最終更新日 2025-10-17

北条氏政
 ~汁の味を幾度も改め家臣困らす~

北条氏政は汁の味を幾度も改め家臣を困らせた逸話で知られる。これは彼の決断力の欠如を象徴し、北条家滅亡の遠因とされたが、史実ではない伝説。

北条氏政「汁かけ飯」の逸話 ― 史実と物語の多角的分析

序章:決断なき将の食膳 ― 逸話への誘い

戦国時代の終焉を彩る悲劇の将、北条氏政。関東に一大勢力を築いた後北条氏の四代目当主である彼を語る上で、ほとんど不可分とされる逸話が存在する。それが「汁かけ飯」の物語である。その内容は広く知られている。ある日の食事の席で、氏政が飯に汁をかけたところ、量が足りずにもう一度汁をかけ足した。その様子を見ていた父であり、当代随一の名将と謳われた氏康は深く嘆息し、「日々の食事における汁の量さえ一度で見通せぬ者に、家臣の心や国の行く末が推し量れるものか。北条家もわしの代で終わりか」と、一族の未来を憂いたというものである 1

この逸話は、単なる食卓での一コマに留まらない。それは氏政の人物像を決定づける象徴的なエピソードとして、後世に語り継がれてきた。彼の「決断力の欠如」や「見通しの甘さ」を端的に示し、結果として豊臣秀吉による小田原征伐を招き、名門・北条氏を滅亡に至らしめた「愚将」という評価を補強する、最も有名な根拠となっている 5 。通説において、この一杯の汁は、氏政の将器の欠如と北条家滅亡の運命を予兆する、不吉な象徴として解釈されてきたのである。

しかし、このあまりにも有名な逸話は、果たして歴史的事実なのであろうか。本報告書は、この素朴な問いを起点とする。そして、通説として受容されている物語の裏側に隠された、多層的な文脈を徹底的に解き明かすことを目的とする。逸話の源流となった文献を特定し、その性格を分析することから始め、当時の食文化や武家社会の作法といった歴史的背景を深く掘り下げていく。さらに、酷似した物語が他の武将にも存在するという事実を比較検討し、この逸話が特定の史実ではなく、ある種の「物語の型」である可能性を探る。最終的には、この物語がなぜ北条氏政の逸話として定着し、彼の評価を鋳造するに至ったのか、その歴史的力学にまで考察の範囲を広げる。本報告書は、一杯の汁をめぐる物語の解体と再構築を通じて、一つの歴史的逸話がどのように生まれ、一人の武将のイメージを形成し、そして歴史認識そのものに影響を与えてきたのか、その深淵に迫る試みである。

第一章:ある日の食事風景 ― 逸話の時系列的再現

この逸話が持つ物語性を深く理解するため、まずはその情景を時系列に沿って再現する。これは史実の確定を意図するものではなく、あくまで逸話の初出とされる江戸時代の『武者物語』や、その他の文献に見られる記述を基に 7 、後世に「語られた物語」を最も詳細な形で再構成する試みである。

静寂の食膳

舞台は、北条氏の本拠地、小田原城の一室。その日の食膳には、「相模の獅子」と畏怖される三代当主・北条氏康と、その後継者である若き氏政が、家中の重臣たちと共に向かい合っていた。部屋には食器が立てる微かな音だけが響き、武家の食事らしい厳粛な空気が支配していた 9 。父・氏康の存在は、その場にいる者すべてに緊張感を与えていた。

無意識の所作

やがて、氏政は自身の飯椀に汁を注ぐ。しかし、彼が思ったよりも汁の量は少なく、乾いた飯はすぐに汁を吸い込んでしまった。飯全体に行き渡らせるには、明らかに汁が足りない。彼は特に深く考えることもなく、ごく自然な所作として、もう一度汁椀を手に取り、残りの汁を飯の上へと注ぎ足した。それは、彼にとっては何気ない、日常的な行為に過ぎなかった。

父の嘆息

しかし、その一連の動きを、父・氏康の鋭い眼光が見逃すことはなかった。突如、氏康は深いため息をつき、手にしていた箸を膳の上に置いた。そして、絞り出すような、しかしその場の誰もが聞き取れる声で呟いたのである。「北条も、わしの代で終わりとなるだろう」と 9

