最終更新日 2025-10-21

加藤清正
 ~秀頼のため奔走、家康と激論~

加藤清正が豊臣秀頼を守るため徳川家康と対峙した二条城会見の史実を深掘り。忠義の猛将が命懸けで主君を護った緊迫の政治劇と、後世に語り継がれる物語の変遷を解説。

加藤清正と二条城会見:秀頼のため奔走、家康と激論 ― 忠烈譚の史実的深層

序章:逸話の通説と史実の狭間

加藤清正という武将の名を耳にする時、多くの人々が思い描くのは、主君豊臣家への揺るぎない忠誠を貫いた、義に厚い猛将の姿でしょう。その忠義を象徴する逸話として、長らく語り継がれてきたのが「二条城会見」における一幕です。すなわち、若き主君・豊臣秀頼を伴い、天下人・徳川家康と対峙した清正が、秀頼を守るために家康と激しく言い争った、という忠烈譚です。

この物語は、昭和の名優・初代中村吉右衛門のために書き下ろされた歌舞伎『二条城の清正』などを通じて大衆の心に深く刻み込まれ、清正の忠臣としてのイメージを決定的なものとしました 1 。しかし、史実の記録を丹念に紐解く時、そこに描かれているのは、言葉による激しい応酬とは異なる、より静かで、しかし遥かに緊迫したもう一つの「戦い」の姿です。

本報告書は、この「加藤清正~秀頼のため奔走、家康と激論~」という逸話に焦点を絞り、通説の奥に横たわる歴史の真実に迫ることを目的とします。会見に至るまでの緻密な政治的駆け引き、忠臣たちが下した苦渋の決断、そして会見当日に繰り広げられた「言葉なき対決」の全貌を、一次史料や関連研究を基に時系列で再構築します。本報告書が解き明かすのは、周到に準備された警護体制、一挙手一投足に込められた政治的意図、そして会見後の両者の行動にこそ隠された、この歴史的瞬間の本質です。ドラマティックな脚色に隠された、息詰まるような歴史の真実を、ここに詳述します。

二条城会見に至る主要関連年表

年月

出来事

関連人物

政治的・戦略的意味合い

慶長5年(1600)

関ヶ原の戦い

徳川家康、石田三成、加藤清正

徳川の覇権が事実上確立。清正は石田三成との対立から東軍として戦う 4

慶長8年(1603)

家康、征夷大将軍に就任

徳川家康

江戸幕府を開き、武家の棟梁としての地位を公的に確立。豊臣家を公家として遇する体制を構築し始める 6

慶長10年(1605)

家康、将軍職を秀忠に譲る

徳川家康、徳川秀忠

将軍職の徳川家による世襲を天下に宣言。豊臣家の復権の道を制度的に断つ 6

慶長15年(1610)

淀殿、前田利長に密書を送る

淀殿、前田利長

豊臣方が反徳川の動きを見せたことで、家康の警戒心を決定的に強める引き金となる 8

慶長16年(1611)3月

家康、天皇譲位を機に上洛

徳川家康、後陽成天皇

秀頼に上洛を要求するための、誰もが逆らえない大義名分を得る 9

慶長16年(1611)3月28日

二条城会見

徳川家康、豊臣秀頼、加藤清正

豊臣家が公的に徳川家の下位に位置づけられる。家康は秀頼の器量を見抜き、豊臣家滅亡を決意する 6

慶長16年(1611)6月24日

加藤清正、死去

加藤清正

豊臣家は最大の軍事的・政治的庇護者を失い、急速に孤立化していく 11

慶長19年(1614)

方広寺鐘銘事件、大坂冬の陣

徳川家康、豊臣秀頼

家康が豊臣家を滅ぼすための口実を作り、最終戦争が勃発する 7

第一章:対決前夜 ― 二条城への道筋

慶長16年(1611年)の二条城会見は、突発的に発生した事件ではありませんでした。それは、関ヶ原の戦いから10年以上にわたり、徳川家康が周到に進めてきた豊臣家解体戦略の、一つの到達点であり、最終局面への序章でした。

