加藤清正
~飢えても落ちぬと誇り耐える~
加藤清正は蔚山城での飢餓体験から「飢えても落ちぬ」熊本城を築城。建材や植物で食料を確保し、西南戦争で不落性を証明。西郷隆盛も「清正公に負けた」と評した。
不落の思想:加藤清正「飢えても落ちぬ」一城の誇り、その原点と証明
序章:誇りの源泉
加藤清正が築いた熊本城。その完成後、彼は「この城、飢えても落ちぬ」と誇ったと伝えられる。この言葉は、一見すると築城者の単なる自負や、自らの傑作に対する誇張に聞こえるかもしれない。しかし、その一言の背後には、清正の魂に深く刻み込まれた壮絶な原体験が存在する。これは誇りであると同時に、地獄の淵から生還した者が立てた誓いであり、リアリズムに裏打ちされた冷徹な哲学の表明であった。
本報告書は、この「飢えても落ちぬ」という逸話に焦点を絞り、その言葉が生まれた原点、その思想が具現化された熊本城の構造、そして二百七十年という時を超えてその正しさが証明された歴史的瞬間までを時系列で徹底的に解明する。逸話の核心をなす「飢え」というキーワードを軸に、一人の武将の個人的なトラウマが、いかにして不朽の城郭思想へと昇華されていったのかを明らかにする。
第一章:地獄の原体験 ― 蔚山城、飢餓の十四日間
清正の築城思想を根底から形成し、「飢えても落ちぬ」という言葉の原点となったのは、朝鮮出兵(慶長の役)における蔚山城での凄惨な籠城戦であった。この戦いで彼が体験した極限の飢餓と渇きこそが、後の熊本城築城における執念の源流となる。
背景:慶長の役と蔚山倭城
慶長二年(1597年)、豊臣秀吉による二度目の朝鮮出兵が開始されると、清正は朝鮮半島南東部に橋頭堡となる城、すなわち倭城の築城を命じられた 1 。蔚山に築かれ始めたその城は、まだ防御施設が完全には整っていない、まさに未完成の状態であった。その最悪のタイミングで、明・朝鮮連合軍の大軍が急襲し、蔚山城は準備不足のまま絶望的な籠城戦の舞台となった 2 。
【時間軸:慶長二年(1597年)12月22日~】籠城戦の展開
戦いは清正軍にとってあまりに過酷な状況下で始まった。
- 開戦と包囲: 敵の兵力は約五万、対する清正軍は数千。城の外郭である惣構は瞬く間に突破され、清正らは準備も不十分なまま主要部での籠城を余儀なくされた 2 。敵の兵力は味方の数十倍に達し、城は完全に包囲された 5 。
- 飢餓と渇き: 未完成の城には、長期籠城を想定した兵糧や水の備蓄がほとんど存在しなかった 4 。食料はたちまち底をつき、兵士たちは飢えを凌ぐため、まず軍馬を殺してその肉を食べ始めた 5 。しかし、それもすぐに尽きる。
- 極限状況の描写: 飢餓は深刻さを増し、城内は地獄の様相を呈した。兵士たちは紙を噛み、壁土を煮て食し、雨水に浸した衣類の汁をすするに至った 5 。夜陰に紛れて城外へ忍び出ては、敵兵の死体から焼き米を奪い取って飢えを凌ぐ者まで現れたという 5 。水も同様に不足し、掘られた井戸すらない状況で、兵士たちは天から降る雨水だけを頼りに渇きに耐えた 4 。
- 清正自身の状態: 剛毅で知られる清正自身も、この飢餓によって痩せ衰え、その眼は落ち窪んだ。しかし、その眼光だけは異様なまでに鋭く輝き、極限状況下でも決して統率を失うことはなかったと伝えられている 7 。
- 終結: 地獄のような約二週間の籠城の末、毛利吉成らの援軍が到着。内外から敵軍を挟撃し、清正らは九死に一生を得た 2 。
この蔚山での体験は、清正に観念論ではない、肉体的な苦痛を伴う教訓を刻み込んだ。それは、城の物理的な防御力がいかに優れていようとも、中に籠る人間が飢えと渇きで倒れてしまっては全く意味がないという、戦いの根源的な真理であった 1 。この個人的なトラウマは、単なる戦術レベルの反省に留まらなかった。「城とは、そこに籠る人間の生命を最後の最後まで保障する装置でなければならない」という、一種の思想、あるいは哲学へと昇華されたのである。「飢えても落ちぬ」という言葉は、物理的な不落性だけでなく、籠城者の生命維持システムとしての完全性を目指すという、清正の強い決意表明に他ならなかった。