凍りつく空気

父の予期せぬ言葉に、氏政は顔を上げた。その場の空気は一瞬にして凍りついた。同席していた家老衆も驚き、互いに顔を見合わせ、言葉を失った 8 。たった今しがたの、息子の些細な食事の所作が、なぜ一族の存亡に関わるほどの嘆きに繋がるのか。誰一人として、その真意を測りかねていた。

叱責の真意

重苦しい静寂を破ったのは、氏康自身であった。彼は静かに、しかし厳格な口調で語り始めた。「今、氏政の飯の食い方を見ていたが、一つの飯に二回も汁をかけて食べた。人は身分の高低に関わらず、毎日食事をとる。日々繰り返す行いであるから、これが上達しないわけはない。それにもかかわらず、一杯の飯に適した汁の量さえ一度で計ることができず、二度もかけるとは、まことに不器用なことだ」 8

将器への問い

氏康の言葉は、単なる作法への注意に留まらなかった。彼の叱責は、後継者の将器そのものへと向けられていた。「たかが飯のことと思うな。毎日向き合う飯の塩梅さえ見通せぬ者に、千変万化する人の心の内を探り、この広大な領国を推し量ることなど、未来永劫できはしまい」。その言葉は、息子の能力に対する論理的な失望であると同時に、北条家の未来そのものへの深い絶望と憂慮を物語っていた 3 。この食卓での一幕は、氏康の目には、単なる食事の失敗ではなく、来るべき時代の荒波を乗り越えるべき将の器量に、致命的な欠陥を見た瞬間として映ったのである。

この鮮烈な「物語」こそが、以降の章で我々が分析し、解体していく対象となる。

第二章:逸話の源流を求めて ― 江戸時代の『武者物語』

北条氏政の人物像に決定的な影響を与えたこの「汁かけ飯」の逸話は、いつ、どこで生まれたのか。その源流を遡ると、一つの書物に辿り着く。

初出文献の特定

この逸話が初めて文字として記録されたのは、戦国時代から約70年の時を経た江戸時代初期、明暦2年(1656年)に出版された『武者物語』という書物である 7 。この事実は極めて重要である。なぜなら、この逸話が氏政や氏康と同時代の人物によって記録された一次史料ではなく、彼らの死後、遠い後世になってから編纂されたものであることを示しているからだ。この時間的隔たりは、物語が史実の忠実な記録ではなく、後世の創作や脚色である可能性を強く示唆する。

『武者物語』の性格分析

編者・松田秀任によってまとめられた『武者物語』は、その性質を理解することが不可欠である。本書は、厳密な歴史を考証し記録した「実録」や、合戦の経過を詳述する「軍記物」とは一線を画す。「武辺咄集(ぶへんばなししゅう)」と分類されるものであり、これは武家の教訓、興味深い話、感動的な逸話などを集めた一種の説話集である 7 。このジャンルの書物では、歴史的な正確性よりも、物語としての面白さや、読者に伝えるべき教訓性が優先される傾向が強い。

実際に『武者物語』に収録されている他の逸話を見てみると、その性格はより明確になる。例えば、太田道灌が実際にはしていない上洛の際に歌を詠んだという話や、実在が疑われている森蘭丸にまつわる話など、現代の歴史研究では史実とは見なされていない物語が複数含まれている 7 。これらの事実から、『武者物語』に収録されているというだけでは、その逸話の史実性を担保するものにはならず、むしろ物語として消費されることを前提とした読み物であったと考えるべきである。

逸話の「発生時期」が持つ歴史的意味

この逸話が江戸時代初期という「泰平の世」に成立したという事実は、単なる年代情報以上の深い意味合いを持つ。1656年という時代は、徳川幕府による統治体制が盤石となり、社会が戦乱の記憶から離れ、安定を取り戻した時期にあたる。そのような時代において、人々は過ぎ去った戦国の動乱を一つの「歴史物語」として振り返り、消費するようになる。