1-1. 関ヶ原後の政治情勢と家康の深謀

関ヶ原の戦いで勝利を収めた家康は、豊臣政権下の一大老という立場から、事実上の最高権力者へと飛躍しました。しかし、豊臣秀頼は依然として大坂城に君臨し、多くの豊臣恩顧の大名は、表向きは家康に従いつつも、心では秀頼への忠誠を誓っていました 6 。家康の課題は、この豊臣家が持つ権威を、いかにして無力化し、徳川家による恒久的な支配体制を確立するかにありました。

その戦略は、実に巧妙かつ多岐にわたりました。慶長8年(1603年)、家康は征夷大将軍に就任し、江戸に幕府を開きます。これは、豊臣家が頂点に立つ公家政権(関白職)とは別に、武家の棟梁としての独自の政権を樹立したことを意味しました 6 。さらに家康は、わずか2年後の慶長10年(1605年)には将軍職を息子の秀忠に譲ります。これは、「将軍職は徳川家が世襲する」という既成事実を天下に示す決定的な一撃であり、豊臣家に政権が返還される可能性を完全に否定するものでした 7

同時に、家康は豊臣恩顧の大名を内側から切り崩す策も講じます。自身の「松平」姓を前田利常をはじめとする有力大名に与え、徳川の疑似一門へと組み込んでいきました 6 。これは、彼らを豊臣体制から引き剥がし、徳川の支配構造に再編成する効果的な手段でした。豊臣家は、気づかぬうちにその支持基盤を徐々に削り取られ、大坂城という物理的な拠点に孤立させられていったのです。

1-2. 淀殿の密書:会見の直接的引き金

こうした閉塞状況を打破しようとする豊臣方の焦りが、皮肉にも家康に決定的な口実を与えることになります。慶長15年(1610年)秋、『大坂御陣覚書』によれば、大坂城の淀殿と秀頼は、豊臣恩顧の有力大名である加賀の前田利長に対し、一通の密書を送りました 8 。その内容は、「亡き太閤(秀吉)の御恩を忘れてはいないでしょう。一度、お頼みしたいことがあるので、そのつもりでいてほしい」という、反徳川の挙兵への協力を示唆するものでした 8

しかし、利長はすでに徳川体制下での生き残りを決意していました。彼はこの誘いを丁重に断るとともに、その密書の内容を、家康の側近である本多正信を通じて駿府の家康に報告します 8 。この報告を受けた家康は「並々ならず御感になった」、つまり大いに喜んだと記録されています 8 。豊臣方が現状に不満を抱き、未だに諸大名を糾合する力と意志を持っているという動かぬ証拠を、家康は手に入れたのです。この一件は、家康に豊臣家の存在が徳川の天下にとって依然として危険な火種であることを再認識させ、より踏み込んだ行動へと駆り立てる直接的な引き金となりました。

1-3. 天皇譲位と上洛要求:大義名分と本音

家康が行動を起こす機会は、すぐに訪れました。慶長16年(1611年)、後陽成天皇が譲位し、後水尾天皇が即位するという、朝廷の重要な儀式が執り行われることになったのです 9 。この儀式を取り仕切るという、誰も表立って反対できない大義名分を掲げ、家康は駿府から上洛します 8

そして家康は、この機を捉え、豊臣家に対して「久しく会っていない秀頼公と二条城で面会したい」と要求します 8 。これは表向きは儀礼的な挨拶でしたが、その本質は、豊臣秀頼が臣下として徳川家康の居城である二条城に出頭し、臣下の礼をとることを天下に示すための、政治的な踏み絵に他なりませんでした 6 。かつて家康自身が、秀吉に対して上洛を強要され、臣従を誓わされた屈辱を、今度は豊臣家に突きつけたのです 6

この要求が、豊臣家の態度を測る最後通牒であったことは、家康と本多正信の会話からも明らかです。正信は「もし大坂がこの要求を断ったならば、大殿(家康)も(豊臣家討伐の)決断がしやすいと申すものでござる」と述べています 8 。豊臣家は、従えば権威を失い、拒めば滅亡の口実を与えるという、絶体絶命の窮地に立たされたのです。

