最終更新日 2025-10-25

加藤清正
 ~堀の水を袖で掬い水神に祈る~

加藤清正が堀普請で誤って流れた水を袖で掬い水神に祈った逸話は、彼の深い信仰心と、自然を敬い民の安寧を願う統治者としての精神性を象徴する。

加藤清正「水を袖で掬う信心譚」に関する総合的考察 —治水思想と民俗信仰の交差点—

序章:語り継がれる清正の敬虔—逸話への導入

戦国時代から安土桃山時代にかけて、数多の武将がその武勇を天下に轟かせた。その中でも、加藤清正は「賤ヶ岳の七本槍」の一人としての武功や、朝鮮出兵における虎退治の伝説など、猛将としての側面が広く知られている 1 。しかし、彼の人物像の深奥をなすのは、単なる武勇のみではない。肥後熊本の領主として、後世「土木の神様」とまで称されるほどの卓越した治水・築城技術を発揮し、領民の生活基盤を築き上げた為政者としての顔である。この清正のもう一つの側面、すなわち自然と対峙し、民を想う統治者としての精神性を象徴する逸話として、一つの信心譚が語り継がれている。それが本報告書の主題である、『堀普請で誤って流れた水を袖で掬い、城主の水神に祈ったという信心譚』である。

この物語は、清正の数ある武勇伝とは一線を画し、彼の内面、とりわけその信仰心と為政者としての深い哲学を浮き彫りにする。しかしながら、この逸話の具体的な典拠を一次史料に求めることは困難である。その性質上、江戸時代に入り「清正公(せいしょこ)信仰」が民衆の間に広まる過程で、講談や語り物を通じて形成・洗練されていった可能性が極めて高い 2

したがって、本報告書は、この逸話の史実性を確定的に論じることを目的とするものではない。むしろ、物語が内包する豊穣な「意味」を解読することに主眼を置く。そのため、以下の四部構成によるアプローチを採用する。第一に、逸話の舞台となる土木事業の現実的文脈を明らかにし、なぜ「水が流れる」という事象が重大事と見なされたのかを探る。第二に、逸話の情景を時系列に沿って、関連情報から推察される心理描写を交えながら再構成する。第三に、物語の核心である「袖で水を掬う」という行為に秘められた、民俗学的な深層を徹底的に分析する。そして第四に、この伝説が清正の神格化、すなわち「清正公信仰」の形成に果たした歴史的役割を考察する。この多角的な分析を通じて、一滴の水に映し出された武将の真髄に迫ることを目指すものである。

第一部:普請の現場—水の支配と畏怖

この逸話の核心を理解するためには、まずその舞台となる戦国時代の土木事業がいかなるものであったか、そして「水」という存在が当時の人々にとってどのような意味を持っていたかを把握する必要がある。単なる作業上の失敗が、なぜ即座に信仰的な意味を帯びるのか。その背景には、自然の猛威に対する人々の畏怖と、それを克服しようとする為政者の壮絶な覚悟が存在した。

第一章:戦国時代の土木事業と「水」

加藤清正は天正16年(1588年)に肥後北半国の領主となって以降、領国経営の根幹として大規模な土木事業に心血を注いだ 7 。その代表格が、難攻不落の名城と謳われる熊本城の築城であり、同時に領内を流れる白川、緑川、菊池川といった大河川の治水事業、そして有明海に面した広大な干拓事業であった 7 。これらの事業は、単に労働力を投入すれば完遂するものではなく、肥後特有の自然環境との絶え間ない闘争を意味した。特に、阿蘇山の火山灰が堆積した「ヨナ」と呼ばれる脆弱な地質は、水路を掘削してもすぐに崩れ、また水が浸透しやすく渇水にも見舞われるという困難をもたらした 13

このような過酷な事業の精神的重圧を物語るのが、領内各地に残る「人柱伝説」である。特に、菊池川下流域の広大な干拓地を造成するための潮受け堤防「石塘(いしども)」の工事は難航を極め、幾度となく堤が波に破壊されたため、ついに人柱を立てることでようやく完成したと伝えられている 15 。人柱という非情な手段が伝説として語り継がれること自体が、当時の土木事業が人間の技術や合理性だけでは到底克服できない、神仏の領域に踏み込む行為であったことを示唆している。成功も失敗も、その全てが神々の意志として受け止められた時代、工事現場でのいかなる事故も、単なる物理現象では済まされなかったのである。それは神の怒りや祟りの前兆と見なされ、人々の心に深い恐怖を刻み込んだ。

