加藤清正
~没後白蛇となり城守る守護譚~
加藤清正の死後、白蛇となり熊本城を守った伝説の深層。神格化、蛇との関連、西南戦争の極限状況が結びつき、人々を奮い立たせた希望の物語を解説。
清正公、白蛇と化す―熊本城守護譚の深層
序章:清正公と白蛇―伝説の源流を辿る
加藤清正(1562-1611年)。戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍したこの武将は、その死後400年以上を経た現代においても、熊本の地で単なる歴史上の人物として記憶されているわけではない。彼は今なお「清正公(せいしょこ)さん」という親しみを込めた尊称で呼ばれ、信仰の対象として人々の心に生き続けている 1 。その数多ある逸話の中でも、ひときわ神秘的な輝きを放つのが、本報告書が主題とする『没後、白蛇となりて城を守った』という守護譚である。
この物語が語るのは、清正の死から実に266年の歳月が流れた明治10年(1877年)、日本最後の内戦である西南戦争の戦火が熊本城に迫った際、彼の魂が巨大な白蛇の姿を借りて現れ、自らが築き上げた難攻不落の城を守り抜いたという奇譚である。これは単なる戦場の噂話や、兵士たちが見た集団幻覚として片付けられるべき浅薄な伝承ではない。むしろ、長い時間をかけて熊本の風土と人々の心の中に醸成されてきた、三つの太い伏線が、西南戦争という極限状況を触媒として劇的に収束し、一つの壮大な物語として結晶化した文化的現象と捉えるべきである。
この守護譚の深層を解き明かすためには、以下の三つの要素を丹念に解きほぐす必要がある。第一に、築城主・加藤清正という「人物」が、生前から死後にかけて神格化されていく過程。第二に、物語の核となる「蛇」というモチーフが、清正自身と、そして日本古来の信仰の中でいかなる象徴性を帯びていたか。そして第三に、伝説が現実となった「舞台」、すなわち西南戦争における熊本城籠城戦という極限状況である。
本報告書は、これらの要素を多角的に分析し、加藤清正の魂がなぜ「白蛇」の姿で、あの瞬間に「熊本城」に現れなければならなかったのか、その歴史的、民俗学的必然性に迫るものである。
第一章:蛇の目紋と清正―生前から結びついた蛇との縁
加藤清正の霊が「白蛇」として顕現したという伝説は、彼の死後に突如として生まれたものではない。その根源は、清正が生きていた時代、彼が自らの武威の象徴として用いた意匠にまで遡ることができる。
清正は、定紋の「桔梗紋」とは別に、替紋として「蛇の目紋」を好んで用いた 4 。その名の通り蛇の目を図案化したこの紋は、単なるデザイン以上の、強い呪術的な意味合いを帯びていた。古来、日本の神話や信仰において、蛇は神の使いや大地の主として畏敬の対象であった 5 。特に、爬虫類の中でも瞬きをしない蛇の目は、常に見開かれたまま相手を凝視し続けることから、人知を超えた神秘性と、邪気を払う魔除けの力を持つと信じられていたのである 6 。蛇の目に睨まれた者は金縛りにあったかのように身動きが取れなくなるとされ、その紋様は戦場において敵を心理的に威圧する効果を持っていた。
清正はこの蛇の目紋の持つ力を深く理解し、戦略的に活用していた。現存する彼の甲冑の中でも特に有名な「長烏帽子形兜(ながえぼしなりかぶと)」の側面には、金箔押しされた蛇の目紋が大きくあしらわれている 4 。身の丈六尺三寸(約190cm)と伝えられる大男であった清正が、天を突くようなこの異形の兜を被り戦場に現れた時、陽光を反射して金色に輝く蛇の目は、敵兵の目に焼き付くような強烈な印象を与えたに違いない。それはまさしく、猛将・加藤清正の武威と、蛇の持つ超自然的な力が一体化した姿であった。
このように、清正は生前から意識的に「蛇」のイメージを自らのアイコンとして纏っていた。彼の存在は、敵味方を問わず多くの人々の心の中で、蛇の持つ神秘的な力と分かちがたく結びついていたのである。この強固な結びつきがあったからこそ、後年、彼の霊が城を守るために姿を現す際、人々にとって最も自然で納得感のある姿、すなわち「蛇」の形をとることは、物語的な必然であったと言えよう。
第二章:「せいしょこさん」信仰の誕生―神格化への道程
