加藤清正
~熊本城築城時百年倒れぬ石垣築け~
加藤清正の「百年倒れぬ石垣」の逸話は、彼の壮絶な経験と未来への洞察の表れ。その言葉は後世の熊本地震で証明された、思想と技術の結晶だ。
百年の礎:加藤清正と熊本城石垣、伝説の深層分析
序章:伝説の幕開け
「百年倒れぬ石垣を築け」。
慶長の世、肥後国熊本の茶臼山に、一人の戦国武将の力強い声が響き渡ったと伝えられる。その主は、加藤清正。豊臣秀吉の子飼いとして数多の戦場を駆け、築城の名手としてもその名を天下に轟かせた人物である。彼が築いた熊本城は、後世「日本三名城」の一つに数えられ、その威容、特に壮麗かつ堅牢な石垣は、築城から四百年以上を経た現代に至るまで人々を魅了し続けている。
この「百年倒れぬ石垣」という逸話は、単なる清正の願望や精神論として語られることが多い。しかし、本報告書が解き明かすのは、この言葉が発せられた瞬間の「必然性」である。それは、清正自身の壮絶な原体験、天下分け目の戦いを経た緊迫の政治情勢、そして当代最高峰と謳われた築城技術が交差した一点に生まれた、極めて論理的かつ戦略的な大号令であった。
本報告書は、この逸話を「言葉が生まれた時」「言葉が形になった時」「言葉が試された時」という三つの時間軸で解剖し、伝説の表層を剥がし、その深層に横たわる真実に迫るものである。四百年の時を超え、二度の大地震という「審判」を受けた石垣は、我々に何を語りかけるのか。これは、一人の武将の執念と、石に込められた思想を巡る、壮大な歴史の検証である。
第一部:その言葉が生まれた「時」― 築城前夜の加藤清正
清正がなぜ「百年」という具体的な、そして途方もない時間を射程に入れた堅牢さを求めたのか。その答えは、熊本城築城が開始された慶長六年(1601年)当時の、彼の置かれた絶望的ともいえる状況と、骨身に染みた過去の教訓の中にこそ見出すことができる。
第一章:関ヶ原の戦塵と天下の行方
慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いは徳川家康の勝利に終わり、天下の趨勢は大きく徳川へと傾いた。東軍に与した清正は、戦後、小西行長の旧領を併合し、肥後五十二万石の大名となる。しかし、その立場は決して安泰ではなかった。豊臣秀吉への恩義を忘れない清正にとって、徳川の世は、常に薄氷を踏むような緊張を強いられるものだったのである 1 。
熊本城の築城が開始されたのは、まさにこの関ヶ原の戦いの翌年からであった 2 。これは、徳川の治世が未だ盤石とは言えず、豊臣家と徳川家の対立が燻り続ける、極めて不安定な時期にあたる。清正の胸中には、主君・秀吉の遺児である豊臣秀頼への揺るぎない忠誠心があった。その証左として、熊本城本丸御殿の最も格式高い一室は「昭君之間」と名付けられた 3 。この部屋は、万が一の際に秀頼を大坂から迎え入れ、匿うために用意されたと伝えられている 4 。表向きの廊下の他に隠し通路まで備えられていたという事実は、これが単なる伝説ではなく、清正の秘めたる覚悟の表れであったことを強く示唆する。
地政学的に見ても、肥後国は九州の心臓部であり、南には関ヶ原で西軍として戦った旧敵・島津氏という強大な隣人が睨みを利かせている。すなわち、熊本城は対島津の最前線基地であると同時に、いずれ来るかもしれない徳川幕府からの圧力、あるいは討伐軍にも耐えうる絶対的な拠点である必要があった。
このような状況下で発せられた「百年倒れぬ石垣」という言葉の「百年」とは、単なる長寿命の比喩ではなかった可能性が高い。それは、徳川の治世が安定し、豊臣家、ひいては加藤家の存亡が真に問われるであろう、次世代、あるいは次々世代までをも見据えた、極めて具体的な時間軸であった。清正自身は慶長十六年(1611年)にこの世を去る 5 。彼は、自分が生きている間だけでなく、己の死後も長く機能し続ける城を求めていた。つまり「百年」とは、いつ顕在化してもおかしくない政治的危機を乗り越え、加藤家が肥後の地で生き残り続けるための、現実的な耐久目標年数だったのである。これは堅牢さへの要求であると同時に、未来を見据えた政治的なタイムスケールを内包した、壮大な戦略的命令であった。