第二章:土木儀礼と水神祭祀

当時の日本人は、山や川、岩や木といった森羅万象に神が宿ると信じる世界観の中に生きていた 20 。土木事業とは、すなわち神々の領域である自然に人間の意志を刻み込む行為に他ならない。そのため、工事の着工前、進行中、そして完成後には、その土地の神々の許しと加護を請い、その怒りを鎮めるための祭祀が不可欠であった 21

中でも「水神」は、極めて重要な信仰の対象であった。水は、稲作文化を基盤とする日本社会にとって、豊穣をもたらす生命の源である。しかしその一方で、一度牙を剥けば洪水となって全てを押し流し、あるいは日照りとなって大地を干上がらせる、恐るべき荒ぶる神でもあった 20 。水の支配は、領国経営の最重要課題であり、為政者の手腕が最も問われる領域であった。したがって、堀普請の最中に、意図せずして水を流出させてしまうという出来事は、この両義的な力を持つ水神の機嫌を損ね、その怒りを買う行為に他ならなかった。それは、事業の失敗だけでなく、領内に災厄をもたらしかねない、極めて不吉な凶兆と受け止められたのである。

加藤清正自身が、こうした土着の信仰に対して深い敬意を払っていたことは、他の伝説からも窺い知ることができる。熊本県甲佐町を流れる緑川に「鵜の瀬堰」という大規模な堰を築造した際、激しい川の流れに阻まれ工事は難航を極めた。その時、清正は現地の甲佐神社に幾日も参籠して一心に祈りを捧げたという 25 。するとある夜、夢の中に鵜の群れが川を斜めに並んで渡る光景が現れ、そのお告げの通りに堰を斜めに築いたところ、ついに難工事を成功させることができたと伝えられている 26 。この逸話は、清正が熱心な日蓮宗徒であった 3 という事実と並行して、領内の土地神(うぶすながみ)に対しても敬虔な祈りを捧げる、現実的かつ柔軟な信仰観を持った為政者であったことを示している。彼のこの姿勢こそが、今回の信心譚が生まれる土壌となったのである。

第二部:逸話の時系列的再構成と心理描写

史料に直接的な記述が存在しない以上、この逸話の情景を完全に復元することは不可能である。しかし、第一部で検証した時代背景、加藤清正という人物に関する伝承、そして当時の人々の心理を総合することで、その最も確からしい姿を、臨場感をもって描き出すことは可能である。ここでは、論理的な推論に基づき、逸話の展開を時系列に沿って再構成する。

第一章:ある日の堀普請—情景の再現

舞台は、慶長年間の熊本城、その大規模な普請現場である。天守が聳え立つ茶臼山の麓では、広大な内堀と外堀の掘削作業が昼夜を分かたず進められている。数千、あるいは一万に及ぶ人足たちが、土を掘り、もっこで運び、石垣の石を曳く。夏の盛りであれば、照りつける陽光が剥き出しの地面を焼き、立ち上る土埃と汗の匂いがむせ返るように立ち込める。冬であれば、冷たい風が吹きすさび、かじかむ手で槌を振るう。

「えい、ほっ。えい、ほっ」。地を揺るがすような掛け声、石を割る鑿の音、作業を監督する足軽頭たちの怒声が渾然一体となって渦巻いている。熊本城の急峻な坂は「地獄坂」と呼ばれ、人足たちは巨大な石材の重みに潰されそうになりながら、滑る足で「まるで地獄だ」と嘆きつつ往復したという 30 。そこは、国家的な事業の熱気と、個々の労働者の苦役が交差する、巨大で過酷な空間であった。