第二章:忠臣の奔走 ― 淀殿、苦渋の決断

家康からの上洛要求は、大坂城に激震を走らせました。特に、豊臣家の誇りを一身に体現する淀殿の抵抗は凄まじく、豊臣家は存亡の危機に瀕します。この絶望的な状況を打開するために立ち上がったのが、加藤清正をはじめとする、豊臣恩顧の最後の忠臣たちでした。

2-1. 「秀頼を殺し、自らも死す」:淀殿の激しい抵抗

『当代記』には、家康の要求に対する淀殿の怒りが生々しく記録されています。彼女は、「もし強いてその儀(上洛)を迫るならば、秀頼を生害せしめ、その身にも自害あるべき由」、すなわち「無理強いするならば、秀頼を殺して自分も死ぬ」とまで言い放ち、断固として上洛を拒絶しました 6

彼女のこの激しい抵抗の背景には、拭い難いプライドがありました。淀殿にとって、家康はあくまで亡き夫・秀吉の家臣であり、息子・秀頼の後見人に過ぎません 6 。主筋である豊臣家が、家臣筋である徳川家の居城へ出向くことは、豊臣家の権威を自ら貶める行為であり、到底受け入れられるものではなかったのです。関ヶ原から10年が経ち、世が徳川の天下へと大きく傾いている現実を、彼女は理解できない、あるいは理解したくなかったのでしょう 6 。しかし、この感情的な抵抗は、家康に「謀反の意あり」という討伐の口実を与えるだけの、極めて危険なものでした。

2-2. 清正と幸長、命懸けの説得

この膠着状態を打開すべく、豊臣恩顧の大名の筆頭格であった加藤清正と浅野幸長が、淀殿の説得に乗り出します 6 。彼らの立場は、極めて困難なものでした。一方では主家である豊臣家の権威を守らねばならず、もう一方では徳川家康という圧倒的な現実と向き合わなければなりません。

彼らの説得は、単なる感情論ではありませんでした。家康の要求を拒絶すれば、即座に戦となり、豊臣家は滅亡する。しかし、この会見に穏便に応じることで、天下泰平を望む姿勢を世に示し、当面の破局を回避できる。それがひいては豊臣家の安泰に繋がるのだ、という冷静な政治判断に基づいたものでした。ある記録では、清正は涙ながらにその必要性を訴えたとされています 15 。その涙は、主家を家臣の下位に置かねばならない無念さと、それでも家を守り抜くという強い意志が入り混じったものだったでしょう。

説得の決定打となったのは、清正が自らの命を担保にした覚悟の言葉でした。幕末の逸話集『名将言行録』には、不安がる秀頼に対して清正がこう断言したと記されています。

「拙者は終始御輿につき添い、また二条城においても、万一の謀計などがあれば、幾万人の兵がいようとも、片端から蹴殺して、ふたたびこの城にお連れ申します」 6

これは、単なる慰めの言葉ではありません。万一の際には、この清正が家康と刺し違えてでも秀頼公をお守りするという、命を懸けた誓約でした。この言葉によって、淀殿と秀頼はついに重い決断を下し、二条城へ赴くことを承諾したのです。清正の行動は、感情的な忠義に留まらず、屈辱的な現実を受け入れてでも主家を存続させようとする、悲壮な覚悟に満ちた「延命戦略」でもありました。

2-3. 豊臣家への忠誠の源泉

清正のこの命懸けの行動は、どこから来るのでしょうか。その根源は、彼と豊臣秀吉との深い縁にありました。清正の母は秀吉の母・大政所の従姉妹であり、清正は秀吉の母方の従甥にあたります 5 。この血縁を頼りに、彼は幼少期から秀吉に仕え、実の子のように育てられました 16 。賤ヶ岳の戦いでは「七本槍」の一人として武功を挙げ 17 、秀吉の天下統一事業において、常にその先鋒として戦い続けました。

秀吉の死後、石田三成ら文治派との対立から、関ヶ原の戦いでは結果的に家康率いる東軍に与することになります 4 。しかし、それはあくまで豊臣家臣団内部の対立が原因であり、秀吉個人と豊臣家そのものへの恩義と忠誠心は、生涯揺らぐことはありませんでした 5 。彼の生涯を貫く行動原理は、常に「豊臣家のため」であり、この二条城会見の実現に向けた奔走も、その忠義の最終的な発露だったのです。

