最終更新日 2025-11-02

加藤清正
 ~城普請で鍬取り「民の汗を知れ」~

加藤清正「民の汗を知れ」の逸話は史実でなく、仁君像を補う後世の創作か。冷徹な合理主義者としての一面を中和する文化的記憶として、その成立背景を考察・解説。

加藤清正「民の汗を知れ」勤労譚に関する徹底的検証

序論:加藤清正の「普請」における二重のイメージ

加藤清正(1562-1611)は、戦国時代から江戸初期にかけての武将として、その武勇と共に「築城の名手」として後世に名を馳せている。熊本城 1 や名護屋城 2 をはじめとする彼の関わった普請(土木工事)は、単なる軍事拠点の構築に留まらず、領国経営、特に治山治水 1 といった民生の安定化に直結するものであった。

この「築城の名手」清正のイメージには、二つの側面が存在する。一つは、本報告書の主題である「『城の普請で自ら鍬を取り「民の汗を知れ」と言った』という勤労譚」に象徴される「仁君」としての一面である。これは、領民と共に汗を流す指導者像を示すものである。

しかし、初期調査の段階で、この勤労譚の直接的な史料的裏付けは確認できない。それどころか、この逸話とは対極に位置する、目的達成のための冷徹さを示す伝承(「横手五郎」の人柱伝説)が複数確認され 2 、さらには「民の汗を知れ」という言葉自体が後世の「創作」であることを示唆する資料も存在する 4

したがって、本報告書は二つの柱で構成される。第一に、本逸話の原典調査と史実性の検証を行う。第二に、史実性の検証を踏まえ、ユーザーの要求する「リアルタイムな会話内容」や「その時の状態」を、歴史的蓋然性に基づく「仮説的再構築」として試みる。さらに、本逸話が清正のもう一つの側面(冷徹な合理主義)とどのように関連し、なぜ「清正公さん」 1 という信仰の対象として受容されるに至ったのか、その文化的機能を徹底的に分析する。

第1部:本逸話の原典調査と史実性の検証

1-1. 逸話の構成要素

本逸話を分析すると、以下の四つの要素に分解される。

  1. 主体: 加藤清正
  2. 場面: 城の普請(公的土木事業)の現場
  3. 行動: 自ら鍬(労働の道具)を取る
  4. 発言: 「民の汗を知れ」(家臣・監督者への訓示)

これらの要素は、単なる武将の勇猛さ(清正は「賤ヶ岳の七本槍」の一人だが、その種の武勇伝を語られることを嫌ったとされる 5 )とは異なり、近現代のリーダーシップ論や勤労観(労働の神聖視)と極めて親和性が高い。

1-2. 史料調査と不在の確認

江戸時代までに成立した主要な清正の伝記(『清正記』など)や、同時代の武将の言行録(『常山紀談』『名将言行録』など)を調査しても、本逸話、すなわち清正が鍬を取り「民の汗を知れ」と訓示したという具体的な記述の原典を発見することは、現状極めて困難である。

調査資料中には、二本松の霞ヶ城 6 や尾張の津島神社 7 に関する記述が存在するが、これらは清正の本逸話とは何ら関連性を持たない。この事実は、本逸話が「熊本城のあの場所で」「名護屋城のこの局面で」といった特定の歴史的瞬間に結びついた伝承ではなく、むしろ清正の人物像を象徴するための、非局所的な「教訓話」として機能している可能性を示唆している。

1-3. 逸話の成立時期:近現代における「創作」の可能性

本逸話の成立時期を考察する上で、注目すべきは「創作」という言葉への言及である 4 。この資料は、まさに「民の汗を知れ」というフレーズを含む文章が、現代において「創作」の題材として認識されていることを示している 4

この状況証拠と、江戸期以前の史料における不在とを組み合わせることで、以下の推論が成り立つ。

本逸話は、古くから語り継がれてきた伝承というよりも、明治期以降の修身教育(勤労の美徳を説くため)、郷土史の編纂、あるいは戦後の大衆文化(歴史小説やテレビドラマ)の中で、清正のイメージ(後述する「清正公さん」 1 )に合致するものとして「創造」あるいは「脚色」された可能性が極めて高い。

この逸話は、清正を「仁君」として描きたいという後世の動機によって生み出された「記憶の産物」であると、本節では結論付けられる。

第2部:逸話の「時系列」再構築(仮説的アプローチ)

第1部で検証した通り、本逸話は史実としての確証がない。しかし、要求された「リアルタイムな会話内容」「時系列」の解明に応えるため、ここでは「もし、この逸話が史実、あるいは史実に近い背景を持つとしたら」という仮定のもと、歴史的蓋然性を追求した「状況の再構築」を試みる。これは「歴史的事実」の描写ではなく、「逸話が要求する情景」の学術的推論である。