第二章:蔚山城(ウルサンソン)の地獄
清正の「堅牢さ」への執念を理解する上で、もう一つ欠かすことのできない要素が、文禄・慶長の役における蔚山城での籠城戦である。この戦いで、清正は文字通り地獄を味わった。明・朝鮮連合軍の大軍に包囲され、補給を断たれた城内で、兵たちは飢えと渇きに苦しみ、極限状態に追い込まれた 4 。
この壮絶な体験は、清正の築城思想を根底から変革した。彼にとって「城」とは、権威の象徴である前に、味方の命を守り抜くための究極の生存装置(サバイバル・シェルター)でなければならなかった。その教訓は、熊本城の設計思想の隅々にまで、執拗なまでに反映されている。
第一に、水の確保である。蔚山城での渇きの苦しみから、城内の水の確保を最優先事項とし、城内には実に120以上もの井戸を掘った 4 。第二に、食料の確保。籠城が長期化した場合に備え、畳の芯には食用の干瓢(かんぴょう)を用い、壁には味噌を塗り込み、さらには城内に食料となる銀杏の木を数多く植えた 4 。熊本城が「銀杏城」の別名を持つ由来である。
この経験から導き出される結論は明白である。どれだけ強固な城壁があっても、水と食料が尽きれば城は内部から崩壊する。逆に、水と食料が豊富でも、城壁が破られれば元も子もない。「堅牢な石垣」と「豊富な井戸・食料」は、籠城戦を戦い抜くための車の両輪であった。
したがって、「百年倒れぬ石垣を築け」という命令は、単に敵の攻撃を防ぐ物理的な壁を求めたものではない。それは、蔚山城で経験した「内部からの崩壊」という悪夢を二度と繰り返さないため、籠城生活の基盤そのものを、100年間維持せよ、という命令であった。100年後の未来に籠城戦が起きても、城兵たちが石垣が崩れる心配を一切せず、水と食料の心配もせず、ただ敵との戦いに集中できる環境。それこそが、蔚山城で最も欠けていたものであり、清正が心の底から渇望した城の理想像だったのである。
第二部:発せられた「言葉」― 百年先を見据えた大号令
清正の脳裏に焼き付いた過去の記憶と、未来への深い洞察。それらが結実し、具体的な言葉として発せられた瞬間、築城史に残る壮大なプロジェクトがその真の姿を現した。
第一章:築城現場の情景再現
慶長年間の茶臼山。縄張りが終わり、肥後の各地から巨大な石材が運び込まれ始めた普請現場の喧騒が目に浮かぶようである。そこに、六尺三寸(約190cm)と伝えられる巨躯の主君、加藤清正が立つ 7 。その傍らには、普請奉行や、この難事業を成し遂げるべく招聘された石工頭たちが控えている。
清正は、何事も率先して行う実践的な武将であり 8 、負けず嫌いで妥協を許さない性格であったと記録されている 9 。彼が発したであろう「百年倒れぬ石垣を築け」という命令は、決して穏やかな口調ではなく、腹の底から響くような、有無を言わせぬ迫力に満ちていたに違いない。それは、単なる精神論ではなく、具体的で、厳格で、そして途方もない要求であった。
この「百年」という言葉には、前述の通り、複数の意味が重層的に込められていた。
第一に、物理的耐久性。文字通り、一世紀にわたる風雪や、地震国日本において避けられない大地の揺れに耐えうる構造。
第二に、政治的メッセージ。徳川の世に対する、豊臣恩顧大名としての矜持と、長期的な有事への備え。
第三に、家門の安泰。加藤家が末永くこの肥後の地を治め、繁栄を享受するための礎としての願い。
しかし、この命令は一方的な大号令であったと同時に、最高の技術者たちに対する挑戦状であり、そして彼らの技量への全幅の信頼の表明でもあった。前代未聞の要求は、並の技術者には到底不可能である。清正がこれほどまでに高い目標を掲げたのは、彼が招聘した石工集団の技術力を絶対的に信頼していたからに他ならない。その言葉の裏には、「お前たちの技ならば、これが可能であろう。天下に示す、最高の仕事を見せてみよ」という、職人のプライドを最大限に引き出すための、極めて高度なマネジメントの意図が隠されていた可能性がある。それは恐怖による支配ではなく、壮大な目標を共有するパートナーシップの始まりを告げる号砲であった。
第二章:言葉を形にする者たち