第二章:不落の城への誓い ― 熊本城に込められた執念
蔚山での地獄の教訓を胸に、関ヶ原の戦いを経て肥後五十四万石の大名となった清正は、その築城哲学のすべてを熊本城に注ぎ込んだ。慶長六年(1601年)から始まったこの大事業は、単なる軍事施設の建設ではなく、一個の巨大な生命維持装置を創り上げる試みであった。
築城の理念:「後の世のため」
清正は築城に際し、常に「後の世のため」と口にしていたという 8 。その言葉通り、熊本城の築城は、坪井川の流れを大きく変えるなどの大規模な治水事業や都市計画と一体で進められた 9 。これは、城と城下町が非常時においても一体のシステムとして機能することを目指した、長期的かつ包括的な視点に基づいていた。
生命線の確保:「百二十の井戸」という執念
蔚山での渇きの苦しみは、清正に水の確保を最優先課題とさせた 3 。熊本城内には120もの井戸が掘られたと伝えられている 12 。この数字には誇張が含まれる可能性もあるが、現存する井戸の多さや 14 、茶臼山の地下水脈を巧みに利用した設計から 13 、水の確保に対する彼の異常なまでの執念が窺える。さらに、各曲輪に最低一つは井戸を配置することで、籠城中にどの区画が分断されても水に窮しないよう、リスクを分散させる思想が徹底されていた 16 。
「食べられる城」の構築:伝説と実用性の融合
清正の籠城思想を最も象徴するのが、「食べられる城」という異名である。
- 畳と壁の備え: 城内の建物の畳床(畳の芯材)には、通常の藁ではなく、干した里芋の茎である「芋茎(ずいき)」が編み込まれたとされている 17 。また、土壁には非常食となる干瓢(かんぴょう)が塗り込まれていたという伝説も広く知られている 19 。これらは乾燥させれば長期保存が可能であり、最後の食料となるはずであった。
- 城内の植生計画: 熊本城は別名「銀杏城」とも呼ばれ、城内には多くの銀杏が植えられた 21 。これは籠城時の食料(ぎんなん)確保が目的とされたが 4 、天守前の大銀杏は実のならない雄木であるという事実もある 22 。このことから、銀杏を植えた目的は食料確保のみならず、燃えにくく火災を防ぐため、あるいは堅い木材を城の補修材として利用するためといった、複合的な理由があったと考えられる 24 。さらに、城内には梅(梅干し用)、榎や椋(薪や武具の材料)なども計画的に植えられ、城全体が一個の資源庫として設計されていた 19 。
これらの「食べられる」工夫については、後世に清正の名将ぶりを強調するための創作とする見方もある 4 。しかし、仮にこれらが創作であったとしても、その伝説が広く信じられていたこと自体に重要な意味がある。籠城する兵士たちにとって、「いざとなれば畳や壁も食える」という認識は、絶望的な状況下での強力な精神的支柱、すなわち心理的な安全保障として機能したであろう。さらに、この伝説は加藤清正という武将の人物像を「兵士の命を何よりも大切にする、先見の明に満ちた名君」として後世に伝えるための、強力な文化装置となった。伝説の史実性以上に、その文化的・心理的機能こそが本質的な価値を持つと言える。
政治的意図:豊臣家への忠誠
熊本城の徹底した籠城対策には、清正の政治的な意図も込められていた。本丸御殿の最も格式高い部屋は「昭君之間(しょうくんのま)」と呼ばれるが、これは豊臣秀頼を「将軍(しょうぐん)」として迎え入れるための「将軍之間」の隠語であったとされる 21 。万一の際に秀頼を徳川の追手から守るため、熊本城を最後の砦とする覚悟が込められており、そのための抜け道なども用意されていたという 27 。この城の究極の籠城対策は、清正の豊臣家への揺るぎない忠義の証でもあったのだ。
清正の思想は、蔚山での失敗を徹底的に分析し、それを未来の危機管理へと昇華させたものであった。以下の表は、その思想の変遷と実践、そして後の証明を端的に示している。
|
比較項目 |
蔚山城の戦い(1597年) |
西南戦争・熊本城籠城(1877年) |
|
籠城期間 |
約14日間 |
52日間 |
|
水の確保 |
極めて困難(雨水に頼る) |
豊富(城内120の井戸により確保) |