2-1. 舞台設定の考察:いつ、どこの「普請」か

逸話の舞台として、清正が関わった主要な普請が候補となる。

  1. 名護屋城の普請(文禄年間): 豊臣秀吉による朝鮮出兵の拠点。清正は築城奉行の一人であった 2 。諸大名が動員された「天下普請」であり、競争意識や秀吉へのアピールの下、過酷な労働環境が想定される。
  2. 熊本城の普請(慶長年間): 関ヶ原の戦い後、清正が自身の本拠地として築いた城 1 。自らの領民を直接動員し、彼の領国経営の哲学が最も反映された現場である 1

逸話の教訓性、特に「民」への言及を鑑みた場合、名護屋城のような諸藩の寄せ集め現場よりも、自領の民を使い、自らの統治哲学が反映される「熊本城」の普請現場 1 こそが、最も逸話の舞台として「ふさわしい」と推察される。

2-2. 状況の再現(仮説的時系列描写)

以下に、熊本城の石垣普請の現場を想定した、仮説的な時系列を再構築する。

  • 【時刻・天候】 : 慶長12年(1607年)頃、夏。昼過ぎ。灼熱の太陽が照り付け、熊本城の石垣普請の現場。人夫たちの疲労がピークに達している。
  • 【発端】 : 清正(伝承によれば身長190センチの大男 5 )が、馬上で普請場を視察している。その折、ある一角で、現場監督を務める配下の武士(家臣)が、作業の遅れている人夫を鞭で打ち、あるいは大声で一方的に叱責している場面を目撃する。
  • 【行動】 : 清正は馬から静かに降りる。家臣は清正の来訪に気づき、慌てて平伏する。清正は家臣の叱責を制し、人夫が持っていた鍬、あるいは石運びのモッコ(畚)を無言で手に取る。
  • 【実行】 : 清正はその巨躯 5 で、自ら土を掘り、汗だくになりながら石を運ぶ。その姿は、現場の視線を一気に集める。現場監督の家臣たちも、慌てて作業に加わろうとする。

2-3. 会話内容の分析:「民の汗を知れ」

  • 【発声の瞬間】 : 一定時間(おそらく数十分)の労働の後、清正は鍬を家臣に返す。そして、疲弊した人夫たちに対してではなく、彼らを監督していた 家臣団 に向かって、静かだが威厳のある声でこう告げる。

「…これが民の労苦である。汝ら、ただ上から見下ろし、口先だけで人を動かそうとしてはならぬ。まず自ら汗を流し、その重さを知れ。**民の汗を知れ。**それこそが、事を成す(普請を成し遂げる)者の務めである。」

  • 【発言の対象と真意】:
    この言葉は、民に向けられたものではなく、明確に「中間管理職」たる家臣に向けられたリーダーシップ論(訓示)である。
    清正が「知性派」であった 5 という人物像と照らし合わせると、これは単なる精神論や仁愛(優しさ)の表明ではない。
    清正は、非効率な管理(鞭打や叱責)が、恐怖によって生産性を低下させていることを見抜いたのである。彼自ら鍬を取る行為は、第一に家臣への「見せしめ(デモンストレーション)」であり、第二に人夫たちの士気(モラール)を(一時的に)高揚させるための、合理的パフォーマンスであったと考えられる。
    したがって、「民の汗を知れ」という言葉は、「民が可哀想だ」という共感(Empathy)の要求であると同時に、「民(労働力)の限界と効率を(管理者が)正確に把握せよ」という、極めて合理的なマネジメント(Management)の指示であったと推察される。

第3部:築城における対照的イメージと本逸話の機能

3-1. もう一つの普請逸話:「横手五郎」の人柱伝説

第2部で再構築した「仁君」清正のイメージとは全く異なる、対照的な逸話群が存在する。それが「横手五郎(無双五郎)」の人柱伝説である 2

  • 伝承の概要 : 名護屋城 2 および熊本城 2 の築城に従事した「無双五郎」(または横手五郎)という怪力の若者がいた。彼は清正に仕え、特に熊本城の深井戸の石積みなどで功績を上げた 2
  • 清正の決断 : しかし清正は、城の秘密(抜け穴や石垣、井戸の構造)が外部に漏れることを恐れ、この功労者である五郎を「生き埋め」にすることを決意した 2
  • 殺害のシークエンス : 清正は五郎に井戸の底での作業を命じ、上から大石を投げ込ませて殺害しようとした。ところが五郎は、落ちてくる石を両手で受け止めては上に投げ返した。五郎は自らの運命を悟り、井戸の底から大声で叫んだ。「わしを殺すなら石ではだめだ、じゃり(砂)を入れろ」。清正が土砂を投入させると、五郎の体はみるみるうちに埋まり、地底に消えていった 3

3-2. 比較分析:二つの逸話の対立構造

清正の普請(築城)に関しては、正反対の二つの逸話群が併存している。

比較項目

勤労譚(本逸話)

人柱伝説(横手五郎)

清正の行動

自ら鍬を取り、汗を流す( 共感

功労者を生き埋めにする( 犠牲

対象への態度

民の労苦を思いやる( 仁愛

機密保持のため殺害する( 非情

逸話の背景

労働の尊厳、指導者の徳

城の機密性、目的達成の徹底

示される清正像

仁君、労働を理解する指導者

合理主義者、冷徹なプロジェクトマネージャー

典拠(調査資料)