第三章:慶長十六年三月二十八日 ― 緊迫の一日を再構築する

運命の日、慶長16年3月28日。この日、京の都で繰り広げられたのは、後世の創作物が描くような言葉の激論ではありませんでした。それは、一挙手一投足が政治的なメッセージとなる、息詰まるような「行動の対話」であり、静かなる戦いでした。

3-1. 臨戦態勢:武装した外交使節

秀頼一行が大坂城を出立したその時から、異様な緊張感が漂っていました。その行列は、会見というよりは、むしろ出陣のそれに近いものでした。若き主君・秀頼が乗る御輿の両脇は、加藤清正と浅野幸長が寸分も離れず、徒歩で固めていました 6

さらに驚くべきは、その警護の徹底ぶりです。行列に連なる足軽や中間に至るまで、その実態は、普段はひとかどの武士として遇されている屈強の士分でした 6 。彼らは身分を偽り、万一の襲撃に備えていたのです。これは、清正が淀殿と秀頼に誓った「万一の謀計あらば…」という言葉が、決して虚言ではないことを示す、無言の示威行動でした。豊臣方は、会見の場に臨むにあたり、物理的にいかなる危害も加えさせないという固い決意を、その臨戦態勢ともいえる陣容で示していたのです。

3-2. 午前八時、二条城到着:静かなる牽制

辰の刻(午前8時頃)、秀頼一行は徳川家の京における拠点、二条城に到着しました 9 。城主である家康は、秀頼に対し最大限の敬意を表す形で、自ら庭上まで出迎えるという丁重な対応を見せます 7 。これは、家康側からの「我々に敵意はない」という表向きのメッセージでした。

会見の場である御成の間に入ると、席次を巡る静かなる駆け引きが始まります。家康は「互いの御礼あるべし」と対等の礼を提案し、上座を秀頼に譲ろうとします 7 。しかし、秀頼はこれを固く辞退し、年長者であり、また自身の正室・千姫の祖父でもある家康を立てる形で、家康が上座に着きました 7 。これは、秀頼が家康に礼を尽くすという形式をとりながらも、豊臣方の主体的な判断であったという体面を、かろうじて保とうとする計算されたやり取りでした。

3-3. 会見の実際:「激論」なき二時間

『当代記』や『徳川実紀』といった同時代の史料によれば、会見そのものは、秀吉の正室であった高台院(ねね)も同席し、約二時間にわたって終始和やかな雰囲気の中で行われました 7

席上では「三献の祝い」という正式な酒宴の儀式が執り行われ、家康から秀頼へ、そして秀頼から家康へと、大左文字や一文字の刀剣といった豪華な贈答品が交換されました 19 。会話は儀礼的なものに終始し、後世に語られるような政治的な「激論」が交わされたという記録は、一切存在しません。

しかし、その平穏な光景の裏では、凄まじい緊張が張り詰めていました。随行の諸将が次の間で饗応を受ける中、加藤清正ただ一人はその席に着こうとせず、終始秀頼の傍らに控え、片時も離れませんでした 19 。彼の視線は常に家康に向けられ、無言のうちに「主君に指一本でも触れてみよ」という強い圧力をかけ続けていたと想像されます。この静かなる対峙こそが、この日の会見の本質でした。

3-4. 懐中の短刀:刺し違える覚悟

この時、清正がその覚悟を物理的に示していたのが、懐に忍ばせていた一振りの短刀です 21 。この逸話は広く知られており、万が一秀頼の身に危険が及んだ際には、その場で家康と刺し違えるという、彼の固い決意の表れでした 21 。この短刀は、清正のすべての行動を裏付ける、究極の覚悟の象徴と言えます。彼の菩提寺である熊本の本妙寺には、この時に所持していたと伝えられる短刀の拵(こしらえ)が、今も遺されています 11

3-5. 帰路:大任の終わり

約二時間の会見と昼食の後、秀頼一行は二条城を後にします。その後、豊臣家ゆかりの豊国神社を参拝し、再建中の方広寺を視察した後、伏見の清正の屋敷で小休止を挟み、無事に大坂城への帰路につきました 19 。清正は、最大の危機を乗り切り、主君を守り抜くという生涯を懸けた大任を、一滴の血も流すことなく果たしたのです。