伝説の成就には、清正の霊が超自然的な力を持つ存在、すなわち「神」として人々に認識されていることが不可欠であった。彼の神格化は、その死の直後から西南戦争に至るまでの約270年間、二つの異なる潮流が合流する形で進行した。
第一の流れは、民衆の側から自然発生的に湧き上がった、御霊信仰的な性格を持つ崇敬である。慶長16年(1611年)に清正が没すると、肥後の領民たちは彼が生前に成し遂げた数々の功績を深く追慕した。特に、度重なる氾濫を繰り返す河川を制した治水事業や、広大な新田開発は、人々の生活に計り知れない恩恵をもたらした 1 。当初は偉大な領主への感謝であったこの感情は、時代が下り、天明・寛政期(18世紀末)に白川の大氾濫や雲仙普賢岳の大噴火といった未曾有の天災が肥後を襲うと、質的な変化を遂げる 11 。人々は、生前に水を治めた清正の霊ならば、この災厄からも自分たちを救ってくれるはずだと信じ、その霊に対して治水・除災の祈りを捧げるようになったのである 12 。ここに、清正は単なる歴史上の偉人から、現世利益をもたらす「清正公」という神へと昇華した。
第二の流れは、為政者や宗教者による、英雄祭祀としての神格化である。清正自身が熱心な日蓮宗の信徒であったことから、彼の菩提寺である熊本市内の本妙寺は、早くから清正公信仰の中心地となった 13 。法要が繰り返し行われる中で、彼は武運長久や病気平癒の神としても祀られるようになる。そして明治維新後、この流れは決定的な段階を迎える。明治4年(1871年)、熊本城内に清正を祭神とする「錦山神社」(後の加藤神社)が創建されたのである 15 。これにより、清正公は熊本藩、そして新しい時代の熊本鎮台にとって、公式な守護神としての地位を確立した。
民衆が生活の安寧を願うボトムアップ型の信仰と、為政者が地域の安寧を祈願するトップダウン型の祭祀。この二つの潮流が合流したことで、「清正公」は社会のあらゆる階層に浸透する、揺るぎない守護神となった。西南戦争が勃発する直前、熊本城に籠もる兵士たちにとって、加藤清正は遠い過去の武将ではなく、自分たちの祖父母が災害時に祈りを捧げ、そして今まさに自分たちが守るべきこの城に鎮座する、生々しい力を持った「神」だったのである。
第三章:難攻不落の城、熊本城―清正の魂が宿る器
加藤清正の魂が宿るにふさわしい「器」として、熊本城そのものが特別な意味を持っていたことも、守護譚が生まれる上で決定的に重要な要素であった。熊本城は単なる石と木材でできた軍事施設ではなく、築城主である清正の執念と経験、そして魂そのものが隅々にまで込められた「聖域」として、人々に認識されていた。
この城の設計思想は、清正が豊臣秀吉の命で朝鮮半島へ出兵した際、蔚山(ウルサン)城で経験した壮絶な籠城戦にその源流を持つ 18 。厳寒と飢餓の中、明・朝鮮連合軍に包囲され、味方の援軍が到着するまで九死に一生を得たこの体験は、清正の心に深く刻み込まれた。二度とあのような苦しみを繰り返さぬよう、徹底的に「守り」に強く、籠城に耐えうる城を造る―その執念が、熊本城のあらゆる細部に見て取れる。
その象徴が、敵兵の登攀を拒む絶妙な曲線を描く石垣、通称「武者返し(清正流石垣)」である 9 。下方は緩やかな勾配で兵士を誘い込むが、上部に行くに従って垂直に反り返り、あたかも頭上から覆いかぶさってくるかのような威圧感で侵入者を阻む。さらに、籠城戦で最も重要な生命線である水を確保するため、城内には120もの井戸が掘られた 9 。食糧対策も徹底しており、城内各所に銀杏の木を植えて非常食とし、天守閣の畳には干した里芋の茎(芋がら)を、壁には干瓢を塗り込めていたと伝えられる 18 。
これらの逸話は、単なる築城技術の高さを物語るだけではない。それは、熊本城が清正の先見の明と、部下や領民を思う心そのものであることを示していた。人々は武者返しの石垣を見上げては清正の智略に感嘆し、無数の井戸の存在を知っては彼の深慮に感謝した。城の物理的な堅牢さは、そのまま築城主・加藤清正の精神的な強靭さの象徴と見なされたのである。
したがって、西南戦争において熊本城が薩摩軍の猛攻に耐え抜いたという事実そのものが、兵士たちにとっては清正公の霊的な加護の「物証」として機能した。白蛇という具体的な姿が現れる以前から、城の難攻不落ぶりこそが、清正の魂がこの城と共にあり、自分たちを守っていることの何よりの証明だったのである。