近代の「創作」か 4

地域の民話・伝説 2

3-3. 逸話の機能:冷徹さの「中和」

この二つの逸話群の併存は、清正のイメージ形成において重要な機能を持つ。

清正が「知性派」であったこと 5 、そして「横手五郎」の人柱伝説 2 が示す「 目的達成のための非情な合理主義 」は、おそらく史実の清正像に近い側面であった可能性が高い。築城という国家機密の軍事事業において、感傷は二の次であっただろう。

しかし、この「冷徹さ」「残虐さ」のイメージ 3 だけでは、後述する「清正公(せいしょこ)さん」 1 という 神格化 されたイメージは成立し得ない。

結論として、本報告書の主題である「民の汗を知れ」という逸話 4 は、この人柱伝説 3 が持つ「冷徹さ」を 中和・相殺 し、「仁君」としての側面を補強するために、後世(特に「清正公信仰」が確立した後)に**要請され、生成された「対抗記憶(カウンター・メモリー)」**であると考えられる。

第4部:「清正公(せいしょこ)信仰」と勤労譚の受容

4-1. 治水・勧業の神「清正公さん」

清正は、肥後(熊本)入国後、長引く戦乱で荒廃していた領地の立て直しのため、「治山治水工事や、水田の開発」に絶大な力を注いだ 1

これらの土木事業・領国経営の功績は極めて大きく、清正は領民から神のように慕われ、現在に至るまで「清正公(せいしょこ)さん」と呼ばれ、信仰の対象となっている 1

4-2. 逸話の受容土壌:なぜ「鍬」でなければならなかったか

この信仰の背景こそが、本逸話が成立した土壌である。

  1. 清正は「武勇」や「虎退治」の神としてではなく、第一に「 治水・土木(普請) 」の神 1 として信仰されている。
  2. そのため、彼の神格性を裏付ける逸話は、「戦場」ではなく「 普請の現場 」で起こる必要があった。
  3. 彼のシンボルは、賤ヶ岳の「槍」 5 や刀ではなく、大地を治め、領民の生活を支える「 鍬(くわ) 」でなければならなかった。「鍬」は、まさに「治山治水」「水田開発」 1 の象徴である。

4-3. 結論:逸話の史実性と「清正公」イメージの形成

本報告書の調査結果を以下に結論付ける。

第一に、加藤清正が城の普請で鍬を取り「民の汗を知れ」と述べたとする勤労譚について、その「リアルタイムな会話」や「時系列」を裏付ける 一次史料は、現状の調査では確認できない

第二に、むしろ「創作」であることを示唆する資料 4 や、対照的な「横手五郎の人柱伝説」 2 の存在は、本逸話が 史実である可能性が極めて低い ことを示唆している。

しかし、本逸話は「嘘」や「間違い」として切り捨てられるべきものではない。

本逸話は、加藤清正という歴史上の人物が、熊本の地で「 清正公さん 」という「 治水と仁愛の神 1 へと昇華していく過程で、その**神格性を説明・補強するために民衆によって生み出され、近代の(勤労を美徳とする)価値観によって強化された「文化的記憶(Cultural Memory)」**である。

それは、「横手五郎」の逸話 3 が伝える「冷徹な合理主義者」というもう一つの記憶と表裏一体をなしながら、「加藤清正」という多面的な歴史的アイコンを形成している。要求された「勤労譚」は、史実の清正ではなく、信仰の対象としての「清正公」の姿を最もよく表した、神話的エピソードであると結論付ける。

引用文献

  1. 歴史 | 【公式】熊本城 https://castle.kumamoto-guide.jp/history/
  2. おじいさんの昔話-第8話 - 玄海町ホームページ https://www.town.genkai.lg.jp/site/kankou/1344.html
  3. 怪力横手の五郎(肥後・熊本の昔ばなし) https://visnet.ne.jp/ep/chieikasu/staff/room144.html
  4. レベッカの部屋 治水土木名人対談 加藤清正&武田信玄 with 成富茂安 https://note.com/lush_raven2603/n/n510e7271df3c
  5. 中野信子 歴史脳解剖 第五幕:熊本城と頭頂側頭接合部① | INTERVIEW - comforts.jp https://www.comforts.jp/interview/4971/
  6. 市民の憩いの場、また通年観光地として親しまれている県立霞ヶ城公園は、遠く室町時代から江戸時代終焉まで400有余年の長きにわたり営まれた「二本松城址」。三方が丘陵で囲まれた"馬蹄型城郭"で、自然地形を巧みに利活用した要塞堅固な名城であった。幾百星霜を経た今日でも、各所に往時の姿が偲ばれる貴 重な史跡・名勝・天然記念物が数多く点在している。 - 二本松商工会議所 https://www.nihonmatsu-cci.or.jp/tanbou/yuuyuu.html
  7. 幼少の加藤清正が鬼の面で盗賊を退治した逸話が残る津島市清正公社 https://sengokushiseki.com/?p=6857