特に、関東に巨大な勢力を誇った名門・北条氏の劇的な滅亡は、人々にとって大きな関心の的であった。「なぜあの強大な北条氏は滅んだのか」という問いに対して、人々は複雑な政治・軍事的情勢の分析よりも、よりシンプルで分かりやすい因果関係を求めた。ここに、「汁かけ飯」の逸話が持つ機能が浮かび上がる。この物語は、北条氏滅亡という壮大な歴史的事件の原因を、当主・氏政の「汁の量も計れない」という個人的な資質の欠如に帰着させる。これにより、歴史の複雑な綾を捨象し、一個人のキャラクターの問題として理解することを可能にするのである。したがって、この逸話は史実の記録というよりも、江戸時代の人々が戦国時代という過去を理解し、解釈するための効果的な「歴史物語の装置」として創作、あるいは編纂された可能性が極めて高いと言えるだろう。

第三章:「二度掛け」の真意 ― 戦国時代の食文化と武家作法

氏康の嘆きは、本当に息子の「見通しの甘さ」だけに向けられたものだったのだろうか。逸話の核心を理解するためには、当時の食文化と武家社会特有の価値観に光を当てる必要がある。

「汁かけ飯」の再評価

現代の感覚では、「汁かけ飯(ねこまんま)」は行儀の悪い食事法と見なされることが多い。しかし、戦国時代においては、その評価は全く異なっていた。飯に汁をかける食事法は、平安時代の『枕草子』にも「湯漬け」として登場するなど、古くからの由緒を持つ 10 。特に武士たちの間では、手早く簡便に食事を済ませることができ、腹持ちも良いという点で、極めて合理的かつ実用的な食事法として広く受け入れられていた 10

炊飯技術が未熟で、保温器具もない当時、時間が経った飯は冷えて固くなるのが常であった。そこに温かい汁をかければ、飯は温かく柔らかくなり、格段に食べやすくなる。さらに、急な出陣や戦闘の合間など、時間的制約が厳しい状況下で、短時間に必要な栄養を補給できる「ファーストフード」として、その価値は計り知れないものであった 11 。大名クラスの武将でさえ、日常的に汁かけ飯を食べていたとされ 12 、氏政が汁をかけた行為そのものが、父の嘆きを誘発したとは考えにくい。問題の本質は、別のところにあった。

問題の核心:「二度掛け」という禁忌

逸話の核心は、「汁をかけたこと」ではなく、「二度かけたこと」にある。武家の食事作法を記した文献を繙くと、この行為が持つ特殊な意味合いが浮かび上がってくる。儀礼的な食事の場において、飯に汁をかける際の作法として、「必ず、一度にかける」ことが定められており、「二度、三度に渡ってかけまわすのは、不吉とされて」いたのである 13

この作法は、単なる見栄えや効率の問題を超えている。「不吉」という言葉が示すように、この行為は縁起を重んじる武家社会において、一種の「禁忌(タブー)」に触れる行為であった可能性が高い。一度で済ませるべきことを二度繰り返すという行為が、戦や物事の段取りにおいて「手際が悪い」「二度手間になる」といった否定的な連想を呼び起こし、それが凶事の予兆と結びつけられたのかもしれない。

氏康の嘆きの深層心理 ― 「不吉な凶兆」

この「二度掛け=不吉」という当時の価値観を考慮に入れると、氏康の嘆きは新たな深みを持つことになる。通説では、氏康の思考は「汁の量も計れない」という観察から、「人の心も、国の行く末も計れないだろう」という比喩的・教訓的な叱責へと展開される 8 。これは論理的な推論に基づく失望の表明である。

しかし、ここに「禁忌」の視点を加えることで、氏康の反応に別の層が見えてくる。戦国の武将たちは、現代人が想像する以上に、縁起や験(げん)、吉凶といった超自然的なものを重んじて生きていた。一族の存亡が常に天秤にかけられている状況下では、些細な事象の中にも神仏の意思や未来の予兆を見出そうとする精神性が育まれる。その氏康にとって、一族の未来を託すべき後継者である氏政が、多くの家臣が見守る前で、無意識のうちに「不吉」とされる行いをした。この出来事は、単に息子の資質への失望に留まらず、北条家の未来そのものに暗雲が立ち込めていることを示す「凶兆」と映ったのではないだろうか。

この解釈は、逸話を単なる個人の能力を問う教訓話から、戦国武将の精神世界や死生観を垣間見るための窓へと昇華させる。氏康の「北条もわしの代で終わりか」という言葉は、後継者の能力に対する論理的な叱責であると同時に、時代の価値観に深く根差した、一族の長としての根源的で情念的な恐怖と絶望の表明だったのである。