第四章:西南戦争―伝説が現実となる舞台
明治10年(1877年)、長く醸成されてきた三つの伏線―清正と蛇の縁、神としての清正公、魂の器としての熊本城―は、西南戦争という歴史の坩堝の中でついに融合し、一つの伝説として姿を現す。
4.1 薩摩軍、熊本城へ―西郷隆盛の誤算(明治10年2月14日~21日)
2月15日、西郷隆盛を盟主に戴いた1万3千の薩摩軍は、新政府への不満を抱く士族たちの期待を一身に背負い、鹿児島を出発した。彼らの士気は高く、その進路上に聳える熊本城を侮っていた。「熊本城など青竹一本でひと突きじゃ」と兵士たちは豪語し、雪の降りしきる中を熊本へと進軍した 19 。
対する熊本城には、政府管轄下の熊本鎮台が置かれていた。司令長官の谷干城(たにたてき)少将が率いる兵力は、薩摩軍の3分の1にも満たない約3,500名 20 。兵士たちの多くは徴兵されたばかりの農民出身者であり、歴戦の薩摩隼人たちを前に、その士気は決して高くはなかった。しかし、谷干城の決意は固かった。「ただ万死を期して熊本城を保たざるべからず」。彼はそう檄を飛ばし、城の堅牢さを信じて籠城を決意する 22 。城門は固く閉ざされ、城下はにわかに戦の緊張に包まれた。
4.2 炎上する天守と絶望の攻防(2月19日~22日)
薩摩軍の総攻撃を3日後に控えた2月19日の夜、熊本城を悲劇が襲う。原因不明の火の手が上がり、折からの強風に煽られて、城の象徴である大小天守閣と本丸御殿が紅蓮の炎に包まれ、焼け落ちてしまったのである 19 。夜空を焦がす炎を前に、籠城する兵士たちは言葉を失った。自分たちが拠り所としていた城の心臓部が、戦わずして灰燼に帰したのだ。
「清正公様が、我々ば見捨てなさった…」
誰からともなく漏れた絶望のため息は、兵士たちの間に瞬く間に伝播した。精神的な支柱を失い、士気は地に落ちた。
そして2月22日、薩摩軍による総攻撃が開始される。城の西に位置する花岡山や段山に据えられた大砲が火を噴き、砲弾が城内に雨のように降り注いだ 22 。四方から押し寄せる薩摩兵の喊声と、昼夜を問わず鳴り響く銃声。熊本城は、築城以来初めて経験する実戦の地獄絵図と化した。
4.3 【逸話の核心】月下の顕現―白蛇、天守に現る
数日間にわたる猛攻に耐え、兵士たちの疲労と絶望は極限に達していた。弾薬は尽きかけ、食糧も乏しくなり、いつ城が陥落してもおかしくない状況であった。そんなある夜のことである。砲声が束の間やんだ静寂の中、何人かの兵士が、無意識に焼失した天守閣の跡地を見上げた。
その瞬間、彼らは息を呑んだ。
月光が、焼け落ちた天守の石垣を青白く照らし出していた。そして、その大棟があったはずの最も高い場所に、信じがたい光景が広がっていた。銀色に輝く巨大な白蛇が、とぐろを巻いて鎮座していたのである。その体は月光を浴びてぬらぬらと光り、爛々と輝く一対の目は、眼下に広がる薩摩軍の陣地を、厳しく、そして静かに睨みつけていた。
城内を満たしていた疲労と沈黙を、一人の兵士の叫びが破った。
「見ろ!白蛇じゃ!天守に、巨大な白蛇がおらす!」
その声に、他の兵士たちが次々と顔を上げる。誰もがその神々しくも畏怖すべき姿に釘付けになった。やがて、別の兵士が震える声で、皆の心にある確信を言葉にした。
「せいしょこさんじゃ…!清正公様が、お城ば守るために帰ってこられたとじゃ!」
この言葉は、乾いた大地に染み込む水のように、兵士たちの心に広がっていった。絶望は瞬時に消え去り、代わりに熱狂的な歓喜と確信が爆発した。見捨てられたのではなかった。我らが神、清正公は、この城と共に、我々と共に戦ってくださっているのだ。
「清正公様と共にあるならば、負けるはずがない!」
この夜を境に、鎮台兵の士気は劇的に回復した。彼らは超自然的な守護を確信し、驚異的な粘り強さで薩摩軍の猛攻を凌ぎ続けたのである。
4.4 「清正公に負けた」―伝説の成就(4月14日)
白蛇の出現に勇気づけられた鎮台兵の奮闘と、城外の田原坂で政府軍の増援部隊が死闘を繰り広げた結果 25 、戦況は徐々に政府軍に傾いていった。そして籠城開始から52日後の4月14日、ついに政府の援軍が熊本城に入城し、薩摩軍は包囲を解いて撤退を余儀なくされた 26 。