第二章:一滴の水の意味—事件の発生

その日も、普請はいつものように進んでいた。堀底に溜まった水を汲み出すためか、あるいは石垣の目地に詰める漆喰を練るためか、木製の大きな樋を通して水が慎重に運ばれていた。その時、事件は起きた。何かの拍子に樋を支える足場がぐらついたのか、あるいは水を満たした大きな桶がバランスを崩したのか、突如として「ザアッ」という鈍い音と共に、大量の水が土埃の舞う地面へと流れ出したのである。

一瞬、現場の全ての音が止んだ。人々は動きを止め、まるで禁忌を犯したかのように、泥水がじわりと広がっていく光景を呆然と見つめていた。それは単なる水の損失ではなかった。普請のために聖別され、あるいは水神から借り受けた「聖なる水」が、不浄の地へと流れてしまったことを意味した。やがて、誰からともなく不吉な囁きが広がり始める。

「水神様が…」

「お怒りになるぞ…」

「祟りじゃ…この普請は祟られる…」

恐怖は伝染する。足軽頭が「うろたえるな!作業に戻れ!」と怒鳴りつけるが、一度人々の心に巣食った神への畏怖は、命令一つで消えるものではない。現場は、作業の停滞という物理的な問題以上に、集団的なパニックという深刻な危機に瀕していた。

第三章:虎之助、動く—清正の対応

その混乱の最中、一人の巨漢が静かに人垣を分け、騒ぎの中心へと歩を進めた。加藤主計頭清正、その人である。伝承によれば、その身の丈は六尺三寸(約190cm)にも及び、戦場では天を突くような長烏帽子形兜(ながえぼしなりかぶと)を被ることで、その威容をさらに際立たせたという 3 。たとえ平時の視察であったとしても、その堂々たる体躯と、数多の戦場を潜り抜けてきた者にのみ宿る凄みは、自然と周囲を圧する存在感を放っていた。

清正は、現場の責任者を怒鳴りつけたり、うろたえる人足を叱責したりはしなかった。ただ静かに、流れ続ける水を見つめる。その背中には、一切の動揺が見られない。彼の沈黙と不動の姿が、かえって恐るべき威厳となり、あれほど騒がしかった現場の喧騒は、水を打ったように静まり返っていった。人々は固唾を飲んで、主君が次の一手をどう打つのかを見守っていた。

第四章:袖に掬う一滴と天への祈り—会話と祈祷の再現

やがて清正は、静まり返った人足たちを見渡し、低く、しかし現場の隅々にまで響き渡る声で語りかけた。その言葉は、推測の域を出ないが、彼の人物像から鑑みれば、以下のようなものであっただろう。

「静まれ。これは天が我らの信心を試しておられるのだ。この城、この堀は、ただの戦の備えにあらず。肥後万民の安寧を未来永劫守るための礎である。そのための普請なれば、一滴の水たりとも、神仏の御心に適わぬ扱いを致してはならぬ。過ちは人の常。肝要なのは、その過ちをいかにして神の御前にてお詫びし、許しを乞うかにある」

そう言うと、清正は驚くべき行動に出た。彼は、数多の家臣や人足が見守る中、おもむろに泥濘の地面に片膝をついたのである。そして、流れゆく泥水を、両の手で掬うのではない。おもむろに、自らが纏う豪奢な陣羽織か、あるいは上質な着物の を、躊躇うことなく水面に浸し、静かに掬い上げた。

その所作の、常識からかけ離れた意外性と、そこに込められた真摯な敬虔さに、誰もが息を呑んだ。一国の主たる大名が、自らの衣服を、それも最も清浄であるべき袖を、泥水に浸す。それは、合理性を超越した、信仰の行為であった。

清正は、水を吸って重くなった袖を、壊れ物を扱うかのようにそっと胸の前に捧げ持つ。そして、目を閉じ、天を仰ぎ、この土地に鎮まる水神、そして城の鎮守神に向かって、静かに祈りの言葉を捧げた。

「この地の水神よ、我らが未熟ゆえの過ち、平にご容赦くだされ。この水は、貴方様より賜りし命の源。一滴たりとも無駄には致しませぬ。我、加藤清正、この身、この魂をもって、この普請の成就を誓いまする。願わくば、我らの赤心をお受け取りになり、この事業を成し遂げさせ、領民の安寧をお守り下されんことを」