清正の無謀とも思える要求を、現実のものとしたのが、近江国坂本(現在の滋賀県大津市)を拠点とする石工集団「穴太衆(あのうしゅう)」であった 11 。彼らは、織田信長の安土城の石垣を手掛けたことで一躍その名を高め、戦国時代の城郭建築に革命をもたらしたプロフェッショナル集団である 12 。
穴太衆の技術の真骨頂は、自然の石をほとんど加工せずに、その形や重心を見極めて巧みに組み上げていく「野面積み(のづらづみ)」にある 13 。彼らは「石の声を聞き、石が行きたい場所へと積んでいく」という独特の哲学を持っていた 12 。一見、無造作に積まれたように見える石垣は、大小の石が互いに支え合うことで驚異的な強度を生み出し、同時に隙間が多いことで排水性にも優れ、内部からの水圧による崩壊を防ぐという、極めて合理的な構造をしていた。
その技術は、近代的な設計図に頼るものではなく、長年の経験と感覚、そして親方から弟子へと秘密裏に受け継がれる口伝によって継承されてきた 13 。機密保持のため、設計図はもちろん、家系図すら残さなかったという徹底ぶりであった 13 。現存する城の石垣の実に7割から8割が、彼らの手によるものとさえ言われている 13 。
清正という「最高の要求者」と、穴太衆という「最高の技術者」の出会い。これこそが、熊本城の石垣という奇跡を生み出した。蔚山城の経験から「絶対に崩れない城」という明確なビジョン(要求仕様)を持つ清正と、自然の力を利用して堅牢な構造物を創り上げる、マニュアル化不可能な高度な技術(実装能力)を持つ穴太衆。清正の壮大で、ある意味で抽象的な「百年倒れぬ」という要求は、穴太衆の「石の声を聞く」という経験則に基づいた柔軟な工法と完璧に合致したのである。画一的な設計図に基づいた工法では、この要求に応えることは到底不可能であっただろう。この逸話は、清正一人の物語ではなく、最高のビジョンと最高の技術が邂逅した瞬間の物語として捉えるべきなのである。
第三部:築かれた「石垣」― 思想と技術の結晶
「百年倒れぬ」という言葉は、具体的にどのような技術的工夫によって物理的な形となったのか。熊本城の石垣には、清正の思想と穴太衆の技が融合した、当代最先端のテクノロジーが凝縮されている。
第一章:「武者返し」の構造力学
熊本城の石垣を象徴するのが、その優美かつ威圧的な曲線美を誇る「武者返し」、あるいは「扇の勾配」と呼ばれる独特の形状である 14 。このカーブは、単なる美観のためではなく、極めて高度な計算に基づいた機能性の塊であった。
第一に、その防御性である。武者返しの石垣は、下部は勾配が緩やかで、一見すると登れそうに見える。しかし、上部に行くに従って勾配は急激に増し、最後はほぼ垂直に切り立つ 14 。攻め寄せた敵兵は、登れるという希望を抱いて取り付くが、中腹で進退窮まり、下からは矢や鉄砲の的となる。これは敵兵の侵入を物理的に阻むだけでなく、その心理を巧みに突いた罠でもあった 15 。
第二に、その安定性である。構造力学的に見れば、裾野を広く取るこの形状は、石垣全体の重心を低くし、安定性を飛躍的に高める 16 。特に、地震の多い日本において、この設計は極めて合理的であった。地震による水平方向の揺れのエネルギーを、広い底面で受け止め、下方へと効率よく分散させる効果が期待できる。
この美しい曲線は、決して石工の勘だけに頼って造られたものではない。後世、熊本藩に伝えられた『石垣秘伝之書』には、石垣の高さに応じて勾配を変化させる具体的な方法が詳細に記述されており、数学的な法則に基づいて設計されていたことがうかがえる 18 。
つまり、武者返しは、戦という人為的な脅威に対応する「対人用兵器」と、地震という自然災害に対応する「対自然災害用装置」という二つの機能を併せ持つ、ハイブリッドな設計思想の結晶であった。清正と穴太衆は、単一の設計で「戦」と「天災」という異なる二つの脅威に同時に対応する、極めて効率的で先進的なソリューションを編み出したのである。
第二章:見えざる部分へのこだわり
石垣の真の強度は、目に見える表面の石(築石)だけで決まるものではない。「百年倒れぬ」という清正の執念は、常人では意に介さない、目に見えない部分にこそ、その真価を発揮していた。