|
食料の備蓄 |
ほぼ無し(未完成の城) |
大半焼失(天守炎上)するも、潜在的備蓄あり |
|
城の状態 |
未完成・急造 |
完成された堅城 |
|
結果 |
援軍により辛うじて脱出 |
籠城に成功し、敵軍を退ける |
|
教訓・証明 |
籠城対策の極端な重要性を痛感 |
清正の籠城思想の正しさを歴史的に証明 |
第三章:二百七十年の時を超えた証明 ― 西南戦争、清正公との戦い
加藤清正の死から約二百七十年の時を経た明治十年(1877年)、彼の思想が単なる伝説ではなく、実戦で通用する真理であったことが劇的な形で証明される。西南戦争における熊本城攻防戦は、「飢えても落ちぬ」という言葉が現実のものとなった歴史的瞬間であった。
歴史の舞台:明治十年、熊本鎮台
西郷隆盛を盟主とする薩摩軍が挙兵し、九州の拠点である熊本鎮台(熊本城)へと進軍した 29 。近代的な兵器で武装した薩摩軍に対し、谷干城司令長官が率いる政府軍(鎮台兵)約3,500人は、熊本城に籠城してこれを迎え撃つことを決意した 30 。
【時間軸:明治十年(1877年)2月19日~】籠城戦の展開
- 開戦直後の絶望: 2月19日、薩摩軍の総攻撃を目前にして、城内で原因不明の火災が発生。折からの強風に煽られ、炎は瞬く間に天守閣を飲み込んだ 32 。そこには籠城1ヶ月分に相当する兵糧や薪炭の大半が備蓄されており、弾薬を除いてそのほとんどが灰燼に帰すという、籠城軍にとって致命的な事態となった 33 。
- 清正の遺産の覚醒: 兵糧の大部分を失い、籠城はもはや不可能かと思われた。しかし、この絶望的な状況下でこそ、清正が遺した城の真価が発揮される。通常、兵糧庫の喪失は籠城戦の敗北を意味する。だが、熊本城は落ちなかった。この逆説こそが、清正の設計思想の真髄を証明している。彼の思想は、天守という「一点」に備蓄を集中させる脆弱なものではなく、城全体に分散配置された多層的なシステムで籠城を支える設計だったのだ。
- 生命線となった井戸: 炎を免れた宇土櫓などを拠点に籠城を続ける兵士たちにとって、城内に無数に掘られていた井戸が文字通りの生命線となった 11 。52日間の籠城中、水に困ることは一度もなかった 13 。
- 難攻不落の物理防御: 薩摩軍は近代的な大砲で猛攻を加えたが、「武者返し」と呼ばれる清正自慢の石垣はびくともせず、兵士の侵入を一切許さなかった 21 。
- 52日間の抵抗と伝説の完成: 鎮台兵は、清正が設計した堅牢な城郭と豊富な水を頼りに、食料不足に苦しみながらも52日間を耐え抜いた 35 。やがて政府の援軍が到着し、薩摩軍は熊本城の攻略を断念して撤退。清正の城は、主要な兵糧庫を失うという最悪の事態にもかかわらず、その不落性を証明したのである 36 。この事実は、熊本城の強さが単一の要素(備蓄量)に依存しない、真の強靭性(レジリエンス)を持つことの、この上ない証明となった。
西郷隆盛の言葉:「清正公に負けた」
撤退を余儀なくされた西郷隆盛は、こう嘆息したと伝えられている。「我、官軍に負けしにあらず。清正公に負けしなり」 29 。
この言葉は、熊本城の圧倒的な堅牢さが、当時の政府軍の戦力以上に、築城者である加藤清正の思想と執念の賜物であったことを、敵将自らが認めたものに他ならない。西郷は、二百七十年の時を超え、城に宿る清正の魂そのものと戦っていたのである。
結論:哲学としての一城
加藤清正の「飢えても落ちぬ」という言葉は、単なる築城者の自慢ではなかった。それは、蔚山城で体験した地獄の飢餓という原体験を、「後の世のため」という未来への責任感へと昇華させた、一つの哲学の表明であった。
その哲学は、熊本城という物理的な形となって結実した。無数の井戸による水の確保、畳や壁にまで及ぶとされる食料の備蓄、そしていかなる攻撃にも耐えうる堅牢な石垣。それらはすべて、城に籠る人間の生命を最後の最後まで守り抜くという、強い意志の現れであった。