その祈りは、決して長いものではなかっただろう。しかし、一人の武将が全てを懸けて神と対峙するその姿は、現場の全ての人々の心を強く打ち、不吉な空気は一掃され、代わりに主君への絶対的な信頼と、事業完遂への新たな決意が満ち溢れたのである。

第三部:行為の深層—民俗学的・宗教学的分析

加藤清正のこの逸話が、単なる美談を超えて人々の心に深く刻まれるのは、その中心にある「袖で水を掬う」という行為が、日本の古層に根差した深遠な象徴性を持っているからに他ならない。なぜ、彼はより実用的な「手」ではなく、あえて非効率な「袖」を用いたのか。この問いを解き明かすことは、逸話の核心に迫ることであり、当時の人々の精神世界を理解する鍵となる。

第一章:「袖」に宿る魂—なぜ手ではなく袖だったのか

古代の日本人にとって、衣服、特にその「袖」は、単に身体を覆う布以上の意味を持っていた。『万葉集』の時代から、袖は着用者の魂(タマ)が宿る場所、あるいは外部の霊的な存在と交信する媒体と考えられてきた 32 。例えば、遠く離れた恋人や旅立つ人の無事を祈る際に行われる「袖を振る」という行為は、単なる別れの挨拶ではない。それは、相手の魂をこちらに引き寄せ(招魂)、あるいは自らの魂を相手に送り届けるという、極めて呪術的な意味合いを持つ儀礼であった 32 。袖は、魂が宿り、出入りする神聖な器であり、霊的な力が籠る場所と信じられていたのである。

この観点から、「手で掬う」行為と「袖で掬う」行為を比較すると、その意味の違いは歴然とする。「手」は、労働や作業といった物理的な世界における行為の主体である。手で水を掬うことは、水を物理的に回収するという、実用的な行動に過ぎない。それに対して「袖」は、魂や霊といった非物理的な世界と繋がる媒体である。その袖を水に浸すという行為は、物理的な合理性を完全に度外視した、象徴的な儀礼そのものである。それは、 自らの身体の一部であり、魂の宿る神聖な依り代を、直接、聖なる対象(水神の象徴である水)に触れさせる ことを意味する。つまり、清正は単に水を回収しようとしたのではなく、 自らの魂をもって神の怒りを鎮め、犯した禁忌による穢れを祓うという、自己犠牲的な宗教儀礼 を執り行っていたのである。

さらに、袖は着用者の内なる世界(魂)と、外なる世界(現実・他者・神霊)とを隔てる一種の「結界」としての役割も担っていた 37 。清正がその結界を自ら破り、聖なる水に袖を浸した行為は、俗なる自己(為政者・加藤清正)と聖なる存在(水神)との境界線を取り払い、一身に神の意志を受け止め、その怒りを自らの魂で吸収しようとする、最高度の敬意と帰依の表明であったと解釈できる。それは、神と人との仲介者たらんとする者の、究極の祈りの形であった。

この行為の特異性をより明確にするため、以下の表にその儀礼的意味を比較整理する。

項目

手による行為

袖による行為

機能的側面

物理的・直接的・効率的

非物理的・象徴的・非効率的

民俗学的意味

労働・作業・行為の主体

魂の宿り場・霊的存在との接点・結界

儀礼的含意

捧げ物を「運ぶ」

自身(の魂)を「捧げる」

逸話における解釈

水を物理的に回収する

罪・穢れを自らの魂に引き受け、神に赦しを乞う

このように、清正の行動は、単なる信心深さの表れという次元を超え、日本の民俗信仰の深層に根差した、計算され尽くした、あるいは無意識のうちに行われた高度な宗教的パフォーマンスであった。この行為を目撃した人々が、そこに主君の神聖さを見出し、畏敬の念を抱いたことは想像に難くない。この逸話は、清正が単なる武人や為政者ではなく、神々の世界と通じることができる特別な存在であるという印象を、人々の心に強く植え付けたのである。