第四章:会見の残響 ― それぞれの結末

二条城での一日は、無事に終わりました。加藤清正は主君を守り抜くという使命を完璧に果たしました。しかし、この会見がもたらした結末は、彼の意図とは全く異なる、皮肉で悲劇的なものでした。会見の成功が、かえって豊臣家滅亡へのカウントダウンを早める引き金となってしまったのです。

4-1. 家康の誤算と決意:「愚魯にあらず、賢き人なり」

会見を終えた家康の胸中には、安堵よりもむしろ、強い衝撃と危機感が渦巻いていました。彼は会見後の秀頼の印象を、こう語ったと伝えられています。

「秀頼は愚魯(ぐろ)なる人と聞きしに、一向に然(さ)なく、賢き人なり。なかなか、人の下知など受くべき様子にあらず」 6

家康は、19歳に成長した秀頼が、噂に聞くような凡庸な貴公子ではなく、天下人の子にふさわしい堂々たる風格と聡明さを備えた、非凡な器量の持ち主であることを見抜きました 7 。その悠揚迫らぬ立ち居振る舞いは、老獪な家康すら気圧されるほどであったといいます 6

この発見は、家康にとって大きな誤算でした。もし秀頼が本当に愚鈍であれば、一大名として豊臣家を存続させる道もあったかもしれません。しかし、これほどのカリスマ性を持つ若者が大坂城にいる限り、将来必ずや反徳川勢力の旗頭となり、天下を揺るがす存在になるであろうことを、家康は確信したのです。この会見は、皮肉にも家康に「自分の目の黒いうちに、豊臣家という脅威を根絶やしにしなければならない」という冷徹な決意を固めさせる結果となりました 7 。会見直後から、家康が西国大名たちに徳川家への忠誠を誓う起請文を提出させるなど、豊臣家への締め付けを一層強化していくことが、その決意の何よりの証左です 6

4-2. 清正の祈りと死:愛宕山への忠義

会見後、家康の心にもう一つ深く刻まれたのが、清正の底知れぬ忠義でした。『名将言行録』には、後日談として次のような逸話が記録されています。会見中、家康は清正が時折、虚空の一点を見つめていることに気づきました。不審に思った家康が家臣の板倉勝重に調べさせたところ、その方角には愛宕山があり、清正が会見に先立って、秀頼の身の無事を祈願するために17日間にもわたって護摩を焚かせていたことが判明したのです 6

この逸話は、清正の深い信仰心と主君への忠義を物語ると同時に、家康に「秀頼本人にその気がなくとも、清正のような忠臣がいる限り、豊臣家は決して侮れない」と再認識させたことでしょう。

しかし、その清正の命の灯火は、燃え尽きようとしていました。大任を果たし、安堵のうちに領国・熊本への帰路についた清正は、その途上の船内で突然発病します 25 。そして、会見からわずか3ヶ月後の同年6月24日、熊本城でその波乱の生涯を閉じました。享年50(満49歳)でした 12

4-3. 毒殺説の流布:時代の空気

清正のあまりに唐突な死は、すぐさま「家康による毒殺」という黒い噂を呼び起こしました 11 。特に、会見後の饗応の席で家康が毒を仕込んだ饅頭を秀頼に勧め、それを察した清正が身代わりに食べてしまった、という「毒饅頭」の逸話は、彼の忠義と悲劇的な死を結びつける物語として広く流布しました 27

この毒殺説に直接的な歴史的証拠はありません。死因は脳溢血などの病死であったとする説が有力です 12 。しかし、清正だけでなく、同じく会見の実現に奔走した浅野幸長をはじめ、豊臣恩顧の大名がこの時期に相次いで亡くなっていることも事実です 11 。こうした状況が、人々の徳川の治世に対する疑念や不安と結びつき、毒殺説という噂が生まれる土壌となったのです。それは、当時の不穏な時代の空気を色濃く反映していました。