この撤退の際、西郷隆盛は、難攻不落の城を前にして、深い嘆息と共にこう呟いたと伝えられている。
「おいどんは官軍に負けたとじゃなか。清正公に負けたとでごわす」 19
敵将である西郷が発したこの一言は、城内で兵士たちの間で囁かれていた「白蛇守護譚」に、動かしがたい権威を与えた。築城主の霊が城を守ったという物語は、もはや単なる噂話ではなく、敵将すら認めざるを得なかった「事実」として、熊本の地に深く刻み込まれることとなったのである。
表:西南戦争・熊本城籠城戦 主要時系列表
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日付(明治10年) |
出来事 |
伝説との関連・意義 |
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2月15日 |
薩摩軍、鹿児島を出発 |
伝説の舞台への序曲 |
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2月19日 |
原因不明の出火により天守閣・本丸御殿が焼失 |
兵士の絶望。守護神出現の劇的効果を高める伏線 |
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2月22日 |
薩摩軍による第一次総攻撃開始 |
極限状況の始まり。兵士が超自然的な救いを求める心理的土壌 |
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(2月下旬~3月) |
(伝承)焼失した天守に白蛇が出現 |
逸話の核心。 兵士の士気が回復し、籠城を継続する精神的支柱となる |
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3月4日~20日 |
田原坂の戦い |
熊本城をめぐる外部での激戦。籠城戦の重要性を強調 |
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4月14日 |
政府軍の援軍が到着、薩摩軍が包囲を解く |
籠城成功。伝説の「結果」が示される |
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(撤退時) |
(伝承)西郷隆盛が「清正公に負けた」と語る |
敵将による伝説の権威付け。物語の完成 |
第五章:逸話の分析と文化的背景―なぜ「白蛇」だったのか
西南戦争の戦場で生まれたこの守護譚は、なぜ「白蛇」という具体的な姿をとったのか。その背景には、日本の民俗文化に根差した深い意味が存在する。
第一に、第一章で述べた通り、清正が生前から用いた「蛇の目紋」との直接的な関連性は明白である。兵士たちにとって、清正の象徴が蛇であることは、改めて説明を要しない自明の理であった。
第二に、この伝説は日本各地に古くから伝わる「白蛇信仰」の文脈に接続することができる。通常の蛇と異なり、色素を持たないアルビノの白蛇は、その希少性から神の使い、特に福徳や財宝、芸能を司る女神・弁財天の化身とされ、吉兆や富、再生をもたらす神聖な存在として崇められてきた 29 。絶望的な状況にあった兵士たちが幻視したのが、不吉な黒蛇や普通の青大将ではなく、神聖さの象徴である「白蛇」であったことは、彼らが単なる恐怖ではなく、救済と希望を求めていた心理の表れと言える。
第三に、西南戦争という戦場の特殊性が、このような超自然的な物語が生まれる土壌を形成した。この戦争は、政府軍が用いるスナイドル銃のような最新鋭の兵器と、薩摩軍が得意とする示現流の斬り込み(白兵戦)が入り乱れる、近代と前近代が混在した過渡期の戦いであった 26 。兵士たちは、遠距離から飛んでくる見えない銃弾に命を奪われるという近代戦の恐怖に晒される一方で、刀や槍を手に敵と直接渡り合うという、戦国時代さながらの原初的な戦闘も経験した。この合理と非合理が渦巻くカオス的な戦場は、兵士たちの精神を、近代的な合理主義から古代的な心性へと回帰させた。科学や兵器の優劣だけでは説明のつかない生死の理不尽さを前に、彼らが土着の神である清正公の霊力という、より根源的な力に救いを求めたのは、人間心理として極めて自然な反応であった。