第四部:伝説の形成—「清正公(せいしょこ)信仰」への道

この「水を袖で掬う」逸話は、孤立した美談として存在するのではない。それは、加藤清正という歴史上の人物が、死後「清正公(せいしょこ)さん」として神格化されていく大きな流れの中で、極めて重要な役割を果たした物語である。この逸話が、どのようにして清正の神格化に寄与し、彼のパブリックイメージを形成していったのかを考察する。

第一章:為政者から神へ

慶長16年(1611年)、加藤清正は50歳でその生涯を閉じた 3 。彼の死後、その遺徳、特に肥後の地を豊かにした治水・土木事業の功績を慕う領民たちの間で、彼を神として祀る信仰が自然発生的に生まれていった。この信仰は、清正が生前に建立した菩提寺である日蓮宗の本妙寺などを中心に広まり、やがて「清正公信仰」として確立される 8 。この信仰において、清正は特に「土木の神」「治水の神」としての神格が強く、さらには朝鮮出兵の虎退治の武勇から「武運長久の神」、あるいは様々な逸話から「病除けの神」としても崇敬された 41

本報告書で取り上げた逸話は、この信仰形成のプロセスにおいて、まさに格好の物語を提供した。それは、「武勇の清正」という一面的なイメージに、「慈悲と敬虔な信仰心を持つ清正」という、神として祀られるにふさわしい内面性を付け加えるものであったからだ。自然の力を前にして驕ることなく、その神々に対して深く頭を垂れ、万民のための事業に自らの魂さえも捧げようとする姿は、彼が人々を守護する神となるに足る人物であることを、何よりも雄弁に物語っていた。江戸時代を通じて、この種の逸話が講談師の口や民間の語り部によって繰り返し語られることで、清正の神格化はさらに加速し、不動のものとなっていったと推察される 2

第二章:逸話が象徴するもの

この逸話は、単に清正の信仰心を描いているだけではない。そこには、人々が理想とするリーダーの姿が投影されている。普請現場で発生した危機に対し、清正は権威や暴力で人々を抑えつけようとはしない。代わりに、静かな祈りという、最も内省的で平和的な方法によって、パニックに陥った現場の空気を一変させ、人々の心を一つにまとめた。この姿は、敵の兵士さえもその境遇に同情して見逃すといった、彼の「人たらし」としての一面や、部下の心情を深く理解していたとされるマネジメント能力を象徴している 44 。彼は、恐怖ではなく、徳と共感によって人々を導くことができる、理想的な君主として描かれているのである。

最終的に、この逸話は加藤清正という人物の持つ二つの側面—「武」と「文」—を統合し、完璧な英雄像を完成させる役割を担っている。虎退治や数々の合戦で見せた圧倒的な武勇が「武」の側面であるならば、大規模な治水・築城事業を成功に導いた統治能力や、この逸話に見られる深い信仰心は「文」の側面である。この両者が融合することで、「清正公」という、武勇に優れるだけでなく、慈悲深く、神に通じる霊的な力をも備えた、民衆の祈りの受け皿たる神格が誕生する。本逸話は、その「文」の側面を、最も詩的かつ象徴的に表現した物語として、清正公信仰の根幹を支える、極めて重要な文化的装置として機能してきたのである。

結論:一滴の水に映る武将の真髄

本報告書は、加藤清正にまつわる『堀普請で誤って流れた水を袖で掬い、城主の水神に祈ったという信心譚』について、多角的な視点からその深層を分析した。その結果、この逸話が単なる後世の創作や美談にとどまらず、戦国時代の過酷な土木事業の実態、自然への畏怖に満ちた水神信仰、そして衣服の「袖」という部位に込められた日本の古層からの民俗的意味が複雑に交差する、極めて多層的な物語であることが明らかになった。

清正が泥水を手ではなく、あえて自らの袖で掬った行為は、物理的な合理性を超越した、魂の次元における祈りの表明であった。それは、自らの魂が宿るとされた袖を神聖な水に浸すことで、犯した禁忌の穢れを一身に引き受け、神の怒りを鎮めようとする自己犠牲的な儀礼に他ならない。この行為を通じて、清正は単なる為政者や軍事指揮官という役割を超え、神と民との間に立つ精神的な仲介者としての姿を、人々の前で体現して見せたのである。