そして、その思想の正しさは、二百七十年の時を超えた西南戦争において、劇的な形で証明された。主要な兵糧庫を失うという最悪の状況下でさえ落城しなかった事実は、熊本城が単一の機能に依存しない、強靭なシステムとして設計されていたことを示している。敵将・西郷隆盛の「清正公に負けた」という言葉は、その思想が時代を超えて通用する普遍的な力を持っていたことへの、最大の賛辞と言えるだろう。
加藤清正が熊本城に込めた思想は、危機管理や組織論における「レジリエンス(強靭性)」の重要性を示す、歴史的な実例である。それは、自らの壮絶な体験を未来への教訓として遺した、一人の武将の深い洞察と民への愛情に根差した、哲学としての一城の物語なのである。
引用文献
- 加藤清正(かとう きよまさ) 拙者の履歴書 Vol.87~城と戦に命を懸けし生涯 - note https://note.com/digitaljokers/n/n66192349dfc0
- 蔚山城 [1/3] 加藤清正の壮絶な籠城戦で有名な戦線東端の拠点。 https://akiou.wordpress.com/2018/01/25/wajo_ulsan/
- 築城名人の哲学① 熊本城を造った加藤清正の「体験」と「経験」|Biz Clip(ビズクリップ) https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-089.html
- 超入門!お城セミナー 第107回【鑑賞】熊本城にはたくさん食べものが隠れているって本当? https://shirobito.jp/article/1280
- 二 慶長の役 - データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/64/view/8032
- 【朝鮮出兵】蔚山城の戦い 地獄の籠城戦!加藤清正の苦闘。【慶長の役】 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=g2UDB3btLg8
- 清正の生涯、朝鮮出兵、蔚山の大ピンチ - 身は明星に似て http://myoujyou.image.coocan.jp/kiyomasa4M.html
- No.119 「 セイショコ(清正公)さんの魅力 」 - 熊本県観光サイト https://kumamoto.guide/look/terakoya/119.html
- 熊本城は令和時代でも落とせない!? 城の専門家が語る加藤清正の選地の妙 | 宙畑 https://sorabatake.jp/22304/
- No.020 「 熊本城はなぜ落ちなかったか 」 https://kumamoto.guide/look/terakoya/020.html
- 熊本城 - JAPAN WEB MAGAZINE https://japan-web-magazine.com/japanese/japan-kumamoto-kumamoto-castle1-japanese.html
- No.018 「 肥後と加藤清正 」 - 熊本県観光サイト https://kumamoto.guide/look/terakoya/018.html
- 近代戦を耐え抜いた「熊本城」の本当の底力とは? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/19159
- 第 4 章 保存管理 - 熊本市 https://www.city.kumamoto.jp/kiji00319443/5_19443_143534_up_1UBYGJO2.pdf
- 熊本城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%9C%AC%E5%9F%8E
- 熊本城の防衛術 https://www.city.kumamoto.jp/kiji00361089/3_61089_423510_up_scz6s8hv.pdf
- お腹が空くのは絶対イヤ!熊本城を”食べられるお城”に設計した城主・加藤清正 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/175897