第四章:もう一つの「汁かけ飯」 ― 毛利家の類話との比較

この「汁かけ飯」の逸話が、北条氏政という人物の固有性を強く示すものだと考える前に、我々はもう一つの重要な事実に目を向けなければならない。それは、この物語が北条家だけのものではないという点である。

類話の存在

驚くべきことに、この逸話と構造的に酷似した物語が、他の著名な戦国大名にも存在している。中国地方の覇者であり、戦国屈指の知将として知られる毛利元就が、孫の輝元に対して同様の嘆きを見せたという逸話がそれである 1 。その内容は、輝元が食事の際に飯に汁を二度かけるのを見た祖父・元就が、「これでは中国十二カ国の大守は務まらないだろう。残念だが大将の器ではない」と嘆息した、というものである 8

構造分析のための比較

この二つの逸話が単なる偶然の一致ではないことは、その構成要素を比較することで一目瞭然となる。

項目

北条氏政の逸話

毛利輝元の逸話

主役(祖父/父)

北条氏康(父)

毛利元就(祖父)

後継者(息子/孫)

北条氏政(息子)

毛利輝元(孫)

行為

飯に汁を二度かける

飯に汁を二度かける

主役の反応

「北条家もわしの代で終わりか」と嘆く

「中国十二カ国の大守はつげない」と嘆く

教訓

物事の見通しの甘さ、将器の欠如

物事の見通しの甘さ、将器の欠如

この表が示すように、両者は登場人物の名前が違うだけで、物語の骨格、すなわち「偉大な先代」「頼りない後継者」「汁を二度かけるという象徴的な失敗」「それを見た先代の嘆き」「将器の欠如という教訓」という全ての要素が完全に一致している。

逸話の「物語の型(テンプレート)」化

この構造的同一性は、この逸話が特定の人物に起きた具体的な歴史的エピソードではなく、「偉大な先代と、その期待に応えられない後継者」という普遍的なテーマを描くための、一種の「物語の型(テンプレート)」として存在していたことを強く示唆している。

この「型」が、なぜ北条氏政と毛利輝元という二人の人物に適用されたのか。その理由は、両者の歴史的評価に求めることができる。北条氏康も毛利元就も、一代で勢力を飛躍的に拡大させた「名将」として後世に高く評価されている。その一方で、北条氏政は一族を滅亡に導き、毛利輝元は関ヶ原の戦いにおける優柔不断な対応で毛利家の領地を大幅に削減されるという失策を犯した。両者ともに、「偉大な先代」と比較してその実績が見劣りする後継者という共通点を持つ。

この「偉大な先代 vs 頼りない後継者」という分かりやすい対立構造は、物語として非常に魅力的であり、人々の記憶に残りやすい。「汁かけ飯」という日常的でありながら、前章で見たように象徴的な意味合いも持つ失敗のエピソードは、この構造を具体的に、そして鮮やかに示すための最適な小道具として機能したのである。

これは、毛利元就の「三本の矢」の教えが、元就自身が息子たちに宛てた書状(三子教訓状)の精神性に基づきつつも、矢を折るという具体的なエピソードとしては後世の創作であるのと同様の現象である 15 。歴史上の逸話は、必ずしも史実をそのまま伝えるものではなく、後世の人々が歴史上の人物を理解し、評価するための「物語のレンズ」として機能することがある。「汁かけ飯」の逸話は、その典型的な一例であり、歴史的事実と物語的創作の境界がいかに流動的であるかを示している。

第五章:「愚将」像の鋳造 ― 徳川史観と逸話の役割

毛利家にも同様の逸話が存在するにもかかわらず、なぜこの物語は圧倒的に北条氏政のエピソードとして人々の記憶に刻まれているのだろうか。その背景には、歴史の「結末」と、それを語る側の「視点」が深く関わっている。

なぜ北条氏政か?:滅亡という結末の重要性

最大の要因は、両家のたどった運命の決定的な違いにある。毛利家は、関ヶ原の戦いでの敗北により120万石から37万石へと大幅に減封されたものの、大名家として幕末まで存続した。一方で、北条家は豊臣秀吉との戦いに敗れ、氏政・氏照は切腹、当主の氏直は高野山へ追放され、大名としての家は完全に「滅亡」した。