この守護譚は、熊本城に伝わる他の怪談、例えば、歩哨の兵士が居眠り中に井戸に落とした銃を求めて夜な夜な「銃をくれ」と声がするという「銃くれ井戸」の伝説 32 と比較すると、その特異性が際立つ。兵士の怨念が語られる多くの怪談とは異なり、清正公の白蛇守護譚は、絶望の淵にあった人々を奮い立たせる「希望の物語」として機能した。それは、近代化の波が押し寄せる中で、人々が自らのアイデンティティと精神の拠り所を、土着の信仰心の中に再発見しようとする精神的な営みの一つの表れであったとも解釈できるだろう。
終章:現代に生きる守護譚―清正公の遺産
西南戦争の終結後、加藤清正が白蛇となって城を守ったという逸話は、熊本の郷土史や民話として人々の間に広く語り継がれていった 33 。それは、熊本城の「難攻不落」という名声を裏付ける、最も象徴的で強力なエピソードとなった。西郷隆盛さえも脱帽させた清正公の霊力は、熊本市民の郷土への誇りを育む上で、計り知れない役割を果たしてきた。
そして、この伝説が単なる過去の産物ではないことを、我々は平成の世に目の当たりにすることになる。平成28年(2016年)4月、熊本地震が発生し、熊本城は甚大な被害を受けた。無残に崩れ落ちた石垣や、傾いた櫓の姿は、多くの人々に衝撃と悲しみを与えた。しかし、そのような状況下で、市民たちの口から自然と語られたのは、他ならぬ清正公への信頼の言葉であった。
「天守閣が完全に倒壊しなかったのは、せいしょこさんが守ってくれたからだ」
「せいしょこさんがおらす限り、熊本城は必ず元の姿に戻る」
復旧・復興へ向かう人々の精神的な支柱となったのは、400年以上前にこの地を治め、140年前にこの城を守ったとされる、加藤清正の魂であった 34 。近代的な重機が稼働する復旧現場においても、人々の心の中には、清正公という守護神の存在が確かに息づいていたのである。
結論として、加藤清正の白蛇守護譚は、単なる戦場の奇譚や、迷信として切り捨てられるべき物語ではない。それは、偉大な築城主への敬愛、郷土の象徴である城への誇り、そしていかなる困難にも屈しない人々の不屈の精神が、二百数十年の時を超えて一つに結晶化した、熊本の魂の物語である。そしてその物語は、今なおこの地に生きる人々のアイデンティティを支え、未来へと向かう力を与え続ける、「生きた遺産」なのである。
引用文献
- 歴史 | 【公式】熊本城 https://castle.kumamoto-guide.jp/history/
- 加藤清正 【第一章】シリーズ熊本偉人伝Vol.2 https://kumamoto.tabimook.com/greate/detail/2
- 加藤清正公像 - 熊本市観光ガイド https://kumamoto-guide.jp/spots/detail/105
- 名字と家紋_column(蛇の目) - harimaya.com http://www.harimaya.com/kamon/column/zyanome.html
- 【家紋】「セイショーコさん」といまも慕われる名将!「加藤清正」の家紋について | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/396
- 加藤清正家紋 蛇の目とは フリー素材付き解説 - 戦国未満 https://sengokumiman.com/katoukiyomasakamon.html
- 有名戦国武将(戦国大名)の家紋一覧と日本全国の城情報まとめ|17.加藤清正の家紋 https://kamon.cardgame-japonica.com/kato.html
- 加藤清正 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%B8%85%E6%AD%A3
- No.018 「 肥後と加藤清正 」 - 熊本県観光サイト https://kumamoto.guide/look/terakoya/018.html
- 清正公堂 https://www.ne.jp/asahi/nichiren/nishiminobu/odou/seisyoukoudou.html