この逸話は、史実性の有無を問う以上に、文化的な価値において重要である。それは、加藤清正という一人の武将の精神性を深く掘り下げると同時に、彼がなぜ死後400年を経た現代に至るまで「清正公(せいしょこ)さん」として広く崇敬され、神として祀られ続けるのか、その核心的な理由を我々に示してくれる。武力による支配だけでは、真の統治は成し得ない。自然を敬い、神を畏れ、民の安寧を願う敬虔な祈りこそが、為政者に真の権威を与えるという、時代を超えた普遍的な真理がそこには込められている。

普請現場の泥水に浸された一介の袖は、時を超え、一人の戦国武将の祈りと哲学、そして彼が生きた時代の精神性を、今なお我々に雄弁に物語っているのである。

引用文献

  1. (加藤清正と城一覧) - /ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/16985_tour_066/
  2. 加藤清正の伝説は二次創作!? 猛将のサラリーマン的素顔を3分で解説 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/177433/
  3. 加藤清正 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%B8%85%E6%AD%A3
  4. 加藤清正-歴史上の実力者/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/44329/
  5. 加藤清正 【第一章】シリーズ熊本偉人伝Vol.2 https://kumamoto.tabimook.com/greate/detail/2
  6. 戦国版「プロジェクトX」を体感せよ‼ 加藤清正の命を受け、築城に命を賭けた職人たち――『もっこすの城 熊本築城始末』刊行記念対談 | カドブン https://kadobun.jp/feature/talks/2sje6m02cfcw.html
  7. 肥後治水と利水事業を拓いた加藤清正 - 農林水産省 https://www.maff.go.jp/j/nousin/sekkei/museum/m_izin/kumamoto/index.html
  8. No.018 「 肥後と加藤清正 」 - 熊本県観光連盟 https://kumamoto.guide/look/terakoya/018.html
  9. 加藤清正が「セイショコさん」と呼ばれ、 今でも熊本県民に慕われるワケは? - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/21195/?pg=2
  10. 緑川の歴史 - 国土交通省 https://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0912_midori/0912_midori_01.html
  11. 1. 加藤清正の治水・利水事業 - 日本ダム協会 http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=472&p=1
  12. 加藤清正信仰と土木工事 - researchmap https://researchmap.jp/hanhna/published_papers/18267335/attachment_file.pdf
  13. 加藤清正|どぼく偉人ファイルNo.14 - RENSULTING MAGAZINE - レンサルティングマガジン - アクティオ https://magazine.aktio.co.jp/work-ability/20240425-1220.html
  14. 土木の神様・清正公の偉業 - 熊本市 https://www.city.kumamoto.jp/kankyo/kiji00320317/index.html
  15. 私の玉名「イチオシ!景観」 https://www.city.tamana.lg.jp/q/aview/137/8267.html
  16. 旧玉名干拓施設 - たまララ https://www.tamalala.jp/info/kyutamanakantakusisetsu/
  17. No.147 「横島干拓四〇〇年」 - 熊本県観光サイト https://kumamoto.guide/look/terakoya/147.html
  18. 【玉名市】「人柱」という哀しい歴史も残る、石塘史跡公園(いしどもしせきこうえん) | 肥後ジャーナル https://higojournal.com/archives/isidomoshisekikouen.html
  19. 旧玉名干拓施設~石塘史跡公園 | 熊本の観光ガイドタクシー 加来(英)個人タクシー https://kakutaxi.com/%E6%97%A7%E7%8E%89%E5%90%8D%E5%B9%B2%E6%8B%93%E6%96%BD%E8%A8%AD%EF%BD%9E%E7%9F%B3%E5%A1%98%E5%8F%B2%E8%B7%A1%E5%85%AC%E5%9C%92/
  20. 《水の信仰・祀り・祭り》 37号 祭りの磁力 - ミツカン 水の文化センター https://www.mizu.gr.jp/kikanshi/no37/08.html
  21. 道路建設の祭祀儀礼と故事 - 株式会社 藤井基礎設計事務所 https://sunflower.fujii-kiso.co.jp/topics/forum/kenshuu/2010/29.pdf
  22. 水神のルーツと生活文化 https://bunkyo.repo.nii.ac.jp/record/2116/files/BKK0001922.pdf