この「滅亡」という最終結果が、「汁かけ飯」の逸話に、毛利家の類話にはない圧倒的な説得力と物語性を与えた。氏康の「北条もわしの代で終わりか」という嘆きは、現実に起きた滅亡という結末によって、単なる叱責から恐るべき「予言」へと昇華された。歴史の結末が、逸話の信憑性を遡及的に補強し、物語をより劇的なものへと仕立て上げたのである。

歴史叙述の力学:「徳川史観」の影響

この逸話が成立し、広く流布した江戸時代は、徳川家が日本を統治する時代であった。「歴史は勝者によって語られる」という言葉の通り、この時代の歴史叙述は、徳川幕府の治世を正当化する視点、いわゆる「徳川史観」の影響を免れ得なかった 17

この史観において、徳川家康による天下泰平の礎を築いた織田信長や豊臣秀吉の天下統一事業は、歴史の必然として肯定的に評価される。その秀吉に最後まで抵抗し、結果として滅ぼされた北条氏は、「時代の流れが読めない頑迷で愚かな抵抗勢力」として描かれる傾向があった 18

このような歴史的文脈において、「汁かけ飯」の逸話は極めて都合の良い物語であった。それは、北条氏滅亡の原因を、複雑な政治・外交情勢や、秀吉と北条氏の圧倒的な国力差といった客観的な要因ではなく、当主・氏政の「暗愚さ」という個人的な資質に還元する 5 。これにより、秀吉による小田原征伐は、時勢を読めない愚かな大名を討伐する正義の戦いであったと位置づけられ、歴史をシンプルで分かりやすい勧善懲悪の物語として解釈することが可能になったのである。

近年の再評価との乖離

こうした逸話によって形成された「愚将・氏政」というイメージに対し、近年の歴史研究では大きな見直しが進んでいる。検地と所領役帳を基盤とした先進的な領国経営システムを完成させ 18 、上杉、武田、徳川といった強敵との間で巧みな外交手腕を発揮した氏政は、有能な政治家であったことが一次史料の分析から明らかになっている 18

この学術的な再評価と、逸話が作り上げた一般のイメージとの間には、大きな溝が存在する。この乖離は、一度定着した物語がいかに強力に歴史上の人物の実像を覆い隠し、後世の我々の認識を縛ってしまうかという事実を如実に示している。

このプロセスは、歴史的評価と物語が相互に影響を与え合う「共犯関係」とでも言うべき力学によって駆動されている。まず、北条氏滅亡という歴史的「結果」がある。後世の人々はその「原因」を求める。そこに、「汁かけ飯」のような個人の資質を示す分かりやすい「物語」が適用される。その物語によって、氏政は「愚将」というレッテルを貼られ、人物像が固定化される。そして、固定化された「愚将」像は、滅亡という結果を当然の帰結として受け入れさせ、それがさらに逸話の「真実味」を補強する。この循環構造によって、一度形成された歴史的イメージは非常に強固なものとなる。氏政の政治家としての一面が長らく等閑視されてきたのは、この「物語の力」が学術的評価を凌駕していたからに他ならない。

結論:史実と物語の狭間で ― 逸話が我々に語りかけるもの

本報告書は、北条氏政にまつわる「汁かけ飯」の逸話を多角的に分析し、その深層に横たわる歴史的、文化的文脈を明らかにしてきた。ここまでの調査結果を総括し、この逸話が現代の我々に何を語りかけるのかを考察したい。

まず、本報告書で明らかになった点は以下の四点に要約される。第一に、この逸話は氏政と同時代の史料には一切見られず、江戸時代初期に出版された「武辺咄集」である『武者物語』に初出する、史実としての確証に乏しい物語であること。第二に、逸話の核心は単なる不器用さではなく、当時の武家作法において「不吉」とされた「二度掛け」という禁忌の行為にあり、父・氏康の嘆きにはより深刻な意味合いが含まれていた可能性があること。第三に、毛利元就・輝元親子にも酷似した類話が存在することから、この物語は特定の史実というよりも、「偉大な先代と頼りない後継者」というテーマを描く教訓話の「型」であった可能性が高いこと。そして第四に、北条氏の「滅亡」という劇的な結末と結びつき、後世の歴史観の中で氏政の「愚将」像を補強し、定着させる上で極めて効果的な役割を果たしたことである。