石垣の内部には、「栗石(ぐりいし)」と呼ばれるこぶし大の小さな石がびっしりと詰め込まれている 18 。この栗石層は、石垣の背後から浸透してきた雨水を速やかに排出し、内部からの水圧で石垣が孕み出す(膨らみ出す)のを防ぐ重要な役割を担っている。同時に、地震の際には、この栗石同士がぶつかり合うことで揺れのエネルギーを吸収し、巨大な構造体にかかる衝撃を和らげるクッションの役目も果たしていた。
さらに驚くべきは、その基礎構造である。近年の学術調査によって、宇土櫓などの主要な石垣は、我々が目にする空堀の底よりもさらに深く、地中にまで石垣が続いていることが判明した 18 。強固な地盤まで掘り下げて築かれた「根石(ねいし)」の上に石垣が組まれているのである。
この見えない部分への徹底的なこだわりこそ、「百年倒れぬ石垣」の真髄である。多くの為政者が、権威の象徴となる目に見える部分の壮麗さに注力しがちな中で、清正は違った。蔚山城で「見えない脅威(飢え、渇き)」によって敗北寸前まで追い込まれた彼は、物事の本質が目に見えない部分にあることを痛感していた。城の強度は、美しい外面ではなく、見えない基礎と内部構造によって決まる。地中深くにまで及ぶ根石や、内部に詰められた栗石は、彼の哲学そのものを体現している。逸話の核心は、華麗な武者返しの曲線美ではなく、むしろこの地味で目立たない部分にこそ存在するのだ。
第四部:試される「百年」― 伝説の検証
築城から数百年後、清正の言葉は二度にわたる大地震という、あまりにも過酷な「審判」の時を迎える。伝説は、未曾有の自然の猛威の前で、その真価を問われることとなった。
第一章:最初の試練 ― 明治二十二年(1889年)熊本地震
築城から約280年の歳月が流れた明治二十二年(1889年)7月28日、熊本地方をマグニチュード6.3の直下型地震が襲った 21 。これは、近代的な観測記録が残る最初の大きな試練であった。
当時、熊本城を管轄していた陸軍第六師団の報告によれば、その被害は甚大であった。石垣は42箇所が崩落し、20箇所が孕み出すなど、城内の至る所で無残な姿を晒した 23 。この事実だけを見れば、「百年倒れぬ」という伝説は、この時点で脆くも崩れ去ったかのように思える。
しかし、この評価には慎重を期さねばならない。この地震のわずか12年前、明治十年(1877年)に勃発した西南戦争において、熊本城は西郷軍の猛攻を受ける。この戦いの最中、原因不明の火災により天守閣や本丸御殿は焼失した 24 。この時、堅固な石垣も火災の熱に長時間晒され、石材そのものが脆くなっていた可能性が指摘されている 21 。高温に熱せられた石は、内部に微細な亀裂が生じ、本来の強度を失う。これは、清正の築城時には想定され得なかった、後天的なダメージである。
したがって、この明治熊本地震は、伝説に対する最初の、そして不完全な反証となった。石垣は実際に崩れた。しかし、西南戦争の火災という外的要因が加わっており、純粋な耐震性能のテストとは言い難い。この地震は、むしろ後の2016年の大地震の被害を分析するための、重要な比較対象としての価値を持つことになった。
第二章:未曾有の揺れ ― 平成二十八年(2016年)熊本地震
築城から409年後の平成二十八年(2016年)4月14日と16日、熊本は観測史上例のない激震に二度も見舞われた。最大震度7を記録した二度の揺れは、清正が築いた天下の名城に、壊滅的ともいえる被害をもたらした 25 。
その被害の全貌は、凄まじいものであった。
- 国の重要文化財に指定されていた建造物13棟すべてが被災 26 。
- 城内に973面、総面積約79,000平方メートルある石垣のうち、全体の約3割にあたる517面、約23,600平方メートルに崩落や孕み、緩みなどの被害が発生した 27 。
- 完全に崩落した面積だけでも、全体の約1割にあたる約8,200平方メートルに及んだ 27 。
- 飯田丸五階櫓では、櫓を支える石垣が大規模に崩落し、隅の算木積(さんぎづみ)部分の石垣一本で奇跡的に建物を支える「一本石垣」の状態となり、地震の破壊力の大きさと、石垣の構造の精緻さを同時に世に知らしめた 29 。