4-4. 庇護者の喪失

理由が何であれ、加藤清正の死は、豊臣家にとって最大の軍事的・政治的支柱を失うことを意味しました。彼の存在こそが、家康に豊臣家への性急な武力行使を躊躇させていた最大の重しだったのです。その重しがなくなった後、徳川家と豊臣家の対立は急速に先鋭化し、慶長19年(1614年)の方広寺鐘銘事件を口実に、ついに大坂の陣という最終戦争へと突き進んでいくことになります 13 。清正が命を懸けて守った若き主君の命運は、彼の死と共に、風前の灯となったのです。

第五章:物語としての昇華 ― 「二条城の清正」の誕生

史実における二条城会見は、言葉なき緊張感に満ちた政治劇でした。しかし、この出来事は時を経て、人々の記憶の中でより分かりやすく、より感動的な物語へと姿を変えていきます。特に江戸時代以降、大衆芸能の世界で、加藤清正の忠義は理想の武士像として語り継がれ、会見の逸話はその象徴として昇華されていきました。

5-1. 史実から物語へ

江戸時代に入り、天下泰平の世が訪れると、戦国の武将たちの活躍は講談や浄瑠璃、歌舞伎といった芸能の格好の題材となりました 1 。その中で、滅びゆく豊臣家に最後まで忠誠を尽くした加藤清正の姿は、人々の心を強く捉えました。史実では静かなる対峙であった二条城会見は、物語性を高めるために、よりドラマティックな脚色が加えられていきます。浄瑠璃『八陣守護城(はちじんしゅごのほんじょう)』では、清正が二条城で毒酒を飲まされ、熊本に帰って豊臣家の未来を案じながら死んでいくという筋書きが描かれるなど、彼の悲劇性が強調されていきました 29

5-2. 歌舞伎『二条城の清正』の誕生と影響

この逸話が今日知られる「激論」のイメージとして決定的な形で世に広まったのは、昭和8年(1933年)に初演された、吉田絃二郎作の歌舞伎『二条城の清正』の影響が大きいでしょう 3 。この作品は、病身を押して死を覚悟で秀頼を守護する老将・清正と、豊臣家を滅ぼそうと画策する老獪な天下人・家康が、丁々発止のやり取りを繰り広げるという、勧善懲悪の分かりやすい構図で描かれています 2

劇中、清正が家康の謀略を鋭く突き、秀頼を守り抜く姿は観客の喝采を浴び、「清正=忠臣」「家康=奸雄」というイメージを社会に広く浸透させました。私たちが今日、この逸話について抱く「家康と激しく言い争った」という印象は、史実そのものというよりは、こうした優れた創作物によって形成された文化的記憶であると言えます。

5-3. なぜこの物語は愛されたのか

では、なぜこの逸話は、史実を超えてこれほどまでに人々の心を捉え、愛され続けてきたのでしょうか。その根底には、滅びゆく主家や弱者に対し、私心を捨てて最後まで義を尽くすという、日本人が古来より好んできた「判官贔屓」の精神があります。圧倒的な権力者である家康に対し、一歩も引かずに主君を守ろうとする清正の姿は、まさにその理想を体現するものでした。

人々は、史実の複雑な政治的駆け引きの奥にある「清正の忠義」という本質を鋭く見抜き、その忠義が言葉として悪にぶつけられる姿を「見たかった」のです。創作物は、その大衆の願望に応える形で、史実の「行動による対話」を、「言葉による激論」という、より感情に訴えかけるドラマへと「翻訳」しました。

史実の加藤清正が取った行動は、脚色された物語以上に、その忠義の深さを示すものでした。しかし、その静かなる覚悟が、人々の心に響く熱い物語として昇華された時、彼の名は「忠臣」の代名詞として、歴史に永遠に刻まれることになったのです。史実と物語は、互いに影響を与え合いながら、「二条城の清正」という不朽の伝説を創り上げたと言えるでしょう。