- 食べられる畳を作った人物発見!! - あわら市 四代続く玉木畳店 [お客様の声]と[国産の品揃え] http://tamakitatami.com/category01/category18.html
- 驚愕!大名が建てた「食べられる城」とは? 植物を戦いに利用した武士の知恵 https://toyokeizai.net/articles/-/63918?display=b
- 食べられる城「熊本城」 | 久留米店 - 学生服リユースショップさくらや https://www.seifuku-sakuraya.com/blog/kurume/entry-31495.html
- 加藤清正は人生最後に何を思ったか 熊本城と「せいしょこさん」 - おとなの週末 https://otonano-shumatsu.com/articles/384122/3
- 銀杏の木 | 熊本城のガイド - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/17/memo/383.html
- 惟新伝心〜大銀杏は何故、雄なのか〜 | 熊本城おもてなし武将隊武録ー雲外蒼天ー https://ameblo.jp/kumamoto-bushoutai/entry-12917319907.html
- 熊本城の秘密 - OnTrip JAL https://ontrip.jal.co.jp/kyushu/17315217
- 長い籠城からいよいよ・・・熊本城空中回廊「特別見学通路」が6月1日(月)よりオープン! https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000011.000047922.html
- 【ツイステ考察】籠城向けの立地をNRCと野ばら城から考える - note https://note.com/yosugara_07/n/nbcaed6867920
- 【日本史】熊本城・本丸御殿「昭君之間」に秘められた加藤清正の思いを考察 白駒妃登美(しらこまひとみ) - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=zRSXya4yTi8
- 熊本城の七不思議 https://kumamoto-city-museum.jp/download_file/view/710/866
- 【熊本城の「いま」】名物ガイドとめぐる 最新の熊本城2時間コース ~前編~ https://shirobito.jp/article/319
- 西南戦争はなぜ起こった!?西郷隆盛ゆかりの地を巡る歴史旅 - HISTRIP(ヒストリップ) https://www.histrip.jp/20181029-kagosima-1/?ugx=RAYhhPGFi6f8fJgI.joz1d952
- No.009 「 西南戦争と田原坂 」 - 熊本県観光連盟 https://kumamoto.guide/look/terakoya/009.html
- 西南戦争(セイナンセンソウ)とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E8%A5%BF%E5%8D%97%E6%88%A6%E4%BA%89
- 西南戦争 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%8D%97%E6%88%A6%E4%BA%89
- 「西郷どん」最期の戦い西南戦争。不落の城、熊本城 - くまもとものがたり http://www.kumamoto-monogatari.com/?p=1162
- 0487 西南戦争の西郷の敗因、堅固すぎた清正の名城「熊本城」(熊本県)|弥栄(いやさか) - note https://note.com/powerspot_168/n/n21281464e8c1
- おいどんは清正公に負けた…西郷どんも実感した「熊本城」最強の理由とは | サライ.jp https://serai.jp/hobby/173025