土煙を上げて崩れ落ちる石垣、無残に倒壊した櫓や塀。その光景は、多くの人々に衝撃を与え、「百年倒れぬ」という清正の言葉も、もはや虚しい伝説に過ぎないのかと思わせるに十分であった。
第三章:清正の石垣は敗れたのか? ― 被災分析
しかし、甚大な被害の詳細な調査が進むにつれて、専門家たちを驚かせる一つの事実が浮かび上がってきた。それは、**「どこが崩れ、どこが耐えたのか」**という、被害の分布に隠された、驚くべきパターンであった。
結論から言えば、 崩壊した石垣の大半は、明治二十二年の地震後など、後世に少なくとも一度は修理された箇所 だったのである 11 。明治期、陸軍によって行われた修復は、穴太衆が用いた伝統的な工法とは異なり、表面の見た目を整えることに主眼が置かれた近代的な工法であった可能性が高い。内部の栗石の詰め方や、石同士の噛み合わせなど、目に見えない部分の技術が、オリジナルの水準に達していなかったと考えられている。穴太衆の技術を現代に継承する粟田純司氏は、「築城当時の穴太の技術のままであれば、あそこまで倒壊することもなかったはず」と証言している 11 。
一方で、 築城当初のまま、一度も大きな修理を受けていない、正真正銘の「清正の石垣」は、あの未曾有の揺れにもかかわらず、その多くが大きな被害を免れていた のである 30 。例えば、加藤清正時代に築かれた緩やかな勾配の石垣と、その後の細川忠利時代に築かれた急勾配の石垣が隣接する「二様の石垣」は、一部に沈下は見られたものの、崩落することなく当時の姿を留めている 31 。
さらに決定的なのは、明治二十二年の被災箇所と、平成二十八年の被災箇所が、実に 約77%も重複している というデータである 28 。これは、一度弱点となった場所、あるいは不適切な修復がなされた場所が、繰り返し被災していることを明確に示している。
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表1:熊本城石垣における二大地震の被害比較 |
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比較項目 |
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地震の規模 |
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崩落・被災箇所数 |
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崩落面積(概算) |
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主な被災箇所 |
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被害の特徴 |
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備考 |
この事実は、我々に衝撃的な結論を突きつける。2016年の熊本地震は、伝説を否定するどころか、皮肉にも 四百年の時を超えて「清正の技術の正しさ」を科学的に証明する、壮大な実証実験となった のである。地震は、清正の石垣(実験群)と、明治以降に修復された石垣(対照群)を同時に、同じ条件で揺さぶった。その結果、対照群が崩壊し、実験群が耐え抜いたことで、清正の「百年倒れぬ石垣」という言葉が、単なる精神論ではなく、再現の難しい高度な技術に裏打ちされたものであったことが、客観的に証明されたのだ。逸話は、悲劇的な形で、その真実性を自ら証明したのであった。
終章:伝説の真実
「百年倒れぬ石垣を築け」― この言葉は、果たして実現したのか。
物理的には、石垣の一部は崩れた。しかし、その崩壊の様相を深く分析した時、我々が目の当たりにするのは、伝説の終焉ではなく、むしろその真実性の証明である。清正が築き、穴太衆が形にしたオリジナルの石垣は、四百年後の観測史上最大級の揺れにさえ、その多くが耐え抜いた。崩れたのは、後世の人間の手が加わり、その思想と技術が失われた部分であった。
