、この物語が、加藤嘉明という一人の武将の生き様と魂を、時代を超えて我々に力強く伝えてくれるからに他ならない。その一振りは、歴史の波間に消えることなく、今なお鮮やかな残響として我々の胸に響き渡るのである。
引用文献
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- 李舜臣 - スタンプメイツ http://www.stampmates.sakura.ne.jp/ship/gv-cRiSnsn.htm
- 漆川梁海戦 元均朝鮮水軍VS藤堂、脇坂、島津ら - 戦国未満 https://sengokumiman.com/tirutyonryankaisen.html
- 1 加藤嘉明時代 - データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/64/view/8039
- 牛馬の仲買人だった加藤嘉明は、なぜ水軍の将になれたのか? 〜加藤左馬助嘉明 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/13271
- 加藤嘉明(かとう よしあき) 拙者の履歴書 Vol.90~一槍ひと振り、六十万石の譜 - note https://note.com/digitaljokers/n/ne12b02ab1474
- 一 文禄の役 - データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/64/view/8031
- 賤ヶ岳七本槍の加藤嘉明が生んだ「家風」と御家騒動 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/37879/2
- ああ、そんな…殿、口でなんて!毛利元就と加藤嘉明、家臣を胸キュンさせた仰天秘話 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/99385/
- 加藤嘉明 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%98%89%E6%98%8E
- 加藤嘉明(1563―1631) https://www.asahi-net.or.jp/~jt7t-imfk/taiandir/x085.html
- 『出世馬喰(加藤孫六)』あらすじ - 講談るうむ - FC2 http://koudanfan.web.fc2.com/arasuji/03-11_shussebakurou.htm
- 講談『荒大名の茶の湯』あらすじ http://koudanfan.web.fc2.com/arasuji/04-06_aratya.htm
- 家臣が家宝の皿を割ってしまった!その時、加藤嘉明は? https://sengokushiseki.com/?p=631