引用文献

  1. 加藤清正の伝説は二次創作!? 猛将のサラリーマン的素顔を3分で解説 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/177433/
  2. 二条城の清正 淀川御座船の場~老将の思いに胸をゆすぶられる https://munakatayoko.hatenablog.com/entry/2023/08/29/145100
  3. 二条城の清正 - ArtWiki https://www.arc.ritsumei.ac.jp/artwiki/index.php/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%B8%85%E6%AD%A3
  4. 【歴史編】ほめるタイミングを逃さなかった武将――加藤清正 - トロフィー生活 http://www.trophy-seikatsu.com/wp/blog/hyousyoukougaku/kato-kiyomasa.html
  5. 加藤清正とは?豊臣秀吉の甥にして猛将、そして名君の生涯と実像に迫る! - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/person/katokiyomasa/
  6. 徳川家康が豊臣秀頼と会った「二条城会見」の全貌!190㎝のガタイ ... https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/104008/
  7. 徳川家康と二条城/【中編】大坂の陣への導火線「二条城の会見」 - Kyoto Love. Kyoto 伝えたい京都 https://kyotolove.kyoto/I0000568/
  8. 第14話 二条城会見 - 豊臣秀頼と七人の武将ー大坂城をめぐる戦いー ... https://kakuyomu.jp/works/1177354054884619343/episodes/1177354054885330789
  9. 二条城会見|徳川家康ー将軍家蔵書からみるその生涯ー - 国立公文書館 https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/ieyasu/contents5_02/
  10. 慶長 16 年の徳川家康上洛における船橋架設に関する文書 - 岐阜県 https://www.pref.gifu.lg.jp/uploaded/attachment/386014.pdf
  11. 加藤清正【第二章】シリーズ熊本偉人伝Vol.4 https://kumamoto.tabimook.com/greate/detail/4
  12. No.143 「大局がみえなかった加藤忠広」 - 熊本県観光サイト https://kumamoto.guide/look/terakoya/143.html
  13. 加藤清正、家康に誉められて慎重に行動する。(「どうする家康」206) https://wheatbaku.exblog.jp/33186730/
  14. 「どうする家康」二条城の会見、鐘銘事件、残念な秀忠を深掘り!第45回「二人のプリンス」振り返り https://mag.japaaan.com/archives/212198
  15. 二条城~世界遺産 - 京都はんなり旅 - Seesaa http://hannari-tabi.seesaa.net/article/355913388.html
  16. 加藤清正-歴史上の実力者/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/44329/
  17. 加藤清正 - BS-TBS THEナンバー2 ~歴史を動かした影の主役たち~ https://bs.tbs.co.jp/no2/43.html
  18. 加藤清正~信義の猛将が残した逸話の数々 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4038
  19. 二条城会見 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%9F%8E%E4%BC%9A%E8%A6%8B
  20. 加藤清正、二条城会見で豊臣秀頼を必死に護る(「どうする家康」192) https://wheatbaku.exblog.jp/33161728/
  21. 加藤清正は人生最後に何を思ったか 熊本城と「せいしょこさん」 - おとなの週末 https://otonano-shumatsu.com/articles/384122/3
  22. 加藤清正の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/38334/
  23. - 国宗(国不明)(二条城の会見の時の加藤清正の懐剣 ... - 明倫産業 https://www.nipponto.co.jp/swords10/TT329357.htm
  24. 加藤清正の短刀発見 と 利休切腹 - 武士道美術館 https://bushidoart.jp/ohta/2012/04/12/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%B8%85%E6%AD%A3%E3%81%AE%E7%9F%AD%E5%88%80%E7%99%BA%E8%A6%8B%E3%81%8B/
  25. 加藤清正 愛知の武将/ホームメイト https://www.touken-collection-nagoya.jp/historian-aichi/aichi-kato/
  26. 加藤清正を狙ったら、逆に助命、説教、スカウトまで⁈国右衛門が家臣になるまでのちょっとイイ話 https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/173039/
  27. 二条城の毒饅頭~平岩重吉の豊臣秀頼毒殺未遂の噂~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/jinbutu/hiraiwa-dokumanjyu.html
  28. 加藤清正 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%B8%85%E6%AD%A3
  29. 八陣守護城 - ArtWiki https://www.arc.ritsumei.ac.jp/artwiki/index.php/%E5%85%AB%E9%99%A3%E5%AE%88%E8%AD%B7%E5%9F%8E