これらの分析結果は、この逸話が歴史的事実ではない可能性が高いことを示している。しかし、史実ではないからといって、この物語が無価値であるわけでは決してない。むしろ、この逸話は史実そのもの以上に、我々に多くのことを語りかけてくれる文化遺産であると言える。

この物語は、戦国武士たちが生きた世界の価値観を映し出す鏡である。手早く栄養を摂るという合理性を重んじる食文化と、些細な所作に吉凶を見る儀礼的な禁忌が同居していた精神世界。後継者の何気ない一つの行為に一族の存亡を重ね合わせる、極度の緊張感に満ちた時代の空気。そして、戦乱の時代が過ぎ去った後、人々が過去の出来事をどのように解釈し、そこから教訓を引き出そうとしたかの痕跡。これら全てが、この短い逸話の中に凝縮されている。

最終的に、北条氏政の「汁かけ飯」の逸話は、史実と物語が交錯する一点に存在する、極めて興味深い歴史の産物である。一杯の汁をめぐる些細な食の所作が、一人の武将の評価を決定づけ、一族の滅亡さえも象徴する壮大な物語へと昇華されていった。その歴史的プロセスそのものに、我々は歴史を学ぶことの奥深さと、物語というものが持つ抗いがたい力を見出すことができる。この逸話の徹底的な解剖は、歴史上の人物を単一のイメージで語ることの危うさを教え、我々自身の歴史認識がいかに物語によって形成されているかを自覚させてくれる、貴重な機会を与えてくれるのである。

引用文献

  1. 北条氏政 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B0%8F%E6%94%BF
  2. 北条氏政(3/3)最盛期を築いた4代目 - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/human/237/3/
  3. 関東の一大勢力だった北条氏が一瞬にして滅びた理由 - サライ.jp https://serai.jp/hobby/66980
  4. 北条氏政の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/84238/
  5. 信玄、謙信になれなかった北条氏政の判断ミスとは|Biz Clip(ビズクリップ) https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-014.html
  6. 関東六国を治めた、北条氏政が辿った生涯|秀吉に武田、今川、上杉と渡り合った関東の雄【日本史人物伝】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト - Part 2 https://serai.jp/hobby/1142201/2
  7. 北条氏政の「汁かけ飯」は後世の創作: 風なうらみそ~小田原北条見 ... http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/post-e356.html
  8. 大河ドラマ・真田丸に登場 ご飯に汁を二度かけたのは北条氏政だけではなかった https://yummyyummy.jp/sanadamaru-sirukakemeshi/
  9. 同じ話でも見方を変えて異なる解釈ができると二度おいしい逸話「汁かけ飯」 - note https://note.com/ryobeokada/n/n0336fbe6e458
  10. 汁かけ飯論2 | マッキー牧元公式サイト https://mackeymakimoto.jp/oishii-diary/%E6%B1%81%E3%81%8B%E3%81%91%E9%A3%AF%E8%AB%962/
  11. 地味めし万歳!天下無双の時短ごはん 「味噌まんまのススメ」 | JAPAN MISO PRESS https://miso-press.jp/feature/dish/5792/
  12. 戦国時代の食事事情 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=vk9gsG-dnCQ
  13. 武家の作法、饗応・酒宴 - 戦国徒然(麒麟屋絢丸) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/1177354054890230802/episodes/16817330659118646216
  14. 【クイズ】 「二度汁かけ」のエピソードに登場する親子は誰? - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/quiz/239
  15. 調略の鬼・毛利元就の教えは「兄弟仲良く」?筆まめな父が3人の息子に伝えたかったこと https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/139977/
  16. 中国地方の覇者 毛利元就。あの“三本の矢”の真実とは?! - 山口県魅力発信サイト「ふくの国 山口」 https://happiness-yamaguchi.pref.yamaguchi.lg.jp/kiralink/202108/yamaguchigaku/index.html
  17. 北条氏政|最悪のシナリオ。徳川家康も見捨てた北条家の悲惨な末路 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=n_3W410sv3M
  18. 思い切りの良さがなかった 北条氏政|樋熊克彦 - note https://note.com/higuma_katsuhiko/n/n6fdb931820d2
  19. 北条氏政・氏直と小田原征伐:後北条氏100年の滅亡、その理由と歴史的背景を徹底解説 https://sengokubanashi.net/history/hojoujimasa-2/