  23. No.072 いのりとまじない | アーカイブズ | 福岡市博物館 https://museum.city.fukuoka.jp/archives/leaflet/072/index.html
  24. 水と龍に宿る畏怖と信仰の歴史|株式会社カネタ - note https://note.com/kaneta_kami1478/n/nb86144a2877d
  25. 緑川を治める(加藤清正公の川づくり②) - Wix.com https://moritayasuo.wixsite.com/country-ology/single-post/2016/10/23/%E7%B7%91%E5%B7%9D%E3%82%92%E6%B2%BB%E3%82%81%E3%82%8B%EF%BC%88%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%B8%85%E6%AD%A3%E5%85%AC%E3%81%AE%E5%B7%9D%E3%81%A5%E3%81%8F%E3%82%8A-%EF%BC%89
  26. 甲佐町の民話・鵜の瀬ぜき(うのせぜき) https://www.town.kosa.lg.jp/q/aview/54/5.html
  27. 清正公の土木遺構 - 熊本城ボランティアガイド・面白倶楽部 http://omosiro.club/kiyomasa.html
  28. 鵜の瀬堰 - 土木遺産 in 九州 https://dobokuisan.qscpua2.com/heritage/kumamoto/kum26_unosezeki/
  29. 土木の名手でもあった肥後熊本藩藩主・清正公の功績を訪ねて(鵜の瀬堰) | magazine BO https://magazine-bo.com/landscape/285/
  30. 再話を通して伝説が今日まで伝えられた要因を探る https://koutoku.ac.jp/toyooka/pdf/department/kiyou/28/28-11.pdf
  31. “加藤正清”の名前で演じられた加藤清正【時代物の戦国武将5】 - サライ.jp https://serai.jp/hobby/146433
  32. 古典文学に見る日本人の霊魂観 - 藍野大学学術機関リポジトリ https://aino.repo.nii.ac.jp/record/774/files/%E9%87%8E%E7%94%B0%EF%BC%9A%E5%8F%A4%E5%85%B8%E6%96%87%E5%AD%A6%E3%81%AB%E8%A6%8B%E3%82%8B%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E9%9C%8A%E9%AD%82%E8%A6%B3.pdf
  33. 袖の露考 -その2ー | 山村流 日本舞踊 上方舞 山村若女 https://yamamura-wakame.com/blog_3037
  34. 「襟」と「裾」の考察を中心に - The University of Osaka Institutional Knowledge Archive : OUKA https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/59664/sjlc26_028.pdf
  35. 源氏物語たより133 http://hikarutsuyoshi.blog92.fc2.com/blog-entry-192.html
  36. 着物の「袖」は日本人にとって相手への気持ちを示す大切な場所だった - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/111451/2
  37. 垂水稔『〈新装版〉結界の構造/一つの歴史民俗学的領域論』|KAZE - note https://note.com/novalisnova/n/n2f82a224ec5a
  38. 城造りの名人として名を馳せた、加藤清正「戦国武将名鑑」 - Discover Japan https://discoverjapan-web.com/article/57918
  39. 5.太田堂 | 千葉県鴨川市 大本山小湊誕生寺 公式サイト http://www.tanjoh-ji.jp/05.html
  40. 清正公信仰 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%AD%A3%E5%85%AC%E4%BF%A1%E4%BB%B0
  41. 清正公信仰の研究 https://kumadai.repo.nii.ac.jp/record/23989/files/27-30.pdf
  42. 加藤清正を祀る本妙寺と加藤神社|熊本観光 歴史と文学の旅 https://sirdaizine.com/travel/Honmyouji.html
  43. 肥後本妙寺/清正公信仰/肥後日蓮宗寺院 - Biglobe http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/n_higo_honmyoji.htm
  44. 「せいしょこさん」加藤清正の人間学|Biz Clip(ビズクリップ) - NTT西日本法人サイト https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-027.html
  45. 加藤清正を狙ったら、逆に助命、説教、スカウトまで⁈国右衛門が家臣になるまでのちょっとイイ話 https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/173039/