- 清正公信仰 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%AD%A3%E5%85%AC%E4%BF%A1%E4%BB%B0
- 特集:清正公様 - 日蓮宗佐賀県宗務所 http://www.nichiren-saga.jp/specialedition/seisyoukou.html
- 加藤清正が「セイショコさん」と呼ばれ、 今でも熊本県民に慕われるワケは? - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/21195/?pg=2
- 清正伝説と信仰 | 名古屋民俗研究会 https://nagoya-minzoku.jp/wp-content/uploads/2025/06/20250423nakamura.pdf
- 加藤神社公式ホームページ 加藤清正公を熊本城本丸にお祀りしています http://www.kato-jinja.or.jp/
- 【加藤神社】熊本城の築城者を祀る勝負の神様と御利益スポット https://kumamoto-powerspot.com/shrine/kato-shrine/
- 加藤神社由緒 http://www.kato-jinja.or.jp/kiyomasa.html
- 築城名人の哲学① 熊本城を造った加藤清正の「体験」と「経験」|Biz Clip(ビズクリップ) https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-089.html
- No.009 「 西南戦争と田原坂 」 - 熊本県観光サイト https://kumamoto.guide/look/terakoya/009.html
- 熊本城的歷史 https://castle.kumamoto-guide.jp/tw/history/
- 西南戦争はなぜ起こった!?西郷隆盛ゆかりの地を巡る歴史旅 - HISTRIP(ヒストリップ) https://www.histrip.jp/20181029-kagosima-1/?ugx=RAYhhPGFi6f8fJgI.joz1d952
- 企画展 熊本籠城戦 https://www.city.kumamoto.jp/kiji00316402/5_16402_260942_up_ABGQZ7NO.pdf
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- 西南戦争(2/2)士族最後の戦い、西郷隆盛VS政府 - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/event/551/2/
- おいどんは清正公に負けた…西郷どんも実感した「熊本城」最強の理由とは | サライ.jp https://serai.jp/hobby/173025
- 【巳年に行きたい!蛇窪神社】都内の「白蛇日本三大聖地」の神社で金運・開運アップ祈願 - 旅色 https://tabiiro.jp/kankou/taiken/hebikubo-report/
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- 熊本の民話と歴史話あぎゃん話こぎゃん話①熊本城編 - 本・雑誌のご紹介 - 熊日出版 https://www.kumanichi-sv.co.jp/booksinfo/bookinfo/%E7%86%8A%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%B0%91%E8%A9%B1%E3%81%A8%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E8%A9%B1%E3%81%82%E3%81%8E%E3%82%83%E3%82%93%E8%A9%B1%E3%81%93%E3%81%8E%E3%82%83%E3%82%93%E8%A9%B1%E2%91%A0%E7%86%8A%E6%9C%AC/
- 熊本城稲荷神社は熊本県熊本市にある、加藤清正公が勧請した神社です。 http://k-inari.com/