ここから見えてくるのは、清正の言葉が、単なる構造物の物理的な強度のみを求めたものではなかったという事実である。それは、未来に起こりうるあらゆる危機から民を守るという為政者の強い意志、物事の本質は目に見えない部分にこそ宿るという深い哲学、そして最高の技術者集団への絶対的な信頼が込められた、**「思想の石垣」**を築けという命令であった。
熊本地震からの復興のシンボルとして、今まさに熊本城の石垣は、一つひとつ丁寧に積み直されている 5 。その営みは、清正の四百年前の言葉が、単なる過去の逸話としてではなく、今なお熊本の人々の心を支え、未来へと導く力として生き続けていることの、何よりの証左と言えるだろう。伝説は、石垣と共に、これからも生き続けるのである。
引用文献
- 加藤清正の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/38334/
- 熊本の日本三大名城 熊本城は地震からの復興のシンボルに - Japan Travel Planner - ANA https://www.ana.co.jp/ja/us/japan-travel-planner/kumamoto/0000003.html
- 【日本史】熊本城・本丸御殿「昭君之間」に秘められた加藤清正の思いを考察 白駒妃登美(しらこまひとみ) - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=zRSXya4yTi8
- 築城名人の哲学① 熊本城を造った加藤清正の「体験」と「経験」|Biz Clip(ビズクリップ) https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-089.html
- 歴史 | 【公式】熊本城 https://castle.kumamoto-guide.jp/history/
- 『熊本城』加藤清正が建てた天下の名城へ!!歴史を振り返りながらロケ! - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/building/kumamotojo/
- 加藤清正 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%B8%85%E6%AD%A3
- 勇猛果敢で有名な加藤清正は、誰よりも忠に厚い武将だった。 | サムライ書房 https://samuraishobo.com/samurai_10006/
- 【解説マップ】加藤清正はどんな人?何をした人?功績やすごいところを紹介します https://mindmeister.jp/posts/katokiyomasa
- 加藤清正を狙ったら、逆に助命、説教、スカウトまで⁈国右衛門が家臣になるまでのちょっとイイ話 https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/173039/
- 信長も重用した伝説の石工「穴太衆」―現代に奇蹟の技をつなぐ“超”技術集団とは? - ホームズ https://www.homes.co.jp/cont/press/reform/reform_00542/
- 熊本城再建で注目の穴太衆 織田信長も惚れた込んだ、その技術に迫る - 東和製作所 https://towa-seisakusho.com/%E7%86%8A%E6%9C%AC%E5%9F%8E%E5%86%8D%E5%BB%BA%E3%81%A7%E6%B3%A8%E7%9B%AE%E3%81%AE%E7%A9%B4%E5%A4%AA%E8%A1%86%E3%80%80%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7%E3%82%82%E6%83%9A%E3%82%8C%E3%81%9F%E8%BE%BC/
- 石の声を聴けー 石積みの里で穴太衆の技をつなぐ「粟田建設」/滋賀県大津市 - NIHONMONO https://nihonmono.jp/article/32930/
- 熊本城|「戦う城」に学ぶ経営戦略 城のストラテジー|シリーズ記事 - 未来へのアクション https://future.hitachi-solutions.co.jp/series/fea_shiro/04/
- 熊本城の「武者返し」は、忍者、侍、戦対策です 他の城との違い 知っていたらすごい - Cafetalk https://cafetalk.com/column/read/?id=257612&lang=ja
- 城の石垣の種類/ホームメイト - 名古屋刀剣博物館 https://www.meihaku.jp/japanese-castle/castle-isigaki-shurui/
- 熊本城 武者返し 反りのある石垣 構造美と荷重の逃がし方を学ぶ https://bluebee-k.jp/pages/36?detail=1&b_id=205&r_id=21
- 解体で見えた! 熊本城石垣の秘密と復旧の裏側 (元教授、定年退職355日目) - note https://note.com/3233400r/n/n84273c311db0
- 熊本城石垣曲線と静的・動的安定性 - 土木学会 http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00578/2017/1059.pdf
- 熊本城の石垣曲線と数学 https://www.math.sci.hokudai.ac.jp/~ishikawa/Numazu-Shizuoka/fujii-25.pdf
- 明治熊本地震における熊本城の被害 - 歴史地震研究会 https://www.histeq.jp/kaishi/HE35/HE35_015_030_Kinoshita.pdf
- 熊本城の地震被害 - かだいおうち Advanced Course https://www.sci.kagoshima-u.ac.jp/oyo/advanced/disaster/kumamoto_castle.html
- 災害と修理の歴史 と - 熊本市 https://www.city.kumamoto.jp/kiji00357322/3_57322_up_jsdir1no.pdf
- 【公式】熊本城 https://castle.kumamoto-guide.jp/
- 熊本地震から5年。復興のシンボル「天守閣」が全面公開! https://kumamoto-guide.jp/journeyjournal/detail/681
- 特集 熊本地震から5年 : 防災情報のページ - 内閣府 https://www.bousai.go.jp/kohou/kouhoubousai/r03/102/special_02.html
- 熊本地震の石垣被害~前震と本震がどのような被害をもたらしたのか~ https://www.city.kumamoto.jp/kiji00361089/3_61089_up_wvs4et6d.pdf
- 熊本地震による熊本城の被害と復旧 - 文化遺産の世界 https://www.isan-no-sekai.jp/feature/201711_09
- 歴史的建造物誕生を探る! 熊本城[熊本県]|コベルコ建設機械ニュース(Vol.246) https://www.kobelco-kenki.co.jp/connect/knews/vol246/monuments.html
- 加藤清正が熊本城の石垣を、日本一美しく壮大に作ることができたワケ - ダイヤモンド・オンライン https://diamond.jp/articles/-/321085
- 再建への道 復興に向けて歩き始めた熊本城 - 能楽協会 https://www.nohgaku.or.jp/journey/media/kumamoto
- 熊本地震と熊本城 と https://castle.kumamoto-guide.jp/info/file/pamphlet_kids05.pdf